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ウエルベックの小説「服従」

 最近の私はかつてほどの大の読書家ではないが、もちろん仕事柄かなりの本を読む。ただ、書物はまさしく仕事そのものなので、それらについて書くと、手の内を明かすことになってしまって仕事に差し支えが出そう。そんなわけで、このブログを始めた時から、準備中の原稿の内容とともに、読んだ本の感想は書かないことを原則にしている。

 が、話題のミシェル・ウエルベックの小説「服従」(河出書房新社 大塚桃訳)を読んだので、少しだけ感想を書く。ウエルベックの小説は、以前、衝撃的という評判の「素粒子」を読んだだけだった。ぐいぐい引きこまれて読むというわけではなかったが、着想に驚嘆し、作者の思索の深さを感じた。今回、フランスのテロとの関係で「服従」が話題になっているので、先に「プラットフォーム」も読んでみたが、同じ印象。そして「服従」。

 ごく簡単にストーリーをまとめると、2022年、フランス社会がイスラム化し、選挙によってイスラム党が政権を握ったため、もっとも非イスラムと思われる19世紀の作家ユイスマンス(退廃的な人工楽園を描いていたが、晩年、宗教に目覚めてカトリックに帰依した)を研究していた優秀な大学教授も、だんだんと自ら社会に服従するようになり、「服従」を美徳とするイスラム教に改宗する・・・ということになるだろう。

 ニュースなどで取り上げられていたので、政治抗争をリアルに取り上げ、イスラム教の浸透の危険性を警告する小説かと思っていたら、むしろこれまでのウエルベックの小説と同じように一人の男の精神生活を描きつつ、人間のあり方、生きることの究極の意味について、ドストエフスキー的といってよいほどに掘り下げた小説といえそうだ。キリスト教や服従についての語り手とルディジェとの会話などは「悪霊」などの主人公たちの議論を思わせる。

そして、厄介なことに、ウエルベックのほかの小説と同じように「異化効果」が用いられている。作者は読者が語り手に同化するのではなく、語り手の行動に違和感を持ち批判を感じるように仕組む。読者は語り手に共感と批判を同時に持たなければならない。しかし、読み進むうち、どれがウエルベックの本音なのか、イスラムへの語り手の考えはどこまでウエルベック自身のものなのかわからなくなる。

ウエルベックの考えを読み解くための手がかりになりそうなのが、語り手のユイスマンスへの解釈なのだが、私はユイスマンスの小説のよい読者ではない。きちんと読んだのは「さかしま」だけで、ほかは必要があって飛ばし読みした程度。「服従」の中の語り手のユイスマンスへの言及には、私にはついていけないところ、判断に迷うところが多々あった。

少しユイスマンスの小説を読んでみて、「服従」を再読する必要があると思った。

いずれにしても、ウエルベックは政治状況、精神状況をからめたうえで、これまでの「個」を中心とする西洋的な価値観の崩壊について語っている。ヨーロッパの人間のみならず、世界の人間と考えなければならない問題だろう。

それにしても、最初からイスラム党が政権を握って強圧的な政策を進めていくという展開ではなく、国民の多くが反動勢力である国民戦線を警戒するからこそイスラム党が政権を握り、しかも、その指導者は温厚で知的であって国民の信頼を得ている・・・という近未来的な政治状況が実に恐ろしい。おそらくそうはならない(フランスではイスラムへの抵抗が強い)と思うが、なるほどこのような状況だったら十分にあり得るだろう・・・と思ってしまう。

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アンナ・ネトレプコ スペシャル・コンサート ネトレプコとエイヴァゾフ歌の力に興奮した

 2016321日、サントリーホールで開かれたアンナ・ネトレプコ スペシャル・コンサート in JAPAN 2016を聴いた。圧倒的な歌。興奮した。イタリア・オペラの歌の力のすごさをとことん味わった。

 私は2006年メトロポリタン・オペラの来日公演の「ドン・ジョヴァンニ」でネトレプコのドンナ・アンナを聴いて驚嘆してからのファン。もちろん、それ以前から美貌のソプラノという評判を知っていたが、その時の実演を聴いて、美貌だけではない群を抜いた名歌手だと知ったのだった。2010年のロイヤルオペラ日本公演では「マノン」と、幸運にも「椿姫」での代役での出演をみることができた。2012年にはザルツブルグに出かけて「ラ・ボエーム」やコンサート形式の「イオランタ」もみた。どれも圧倒的だった。

