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ロッシーニのオペラ映像「バビロニアのチロ」「マオメット2世」「エジプトのモーゼ」「結婚手形」「ギヨーム・テル」「マティルデ・ディ・シャプラン」「ブルスキーノ氏」

今回の年末年始は久しぶりに急ぎの原稿がない。ここ10年くらい、毎年、原稿を抱えていた。1月末までに3冊仕上げなければならない年もあった。それに比べれば、かなり楽。まあ、逆に言えば、あまり本が売れなくなったということではある。私の本が売れなくなっただけならまあいいが(それでも個人的には少々痛手だが!)、社会全体の傾向だとすると、深刻な問題だ。

そんなわけで、ロッシーニのオペラ映像をいくつか見た。今風の言い方をすると、このところロッシーニにはまっている。見れば見るほど、聴けば聴くほど、ロッシーニのオペラが好きになる。そんなこんなで、先日、日本ロッシーニ協会に入会した。最初にロッシーニが大好きになってから53年ほどたっているが、オペラは「セヴィリアの理髪師」だけしか聴いていなかった時期が長いので、ロッシーニ初心者に近い。が、遅ればせながらこれほどのすごい作曲家だと気付いたからには、とことん付き合おうと思った。

そんなわけで最近見たロッシーニの数本の映像について感想を書きつける。

 

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「バビロニアのチロ」 ペーザロ、ロッシーニ・オペラ・フェスティバル
2012

 ロッシーニ20歳のころの作品だという。チロというのはペルシャの王キュロス2世のことで、チロがバビロニアの王ダルダッサーレ(世界史に出てくるベルシャザル)戦いに敗れながら、最後には奪還するまでの物語。それに、妻との愛の物語が重なる。

台本は、わかりやすいとはいえるが、あまりにご都合主義的で、メリハリがない。音楽に関しては、ロッシーニの魅力満載。オペラ・セリアの部類に属すると思うが、音楽的にはロッシーニらしく、生き生きとして楽天的ですでに技巧的。とても楽しい。

 チロを歌うのはコントラルトのエヴァ・ポドレシ。強い声でヒロイックに歌う。技巧も申し分ない。が、映像で見ると、どうしてもかなりお年を召した女性にしか見えないのがつらい。チロの妻、アミーラを歌うのはジェシカ・プラット。ちょっと音程が怪しいところを感じたが、美しい声でしっかりと歌う。バルダッサーレを歌うマイケル・スパイレスは大喝采を受けていたが、映像で見る限りでは少し不安定な気がした。が、すべての歌手たちはまったく文句なし。

 指揮はウィル・クラッチフィールド。もちろんまったく知らない曲なので、指揮の良しあしなどは何も言えないが、生き生きとしていて、私にまったく不満はない。

 演出はダヴィデ・リヴァーモア。おそらく台本通りに上演するとあまりに陳腐になると判断したのだろう。この物語を無声時代の歴史映画のスタイルにして、それを見ている観客を舞台上に上げる形にしている。確かに、この物語は、往年の映画の雰囲気がある。登場人物はみんな往年の映画の登場人物のようなメイクと動き。そして、どのような技術なのかはわからないが、フィルムの傷による線までも再現。こうしてみると、台本の欠陥も目立たず、おもしろく見ることができる。これはこれで、うまい工夫だと思う。

 繰り返すが、ロッシーニは本当におもしろい!!

 

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「マオメット
2世」 フェニーチェ劇場 2005

 ロッシーニが何度も改訂をしたことで知られるオペラ。一般的にはアンナが自害して終わる悲劇ヴァージョンのはずだが、これはハッピーエンド・ヴァージョン。

 一言で言って、私はこの演奏はあまりおもしろいと思わなかった。初めて見るオペラなので、オペラそのもののおもしろさについては何ともいえない。

 歌手に関しては、マオメット2世を歌うロレンツォ・レガッツォはとてもいい。深い声で自在に歌う。ただ、ちょっと歌いっぷりが喜劇的で、悪役のマオメットがお茶目に見えてしまう。カルボを歌うのは、ズボン役のアンア・リタ・ジェンマベッラ。この人も悪くない。強い声で堂々と歌う。だが、それ以外の歌手にはやや歌唱的には弱さを感じた。アンナを歌うカルメン・ジャンナッタージョは、きれいな声なのだが、ときどき音程が怪しくなる。エリッソを歌うのは、マキシム・ミロノフ。かなり売りだしている人らしいが、少なくとも、このオペラに関してはあまりに不安定。声が出ていないし、音程も狂いっぱなし。ほとんど聴くに堪えない。私は何度も耳をふさぎたくなった。

 演出はピエール・ルイージ・ピッツィ。特に大胆な試みがあるわけではないが、色彩的にはとても美しい。話もわかりやすく描いている。指揮はクラウディオ・シモーネ。もちろん悪かろうはずはないのだが、イタリアオペラで歌手が不安定では、どうしようもない。私は音楽に乗れなかった。別のメンバーによるこのオペラの上演を見てみたい。

 

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「エジプトのモーゼ」
2011年 ペーザロ、ロッシーニ・オペラ・フェスティバル

 モーゼの「出エジプト記」を題材にとったオペラ。音楽としてもとてもおもしろい。ロベルト・アバド(いわずと知れたクラウディオの甥)の指揮のせいかもしれないが、実にドラマティック。ロッシーニ作曲なので、もちろんそれほど宗教的ではなく、ドラマとして楽しめる。

 歌手はそろっている。モーゼのリッカルド・ザネッラート、ファラオーネ(要するにエジプトのファラオのことのようだ)のアレックス・エスポージト、エルチアのソニア・ガナッシが素晴らしい。アロンネを歌う中国人テノール、シー・イージェ(石倚)も実に美しい声。オジリデのディミトリー・コルチャックも、まだ少々若さを感じるが、見事な技巧。アマルテアを歌うオリガ・センデルスカヤは歌はあまり印象に残らなかったが、あまりに美しい容姿。ともかく歌手にはまったく不満はない。

