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新国立劇場オペラ研修所公演「結婚手形」と「なりゆき泥棒」

 

 昨日(2015年2月20日)、新国立劇場中劇場で新国立劇場オペラ研修所公演「結婚手形」と「なりゆき泥棒」をみた。「なりゆき泥棒」はとてもよかった。

 新国立劇場オペラ研修所公演は毎年大変レベルが高く刺激的なので、楽しみにしている。しかも今年はロッシーニの珍しい演目。しばらく前からとても楽しみだった。

「結婚手形」を見終わった時点では、ロッシーニのオペラは研修員には荷が重すぎたかなという印象を抱いた。まず序曲冒頭のテンポの遅さにびっくり。指揮の河原忠之が丁寧に美しく演奏したいのかと思って聴いていたが、オペラが進むにつれてそうではなさそうなことに気付いた。序曲だけでなく、最初から最後まで驚くべきスローテンポ。歌手たちも全員があまりにゆっくりと歌う。どうやら歌手たちがロッシーニ特有のテンポについていけないために、あえてゆっくりしたテンポで演奏しているようだ。そうなると、一本調子になり、メリハリがなくなり、面白味が不足する。

「婚約手形」はロッシーニが18歳の時に作曲され、最初に上演されたオペラだとはいえ、CDで聴くとテンポも速くロッシーニらしさにあふれている。が、今回の演奏はかなり優雅でゆったりしていて、まるでハイドンやチマローザのように聞こえる。1960年代までのロッシーニ演奏の様式に近い。歌手たちも、健闘はしていたが、音程が怪しかったり、声が伸びなかったりすることが多かった。

 それにしても、結婚を経済活動の一つとして真正面から捉える台本についてはとてもおもしろいと思った。冒頭の「地球儀」の場面を含めて、これこそが実はロッシーニの新しさの一つではないかと思ったが、勉強不足なのでしばらくこのアイデアは暖めておくだけにする。

 後半の「なりゆき泥棒」も遅いテンポで始まったので、悪い予感がしたが、こちらのほうは徐々に盛り上がった。「結婚手形」の2年後のオペラで、この2年間にロッシーニは5作のオペラを作曲して急速に腕を挙げたのだろう。オペラそのものとしても圧倒的におもしろい。相変わらずかなり遅めのテンポだが、このくらいだったら十分にロッシーニのオペラとして楽しめる。こちらの歌手たちもアジリタに関しては、CDで聴く歌手たちとかなり差があるように思うが、それぞれに声が美しく、語り口も見事でロッシーニの醍醐味を十分に味わった。

 アルベルト伯爵を歌った小堀勇介が張りのある美しい声。素晴らしいと思った。ベレニーチェの清野友香莉は透明な声で容姿も美しい。エルネスティーナの藤井麻美は「結婚手形」のクラリーナとの掛け持ちでともに溌剌とした声。ドン・エウゼービオの伊達達人も芸達者でしっかりとした歌唱。「婚約手形」と掛け持ちだったほかの歌手たちも、こちらのほうがずっとのびのびと歌っているように思えた。

 このようにして聴くと、河原の指揮についても十分に納得がいく。むしろ、歌手たちの力量に合わせて丁寧の音楽を作っていたことが良くわかる。東京シティ・フィルのオーケストラもきれいな音を出していて、私はとても楽しめた。演出は久恒秀典。わかりやすく楽しい舞台になっていた。とはいえ、オーケストラも演出も、もう少しスピードアップしてほしいとは、私はずっと思っていた。

 とても楽しめたとはいえ、やはりロッシーニを研修所の公演で取り上げるのはちょっと無謀だったのではないか。ロッシーニ特有の早口を歌える歌手は、日本国内を探してもそれほど多くないだろう。世界のロッシーニ歌いたちは、それを専門に身に着けた人たちだ。もっと大きな組織の中からロッシーニを得意にする歌手を選りすぐってキャスティングしなければ、本当にロッシーニ好きを唸らせる上演にはならないのではないか。もちろん、研修所内の公演でこれだけのレベルにできたのは快挙とはいえるだろうが、やはり私としては世界のロッシーニ愛好者を満足させる上演であってほしい。