オペラ公演ではなく、一人のソプラノを中心にしたコンサートにしてはあまりの高額だが、このような興奮が得られるのなら決して高くない。ただ、チケットを購入した時にはプログラムが発表されていなかったので、ひそかに「四つの最後の歌」やロシアものやモーツァルトを期待していたのだが、イタリア・オペラのアリアが中心のプログラムだった。イタリアものをあまり聴かない私としては、ちょっと残念だった。

だが、実際に聴いてみると、いやはや本当にすごい。単に音程がよくて声が美しくて声がよく通る・・・というレベルではない。観衆を引き付ける力がすごい。声の演技力とでもいうのか。観客全員が歌に引き込まれ、歌の中に入りこむといって間違いないだろう。

私は三列目の左寄りで聴いたが、ネトレプコはますます声のコントロールが完璧になり、ますます表現力が増しているように思った。小さな声までもビンビンと響き、しかも最高に美しい。プッチーニ嫌いで、とりわけ「蝶々夫人」嫌いの私が「ある晴れた日に」に感動のあまり涙を流した。

テノールのユシフ・エイヴァゾフも共演。若い歌手だが、この人もネトレプコに劣らないほど素晴らしかった。強靭で美しい声。歌いまわしも見事。ただ、声のコントロールと表現力という面では、やはりほんの少しネトレプコよりも劣るように思った。

指揮はヤデル・ビニャミーニ、オーケストラは東京フィルハーモニー交響楽団。メリハリのきいた指揮で、東フィルも素晴らしい演奏。いつも以上に気合が入っているのを感じた。

曲目は、ヴェルディ、チレア、プッチーニ、ジョルダーノのオペラ・アリアと二重唱だったが、いずれも絶品。私はとりわけ「イル・トロヴァトーレ」のネトレプコの歌う「穏やかな夜・・・この恋を語るすべもなく」、「ある晴れた日に」、「アンドレア・シェニエ」の二重唱「貴方のそばでは、僕の悩める魂も」に感動した。度肝を抜かれたといってもいいほど。

もちろん、これ以外の曲(エイヴァゾフによる「星は光りぬ」)も素晴らしかった。アンコールは、カールマンの「チャルダーシュの女」、「誰も寝てはならぬ」、クルティスの「忘れな草」。最後には多くの客がスタンディングオーベーション。周囲の人が立ってもいつまでも意固地に座り続けることの多い私も、ついに立ち上がった。

いやはや、こんな超人的な歌を聴いてしまうと、ほかの人の歌が聴けなくなってしまう。そう思うほどのすごさだった。

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神奈川県民ホール「さまよえるオランダ人」 「夢オチ」には納得がゆかない

2016319日、神奈川県民ホールで「さまよえるオランダ人」をみた。びわ湖ホール、京都交響楽団、東京二期会、神奈川フィルなどの共同制作。指揮は沼尻竜典、演出はミヒャエル・ハンぺ。装置・衣裳はヘニング・フォン・ギールケ。

音楽についてはかなり満足できたが、演出については大いに疑問を持った。

オランダ人を歌うロバート・ボーク、ダーラントの斉木健詞、ゼンタの横山恵子、エリックの樋口達哉、マリーの竹本節子、舵手の高橋淳、いずれも大健闘。日本人を中心にしたメンバーでは、現在考えられる最高レベルだというのは間違いない。つい先日、新国立劇場での「サロメ」の世界最高レベルの歌手陣を聴いたばかりだったので、初めのうちは少し不満に思ったが、彼らと比較しても仕方がない。今日の歌手陣も見事にワーグナーの世界を現出した。

沼尻竜典指揮の神奈川フィルハーモニー管弦楽団も、オペラを演奏するのに慣れていないにもかかわらず、しっかりと仕事をしている。とはいえ、やはり金管楽器群の弱さ、全体的な緊密なアンサンブルの不足は感じざるを得なかった。

が、それよりも何よりも私はやはり演出に納得できない。海や船の映像は実にリアル。それについては特に文句はない。が、このオペラ全体が舵手の夢だったというオチは、あまりに単純だと思う。今回の演出が「夢オチ」だということは前もっての情報で知っていたが、いくら何でももう少しひねりがあるのだろうと思っていたら、単に「すべてが舵手の夢でした」というだけだった。

