« 2015年2月 | トップページ | 2015年4月 »

METライブビューイング「イオランタ」の演奏に圧倒された

東銀座の東劇でMETライブビューイング、チャイコフスキーの最後のオペラ「イオランタ」とバルトーク「青ひげ公の城」をみた。演奏はまさに最高!!

「イオランタ」を何より楽しみにしていた。私は今回の映像と同じ三人の主役による2013年でのザルツブルク音楽祭でのコンサート形式上演を聴いて興奮した。同じメンバーでの舞台を見たいと思っていたが、それがかなったわけだ。

イオランタを歌うアンナ・ネトレプコがやはり圧倒的。声に艶があり、声の演技力も抜群。容姿もすばらしい。ヴォデモンを歌うピョートル・ベチャワもこの役に実にぴったり。二人のソロもデュエットもぞくぞくするほど素晴らしい。そして、もうひとり、ロベルトを歌うアレクセイ・マルコフが主演二人にまったく引けを取らない。医師エブン=ハキヤ役のイルヒン・アズィゾフなど、そのほかの歌手たちもよかった。ワレリー・ゲルギエフの指揮もドラマティックに、そして色彩豊かに盛り上げていた。

ただマリウシュ・トレリンスキの演出は、メトロポリタン・オペラでは珍しい「読み替え」風。私としては少々残念な気持ちだった。

通常の上演では、イオランタは自分が盲目の不憫な娘だということを知らせまいとする父レネ王の配慮により、お付きの者たちの愛情に囲まれて暮らしている。そして、外から来た伯爵によって自分が盲目であるという真実を知らされ、光を見たいという意欲を持つようになって医師の手術を受けて目を開かれる。イオランタは光と愛に包まれ、花の色、愛する人の顔を知って幸せになる。

ところが、今回の演出は、イオランタのお付きの者たちはつっけんどんに仕事をこなすだけで、イオランタへの愛を示さない。壁に動物の骨格が飾られており、まさしく死の世界。イオランタが視力を得て光を浴びる場面でも、すべての色彩は排除され、白と黒の世界のまま。しかも、幕切れで音楽が終わった後、怒り顔のレネ王の姿が強調される。

演出のトレリンスキは、「イオランタ」と「青ひげ公の城」をともに「監禁」の物語であるととらえているようだ。イオランタは父親に監禁され、自分が盲目だという真実を知らされずに生きている。しかも、その状況に満足し、少しも疑っていない。何かの不足を感じて涙を流しているが、自分から真実を知ろうとはしない。だから、お付きの者たちからも軽んじられている。愛する男性が現れてやっと監禁から逃れられるが、それも受動的な選択でしかない。それは、「青ひげ公の城」のユディットとは対照的だ。ユディットは青ひげ公の怪しさに気付くと、青ひげ公が止めようとするのに自ら真実を知ろうとして、次々と部屋を開いていく。そして最後、自ら青ひげ公の四人目の妻になることを選択し、監禁される。だが、イオランタのように受動的な選択ではない。イオランタは結局最後まで、父親による監禁から脱し切れていない。

トレリンスキは二つの短いオペラを同時に上演することによって現代社会に閉塞状況、監禁的な状況を提示したのかもしれない。「イオランタ」をハッピーエンドで終わらせてしまうことに警告を与えているのだろう。それはそれでおもしろい試みだと思う。が、そうされると、「青ひげ公の城」のほうはともかく「イオランタ」では、音楽と矛盾してくる。

「イオランタ」の最後、明らかに音楽はハッピーであり色彩感にあふれている。光、生命、愛情への賛歌としての音楽になる。それなのに目の前の情景が白黒の死の世界では、どんなに素晴らしい演奏でも感動できなくなってしまう。音楽と舞台の不一致に、観客は居心地の悪い思いになってしまう。

「青ひげ公の城」は久しぶりに聴いた。LP時代にケルテス指揮の演奏をよく聴いており、ショルティ指揮のLDを見ていたが、その後、20年ほど、一度も音楽を耳にしなかったような気がする。久しぶりに聴くとなかなかよいオペラだと思った。青ひげのミハイル・ペトレンコ、ユディットのナディア・ミカエルがやはりすさまじい。歌唱も演技も、そしてそれぞれの肉体が持つ存在感もほかの歌手では絶対に表せない味わい。スリリングで夢幻的な舞台になっている。こちらのほうは音楽と演出理念がぴったり合致して素晴らしかった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

