« 2016年3月 | トップページ | 2016年5月 »

映画「グランドフィナーレ」を楽しみつつ、新宿バルト9の大音響に閉口した!

 パオロ・ソレンティーノ監督の映画「グランドフィナーレ」を新宿バルト9で見た。とてもおもしろかった。

 自分が自分であると認識するのは、記憶でしかない。記憶によって過去を事実だと認識し、他者との関係を維持する。ところが、高齢になるにしたがって記憶が曖昧になっていく。すると、何が事実であるかわからなくなり、自分であることの自信がぐらつき、他者とのつながりも不安定になる。

 この映画の二人の主人公、かつての大音楽家フレッド・バリンジャー(マイケル・ケイン)と、その長年の友人である映画監督ミック・ボイル(ハーヴェイ・カイテル)は、まさにそのような状況に直面している。ともに老いを強く意識せざるを得なくなり、他者との絆を取り戻そうとし、事実を事実として確認しようとする。それができずにいら立ち、老いを嘆いている。この映画には、その二人がスイスの高原にある高級ホテルに滞在中に体験した様々な出来事が描かれる。

 登場人物の多くが、人とのつながりを失い、それを回復しようとあえいでいる。フレッドの娘は夫に裏切られ、別の男とのつながりを見つける。ハリウッド俳優は周囲の無理解にいら立ちながらも、なんとか人々との折り合いをつける。主人公の一人であるミックは、かつての盟友であった大女優ブレンダ(演じているのはジェーン・フォンダ!)に新しい映画への出演を断られ、それを機会に過去を振り切って新たなつながりを求め始める。

 最後、フレッドは、それまで拒否していた女王陛下からの依頼を受け入れ、今や痴呆になった妻(つまり、過去の記憶を失った妻)だけに歌ってほしいと思っていた自作の曲を指揮する。頑なに他者とのつながりを拒んでいた態度を改め、次の世代へと自分たちの記憶をつなげようとしたということだろう。

 最後の演奏会の場面で、ソプラノを歌うのはスミ・ジョー。カラヤンに見いだされて注目を浴びた韓国人ソプラノだが、しばらく動向を聴かなかった。懐かしい! そして、ヴァイオリンを弾くのがなんとムローヴァではないか!「え、もしかしてムローヴァ?」と思い、最後のクレジットで確かめた! 私の大好きなヴァイオリニストの一人だ。

 様々に解釈できる映画だと思う。私はここに書いたように受け取った。が、美しい画面、マラドーナを思わせる元サッカー選手やミス・ユニバースの女性やら食事に来て一切口を利かないカップルやらマッサージ女性やら、登場人物たちがとても魅力的。映像的にも美しい場面がたくさんある。かつてフェリーニに使われた言葉だが、ソレンティーノはまさしく映像の魔術師だと思った。様々に楽しめる映画だ。

 ところで、私は新宿バルト9でこの映画を見たのだが、音響の大きさに驚いた。最初から最後まで耳をつんざくような音。予告編だけが大音響なのかと思っていたら、本編が始まっても同じ大きさ。私には耐えられなかった。カバンの中にイヤホンステレオ用の密閉型イヤホンがあったので、それを耳栓代わりに使った。これがなかったら、私はきっと堪えらずに途中で外に出ただろう。なぜ、こんな大音響にする必要があるのだろう?

 終わった後、係の人にいつもこのように大音響なのか確かめたら、意図的にそのようにしており、それを喜ぶ客も多いとのこと。この大音響に堪えられない思いをするのは少数派なのだろうか。

確かに、私は騒音を我慢ならないと思うことがしばしばある。きっと平均よりは騒音に対してかなり不寛容(よい言葉を使えば、「敏感」ということになる)なのだろう。だが、多くの人がこのような無神経な大音響を平気でいられるとはどういうことだろう!と思わないではいられなかった。これから、できるだけ新宿バルト9では映画を見ないように心がけ、もしほかでやっていない映画がかかっているときには耳栓を用意していくしかなさそうだ。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

ノット+東響の「ドイツ・レクイエム」は私の好みではなかった

2016年4月24日、サントリーホールで、ジョナサン・ノット指揮による東京交響楽団定期公演を聴いた。

ベンベルク交響楽団の来日公演の際、ノットの指揮によるブラームス・チクルスを聴いた記憶がある。きわめて構築的で知的でしかも深みのある音楽だった。ノットが東京交響楽団に迎えられて以来、ずっと関心を持ってきたのだが、「ドイツ・レクイエム」が演奏されるとあれば、この機会を逃してはならぬと思ってサントリーホールに出かけた。

だが、少し失望した。私の好みではなかった。

前半は、クレシミル・ストラジャナッツの語りと東響コーラスを加えたシェーンベルクの「ワルシャワの生き残り」とベルクの「ルル」組曲。前半から、どうも私の求める「ワルシャワの生き残り」でも「ルル」組曲でもなかった。