これではいったい2時間半を超すワーグナーの世界はいったい何だったというのだろう。命をかけての愛と救済の物語も、ワーグナーのうねる世界もすべてゼロになってしまう。これでは、2時間半舞台上で寝ていた舵手役の俳優さん(舵手を歌った高橋淳さんとは途中で入れ替わったようだ)も、たったこれだけの役割しか果たさないとすると、徒労以外の何物でもないような気がする。演出のハンペはよほどワーグナーがお嫌いなのだろう。そうとしか考えられない。演出家である以上、このオペラの現代的意義を抉り出してほしい。それをしないで、「すべて夢でした」では、演出という行為の拒否でしかないと私は思う。

ところで、特に第一幕の間、ピーピーという音が聞こえていた。まるでトラックがバックするときの警告音のような音。あれは何だったんだろう。かなり気になった。演奏する方々にも聞こえているのではないかと心配になった。

これまでのびわ湖と神奈川県民ホールの共同制作による「ばらの騎士」や「ワルキューレ」は本当に素晴らしかった。それに比べると、今回は不満が残った。

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オペラ映像「エレクトラ」「タンホイザー」「セヴィリアの理髪師」

 私は多摩大学で入試委員会の一員であるため、2月、3月も入試業務が続いて、いつまでも春休みらしい気分になれなかった。先週あたりから、やっと私の担当は終わり、少し楽になってきた。

 何本かオペラ映像をみたので、感想を書く。

 

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リヒャルト・シュトラウス「エレクトラ」 ラ・フラ・デルス・バウス(スペインの舞台演出集団による公演) 2014

 野外で行われた大スペクタクル・オペラ。クレーン仕掛けの巨大な人形、あちこちで火が燃え、時に爆発し、大量の水があふれ出し、最後には大量の血が流れだす。その場にいたら、きっとあまりの大仕掛けに圧倒されるだろう。エレクトラはずっと赤い綱のようなものを腰に巻いている。血の絆の象徴だろう。実の父の復讐のために実の母を殺させようとする。すなわち最後まで血にこだわり、そこから自由になれない。

 しかし、あまりに大味。大スペクタクルなので、ドラマの内面が表現されない。しかも、どうやらこの公演は演奏面にあまり重きを置いていないようだ。エレクトラを歌うインゲラ・ブリンベリはまずまず声が伸びているが、クリソテミスのスザンナ・レヴォネンは声が出ていないし、クリテムネストラのイングリッド・トビアッソンにいたっては声が割れており音程も不確か。オペラ歌手とは思えないほど。それともよほど不調だったのか。

ラモン・ガンバの指揮するノルランズ歌劇場交響楽団もスケール大きく劇的な演奏にしようとしているようだが、求心力がなく、散漫な印象。大袈裟なだけで、むしろ緊張感がなくなってしまう。私は途中からステレオ装置で聴くのが耐えられなくなって、テレビの音に切り替え、しかも音量を小さめにした。

 

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ワーグナー「タンホイザー」 2014年 ベルリン・フェストターゲ

何はともあれバレンボイム指揮のベルリン国立歌劇場管弦楽団の演奏がものすごい。ドラマティックで厚みがあり、雄弁で、しかも美しい。歌手についても、ルネ・パーペの領主、ペーテル・マッテイのヴォルフラムは素晴らしいし、そのほか、ペーター・ザイフェルトのタンホイザー、マリーナ・プルデンスカヤのヴェーヌス、アン・ペーテルセンのエリーザベトも悪くない。しかし、オーケストラを聴いていると、何よりもその音のうねりに圧倒される。

演出はサシャ・ヴァルツ。この演出家はダンスの振付師として有名だとのことで、ダンスが実に雄弁。律動的でエロティックなダンス。登場人物の多くがきちんとスーツを着て何人かは大きな眼鏡をかけている。眼鏡は社会的な通念を受け入れていることの象徴なのだろうか。自分の目でしっかり見ようとするとき、登場人物たちは眼鏡をはずす。

それにしても、バレンボイム+ベルリンシュターツカペレの力量には驚くばかり。先ごろ、ブルックナーを聴いてそのすごさに圧倒されたが、ワーグナーでも本領を発揮している。

 

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ロッシーニ「セヴィリャの理髪師」 パルマ王立歌劇場 2011