オペラ「袈裟と盛遠」を堪能した

 2015328日、新国立劇場中劇場でオペラ「袈裟と盛遠」をみた。とてもおもしろかった。石井歓の作曲、 山内泰雄の台本。もちろんこのオペラの存在は昔からよく知っていたが、みるのはこれが初めて。1968年の初演だというから、もはや現代の古典というべきだろう。

 芥川龍之介作の「袈裟と盛遠」に基づくとばかり思っていたら、そうではなかった。そもそもの原典である「平家物語」や「源平盛衰記」に基づくとのこと。盛遠が親友・渡辺ノ渡の妻である袈裟に横恋慕し、渡辺ノ渡を殺そうとして袈裟に手引させるが、袈裟はだまして自ら殺される物語。芥川の小説はそこで終わるのだが、このオペラはそのあと第三幕で盛遠が苦しみの中から仏の道に目覚めるさまが描かれる。この物語は日本の古典に明るい人にとってはよく知られているものらしいが、私のような日本の古典の素養のない人間にはあまりなじみがない。

 作品として、音楽もストーリーもとても魅力的。こんな作品が日本にあったことに驚いた。ただ、第三幕はちょっと観念的すぎる気がした。オペラとしては第二幕に山場を置くほうが盛り上がるだろう。もちろん、台本の山内泰雄はあえて第三幕に力点を置きたかったのだろうが。

 演奏もとてもよかった。歌手たちは全員が見事。字幕が出たが、字幕がなくてもほとんど聴きとれる。とりわけ、袈裟の沢崎恵美は澄んだよく通る声で、日本語も美しかった。容姿的にも、着物姿がとても美しい。白菊の長島由佳も嫉妬する女を演じて見事。この人も着物が良く似あっていた。盛遠の泉良平、渡辺ノ渡の中鉢聡もそれぞれの役柄を的確に演じ、観客を引きこむ力を持っている。平清盛の清水良一、佐藤義清の鳴海優一、勢至菩薩の鈴木美也子、鬼子母神のきのしたひろこもしっかりと役どころを歌って見事。呪師の中村靖は第一幕では声が出ていなかったが、第三幕は素晴らしかった。柴田真郁の指揮によるフィルハーモニア東京の演奏も文句なし。

 いつも刺激的な三浦安浩の演出については、実は今回、作品自体をよく知らないために、私としては何ともいえない。

 現代的理性を持つ渡と前近代的な精神を持つ盛遠を対比的に描いているのは、三浦さんの演出によるものだろう。渡は髷を結っておらず、第二幕の渡と袈裟の二重唱はきわめて現代的。一方の盛遠は魑魅魍魎の棲む荒々しい世界のなかにいる。袈裟が盛遠の世界に否応なく惹かれる様を見せてくれる。そして、鬼子母神の二面性と袈裟の二面性が重ねあわされ、それが荒々しい森遠と仏の道に入る盛遠(=文覚上人)につながっていくことが暗示されている。

 最後、初めの場面に戻る。呪いを発した乞食坊主が実はのちの盛遠その人であることを暗示し、同時に仏教的な輪廻を語っているように思える。これも三浦さんの発案なのか?

 日本の古典をオペラにすると違和感が残るのではないかと心配していたが、初めからそのようなことはなかった。むしろ、第一幕が開いた途端、その彩りや呪いや宴の様によって、実は日本の古代から中世にかけてこそオペラにふさわしい世界なのではないかと思った。

 ともあれ満足。これから日本のオペラをもっと見たいと思った。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

ヤノフスキ+ベルリン放送交響楽団のブラームス3番4番 圧倒的名演!

 2015年3月24日、武蔵野市民文化会館でマレク・ヤノフスキ指揮、ベルリン放送交響楽団によるブラームス交響曲全曲演奏の二日目を聴いた。交響曲第3番と第4番。どちらも最高の演奏。とりわけ第4番は圧倒的名演だった。

 第3番は、ヤノフスキにしてはかなりロマンティックな演奏だと思った。テンポを動かし気味で、音の強弱もかなり強調しているようだった。とはいえ、基本的には、明確でがっしりとしており、あまり感情移入をしない演奏。むしろ、ヤノフスキは音を畳みかけることによって、論理的に構築していくタイプだと思う。そこに魅力がある。第4楽章が特に素晴らしかった。音に厚みがあり、生き生きとしている。低音が強調されるので重心の低い演奏だが、引き締まって実に鮮明なので、重苦しさはない。

 第4番は最初から最後まで、私は息をのむ思いで聴き続けた。最初のメロディからして実に魅力的。ここでも決して感傷的にならずに、明確に音の絡み合いを作りだしていく。第一楽章の最後、音楽が白熱していくが、まったく形が崩れない。この部分、私はブラームスの音楽の中でも最も好きな部分なのだが、まさしく興奮。

