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映画「サウルの息子」 衝撃的な「視野の狭さ」!

 映画「サウルの息子」をみた。あまりに衝撃的! こんな映画初めて見た。

 主人公サウルはナチス時代のアウシュヴィッツ=ビルケナウ収容所で働くゾンダーコマンド(ユダヤ人でありながら、ナチの手先として、同胞がガス室に送り、死体を処理するのを手伝う存在。彼らも数か月で殺される運命にある)のひとり。人間性をなくして機械的に同胞を次々と死に送りこんでいるが、ある日、ガス室に送られて殺された少年を自分の息子と思いこみ、ラビの祈りとともに埋葬してもらおうと必死になる。ゾンダーコマンドたちも脱走を企て、混乱の中でサウルも逃亡するが、最後に殺害される。

 何よりも驚くべきなのは、サウル一人に焦点が当てられていることだ。映画史の上では、オーソン・ウェルズ監督の「市民ケーン」がディープ・フォーカスのカメラを用いて、近くから遠くまで焦点を合わせてクリアな映画世界を作り上げたことで知られているが、「サウルの息子」はむしろ徹底的に焦点をサウルに合わせる。しばしばサウルの背中からサウルの体験する行為を描いていく。周囲の様々な出来事は焦点の合わないぼやけた映像として示される。これは映画技術の発展にあえて逆行するきわめて衝撃的な方法だ。

 しかも、画面は横長ではなく、むしろ正方形に近い。つまり、左右の視野も制限されている。広い視野で現実を見渡すことができない。だから、しばしば何が起こっているのかよくわからない。ガス室に送られるユダヤ人やゾンダーコマンドたち(各国から送りこまれている!)の何語だか不明な言葉があちこちから聞こえてくる。サウルから見えないこと、サウルに関心のないことは画面上には明確には見えない。サウル以外の登場人物のほとんどの見分けもつかない。サウルはあれこれとドイツ人やらユダヤ人やらに命令され、怒鳴られるが、多くの場合、その理由がわからない。わけのわからない中、右往左往している。理不尽で不条理なカフカ的世界。

「全貌を見渡せない」という映画のあり方は、もちろんサウルの精神状態をも示している。ユダヤ人がひっきりなしにガス室に送りこまれたり、銃殺されたりしている中、ゾンダーコマンドたちは休む暇もなくその死体の処理をして全員が殺気立っているうえ、すべてが混乱している。しかも、サウル自身、理性を失い、精神のバランスを失い、常軌を逸している。仲間を危険に追いやっても、大事なものをなくしてもただひたすら息子の埋葬に執着している。その中で、サウルたちは未来のことも、周囲のことも理解しない。まさしく視野が狭い。

 見ている観客も周囲が見渡せず、閉塞感を覚える。息苦しくて、周囲が理解できずにいら立つ。理性を失ったサウルと同化せざるを得ない状況に追いやられる。

観客は狂気のただなかに右往左往しながら立ち合い、理不尽と不条理を生きる。そのリアリティが凄まじい。きっと戦場にいる兵士たちはこんな感じなのだろう。いや、人間だれもが極限状況の中ではこのようになるだろう。裸の人間はこのような状況の中で生きているのだろう。

 人間が大量虐殺され、「部品」として扱われ、それを処理する側も人間性を失いそうになる中、サウルは殺された少年を「人間」として埋葬しようとしたのだった。それ自体は人間らしい振る舞いなのだが、そんなきれいごとは通用しない。サウル自身が理性を失い、人間性を失っている。

 この作品は、世界史のある時期の極限状況に立たされた人間の存在を描く映画であると同時に、人間そのものの裸の姿を描いた映画だともいえるだろう。監督・脚本のネメシュ・ラースローのとてつもない才能、サウルを演じるルーリグ・ゲーザ(詩人・小説家でもあるらしい)の独特の存在感に圧倒された。

 最近、良い映画をかなり見ているつもりでいたが、これは別格だった。私がこれまで見た多くの映画(20代のころ、1年に360本以上の映画を見ていた。何しろ私は早稲田大学第一文学部演劇学科映画専攻の出身なのだから!)のなかでももっとも衝撃を受けた数本に入るだろう。

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三枝成彰「Jr.バタフライ」 あまりに魅力的な三枝ワールド

 2016127日、渋谷のオーチャードホールで三枝成彰作曲のオペラ「Jr.バタフライ」をみた。オリジナルは島田雅彦による日本語台本だが、このオペラがイタリアのプッチーニ音楽祭でイタリア語版で上演され、大成功を収めた。今回はいわばその凱旋公演とでもいうべきもの。三枝ファンである私としては見ないわけにはいかない。

 歌手たちのレベルの高さに驚く。Jr.バタフライを歌うのがジャン・ルカ・パゾリーニ(かつて私が心酔した映画監督ピエル・パオロ・パゾリーニと何か関係があるのだろうか?)、ナオミを歌うロッサーナ・カルディアが特に素晴らしい。そのほかのイタリア人歌手たちもやはり日本人とはレベルが違う。指揮は三ツ橋敬子。スケールの大きな演奏で、三枝ワールドをあまりなく再現している。布施実の演出については、とても美しい映像だったが、少し単調だったのは否めない。とはいえ、きっと資金的な制約があったためだろう。もっと手の込んだ装置を使うと、上演が不可能になるのだろうから、日本の現代オペラを上演できただけでも快挙というべきだろう。

 三枝さんの音楽については、見事というほかない。プッチーニを意識し、時には「トリスタンとイゾルデ」を意識し、難解な芸術ではなく、だれにでもわかりやすく親しみやすいオペラをめざす。私はこの姿勢に大賛成。愛に陶酔させ、戦争の悲劇に泣かせ、政治と愛について考えさせる。

 イタリア語にまったく違和感はなかった。いや、それどころか日本語で聴いたときよりもずっと感動した。日本語の歌はどうしても平ぺったくなって、情緒的になる。イタリア語だとアクセントが生まれ、躍動する。情緒が緩和される。最後の平和への祈りを歌う合唱(日本語で歌われる)があまりに感動的。ここは絶対に日本語のほうがよいと思った。