実に楽しい映像。演奏も素晴らしい。

まず、序曲で若手のホープの一人であるバッティストーニの指揮に驚嘆する。生き生きとして強烈な序曲。音の積み重ねの手際も見事。ただ、幕が上がると序曲ほどの勢いがなくなってしまうのは致し方ないところか。それに、やはりまだオペラに十分に慣れていないせいか、オケと歌が合わないところが何か所かあった気がする。しかし、多少の傷はあろうと、やはり素晴らしい。

歌手も見事。フィガロのルカ・サルシ、バルトロのブルーノ・プラティコ、ドン・バジーリオのジョヴァンニ・フルラネットが歌もうまく実に芸達者。ロジーナ役のケテヴァン・ケモクリーゼも綺麗でおきゃんで歌もいい。アルマヴィーヴァ伯爵のドミトリー・コルチャックはちょっと歌唱の面ではぎこちないものの、とてもきれいな声で、いかにも育ちのよい若者の雰囲気があってとても好感が持てる。ベルタのナタリア・ロマンもこの役にしては考えられないほどの美人。ちょっと声がかすれるが、大した問題ではない。図抜けた歌手はいないが、全体的にとてもレベルが高く、存分に楽しめる。

ステファノ・ヴィツィオーリの演出も実に楽しい。新しい解釈などはないし、ト書き通りの時代の服装だが、舞台はモダン。小道具を上手に使い、影の効果もあって、律動感にあふれ、遊び心満載。日本語字幕もついているので、今、入手できるこのオペラの映像としては最高レベルといえるのではないだろうか。

 

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ロッシーニ「セヴィリャの理髪師」メトロポリタン歌劇場 
1989年 

 今となっては一時代前の演奏様式といえるかもしれない。最近の演奏よりも少しおとなしめ。とはいえ、ラルフ・ヴァイケルトの指揮は溌剌としており、しかもドラマティック。音に勢いがある。ジョン・コックスの演出についても、メトロポリタンだけあって、ほぼト書き通りの舞台が進行するが、ユーモアのセンスにあふれている。あちこちで笑いを誘う。もちろん、歌手たちが芸達者ということもあるだろう。バルトロの庭からイスラム建築風(?)が見えるのは、「囚われの女ロジーナ」を強調しているのだろうか。もちろん舞台はセヴィリャなのでイスラム風の建物があるのは歴史とは矛盾しない。

 ロックウェル・ブレイクのアルマヴィーア伯爵はちょっと平板だが、レオ・ヌッチのフィガロはさすがものすごい存在感。登場したとたんに舞台全体が生き生きとしてくる。ロジーナを歌うキャスリーン・バトルも本当に可愛らしくて溌剌としていてすばらしい。80年代、私はバトルを容姿がちょっと魅力的なだけの歌手と思っていたが、決してそんなことはないことがよくわかる。歌唱も本当にチャーミング。バルトロのエンツォ・ダーラもバジーリオのフェルッチョ・フルラネットも名人芸としか言いようがない。その芸達者ぶりに脱帽。当時のスター歌手たちの実力のほどを思い知らされる。

 

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映画「ディーパンの闘い」、そして至福の時間

 2016315日はとても充実していた。都内で二つの打ち合わせのあと、映画を見て、その後、夢のような会に出席した。

まずは映画について。角川シネマ新宿でジャック・オーディアール監督の映画「ディーパンの闘い」をみた。

 スリランカからフランスに難民として渡った3人の物語。実は赤の他人なのだが、難民申請に通りやすくするために夫婦と子どもを装う。その3人のフランスでの状況が描かれる。フランス社会に同化することと、疑似家族が家族として成り立っていくこと、一人一人が個人として平穏を得ることは同じ意味を持つ。外の社会でも、家庭の中でも、3人の心の中でも障害が生じる。3人の中心であるかつてスリランカでの反政府運動の勇士だったディーパンは自分のアイデンティティを成り立たせ、新しい家族を守り、同時に社会の平和を守ろうとする。すべてを解決するために、フランスでの暴力団同士の衝突事件に巻き込まれた偽の妻を捨て鉢になって助ける。この部分はまるですべてを解決するために敵のやくざの陣地に殴り込みをかける高倉健のようでやや荒唐無稽だったが、ヨーロッパ社会のあり方、難民や移民の状況、それぞれの心の奥がリアルに描かれる。実に説得力がある。