 第3楽章もスケール大きく盛り上がる。そして、そのままのテンションで第4楽章につき進んだ。シャコンヌの形式で作曲されているが、そこに展開される30の変奏のすべてが実に説得力にあふれ、明確で確信に満ちている。揺るぎがなく、高揚し、複雑な音が見事に絡み合っていく、弦のなんという美しさ。私は音の見事な絡み合いにただただ酔いしれていた。

 今回聴いたヤノフスキ指揮ベルリン放送交響楽団の演奏はブルックナーの第8番と、ブラームスの4つの交響曲のすべてが素晴らしい名演だった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ヤノフスキ+ベルリン放送のブラームス第一夜

 2015323日、武蔵野市民文化会館でマレル・ヤノフスキ指揮、ベルリン放送交響楽団の演奏を聴いた。に夜連続のブラームスの交響曲全曲演奏の第一日、交響曲第1番と第2番。素晴らしかった。とりわけ第2番には圧倒された。

 第1番は第1楽章の初めにオーボエがミス。そのせいもあるのかもしれない。安心して聴いていられなくなった。所々あまりの素晴らしい音に感動しながらも、第2楽章あたりまで、少しちぐはぐさを感じていた。第3楽章あたりから、私は音楽にぐいぐいと惹かれていった。

弦の厚み、うねりが実にいい。音程の明確なクリアな音。力感にあふれ、躍動する。小細工は一切ない。テンポもほとんど動かさないし、音量をいじることもない。とても自然に音楽が動いていく。ロマンティックなところを強調することもない。第4楽章の有名なホルンのメロディも、特に強調されなかった。きわめて論理的に音を作る。その積み重ね的確に構築され、しっかりした造形をなしていく。これぞ名人のなせる業だと思った。

第3楽章が終わった途端、ほとんど間をおかずに第4楽章を開始。この曲は、第4楽章がまるで別の曲のように感じられるところがあるが、ヤノフスキにかかると実に不自然さがなく、見事に統一が取れている印象を抱いた。具体的にどのような工夫をしたのか、残念ながら、音楽に素人の私には良くわからなかった。第4楽章は、音の構築に酔った。最後はただただ圧巻。

第2番は、冒頭から最後まで私は圧倒されっぱなしだった。明確な音がたたきかけられ、論理的に盛り上がっていく。クリアな音。弦の絡みが実に素晴らしい。一つ一つの楽器がはっきりと聴きとれる。すべての楽器が強い音で明確に演奏される。しかも一分の隙もなく、緊密に構成されている。何度も魂が震えた。これまで聴いたこの曲の実演の中では最高の演奏かもしれない。

アンコールは「ニュルンベルクのマイスター人が」の第三幕の前奏曲。ブラームスで高揚した精神を落ち着かせ、じっくりと沈潜させるような演奏。

明日は、大好きな第3番と第4番。楽しみだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

残念だったことなど

321日、多摩大学の卒業式が行われた。私のゼミ生の卒業者は5名。全員がしっかり勉強し、ゼミ活動に大いに貢献した、とは言い難いが、ともあれ輝くところを持ち、しっかりとした大人として社会に送り出して少しも恥じることのない卒業生たちだ。私の指導のおかげでも何でもないが、大学の4年間(5年間の者もいる)でこれほど成長できたのは、私としてはとてもうれしい。きっと自分の人生を自分で切り開いていってくれるだろう。私はこのゼミ生たちの指導者だったことを誇りに思う。

 めでたい卒業式だったが、そのほかのことで、私の心の中では残念なことがあった。そのいくつかをまとめて書くことにする。

 

・桂米朝が亡くなった。大好きな噺家だった。テレビでも楽しんでみていた。CDやDVDも何枚も持っている。小さん、志ん朝と並んで私の考える昭和の三大巨匠だった。にじみ出る余裕のあるおかしみ、そして気品と教養。大学の私のゼミで寄席を企画しようとしているとき、何度か米朝の映像を見せて、その素晴らしさを説明した。

ところが、残念ながら、私は米朝の高座を見ていない。私は1970年代から80年代にかけて、新宿の末広亭を始め、いくつかの寄席やホール寄席に通っており、小さん、志ん朝、円生、三平、談志、小三治などの実演を見ている。が、米朝は見たことがなかった。見ておきたかった。残念。・・・合掌。

 

