マニラの旅
昨日(2016年2月16日)からマニラに来ている。2泊3日の一人旅。
東南アジアは、1981年のタイ・マレーシア・シンガポール旅行を皮切りに、インド、ラオス、ベトナム、カンボジアを訪れた。前々から行きたいと思っていたのが、インドネシア、ミャンマー、そしてフィリピンだった。昨年、マニラ旅行の計画を立てていたが、両親の体調が悪化して諦めた。今年、母の体調が安定しているうちにともあれ強行した。毎日、日常のあれこれの気苦労が絶えない。暑いところに行って自分の中の鬱積したものを燃やしたいと思った。
ANA機で13時半ころにマニラ到着後、タクシーに乗ってホテルまで行っただけで、ここが油断のならない都市であることを痛感した。
空港で一般のタクシーに乗ると危険なので、「クーポンタクシー」に乗るようにとガイドブックにあったので、空港内を探したが見つからなかった。タクシー乗り場の近くに職員っぽい若い女性がいたので、「クーポンタクシーのチケットはどこで買える?」と聞いたら、てきぱきと事務的に売ってくれた。特に警戒せずに買った。2250phpだった。「高い!」という表情をしたら、「ホテルのあるエルミタ地区は遠い」といって、地図で示してくれた。が、車に乗った後考えてみると、これは途方もなく高い。日本円で5000円ほどになる。きっとぼられたのだと思う。確か、ガイドブックには500phpくらいと書かれてあったような・・・が、まあ無事についたので良しとしよう。
交通事情がまたすごい。多くの道に車線がないに等しい。車線が減ったために一時的に車線のないところで出口に車が殺到しているのかと思っていたら、そのような道が何か所もあった。車があちこちですし詰め状態になっている。警笛を鳴らしながら、数センチの間隔で割り込み、少しずつ前に進んでいく。そこをバイクや人が割って入るので、ますます大混乱。広い道に出たら車線が機能していたが、それでもそれを無視する車は多い。赤信号に変わっても平気で入ってくる車もかなりいる。まさしく無秩序。
81年に初めてバンコクを訪れた時を思い出す。その後、バンコクは都市化され、日本と変わらないようになったが、かつてはこのような雰囲気だった。道路の横にはほとんどが一人だけの店主が台を置いて食べ物や飲み物を売っているだけの小さな露店が並んでいる。あまりおいしそうには見えない(バンコクとそこが違う)。道は散らかっており、コンクリートがむき出しになったり、土が見えたりしている。ところどころ、歩道の地べたの日陰になった部分に横になっている人がいるが、昼寝しているのだろうか。
ホテルには少しがっかりした。マニラ行きを思い立ったとき、空いた日に飛行機の便があるかどうかを調べたところ、ほかのサイトではすべて満席になっているのに、DeNAだけは残席が2席あったので、ネットで見つけて大慌てホテル付のセットを決めた。ホテルに星が三つついていたので、ヨーロッパで言う「三ツ星」だとばかり思って、その安さに驚いていたら、ほかのサイトで見ると「一つ星」だった。星が三つついていたのは推薦度だったのかもしれない。料金のわりに快適ということなのだろう。が、浴槽はないし、お湯はぬるいし、エレベーターはないし、室内がやたら暗いし、建物自体も新しくない。私は以前に比べてかなり経済的に余裕ができたのに、なんという馬鹿なことをしてしまったのだ!と、強く後悔していた。
15時ころにホテルに到着したものの、実はしばらくホテルにいた。日本にいるときから、マニラ市内観光の半日ツアーを探していたのだが、最低催行人数二人のところに申し込んでいたら、人数が満たないために直前にキャンセルになって、別のところを当たってもすべて申し込めなかった。市内観光ツアーに加われなかったら一人で市内を回ろうと思っていたのだが、空港からホテルまでのタクシーに恐れをなして、やはりガイド付きで市内観光をしたいと思った。ホテルにとどまって、日本のツアー会社とメールのやり取りをしていた。やっと、明日の市内観光ツアーに申し込めて、とりあえず安心。
夕方になってホテルを出て近くを散歩した。カラウ通りを歩き、リサール公園、リサール・モニュメントを見て、マニラ湾を見渡せる堤防まで行った。堤防から夕暮れの湾内をみた。夕焼けの空の下で海面も赤く染まって、その向こうに大型船がいくつかあった。その後、遠回りして、日本人からすると、ちょっと中に入って食べたり物を買ったりする気にならないような薄汚い店が続く商店街を歩いた。売っているのはほとんどが駄菓子のようなものや水などの飲み物だ。途中、ファストフードの中華の店で夕食を取ってホテルにもどった。セブンイレブンもマクドナルドもある。
歩いているうち、一人旅を満喫する気持ちになっていた。ワクワクして来た。そうだ、今回マニラに来たのは、昔のような貧乏旅行がしたかったからなんだ! と思った。ふらふらとほっつき歩き、名所を見るというわけでもなく、町の人の流れに任せて歩く。道に迷ったり、怪しい人に声をかけられたりするが、それが楽しい。その国なりの服装や態度で人々が働き、男女が歩き、子どもたちが騒いでいる。その横を歩いていく。貧しい国であればあるほど、必死に生活しているところが外から見える。そのような場を歩き、現地の庶民と同じ雰囲気を味わう。貧乏旅行をして自分の足で動いていないと、このような雰囲気を味わえない。