私は「ワルシャワの生き残り」を音楽にすることのできないような激しい憤りをたたきつける音楽だと思っている。だからこそ「シュプレッヒシュティンメ」といわれる歌といえないような歌で表現しているのだと思う。だが、ノットの指揮によると、それほどの憤怒は感じられない。無慈悲に、そして理不尽に虐殺されていったユダヤ人の言いようのない呪いや苦しみが伝わらない。きれいな音楽になっている。

「ルル」も、あのオペラの中のルルのエロスも官能も苦しみも感じない。聞いている私たちにルルのあえぎが聞こえてこない。単なる音の重なりになっている。

きっとノットはそのような音楽を作りだそうとしているのだろう。過度な思い入れを抑制して、音の積み重ねとして、丁寧に音楽を紐解いていこうとしているのだろう。そして、そこに新鮮な音の世界を作りだそうとしているのだろう。だが、それはわかっても、私はやはりもっとやりきれない思いを音楽の中に求めてしまう。

後半の「ドイツ・レクイエム」にも同じ傾向を感じた。ソプラノのチェン・レイスとバス・バリトンのストラジャナッツは実に素晴らしい。とりわけ、レイスは透明できれいな声で、音程も歌いまわしも見事。また、オーケストラも実に美しい音を出す。

だが、あまりに抑制的。まるでフォーレの「レクイエム」のような雰囲気だ。静かで心の奥底での祈りの表現。ドラマティックな表現はなるべく避け、無駄な盛り上げはしない。祈りの心が徐々に高まるように静かに音楽を高めていく。それはそれで説得力がある。だが、そうなると、私のような俗っぽい人間は少々退屈する。私は第2曲のドラマティックな部分が大好きなのだが、ノットの手にかかるとあまりに抑制的。この曲はもっとロマンティックでもっとドラマティックな曲なのではなかろうか。それをこのように演奏すると、やはり魅力が薄れると思う。

そんなわけで、少々欲求不満を感じて、会場を後にした。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

藤原歌劇団「愛の妙薬」を楽しんだ

 2016423日、新百合ヶ丘にあるテアトロ・ジーリオ・ショウワで藤原歌劇団公演「愛の妙薬」を見た。とてもおもしろかった。

 指揮は園田隆一郎。管弦楽はテアトロ・ジーリオ・ショウワ・オーケストラ。昭和音大の学生を中心にしたオーケストラと聞いていたので、少々心配していたが、なかなかの実力。思い切った演奏ができずに少々安全運転気味なところはあったが、音を外すこともなく、しっかりと舞台を盛り上げて大健闘。

 歌手陣では、私は特にドゥルカマーラの谷友博に歌を楽しんだ。深くて躍動感のある声だと思う。このオペラにおけるドゥルカマーラの役割の大きさに改めて気づいた。

アディーナの高橋薫子もきれいな声で知的な女性を演じる。容姿も含めてアディーナにふさわしい。ネモリーノの 村上敏明は独特の歌いまわしで、どちらかというとバリトンっぽい音色だが、とてもしっかりとした歌唱だと思う。ただ、私が気付いただけで3回ほど歌の途中で声が途切れた。とりわけ、「人知れぬ涙」の見事なアリアの途中でそれが起こったのが残念。しかし、美声だし、音程もしっかりしているし、歌いまわしも丁寧だし、私はとても感心して聞いた。

 演出は粟國淳。舞台が美しく、人物一人一人の動きがとても音楽に合っている。人物の心理がとてもよくわかる。大胆な解釈はなされていないが、このオペラを大胆に解釈しようにもしようがないのだろう。

 テアトロ・ジーリオ・ショウワで聴いたのは初めてだった。手ごろな大きさで、駅からも近く、周囲の雰囲気もとてもいい。音響的にも特に不満は感じなかった。ただ、入場時にビニール入りのチラシの束を配布されたが、オペラの間、ビニールの音があちこちで響いて閉口した。都内で配布されるチラシのビニールと材質が異なっているようで、こちらのほうがずっと不快な音だった。

 私はドイツオペラは大好きなので、二期会を10代から追いかけてきたが、長い間、イタリアオペラには関心を持たなかったので、藤原歌劇団はこれまで数えるほどしかみたことがない。音楽や舞台はもちろん、お客さんの雰囲気もかなり異なる。新鮮な感覚を覚えた。