 悲しい出来事があった。

一昨日、知人から電話があり、バイロイト音楽祭をご一緒して以来親しくさせていただいていた90歳の音楽友達が亡くなったことを知った。私の父と同年齢の関西在住の女性だった。つい先週まで音楽に対しての好奇心を失わず、催しにも出かけておられたという。合掌。

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ヤルヴィ+N響のシュトラウス 素晴らしくも空疎な音響の世界

 2015218日、サントリーホールでNHK交響楽団の定期演奏会を聴いた。指揮はパーヴォ・ヤルヴィ。前半はシュトラウスの「ドン・ファン」と、ピョートル・アンデルジェフスキのピアノが加わってモーツァルトのピアノ協奏曲第25番。後半には、シュトラウスの「英雄の生涯」。

 クリアで繊細でしかも爆発力を持った美しい音。ヤルヴィはN響の最高の音を引き出している。N響の金管がこんなに素晴らしいとは、これまであまり感じたことがなかった。もちろん、弦も素晴らしい。まさしく最高の音響の世界。

 私は、シュトラウスを音楽の世界のドン・キホーテだと考えている。ドン・キホーテが中世の騎士に憧れてそのまねをしたように、シュトラウスは神聖なるベートーヴェンに憧れる。だから、ベートーヴェンのように音楽によって聖なるものを作りだしたい。音楽によって人間の真実、物事の背後にある芯の世界を描きたい。だが、ニーチェ以後の神を信じなくなった時代において、音楽の中に聖なるものを作りだすことは難しい。シュトラウス自身、神を信じていないし、真実などないことも知っている。かくなる上は、パロディとして英雄を信じるふりをし、英雄になったふりをすることしかできない。「英雄の生涯」は、まさしくシュトラウスが、それをパロディだと十分に意識しながらも大真面目に英雄を演じる大芝居だといえるだろう。ついでに言うと、交響詩「ドン・キホーテ」はシュトラウスの自画像にほかならないと私は考えている。

 ヤルヴィの指揮は、私の考えるシュトラウスを理想的に演奏してくれた。そこに無理やり「真実」を作りだそうとしない。音に精神性を込めない。真実を描こうとしない。徹頭徹尾、形而下的に、散文的に音楽を作る。そして、大真面目にパロディを演奏する。その意味では素晴らしい演奏だった。

 ただ、そうであるだけに、シュトラウスの交響詩の弱点が現れてしまったことは否めない。 私は中学生のころからの、ということはつまり50年ほど前からのシュトラウス・ファンなので、もちろんシュトラウスの交響詩にはなじんできたが、交響詩を名曲だと思ったことはない。シュトラウスの曲で名曲と呼ぶに値するのはオペラや歌曲であって、オペラや歌曲に比べたら、交響詩はあまりおもしろくない。やはり、音楽から精神性や「真実」を排除すると、空疎になってしまう。オペラや歌曲であれば、セリフやストーリーがあるのでそこに「真実」が宿るが、オーケストラ曲ではそうならない。私は今日のヤルヴィの演奏にそのような空疎を感じた。

 前半のモーツァルトの協奏曲も素晴らしかった。アンデルジェフスキはクリアな音できわめて繊細にして知的。研ぎ澄まされた純粋なイデア世界で遊ぶような趣がある。もっと聴いてみたいピアニストだ。

 

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パーヴォ・ヤルヴィ+N響 ショスタコーヴィチ5番に興奮

 2015214日、病院に行った母の状況次第では、コンサートに行けないはずだったが、ぎりぎりになって万事解決。都下にある病院からそのまま車でNHKホールに向かい、NHK交響楽団定期演奏会を聴いた。