 驚くのは、グレアム・ヴィックの演出だ。大変刺激的。エジプトが舞台だということで、登場人物のほとんどがアラブ風の、つまりはイスラム教徒風の格好をしている。そして、ユダヤ・キリスト教の元祖のようなモーゼがビンラディンを彷彿とさせる服装。しかも、エジプトにとらわれたユダヤ人たちは、いわばテロ集団として描かれる。ユダヤ人とエジプトの人々との戦いを現代の文明の衝突と重ね合わせている。最後、イスラエルの国旗を掲げた戦車や軍人たち(要するに、現代のユダヤ人たち)が現れ、逃げ遅れたモーゼ派の少年を助けようと近づくが、少年は自爆テロを行おうとするところで暗転してオペラが終わる。

 

 

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「結婚手形」 ペーザロ、ロッシーニ・オペラ・フェスティバル

 ず抜けた歌手はいないし、音楽的に全員が素晴らしいわけではない。だが、全員が実に良い味を出しており、それぞれに魅力的。みんなが芸達者で、容姿を含めて、まるで登場人物そのもの。等身大の登場人物になり切っている。ロッシーニのブッファはこれでまったく不満なく見ることができる。

 トビア・ミルを歌うパオロ・ボルドーニャ、ファニーのデジレ・ランカトーレ、エドアルト・ミルフォートのサイミール・ピルグが魅力的。

指揮はウンベルト・ベネデッティ・ミケランジェリ。曲をよく知らないので何とも言えないが、実を言うと、それほど好きな演奏ではないが、十分に楽しめるので、これもまったく文句なし。演出はルイージ・スカルツィーナ。今時珍しく、昔風の服装だが、色遣いが洒落ていて、とても楽しめる。

 

 そのほか、クラシカジャパンで放送されたロッシーニのオペラも録画していたものを数本見た。

・「ギヨーム・テル」2013年 ロッシーニフェスティバル

 ずっと日本では「ウィリアム・テル」と呼ばれてきたオペラ。イタリア語版で上演されることが多いが、この映像はオリジナルのフランス語版。ギヨーム・テルのニコラ・アライモやテルの息子役のアマンダ・フォーサイス、妻のヴェロニカ・シメオーニ、悪役のルカ・ティットートもとてもいいが、やはりアルノルドのフアン・ディエゴ・フローレスとマティルデ役のマリーナ・レベカが圧倒的。私はフローレスの音程が不確かだと思うし、その甲高い声も好きではないのだが、これだけ輝かしく歌われると、感服するしかない。グレアム・ヴィックの演出は時代を近代に移してのもので、圧政に対して立ち向かう民衆の姿を描いて、まるで一時期のソ連映画のような雰囲気だが、違和感はない。ミケーレ・マリオッティの指揮は素晴らしい。躍動感がある。

 

・「マティルデ・ドィ・シャプラン」

 マティルデを歌うオルガ・ペレチャツコとコッラディーノを歌うフアン・ディエゴ・フローレスとが圧倒的。そのほか、ズボン役のエドアルドを歌うアンナ・ゴリャチョヴァ、ジナルドのシモン・オルフィラなど適役。「セヴィリアの理髪師」のフィガロと「魔笛」のパパゲーノを合わせたような役であるイジドーロを歌うパオロ・ボルドーニャの歌が不安定なのが残念なだけで、ほかは理想的といっていいだろう。マリオ・マルトーネの演出は、初めてこのオペラを見る人間にもわかりやすく魅力的。指揮はパスクヮーレ・マーリ。初めて聴くのでよくわからないが、躍動感、スケール感、ともに素晴らしいと思う。オペラ自体、とても素晴らしいと思う。あまり有名でないのが不思議だ。

 

・「ブルスキーノ氏」 、2012年ロッシーニ・オペラ・フェスティバル

芸達者な歌手たちによるロッシーニの一幕もの喜劇オペラ。実に楽しく、おもしろい。

ガウデンツィオを歌うカルロ・レポーレとブルスキーノ氏を歌うロベルト・デ・カンディアのふたりのベテランがやはりうまい。ソフィア役のマリア・アレイダの超高音もちょっとびっくり。フロルヴィッレ役のダヴィド・アレグレトもいい。テアトロ・ソッテラーネオという集団による演出も洒落ている。現代のロッシーニランドで観光客を前に歌うという趣向。現代とロッシーニの時代をうまく結びつけている。指揮は若手のダニエーレ・ルスティオーニ。勢いがあって実にいい。

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アメリカ映画ではなく、フランス映画だった!

 前回、このブログで、昭和10年代の英語教科書と昭和35年ころにNHKで放映された劇映画について、ご存じの方はいないか尋ねた。

 早速、複数の知人から有益な情報をいただいた。そして、映画については「正解」にたどり着けたようだ。

 教えてくださったのは大学院時代の恩師のお一人であられるY先生。フランス文学がご専門だが音楽にも造詣が深い。実は私のブログにも何度か登場した方でもある。

 私はてっきりアメリカ映画だとばかり思っていた。が、違っていたようだ。フランス映画「栄光への序曲」が、私が少年時代に見た映画だったようだ。1951年に公開され、当時、天才少年指揮者として知られていたロベルト・ベンツィが自らを演じたとのこと。Movie Walkerに出ている情報は、私がかつて見た映画とぴったりと合致する。どうりで、アメリカ映画を探しても見つからなかったわけだ。

 長年の謎が解けた。Y先生に感謝!