 マダム・バタフライの息子という設定が秀逸。こうすることで日米のはざまを描くことができる。同時に、プッチーニの「真似」(という言葉をあえて使わせていただく)を堂々とすることができ、観客をなじみの世界に導くことができる。しかも、オペラという日本にはどうしてもなじみのない芸術形式をなじませることができる。ジュニア・バタフライという主人公が過去と現在、そして西洋と日本に結び付ける「装置」の役割を果たしている。

ただ、島田雅彦の台本については少し欲張りすぎているのではないかと思った。私の読解能力不足なのかもしれないが、終盤、テーマについていけなかった。一度、台本をしっかり読み込んでみたい。

観客の中に政界、財界、言論界、芸能界のビッグネームが大勢おられるのに驚いた。失礼ながらお名前を思い出さないもののテレビでよく見かける方も多かった。何人かにご挨拶をと思わないでもなかったが、気後れして早々に退散した。三枝さんの社会への影響力の大きさを改めて痛感した。

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オイストラフ弦楽四重奏団 アンコールのショスタコーヴィチのスケルツォに涙を流した!

2016126日、武蔵野市民文化会館でオイストラフ弦楽四重奏団の演奏を聴いた。圧倒的な演奏だった。

このロシアの若手による弦楽四重奏団は言うまでもなくあのダヴィッド・オイストラフから名前をもらっている。オイストラフは私が20代のころの私の最も好きなヴァイオリニストだった。その名を冠したカルテットなら、聞かないわけにはいかないと思って出かけたが、期待をはるか上回る凄まじい演奏だった。

曲目は前半にチャイコフスキーの弦楽四重奏曲第1番とシューベルトの弦楽四重奏曲第12番「四重奏断章」。最近の若手の弦楽四重奏団によくある透明で緻密でシャープな音によるアンサンブル。完璧な音程で生き生きとした音を紡ぎだす。悪い言葉で言うと「ぬるく」なりがちなチャイコフスキーが、透明で溌剌とした目の覚めるような曲になっている。逆に言うと、チャイコフスキーから甘ったるい感傷がはぎとられている。シューベルトも同じような印象。前半を聴いた時点では、すごい演奏だが「一長一短」だという気がした。

だが、後半のンメデルスゾーンの弦楽四重奏曲 2番を聴いて心の底から納得。本当に素晴らしいメンデルスゾーンだった! 若々しい心の葛藤が研ぎ澄まされたシャープな音でドラマティックに再現される。メンデルスゾーンの弦楽四重奏は一般的にはあまり評判がよくないが、これを聴くとベートーヴェンに匹敵するといいたくなってくる。魂が揺り動かされ、何度か涙が出そうになった。

その後、パガニーニの「カプリース」より第20番、第1番、第24番。超絶技巧の無伴奏ヴァイオリン曲を弦楽四重奏で演奏する編曲だが、一人の難しいパートを四人で分けてやさしくしているのではなく、4人全員がそれぞれ超絶技巧の演奏をする。見事。

そして、何よりもすごかったのがアンコールで演奏されたショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲 3番第3楽章スケルツォ。ショスタコーヴィチらしい魂のすべてをたたきつけるようなヒステリックともいえる曲を緻密に熱狂的に演奏。私はただただ魂を揺り動かされ、感動し、興奮した。涙が出てきた。最後に、チャイコフスキーの「子供のアルバム」から「甘い夢」で興奮を沈めてコンサートは終わった。

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映画「アンナ・カレーニナ」「日の名残り」「わたしを離さないで」、そしてテレビドラマのこと

 昨日、少し仕事の切りがついたので、本日は少しゆっくりした。何本か映画ソフトを見たので感想を書く。

 

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「アンナ・カレーニナ」 バーナード・ローズ監督

 先ごろ見た英国BBCのドラマ「アンナ・カレーニナ」に不満を覚えたので、アマゾンで評価の高いこの映画DVDを購入した。これは素晴らしい。

BBCのドラマよりもずっと短い。実際の物語が展開されるのはせいぜい1時間40分ほど。だが、むしろBBCのものよりもこちらのほうに説得力を感じる。小説の中のエピソードをとびとびに映像化しているわけだが、それぞれの映像が雄弁なので、映像化されなかった時間の登場人物たちの心情の深まりが深く理解できるように作られている。

アンナ(ソフィー・マルソー)とヴロンスキー(ショーン・ビーン)の狂ったような恋心、カレーニン(ジェームズ・フォックス)の苦しみがしっかりと伝わってくる。ロシアの自然、モスクワやペテルブルグの貴族の館なども単に背景としてではなく、ドラマそのものとして描かれている。レヴィン(アルフレッド・モリーナ)とキティ(ミア・カーシュナー)も存在感がある。情緒をかきたてるチャイコフスキーの「悲愴」も実に効果的。

登場人物の誰もが、エゴにかられながらも、自分なりに他者を思いやり、それぞれの立場で必死に生きている。それが画面から伝わる。トルストイ特有の宗教観、大地への思いもしっかりと語られる。

とはいえ、せめて2時間くらいかけてもよかったのではとは思わないでもない。

 

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「日の名残り」 ジェームズ・アイヴォリー監督

 カズオ・イシグロの「日の名残り」は、話題になったころに翻訳を読んで、とても良い小説だと思った。抑制的でしみじみとしていて、しかも小説の仕掛けが実におもしろい。つい先日、なんとイシグロの「わたしを離さないで」がテレビドラマになると聞いて、そういえば、映画「わたしを離さないで」も、それどころか「日の名残り」も見ていないことを思い出して、このたび、見てみることにした。

 監督はジェームズ・アイヴォリー。多少の改変はあるが、とてもうまく原作を映像化している。アンソニー・ホプキンスが素晴らしい。確かに原作の語り手=執事はこの通りのイメージだった。イシグロの小説の大きな特徴は、語り手が本音を語らないということだと思うが、本音を表に出さない執事がうまく表現されている。映像もとても美しい。ミス・ケントンのエマ・トンプソンもみごと。しみじみとした感慨にふけりたくなる映画。映画を見た後、文庫版を購入して「日の名残り」を読み返してみたが、改めて映画化に感心した。