パーヴォ・ヤルヴィ指揮。前半は庄司沙矢香のヴァイオリンが加わってシベリウスの協奏曲。後半はショスタコーヴィチの交響曲第5番。

 庄司さんのヴァイオリンは、媚びるところのない美音できわめてスケールが大きい。この曲はしばしば白熱した演奏が行われるが、この日の庄司さんの演奏に関しては、表面的に華やかに盛り上げるのではなく、山場を後半に据えて、スケール大きく徐々に心を深い世界を築こうとしているように私には聞こえた。清潔で高貴で内に情熱を秘めた演奏。ヤルヴィの指揮するオーケストラはでしゃばることなく、それをしっかりと支えて筋肉質で腰が据わっている。

 庄司さんのアンコールはシベリウスの「水滴」。ヴァイオリンのピチカートのみによる曲。おもしろかったが、私の席からは小さな音のニュアンスを味わうことができなかった(購入が遅れたため、かなり隅っこの音響のよくない席だった!)。

 後半のショスタコーヴィチの第5番には、私はとても興奮した。

この曲には中学生のころから馴染んでいる。生真面目な革命賛歌の音楽だという認識でレコード(ケルテス指揮のものだった)を聴いていたが、1968年のソビエト国立管弦楽団の大分公演で、ドミートリーの息子であるマキシム・ショスタコーヴィチが指揮するこの曲を聴いて、真面目なイメージが吹き飛んだ。グロテスクでユーモラスでやりたい放題の演奏だった。高校生だった私は「いったい、もともとこの曲はどんな曲なんだ?」と疑問に思ったのを覚えている。その後、ショスタコーヴィチのしたたかなソビエト政府との関係が知られるようになって、ますますこの曲の意味するところが分からなくなっている。

ヤルヴィの演奏は、実に緊張感があふれ、筋肉質でメリハリのある音楽を作りだしている。グロテスクでユーモラスなところは、自分との分裂、自分の中の狂気のようなものの表現のように感じた。自我の分裂や抑圧に苦しんでいた作曲家個人が深刻な状況を経た後に自己解放を得る物語として、この曲を構成しているように聞こえた。自己卑下したり、投げやりになったり、狂気に駆られたりしながらも最後には自分を取り戻す一人の人間の曲折ある人生を描く音楽として実に説得力がある。

それにしても、第三楽章の緊張感は尋常ではなかった。NHK交響楽団もクリアで張りのある音をつくり出して、実に見事。音に切れがあり、リズムが生きており、音楽全体が生き物のように息をしている。

コンサートマスターの堀正文さんと第二ヴァイオリン主席の永峰高志さんが退団のようで、演奏後花束を受け取っていた。

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日本ロッシーニ協会の例会と懇親会を楽しんだ

 2月11日、下北沢の北沢タウンホールで日本ロッシーニ協会の例会に足を運んだ。

私は、昨年末に日本ロッシーニ協会に入会したばかり。そもそもロッシーニの真価を知ってからそれほど時間がたっていない。言ってみれば、ロッシーニ初心者。入会後、協会の紀要を読んで少しロッシーニの勉強をしようと思っていたが、九州に住む母の病状悪化、その後の両親の東京の施設への移転のために勉強どころではなくなった。毎日、両親の暮らす施設に顔をだし、それなりに息子らしいことをしているが、その行き来に車の中でロッシーニを聴くくらいのことしかしていない。

「ロッシーニなどといっている場合ではない。あれこれのことで疲れているのだから、家でゆっくり休んだらどうか」という声もあった(とりわけ妻からの)が、むしろ気晴らしをし、自分らしい生活を続けるほうが健康を保てると考えて、出かけることにしたのだった。

会長の水谷彰良氏のロッシーニ研究の最前線についての講演はとても刺激的。これまでロッシーニのオリジナルと思われていたメロディが他人の曲の「ぱくり」であったという報告が多かった。会長のそのような報告を「ロッシーニに対する冒涜」だなどと怒るわけでもなく、「いかにもロッシーニらしい」と考えて、楽しんで聞いている会員の様子は、いかにもロッシーニ協会。50名程度の会員が参加。

ロッシーニのこのような傾向について、私は自分自身の経験(私は小論文の参考書を100冊以上出している「小論文の神様」であり、250万部を超える著書を持つベストセラー作家でもある)から思うことがないでもないが、時間がないので、今日は書かない。

