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マスネ「シンデレラ」をみた

2016年7月31日、ヤマハエレクトーンシティ渋谷で東京シティオペラ協会公演「シンデレラ」を見た。マスネ作曲のフランス語によるオペラなので、「サンドリヨン」と呼ばれることが多いが、今回は日本語訳詞上演。伴奏はピアノとエレクトーンによる。

このオペラは、ローラン・ペリーが演出し、ディドナートがタイトルロールを歌ったDVDを見たことがある。とてもおもしろかった。しばらく日本で見られることはあるまいと思っていたが、今回、上演されると知って見逃してはならぬと思って会場にでかけた。200席ほどが満席だった。

この珍しいオペラを上演してくれることに関しては、実にうれしい。「シンデレラ」を夏休みの日曜日に上演することは本当に素晴らしい。多くの団体がこのような形での上演を増やし、もっともっとオペラを日常のものにしてほしい。一流の歌手たちでなくてもいい。ピアノとエレクトーンという伴奏でも十分に楽しめる。実際、エレクトーンの赤塚博美、ピアノの金子渚ともに見事な演奏だった。指揮は横山奏、演出は岡田直子、訳詞は南條年章。いずれも、制限の多い中、見事に仕事をしていると思う。

ただ、歌手陣については素晴らしいとは言いかねた。サンドリオンの大津佐知子、アルティエールの田中美佐子は健闘していると思うが、それでも音程の不確かさは気にならざるをえない。ほかの歌手陣も声が出ていなかったり、音程が怪しかったりで、重唱なども不協和音になってしまう。劇団四季や宝塚歌劇団などのようなミュージカルを見るつもりならこれでよいと思うが、オペラとして「聴く」と、やはりかなり苦しい。

そして、やはり台本の弱さ、マスネの音楽の弱さも感じざるを得なかった。同じシンデレラでも「チェネレントラ」とは遠く及ばないと思ったし、同じマスネでも「ウェルテル」や「マノン」に比べて盛り上がりに欠けると思った。

とはいいつつ、繰り返すが、このような試みを全国に広めてほしい。そして、それぞれの団体がこうした上演を繰り返すことによって一層レベルの高い舞台を作り上げてほしい。そうして、もっともっとオペラを楽しみたい。

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オペラ映像「フィデリオ」「ルチア」「ドン・パスクァーレ」「アンナ・ボレーナ」

 最近の大学は授業がみっちりある。なかなか休みにならない。私の勤める大学もごたぶんに洩れず、7月末になって、やっと夏休みに入った。

授業が終わって気が緩んだせいか、夏風邪を引いてしまった。特に体調が悪いわけではないのだが、喉が痛い。さかんに咳をしている。昨日は声を出すのがつらかった。かなりよくなったが、今日はずっと仕事をしないで、オペラ映像をみたり、本を読んだりしていた。

オペラ映像の感想を書く。

 

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ベートーヴェン「フィデリオ」20158月 ザルツブルク祝祭大劇場

 昨年のザルツブルク音楽祭での上演。NHK・BSでも放送されたもの。演奏の評判はよく、演出の評判はすこぶる悪かった。で、実際に映像を見てみると、私もほぼ評判通りの感想を抱いた。

 ヨナス・カウフマンのフロレスタン、アドリアンヌ・ピエチョンカのレオノーレ、オルガ・ベスメルトナのマルツェリーナは素晴らしい。ハンス=ペーター・ケーニヒのロッコもさすが。ただ、ドン・ピツァロのトーマス・コニエチュニーは少し不調ではなかろうか。ドン・フェルナンドのセバスティアン・ホレチェックはかなり不安定。

 フランツ・ヴェルザー=メストの指揮するウィーン・フィルについては、途中に挿入されるレオノーレ第三番は最高の名演だと思う。緊張感にあふれ、ドラマティックに躍動する。だが、第一幕ではところどころにバランスの悪さ、歌とのずれを感じた。

