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最近見たオペラ映像 日田でのことなど




 このところ、大分県日田市と東京の間を何度も往復している。

 12月中旬に両親が東京の施設に入ることを決意してからこれまで、私だけで5回、家族を合わせると合計10回往復していることになる。移動に半日、費用もそれなりにかかるので、肉体的にも経済的にも、これはなかなかつらい。

 1月27日の午前中に日田に向かい、一昨日の29日、大学の仕事のためにいったん東京に戻った。母の病気のためにいくつもの学務を免除してもらったので、今回こそはきちんと参加しようと思っていたが、大学に問い合わせてみると、これも免除されていた。おかげで2日間、ゆっくり休んだ。明日また日田に向かう。

 この2日間に、買いためていたオペラ映像を2本見た。感想を書いておく。

 

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ベッリーニ 「テンダのベアトリーチェ」 チューリヒ歌劇場 2001年

 これはまさしく稀代のコロラトゥーラ歌手エディタ・グルベローヴァを鑑賞するための映像。フィリッポ役のミヒャエル・ヴォッレ(私はこれまでフォレと表記してきたと思う)の悪役ぶりも素晴らしいし、アニェーゼ役のステファニア・カルーザの声も色香も十分(私もかなり年齢を重ねて、この年代の女性を心から色っぽくて美しいと思えるようになった!)、オロンベッロ役のラウル・エルナンデスも誠実な歌いぶりがとてもいい。なんとレベルの高い映像だと思ってみていたが、ヒロイン役のグルベローヴァが登場して、これはもう別次元としかいいようのない歌唱になる。なんという美しい声、なんという声の張り。なんというテクニック。あまりの素晴らしさに呆然としてしまう。実演で聴くと、どんな凄いことか。

 私は三度ほどグルベローヴァの実演を聴いたが、広いホール全体に響き渡る声に魂が震えたのを覚えている。もっと聴いておけばよかった。

 指揮はマルチェッロ・ヴィオッティ。私はずっとイタリアオペラになじまなかったので、死後になってこの人の演奏を知ることになった。

「テンダのベアトリーチェ」の映像は初めて見た(CDは25枚組のベッリーニ・オペラ全集で聴いた)。ありがちな物語だが、とてもおもしろい。ベッリーニの音楽の毅然として高潔で悲劇的な世界を存分に味わうことができる。あまりに簡素なオーケストレーションにワーグナー好きからすると、かなりの違和感を覚えるが、それを言っても仕方がなかろう。

 

 

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ワーグナー「さまよえるオランダ人」
2013年 チューリッヒ歌劇場

  オランダ人を歌うのはブリン・ターフェル。素晴らしい。とはいえ、この人が歌うとこの上なく人間臭くなって、デモーニッシュなところが薄れるのが、私としては少し不満。ゼンタを歌うアニヤ・カンペは文句なく素晴らしい。美声で声量もたっぷり。容姿もいい。ファンになりそう…。なんとマッティ・サルミネンがダーラントを歌っている。1980年代からのバイロイトの常連なので、もしかするともう70歳を超えているのではないか。かつての声の威力は失われているが、堂々たるダーラント。エリックを歌うマルコ・イェンチュはちょっと硬いがなかなかの美声。

アラン・アルティノグルの指揮ぶりは、あまりワーグナーらしくない。あえてそうしているのだろうが、スケールが小さく、あれこれいじりすぎる気がする。が、「オランダ人」だから、まあこれでいいとはいえるだろう。

この映像で何よりも驚くのはアンドレアス・ホモキの演出。ダーラントや水夫たち、糸紡ぎの娘たちはおそろいのスーツに眼鏡をかけたまさしくビジネス実務者。後ろにアフリカの地図がある。真面目に仕事に励んで帝国主義的伸長を支えた北海を牛耳る貿易会社の社員ということだろう。第二幕で水夫(実際にはビジネスマンの服装をしている)がアフリカ系の男を襲う場面がある。ゼンタはそうした狭苦しい世界になじむことができずにスーツを脱ぎ捨てる。オランダ人はそうした時代に反して野人として生きる存在。ゼンタはそのようなオランダ人に惹かれ、オランダ人の後を追おうとするが、幕切れでオランダ人が見つからず、エリックの手にしていた銃で自殺する。まさに衝撃のラスト! もちろん救済のテーマは演奏されない。