 今、家庭の事情で大分県日田市に来ている。今月二度目。羽田は帰省ラッシュと重なって、大変な賑わいだった。少し疲れた。

 

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昭和10年代の英語教科書、そして1960年代にNHKで放送されたアメリカ映画のこと

 あれこれ調べているのだが、わからずにいることが二つある。

 

・昭和10年代の英語教科書

 母は昭和2年生まれ。現在、87歳。あとひと月もしないうちに東京都に移転する予定だが、現在、大分県日田市に90歳の父とともに暮らしている。

 残念ながら私はその血をまったく引き継がなかったが、母は几帳面で勤勉でポジティブ志向で勉強家。少女期に実の母をなくして苦労の連続の人生だったが、ずっと前向きに生きてきた。女学校時代にはかなり優等生だったようで、英語が特に好きだったという。

 その母がかなり以前から、昔勉強した英語の教科書を見たいと話している。それほど真剣だとは思わずに気にせずにいたが、今回、郷里に戻ったら、またその話をされた。そして、70年近く前に習った英文を暗誦してくれた。以下のような文が、その教科書には含まれていたという。

 I get up at 6 o’clock. I wash my face and hands. I go to my father and mother, and say “ good morning”

(間違いがあるかもしれない)

昭和15年前後に使われていた教科書だと思う。現在、何冊か本を取り寄せて調べているが、なかなかこの教科書についての情報が見当たらない。母はこの教科書をもう一度見ることを熱望している。母の願いをかなえたいと思っている。

もう少し調べてわからなかったら、ネットの質問コーナーなどで尋ねてみようと思っているが、ともあれ、ここに記す。

 

・昭和30年代にNHKで放送されたアメリカの音楽映画

 私が小中学生だった頃、土曜日や日曜日の昼間NHKテレビに「劇映画」という枠があった。不定期だったかもしれないが、古いアメリカ映画を中心に字幕で放映されていた。ダーク・ボガード主演の「二都物語」などはそこで初めて見たのを覚えている。

 その枠で見た映画の題名がわからない。有名な「オーケストラの少女」という映画があるが、そのあとに作られた映画ではないかと思う。貧しい少年が音楽の才能を認められて、最後にはオーケストラの指揮をするというストーリーだった。ホール関係者に「この曲は難しいので無理ではないか」といわれるが、見事に成功する場面はよく覚えている(ただ、その曲が何なのかはまったく記憶にない)。もちろん、これは「グレン・ミラー物語」でも「カーネギー・ホール」でも「アメリカ交響楽」でもない。

私がクラシック音楽を聴くようになったのは、小学校5年生の時、すなわち1961年(昭和36年)。私がこれを見たのは、その少しあとだったと思う。まだ自分に音楽の才能がないと知らなかった私は、それを見て「指揮者になりたい」と強く思ったのを覚えている。

 あれこれ調べるが、この題名も今にいたるまでわからない。NHKにも電話してみたが、わからなかった。少年時代に感動したこの映画をぜひもう一度見てみたい。当時の新聞のテレビ番組欄を探せば見つかるかもしれないが、ちょっと億劫。

もし、この2件についてご存じの方がおられたら、お教えいただけるとありがたい。もう少し調べてわからなかったら、質問サイトなどに投稿してみようかと思っている。

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ベン・ガーノンの指揮にやや失望

 2014年12月21日、サントリーホールで、新日本フィルの第九特別演奏会を聴いた。第九の前にブラームスの「ハイドンの主題による変奏曲」。

 指揮はベン・ガーノン。2011年に大学を卒業したばかりのごく若い指揮者。私はどこかでベン・ガーノンが将来有望な指揮者だと読んで、あわててこのチケットを入手したのだった。大いに期待して出かけたが、実はちょっと期待外れだった。

 もちろん悪い指揮ではないと思う。ブラームスについては、統一感があり、しっかりとメリハリをつけ、スケールの大きな演奏だと思った。その時点では、後半の第九に大いに期待した。

だが、第九は荷が重すぎる。自分なりの解釈を示すに至っていないようだ。切り込んでいくところはあまり感じない。予定調和的で微温的な演奏。特に聞きどころなく、きわめてオーソドックスに当たり前の演奏をしただけで終わってしまった感がある。とりわけ第三楽章は、私には何をしたいのかわからなかった。新日フィルはとてもきれいなのだが、私には少しも迫ってこなかった。

 第四楽章はさすがに盛り上がった。将来有望な指揮者であることは間違いないと思う。歌手は、秦茂子(ソプラノ)、小林真理(アルト)、吉田浩之(テノール)、多田羅迪夫(バリトン)。それぞれの歌手は健闘していると思ったが、四人の歌手たちの声のアンサンブルが不揃いに感じた。席のせいかもしれないが、やはり指揮に責任がありそう。栗山文昭合唱指揮による栗友会合唱団は素晴らしかった。

 この指揮者については、もう少ししてまた聴きたいと思った。

 今週は15日に大分県日田市の高齢の両親のもとを訪れていた。16日に東京に戻ったが、空港で食べたとんこつラーメンが胃に負担になったようで、飛行機に乗っているうちから吐き気と便意に苦しみ始めた。飛行機の揺れも大きいため、ますます気分が悪くなったが、シートベルト着用のサインが出ているので、トイレにも立てずに往生した。17日は大学の仕事を休んだ。19日になってやっと全快した。

60歳を過ぎるととんこつラーメンはきつい。これまでも、何度もとんこつラーメンを食べた後、胃の不具合を起こしているのだが、九州生まれの私にしてみれば、とんこつ以外のラーメンは考えられない。性懲りもなく食べてしまう。今日も、コンサートの前に軽く食事をしようと考えて、とんこつラーメンの店がサントリーホール付近にできているのを見つけて、危うく入りそうになった。が、さすがに胃を壊したばかりだったので、我慢した。

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松尾俊介のディアンスに深く感動

 2014年12月20日、現代ギター社GGサロンコンサート「ディアンス・ナイト」に行った。松尾俊介によるオール・ディアンス・プログラム。ディアンスというのは1955年生まれのギタリストであり作曲家。

 私はバッハからリヒャルト・シュトラウスにいたる「正統派」のドイツ系の音楽ばかりを聴いてきた人間なので、ギター曲をほとんど聴いたことがない。荘村清志さんと村治香織さんの演奏に接して、ギター曲の魅力に目を開かれたことはあるが、それ以上ではない。だから、専門的なことはまったくわからない。が、今回も松尾さんの演奏には圧倒されるばかりだった。

 最初の曲は、「ヴァルス・アン・スカイ」。実は松尾さんの座る椅子がギシギシ音を立てるので気になって仕方がなかった。しかも、ギターのぶつ切れの音に慣れない私はこの時点ではまだ少々違和感を抱いていた。