317日には、東京工業大学のリベラツアーツ研究教育院主催での講演会で話をした。とても気持ち良く話すことができた。その後の先生方との懇親会にも参加。有意義だった。

 その日、残念なことがあった。といっても講演会の中でのことではない。

少し早めに大岡山の駅に着いて軽く昼食をとろうとした。駅前にラーメン店があまりに多いのにびっくり。その中の一つに「とんこつ」をみつけた。九州出身で、「ラーメン=とんこつ」と思っている人間にはこれしかない。

食券で注文してしばらく待ったが、なかなか出てこなかった。待つこと自体は構わないのだが、店内に大音響でロック系の音楽がかかっている。これには我慢ならなかった。ラップ系の歌になって我慢できずに外に出た。780円を無駄にしたが、好きでもない音楽を大音響で聴かされるくらいなら、そのくらいの痛みは喜んで支払う。

その後、別のラーメン屋に入った。そこにも音楽がかかっていたが、前に入ったラーメン屋よりも音量が小さかった。これくらいならぎりぎり許容できる。

中島義道さんではないけれど、騒音が多く、音に無神経な日本社会に怒りたくなる!!

 

319日には福岡に宿泊して、20日の朝、ゆふいんの森号で両親の住んでいた大分県日田市(私の故郷でもある)に向かった。席はすべて売り切れているというアナウンス。4両の列車が本当に満員だった。そのほとんどが観光客で、韓国人、中国人と思われる人もかなりいる。

車掌さんのアナウンスに「ゆふ高原線」という言葉が聞こえた。「鹿児島本線、久大線、ゆふ高原線を通って由布院に参ります」といっている。

大分県で育った私も、「ゆふ高原線」というのを聞いたことがない。私の知らない間に新しい線ができたのだろうかと思ってスマホで調べてみると、「ゆふ高原線」というのは久大線(久留米と大分を結ぶJRで、もちろん私はこの名称に子どものころから馴染んできた)の愛称らしい。その後のアナウンスでしばしば、「久大線」という言葉が使われずに、「ゆふ高原線」とだけ言われていることがある。

 きっとそのうち、久大線がなくなって「ゆふ高原線」に名称が変更されそう・・・。これは、日田出身者にはあまりうれしいことではない。

由布院はブランド化に成功しみるみる日本を代表する観光地になった。由布院よりも歴史が古く、かつては地方都市としても観光地としても「格」が上だった日田は取り残されている。日田出身者としては少々残念。

なお、私の乗ったゆふいんの森号は、人身事故で50分ほど遅れて日田に到着。日田駅では私を含めて二人が降りた。「ゆふ高原線」という名称も残念だったし、遅延も残念だったが、満員の列車の中で降りたのが二人だけだったのも残念だった。

 

・録画していたテレビドラマ「相棒」シーズン13の最終回「ダークナイト」をみた。私の見るほとんど唯一の連続テレビドラマだ。ただ、このところ、あまりおもしろくない。無理のある設定やストーリー、キャラクターに合わないセリフなどが続出。ほぼ毎回、がっかりしながら見ている。だが、最終回ということで、今回は少し期待していた。

ところが、これはあまりにひどい。前代未聞のひどさではないかと思った。これまでのキャラクター設定とまったく合致しないし、これまで今回の展開になる伏線もなかった。しかも、カイトが、右京さんと相棒を組んでいるのに新たにダークナイトとしての犯罪を起こす必然性がまったくない。矛盾だらけであまりに突飛な展開。最後に、この無理なストーリーを正当化しようと犯罪について考えさせたり、同情をかきたてたりするセリフが続くが、それもとってつけたようでまったく説得力がない。無理に無理が重なっていく。一体、制作側に何が起こったのかと怪しみたくなるほどの出来栄え。

番組の冒頭部分でカイトの顔が出て真相が暗示されるが、まさかそんな安易な展開のはずがないと思ってみていたら、安易という以上に突飛な展開だった。

次のシーズンはこのようなことのないことを望みたい。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

ヤノフスキ+ベルリン放送のブルックナー8番 まだ興奮が続いている!