 3人がイギリスで平和な生活を送っている場面が描かれて終わる。偽夫婦の間に赤ん坊ができ、偽の娘も幸せそうにしている。やっと本当に家庭になったことが暗示される。ただ、そのハッピーエンドの場面でずっとミサ曲風の合唱曲が鳴っている。もしかするとこの音楽が仄めかしているのは、このハッピーエンドは幻想なんですよ、これは単にディーパンが最後に求めていた理想なんですよ・・・ということなのかもしれない。

 映画の後、夕方から夢のような至福の時を過ごすことができた。

オペラ演出家の三浦安浩さんが招いてくださって、「サロメ」出演者の打ち上げの会に参加させてもらった。新国立劇場のサロメの千秋楽を歌ったばかりのカミッラ・ニールントさん(先日のブログにも書いた通り、私は大ファンだ!)の真向かいに座り、ほとんど話せない英語で話をした(たぶん、ほとんど私の話は通じなかったと思うが)。隣はハンナ・シュヴァルツさん。私は何度うっとりしてこの方の歌を聴いたことか! 向かいはヨハナーンを歌ったグリア・グリムスレイさん。これから新国立劇場でもMETでも大きな役が約束されている人。しかも、1970年代の私の憧れの大スターだった往年のワーグナー歌手木村俊光さんとも話す機会が得られた。

ニールントさんに以前武蔵野でリサイタルを聴いた時からのファンであることを話すと、それが初めての来日で、実は強行軍での来日であって直前まで体調管理が大変だったこと、マッサージをしてもらってやっとの思いで歌ったこと、とても充実したリサイタルだったことを話してくれた。

そのほかあれこれと話を聞いた(私は英語が苦手なので思うことを言えず、ほとんどが聞くだけだった。しかも英語力不足と酒のためもあってときどき話が理解できなかった)。ほかに出席なさっていたたくさん方とも実に有益な話をした。だが、これ以上はここには書かない。そっと心の中の宝物として私一人のものにしておく。

翌3月16日。朝からあれこれの雑用に追われた。夕方から多摩大学内で開かれた、今年定年でお辞めになる諸橋正幸先生の送別会に出席した。諸橋先生はコンピューター言語を専門になさり、クラシック音楽を愛し、文学を愛し、広い教養を持たれた方だ。またおひとり多摩大学から尊敬する先輩が去っていく。・・・そういう私もあと1年で定年ではあるが・・・。

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 カルクの清澄で気品ある「四つの最後の歌」

 2016314日、東京文化会館でクリスティアーネ・カルク、ソプラノ・リサイタルを聴いた。

 カルクについては、私はザルツブルグ音楽祭やヤンソンス+バイエルン放送交響楽団の来日公演による第九などでその素晴らしい歌を聴いた記憶がある。かなり期待して聴いた。そして、期待通りの素晴らしい歌唱だった。

 前半は「音楽に寄す」や「糸を紡ぐグレートヒェン」などのシューベルトと「すみれ」などのモーツァルトの歌曲が中心、後半は「永遠の愛について」などのブラームスの歌曲とリヒャルト・シュトラウスの「四つの最期の歌」。

透明で美しい声。音程がしっかりしている。とりわけ弱音がとても美しい。そして、表現力も見事。それぞれの作曲家の持ち味も上手に歌いわける。シューベルトとモーツァルトは透明さを前面に押し出し、ブラームスとシュトラウスはロマンティックな情感を歌い上げる。

 私の最大の目当ては「四つの最期の歌」だった。実は高校生のころから大好きな歌曲だ。10年ほど前まで、私の葬式にはジェシー・ノーマンの歌うこの曲をかけてほしいと思っていた。カルクの歌は素晴らしかった。清澄にして気品にあふれる。シュヴァルツコップやノーマンのような味付けの濃い歌いまわしではなく、もっと素直な歌。しかし、十分に深い。しみじみと美しいと思い、悲しいと思い、深い音楽の世界に浸ることができる。

 アンコールはシュトラウスの「あおい」と「明日」。これもじっくりとゆっくりと、弱音を活かしながら聞かせてくれた。素晴らしい。

 ただ、私はマルコム・マルティヌーのピアノ伴奏には大いに疑問を持った。前半はミスタッチが多かったし、少し遊びの多すぎる、ちょっと雑な感じのする伴奏だった。草書体の伴奏といえばいえるのかもしれないが、音が均一でなく不思議なイントネーションがあるのを感じた。ちょっとジャズっぽい感じ。後半、とりわけシュトラウスの「四つの最後の歌」にそれを感じた。この曲をそのように伴奏すると、しっとりとした諦観が失われてしまう。別のピアニストで、あるいはオーケストラ伴奏でカルクの「四つの最後の歌」を聴きたい!