 

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「わたしを離さないで」 マーク・ロマネク監督

 実は原作も読んだことがなかったので、これを機会に、イシグロのほかの数冊とともに読んでみた(といっても、土屋政雄訳・ハヤカワepi文庫)。原作を読んだ時点では、読者が語りの中の引っかかる言葉を手がかりにして、少しずつ驚くべき状況を探り当てていくというこの小説の醍醐味を映画化するのは無理なのではないかと思ったが、映画を見て、とてもうまく処理していることに驚いた。とはいえ、やはり映像化すると、具体的に示さざるを得ないので、初めから種明かしがされてしまうことになってしまう。やむをえないことだろう。

 キャシーを演じるキャリー・マリガン、ルースを演じるキーラ・ナイトレイ、そして、トミーのアンドリュー・ガーフィールドがとてもいい。校長はシャーロット・ランプリング。

 ただ、このように映像化されると、「この子たちは、なぜ役割を放棄して逃げ出さないんだろう」「なぜ自暴自棄にならないんだろう」「なぜオリジナルをやっつけようと思わないんだろう」などの疑問がわいてくる。小説ではそのような疑問はわかなかったのだが。小説では、読者にそうした疑問を抱かせないように不思議な雰囲気をかきたてようとしているのだが、私のような雰囲気にのまれないタイプの人間は最後まで納得できなかった。

 

 ところで、日本で始まったテレビドラマ「わたしを離さないで」もみた。まだ2回目を終えたところだが、その感想も付け加える。

 イシグロの原作とかなり異なる。主人公(綾瀬はるか)とその女友達(水川あさみ)との葛藤はかなり拡大されているし、校長(麻生祐未)が生徒たちに語る内容も原作にはない。だが、その改変の手際の良さに私はとても感心した。

日本の舞台を移している時点で、原作に忠実にドラマ化するのは難しい。また、この小説は、映像にすると必然的に「ネタバレ」になってしまうという宿命を背負っている。したがって、原作を改変するのは、ある意味で当然だ。日本人が原作を読んで納得できないことを、日本人でも納得がゆくようにうまく改変している。そして、なるほどそのように改変しても、それなりに辻褄も合うし、そもそも原作の意図もそこにあったのかもしれないと思わせるだけの説得力がある。かなり上質のドラマ化だと思う。この後を期待する。

私はテレビドラマを続けてみることはめったにないのだが、これは最後まで見ようかと思っている。

 

テレビドラマについて触れたついでに、私が唯一、ずっと見続けているドラマ「相棒」について感想を語る。

実は最近の「相棒」のシナリオの不自然さを大変残念に思っている。反町隆史が相棒になった14回目のシリーズ、私はそれなりに期待していたのだが、役者としての反町のよさも生かせず、そもそも反町演じる冠城の存在意味もあまりなく、犯罪動機も物語の展開も結末もほとんど毎回あまりに不自然。登場人物たちのキャラクターも揺れている。「ああ。今回もつまらなかった」と思う回が続いている。長期間放送するうちにネタが尽きたということなのだろうか。

このドラマは、テレビをあまり見ない私が「毎回予約」をしている唯一の番組なのだが、新しい回を見るごとに、次回は毎回予約の設定を解除しようかという思いにかられる。

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レティシア・モレノ ヴァイオリン・リサイタル 「ツィガーヌ」に興奮!

 2016122日、武蔵野市民文化会館で、レティシア・モレノのヴァイオリン・リサイタルを聴いた。素晴らしかった。興奮した。

 モレノはスペイン出身のかなり若い女性ヴァイオリニスト。30歳前後に見える。私は今回初めて名前を知った。

スペインを前面に押し出したプログラムで、衣装もスペイン風。まるでフラメンコの踊り子を思わせる。バラ色のドレスで足のところが大きく割れている。スタイル抜群。演奏もきわめて情熱的で、まさしくスペイン風の歌いまわしがふんだんに現れる。ピアノ伴奏は鈴木慎崇。

 最初はトゥリーナ作曲のヴァイオリンとピアノのための「サンルーカルの娘の詩」。トゥリーナは20世紀前半のスペインの作曲家だというが、とてもおもしろい。第3楽章の情熱と第4楽章の叙情に圧倒された。次はドビュッシーのヴァイオリン・ソナタ。フランスの曲とは思わないようなスペイン的なアクセントが強調される。くっきりしたヴァイオリンの音色で、アクセントが強い。こんなドビュッシーは初めて聴いた。根っからのドビュッシー好きは抵抗を感じるかもしれないが、私のようなドビュッシー不感症的人間にはこれはむしろ心を引かれる。フラメンコを見ると、「見得を切る」としか表現できないような瞬間があるが、それと同じようなアクセントがモレノのヴァイオリンにはある。それがとてもおもしろい。

 後半には、グラナドスのヴァイオリン・ソナタとファリャのスペイン民謡組曲、そしてラヴェルの「ツィガーヌ」。前半にもまして素晴らしかった。とりわけ、「ツィガーヌ」は絶品。生真面目ではなく、かなり自由に音を動かす。が、そのすべてがぴたりを決まっている。すさまじいテクニックとキレの良い音。振幅の大きい音楽を作っていくが、品が悪くならない。魂を揺り動かす。感動した。すごいヴァイオリニストだと思った。鈴木慎崇のピアノもヴァイオリンをしっかりとサポートしながらも、はっとさせるような美しい音色を紡ぎだす。素晴らしい掛け合いだった。

 アンコールは、グラナドスのスペイン舞曲第5番「アンダルーサ」とファリャのスペイン民謡組曲より「ナナ」とのこと。もちろん、スペイン音楽に疎い私にとっては未知の曲だったが、とてもおもしろく聴いた。

 武蔵野市民文化会館では、しばしばこのように一般には名前を知られていない若手の演奏家が圧倒的な演奏を聴かせてくれる。音楽の喜びを存分に味わった。

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ライブビューイング「ルル」 ふつうの女の悲劇?

