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昭和10年代の英語教科書が手に入った そして母のこと

 先日、このブログに、昭和2年生まれの母が女学校時代に使った英語教科書について書いた。母は、今もいくつかの文章を暗誦し、もう一度この教科書を見てみたいと熱望していた。そのため、どなたか心当たりはないかと考えて、ブログに記したのだった。

 多摩大学図書室の方々、教科書図書館の方々、そして本ブログを読まれて個人的に連絡をくださった方々の情報によって、その教科書がTSUDA ENGLISH READERS 1 だったことが判明。しかも、それを販売している古書店もわかって、現在、私の手元に現物が届いた。古びてはいるが、昭和初期のものとは思えないきれいな状態で保存されている。情報を下さった方々に感謝するばかりだ。

 ただし、中身を見てみると、母が暗誦していた文章とは少し異なる。母はまったくとぎれずに、I get up at 6 o’clock. I wash my face and hands. I go to my father and mother, and say “ good morning”と暗誦したが、教科書では以下のようになっている。

 Bessie gets up at half past six 6 o’clock every morning. She puts on her clothes quickly. She cleans her teeth. She washes her face and hands with soap and water. She combs her hair with a comb. She goes to her parents and say  ”Good morning ,Mother.”…

 

 母の記憶と少しずつ違うのはどういうことだろう。別ヴァージョンの教科書があったのか。あるいは、当時の先生が、教科書の文章をもとに、各生徒の事情に合わせて一人称で一人一人に作文させ、それを覚えさせたのか。

 この教科書を母に見せて、この点をきいてみたいところだ。母はともあれ、この教科書をみたら大喜びするだろう。

 ・・・ただ、残念ながら、母は現在、まだそれを見る状況にはない。

 両親は1月13日に大分県日田市を離れて、東京のサービス付き老人向け住宅に入居する予定だった。が、移動日前日の12日、荷物の発送が終わった後、親族全員が重症ではないと信じていた母の容体が急変して意識をなくした。救急車を呼び、病院に同行したのは私だった。

 二度の危機的状態が訪れた。一時は絶望と思われた。私は仕事のために東京に戻っていたが、一昨日、覚悟を決めて日田に赴いた。幸い、大きなリスクを覚悟で行った治療が効果を挙げて、危機を乗り越え、数値も改善されていたので安堵した。そのとき面会して、入手したばかりの英語の教科書を見せたが、反応はなかった。快方に向かっているとはいえ、まだ会話できる状態ではない。

 母は快方に向かっている。私はそう信じている。母が一日も早くしっかりとした意識を取り戻し、教科書を見てなつかしみ、かつて口癖のように言っていた通りに、もう一度英語を勉強する気持ちになってくれるように天に祈るばかりだ。

 このような私的なことをブログに書くのをためらったが、昭和10年代の英語教科書についての報告をしたかった。そして、ここ10日間、私の生活の中心をなしていることをここに書かなければ、私の人生が先に進まず、この後のブログの文章も私の本心を反映するものでなくなってしまうような気がした。そこであえて書くことにした。

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コメント

以前、樋口裕一さんに誹謗中傷のコメントを10通あたり、書いた「樋口裕一、大嫌い!さん集まれ」の者です。お久しぶりです。今回も匿名で出させてもらいますが、今回は嫌がらせだけでない前より自分の所属と学校をお答えします、自分は、高校生か中学生くらいの年齢と以前コメントを返されましたが、あながち当たってなくありません、自分は最高学歴、中卒の不登校の教師の息子です。これはウソではありません、イジメで引きこもって発達障害と診断されて社会で扱われています。精神病棟に10代の頃、1年間閉じ込められ統合失調症扱いされていました、今でも自分を裏切った中学の教師や同級生が憎いとフラッシュバックするときもあります。だが自分が挫折して犯罪に走らなかったのも、マーラーの音楽が自分の精神的な支えにもなっていたからです。精神病棟に同じく入院した患者に自分と同じくマーラーの音楽に心酔したおじさんに出会いました、マーラーの音楽は精神的弱者、の救済の音楽と思っています。マーラーの歌曲の中で「私はこの世から見捨てられて」というタイトルの歌曲があります、まさに自分が不登校になって世間から見捨てられた無の存在を理解していた歌曲として共感したのもファンになったきっかけでもあります、ですから、マーラーの悪口を言う樋口裕一、あなたが絶対に許せません!マーラーの歌曲は確かに、交響曲に比べて自分も高く評価はしてなく、演歌調の軍歌のようなアナログ的な価値しかなく、ファン以外の人は余り聴いていてもつまらないかもしれません、しかし交響曲に声楽を取り入れる実験だったのでしょう。マーラー程、激しい憎悪、の感情を浄化させる作曲家は自分が知っているクラッシック作曲家にはいません、マーラーの曲が支離滅裂とおっしゃってましたが、それもマーラーの音楽の精神分裂的な人間の心理、音楽を複雑に飽きさせない普遍な音楽にする作曲のカラクリだと思っています。日本のポップスの一時代を築いた作曲家の小室哲哉の音楽にも似たような分裂的なコード進行が見られます、支離滅裂な曲想も、曲を複雑にし多用的なニュアンスをもたす作曲のカラクリの基本的な技法の一つと思っています。マーラーはチャイコフスキーの悲壮交響曲について「表面的で深みがない」と批評したのも、単純でお約束なハッピーエンドの交響曲に幻滅していたからともいえます、さすがにベートーベンの第9にはマーラーは勝てないところもあります、しかし復活交響曲の最終楽章の歌曲から切れ目なしに、突発し、静寂する音楽は斬新過ぎます、同時代のどの作曲家、よりも勝っています。それと樋口裕一さんは、「マーラーの交響曲は2、3分で語れる内容を1時間かけて長く演奏する作曲家」とおっしゃってましたが、ベートーベンの第3交響曲「英雄」は自分にとってもっと短くてもいいだろ!と同じように言いたくなります、マーラーの交響曲は心の宇宙であり、無限に広がっていく長大なものともいえます、実際のところ自分も全部通してマーラーの交響曲を聴くことはめったにありません、抜粋していい部分だけを短めにハイライトにして録音して聴いてます。それでも、マーラーのファンタジーな世界を旅したくなった時のみ全曲聴いていて、聞き方は様々だと思います、ただハイライトで聴いていても、全部を通して聴いていてもマーラーの音楽の凄さは変わりません、そこが支離滅裂にしているマーラーの天才だと思います、曲をパズルのように分解しても1ピースでも楽しめて、バラバラに並べて聴きとおしても楽しめるのがマーラーの交響曲の醍醐味です。自分がR.シュトラウスが嫌いなのも、交響詩、を沢山書きすぎた作曲家だからです。曲名やタイトルを使って聴衆を惹き付けること等、陳腐です、それをしないで純粋な交響曲で成功したマーラーの方が1枚上手だといえます、それとマーラーの交響曲のトランペットが野暮と樋口裕一さんは、おっしゃってましたが、「樋口裕一、あなたが楽譜を書いて音符に残せますか?」それが出来ないのに、マーラーの音楽を批評する価値があなたにはありますか?、マーラーは小さな頃から近所にある兵隊のトランペットを聴きながら育っていてトランペットに関しては耳が肥えていたと思っています。あと自分が音楽史を用いてこの前話せなかったのも樋口裕一への嫌い、怒りの感情で一気にメールを書いたからで冷静になれば自分も音楽史を用いて話せますので誤解されてます。自分は樋口裕一さんがもう一人嫌いな作曲家のプッチーニのファンでもあるので、樋口裕一さんとは対立してしまうの無理ないかもしれません。