要するに、ホモキはこの「さまよえるオランダ人」によって貿易によって帝国主義的に侵略していった19世紀の実務家たちを批判し、オランダ人に象徴されるような野人性を失ってしまった現代への失望を描いているといえるだろう。

なかなか面白いとは思うが、ワーグナーの中にこのような思想の片鱗さえもあるとは思えない。ただ単に、ダーラントが北海を舞台に活動する船の船長であり、お金に執着する人間として描かれていることに想を得ただけに思える。私の好きな演出ではない。

 

 なお、ここ数日に私の身に起こったいくつかのことを書き記しておく。

・先ほど書いた通り、あまりに旅費がかさむので、節約の意味で、1月27日は成田発のLCC、ジェットスターを利用して福岡に行った(日田に行くには、福岡空港からバスを利用する)。片道8000円。早朝の時間帯だと5000円台。圧倒的に安い。ずっと前から一度乗ってみたいと思っていたので、良い機会だった。実際に乗ってみて、とても快適だった。バスで飛行機まで行き、タラップで乗り込むが、昔はどこもこうだった。機内サービスが何もないのも気楽で悪くない。また利用したい。

 

・母の入院した日田市の病院はインフルエンザが流行しているために入院患者との面会が禁止になっていたが、27日に私が病院に行くと、看護師さんが気をきかせて母を救急病室の外に車椅子で連れ出してくれた。母は二度ほど絶望と思われたのだったが、意識は戻り、話ができる状態になっていた。ただ、治療を受けている間、悪夢の中にいたためか、それとも別の要因があるのか、記憶が飛んでいたり、思い違いをしていたりするし、もちろん、元気がない。

 女学校時代に使っていた英語教科書を見せた。それがかつて使った教科書だとはすぐにわかって明るい声を挙げて懐かしがって英文に目を凝らしていたが、まだ英語を読む状態にはないらしい。「見てもわからん」ということで、戻された。もっと後でまた見せてみようと思う。

 ともあれ、10日前からするとまさしく奇跡的な回復ぶりに満足することした。

主治医のY先生によると、今、容体が安定しつつあるので、退院してそのまま東京に移動するのがよい、これを逸すると今後も東京にはいけなくなる恐れがあるとのことだった。移動に危険がなくもないが、それはもっと後でも同じことだという。Y先生の勧めに従うことにした。

 

・27日、28日は一時的に日田の高齢者施設に入っている父を手伝い、東京への移動の準備。当初、1月13日に移動する予定だったのですでにほとんどは梱包しているが、一度開いたものも多く、新たに東京に運ぶことにしたものもある。あれこれと慣れない仕事があって大混乱。日田には私のいとこたちが何人もいて手伝ってくれる。感謝。

・29日、午前中にあれこれの準備。午後、帰途に。

博多駅に行く必要があったので、午後の「ゆふ号」自由席を購入。数年前までの常識で、席はがらがらかと思っていたら、ぎっしり混んでいて座れなかった。客のほとんどが韓国からの観光客らしい。大きな荷物を持ち、韓国語でしゃべり、ハングル文字のお菓子を食べ、ハングル文字のゲームをしている。湯布院の帰りのようだ。湯布院は海外への売込みに成功している。日本の各地がこうなることを政府は目指しているのだろう。ともあれ、ありがたいことだ。

私が子どものころは湯布院も日田も、知名度に差はなかった。今では、湯布院はブランド化に成功して日本中のだれもが知る存在になり、それに引き換え、日田はごく一部の知る人のみ知る存在になっている。韓国の観光客たちは列車が日田についているのに、外を見ようともせず、おしゃべりしたり居眠りしたり。日田を故郷に持つ人間としてはちょっと寂しい。