 クラウス・グートの演出については、確かによくわからない。舞台は巨大な作りの部屋になっている。登場人物が巨人の家に紛れ込んだように見える。場面転換の際、音楽が途切れ機械音が入り、登場人物を分断するような敷居がしばしば現れる。レオノーレとピツァロに黙役の分身が登場し、レオノーレの分身は手話のように手を動かして何かを伝えようとする。最後の場面でも、フロレスタンとレオノーレは幸せになるのでなく、レオノーレは不満を持ったままだ。

私には場面転換時の音は空爆を表わすものに思えた。空爆が行われ、世界が分断され、人々の生の声が圧殺され、現代に至るまで人々は自分の心を素直に外に出すことができずにいる。人間は卑小化され、フロレスタンのような自由と正義のために戦う人間はいまだに登場していない。そのような現代社会の欺瞞を、グートは描こうとしているように思えた。とはいうものの、あまり音楽とは関係のなさそうだ。

といいつつ、イタリア・オペラを何本も見た後にベートーヴェンのオペラを見ると、やはり音楽の深みに感動する。自分がドイツ音楽好きだということことを改めて強く思う。

 

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ドニゼッティ「ランメルモールのルチア」2006年ベルガモ、ドニゼッティ劇場

 全体的にあまり感銘は受けなかった。デジレ・ランカトーレがとても良い歌手だということは知っているが、ルチアを映像で見ると、とびっきり素晴らしいとは言えないことに気付く。エドガルドを歌うロベルト・デ・ビアージョなどの男声陣もあまり強力ではない。アントニーノ・フォリアーニの指揮するベルガモ・ガエターノ・ドニゼッティ音楽祭管弦楽団もあまり機能性が高いとは言いがたいように思った。残念ながら、夢中になってみることができなかった。

 

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ドニゼッティ 「ドン・パスクァーレ」2006年 テアトロ・アリギエーリ

  視覚的には理想の上演といえるだろう。ドン・パスクァーレを歌うクラウディオ・デズデーリもノリーナを歌うラウラ・ジョルダーノもまさしく登場人物そのもの。とりわけジョルダーノはあまりに美しくチャーミング。マラテスタのマリオ・カッシ、エルネストのフランシスコ・ガテルも容姿的にはとても魅力的。だが、音楽的には、どの歌手にも、私はあまり魅力を感じなかった。もちろん一流の歌手たちだと思うが、声に伸びがなかったり、音程が不安定だったり。

 ルイジ・ケルビーニ管弦楽団を指揮するのはリッカルド・ムーティ。さすが立派な指揮ぶりだが、わくわくするような面白さを引き出しているようには思えなかった。アンドレア・デ・ローザも手際はいいが、とりわけ面白いとは思わなかった。少々不満が残った。

 

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ドニゼッティ 「ドン・パスクァーレ」2013年 グラインドボーン歌劇場

もう1本、「ドン・パスクァーレ」。こちらは大いに楽しんだ。歌手はそろっている。ドン・パスクァーレを歌うアレッサンドロ・コルベッリが張りのある声で実に芸達者。自由自在に歌いまくる感じが実にいい。若い妻を持とうとする60過ぎの男の滑稽な真剣さと人の良さがとても良く伝わる。ノリーナのダニエル・ドゥ・ニースも躍動感があってとてもいい。登場してすぐはちょっと硬いがすぐに舞台狭しと歌いまくる。マラテスタのニコライ・ボルチェフもエルネストのアレク・シュレーダーも張りのある美声。こわごわ歌っている感じのあったテアトロ・アリギエーリの上演と違って、みんなが自由溌剌。実に楽しい。

エンリケ・マッツォーラ指揮によるロンドン・フィルも見事。そして、マリアム・クレマンの演出も気がきいていて実に楽しい。さすがグラインドボーン。

 

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ドニ
ゼッティ 「アンナ・ボレーナ」 2013年 フラヴィオ・ヴェスパシアーノ劇場

(ミラノ・スカラ座における1840年版)