 今週はかなりハードだった。4月18日(2016年)の夕方、地震におびえる大分から、私自身は一度も大きな揺れに遭遇することなく、無事に飛び立ち、大坂伊丹空港に到着。その後、京都で宿泊し、翌19日、立命館宇治中学(この中学校も先進的な試みを行っているため、私が塾長を務める白藍塾のサポートによって小論文指導を行っている)で研修・特別授業。夜中に帰宅。その翌日からは大学でずっと働き詰め、その行き帰りに母のいる老人ホームに顔を出していた。少々疲れた。

熊本・大分の地震が報道されている。大分出身の私は気が気ではない。親戚や知人の多くが余震をしばしば感じているらしい。幸い、私の知人には大きな被害を受けた人はいないようだが、被害者の苦しみは他人事ではない。早く地震が終息することを願う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

地震の恐れの中、映画「偉大なるマルグリット」「アイリス・アプフェル 94歳のニューヨーカー」をみた

 大分市のシネマ5bisで、いつ地震に襲われるかとひやひやしつつ映画を二本見た。観客は10人前後だったが、途中、ほとんどすべての観客の携帯電話から緊急地震速報の警告音が鳴った(携帯電話をオフにしておくのがマナーだと思うが、今回のような状況では、むしろ携帯の電源を入れておくべきだろう)が、特に大きな揺れもなく、最後まで何事もなく見ることができた。

 まずは、グザヴィエ・ジャノリ監督の「偉大なるマルグリット」。

 オペラ愛好者の間では、伝説の音痴ソプラノであるジェンキンス夫人は有名だ。私は1970年代にFM放送でこの女性の歌を聴いてある種の感動を覚え、20年ほど前、CDを見つけて購入。時々聴いている。わざとはずして歌っているというレベルではない。本人は気持ちよく「夜の女王のアリア」などのオペラアリアを歌っているが、天才的なはずれ具合。初めのうちは途方もない音痴を笑って聴いているが、そのうちその無邪気な歌心に感動を覚える。はずれてはいるが、聴くものの心に訴えかける力をジェンキンス夫人の歌は持っている。

 きっとジャノリ監督も同じように思ったのだろう。そして、この映画を作ったのだろう。ジェンキンス夫人はアメリカ人で最後はカーネギーホールでリサイタルを開くのだが、ここではヒロインはマルグリット・デュモン男爵夫人というフランス人で、場所はフランスという設定にされている。

慈善団体やマスコミの人々が金を引き出すために夫人を利用しようとする。しかし、利用しようとする中の何人かは、そのはずれた歌に言いがたい魅力があることを感じている。そして、夫であるデュモン男爵が外に愛人を作り、夫婦の間がうまくいっていない。夫人がオペラにのめりこむ背景にはそのような事情があるらしい。リサイタルで「ノルマ」のアリアを歌う喉から血を吐いて歌えなくなり、その後、精神の病に陥る。最後、医師を中心にした人々が夫人に自分の歌の録音を聞かせて、その音痴のほどをわからせ、正気に戻らせようとするが、夫人は自分の声を聴いて倒れる。が、夫人への愛に目覚めた夫が妻を抱いて心配するところで、映画は終わる。

とてもおもしろい映画だった。デュモン夫妻の夫婦関係と、作家=音楽評論家と歌手との関係がパラレルに描かれ、1920年代のアヴァンギャルドな芸術状況がおりこまれ、クラシック音楽もふんだんに聴ける。オペラ好きにはたまらなく楽しい。ただ、私としてはあれこれとテーマを広げなくても、マルグリットの歌のはずれ具合や彼女の無垢な心を追いかけるだけでも十分に観客を感動させられたのではないかとは思った。

 もう一本「アイリス・アプフェル 94歳のニューヨーカー」を見た。普段なら絶対に見ないタイプの映画。アプフェルというまるで南国の派手な色彩の鳥のような服装をした女性を追いかけたドキュメンタリー映画。

 これもとてもおもしろかった。見事な生きざま。個性的なファッションセンスを主張し、見事にものを着こなしていく。服や小物などの魅力を引き出していく様子はあっぱれというしかない。この女性にはユーモアのセンスもある。女性を支えて100歳の誕生日を迎え、しかもユーモアを忘れない夫カールの生き方も見事。

 ただ、これほど物質に執着し、次々と物質を購入し、コレクションする様に大いに疑問を感じないわけにはいかなかった。まさしく物質文明の権化のような夫婦だ。よほどの財力がなければこのようなことはできないし、物質にあふれた社会でなければできない。個性を自分の行動や自分の作品でなく、購入した物質で表現するというのも、私にはそれほどすごいことには思えない。ただ、そのような疑問もこの老夫婦のあっぱれな生きざまを見ていると、それはそれで立派なものだとは思った。

 映画を見た後、ホテルに戻ってしばらく本を読んでから、高校時代からの友人と夕食。しばらく余震もない。もう落ち着いたのだろうか。そうならいいのだが。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