 私は一階席のやや前方に座っていたが、ときどき不思議な音が聞こえた。ハウリング音だろうか。少々気になった。時々こんなことがある。なんとかならないだろうか…。

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新国立劇場「サロメ」 世界一流劇場並みの素晴らしい上演

2016312日、新国立劇場で「サロメ」をみた。「イェヌーファ」以上の素晴らしさ。世界の一流の劇場でもそれほど頻繁には上演されないレベルの上演だと思う。

サロメを歌うのは、カミッラ・ニールント(これまで、このブログではニールンド、ニルンド、ニュルンドなどと表記してきた)。たぶん15年くらい前になると思うが、彼女が武蔵野市民文化会館でリサイタルを開いた時から、私はこの歌手の大ファンだ(2007年に来日した時、パーティの席でニールントと話す機会があり、武蔵野で聴いたことを話すと、とてもうれしそうに応じてくれた)。今日も素晴らしかった。ヴィブラートの強くない澄んだ声でしかもかなり強靭。サロメにはぴったりだと思う。さすがに10代の少女には見えないし、踊りの部分はちょっと苦しいと思うが、オペラ歌手としては容姿的にも文句はない。ヨハナーン役のグリア・グリムスレイも美声で音程もいい。この人も細身で容姿も見事。最高の主役二人だった。

ヘロデを歌うのはクリスティアン・フランツ、ヘロディアスは先日、「イェヌーファ」で「おばあさん」の役を歌ったばかりのハンナ・シュヴァルツ。私は二人ともバイロイトで何度も聴いた。アクが強く、声も存在感があって文句なしの悪役二人。ヘロデとヘロディアスがこれほどまでに充実していると、音楽全体がしっかりしてくる。望月哲也のナラボート、加納悦子の小姓も主役格にまったく遜色がない。

オーケストラはダン・エッティンガー指揮の東京交響楽団。指揮に関しては実は私の趣味ではなかった。このオペラについては、もっと表現主義的な演奏のほうが私は好きだ。が、これはこれで見事な演奏。しっかりとドラマを作って、精妙で美しい音で説得力を持ってきかせてくれる。東響も素晴らしいと思った。シュトラウス特有の響きをしっかりと出している。アウグスト・エファーディングの演出については、今となってはかなりオーソドックスといってよいだろう。安心してみていられる。

しばしば陶然となった。新国立劇場のレベルの高さを痛感。中学生のころからこのオペラが大好きだった私は、今後、日本で最高の「サロメ」が見られる日が来るのだろうかと怪しんでいたが、それがまさしく実現しているわけだ。

ただ実は舞台に集中できなかった。隣に中年の女性がいたが、上演中、ずっとガムをかみ、しばしばオペラグラスを使い、途中で寒くなったようで服を着ていた。大きな音をたてていたわけではないので、むしろ私が気にしなければよいのだが、そうはいっても、視野に入るところで口がくちゃくちゃと動き、音楽に集中したいところでしょっちゅうオペラグラスを動かされると、やはり気になる。

 オペラグラスに関しては、オペラというのはまあそんなものだとは思うのでいいとして、マナーとしてガムをかむべきではないことも徹底するほうがよいのではないか。私は、演奏中に帽子をかぶったり、水を飲んだり、ガムをかんだり、飴玉をなめたりといったことは、健康上、宗教上どうしても必要な人以外は慎んでほしいと思う。一対一で尊敬する人と話しているとき、礼儀として帽子は脱ぐだろうし、ガムもかまないだろう。水や飴も出された時以外は飲食しないはずだ。それと同じことで、偉大な音楽や舞台上の人への礼儀として、そうしたことは守るべきだと思うのだが。

 ともあれ、素晴らしい「サロメ」を見ることができ、大好きなニールントの素晴らしサロメを聴くことができて、実に幸せだった。

 