 2015318日、サントリーホールで、ヤノフスキ指揮、ベルリン放送交響楽団のコンサートを聴いた。曲目はブルックナーの交響曲第8番。それはそれは凄まじい演奏。まだ興奮が醒めない。

 クリアで明確な音。一つ一つの楽器の音色がはっきりと聴きとれる。力感にあふれ、音が生きている。すべての音が明瞭に重なり合い、最高の音の世界を形作る。盛り上がるところは盛り上がる。明るめの音だが、まぎれもなくブルックナーの世界。特別なことは何もしていないように聞こえる。小細工はまったくない。無理やり精神的な深みを付与している様子もない。宗教的にしているわけでもない。ただ、完璧にオーケストラが鳴り、自然なメリハリがあり、壮大な音の世界が構築される。しばしば音が爆発する。しかも、爆発しても音はクリアなまま。本当に素晴らしい。明確に音の世界が構築されていく。宗教的な雰囲気はあまりないが、間違いなくある種の法悦を覚える。

第一楽章の弦のトレモロから私はぐいぐいと音の世界に引きこまれた。何度、全身が震えるような感動を覚えたことか! 第3楽章のシンバルが鳴る部分の高揚に涙が出てきた。

 昨年だったか、N響を指揮するヤノフスキのブルックナーの交響曲第5番を聴いた。実はあまり感動しなかった。脈絡のなさを感じたのだった。だが、ベルリン放送交響楽団の演奏は一味もふた味も違う。もっと力にあふれている。楽団員の弾き方を見ても、N響とはかなり異なる。もっと強く激しく演奏している。そうなると、音楽に力感が生まれ、脈絡ができてくる。

 スイス・ロマンド管弦楽団を演奏したCDも素晴らしいが、ベルリン放送交響楽団も素晴らしい。管楽器の音の美しさにほれぼれした。ホルンもいいし、オーボエもクラリネットもいい。

久しぶりにブルックナーを聴いて心の底から揺り動かされるような感動を覚えた。2000年のヴァントの最後の東京公演以来の感動だった。

 

| | コメント (3) | トラックバック (0)

ヘンヒェン+新日本フィルのモーツァルトは私の好みのモーツァルトではなかった

 2015315日、サントリーホールで新日本フィルハーモニー定期演奏会を聴いた。指揮はハルトムート・ヘンヒェン。曲目は、前半にモーツァルトの交響曲39・40番、後半に41番。

 ヘンヒェンは実演を聞くのは初めて。これまでワーグナーのDVDなどを見てとても興味を惹かれていた。モーツァルトの3つの交響曲をこの人の指揮で聴いてみたいと思ったのだった。

とてもロマンティックな解釈だと思う。編成も大きく、ダイナミックレンジを大きくとってドラマティックに起伏を作っていく。ときおりタメを作り、フレーズが揺れ動き、強弱が細かく変化する。しなやかな音。柔らかみがあって、時折ワクワクした雰囲気が充満する。39番と40番の第3楽章のフレージングのとり方が独特で、とてもおもしろかった。

新日フィルもとてもしっかりと指揮についていた。木管楽器がとてもきれい。

ただ、私としては、とてもおもしろい演奏だとは思いながら、あまり感動はできなかった。モーツァルトをこのように演奏すると、せっかくの躍動感やひたひたと押し寄せる哀しみのようなものが失われる気がする。ちょっといじりすぎているように思う。私は、モーツァルトの関してはもう少し直截的な演奏のほうが好きだ。とりわけ、それぞれの交響曲の第2楽章の美しさをあまり感じなかった。個人的な趣味の問題に過ぎないとは思うが。

とはいえ、「ジュピター」の第4楽章はさすがに盛り上がった。重層的で、音と音が絡み合い、高揚していく。並みの指揮者ではないことは間違いないと思う。

別の作曲家の曲を聴いてみたいと思った。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

METライブビューイング「ホフマン物語」に感動

東銀座の東劇でMETライブビューイング「ホフマン物語」を観た。感動!

このオペラには様々な版があり、中にはストーリーそのものもわかりにくいものもある。が、今回のものはメトロポリタンらしく、とてもわかりやすい。バーレット・シャーの演出も、本人が出演して語る通り、幻想的でとても魅力にあふれている。シャー自身は「カフカ的」という言葉を使っていたが、やはりこれはE.T.A.ホフマンという作家の作品を読んだことのある者(といっても日本語の訳によるけれど)にとってはきわめて「ホフマン的」に思える。怪奇的でロマンティック。まさしくホフマンの世界を楽しむことができる。

ホフマン役のヴィットーリオ・グリゴーロがあまりにすごい。自在に歌い、表現の幅が広い。この役ではドミンゴもニール・シコフも素晴らしかったが、後半の迫力たるや、それに匹敵するのではないか。絶望や嘆きの表現が実に深い。ミューズのケイト・リンジーもまったくひけをとらない。声がしっかりしている。四人の悪役を歌うトーマス・ハンプソンは、かつての声の威力は失われてちょっと不安定なところがあるが、さすがの悪魔的な存在感。この役にはこのような人がふさわしい。