地震におびえる大分に来ている

 大分市に来ている。

 当初の予定では、明日2016418日(月)の朝から大分市にある岩田学園(この学園は、私立の進学校で様々な先進的な試みを行い、私が塾長を務める白藍塾のサポートによる小論文指導を取り入れている)で研修を行うため、そのついでに、昨日2016416日に福岡空港を経由して実家のあった大分県日田市に寄り、実家についての様々な雑用を行って、大分に入るつもりでいた。ところが熊本だけでなく、大分にも地震が広がり、熊本県だけでなく、大分県でも高速道路は寸断、列車も不通が続いている。日田に寄ると大分に入れなくなる恐れが出てきた。そこで、福岡行きの飛行機の便を大分行きに変更してもらって、直接、大分空港に入り、昨日の夕方、大分の市内のホテルに入った。高速道路は使えなかったが、特に混乱なくホテルに到着した。市内の店でおいしい魚料理も食べた。

 テレビでは悲惨な熊本の状況や熊本・大分での揺れが報道されている。もちろん、私は熊本に何度か行ったことがある。今、東京の老人ホームにいる母は、戦争中の一時期、熊本市で暮らしていた。大きな被害を受けた益城町についてもよく知っているらしい。他人事とは思えない。大分在住の友人に聞いたところ、昨日の未明、大きな地震とその後の余震のためにほとんど眠れなかったとのこと。

が、私が到着してからのちの大分市では、揺れたかどうかあいまいに思う程度の地震らしきものは何度か感じたが、それほどの揺れはない。市内も平静で、土曜日のわりには人通りが異様に少ないのを除けば、普段と大きな違いはない。

 とはいえ、ホテルに入るとき、地震の際は自分で身を守るように、水と非常食は各自準備しておくようにという指示を受けた。用心深い私は、もちろん枕元に非常のときに持ちだせる袋を置いて寝た。風呂に入るのも、こんな時に地震に襲われたら大変だと思って、大慌てで物事を済ませた。ひやひやしながらの滞在だ。

 今朝、ホテルで朝食をとったが、レストランはまさしくガラガラの状態。日曜日の朝なのでふだんなら観光客がいるはずなのに、8時過ぎのもっとも混むはずの時間帯の100人近く入るはずのレストランに私を含めて一人客が3人いただけだった。キャンセルした客が多かったのだろう(私のほうは、日田市のホテルをキャンセルして、急きょ、17日だけ宿泊する予定だったホテルに16日から二泊するように変更したのだった)。

 大分市は私が小学校5年生から高校3年生までを過ごした土地だ。だからなじみはある。しかし、大分を離れて45年ほどたっているので、まさしく様変わり。新しい駅舎ができ、街並みもきれいになっている。

 日田で雑用をする予定だったので、大分で今日一日、することがない。地震で危険とわかっていたので仕事道具は必要最小限のものしか持ってきていない。前もって約束している友人とは会うつもりだが、こんな時にそれ以外の友人を呼びだすのも気が引ける。いや、そもそもいつ地震に襲われるかわからない現在、安全性を考えて行動しなければならない。さて、どこにいるのが安全なのか、ホテルの7階の自室にいるのが安全なのかどうか。

 ま、ともあれ、ひやひやしながら、久しぶりに無聊をかこつことになりそうだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ベロッキオの映画「ポケットの中の拳」「エンリコ四世」「肉体の悪魔」

 芸術・演出の分野で私が日本で最も尊敬する人物(あえて名前は伏せる)から薦められてマルコ・ベロッキオの監督作品をいくつか見た。ベロッキオについては、「そういえば、名前を聞いたことがある」という程度だった。日本ではベロッキオの作品はほとんど公開されていないので、私自身を含めて、あまり関心を持っていない人が多いのではないか。初めてベロッキオの映画を見た。あまりのすごさに驚いた。簡単な感想を書く。

 

「ポケットの中の拳」  1965年

 モノクロによるベロッキオの処女作。簡単にまとめれば、盲目の母と障害のある弟を殺して、邪魔になる家族からの解放を企てる青年アレッサンドロ(ルー・カステル)の物語なのだが、そんなストーリーではまとめきれない衝撃作だ。長兄アウグスト(マリノ・マゼ)も同じように家族を重荷に思いながら、そこから完全には逃げさせずにいるのに対して、アレッサンドロはそれを実行したわけだが、最後、自らも家族を閉じ込める家の中で痙攣を起こして、脱出できないことを認識する。