講演の後、映像でのグローリア・ミサ曲鑑賞。アッカルドの指揮によるもの。マリナー指揮のCDは何度か聴いていたが、改めてとても魅力的な曲だと思った。ただ、演奏にはやや不満を覚えた。

その後、下北沢のイタリアンのレストランでロッシーニ協会の会員の懇親会。30名以上が参加した。とても楽しい人々。まさに音楽を楽しみ、人生を楽しんでいる。これまで付き合いの深いワーグナー好きやベートーヴェン好きとはやはりかなり雰囲気が異なる。私自身はおそらく正真正銘ワグネリアン・タイプの人間だと思うが、ロッシーニ好きの方たちと話すのは実に楽しい。

話しているうち、ペーザロのロッシーニ・フェスティバルに出かけたくなった。が、様々な状況から考えて、今年は難しそう。

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METライブビューイング「マイスタージンガー」 レヴァインとフォレに圧倒された

銀座の東劇でMETライブビューイング「ニュルンベルクのマイスタージンガー」を見た。

指揮はジェイムズ・レヴァイン。まず、私は第一幕への前奏で何度か感動の震えが走った。かつてのレヴァインの指揮は、もっとすっきりして風通しのよいものだったが、近年はよりドラマティックで深みのあるものになっている。心の奥底に達する音が響き渡る。第三幕でも何度鳥肌が立ったことか。まさしく大巨匠の風格。

演出はオットー・シェンクなので、きわめて写実的で台本に忠実。とりわけ第三幕第一場はまるでフェルメールの絵のような中世の室内。実に美しい。

歌手の中ではハンス・ザックスを歌うミヒャエル・フォレがあまりに素晴らしい。これまで私が実演に接してきた名歌手たち(シュトリュックマン、ロバート・ホル)にまったく引けを取らない。第三幕の歌唱は、ザックスの高潔さ、きれいごとだけではない人間性を存分に歌いあげて実に魅力的。第三幕になってもこれだけの余力を残していたことに驚いた。ドイツ芸術を称えるザックスの歌に深く納得した。伝説のザックス歌手の一人として歴史に残るのではないかと思った。

ヴァルターを歌うヨハン・ボータも魅力的な声。ただ、カウフマンやフォークトだったら、声だけでなく演出的にももっと感動的だっただろうとは思う。ベックメッサーのヨハネス・マルティン・クレンツレは芸達者で歌もしっかりしている。とてもいい歌手だと思った。エファを歌うアネッテ・ダッシュもチャーミング。ポークナーのハンス=ペーター・ケーニヒもまさに貫禄。ダフィトのポール・アップルビーとマグダレーネのカレン・カーギルはMETの若手育成プログラム出身らしいが、世界的なワーグナー歌手にまったく負けていない。

私は高校生のころからワーグナーに耽溺してきたが、そのころ、魂をふるわせていたのは「トリスタンとイゾルデ」ヤ「ワルキューレ」だった。「マイスタージンガー」はレコードで聴くだけではあまり面白くないと思っていた。30歳代になって実演を見たり、映像を見たりするようになってやっとこのオペラの魅力を理解した。改めて、このような最高レベルの上演を見ると、やはり本当に良くできたオペラだと思う。昔退屈に思えた場面(第二幕第一場、第三幕第一場)も、よく聴いてみると、繊細で起伏に富んだ音楽だということに気付く。

いやあ、METは本当にすごい。ただ、やはり6時間の長丁場には疲れた・・・。

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リザノフ+リフシッツの素晴らしいデュオ

2015年2月8日、武蔵野市民文化会館でマキシム・リザノフ(ヴィオラ)とコンスタンチン・リフシッツ(ピアノ)のデュオ・リサイタルを聴いた。素晴らしい演奏。

曲目は、最初にブラームスのF.A.Eソナタのスケルツォ。最初から圧倒的。オリジナルはもちろんヴァイオリン曲だが、ヴィオラでもまったく違和感がない。躍動し、引き締まり、しかも知的なヴィオラ。そして、芯のしっかりとした美しいピアノ。二人の相性もとても良いように思った。