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エリシュカ+札響 チャイコフスキー4番が人類の魂の叫びの音楽に聞こえた

 201638日、サントリーホールで札幌交響楽団東京公演を聴いた。指揮はラドミル・エリシュカ。私が初めてエリシュカの指揮を聴いたのは2010年だった。札幌での名演奏に接した人々が東京に伝えたために実現したコンサートだった。それ以来、エリシュカの演奏は今度で4回目になるが、毎回、その素晴らしい音楽性に圧倒される。今回も本当に感動した。

 前半にはスメタナの「シャールカ」とドヴォルジャークの弦楽セレナードホ長調、そして後半にチャイコフスキーの交響曲第4番。

 私にはエリシュカがどのような工夫をしているのか、まったくわからない。何も目立ったことはしていないように聞こえる。ただ、出てくる音が私たちの聴き慣れた音とまったく異なる。音そのものに存在感があり、質感がある。ちょっと古めかしく、しなやかで柔らかくて、なめし皮のような音。しかも、流れてくる音楽が、過酷な人類の歴史に基づき、人間の日々の生活に根付き、自然の中に息づくかのようだ。

チャイコフスキーの交響曲第4番は、演奏によっては情緒に溺れた空疎で派手な音楽になる。だが、エリシュカの手にかかると、質感にあふれ、自然をたたえ、苦難を耐えながら生きていく人類の魂の叫びの音楽になる。まさしくいぶし銀の名人芸。

札幌交響楽団も素晴らしいオーケストラだと思った。まず弦楽器が素晴らしい。ドヴォルジャークの弦楽セレナードのしっとりとした情感で、弦の繊細でしなやかな美しさが十分に発揮された。木管も実に潤いのある音。私はふだんはファゴットとオーボエの音にはあまり惹かれない(クラリネットがもっとも好きな管楽器だ!)のだが、今日ばかりはこれらの美しさにすっかり魅せられた。金管楽器もしっかりとした音。エリシュカの思いを最高の形で音にしているのがよくわかる。

エリシュカが本国でも世界でもあまり高い評価を受けていなかったということが信じられない。札幌交響楽団との出会いがこれほどの名指揮者を私たちに知らせてくれたことに感謝したい。

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戸田弥生・野原みどりデュオ・リサイタル ぴあ にて販売中

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先日もお知らせしましたが、5月20日(金)、日本が誇る名演奏家、戸田弥生(ヴァイオリン)と野原みどり(ピアノ)のデュオ・リサイタルを多摩大学樋口ゼミが主催します。

演奏されるのは、前半に誰もが楽しめる親しみやすい名曲、そして後半になんと、あの壮絶なショスタコーヴィチのヴァイオリン・ソナタです! 

戸田ファンの方、野原ファンの方、ショスコタ・ファンの方、ぜひお越しください。

チケットぴあにてチケット発売中です。多くの皆様のご来場をお待ちします。

 

●日時 2016年5月20日(金) 19時開演 18時30分開場

●場所 MUSICASA  (ムジカーザ 代々木上原駅東口 徒歩2分)

●演奏曲目

・ドビュッシー 「亜麻色の髪の乙女」

・ラヴェル 「ツィガーヌ」

・プロコフィエフ バレエ「ロメオとジュリエット」からの10の小品 Op.75より

・ショパン ワルツ 第5番 作品42 

・ショスタコーヴィチ ヴァイオリン・ソナタ 

●料金

・一般 3500円 学生 2500円。 小中学生 1000円。 

(当日、学生証を提示いただければ、差額を返金いたします)

●連絡先 090-8103-1243  

●主催者 多摩大学・樋口裕一ゼミ (樋口本人への申し込みも受け付けます)

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新国立劇場「イェヌーファ」 最高レベルの上演 現代の白い閉塞

201632日、新国立劇場で「イェヌーファ」をみた。素晴らしい上演。

歌手陣はおそらく現在このオペラを上演するのに考えられる最高レベル。コステルニチカを歌うジェニファー・ラーモアがやはり最高の歌唱と演技。ラーモアはCDDVDで何度も聴いていたが、初めて実演を聴くことができた。ただコステルニチカ歌うにはちょっと美しすぎ、若すぎて、多少違和感は残った。イェヌーファのミヒャエラ・カウネも素晴らしい。しっかりとした人間に育っていく様を見事に演じている。ラツァ役のヴィル・ハルトマンも張りのある美声。誠実で一途なラツァを演じている。シュテヴァ役のジャンルカ・ザンピエーリ、おばあさん役のハンナ・シュヴァルツ(昔からよく聴いててきた大歌手だが、少しも衰えていない!)もまったく文句なし。