 私は「カラマーゾフの兄弟」を思い出した。三人の男の兄弟と一人の妹。男女の違いはあるが、ドミートリー、イヴァン、アリョーシャと異母兄弟のスメルジャコフに重なる。しかも、この家族は遺伝的にスメルジャコフと同じように(そして、ドストエフスキーと同じように)「てんかん」の持病を持つ。そして、親殺し。「カラマーゾフの兄弟」では、理念だけを語り、実行できなかったイヴァンに代わってスメルジャコフが殺人を実行するが、本作では、脱出しようとするだけでできなかった長兄に代わってアレッサンドロが殺人による閉塞状況からの脱出を図る。だが、それでもブルジョワ家族のがんじがらめにされた生活から逃れることができない。ここに描かれるのは、おそらく1960年代のイタリアの閉塞的な資本主義社会だろう。

 とはいえ、ここに示したようなストーリーの「謎解き」では捉えきれないエネルギーや社会に対しての怒り、生きることへの息苦しさがこの映画には渦巻いている。閉塞状況の中で生きる若者のぶつけようのない生の苦悩を感じた。

私も高校生のころ(つまり、50年ほど前の1967~70年)、生徒たちに坊主頭を強制し、一切の自由を許さずにまるで軍隊のように受験競争に駆り立てる地方の進学校の息苦しさに我慢ができず、暴力的に怒りをぶちまけていた。このアレッサンドロと同じような状態にいた。あの頃を思い出した。

 

「エンリコ四世」1984

 私が偏愛するイタリアの大作家ピランデッロの戯曲の映画化。なんとマルチェロ・マストロヤンニの主演。クラウディア・カルディナーレも出演している。

 エンリコ四世(日本では、ハインリヒ四世として知られている。カノッサの屈辱で世界史上に知られる11世紀の神聖ローマ皇帝。教皇と対立して抵抗したもののついにはカノッサで教皇に謝罪をした)の扮装をしているときに落馬して頭を打ち、自分が本当にエンリコ四世だと思いこんで20年以上を生きた男の物語。最後、エンリコ四世はすでに狂気から回復していたらしいことがわかるが、それがまた新たな狂気なのか、あるいは周囲の人々のほうが狂気なのか重層化してくる。人生は虚構、人生は狂気、何が真実なのか、もしかしたら何も真実ではないのかも・・・というピランデッロの世界が映像化されている。

 とてもよくできた映画だと思ったが、本来的に虚構が見え透く舞台ではなく、リアリティのある映画にすると、ピランデッロの虚構の見え透く世界が薄れてしまう気がした。ベロッキオをもってしても、ピランデッロのこの戯曲は映画化が難しかったのかもしれない。

 

 

「肉体の悪魔」 1986

レーモン・ラディゲ原作の映画化だが、時代も場所も設定も登場人物の名前も原作とは異なる。かなり自由な映画化。これは大傑作。

まさしく肉体性の魔にとりつかれた男女。相手を求めあい、愛し合い、セックスに耽る。それが実に美しい。反社会的な肉体、反社会的な性行為の素晴らしさとでもいうか。一途に、ほかのすべてをなげうって二人の愛に燃える。それだけの映画といえるのかもしれないが、その衝撃度が大きい。ジュリア役のマルーシュカ・デートメルスがあまりに官能的で美しい。アンドレア役のフェデリコ・ピッツァリスも見事に肉体の喜びを表現している。

名場面がいくつもある。冒頭の飛び降りをしようとする下着姿の黒人女性、衆人環視の檻の中でセックスをする男女、ボートの乗る2人、酒場で踊るジュリア、そして最後の、口頭試問を受けるアンドレアの後ろで涙を流すジュリア。画面自体が官能的で、引きこむ力を持っている。言葉をなくして映像に見とれた。

 

 ほかにも数本ベロッキオの映画を入手した。近いうちに見るつもりでいる。

 九州で地震が続いている。18歳まで住んでいた土地なので大いに心配。

 しかも、あと1時間ほどで九州に向けて出発しなければならない。仕事の途中、実家のあった大分県日田市に寄って、相続などに関する雑務を行うつもりだったが、今朝(2016416日)の地震で到着できない恐れがあるので、取りやめた。が、仕事を控えているので、九州にはいかないわけにはいかない。途中で足止めを食うかもしれないが、ともかく出発する。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

再度のお知らせ 戸田弥生・野原みどりデュオ・リサイタル 近づく!!

20151210_085017000_ios_2


先日もお知らせしましたが、5月20日(金)、日本を代表する二人の大演奏家、戸田弥生(ヴァイオリン)と野原みどり(ピアノ)のデュオ・リサイタルが開催されます。

演奏されるのは、誰もが知る名曲、そしてあのショスタコーヴィチのヴァイオリン・ソナタ!