 2曲目は「三つのサウダージ」。椅子を変えて雑音が出なくなり、私自身もギターの音に慣れて、音楽に没入できるようになった。ギターの曲を聴き慣れない人間なので、どう表現するのかわからないのだが、松尾さんの神経の行きとどいた一つ一つの音の美しさに聴きほれる。「サウダージ第3番」には心をうばれた。技巧的で情熱的でダイナミック。ギターという楽器は心の奥底にある思いを表現するのに適しているのだとつくづく思う。それにしても、松尾さんの技巧の凄さに改めて驚いた。

「リブラ・ソナチネ」も素晴らしかった。とりわけ3曲目の「フォーコ」には心が躍った。松尾さんの演奏によるのだろうが、この上なく情熱的なのだが、きわめて内省的で繊細で、しかも知的。本当に素晴らしい。

 休憩後は、モノー作曲ディアンス編曲「愛の賛歌」、アンヘル・ビジョルド作曲、ディアンス編曲の「エル・チョクロ」、アリエル・ラミレス作曲、ディアンス編曲「アルフォンシーナと海」、そして、多摩大学で演奏してもらったアントニオ・カルロス・ジョビン作曲、ディアンス編曲「フェリシダージ」(映画「黒いオルフェ」のテーマ曲)。いずれもポピュラーな曲なのだが、美しく、しかもしみじみと人生を感じる。

 最後の曲が「トリアエラ」。これもまた最後の「サーカスのジスモンチ」に圧倒された。なんだかよくわからないが、あまりの凄さに涙が出そうになった。演奏も素晴らしい、曲も素晴らしい。ギターという楽器の魅力もよくわかった。

 アンコールは「赤い鼻 Nez rouge」という短くてチャーミングな曲。そして最後は「タンゴ・アン・スカイ」。うーん、ディアンスというのはすごい作曲家だ・・・!と思った。

 調弦の都合もあるらしいが、曲と曲の間に松尾さんのトークが入った。気さくでユーモアにあふれる。とても楽しいトーク。松尾さんの魅力が伝わる。とはいえ、実は私は松尾さんのトークに正直言うと違和感を覚える。私は、気さくでユーモアにあふれる松尾さんのトークと、繊細で内省的で、完璧な技巧でありながら抑制的で知的な松尾さんの音楽の距離を感じる。「黙って演奏だけしていたら、客はもっともっと松尾さんの音楽の美しさ、深さを感じられるのに・・・」と思ってしまう。が、気さくに話をするのがまた松尾さんの魅力でもあるのだ。

 松尾さんにはこれまで多摩大が樋口ゼミ主催のコンサートに3度出演していただき、そのたびに圧倒的な名演を演奏してくれた。そして、今日もまた目を見張る演奏。私がギターの曲にこれほど感動するとは予想していなかった。改めて、これほどの名手が私たちのような大学の主催するコンサートに気軽に出演してくれたことに感謝した。

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戸田弥生のバッハ無伴奏パルティータ あまりの凄まじさ

 2014年12月13日。午前中は、多摩大学で地域プロジェクト発表祭。樋口ゼミの4年生もそれに参加して、4月に運営した葉加瀬太郎チャリティコンサートについて報告した。ゼミ生の女子3人が発表。ふだんは頼りないところの多い3人だが、立派に成し遂げた。質問にもそれなりにしっかりと答えてくれた。

 午後は、九段下の寺島文庫で、多摩大学樋口ゼミ主催により、戸田弥生バッハの無伴奏パルティータのリサイタルを開いた。10月の無伴奏ソナタ3曲のリサイタルに続いても開催。

 まさしく凄まじい演奏。「達者な」演奏ではない。流麗でもない。知的でもない。ただただ凄まじい。バッハに真正面から挑み、その精神の高みに必死にしがみつき、ぎりぎりのところでそれを音にしている。その気迫、その神がかり的な肉薄が凄まじい。しかも、そうでありながら、どこか自由な雰囲気が漂う。決められたことをそのまま演奏しているわけではない。計算して意図的に作っているわけではない。音楽に任せて、その場に任せて、勢いで演奏しているように聞こえる。だが、気迫によって音楽そのものの高みに達しているために、形が崩れない。

 シャコンヌのすごさときたら、あまりに圧倒的だった。スケールが大きく、聞くものの魂を揺り動かす。ぐさりと刺さる。魂が宇宙を巡っている感覚。あまりのすごさに涙が出てきた。すごいヴァイオリニストの演奏を樋口ゼミが提供できたのだとつくづく思った。

 ゼミ生たちもよくやってくれた。てきぱきと仕事をこなしてリサイタルを運営。頼もしく思えた。

 リサイタルの後、戸田さん、ご家族、ご友人の方と会食。最高の演奏の後の楽しい食事だった。最高に幸せ。これ以上文章にできないほどだ。

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ファンティーニのリサイタルは曲目変更になっていた

12月12日、武蔵野市民文化会館でノルマ・ファンティーニのリサイタルを聴いた。ただし、前半が終わったところで、途中退場した。

 ワーグナーの「ヴェーゼンドンクの歌」が曲目に入っているのでチケットを購入したのだったが、行ってみると、演奏曲目が変更になって、プログラムはイタリア・アリア集。しかも、後半はほとんどが私の嫌いなプッチーニ。その時点で大いにがっかり。

しかも、前半、「メフィストフェレ」と「ワリー」と「修道女アンジェリカ」と「オテロ」のアリア4曲で正味15分か20分くらいの演奏時間なのに、ピアノ伴奏の浅野菜生子さんの前口上や歌と歌の間のかなり詳しいアリア解説が入って、19時にリサイタルが始まって前半が終わったのは20時。

何か、よほど時間稼ぎをしなければならない事情があったのだろうか。アリアの解説にこれほど長時間かけると、音楽をじっくり聞く気分が失われてしまう。これではほとんど「レクチャー」であって、リサイタルではない。しかも、ピアノ伴奏は私にはあまりに一本調子に聞こえた。ちゃんとしたリサイタルを聴きたかった。