 ファビオ・ビオンディの指揮するエウローパ・ガランテの演奏は素晴らしい。躍動し、生き感があり、実にドラマティック。しかし、歌手陣に関しては、かなり問題がある。これはどういう歌手たちなのだろう。アンナ・ボレーナを歌うマルタ・トルビドーニはこの歌手陣にあっては聴いていられるほうだと思ったが、エンリーコ8世のフェデリコ・ベネッティとペルシー卿のモイセス・マリン・ガルシアについては、私には音程が不安定で、声に伸びがなく、聞いていて息苦しささえ覚える。聴き続けるのがつらかった。

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暗澹たる気持ちになった 相模原障碍者施設大量殺人事件

 一昨日(2016年7月26日)、相模原の知的障害者施設で起こった19人が殺害され、26人が重軽傷を負った事件について、だんだんと犯人の生い立ちが明らかになってきた。事件現場は多摩地区にある私の家からそれほど遠くない。他人事とは思えない。私は暗澹たる気持ちになった。

 現実世界に不満を持つ人間が、自分よりも弱い人間をターゲットにして、憎悪と差別の意識をつのらせ、浅はかなで幼稚な価値観によって、そのような人々を一方的に攻撃することを正義とみなし、そうすることによって自分の価値を見出そうとする。これはISなどのテロリストとまったく同じ心理だ。人を人間と思わず、平気で殺していく。高齢者施設でヘルパーが数人の高齢者を殺したという事件もまったく同じ構図だ。

明らかな犯罪だけではない。「在特会」という団体、クレーマー、そして炎上をあおる人々もまったく同じ心理だ。わかりやすい子どもっぽい狭い正義だけを信じて、それに反する人間を見つけると、相手をゼロとみなして攻撃する。相手の落ち度を見つけると、それがすべてにように考えて、相手を全否定する。過激な行為であればあるほど、小さな仲間たちはそれを喝采する。喝采されると、またそれを実行する人が出てくる。このような人々が増殖しているのだろう。

 いつの間にこのような不寛容な社会になってしまったのだろう。近代文明が長い時間をかけて作り上げてきた多様な価値観を許容し、寛容を何よりも重視する社会が今壊れつつあるのだろうか。

 今回の事件で殺害された人々の痛ましさについては言葉もない。だが、今回の事件が植松聖という一人の狂った人物の狂った行為であるなら、まだ救いがある。だが、多くの同じタイプの人間がいるのではないか。障害者だけでなく、これから次々とターゲットをふやすのではないか。格差が拡大し、満たされない思いをする人々が増え、ネットによって愚かな考えをばらまいて仲間を増殖させることのできる社会においては、ますます不寛容が幅をきかせるのではないか。そして、狂った世界でヒーローになって喝采を浴びることを求める人間が出てくるのではないか。今回の事件や海外でのテロ事件が引き金になって、また同じような愚かな正義を振りかざす犯罪が起こってしまうのではないか。

 だが、言うまでもなく、他者をごみ扱いし、人間として尊重できないということは、自分自身をも尊重できないことだと思う。自分という存在に自信があれば、他者の存在も尊重できる。おそらく他者の存在を全否定している人は、自分の存在を全否定されるかもしれないという恐怖を抱いている人なのだろう。まず人間がするのは、他者の存在を否定することではなく、自分の存在を肯定することなのだ。そのためにしっかりと考え、行動することなのだ。

 植松聖容疑者は教員を目指していたという。本気で思っていたとは思えないが、言うまでもなく、彼はもっとも教員には向かない。教員こそが子どもたちに自分を肯定する力を教える存在なのだ。同時に、教師こそが自ら寛容の精神を抱き、寛容の精神を教える存在なのだ。

 教育に携わるはしくれとして、ここに書いたことを忘れずに若者に接したいと思う。それだけが、今回の事件のようなことが二度と起こらないために、私のできるたった一つのことだと思う。

 

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イタリア・オペラ映像「ノルマ」「夢遊病の女」「セビリャの理髪師」「ルチア」