チケットぴあにてチケット発売中です。ぴあのウェブサイトからもお求めになれます。また、樋口本人へのお申し込みも受け付けます。多くの皆様のご来場をお待ちします。

 

●日時 2016年5月20日(金) 19時開演 18時30分開場

●場所 MUSICASA  (ムジカーザ 代々木上原駅東口 徒歩2分)

●演奏曲目

・ドビュッシー 「亜麻色の髪の乙女」

・ラヴェル 「ツィガーヌ」

・プロコフィエフ バレエ「ロメオとジュリエット」からの10の小品 Op.75より

・ショパン ワルツ 第5番 作品42 

・ショスタコーヴィチ ヴァイオリン・ソナタ 

●料金

・一般 3500円 学生 2500円。 小中学生 1000円。 

(当日、学生証を提示いただければ、差額を返金いたします)

●連絡先 090-8103-1243  

●主催者 多摩大学・樋口裕一ゼミ

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ヤノフスキ+N響「ジークフリート」 まさしく歴史的名演

2016410日、東京文化会館で東京春音楽の祭、ヤノフスキ+N響によるワーグナー「ジークフリート」(演奏会形式)を聴いた。歴史的名演だと思う。

 昨年配役が発表された時、ジークフリートをランス・ライアンが歌う予定になっていた。ライアン嫌いの私としてはアンドレアス・シャーガーに変更になって安堵した。が、実際に聴いてみると、安堵しただころか、期待をはるかに上回る歌唱。実に素晴らしい。バイロイトなど世界の劇場で引っ張りだこになること間違いなしのレベルだと思う。声に若さと気品があり、しかも強靭。ジークフリートにぴったり。最初から全力で歌っているように思えたので最後までもつかと気になったが、最後の二重唱でも伸びのある声だった。すごいジークフリート歌手が出てきたものだ。

 そのほか、すべてのキャストが最高レベル。ミーメを歌うゲルハルト・ジーゲル、アルベリヒを歌うトマス・コニエチュニーが最高レベルの歌手たちの中にあってもとりわけ素晴らしかった。演奏会形式なのに、歌を聴くだけで姿かたち、心の中、そして演技までも頭に浮かぶ。ブリュンヒルデのエリカ・ズンネガルドも素晴らしかった。どこかで聴き覚えがある歌手だと思って調べてみたら、最近DVDで見た「サロメ」を歌っている歌手だった。とても美しく、細身で華奢に見えるが、しっかりと強い声が出ている。第三幕幕切れの二重唱は圧巻だった。

さすらい人を歌うエギルス・シリンスもとてもいい歌手だが、今回の歌手の中では少しかすむほどだった。そのほか、ファーフナーのシム・インスン、エルダのヴィーブケ・レームクール、森の鳥の清水理恵、いずれも最高レベル。田尾下哲による映像が背景に映し出されていた。これだけで十分にワーグナーの世界が描き出されるほどに音楽が雄弁だった。

 だが、それより何よりマレク・ヤノフスキ指揮のNHK交響楽団(ゲストコンサートマスター:ライナー・キュッヒル)が凄い。N響が世界最高レベルのオーケストラだと認識した。この演奏を録音して名前を伏せて聴いてもらえば、かなりの人がウィーン・フィルなどの名だたるオーケストラの演奏と思うのではないか。ヤノフスキの演奏は無駄がなく、きびきびしている。こけおどしが一切なく、明るめの音で明確に鳴らすが、そうすることによって、ドラマが高まり、スケール感が増す。しかも、音の重なりがこの上なく美しい。「森のささやき」は得も言われぬ美しさだった。しばしば舞台で歌手たちが演じているときには聞こえてこない様々な音に気付くことができた。改めてワーグナーのオーケストレーションの技にも驚いた。「そうか、こんなところでこんな楽器が鳴ってたんだ!」としばしば驚いた。

 多くの人と同じように、私も「ジークフリート」は少し苦手な楽劇だった。現在でもしばしば上演されるワーグナーの10演目の歌劇・楽劇のなかで、もっとも退屈な場面の多いのが「ジークフリート」だ。とりわけ、第一幕のミーメとさすらい人の長い問答には退屈する。「わざわざ復習してくれなくても、これまでのgストーリーだったら、よく知ってるよ」といいたくなる。第二幕もファーフナが目を覚ますまでのやり取りがあまりに長い。第三幕になってやっとほかのワーグナーの楽劇並みに感動する。だが、今回の演奏はまったくだれるところがなかった。これほどすごい「ジークフリート」は初めて聴いた。まさしく歴史的名演だと思う。第三幕の後半はずっと感動の涙を流していた。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

新国立劇場「ウェルテル」 素晴らしい演奏だったが・・・

 201649日、新国立劇場でマスネ作曲のオペラ「ウェルテル」を見た。

 指揮が巨匠ミシェル・プラッソン(私はこの人の指揮したCD・DVDを「ウェルテル」を含めて90枚以上持っている!)、タイトルロールが人気歌手マルチェッロ・ジョルダーニということで期待していたが、指揮は息子のエマニュエル・プラッソン、主役はディミトリー・コルチャックに交代。かなりがっかりして出かけた。が、とてもよかった。まったくがっかりすることはなかった!