 歌は確かに素晴らしい。声は最高に美しいし、声量にも驚く。素晴らしい歌手。あまりの声の威力に聞きほれた。しかし、前半の4曲も声に圧倒されるだけで、全体の音楽には感動できなかった。このままプッチーニを聴き続けるのはつらいと思って、後半はパスさせてもらった。

 家庭のこと、学校のことなど、心配事が尽きずに、ゆっくりと音楽を楽しむ状態ではない。昨日と一昨日は、これまで何度か聞いて圧倒されたヤルヴィの演奏だったので必死の思いでコンサートに足を運んだが、やはりよほどよい演奏で好きな曲を聴くのでないと、今の状態では集中できない。

 ところで、昨日、パーヴォ・ヤルヴィ指揮、ドイツ・カンマー・フィルのブラームスチクルスの2日目を聴いたのだったが、昨日のブログにハイドンの主題による変奏曲について書くのを忘れていた。最初はこの曲が演奏されたのだった。これも素晴らしい演奏だった。とりわけ最後の変奏の素晴らしさには驚嘆した。ほかの曲を目当てでレコードやCDを買うとカップリングされているために、昔から馴染んだ曲だが、こんなに素晴らしい曲だったことにほとんど初めて気づいた。ただ、その後の2曲の演奏があまりに素晴らしかったので、この曲について忘れていた。ここに付け加えておく。

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興奮の圧倒的名演 ヤルヴィ+カンマーフィル ヴァイオリン協奏曲と交響曲第2番

 20141211日、オペラシティ コンサートホールで、パーヴォ・ヤルヴィ指揮、ドイツ・カンマー・フィルハーモニー管弦楽団によるブラームス・シンフォニック・クロノロジーの2日目を聴いた。曲目は前半に、クリスチャン・テツラフのヴァイオリンが加わってヴァイオリン協奏曲第1番、後半に交響曲第2番。圧倒的な名演だった。

 まず、ヴァイオリン協奏曲。テツラフが素晴らしい。これまで、テツラフの演奏は何度か聴いているが、実はあまり深い感銘は受けなかった。が、今回は素晴らしい。スケールが大きく、大きくうねり躍動する。しかも、心に染み入る美音。完璧な技巧。ヤルヴィの指揮にまったく負けていない。

 ブラームスの協奏曲は、私はすべてのヴァイオリン協奏曲の中で最も好きだ。が、実演で満足することは少ない。が、今回は心の底から感動した。これまで聴いたこの曲の演奏で最も感動したといえるのではないか。オーケストラは昨日と同じように、疾風怒濤。ただし、昨日よりは少し抑制されている感じ。曲のせいかもしれないが、昨日のピアノ協奏曲第1番や交響曲第1番のようには激しくはならない。もっと深く沈潜し、徐々に盛り上がり、時に爆発する。ドラマティックだが、すべてが理に適っているのを感じる。

 テツラフのアンコールはバッハの無伴奏ソナタ第3番のラルゴ。これもじっくりと聞かせてくれて、実に美しい。

 交響曲第2番もものすごい名演。これも、昨日に比べれば抑制気味。私にとってはこのくらいがちょうどいい。これ以上に疾風怒濤になると、ちょっと息苦しくなるし、不自然さを感じざるを得ない。この曲にふさわしく、明るめな音色。ワクワクした雰囲気が全体に広がり、まさしく躍動する。実に楽しく、しかもドラマティック。メリハリがあるが、しっかりと構成され、全体の脈絡を持っているので、自然に流れる。

 すべての楽章が圧倒的に素晴らしかったが、中でも終楽章は、最初から最後まで息をするのも忘れるようなもの凄さ。盛り上がり、最高度に祝祭的になって終わる。こんな演奏がこれまであっただろうか。

 ヤルヴィもすごいが、オーケストラもすごい。すべての楽器が実に躍動的で音が美しい。木管楽器のうつ草は比類がない。弦の厚み、躍動も圧倒的。しかも、いかにも楽しそうに演奏している。すごいオーケストラだ。

 昨日の第1番は、興奮しながらも「やりすぎではないか?」という疑問を感じたが、今日はまったくそのようなことはない。不自然なところはなく、誇張している雰囲気もない。激しいメリハリがついているが、すべてが納得できる。

 アンコールは「ハンガリー舞曲」第3番と第5番。昨日よりももっとずっと遊びを加えた演奏。ハンガリー的な要素を誇張し、メリハリを強くし、おもしろく演奏。実に楽しい。

 興奮のうちのコンサートが終わった。

 

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ヤルヴィ+カンマーフィル 興奮しつつも、「ちょっとやりすぎかな?」とも思った

 20141210日、オペラシティ コンサートホールで、パーヴォ・ヤルヴィ指揮、ドイツ・カンマー・フィルハーモニー管弦楽団によるブラームス・シンフォニック・クロノロジーの初日を聴いた。曲目は前半に、ラルス・フォークトのピアノが加わってピアノ協奏曲第1番、後半に交響曲第1番。

 前半のピアノ協奏曲は、絶望的といえるような激しい暗い音で重々しく始まった。スケールの大きな演奏。ピアノのフォークトの名前は今回初めて知った。激しく流動しながらもヴィヴィッドで、しかもかなり繊細。ただ、ヤルヴィのあまりに劇的な展開に少し負けていそうな部分があった。とはいえ、素晴らしいピアノスト。アンコールのブラームスのあの有名なワルツは、あまりの音の美しさの呆然とした。

 ヤルヴィの指揮はまさしく波乱万丈、疾風怒濤。スリリングにしてドラマティック。激しいところはあまりに激しく、静かなところはとことん静か。激しく流動し、うねり、大きな起伏を描き、爆発し、絶望をたたきつけ、時に喜びにあふれる。ピアノ協奏曲では少し遠慮していたようだが、交響曲では全開。凄まじい。ドイツカンマーフィルもヤルヴィの音楽を完璧に再現。