日本人の歌手陣も引けを取らない歌と演技だった。萩原潤(粉屋の親方)、吉原圭子(ヤノ)、志村文彦(村長)、針生美智子(カロルカ)、与田朝子(村長夫人)、鵜木絵里(羊飼いの女)、小泉詠子(バレナ)、いずれもみごと。冨平恭平の指揮による合唱もいつもながらに素晴らしい。東京交響楽団も見事な演奏だと思った。とても繊細で潤いのある音が聞こえた。

トーマス・ハヌスの指揮については私は多少不満がある。最初からあまりに耳あたりのよい音楽を作りすぎていると思った。ヤナーチェクのこのオペラはもっと厳しく、もっと鋭利なのではないか。登場人物たちは田舎の閉塞状況のなかで苦しみながら生きているのではないか。コステルニチカはもっと激しく切り裂かれているのではないか。そのような激しい苦しみがオーケストラによって表現されなかった。第二幕では、もっと観客の心を切り刻むような音楽がほしかった。おそらく指揮者は、そのような方向よりも、登場人物の愛ややさしさのようなものを強調したかったのだと思うが、私はそれをすると、このオペラの最大の魅力が薄れてしまうと思う。私が以前見たDVDは同じ演出、同じ主役陣だが、指揮はランニクルズだった。DVDのほうはもっとずっと鋭利だったように思う。そして、厳しい音楽で続けてこそ、最後の5分間の愛の歌にぞくぞくするような強い感動をもたらすのだ。

もちろん今回の上演でも、私は最後の5分で涙を流しかけたが、これらの歌手陣からするともっと大きな感動が得られるはずだったと思った。

演出はクリストフ・ロイ。私自身はもっと地方色を出してほしいのだが、この演出はむしろそれをできるだけ排そうとしているようだ。

第一幕、第二幕の背景に送電柱が見える。だが、電線は張られていない。近代化が進みつつある時代。いいかえれば、前近代と近代がせめぎ合っている時代。ヤナーチェクの時代のブルノ付近でおそらくこのような状況だっただろう。ロイはこのオペラをチェコの片田舎で起こったローカルな事件とはとらえない。前近代と近代のはざまで起こった普遍的な出来事としてとらえる。だから、現代的な服(第一幕のイェヌーファの赤いドレス、お婆さんの上品なスーツ、男たちのおしゃれなスーツ、女たちのおしゃれな服)が目を引く。人々は実は閉塞的な前近代的な田舎にうんざりして都会的になりたいという意欲を持っている。ハンナ・シュヴァルツ演じるおばあさんも例外ではない。そのような動きにあらがうのがコステルニチカだ。だが、第一幕では野良姿だったラツァも第二幕以降きちんとしたスーツを着こなしている。前近代を通そうとした悲劇が浮き彫りになっている。

ただ白い壁のなかで展開されるこのオペラは、そうした前近代と近代という問題以上に、今、私たちが生きている現代の閉塞感も感じさせる。今回の演出では、第一幕は、嬰児殺しの罪で逮捕されて取調室にやってきた(と思われる)コステルニチカが登場し、回想するという形で始まるが、取調室と思われた白い壁で囲まれた部屋が最後まで使われる。観客は最後までずっと閉塞感を覚える。演出家が訴えているのは。前近代の閉塞感ではない。現代社会の閉塞感。暗くて思い閉塞感ではない。現代の白い閉塞感なのだろう。

「イェヌーファ」はヤナーチェクのオペラとしては例外的に台本がわかりやすいのだが、それでもしばしば理解しづらい感情やセリフが現れる。ヤナーチェクのオペラ特有の「わからなさ」がこのオペラにもたくさんあることを改めて感じた。

 ともあれこんな高いレベルのヤナーチェクのオペラの上演が日本でなされたことは実にうれしい。今後、またヤナーチェクのオペラが次々と上演されることを願う。とりわけ私の大好きな「カーチャ・カバノヴァ」がみたい! まだ実演をみたことのない「運命」、そして初期の「シャールカ」もみたい。

 

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