東南アジアに来て思うのは、道端に出ておしゃべりしている人々が多いことだ。男女とは限らない。女同士、男同士、集団もある。冷房がなくて、外のほうが涼しいのかもしれない。あちこちで子どもたちが集団になって遊んでいる。そういえば、昭和30年代の日本もこんな感じだった。店舗をきちんと構えているこぎれいな店にはすべてピストルを持った警備員がいるのは、それほど犯罪が多いということなのだろうか。
ホテルはもちろん高級ではないが、スタッフの感じもよく、とても清潔。星が三つつくだけのことはある。前の晩、家を朝の5時半ころに出たので、あまり眠っていない(飛行機の中でも、007の新作映画とMETライブビューイングの「愛の妙薬」を見ていた)。シャワーを浴び(寒くてぶるぶる震えていた!)た後、すぐに寝た。
2日目(2016年2月17日)
午前9時にガイドさんが迎えてきてくれて、リサール公園、サンチャゴ要塞、サン・オーガスティン教会、カーサ・マニラ博物館をみた。ホセ・リサールに対してのフィリピン国民の敬意を強く感じた。リサールについては、私は無知に等しい。50字でまとめられる程度の知識しかないが、偉大な人物であることは多少は理解できた。ただ、要塞や教会については、ヨーロッパのもっと本格的な、もっと歴史のあるものをたくさん見てきたものからすると、それほどの魅力は感じなかった。
ガイドさんは私よりも一歳年下の男性。日本語はそれほど上手なわけではないが、感じのよい方だった。一般的な説明のほか、マニラでの生活、苦労、同年代の男性としての生き方などについて話を聞いた。フィリピンの経済状況の厳しさ、宗教対立、人口増加問題を自分の実感として語ってくれた。生活のため中年になってから日本語を学んだ人であるだけに、インテリの建前でなく、庶民の実感を語ってくれる。
昼過ぎにホテルに戻って一休み。運動不足が続いているので、暑い中を歩くと疲れる。
15時まで休んで、エルミタ地区散策。ボコモ通り、アドリアティオ通り、パドーレ・ファウラ通り、ウナイティッド・ネイションズ通りなどを歩いた。昨日みたと同じような露店や小さな店が立ち並び、道路のあちこちに車が駐車されていて、まっすぐに歩道を歩けない。
ロビンソン・デパートに入ってみた。近代的なデパートがいきなり出現した感じ。中も清潔で明るく、日本などの先進国と変わらない。1981年のバンコクもこんな感じだったのが、だんだんと近代的なビルが増えていった。マニラも同じようになるのだろうか。ガイドさんの話を思い出すと、なかなか難しそうな気がする。
ロビンソン・デパートを出てすぐ、私と同年配に見える男にかなり流暢な日本語で話しかられた。手にチラシを持っていた。マッサージのチラシのようだった。無視して歩いてもどこまでも付いてくる。根負けして少し返事をしたのが悪かった。
「どこに住んでいるんですか? 私は池袋で仕事をして所沢にいました。マニラは危険ですから、私が案内しますよ。ここは私はよく知ってるんで」などといつまでも話しかけてくる。拒否の仕草をしたら、今度は、「せっかく日本の人を見つけて話しかけているのに、そんなことをするのは失礼だよ」といいだした。無視してもなおついてきて繰り返す。
「一人になりたくて散歩しているだけだから、放っといてくださいよ」といっても無駄だった。間違いなく5分以上は、同じ話を蒸し返しながらついてきた。「お願いだから、ひとりで散歩させてくださいよ」といっても付いてくるので、仕方なしに、「いい加減にしろよ。しつこくするな!」と周囲の人も驚くような声で怒鳴った。それでやっとあきらめたようだった。怒鳴れないような気弱な人だったら、いつまでも付きまとわれたことだろう。
その10分か20分後には、今度は中年の女に付きまとわれた。今度もまた日本語で、「お兄さん、何してるんですか。いい子いますよ」と声をかけられた。わからないふりをしてずんずんと歩いたが、この女も3、4分ついてきた。拒否しても拒否しても、めげずにあとから話しかけてくる。急ぎ足でやっと振り切った。
確かにマニラは危険なところだ。こんなに頻繁に付きまとわれたのでは一人で散策もできない。身の危険を感じて、ホテルに引き上げた。
かつても東南アジアを旅していると、日本語や英語で声をかけられることがよくあった。しかし、その場で声をかけられるだけで、付きまとわれはしなかった。付きまとわれると、身の危険を感じる。
それにしても、私を見てみんなすぐに日本人だとわかるのだろうか。なぜわかるのだろう。日本語のガイドブックを見ているわけでもない。先進国にふさわしい上等の服を着ているわけでもない(自慢ではないが、私はファッションには関心がないので、スーパーで安売りしているかなりダサい服を着ている!)。私は色黒なので、子どものころから東南アジア風、あるいは中国風の顔だといわれてきた。実に不思議だ。
このような出来事は実に腹立たしいし、東南アジアの現実として悲しいことだが、このような経験をするのもまた旅の楽しみの一つだ。
いったんホテルに戻って、暗くなりかけてからまた周囲を歩いた。ただ、本当に暗くなると危険な気がするので、早々に引き上げて、ホテルの近くで食事をした。
明日は午前中にホテルを出て、そのまま東京に戻る予定だ。
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