オランピアのエリン・モーリーは若手育成プログラムの出身だというが、独特の声で素晴らしい。ほかの役も聴きたい。若手育成プログラムからこれほど優秀な歌手が次々と誕生してくるのだろうか。ステラとアントニアを歌うヒブラ・ゲルツマーヴァは、はじめのうちはすこし不安定だったが、どうやらセーブしていたようだ。だんだんと乗ってきて、後半は綺麗で迫力ある声量豊かな声で素晴らしかった。ジュリエッタを歌うクリスティン・ライスは少し線は細そうだが、完璧に声をコントロールして見事。私の好きなタイプの歌声だった。この人の歌ももっと聴きたい。

指揮のイーヴ・アベルについては、私は昨年だったか新国立劇場で「蝶々夫人」を聴いて感心した記憶がある。今回、前半は少し余裕のなさを感じたが、それも計算のうちだったかもしれない。後半、どんどんとドラマティックになっていった。

毎回、最高レベルの上演を見せてくれるメトロポリタン・オペラの力に改めて脱帽!!

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「クリティカル・シンキング」セミナーのこと、そして映画「愛して飲んで歌って」のこと

 227日での東京会場に続いて、36日には大阪駅付近の会場で学研教育出版主催による「クリティカル・シンキング」セミナーで講演を行った。

「クリティカル・シンキング」は、数年前から私が問題作成の主幹となって開発している中学生・高校生向けの教材だ。「勉強」とは考えずにゲーム感覚で楽しんで解きながら論理力や批判力を養うことを目的としている。センター試験後に予定されている新テストにも、かなり前から話題になっているPISA型学力の向上にも、そして、社会に出て生きる力をつけるためにも最も有効な教材だと信じている。ぞくぞくの多くの中学・高校に採用いただいて、実にうれしい限りだ。

セミナーでは、私がこの教材の目的などについて説明し、教材を使ってくださっている中学・高校の先生方に活用実例を発表していただいている。227日には普連土学園中学校と洗足学園中学校、36日には三浦学苑高校での取り組みを紹介していただいた。実際の生徒さんたちが楽しみながら意欲的に問題に取り組んでくれている様子が発表されて、問題作成の主幹としては実にうれしい。先生方が、私たちの狙い通りに、いや、それ以上に効果的に使用してくださっていることに驚きさえも感じている。本当にうれしいことだ。先生方が間違いなく、生徒さんの伸びを実感してくれているのを強く感じる。

 が、仕事の話はこのくらいにしよう。

 大阪に向かうのぞみ号のなかで、3月5日に岩波ホールでみたアラン・レネの遺作「愛して飲んで歌って」のことをぼんやりと考えていた。見終わった後、納得できないことだらけでずっと気になっていた。が、考えるうち、少し納得できた気がするので、ここに書きつける。

 レネは私の学生時代の憧れの映画監督の一人だった。90年代以降の作品は見ていないが、それ以前のものは、「24時間の情事」や「去年、マリエンバードで」をはじめ、「夜と霧」などの初期の短編も含めてほとんどの作品をおもしろくみた。

 今回の「愛して飲んで歌って」はかつてのレネからは考えられないような軽めの喜劇。

 三組の初老のカップルが登場する。初老の男女が仲間うちで素人劇を上演しようとしたところ、一人が出演できなくなったことから、がんのために余命半年ほどだと宣告された共通の友人ジョルジュに代役を頼もうとする。ところが、稽古を始めると、関係する三人の女性(そのうちの一人はジョルジュの元妻、一人は元恋人)全員がジョルジュへの愛を感じ始める。そればかりか、一組のカップルの娘ティリーまでもが同じようにジョルジュを愛し、面倒を見ようとする。ジョルジュは結局がんではなく、事故で死ぬが、その棺を墓に納める場面で映画は終わる。

 このような物語が書き割のような芝居じみた舞台で展開され、しばしば劇中劇が挿入される。登場人物が長く独白する場面が何度かあるが、そのたびに背景はリアルさを失って線画のようになる。たびたびイラストが挿入される。しかも、最大の特徴は、まるで「ゴドーを待ちながら」のように、この映画の中心人物であるはずのジョルジュがまったく画面に登場しない! ほとんどすべてが室内劇のように3組の男女の会話から成っている。

 私があっけにとられたのは最後の場面だった。これまでジョルジュと同じように、名前はしばしば語られながら一度も登場しなかった娘ティリーが最後の最後になって登場して、ジョルジュの墓に写真を供える。ついにジョルジュの正体が明らかにされるのかと思って写真を見ると・・・なんとその写真に写されているのは死神のようだ。そこで、私は途方に暮れたのだった。