 2016年118日、関東地方に大雪。午後は雪もやみ、都心では雪だまりもなくなっていたが、交通機関は乱れていた。夕方から東銀座の東劇でMETライブビューイング「ルル」をみた。客の入りが悪かったのは、そのせいもあるだろう。

 歌手陣に関しては、言葉をなくすほど圧倒された。なんといっても、ルルを歌うマルリース・ペーターセンの声の美しさ、歌いまわしの見事さ、演技のすさまじさ、そして美しい容姿。ほれぼれする。この難しい歌をまったく無理なく歌い上げる。ゲシュヴィッツ伯爵令嬢を歌うのはなんとスーザン・グラハム。おずおずとして一途な女性をうまく歌って、演技も素晴らしい。私の大好きな歌手の一人だ。シェーン博士と切り裂きジャックを歌うのはヨハン・ロイター、ジゴルヒはフランツ・グルントヘーバー、アルヴァはダニエル・ブレンナ、力技師はマルティン・ヴィングラー。いずれも圧倒的な歌唱力と演技力。それぞれの役の最高の歌手が集結している。

 ウィリアム・ケントリッジの演出もとてもおもしろかった。ルルを描いた絵(登場人物の一人である画家が描いたとされるもの。実際にはケントリッジ自身が描いたものらしい)が舞台上に映し出される。そこで、エロティックでグロテスクな世界が展開される。メトロポリタン劇場であるだけに、ヨーロッパのものほど過激ではないとはいえ、十分に説得力がある。紙袋の仮面をかぶった男女が黙役としても多く登場するが、私には、「予定調和を乱す不気味な存在、意味のない存在」に見えた。ケントリッジは、予定調和の中に生きている観客たちにそれを乱す世界を見せつける。

 ここで描かれるルルはエロスに狂った女でも、稀代の悪女でも、悲惨な生い立ちの哀れな犠牲者でもない。衝撃力がないという批判もあるかもしれないが、これはおそらくケントリッジ自身の決断なのだろう。「等身大のルル」とでもいうか、むしろ「ふつうの女」として描かれている。愛を求め、幸せを求めるふつうの女がちょっとしたことで悪女になり、犠牲者にもなる。それとともに世界もバランスを崩して予定調和の世界から外れていく。

 指揮はローター・ケーニクス。レヴァインが降板したための代役だとのこと。レヴァインだったら、もっと鮮烈な演奏だったのかもしれない。

 ただ正直に言うと、これを見ながら、私の「ルル」に対する勉強不足を感じた。「ヴォツェック」は高校生のころからベーム指揮のレコードで聞いてきたが、「ルル」についてはあまり触れたことがない。もちろん、実演を見たこともあるし、CDDVDは何枚か持っているが、聞きこんだわけでもないし、セリフも十分に理解しているわけでもない。今回もよくわからない点がいくつもあった。もう少し理解を深めたいと思った。

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マフマルバフ監督「独裁者と小さな孫」 絶妙な距離感

モフセン・マフマルバフ監督の映画「独裁者と小さな孫」(ジョージア・フランス・イギリス・ドイツ合作)をみた。とてもおもしろかった。

残酷で横暴な独裁者(ミシャ・ゴミアシュビリ)が支配する国で革命が起こる。独裁者は変装してわがままな孫(ダチ・オルウェラシュビリ)とともに政府軍と革命軍が戦っているさなかを逃げ惑うことになる。そうするうちに、いかに自分が国民をひどい目にあわせていたのかに気付く。だが、あと一歩というところで正体が暴かれ、孫は助けられたものの、独裁者は殺されようとする。そこで映画は終わる。

敵地を逃げ惑いながら体験する様々な出来事、その人間模様が描かれる。いわゆるロードムービー。革命の混乱期という設定だけに、主人公だけでなく、出会う人間たち全員が切羽詰まった状況にいる。必然的にストーリー的にもサスペンスにあふれ、人間性の暴かれる状況になる。婚礼の日、新郎や家族の前で連れ去られ、兵士に強姦された後、助けてくれなかった家族をなじってついに殺される女、独裁者とかつてかかわりを持った売春婦、政治犯として牢獄で5年間過ごしたあと、必死の思いで妻のもとに帰って、妻がほかの男の子どもを作っているのを知って自殺する男(そのやり取りが、男の顔の表情と声だけで表現される)など、それぞれのエピソードが鮮烈。

マクマルバフの旧作「カンダハール」を思い出す。これはタリバーンの支配するアフガン地域を女性が一人で妹を探しに行く物語だった。今作は、主人公が決して善人ではなく、物語の中でもかなり悪辣なことをするうえ、最後まで心から改心しているわけではないこと、そして、わがままで嫌味な、しかしなかなかに可愛いげのある孫を連れている点で、いっそう手が込んでいる。

つまり、観客は二人の主人公に心の底から感情移入できるわけではない。独裁者の強権ぶりを見せつけられているので、最後に虐殺されてもやむを得ないと思う。孫のほうも、かなりわがままなので、観客の多くがこの孫も少々痛い目に合うべきだと思ってみるだろう。マフマルバフ監督は安易に感情移入させることを拒んで、むしろ皮肉に描いていく。観客と二人の主人公の距離感の作り方が絶妙。それだけにいっそう現実社会の複雑さ、難しさを感じる。イラクやリビアできっとこのようなことが起こったのだろうと想像できる。

映像は実にリアル。荒野での兵士たちの動きなどは、現実そのものに思えるほど。しかも映像が美しい。ジョージア(かつての呼び方では、グルジア)で撮影されたのだろうか。私はずっと引きこまれてみた。モフセン・マフマルバフの映画は「カンダハール」と「パンと植木鉢」「セックスと哲学」をみたが、いずれもおもしろかった。が、私としては今作が一番気にいった。