 交響曲はかなりはやめのテンポで、激しく畳みかけていく。まさしく疾風怒濤。しかし、無意味に大げさなわけではない。統一は取れているし、それぞれに意味がありそう。

第一楽章の弦による下降する音形(音楽の素人なので、どう表現すればよいのかわからない)をリタルダンドして強調して官能的といえるほどの表現をする。おそらく、この強調は第四楽章のあの有名なホルンのテーマの後と関連付けられている。第一楽章と第四楽章が連関性を持ち、一つの物語を築いていると私には思えた。

単に快速で飛ばすだけでなく、あちこちに仕掛けがあり、工夫があるのが良くわかる。だからこそ説得力を持つ。それはそれで素晴らしい。何度も魂が震え、興奮し、涙を流しそうになった。が、そうでありながら、ちょっと冷ややかな自分がいるのも間違いない。

いくら何でも、こんなに強調しなくてもいいじゃないか。ちょっとやりすぎではないか。楽譜にそのような指示はないのでは? というような疑問が頭をかすめる。

とはいえ、やはりすごい。いくら奇をてらっても、いくら大げさにやろうとしても、ここまで激しく、しかも説得力を持たせながら演奏するのはだれにでもできることではない。すさまじい才能だと思った。

アンコールは、「ハンガリー舞曲」から2曲。これも見事。かなり即興的に指揮していると思うが、オケが完璧についてきている。得意の曲かもしれないが、それにしても見事。

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三浦安浩の挑発的な「遊び」と飯守泰次郎のしなやかなエロティシズム

 2014年12月7日、愛知芸術センターで名古屋二期会公演、オペレッタ「こうもり」を見た。

 私の尊敬する指揮者飯守泰次郎が振り、私の大好きな演出家三浦安浩の手になる「こうもり」となると、見ないわけにはいかない。そして、期待通り、とても楽しくとてもおもしろかった。そして、とてつもなく大きな刺激を受けた。

 歌手陣では、ロザリンデの岩田千里がとても良かった。情緒もあり、色気もある、アデーレの水谷映美も楽しい歌。アイゼンシュタインの井原義則はいかにも頼りなげで軽い男をうまく演じていた。フランクの田辺とおるはまさに芸達者。ただ、全体的には、歌手陣には、ドイツ語の発音や音程の不安定さなど、問題を感じないでもなかった。

 名古屋二期会オペラ管弦楽団は健闘。臨時編成のオーケストラなのだと思うが、とても美しい音を出していた。

 第二幕、通常の上演ではヨハン・シュトラウスのワルツやポルカが演奏されることの多いダンスの場面で、「生誕150年のリヒャルト・シュトラウスをお聴きください」というファルケの発言に続いて、リヒャルト・シュトラウスの「ばらの騎士」組曲が演奏された。「シュトラウスつながり」「ワルツつながり」であり、しかも、これはオックス男爵という好色漢の歌に基づく曲であり、女性をナンパしようとするアイゼンシュタインの行動の後に演奏されるだけに「好色つながり」でもある。

 飯守泰次郎の指揮するこのワルツの演奏のなんと素晴らしいこと! そういえば、私はこれまで飯守指揮のリヒャルト・シュトラウスは聞いたことがなかったような気がする。ワーグナーやブルックナーやベートーヴェンばかりを聴いてきた。そして、なんとなくシュトラウスのような色気のあるものは得意ではないのではないかという先入観を持ってしまっていた。が、なんというエロティシズム! しなやかでデリケートでぞくぞくするような色気がある。オーケストラも素晴らしかった。ヨハン・シュトラウスもとても良かったが、やはりマエストロ飯守は、ワーグナーやリヒャルト・シュトラウスが最高に素晴らしいと改めて思った。

 だが、今回、私が注目したのは、三浦安浩の演出だった。三浦さんの演出はかなり存在感を主張している。注目せざるを得ない。

 序曲の間、舞台上で蝶の姿をした女性たちが飛び立つ。この蝶は、人の心の中にうごめくエロティックな誘惑の心とでもいえるものだろうか。

 すべての幕を通じて、ビリヤード台を模した舞台で物語が進行する。登場人物たちがビリヤードの球に見立てたボールを投げあったり、そのうえに座ったりする。

 そして、「こうもりつながり」ということなのだろうが、ファルケはこうもり傘のような扮装をし、第二幕の終わりから第三幕にかけて、外では雨が降り、人々はこうもり傘を持っている。第三幕で人々はアイゼンシュタインに向かって、「お前はもうおしまいだ」というようなセリフを語る(正確な言葉は忘れた。これは、原作にはないセリフだと思う)。

 この演出によれば、「こうもり」は予定調和の他愛のない大人の喜劇ではない。ビリヤード台を模した舞台が語る通り、人生はゲームであり、遊びである。だが、それは恐ろしい遊びだ。男と女が欲望を抱いて相手を誘惑する。しかも、ビリヤードのように、突然の球つきに合う。球と球がぶつかり合う。球がぶつかって、球の上に安住していると、足元が崩れることがある。球と球がぶつかり合って、取り換え可能になることもある。自分が夫だと思いこんでいたら、別の人が夫になっていることもある。しかも、いつ球は穴に落ちるかわからない。このような人生=ビリヤードがとりわけ第三幕で展開される。しかも、外は雨が降り。過酷な状況にある。

 私はこの演出を見ながら、「知らぬが仏」という言葉を思いだした。誰もが他人の心を知らず、他人の浮気心を知らずに、自分は安心だと思いこんで生きている。が、それは思いこみに過ぎない。足元からすべてが崩れていく。そんな恐ろしい人生ゲームを、今回の「こうもり」は見せてくれた。

 ところで、「こうもり」は私の大好きなオペレッタであり、高校生のころから、つまり半世紀ほど前から、カラヤン指揮、フィルハーモニア管弦楽団、シュヴァルツコップ出演のモノラル録音の全曲レコードをはじめとして、多くの録音、映像を見てきたが、これまで日本人中心で行われるこのオペレッタの上演をおもしろいと思ったことがなかった。ほかのオペラなら、日本人の上演も素晴らしいものがたくさんある。だが、こんなに楽しいオペレッタなのに、「こうもり」になると、つまらなくなる。