 で、のぞみ号の中で考えた結論はというと、「これはレネの『ファルスタッフ』なんだ!」ということだった。そう思ったとたん、私には納得できた。

 ヴェルディはずっと悲劇的なオペラを作曲し続けた。主人公のほとんどが非業の死を遂げる。ところが、最後の最後、シェークスピアの「ウィンザーの陽気な女房たち」を原作とする軽妙な喜劇「ファルスタッフ」を作曲する。自分が「モテ男」だと思いこんだファルスタッフがひどい目に合わされるが、最後にはめでたしめでたしになり、「世界はすべて冗談」という全員の歌で終わる。

 若いころ難解で生真面目な映画を作っていたレネが最後になって「人生ってのは、愛と死をめぐってのドタバタ喜劇なのさ」という達観した思いをこめて作ったのが本作なのだろう。まさしくこれは愛と死を巡ってのドタバタ喜劇。「太陽と死を直視することはできない」(ロシュフーコー)のだから、ジョルジュはスクリーンに映らない。タイトルの「愛して飲んで歌って」はヨハン・シュトラウス2世のワルツ「酒、女と歌」に基づくが、そこでは「ワイン、女、歌を愛さないのはなんと愚かな人生だ」と歌う。これこそがまさしくアラン・レネの最後の境地だったのだろう。

「人生、いろいろあったし、苦しんだり嫉妬したりしたけど、まあいいじゃないの。これが人生だよ。人生なんて愛と死をめぐる冗談だよ」、これがこの映画の言いたいことなのだろうと思った。

 翻って考えるに、私はまだレネやヴェルディの境地には達せそうもない。人生のただなかでジタバタしている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

サロネン+フィルハーモニア、そしてハーンの圧倒的演奏

201535日、川口リリアホールで、エサ=ペッカ・サロネン指揮によるフィルハーモニア管弦楽団の演奏を聴いた。リリアホールまで来たのには深い理由はない。サントリー・ホールでも同じプログラムでのコンサートが行われているが、最初に売りだされたのがリリアホールだったので、ともあれ購入したのだった。

初めはシベリウスの「フィンランディア」、その後、ヒラリー・ハーンが加わってブラームスのヴァイオリン協奏曲。後半にベートーヴェンの「英雄」。圧倒的名演といってよいだろうと思う。

まず、「フィンランディア」の鮮烈さにびっくり。情念がうねり、心が躍動する。弦も美しいし、金管も魂がこもっている。フィルハーモニア管弦楽団が北欧のオーケストラのように響く。素晴らしいオーケストラになったものだと思った。

ブラームスについては、サロネンは少し遠慮がち。ハーンの独特の世界が広がった。怜悧で崇高で知的でありながら、徐々に高揚していく。論理的に高揚するのを感じる。第二楽章のヴァイオリンの音の美しさ、第三楽章の研ぎ澄まされた躍動に心が躍った。ある意味で人間臭さのない、音楽そのもののような純粋な美しさとでもいおうか。

「英雄」は、早いテンポで躍動し、うねり、爆発する演奏。時々綱渡りのようなリズムになる。あっと驚くが、聴き進むうちに納得していく。まさしくスリリング。オーケストラもよくこのリズムについていくものだと感心した。第2楽章のダイナミックな音の渦に魂が震えた。第4楽章の躍動も素晴らしい。若々しいベートーヴェン。

 素晴らしい演奏なので大喝采になると思っていたが、意外と静かだった。もっと喝采してほしかった。

 今日は、午前中、両親のいる施設に顔をだし、午後には岩波ホールでアラン・レネの遺作「愛して飲んで歌って」を見た後のコンサートだった。少々疲れた。よって、本日のブログの文章はこのくらいにしておく。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

映画「クスクス粒の秘密」「アデル、ブルーは熱い色」そして、フレンチの店シェ・シミズのこと

 春休み中だが、先週はほとんど毎日、会議や入試関係の仕事のために大学に出ていた。大学の行きか帰りに両親の入っている施設に寄るのが日課になっている(母の健康状態はかなりよくなった。少しだけなら独力で歩けるほどに回復!)ためもあって、家に帰ると疲れ切っていて、ほかの仕事はできない。録画しておいたテレビドラマを見たり、DVDを見たりするだけ。