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インキネン+プラハ響 美しい音の世界

 2016112日、武蔵野市民文化会館でピエタリ・インキネン指揮、プラハ交響楽団の演奏を聴いた。

 曲目は、前半にスメタナ「モルダウ」、シベリウス「フィンランディア」、ブラームス「ハンガリー舞曲集」第1番・第5番、ドヴォルザーク序曲「謝肉祭」、「スラブ舞曲」第8番・第10番。ニューイヤーコンサートとのことで、前半盛りだくさん。後半にドヴォルザークの交響曲第6番。アンコールは「ラデツキー行進曲」。

 インキネンはきわめて知的でドラマティックな指揮ぶり。プラハ交響楽団は、音自体は東欧的なふくよかさと古めかしさを感じさせるが、実に繊細な美しい音でありながら、とてもダイナミックに音が鳴り、十分に切れがいい。とてもいいオーケストラだと思った。「モルダウ」を聴いた時点で、素晴らしい演奏だと思った。起伏がありドラマティックでしなやか。

ただ、続く曲も大差ない雰囲気。ニューイヤーコンサートということもあるのかもしれないが、つぎからつぎに曲が進んでいく。もっと一曲一曲の曲想の違いを明確にしてじっくり聞かせてほしいと思った。

インキネンは情念に身を任せるタイプではなさそう。「フィンランディア」もシベリウス特有の情念の爆発を聞かせようとしない。ドヴォルザークも抒情を排した雰囲気。十分に盛り上がるが、かなりドライ。決して嫌いなタイプの演奏ではないが、別の作曲家の曲を同じ雰囲気で演奏されると、ちょっと抵抗を感じる。

 後半の交響曲第六番も同じような雰囲気だった。むしろ、意識的に抒情に流れるのを避けているのだと思う。感情を込めるのではなく、音そのものの美しさや響きで聴かせようとしている。それはそれでとても説得力がある。細部もしっかりしているし、バランスもとれている。ただ、やはりドヴォルザークはもう少し抒情的に演奏してほしい・・・と思うのは先入観だろうか・・・。

 大感動とまでは行かなかったが、プラハ交響楽団がとても良いオーケストラだと知ったし、インキネンという指揮者もとても興味を持った。日フィルの首席客演指揮者になったというので、もう少し聴いてみたい。

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文芸ドラマのDVD「赤と黒」「チボー家の人々」「戦争と平和」「アンナ・カレーニナ」「現代の英雄」

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 先ごろ、
KADOKAWAから拙著「読んだつもりで終わらせない名著の読み方」を出した。(そろそろ、この本の講義DVDTSUTAYAでレンタル開始になる。自分では絶対見たくない映像!)。その執筆の際、必要があってロシアのテレビ・ドラマ「罪と罰」のDVDを見てみた。それまで、実は文芸作品の映像化にはあまり強い関心を持ってはいなかった。どうしても映像作成者の解釈が入るので、原作とは異なったものになる。あまりみたくないと思っていた。ところが、「罪と罰」をみて驚嘆。きわめて原作に忠実。しかも、19世紀ロシアの市場の雰囲気、ペテルブルクの街角など、現代の日本人には想像の及ばないものだった。

 そんなわけで、この際、文芸ドラマを見てみようと思って、まとまった数のDVDを買い集めた。少し時間ができたので、何本かみた。感想を書く。

 

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「赤と黒」
1997年 フランス、イタリア、ドイツ合作。ジャン=ダニエル・ヴェラーゲ監督

 スタンダール原作の「赤と黒」をドラマ化したもの。DVD2枚組。「赤と黒」は中学生のころと大学生のころに読んだきり。当時はとても感動した。ジュリアン・ソレルに憧れた。ジェラール・フィリップ主演の映画もみた。今回みたものは、それよりももっと原作に忠実。1830年の7月革命前のフランスの状況もよくわかる。映像も美しい。

 主演のキム・ロッシ・スチュアートを見ていると、なるほどジュリアン・ソレルはこんな容姿のこんな雰囲気の男だったのだろうと納得させられる。レナール夫人のキャロル・ブーケもぴったり。実に清楚で美しい。マティルドのジュディット・ゴドレーシュは顔の造作は私のイメージとは異なったが、演技については文句なし。後半、夢中になってみた。ただ、昔、若いころにスタンダールの原作を読んだときには完璧に納得した記憶があるが、こうして映像を見ると、レナール夫人を狙撃した後のジュリアンの心の変化に十分に納得できない。また原作を読み返したくなった。

 

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「チボー家の人々」 
2003年 ジャン=ダニエル・ヴェラーゲ監督

 マルタン=デュ=ガールの小説のドラマ化。DVD4枚組。原作の翻訳は20代のころ読んだ。とてもおもしろい小説だと思ったが、特に人生上の影響を受けたわけではなかった。その後、一度も読んでいないので、細かいところはまったく覚えていない。だから、原作との違いなどについてまったく何も言えない。ただ、客観的で冷静な筆致で情熱的な心を描くマルタン=デュ=ガールの特質を、この映像は十分に伝えていると思った。

 昔読んだときには情熱的な反戦主義者ジャックに共感したが、今みると、やはりジャックの理想主義はあまりに甘い。ただ、その甘さをマルタン=デュ=ガールは意識的に描いているだろうと気づく。一次大戦前のフランスの状況が映像化されているので、そのころの風俗や政治状況がよくわかる。

 この小説は二度と読み返さないだろうと思ってドラマを見始めたが、あれこれと原作がどうなっているのか気になる。

 父親役のジャン・ヤンネ, ジャック役のマルク・デディ、アントワーヌ役のジャン=ピエール・ロリはとてもいい(アントワーヌにしてはちょっと老けすぎているような気がする)。ただ、もしかすると私の個人的な趣味の問題かもしれないが、女優陣にはあまり魅力を感じなかった。

 

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「戦争と平和」2007年 イタリア・ロシア・ドイツ・フランス・ポーランド合作 ロバート・ドーンヘルム監督