 数年前の私からは考えられないことだが、イタリア・オペラの映像をみつづけている。実を言うと、いまでもワーグナーやシュトラウスやベルクやヤナーチェクのほうに圧倒的に深い感動を覚えるが、イタリア・オペラもそれはそれでとてもおもしろい。いくつかの感想を書く。

 

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ベッリーニ「ノルマ」2007年 リセウ大劇場

 歌唱的にはちょっと難がないでもない。ノルマを歌うフィオレンツァ・チェドリンスの声が何度か途切れる。歌唱の上では歴代最高のノルマ歌いではないかもしれない。アダルジーザのソニア・ガナッシもちょっと苦しいところがある。だが、映像で見ると、ちょっとした難点など忘れてしまう。チェドリンスの美しさ、そしてその演技力に圧倒される。けなげな表情、狂おしい表情、気性の激しい表情を歌に応じて見せてくれる。容姿と演技まで含めると歴史に残るノルマ歌いに十分に数えられると思う。ガナシもけなげな女性を演じて見事。ポリオーネを歌うヴィンツェンツォ・ラ・スコーラもオロヴェーロのアンドレア・パピも素晴らしい美声。

 ジュリアーノ・カレッラの指揮、フランシスコ・ネグリンの演出も不満はない。全体的に素晴らしい映像だと思った。

 

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ベッリーニ「ノルマ」2005年 カターニャ、ベッリーニ大劇場

 赤毛姿のディミトラ・テオドッシュウがタイトルロールを歌う。歌唱に関しては、チェドリンスよりも安定しているし、声も美しいだろう。容姿、演技もオペラとしては見事。ただ、チェドリンスの凄まじい演技を見た後では、視覚的にはやや印象は薄れてしまう。

アダルジーザを歌うニディア・パラチオスはとても安定している。ただ、ポリオーネのカルロ・ヴェントレ、オロヴェーゾのリッカルド・ザネッラートはともに少し声が出ていないことがあった。とはいえ、全体的には歌手陣は見事。ジュリアーノ・カレッラの指揮によるカターニャ・ベッリーニ歌劇場管弦楽団、ワルター・パリアーロの演出についても、まったく不満はない。

 

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ベッリーニ「夢遊病の女」2008年 カリアリ歌劇場

 残念ながら、アミーナのエグリゼ・グティエレスがかなり弱い。注目の若手歌手だということだが、全体的に音程が不確かで声量も不足ぎみ。確かにきれいな高音だが、高音を丁寧に歌おうとするあまり平板になっている気がする。アントニーノ・シラグーザ(エルヴィーノ)との二重唱も二人の声がしっかりと合わない。シモーネ・アライモ(ロドルフォ伯爵)、サンドラ・パストラーナ(リーザ)、そして、指揮のマウリツィオ・ベニーニ、カリアリ歌劇場管弦楽団&合唱団もリハーサル不足なのか、びしっと合わない。聴いているほうとしては少々欲求不満に陥る。ウーゴ・デ・アナの演出については、舞台も美しく、ストーリーもわかりやすくて私としてはまったく不満はない。

 

 

 

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世界文化社 オペラ名作劇場6 「セビリャの理髪師」 ロッシーニ、パイジェッロ

 

 パイジェッロとロッシーニの二つの「セビリャの理髪師」が収録DVD2枚組のムック。パイジェッロの「セビリャの理髪師」の映像を見たくて購入した。ロッシーニ作曲のものよりも30年以上前に作曲された。モーツァルトを思わせるメロディがいくつもある。とてもおもしろいし、とても美しい。なかなかの名曲だと思った。ただ、やはりロッシーニと比べると、やはり格段におとなしい。ローマ室内歌劇団の1970年の大阪フェスティバルホールでの公演を収録したもの。伯爵のアルヴィーニオ・ミシアーノ、フィガロのセスト・ブルスカンティーニ、バルトロのカルロ・バディオーニ、バジーリオのプリニオ・クラバッシはとても安定していて楽しめる。ただ、ロジーナを歌うエレナ・ズィーリオがあまりに弱い。