第一に、日本人が演じると、とりわけ第二幕のパーティの場面が鹿鳴館のようになってしまって、どうしても違和感を禁じ得ない。第二に、セリフのドイツ語が難しい。歌ならともかく、セリフのドイツ語はやはりどうしてもカタカナ・ドイツ語になってしまう。だからといって、日本語上演にすると、やはり歌の部分で無理がある。第三に、日本人が上演すると、どうしても生真面目になってしまい、遊びの精神が出てこない。

 今回、演出を受け持った三浦安浩さんも、おそらく私と同じような思いを抱いていたのではないか。そこで、今回、それを逆手にとって実に挑戦的な遊びの世界を作り上げてくれたのだと思う。

第一幕が始まってすぐ、アルフレードが「椿姫」の一節を歌いだし、ロザリンデがそれを続ける場面がある。アルフレードは歌の教師であり、「椿姫」のアルフレードと「アルフレードつながり」ということによる演出家の遊びだろう。ここで演出家は観客に向かって、「このオペレッタでは、原作をあまり尊重しないで、遊ばせてもらいますよ」と宣言しているわけだ。

 第二幕になって、遊びは本格的になっていく。ファルケが観客やオルロフスキー公爵に向かって、舞台で起こっていることを日本語で解説する形をとる。初めてこのオペラを見る観客に解説すると同時に、たどたどしいドイツ語で展開されるオペレッタの違和感を中和している。そして、このパーティは、西洋式のパーティではなく、和服姿など様々な民族の人々の集まる多民族パーティ。なるほど、こうすれば鹿鳴館は避けられる。

 第三幕になると、いっそう遊びは爆発する。看守フロッシュ(通常の上演でも、歌は歌わず、すべてセリフで語られる役であり、原作から離れて時事ネタなどで笑わせることが多い。今回も歌手ではなく、俳優の大獄隆司が演じている)は、ドイツ語の参考書を片手に、ドイツ語の発音に苦労していることを明かし、このオペレッタをドイツ語で上演することを嘆いている。そうした本音を語ったうえで、オペレッタが進行する。

 三浦さんは、観客と作品の仲介としての日本語を加えることによって、遊びの世界を作りだし、ドイツ語の違和感を消し、日本人にも違和感のない「こうもり」の世界を作りだそうとしている。正直言って、もう少し工夫がほしいと感じるところもないではなかったが、このような挑戦的な態度は素晴らしいと思う。バイロイトの演出のように、原作にないものを演出家の勝手な思いで作りだしているのではない。日本においてこの「こうもり」を上演することの意味を考えた末に、一つの解決法を見出している。演出の可能性を見せつけてくれる実に意欲的な演出だと思った。

 いつもはオペラを見ても、音楽にばかり気を取られる私だが、今回は三浦さんの演出に大きな刺激を受けた。「ああ、俺は人生を間違えた。音楽の才能がからっきしないと気付いた時点で、音楽の道を諦めたのだったが、演出家という道があったではないか。演出家にだったら、私のように音楽の才能がなくても、なれたのではないか。30年ほど前、映画監督になりたいなどと思わないで、オペラ演出家になりたいと思っていればよかった。ああ、三浦さんのような仕事がしたかった!」などと、帰りの新幹線の中で考えていた。

 ところで、東京・名古屋を往復したわけだが、師走の日曜日ということで大変な人出だった。名古屋の三越やラシックのレストラン街に行ってみたら、長い行列ができていて、75分待ちといわれた。地下街を歩いて、やっと「ひつまぶし」の店を見つけて食べた。とてもおいしかった。

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シュタインバッハーの気品と香りにあふれたフランクのソナタ

 2014126日、川口リリアホールでアラベラ・美歩・シュタインバッハーのヴァイオリン・リサイタルを聴いた。ピアノ伴奏はロベルト・クーレック。

 シュタインバッハーは、数年前、東響と共演したブラームスの協奏曲を聞いた記憶がある。その時は、出だしの音に派手な失敗をしたために前半、かなりぎくしゃくした演奏だったのを覚えている。しかも、指揮が私の好みではなかった。とはいえ、そのときもだんだん持ち直して、後半は素晴らしい演奏だった。シュタインバッハーの演奏するCDも何枚か持っているが、いずれもとても気に入っている。そんなわけで、もう一度聞いてみたいと思っていた。川口でリサイタルがあるというので、我が家からかなり遠いこの地まで足を運んだ。リリアホールは初めて。

 曲目は、前半にモーツァルトのヴァイオリン・ソナタ 第18番とフランクのヴァイオリン・ソナタ。後半にプロコフィエフの無伴奏ヴァイオリン・ソナタとシュトラウスのヴァイオリン・ソナタ。まさしく盛りだくさん。

 モーツァルトは、実に美しい。のびのびとして自然で気高い。フランクはかなりドラマティックだが、無理に盛り上げようとせず、素直にじわじわと盛り上げていく。しなやかで香りがある。私は第1楽章のあまりの美しさに涙が出そうになった。フランス的な演奏といえるのではないか。

 モーツァルトとフランクの2曲は数か月前、ネマニャの演奏で聴いたが、起伏が大きく、きわめて刺激的なネマニャと本日のシュタインバッハーはまさしく対照的。私はどちらのタイプも好きだ。

 クーレックはシュタインバッハーとコンビを組んでいるピアニストであって、とても鮮明できれいな音を出す。が、少々興奮する傾向があるらしい。シュタインバッハーよりも盛り上がっていく。ただ、そうなるとちょっと雑になる。第2楽章で1小節か2小節ほど、ふだん聞きなれているのとは異なる音になったが、別のヴァージョンがあるわけではあるまい。興奮のあまり指がついていかなくなって、あわててごまかしたように思えた。

 プロコフィエフの無伴奏ソナタもとてもよかった。無理がない。プロコフィエフの天衣無縫というべき音の世界が築かれる。何かの思いを込めるというよりは、自然の音を出している感じ。しかし、そこに自然で気品ある音楽ができていく。