 ウェルテルのコルチャックはきれいに伸びる美声。容姿も素晴らしい。完璧にウェルテルに見える。私はロッシーニのオペラ映像でこの人を見て、ちょっと頼りないが美しい声でとても好感が持てると思った記憶があるが、まさにその通り。あまり朗々とした歌ではないが、それがウェルテルにまさにぴったり。もしかしたら、ジョルダーニよりも良かったかもしれない。シャルロットを歌うエレーナ・マクシモワはちょっと癖のある声。シャルロッテっぽくはないと思ったが、後半は特に気にならずにオペラにのめりこむことができた。アルベールのアドリアン・エレートも安定していてとてもいい。

そして特筆するべきは、ソフィーを歌った砂川涼子。外国人勢とまったく互角に美しくて音程の正確な声で歌う。しかも可愛らしい。見事にソフィーを演じていた。そのほかの日本人歌手陣(大法官の久保田真澄、シュミットの村上公太、ジョアンの森口賢)も好演。

 ニコラ・ジョエルの演出はかなりオーソドックス。ゲーテの時代の建物や服装の雰囲気をよくだしている。見慣れないオペラでこのような演出はありがたい。

エマニュエル・プラッソンの指揮についても、特に不満はなかった。ただ、欲を言えば、父親ミシェルだったら、もっと繊細にもっとドラマティックに演奏して、ざわざわするような胸のうちを描いてくれるのではないかと思った。しかし、東京フィルハーモニーもとてもフランス音楽らしくしなやかに美しく演奏。

 とても良い演奏だった。・・・とはいえ、プログラムに岸純信さんが書いておられたが、マスネのこのオペラを聴くと、まさしく「マドマゼル・ワーグナー」という感じがする。ワーグナー的語法による女性的なメロドラマ。繊細で甘美なのは結構なのだけど、私としてはもっと狂気の部分、暴力的な部分、魂の奥底をえぐるような部分がほしい。マスネにそのようなものを求めてもないものねだりだとわかっているが、やはりワーグナー好きとしては、そのようなものがほしくなる。マスネよりもワーグナーやシュトラウスのほうがいいな・・・と改めて思ったのであった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

4月1日の思い、そしてオペラ映像「カヴァレリア・ルスティカーナ」「道化師」「死の都」

 2016年4月1日になった。私の多摩大学教授としての最後の年度の始まり。来年の3月末をもってして定年退職になる。定年後の仕事とともに気になっているのが、研究室に置いている本やCDの始末なのだが、ここでそれを言ってもはじまらない。

 3月末は少し時間があったので、オペラ映像を何本か見た、感想を書く。

 

142


マスカーニ「カヴァレリア・ルスティカーナ」 レオンカヴァッロ「道化師」
20153月 ザルツブルク復活祭

 クリスティアーン・ティーレマン指揮、シュターツカペレ・ドレスデン。演出はフィリップ・シュテルツェル、ともに主演はヨナス・カウフマン。2015年のザルツブルク復活祭の2枚組映像。

 どちらのオペラもまずはあまりのオーケストラの雄弁さに圧倒される。指揮も凄いがオケも凄い。最高に美しい音が緻密に、そしてドラマティックに紡ぎだされる。ただ、実は「立派すぎる」という印象を拭い去ることができなかった。ワーグナーやシュトラウスのように豊穣でドラマティックできめ細かい。だが、そうなると、イタリアのあけっぴろげな下品さが薄れてしまう。高度な芸術になってしまう。

 それはカウフマンにも言える。見事な声。容姿も理想的。歌いまわしもニュアンス豊かで、これまでのこれらの役を得意にしてきた大歌手たちに一歩も引けを取らないと思う。「道化師」の「衣装をつけろ」など、私は感動に震えた。だが、立派すぎる。愛欲に狂い、嫉妬に狂った「ナマの人間」の感じがしなくて、「芸術」の香りがしすぎる。

 たとえば、パヴァロッティが歌うと、ともかく生身の人間の存在感に圧倒される。パヴァロッティは、いうまでもなく決して美男とは言えない、不思議な顔のおじさんなのだが、とてつもない美声のほかに、生身の雰囲気がある。良くも悪くも体臭が漂ってきて、それに感動してしまうようなところがある。が、カウフマンが歌うと、知的になり、クールになり、カッコよくなる。これがもちろんカウフマンの持ち味なのだが、その見事な歌に感動しながらも、どこかこれまでの大歌手たちにあってカウフマンにはないものを感じてしまう。