 ヨーロッパ諸国で作られたテレビドラマ。もちろんトルストイの原作に基づく。DVD5枚組。監督はロバート・ドーンヘルム。 

 私が「戦争と平和」を全編通して読んだのは中学生のころ一度だけ。それ以来、部分的に読んだり飛ばし読みをしたりはしたが、全編読み返したことはない。オードリー・ヘプバーンの出演するハリウッド映画(トルストイの跡形もないような映画だった)、ボンダルチュク監督のソ連映画(これはトルストイの見事な映画化だと思った)、そしてプロコフィエフのオペラは何度か見ている。おそらく二度とトルストイの小説「戦争と平和」を読むことはあるまいと思って、ともあれドラマを見ることにした。

 深く感動するわけではないが、原作を思い出しながら十分に感情移入して退屈せずに最後までみることができた。とてもよくできたドラマだと思う。私の覚えている限り、かなり原作に忠実。登場人物は、全体的に原作のイメージに近い。ナターシャ(クレマンス・ポエジー)もアンドレイ(アレッシオ・ボーニ)もボルコンスキー侯爵(マルコム・マクダウェル)も、それ以外のほとんどの役が小説から出てきたかのよう。ただ肝心のピエール(アレクサンダー・バイヤー)は少し「イケメン」すぎる。

 とはいえ、全体的には本当に見事に当時のロシアが再現されている。かつてのソ連映画に比べると戦場シーンなどは少々地味だが、それでも貴族の館、舞踏会、戦場、帝政ロシアの街並みなども見事に映像化し、ストーリーや人間関係をうまく整理している。原作の味わいを思い出すことができた。

 

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「アンナ・カレーニナ」 1977年 イギリス 
BBC バジル・コールマン監督

 映像の宿命というべきか、主要な登場人物は容貌的にも魅力的でなければならない。そうでないと、感情移入できなくなってしまう。このわかりきったことを、改めて感じさせられた。

アンナ役のニコラ・パジェットはとても美しく、愛に苦しむ女性を見事に演じているが、ヴロンスキー役のスチュアート・ウィルソンが私には魅力的には見えない。もしかすると、このような顔の作りと雰囲気が原作の時代の美男なのかもしれないが、現代の私にはむしろ嫌味な男に見える。そうなると、この不快な男を愛するアンナの気持ちがわからない。必然的にドラマにも共感できない。カレーニンのほうがまだしも魅力的に映る。アンナの愛に説得力を感じないので、世間から孤立してまで自分の愛を貫こうとする様子が愚かに見えてしまう。アンナと対比的に描かれるリョーヴィンのイメージも私が抱いていたものとはずいぶん異なる。結局、私は登場人物の誰にも感情移入できなかった。異化効果を狙ったドラマでない限り、これでは面白いと感じない。DVD2枚だが、時間にすると、365分。退屈を禁じえず、途中から再生速度を上げた。

あまり起伏はないし、いかにもテレビドラマであって壮大なスケールにならないが、淡々と小説世界を描いて盛り上げていくところは見事。監督のバジル・コールマンの手腕を感じる。しかし、「映像はキャスティングが大事」というきわめてプリミティブな感想を抱いた。

 トルストイの「アンナ・カレーニナ」は高校のころに一度読んだだけ。実はあまり好きな小説ではない。このところ、何本か文芸作品の映像をみて、「原作を読み返したい」という気になったが、この作品についてはあまりそのような気持ちにならなかった。

 

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「現代の英雄」
2006年 ロシア アレクサンドル・コット監督

 とてもおもしろかった。時間軸の錯綜した原作を手際よく整理し、人生に退屈し、心の空虚を満たすために無鉄砲で破滅的な行動をとるペチョーリンを生き生きと描いている。ペチョーリンはプーシキンのオネーギン以上に鼻持ちならない人物なのだが、とても魅力的。その苦悩も伝わってくる。19世紀のロシア文学の一つの典型を現代によみがえらせている。DVD3枚組だが、まったく退屈することはなかった。

 イーゴリ・ペトレンコが実にいい。容姿もペチョーリンにぴったり。なるほど、こんな男なら女たちが寄ってくるだろうし、自分や他者の命にこだわらずに決闘を繰り返すだろう。ヴェーラ役のエルヴィラ・ボルゴワ、メリー役のエフゲニア・ローザは私には絶世の美女に思える。

 この映像もまた、原作を読んだだけでは日本人にはまったく想像できないロシアの辺境地域(カフカス)を見せてくれる。実は私がこの原作を読んだのは大学院生のころだったが、このような風景を想像していなかったように思う。その意味でもありがたい映像ともいえそう。

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正月にみた映画ソフトなど 「街の恋」「愛のめぐりあい」「東京物語」「秋日和」「秋刀魚の味」「ライフ・オブ・パイ」

正月三が日、母のいる施設にほぼ毎日、ちょっとだけ寄り、そのほかは無理をしない程度に仕事をして、音楽を聴いたりテレビ番組を見たり映画などのDVDを見たりして過ごしていた。

 何本か購入した映画DVDBS放送を録画した映画を見た。感想を書く。

 

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「街の恋」 
1953年 イタリア映画

 1953年のイタリアのオムニバス映画。ハリウッド映画のような華やかな恋ではなく、市井の人々の恋をドキュメンタリータッチで描こうとするもの。素人を使って、実名で演じてもらっているという(ただし、自殺者、売春婦などを扱っているので、本当に実名かどうかかなり疑問に思う)。監督は、当時若手だったカルロ・リッツァーニ、ミケランジェロ・アントニオーニ、ディーノ・リージ、フェデリコ・フェリーニ、フランチェスコ・マゼッリ、アルベルト・ラトゥーダ。やはりフェリーニとアントニオーニの担当部分がずば抜けている。その後の名作をほうふつとさせる短編だ。

 フェリーニの作品は明らかなフィクション。不思議な結婚相談所で無垢な女性に出会う話。異界の中に現れた無垢の存在。後年のフェリーニの雰囲気がすべて現れる。映像美にも圧倒された。アントニオーニの作品も目を引く。3人の自殺未遂者の心理を描く。ノンフィクションの形を取りながらも見事な演出。

 

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「愛のめぐりあい」 ミケランジェロ・アントニオーニ監督 
1995