 ただ、リヒャルト・シュトラウスのソナタについては少し不満を抱いた。この曲はもっと外連味(ケレンミ)を持って演奏しないとおもしろくならない。これを真正面から演奏すると、少々退屈になる。何しろ、将来の大オペラ作曲家の若書きのソナタなのだ。精神的な深さを求めるよりも外面的な効果を出すほうが、この曲にふさわしいと思う。もちろん、良くも悪くも、このような演奏をするのがこのヴァイオリニストなのだということだろう。

 アンコールはベートーヴェンのソナタ第10番第2楽章。このヴァイオリニストらしいはったりのないしっかりとした演奏。とても良かった。

 それにしても、シュタインバッハーという世界を代表するヴァイオリニストのリサイタルであるにもかかわらず、空席が目立った。なんともったいないことだろう。

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コミタス弦楽四重奏団 独特の音色に惹かれた

 12月4日、武蔵野市民文化会館小ホールでアルメニアのコミタス弦楽四重奏団のコンサートを聴いた。アルメニア音楽の父とされる作曲家コミタスの名を冠する歴史ある団体で、メンバーを変えながら現在にいたっているとのこと。第一ヴァイオリンとヴィオラが高齢の男性で、第二ヴァイオリンとチェロがかなり若い女性。素晴らしかった。

  曲目は、前半にヘンデル作曲、アスラマジアン編曲のパッサカリア ト短調、チャイコフスキーの弦楽四重奏曲第3番。チャイコフスキーらしい哀愁の表現が素晴らしい。後半は、アルメニアで暮らした作曲家ミルゾヤンの弦楽四重奏曲「主題と変奏」と、コミタス作曲の弦楽四重奏のための14の小曲から。コミタスの曲は舞曲風の民族色の濃い音楽。

  最初の音から独特の音色に驚いた。第一ヴァイオリンのダデヴォシャンの音色といえるのだろう。弱音器をつけていなくても弱音器をつけたような音。繊細で研ぎ澄まされていて、実にしなやか。ちょっとエリシュカの指揮する音色に似ていると思った。 だが、エリシュカの音よりも、もっと悲しみが秘められている。虐げられてきた民族の持つ音色という感じがするのは先入観によるものではあるまい。舞曲風の音楽であっても、あっけらかんとした音は少しもない。苦悩と屈辱に耐え、辛酸をなめ、ぶつけようのない怒りと悲しみをぐっと抑えたうえで、歌い踊っているように感じる。まさに人生を感じる。これがアルメニアの民族が持つ音楽性なのかもしれない。

 アンコールもコミタスの小曲。そして最後に、アルメニアを代表する作曲家であるハチャトゥリアンの「剣の舞」。これも素晴らしかった。躍動感にあふれ、民族色にあふれている。生命そのものの力を感じる。

 とても満足。音楽は本当に素晴らしい。

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新国立劇場「ドン・カルロ」 やや不満

   2014123日、新国立劇場で「ドン・カルロ」を見た。全体的にはやや不満だった。

 歌手の中では、ドン・カルロを歌ったセルジオ・エスコバルが美声で声量もたっぷり。音程もいい。一人だけ声が突き抜けていた。エボリ公女のソニア・ガナッシも、前半抑え気味だったが、後半は実力発揮。第3幕は強い声でドラマティックに歌いあげて、素晴らしかった。エリザベッタを歌うセレーナ・ファルノッキアはとても綺麗な声。清潔な歌でとてもいいのだが、低音で音程が定まらないところが少し気になった。ロドリーゴのマルクス・ヴェルバは綺麗な声でしっかり歌っているのだが、ちょっと迫力不足を感じた。もう少し存在感がほしい。フィリッポ二世を歌うラファウ・シヴェクはやや期待はずれ。音程が不安定で声に深みが不足しているのを感じた。日本人歌手については、宗教裁判長を歌う妻屋秀和、テバルドを歌う山下牧子をはじめ、世界レベル的に見て十分に健闘していると思った。

 私が何より不満だったのは指揮のピエトロ・リッツォだ。

 私は、ヴェルディのオペラの中では「ドン・カルロ」が一番好きだ。人間の魂の奥底を見据えるドラマ、どす黒い人間存在の描写、残虐さを併せ持つキリスト教信仰、そうしたものが音楽に現れる。「神々の黄昏」と同じような興奮を覚える。

 ところが、 ピエトロ・リッツォの指揮にそうしたものを感じなかった。まるで天下泰平な歌物語のように音楽が展開していく。もちろんドラマティックで不吉な音が響き渡る。だが、「イル・トロヴァトーレ」や「リゴレット」のように美しい歌をつなげていこうとしているように、私には聞こえた。音楽によってドラマを作ることよりも、美しいアリアを際立たせることに主眼を置いているようだ。しかし、そうすると、このオペラのドラマの本質が消えてしまうように私には思える。私は、ほかの演奏で聴いてぞくぞくするような興奮を覚えてきた個所でも、今日は何度か退屈し、眠くなってきた。私の体調のせいではなく、やはり、リッツォの指揮が私の好みではなかったせいだろう。

 東京フィルハーモニー交響楽団は大いに健闘。アンサンブルが壊れることなく、色彩的な音を出していた。ただいかんせん、指揮が良くないので、私の心には響かなかった。

 合唱は、三澤洋史指揮による新国立劇場合唱団 。先ごろ、「オペラ座のお仕事」という三澤さんのとてもおもしろい本を読んで、合唱指揮の仕事がどんなものかやっとわかった。新国立劇場の合唱は常に素晴らしいが、そこには三澤さんの素晴らしい仕事があったのだということを痛感。

 演出はマルコ・アルトゥーロ・マレッリ。いくつもの長方形の壁を移動させ、冷たい裸の存在を描き出そうとしている。同時に、それらの壁の隙間によって十字架を作り出す。信仰心と残虐な宗教の一面を際立たせる。おもしろい演出だと思った。ただ、第三幕の処刑の部分が少し遠慮がちすぎるのではないかと思った。もう少しインパクトがあてもよかったのではないか。

 今年の2月、二期会の日本人の若手歌手たちによる「ドン・カルロ」を見て大いに感動したのを覚えている。今回の公演は二期会の上演に及ばなかったように思う。

 

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