 ロッシーニのほうは、1992年のーデルランド歌劇場の公演。こちらは文句なしの名演だと思う。指揮はアルベルト・ゼッタ。生き生きしているだけでなく、しなやかで美しい。演出はダリオ・フォー。めっぽう楽しい。召使たちを黒子のように使い、舞台をしつらえる。それを含めてユーモアとエスプリにあふれている。歌手たちも見事。フィガロのデヴィッド・マリス、アルマヴィーヴァ伯爵のリチャード・クロフト、バルトロのレナート・カペッキ、バジーリオのシモーネ・アライモはいずれも最高レベルの歌唱。そして、ロジーナを歌う若きジェニファー・ラーモアがそれにもまして素晴らしい。私がラーモアの名前を知ったのはそれほど前のことではなかった気がするが、90年代からこんなに素晴らしかったとは。太めの声で生き生きと歌う。そして、実に美しい。ロジーナはこうでなくっちゃ!

 

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ドニゼッティ「ランメルモールのルチア」2003年 ジェノヴァ、カルロ・フェリーチェ歌劇場

 エドガルドを歌うマルセロ・アルバレスが素晴らしい。声の美しさ、声の強さ、すべてにおいて圧倒的。そのほかの歌手については悪くないのだが、私はアルバレスほどの感銘は受けなかった。ルチアのステファニア・ボンファデッリは容姿も美しいし、声もきれいなのだが、歌の躍動を感じない。エンリーコのロベルト・フロンタリ、アルトゥーロのクリスティアーノ・オリヴィエーリは、やはりアルバレスに比べると、声がくぐもって聞こえる。パトリック・フルニリエの指揮するカルロ・フェリーチェ歌劇場管弦楽団も躍動感に欠ける気がする。

 グレアム・ヴィックの演出はわかりやすいし、とても色遣いがきれいなのだが、大きな月と赤毛のルチア・・・という狂った世界の描き方はやや「ベタ」すぎるように思う。

というわけで、ちょっと不満の残る映像だった。

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2日連続の浜離宮朝日ホール 石田泰尚リサイタルに感動

 2016年7月18日と19日、連続して浜離宮朝日ホールでコンサートを聴いた。18日の東京‐ウィーン四重奏団の演奏は私の好みではなかった。19日の石田泰尚ヴァイオリン・リサイタルは素晴らしかった。

 まずは18日の東京-ウィーン四重奏団の演奏について。このカルテットは日本人3人、オーストリア人1人が2011年に結成したという。きれいなアンサンブルだということで薦めてくれる人がいたので聴いてみたのだった。「ウィーン風に奏でる最後のカルテット」といううたい文句。曲目は前半にハイドンの「ひばり」とモーツァルトの第21番(K.575)の弦楽四重奏曲。

 少なくとも私の好みとは正反対の演奏だった。当たり障りのない、勢いのない演奏。確かにウィーン風に優雅といえば優雅なのだろうが、アレグロの部分もヴィヴァーチェの部分も穏やかでゆったりとしていてアンダンテの部分と大きな差がない。ハイドンもモーツァルトも特に雰囲気は変わらず、ずっとのどかで平板な雰囲気が続く。

久しぶりにこんなに何も起こらない演奏を聴いた。音楽への切込みも何らかの解釈も、少なくとも私には感じられなかった。ただ、きれいに合わせただけ。何らかの意図をもってこのようにしているのだろうか。そうだとすると、何をしようとしているのだろう。私にはわからなかった。後半にベートーヴェンの弦楽四重奏曲第16番が予定されていたし、これこそが私の目当てだったのだが、このようなのどかで起伏のないベートーヴェンを聞くのはつらいと思って、大変もったいないと思いつつ、後半を聴かずに帰った。

19日の石田泰尚のリサイタル(11時半に始まる「ランチ・タイム・コンサート」だった)は、それとはまったく正反対で、はっきりした自己主張があり、しっかりとした美学に貫かれている。これこそが音楽だと私は思う。