2曲目はシューマンのヴァイオリン・ソナタ第1番のヴィオラ版だが、実はこの曲については私には違和感があった。やはりこれはヴァイオリンでないとシューマンの切羽詰まったロマンティズムは出ない。別の曲のように聞こえた。次にタバコワという現代作曲家の「子守歌」、そして、ヒンデミットのヴィオラ・ソナタ。いずれもおもしろく聴いた。

後半にショスタコーヴィチのヴィオラ・ソナタ。ショスタコーヴィチが最後に作曲した曲で、自作やベートーヴェンからの引用が聞かれる。終楽章はベートーヴェンの「月光」の第一楽章と「エロイカ」の葬送行進曲がかみ合わされたような曲想。二人の演奏者は、まさしくこれを葬送の曲として演奏していたようだ。いたましく荘厳な音楽。

 リザノフもいいが、私はリフシッツの独特の輝きを持ったピアノの音に惹かれた。名前は以前から聞いていたが、確かにすごいピアニスト。弱音もいいが、強い音のクリアな響きがたまらない。知的な音だが、けっして知性が勝ちすぎていない。

 アンコールは、バッハのヴィオラ・ダ・ガンバ・ソナタ第8番第三楽章とのこと。

 実は、今回のコンサートは、行くかどうか直前まで迷っていた。東京の施設に入った両親の状況が心配だったからだ。が、自分の生活を続けるのも大事なことだと思い、コンサートに行くことにしたのだった。

 少し、この1週間の行動を整理しよう。

 私は2月1日に大分県日田市にまたしてもジェットスター便で移動(この日も快適だった)。2日にあれこれの準備を整えた。2月3日、母が日田市の病院を退院。そのまま両親が日田から東京の高齢者向け住宅に移動するのに付き添った。

日田から博多まで介護タクシー、博多から新横浜までは新幹線の多目的室、そして、新横浜から施設までまた介護タクシーを使った。母は生命の危機を乗り切った直後であり、退院したその足での移動なので、私としてはひやひやしどしだったが、無事に到着。ただ、到着した途端、ぐっすり眠って、起こしても目を覚まさなかったので、またも意識不明になったかとひやりとした(結局、何事もなかった)。

本日は2月8日。両親が東京の施設で暮らすようになってすでに6日目になる。母は一人では歩けず、車椅子を使用しているし、頭が完全にはクリアにならない様子。父は健康だが、90歳なので母を介護できる状態ではない。施設は設備もよく、食事も最高においしく、スタッフの方々はとても感じが良くてきぱきし、様々な依頼に応じてくれるのだが、両親はまだそれになじめずにいる。両親が慣れるまで、私の家族が支える必要がある。

そんなわけで、私は毎日施設に通っている。両親にできるだけ施設での生活に慣れてほしいので、私は一歩引いていようと思うのだが、私が施設を離れると両親が不安がるし、確かに危なっかしいところが多いので、どうしても私や家族があれこれの面倒を見ることになる。介護のまねごとのようなことも、もちろんしている。

その間、ブログは更新せず、コンサートにも行かず、車の中以外では音楽も聞かず、大学での大事な会議出席以外には仕事もほとんどしていない。テレビもほとんど見ていない。一日が終わると、メールの返事を書く気力もわかない。高齢者介護の大変さがとてもよくわかる。うちの両親は介護対象者としてはかなり軽い方だと思うが、それでもこのような状態なのだから。

母は快方にあり、毎日、少しずつ状態が良くなっている。両親は、おそらく施設での生活にも慣れるだろう。このような状況の中、両親に常に家族がはりつくのも、両親が施設になじむのを妨げていそうだし、みんなが心地よく過ごすためには、それぞれが普段の生活を続けることも大事だろう。そう思って、コンサートに足を運んだのだった。ともあれ、音楽に浸る時間を持つことができた。

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