 チュニジア出身のアブデラティフ・ケシシュ監督の映画「クスクス粒の秘密」と「アデル、ブルーは熱い色」をみた。両方ともなかなかの傑作だと思った。

51jsxhzfspl__sl160_


「クスクス粒の秘密」は映像も美しいし、登場人物の一人一人が実にリアルで、作り物とは思えない。物静かな主人公、魅力的な愛人の娘、ヒステリックにがなりたてる息子の嫁など、まるで現実そのものを見ているかのよう。寡黙で表情を変えない主人公の心の動きが周囲の人々の状況によって手に取るようにわかる。

 南仏の港町セット(ポール・ヴァレリーの生まれた町!)で暮らすチュニジア移民の60代の港湾労働者スルマーヌ。妻や子どもたちと別れて愛人と暮らしている。リストラされたのを機会に廃船を買ってクスクス料理のレストランにしようとし、前妻や子どもたちの協力を得てオープン前に盛大なパーティを開いて、客にクスクスを振舞おうとする。ところが、息子の一人のミスのためにクスクスの粒の入った鍋が行方不明になる。愛人の娘であるリムは義父のために時間稼ぎをしようと、意を決してレストランの客を前にエロティックなダンスを披露する。

 初めのうち、あまりに丁寧な描写のために少し退屈に思った。普通の映画だったら短くまとめる場面を長々と描く。が、最後の場面になって、監督の意図がわかった。クスクス粒が見つからずにみんながあわてて時間稼ぎをする様子をリアルタイムに感じさせるようにじっくり描いていたわけだ。

 反目していた愛人たちと前妻の子どもたちが、心を合わせてスルマーヌのために時間を稼ごうとする。が、その間、スルマーヌはバイクでクスクスを探しに行き、バイクを盗まれ、それを追いかけるうちに路上に倒れる。そのまま息絶えることを暗示している。

 移民の悲哀を描くだけでなく、もっと普遍的に人間の愛憎、初老の人間の思いを描いている。周囲の人はだれもが自分なりに愛情を生きるが、それがすれ違う。そのような人間模様が移民世界の中で描かれる。

考えてみると、主人公は私と同年代。身につまされる。これまでの人生の様々なしがらみをどうすることもできない。人生を諦めようとしても諦めきれず、もう一花咲かせたいと思う。そんな男の気持ちが私には痛いほどわかる。

 

71y4kaetd8l__sy550_


 同じケシシュ監督の「アデル、ブルーは熱い色」は、2013年カンヌ映画祭パルムドール受賞作。フランスのリセに通う美少女アデル(アデル・エグザルコプロス)と髪をブルーに染めた女性美大生エマ(レア・デドゥ)の同性愛の物語。チュニジア出身の監督作品だが、登場人物の多くが白人で、チュニジアらしさはほとんどない。初々しくも切なくも激しい恋を大胆に官能的に描く。演出があまりにリアル。「クスクス粒の秘密」と同じように、端折ったりしないでじっくりとリアルタイムに近い感覚で現実を描く。少女の燃え上がる恋を前にしているとしか思えない。アデルの心の動き、ためらい、哀しみ、絶望がひしひしと伝わる。本当に少女のリアルな姿を目の当たりにしているかのような気持ちになる。二人の女優もとても可憐で魅力的。

 物語そのものは、日本に暮らす初老の男性である私には縁もゆかりもないものだが、そんな私をも引きこむ力を持っている。DVDの歌いも文句にもあるが、同性愛のラブシーンの官能性は言葉をなくすほど。3時間近い映画だが、うっとりしながら見てしまった。

 

 ところで、最近、素晴らしいフランス料理の店を見つけた。

町田市野津田といえば、明治のころ、自由民権運動の中心地として知られた土地。その閑静な住宅地の一角にあるのが、シェ・シミズというフランス料理の店。隠れた名レストランだという噂を聞いて、一昨日、大学の同僚とともに夕食に訪れた。多摩大学から車で20分くらいのところにある。民家の中の一つで、これがお店だとは気付かないほど。それもまたフランスのレストランの雰囲気を出している。

 小さいが、内装も実にセンスが良い。確かにフランス的。そして、肝心の料理についても最高においしかった。コース料理を注文したが、まず野菜の前菜、ハーフスパゲティ、魚、肉、デザートのすべてに満足。不自然な味付けをしないで素材味そのものをいかし、しかし、そこにフランス料理のエスプリを注ぎ込む・・とでもいうか。洗練された本格的な味。とりわけ、タンドリー味の鶏肉は最高においしかった。多摩市にあるエル・ダンジュが閉店して、勤め先近くにひいきの店をなくして困っていたが、素晴らしい店を見つけることができて満足。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2015年2月 | トップページ | 2015年4月 »