最初の曲はベートーヴェンのロマンス第2番。以前、石田さんの演奏を聴いた時もリサイタル冒頭はぎくしゃくしていたが、今回も同じ雰囲気だった。きっと見かけと違ってかなり神経の細かい人なのだろう。が、だんだんと気合が入ってきて、ロマンスの途中から、実に芯のしっかりした音になった。グリーグのヴァイオリン・ソナタ第2番もとてもよかった。あまりロマンティックな思い入れをしないのは、そうすることに気恥しさを感じるからか。が、形の崩れないしっかりした抒情があるのがよくわかる。ピアノは中島剛。ピアノ伴奏も素晴らしい。ヴァイオリンをしっかりと補佐し、ともに豊かな音楽を作っている。素晴らしいピアニストだと思う。

後半はクライスラーの「オールド・リフレイン」「道化役者」「テンポ・ディ・メヌエット」「おもちゃの兵隊の行進曲」「ウィーンの小さな行進曲」、そしてプロコフィエフ(ハイフェッツ編)の「3つのオレンジの恋の行進曲」、サン=サーンス「死の舞踏」、テオドラキスの「《その男ゾルバ》より〈ゾルバの踊り〉」。

「死の舞踏」などの技巧的な曲の切れがとてもいい。しかも、俗っぽい曲を演奏しても、そして、俗っぽく演奏しても、そこに俗にまみえることのない気高い音がビンビンと響いている。なるほどこれが石田さんの言う「男気」なのか。客席は大いに盛り上がった。私も大いに感動した。

アンコールも盛りだくさん。ピアソラの「現代のコンサート」、マスネの「タイスの瞑想曲」(この演奏中、震度3程度の地震があったが、何事もなかったように演奏が続いた。もしかしたら、石田さんは地震に気付いておられなかったのかも)、ファリャ「スペイン舞曲第一番」、プッチーニ「誰も寝てはならぬ」。いずれも素晴らしい。とりわけ、プッチーニにはびっくり。特に技巧を要する曲ではないと思うが、実に美しい音。しかも、単に外面的に美しいというのではなく、気高くて抒情的。石田さんはやくざ風の格好で、アンコールの際には空手の道場着のような服装で登場。ある意味で客に媚びているように見えるのだが、音楽を聴くと、まったく媚びていない、いやそれどころか、媚びとは正反対の音楽性を感じる。これがこの人の愛されるキャラクターなのだと思う。私も大好きになった。

あっという間の2時間。楽しみ、そして感動した。

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「シアター・プノンペン」と「帰ってきたヒトラー」

 映画を2本みた。岩波ホールで「シアター・プノンペン」、TOHOシネマ新宿で「帰ってきたヒトラー」。簡単に感想を書く。

 

「シアター・プノンペン」はソト・クォリーカーという女性監督の作ったカンボジア映画。

 プノンペンに住む女子大学生ソポンは目的もなくやや自堕落な生活を送っているが、あるときプノンペンの壊れかけた映画館で自分の母が出演した映画を見る。完結編が失われたというその映画を完成させようとするうち、クメール・ルージュの時代の様々な事実が明らかになっていく。そして、様々な立場でクメール・ルージュの時代を生き抜いてきた日々との融和を訴える。

そんなストーリーだが、過去と現在が交錯し、どんでん返しがあり、人々が生きがいを取り戻すというテーマもありで退屈はしない。それにカンボジアの田園風景を描く映像が美しい。その心意気は素晴らしい。とはいえ、盛りだくさん過ぎて、ストーリー展開に無理がある。また、「ニューシネマ・パラダイス」など、これまで見た覚えのあるたくさんの映画のつぎはぎに思えるようなところも少なくない。おもしろくは見たし、魅力を感じたが、感動するほどでもなかったし、名画というほどでもなかった。