 アントニオーニが晩年にヴィム・ヴェンダースの協力を得て監督した映画。アントニオーニはパゾリーニやワイダとともに私の大好きだった映画監督だが、この映画は見たことがなかった。今回みて大傑作だと思った。

 ジョン・マルコヴィッチがアントニオーニの分身として登場。目撃したり空想したりする4つの愛と性の物語を語る形式のオムニバス映画だ。愛し合えそうで愛し合えない、あと少しで肉体の奥まで理解し合えそうでできずにいる男女。閑散とした港町、がらんとした石造りの街。孤独感、空虚感、むなしさ、そして空回りする愛の衝動。それをひしひしと感じる。四つの話の四人の女優(イネス・サストル、ソフィー・マルソー、ファニー・アルダン、イレーヌ)が素晴らしい。もちろん、マルコヴィッチをはじめとする男優たちもいい。

舞台になっているフェラーラやポルトフィーノ(40年近く前、一度訪れたことがある)に行きたくなった。マルチェロ・マストロヤンニとジャンヌ・モローが特別出演。懐かしい!!

 

「東京物語」 1953年

 昨年、原節子追悼番組としてNHK・BSで放映されたもの。この映画を久しぶりにみた。すべての場面が絵画のように美しい。小津の代表作であることは間違いない。すべてのセリフが紋切り型であって、これまで何度も聞いてきた日常の言葉なのだが、それを用いながら、映像によってそれぞれの人物の心情を示す。それぞれの人物の立場、考え方が手に取るようにわかる。

 笠智衆はまだ40代のはず。70代にしか見えない。妻役の東山千栄子、息子役の山村聰、大坂志郎、娘役の杉村春子、香川京子、いずれも大げさではなく、日常に根付いた演技。とりわけ杉村春子が凄い。戦死した次男の妻役の原節子はちょっとわざとらしい演技だが、最後、父親への告白によって、そのわざとらしさも納得できる作りになっている。

 実は小津安二郎はあまり好きではない。まだるっこしいし、ウェットな雰囲気を感じる。が、これは間違いなく名作だと思う。かなり感動してみた。

同時に、もしかしたら、昨年、高齢のために東京に移住した両親はこの老夫婦と同じような気持ちではなかったのだろうかととても気になってきた。

 

「秋日和」 小津安二郎 1960年

 京橋のフィルムセンターで何度か小津特集が行われた。その時、小津の映画のほとんどすべてみたつもりだった。が、今回、原節子追悼番組としてNHKで放送されたのをみると、どうもこれは初めてみるような気がする。とはいえ、私がフィルムセンターに通っていたのは40年以上前なので、すっかり忘れたのかもしれない。

 原作は里見惇。いかにも小津らしい映画。ストーリーも演出も小津流。3人の大学時代の友人(佐分利信、中村伸郎、北竜二)が、おせっかいにも亡き友の未亡人(原節子)とその娘(司葉子)の縁談をまとめようとする。そこで誤解が生じ、小さな波乱が起こるが、ともあれ娘と相手(佐田啓二)は愛し合うようになって話がまとまる。未亡人は亡き夫を思いつつ、娘を送りだして一人で生きていく。笠智衆、岡田茉利子、渡辺文雄、沢村貞子、岩下志麻らの懐かしい顔が見える。

 これといったメリハリのない話で、スローテンポで、ふつうの映画からは不自然な真正面からのショットの連続など、かなり一本調子な演出なのにおもしろく見られるのはさすが。無責任に話を進める上流の男三人とアパートに住む母娘の対比がさりげなく描かれている。

 現代からみると、濃密な人間関係が印象的だ。家族、会社が共同体としてしっかりと成り立っている。お互いが知り合いで、縁談などのプライベートなことを話す。アパートのドアをふだん締めずにいるのもちょっと驚いた。母親(原節子)が最後にアパートの鍵をかける場面が残された母親の孤独を描く行為として意味を持っている。確かに、昔はこうだった。こうだったから、結婚するのが当たり前で、少子高齢化という大問題もなかった。

 私は1951年生まれなので、この映画は私が小学生のころのものだが、映される風景は私が小学校見た光景とはかけ離れている。私は九州の田舎で育ったので、東京のこのような近代的な建物は1970年に東京に出るまで見たこともなかった。私の知っているのは、むしろ1953年の「東京物語」に出てくる光景、しかもどちらかというと最初と最後の老夫婦の住む尾道のほうに近い。

 ただちょっと気になったのは、原節子が指にマニュキュアを塗っていること。ずっと和服で過ごしているが、けっして古風な人間ではなく、むしろ進歩的、西洋的な人間という内面を指に示しているのかもしれない。

 もう一つ、人に関して「ある・ない」という表現が多用されるのも気になった。この映画に限らず、小津の映画を見ると、登場人物の多くが「恋人があるんですか」「いえ、ありません」「なかなかいい社員があるんですが」「あの夫婦には赤ん坊があるの」などという言い方をする。小津特有なのか、それとも当時このような表現が多かったのか。

 

「秋刀魚の味」 1962年

 これも久しぶりにみた。妻をなくし、年頃になった娘を嫁に出す男の話。小津がしばしば描いてきたパターン。何人かの役者は異なるが、「秋日和」と同じような三人組の同級生がおせっかいに縁談を進めることで成り立っている。いつものようにありきたりのストーリーをあまりに卑俗でありきたりのセリフでつなぐ。が、特異な映像と情緒で見事に雰囲気のある作品に仕上がっている。人間模様がきめ細かく描かれる。

 笠智衆の生活感もいいし、長男役の佐田啓二もいいが、やはり男の私としては岩下志麻と岡田茉莉子の美しさに呆然とする。ともにきっぱりとした現代の女性を演じている(といっても、今からみるとかなり古風だが)。婚期を逸して色気を失った中年女を演じる杉村春子にも圧倒された。ついでに言うと、昔みたとき、当時から伝説の美人女優だった原節子について、「大人になったら、この人を絶世の美人と思えるようになるのだろうか」と思っていたが、60歳を過ぎて「東京物語」「秋日和」をみても、まだそうは思えない。

