« シュタインバッハーの気品と香りにあふれたフランクのソナタ | トップページ | ヤルヴィ+カンマーフィル 興奮しつつも、「ちょっとやりすぎかな?」とも思った »

三浦安浩の挑発的な「遊び」と飯守泰次郎のしなやかなエロティシズム

 2014年12月7日、愛知芸術センターで名古屋二期会公演、オペレッタ「こうもり」を見た。

 私の尊敬する指揮者飯守泰次郎が振り、私の大好きな演出家三浦安浩の手になる「こうもり」となると、見ないわけにはいかない。そして、期待通り、とても楽しくとてもおもしろかった。そして、とてつもなく大きな刺激を受けた。

 歌手陣では、ロザリンデの岩田千里がとても良かった。情緒もあり、色気もある、アデーレの水谷映美も楽しい歌。アイゼンシュタインの井原義則はいかにも頼りなげで軽い男をうまく演じていた。フランクの田辺とおるはまさに芸達者。ただ、全体的には、歌手陣には、ドイツ語の発音や音程の不安定さなど、問題を感じないでもなかった。

 名古屋二期会オペラ管弦楽団は健闘。臨時編成のオーケストラなのだと思うが、とても美しい音を出していた。

 第二幕、通常の上演ではヨハン・シュトラウスのワルツやポルカが演奏されることの多いダンスの場面で、「生誕150年のリヒャルト・シュトラウスをお聴きください」というファルケの発言に続いて、リヒャルト・シュトラウスの「ばらの騎士」組曲が演奏された。「シュトラウスつながり」「ワルツつながり」であり、しかも、これはオックス男爵という好色漢の歌に基づく曲であり、女性をナンパしようとするアイゼンシュタインの行動の後に演奏されるだけに「好色つながり」でもある。

 飯守泰次郎の指揮するこのワルツの演奏のなんと素晴らしいこと! そういえば、私はこれまで飯守指揮のリヒャルト・シュトラウスは聞いたことがなかったような気がする。ワーグナーやブルックナーやベートーヴェンばかりを聴いてきた。そして、なんとなくシュトラウスのような色気のあるものは得意ではないのではないかという先入観を持ってしまっていた。が、なんというエロティシズム! しなやかでデリケートでぞくぞくするような色気がある。オーケストラも素晴らしかった。ヨハン・シュトラウスもとても良かったが、やはりマエストロ飯守は、ワーグナーやリヒャルト・シュトラウスが最高に素晴らしいと改めて思った。

 だが、今回、私が注目したのは、三浦安浩の演出だった。三浦さんの演出はかなり存在感を主張している。注目せざるを得ない。

 序曲の間、舞台上で蝶の姿をした女性たちが飛び立つ。この蝶は、人の心の中にうごめくエロティックな誘惑の心とでもいえるものだろうか。

 すべての幕を通じて、ビリヤード台を模した舞台で物語が進行する。登場人物たちがビリヤードの球に見立てたボールを投げあったり、そのうえに座ったりする。

 そして、「こうもりつながり」ということなのだろうが、ファルケはこうもり傘のような扮装をし、第二幕の終わりから第三幕にかけて、外では雨が降り、人々はこうもり傘を持っている。第三幕で人々はアイゼンシュタインに向かって、「お前はもうおしまいだ」というようなセリフを語る(正確な言葉は忘れた。これは、原作にはないセリフだと思う)。

 この演出によれば、「こうもり」は予定調和の他愛のない大人の喜劇ではない。ビリヤード台を模した舞台が語る通り、人生はゲームであり、遊びである。だが、それは恐ろしい遊びだ。男と女が欲望を抱いて相手を誘惑する。しかも、ビリヤードのように、突然の球つきに合う。球と球がぶつかり合う。球がぶつかって、球の上に安住していると、足元が崩れることがある。球と球がぶつかり合って、取り換え可能になることもある。自分が夫だと思いこんでいたら、別の人が夫になっていることもある。しかも、いつ球は穴に落ちるかわからない。このような人生=ビリヤードがとりわけ第三幕で展開される。しかも、外は雨が降り。過酷な状況にある。

 私はこの演出を見ながら、「知らぬが仏」という言葉を思いだした。誰もが他人の心を知らず、他人の浮気心を知らずに、自分は安心だと思いこんで生きている。が、それは思いこみに過ぎない。足元からすべてが崩れていく。そんな恐ろしい人生ゲームを、今回の「こうもり」は見せてくれた。