それにしても、プノンペンの変わりように目を見張った。私がプノンペンやシェムリアップ、アンコールワットなどを訪れたのは1992年だった。内戦は終わっていたが、時々銃声が聞こえ、小競り合いが続いていた。クメール・ルージュによる破壊から立ち直りつつあるとはいえ、焼け跡時代の日本と重なる風景だった。裸同然だったり、ぼろきれをまとっただけだったりの子どもたちがたむろし、バラックのような建物があちこちにあった。

ところが、この映画の中のプノンペンはネオンが輝き、高層ビルがたくさん立っている。もちろん途上国らしさは裏町には残っているが、近代的な大都会に見える。プノンペンのこの25年の変化は大きそうだ。久しぶりにカンボジアにいきたくなった。

 

「帰ってきたヒトラー」は、デヴィット・ヴェンド監督のドイツ映画。これは最高におもしろく、しかも刺激的だった。

突然、ヒトラーが2014年にタイムスリップする。本人は大まじめに自分がヒトラーであることを訴えるが、周囲は本気にしない。テレビ局をクビになったディレクターがヒトラーを題材に番組を作ろうとするうち、ヒトラーはお笑い芸人とみなされ、人気を得ていく。初めのうちはみんな笑ってみているが、徐々にヒトラーの扇動に乗っていく。ヒトラーは大衆の心の奥にある排他的で暴力的な本音を代弁したのであって、ヒトラーを生み出す状況は現代社会にも十分にある。そのような状況をこの映画は描き出していく。

しかも、ドキュメンタリー映画ふうにヒトラー役の役者がヒトラーになりきって街に出て人と話したり、現実と虚構が入り混じったりする。映画として実に手が込んでいる。なんでも利用して視聴率を取ろうとしているうちに、むしろ抜き差しならなくなっていくテレビというメディアの危険性も描かれる。そうしながら、まさしく虚構と思われていたものが現実になっていく様子が展開される。

ぞっとするようなリアリティをもった映画だった。

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「園田隆一郎のオペラを100倍楽しむ方法 ロッシーニ」を楽しんだ

201673日、藤沢市の湘南台文化センター市民シアターで「園田隆一郎のオペラを100倍楽しむ方法 vol,3 この胸のときめきを~ロッシーニの魅力」を聴いた。とても楽しかった。

このホールに来たのは初めて。いや、それどころかおそらく湘南台駅で降りたのも初めて。昨年あたりからロッシーニに夢中になっている私としては、「ロッシーニの魅力」とうたい文句にあるからにはいかないわけにはいかないと思って、35度前後の暑さの中、初めてのホールに向かった。

演奏は、園田隆一郎のピアノ、高橋薫子のソプラノ、脇園彩のメゾソプラノ。曲目はモーツァルト、ロッシーニなどのオペラ・アリアや歌曲。ロッシーニばかりのプログラムだと思って出かけたので、少々がっかり。だが、それはそれでとても良い演奏だった。

私はやはりロッシーニの歌曲「亡命者」と「赤ちゃんの歌」が楽しかった。とりわけ高橋さんの歌う「赤ちゃんの歌」はユーモアにあふれ、とてもチャーミング。そして、脇園さんの「ラ・チェネレントラ」の最後のアリアや「アルジェのイタリア女」の「ひどい運命よ」も素晴らしい。「セミラーミデ」からのアリアと二重唱を聴けたのも、とてもうれしかった。もちろん、園田さんのピアノもしっかりと歌を支えているのがよくわかる。

ロッシーニ以外では、私は高橋さんの歌うアーンの「もし私の詩に翼があれば」とアンコールの「竹とんぼ」にとても感動した。高橋さんの歌曲は実に繊細で美しい。また、脇園さんの「カルメン」のセギディーリャもみごと。

三人の話もとても楽しかった。クラシック初心者を対象としたトークだったが、もちろん私にとっても興味深い話がたくさん聞けた。三人のお人柄もわかって、おもしろかった。

・・・とはいえ、ロッシーニを楽しんでも、日本を覆う暗いニュースからは逃れられない。バングラデシュでの人質事件、そして7人の日本人の遺体確認。なんと悲しいことか。なんと残忍なことか。なんという世の中になってしまったことか。

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