久留米でも席が空かなかったので、いったん降りて、快速電車で博多まで行った。駅で用を済ませて、帰りはJALを利用。

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以前、樋口裕一さんに誹謗中傷のコメントを10通あたり、書いた「樋口裕一、大嫌い!さん集まれ」の者です。お久しぶりです。今回も匿名で出させてもらいますが、今回は嫌がらせだけでない前より自分の所属と学校をお答えします、自分は、高校生か中学生くらいの年齢と以前コメントを返されましたが、あながち当たってなくありません、自分は最高学歴、中卒の不登校の教師の息子です。これはウソではありません、イジメで引きこもって発達障害と診断されて社会で扱われています。精神病棟に10代の頃、1年間閉じ込められ統合失調症扱いされていました、今でも自分を裏切った中学の教師や同級生が憎いとフラッシュバックするときもあります。だが自分が挫折して犯罪に走らなかったのも、マーラーの音楽が自分の精神的な支えにもなっていたからです。精神病棟に同じく入院した患者に自分と同じくマーラーの音楽に心酔したおじさんに出会いました、マーラーの音楽は精神的弱者、の救済の音楽と思っています。マーラーの歌曲の中で「私はこの世から見捨てられて」というタイトルの歌曲があります、まさに自分が不登校になって世間から見捨てられた無の存在を理解していた歌曲として共感したのもファンになったきっかけでもあります、ですから、マーラーの悪口を言う樋口裕一、あなたが絶対に許せません!マーラーの歌曲は確かに、交響曲に比べて自分も高く評価はしてなく、演歌調の軍歌のようなアナログ的な価値しかなく、ファン以外の人は余り聴いていてもつまらないかもしれません、しかし交響曲に声楽を取り入れる実験だったのでしょう。マーラー程、激しい憎悪、の感情を浄化させる作曲家は自分が知っているクラッシック作曲家にはいません、マーラーの曲が支離滅裂とおっしゃってましたが、それもマーラーの音楽の精神分裂的な人間の心理、音楽を複雑に飽きさせない普遍な音楽にする作曲のカラクリだと思っています。日本のポップスの一時代を築いた作曲家の小室哲哉の音楽にも似たような分裂的なコード進行が見られます、支離滅裂な曲想も、曲を複雑にし多用的なニュアンスをもたす作曲のカラクリの基本的な技法の一つと思っています。マーラーはチャイコフスキーの悲壮交響曲について「表面的で深みがない」と批評したのも、単純でお約束なハッピーエンドの交響曲に幻滅していたからともいえます、さすがにベートーベンの第9にはマーラーは勝てないところもあります、しかし復活交響曲の最終楽章の歌曲から切れ目なしに、突発し、静寂する音楽は斬新過ぎます、同時代のどの作曲家、よりも勝っています。それと樋口裕一さんは、「マーラーの交響曲は2、3分で語れる内容を1時間かけて長く演奏する作曲家」とおっしゃってましたが、ベートーベンの第3交響曲「英雄」は自分にとってもっと短くてもいいだろ!と同じように言いたくなります、マーラーの交響曲は心の宇宙であり、無限に広がっていく長大なものともいえます、実際のところ自分も全部通してマーラーの交響曲を聴くことはめったにありません、抜粋していい部分だけを短めにハイライトにして録音して聴いてます。それでも、マーラーのファンタジーな世界を旅したくなった時のみ全曲聴いていて、聞き方は様々だと思います、ただハイライトで聴いていても、全部を通して聴いていてもマーラーの音楽の凄さは変わりません、そこが支離滅裂にしているマーラーの天才だと思います、曲をパズルのように分解しても1ピースでも楽しめて、バラバラに並べて聴きとおしても楽しめるのがマーラーの交響曲の醍醐味です。自分がR.シュトラウスが嫌いなのも、交響詩、を沢山書きすぎた作曲家だからです。曲名やタイトルを使って聴衆を惹き付けること等、陳腐です、それをしないで純粋な交響曲で成功したマーラーの方が1枚上手だといえます、それとマーラーの交響曲のトランペットが野暮と樋口裕一さんは、おっしゃってましたが、「樋口裕一、あなたが楽譜を書いて音符に残せますか?」それが出来ないのに、マーラーの音楽を批評する価値があなたにはありますか?、マーラーは小さな頃から近所にある兵隊のトランペットを聴きながら育っていてトランペットに関しては耳が肥えていたと思っています。あと自分が音楽史を用いてこの前話せなかったのも樋口裕一への嫌い、怒りの感情で一気にメールを書いたからで冷静になれば自分も音楽史を用いて話せますので誤解されてます。自分は樋口裕一さんがもう一人嫌いな作曲家のプッチーニのファンでもあるので、樋口裕一さんとは対立してしまうの無理ないかもしれません。

投稿: 樋口裕一 、嫌い!R.シュトラウス大嫌い!マーラー大好き! | 2015年2月 2日 (月) 14時17分

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