 ところで、「こうもり」は私の大好きなオペレッタであり、高校生のころから、つまり半世紀ほど前から、カラヤン指揮、フィルハーモニア管弦楽団、シュヴァルツコップ出演のモノラル録音の全曲レコードをはじめとして、多くの録音、映像を見てきたが、これまで日本人中心で行われるこのオペレッタの上演をおもしろいと思ったことがなかった。ほかのオペラなら、日本人の上演も素晴らしいものがたくさんある。だが、こんなに楽しいオペレッタなのに、「こうもり」になると、つまらなくなる。

第一に、日本人が演じると、とりわけ第二幕のパーティの場面が鹿鳴館のようになってしまって、どうしても違和感を禁じ得ない。第二に、セリフのドイツ語が難しい。歌ならともかく、セリフのドイツ語はやはりどうしてもカタカナ・ドイツ語になってしまう。だからといって、日本語上演にすると、やはり歌の部分で無理がある。第三に、日本人が上演すると、どうしても生真面目になってしまい、遊びの精神が出てこない。

 今回、演出を受け持った三浦安浩さんも、おそらく私と同じような思いを抱いていたのではないか。そこで、今回、それを逆手にとって実に挑戦的な遊びの世界を作り上げてくれたのだと思う。

第一幕が始まってすぐ、アルフレードが「椿姫」の一節を歌いだし、ロザリンデがそれを続ける場面がある。アルフレードは歌の教師であり、「椿姫」のアルフレードと「アルフレードつながり」ということによる演出家の遊びだろう。ここで演出家は観客に向かって、「このオペレッタでは、原作をあまり尊重しないで、遊ばせてもらいますよ」と宣言しているわけだ。

 第二幕になって、遊びは本格的になっていく。ファルケが観客やオルロフスキー公爵に向かって、舞台で起こっていることを日本語で解説する形をとる。初めてこのオペラを見る観客に解説すると同時に、たどたどしいドイツ語で展開されるオペレッタの違和感を中和している。そして、このパーティは、西洋式のパーティではなく、和服姿など様々な民族の人々の集まる多民族パーティ。なるほど、こうすれば鹿鳴館は避けられる。

 第三幕になると、いっそう遊びは爆発する。看守フロッシュ(通常の上演でも、歌は歌わず、すべてセリフで語られる役であり、原作から離れて時事ネタなどで笑わせることが多い。今回も歌手ではなく、俳優の大獄隆司が演じている)は、ドイツ語の参考書を片手に、ドイツ語の発音に苦労していることを明かし、このオペレッタをドイツ語で上演することを嘆いている。そうした本音を語ったうえで、オペレッタが進行する。

 三浦さんは、観客と作品の仲介としての日本語を加えることによって、遊びの世界を作りだし、ドイツ語の違和感を消し、日本人にも違和感のない「こうもり」の世界を作りだそうとしている。正直言って、もう少し工夫がほしいと感じるところもないではなかったが、このような挑戦的な態度は素晴らしいと思う。バイロイトの演出のように、原作にないものを演出家の勝手な思いで作りだしているのではない。日本においてこの「こうもり」を上演することの意味を考えた末に、一つの解決法を見出している。演出の可能性を見せつけてくれる実に意欲的な演出だと思った。

 いつもはオペラを見ても、音楽にばかり気を取られる私だが、今回は三浦さんの演出に大きな刺激を受けた。「ああ、俺は人生を間違えた。音楽の才能がからっきしないと気付いた時点で、音楽の道を諦めたのだったが、演出家という道があったではないか。演出家にだったら、私のように音楽の才能がなくても、なれたのではないか。30年ほど前、映画監督になりたいなどと思わないで、オペラ演出家になりたいと思っていればよかった。ああ、三浦さんのような仕事がしたかった!」などと、帰りの新幹線の中で考えていた。

 ところで、東京・名古屋を往復したわけだが、師走の日曜日ということで大変な人出だった。名古屋の三越やラシックのレストラン街に行ってみたら、長い行列ができていて、75分待ちといわれた。地下街を歩いて、やっと「ひつまぶし」の店を見つけて食べた。とてもおいしかった。

|

« シュタインバッハーの気品と香りにあふれたフランクのソナタ | トップページ | ヤルヴィ+カンマーフィル 興奮しつつも、「ちょっとやりすぎかな?」とも思った »

音楽」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/532807/60776725

この記事へのトラックバック一覧です: 三浦安浩の挑発的な「遊び」と飯守泰次郎のしなやかなエロティシズム:

« シュタインバッハーの気品と香りにあふれたフランクのソナタ | トップページ | ヤルヴィ+カンマーフィル 興奮しつつも、「ちょっとやりすぎかな?」とも思った »