 

「ライフ・オブ・パイ トラと漂流した227日」 2012年

 正月のテレビ放映で見た。封切時から関心を持っていたが、行きそびれていた。テレビで放映されるのを知ってみた。とてもおもしろかった。いや、それ以上に衝撃的だった。

 ヤン・マーテル原作の小説に基づくアン・リー監督のアメリカ映画。トラと漂流したというちょっと哲学的な動物との交流物語かと思っていたら、まったく違っていた。漂流するまでに様々な伏線がある。漂流とはあまり関係なさそうだと思ってみていたことがらがすべて意味を持ってくる。ともあれ、漂流の場面も実におもしろい。CGも見事。理性的な関係を作れない動物との駆け引き、神と自然と生命のつながり、人を食う島などを語る映像が素晴らしい。そして、トラとの漂流が終わった後の「種明かし」! 

 とはいえ、実はまだよくわからないことが多い。気になってネットで調べてみて、リチャード・パーカーというトラの名前の由来などを知って再びびっくり! 

 原作を読んでみたくなった。ただ、本を購入しても、読むべき本がたまっているので、そこまで手を付けられるかどうか。ともあれ、とても興味をひかれる小説だ。

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高齢者問題・テロ問題

 

 このブログにはしばらく音楽のことばかり書いてきた。たまには社会問題についても書こう。というわけで、しばらく前から考えていた高齢者問題とテロ問題について、正月を機会に少しまとめてみた。

 

 

 

・高齢者の環境を変えるとよくないということ

 

 強い自責の念とともに、高齢者問題について考えていることがある。

 

「高齢者の環境を変えるとよくない」といわれる。父の状況を考えると、まったくその通りだ。90歳を超えても70歳代に見えていた父が、大分県日田市から東京都多摩地区の高齢者施設に住む場所を変えたところ、たった8か月で寝たきりに近い状態になり、昨年の10月に亡くなった。まさしく環境を変えたとたんに気力をなくして死んでいった。

 

「環境を変える」ということを、私は「新しい友人の獲得」「出かける場所」「食住」というように考えていた。だから、それに気を付ければ何とかなるだろうと考えていた。しかし、最も大きな問題はそんなことではなかったとあとで気づいた。

 

 環境を変えることで最も大きな問題は、「特別な存在ではなくなる」ということだと思い知った。多くの人が地域でそれぞれに一目置かれ、自分のポジションを得て暮らしている。それなりに「特別の存在」という意識を持っている。だが、土地を離れると、周囲は未知の人ばかりになる。すると匿名の存在になってしまう。特別な存在でなくなることは、とりわけそれなりの地位を得ていた人間には耐えがたいことなのだ。

 

 高齢者問題で最も大事なのは、一言で言えば、一人一人の高齢者を特別扱いする状況を築くことだと思う。現在は公平性と効率性のために、高齢者施設では、特定の人を特別扱いしないようにしている。だが、それではいつまでたっても高齢者は不満を抱くだろう。もっと高齢者が自慢をし、「自分は特別の存在だ」「私はほかの誰よりも愛されている」という意識を持てるような環境を作るべきではないかと思う。

 

 そして、それは高齢者問題に限らない。「一億総活躍社会」というのは、全員が実際に活躍する社会である必要はない。幻想でもいい。「私は特別な存在なのだ」とみんなが思えるような社会、そして、人々が相互に「あんたは特別な人間なんだ」といいあえるような社会だと思う。

 

 

 

・テロについて

 

 パリでのテロの後、「昔からヨーロッパに住むキリスト教の白人とイスラム系住民との間の格差がテロの温床になっている。テロを撲滅するには、そのような格差をなくす必要がある」という論がしばしば聞かれる。

 

もちろん、格差をなくすほうがよい。格差が治安を悪化させ、経済を停滞させる。だが、そのような格差がテロを生んでいると考えるのは間違いだと思う。そのような格差がテロの温床だとは私は思わない。

 

どんなに良い社会を作っても、1万人に1人くらいは過激な思想を持つ人間が現れるだろう。10万人に1人くらいは過激な思想を実行しようとする人間が出てくるだろう。むしろ、害悪となるような存在がごく稀にいるほうが、ある意味で健全な社会だった。そのような人間までも排除しようとすると、生きにくい社会になってしまう。これまでは、10万人に1人くらいそのような人間がいても、それぞれが孤立し、しかも武器を持っていなかったので、テロに結び付くことはなかった。

 

しかし、10万人に1人といっても、10億人の中では1万人になる。過激な活動家1万人がネットで集結し、連絡し合い、ネットを参照して兵器を作り、一般の民衆を攻撃し始めたら手に負えなくなるのは目に見えている。

 

ネット世界が教えてくれたのは、ごく少数の人間であっても捨て身で攻撃すれば社会に大きな打撃を与えられるということだった。そして、ごく少数の人間が捨て鉢で攻撃することによって世界に大きな打撃を与えようという思想は、まさにテロリズムの考え方だ。

 

ネットの築いた世界がまさにテロになじむものだったといえるだろう。しかも、ネットによって、テロリストが大義を掲げることができるようになってしまった。それにおもしろがって呼応する人々が増殖するという状況にもなってしまった。ネット自体がテロリストの持つ最大の武器になってしまった。

 

端的に言うと、テロを作り出しているのは格差ではない。むしろネット、そしてグローバル化だ。世界中の孤立した人にネットという最大の武器を与えたことだ。これは格差をなくしたところでどうにもならない問題だ。ISへの空爆を繰り返したからといってどうにもならない問題だ。

 

 これからの社会がどうなるのかわからない。しかし、いずれにしてもこれまで理想とされてきた民主主義の考えを覆すだろうことは間違いない。これまで民主主義は、多数による決定という原則と同時に、少数者尊重という原理を打ち立ててきたが、テロの横行するネット社会ではそのような生ぬるいことは言えなくなる。

 

 もしかしたら、インターネットは核兵器以上に人類にとって危険な発明だったのかもしれない。

 

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