投稿: 樋口裕一 嫌い!マーラー大好き!R、シュトラウス大嫌い! | 2015年2月 2日 (月) 14時35分

樋口裕一 嫌い!マーラー大好き!R、シュトラウス大嫌い様
コメント、ありがとうございます。
私生活の上で大混乱を起こしているときにいただいたコメントでしたし、特に返事の必要もなさそうに思いましたので、これまで放置しておりました。
「樋口裕一 嫌い!マーラー大好き!R、シュトラウス大嫌い」さんの文章が、もし私が指導している小論文の答案だったら真っ赤になるくらい添削すると思うのですが、そうしたい気持ちはぐっと抑えて、2点のみいわせていただきます。
反論をするのでしたら、匿名でなく所属、住所と実名を出してください。それなしには、反論は成り立ちません。それがなければ、これも前回と同じ卑劣な中傷です。ただし、私のブログでそれらを出すのをためらわれるのでしたら、多摩大学経営情報学部の私宛に住所氏名を書かれた手紙をください。そこで批判してくだされば、きちんと答えます。
また、私はいちおう何冊かの音楽関係の本を出しています。私に対して音楽について批判をなさるのでしたら、当然、それをしっかりと読んだうえでなさってください。それのどこが甘いか、どこが間違っているかを指摘し、その根拠を示してください。
「樋口裕一 嫌い!マーラー大好き!R、シュトラウス大嫌い」さんの文章を読ませていただく限りでは、私の本に書いているレベルの音楽史の基礎も踏まえておられないように思います。また、私が主張しているシュトラウスの位置づけについても、まったく理解なさっていないように思います。せめてそのくらいは踏まえたうえで反論しないと、文章は説得力を持ちません。
シュトラウスやマーラーについての私の考えをまとめて書いているのは、「音楽で人は輝く」(集英社新書)と「ヴァーグナー 西洋近代の黄昏」(春秋社)です。それを読んだうえでないと、反論に説得力がないと思います。ともにアマゾンでかなり安く買えると思います(ちなみに、安く買えるのは価値がないからではなく、かなり売れてすでに世の中に出回っているためだということは、少し経済の基本を考えれば、分かってもらえるはずです。誤解なさっているようですので、念のために付け加えておきます)。
そうしたことをなさらないのでしたら、ただ単に「樋口裕一 嫌い!マーラー大好き!R、シュトラウス大嫌い」さんと私は趣味が合わないというだけの話であって、私を嫌う必要もなければ、反論する必要もないでしょうし、ブログに中傷を書きこむ必要もないでしょう。趣味の合わない人は世の中にはたくさんいます。それどころか、趣味の合う人はほとんどいないはずです。むしろ趣味が合わないのが当然のことです。
なお、「樋口裕一 嫌い!R、シュトラウス大嫌い」というように、私とシュトラウスを並べて嫌ってくださっていること、とてもうれしく思います。まさか私が偉大なシュトラウスと同列だとは思いませんが、なんだか、シュトラウスに少し近づけたような気がします。

投稿: 樋口裕一 | 2015年2月14日 (土) 10時18分

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