 演出に関しては、私は大いに感動した。「カヴァレリア・ルスティカーナ」は、少し表現主義的にデフォルメされた背景の中で、マフィアの親分と、親分の女に手を出してしまった根は真面目なチンピラの物語が描かれる。舞台はシチリアなので、なるほどそんな解釈もあるだろう。トゥリッドゥ(ヨナス・カウフマン)とサントゥッツァ(リュドミラ・モナスティルスカ)の間には子供がいて、トゥリッドゥの母親(ステファニア・トツィスカ)は女性実業家?という設定。どうやらサントゥッツァは内縁の夫トゥリッドゥとその母親に尽くしながらも邪険にされているようで、常に険しい表情をしている。イタリアの片田舎での凄惨な事件という状況は薄れて、現代的になっているが、ティーレマンの豊かでドラマティックな指揮ぶりは、この舞台にふさわしい。カウフマンの歌にも、この演出はぴったりだろう。

 サントゥッツァのモナスティルスカは素晴らしい歌。ただちょっと愛想がなさすぎるように思うのだが、これも演出家の指示なのだろうか。

「道化師」は、舞台上にいくつかの枠ができて、それらが1960年代のハリウッド映画のように展開される。枠内で別々の登場人物の状況が描かれて、まさしく映画的。実にリアルで、実に彩りが美しい。群衆の動きも音楽に合っていて、わくわくする。タンセル・アクセイベクのベッペがまるでチャップリンのような演技をして映画的な雰囲気を盛り上げる。ただ、歌唱の面では、カニオを歌うカウフマン以外の歌手たちはちょっと物足りない。ネッダのマリア・アグレスタは硬く、トニオのディミトリ・プラタニアスは低音が不安定。

 とはいえ、やはりこのオペラは素晴らしい。後半、大きく盛り上がる。

 

 

 754


レオンカヴァッロ「道化師」 
19611025日、東京文化会館

 

 1961年のイタリア歌劇団日本公演の有名な映像。当時、テレビ放送されたのだろうが、10歳だった私は、クラシック音楽に触れ始めたばかりのころで、この放送を見た覚えはない(その2年後の1963年の「セヴィリアの理髪師」の放送を見て驚嘆したのは覚えている)。が、その後、伝説として知っていた。いくらなんでもひどい映像だろうと思ってこれまで見なかったが、ザルツブルク復活祭の映像を購入するついでに、これも注文した。

 もちろんNHK交響楽団とNHKイタリア歌劇合唱団+藤原歌劇合唱団については、ザルツブルクとはもちろん、現在のN響や藤原歌劇団とも比べ物にならないレベル。ミスが多く、音が貧弱。映像ももちろんモノクロ。だが、聞くに堪えないレベルではない。そして、やはり何よりすごいのは歌手陣。

言うまでもなく、カニオを歌うマリオ・デル・モナコの凄まじさたるや言葉を失うほど。貧弱な音を突き抜けて私たち現代の耳にまで届く。カウフマンも素晴らしいと思ったが、やはりこの役は歌と演技と容姿のすべてを含めてデル・モナコにははるかかなわない。パヴァロッティもドミンゴもデル・モナコにはかなわないのではないか。ネッダのガブリエルラ・トゥッチも可憐でとてもいいし、トニオのアルド・プロッティも伸びのある美しい声。55年前の映像でもこれほどの感動を呼ぶのは凄い。

 

317


コルンゴルト「死の都」201011月 ヘルシンキ、フィンランド国立歌劇場

 

新国立劇場で「サロメ」を歌ったカミッラ・ニールントがマリエッタを歌っている。先日、ニールントさんを交えて飲み会をしたとき、見たことのある実演、映像を整理してみたところ、この映像を見ていないことに気付いて購入。

パウルを歌うのはクラウス・フローリアン・フォークト。一昨年だったか、新国立劇場でみたのと同じカスパー・ホルテンの演出(というか、新国立劇場がこの演出を借り受けたわけだが)。ニールントとよく似たパウルの亡き前妻が「幽霊」として黙役で登場し、パウルの葛藤を描く。白い壁面に思い出の品を飾った墓のような舞台ですべてが演じられる。

新国立劇場の上演も素晴らしかったが、この映像はもっと素晴らしい。ニールントが妖艶で不気味なマリエッタを見事に歌っている。容姿も美しく、声も伸び、蓮っ葉でありながらも心優しいマリエッタになりきっている。当たり役の一つといえるのではないか。フォークトも、ほんの少し声がかれるものの全体的には、自然な美声が実に素晴らしい。その他の配役も見事。申し分ない。ミッコ・フランクの指揮も生々しく、しかも官能的。フィンランド国立歌劇場管弦楽団もとてもよいオケだ。このオペラの面白さがよく伝わるすばらしい映像だと思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2016年3月 | トップページ | 2016年5月 »