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パーヴォ・ヤルヴィ+ドイツ・カンマーフィルのブラームス3番・1番

20161126日、所沢のミューズ アークホールでパーヴォ・ヤルヴィ指揮によるドイツ・カンマーフィルのコンサートを聴いた。曲目は前半にブラームスの交響曲第3番、後半に交響曲第1番。

 3番については、私はあまり感動できなかった。大好きな曲なのだが、ヤルヴィが少々いじりすぎているように思った。音量のニュアンスをつけすぎて率直な説得力が薄れてしまっているのを感じた。とりわけ第1楽章は、あまりにぎくしゃくしていた。第2楽章以降、だんだんと自然に流れるようになり、特に終楽章は持ち直した感があった。

 後半の第1番はうってかわってスケールが大きくダイナミック。音量のニュアンスもアクセントもピタリと決まって、若々しくて躍動的なブラームスが紡ぎ出された。スリリングでうねって、しかも繊細。様々な細かいニュアンスも、大きなうねりにうまくはまって、不自然に感じない。第4楽章の高揚は素晴らしかった。パーヴォはこうでなくっちゃ!

 ドイツ・カンマーフィルはとても上手なオケ。とりわけ、オーボエとクラリネットの音にうっとり。絃楽器も美しい。

 アンコールは、ハンガリー舞曲3番と6番。これもみごと。いかにもハンガリー的というか、ロマ的に自由奔放な演奏。おそらくパーヴォは即興的に振っているのだと思うが、オケがピタリとついて素晴らしい。昔、父ネーメ・ヤルヴィのコンサートで遊び感覚あふれる棒さばきに驚嘆したことがあったが、それを思い出した。そういえば、パーヴォの顔も父親そっくりになってきた。

自宅から所沢までは、電車を使うとかなり時間がかかるのだが、わざわざ足を運んだ甲斐があった。

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1月16日(月) 樋口ゼミ主催による石田泰尚・山本裕康・諸田由里子のトリオ 予約受付中!

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  以前、このブログに書きましたが、改めて案内いたします。

 多摩大学樋口ゼミは、これまでクラシック音楽コンサートの企画・運営を行ってきましたが、1月16日(月)に石田泰尚・山本裕康・諸田由里子のトリオ・コンサートを主催します。会場は仙川のフィックスホールです。

 

 言うまでもなく、石田さん、山本さんは神奈川フィルの首席として活躍中の大人気のヴァイオリニストとチェリストです。ピアニストの諸田さんとはしばしばトリオを組んでリサイタルを開き、これまでも多くの人に感動を与えてきました。

 

 今回は、多摩大学樋口ゼミの呼びかけに応じてくださり、この三人によるピアノ・トリノのコンサートが実現することになりました。曲目はベートーヴェンの「大公」などの本格的な曲のほか、クライスラーの小曲を含む誰もが知る名曲です。ぜひとも多くの方の参加をお願いします。

 

 なお、現在、ご予約を受け付けています。下記の連絡先にお申し込みください。なお、ご質問などありましたら、私宛にご連絡ください。ブログにコメントをいただき、アドレスをお知らせいただければ(ウェブ上ではアドレスは非公開になります)ご返事いたします。

 

 

 

 

 

石田泰尚・山本裕康・諸田由里子のトリオ・リサイタル

 

・演奏 石田泰尚(ヴァイオリン) 山本裕康(チェロ) 諸田由里子(ピアノ)

 

・場所 仙川フィックスホール (京王線仙川駅徒歩5分)

 

・日時 1月16日(月) 開場 1830分 開演 19時15分

 

・料金 全席自由4000円 学生 2000

 

・問い合わせ・チケット申し込み kr-b-s777@ezweb.ne.jp 090-8103-1243 (樋口ゼミ)

 

 

 

・曲目(演奏者の都合により変更されることがあります)

 

モーツァルト:きらきら星変奏曲ハ長調 K. 265

 

J.S.バッハ:無伴奏チェロ組曲第1番ト長調BWV1007

 

クライスラー:美しきロスマリン

 

クライスラー:愛の悲しみ

 

クライスラー:愛の喜び

 

アイルランド民謡(クライスラー編曲):ロンドンデリーの歌

 

ベートーヴェン:ピアノ三重奏曲第7番変ロ長調op.97「大公」

 

 

 

「公演中止の場合を除き、チケットの払い戻しはいたしませんのでご了承ください。」

 

「未就学児のご入場はお断りしています。」

 

 

 

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東京二期会「ナクソス島のアリアドネ」 世界最高の歌劇場に匹敵するのではないか!

 2016年11月23日、日生劇場で東京二期会公演「ナクソス島のアリアドネ」をみた。9月の東京二期会による「トリスタンとイゾルデ」公演でも思ったことだが、日本人歌手たちによってこれほど高レベルの「アリアドネ」が見られたことに驚嘆した。先日、ウィーン国立歌劇場公演のこのオペラを見たばかりだったが、それに匹敵する素晴らしさだった。

 シモーネ・ヤングの指揮する東京交響楽団がまず素晴らしい。実にしなやかで繊細な音。ウィーン国立歌劇場のヤノフスキのきわめて男性的な指揮によるのとは正反対の優美な音楽になっていた。確かにこの方がこのオペラにふさわしい。しかも、私は3列目で見たのだが、歌手の声量やテンポに合わせてオケをコントロールしている様子がよくわかった。さすが!

 歌手陣の見事さにも圧倒された。プロローグの部分での作曲家を歌う白𡈽理香が初々しくしっかりした声でこの難しい役をリリカルに、しかも率直に歌っていた。ほれぼれするような作曲家だった。執事長の多田羅迪夫の語りもいいし、音楽教師の小森輝彦、舞踏教師の升島唯博もまったくもってウィーンに歌手たちに劣らない。

 オペラが始まってからも、ニンフたちも三人とも美しい声でアンサンブルもいい。ハルレキンの加耒徹、スカラムッチョの安冨泰一郎、トゥルファルデンの倉本晋児 、ブリゲッラの伊藤達人、いずれも動きもいいし声も出ている。素晴らしい。これらの歌手もウィーンに決して劣らない。

 そして、やはり圧倒的だったのはアリアドネを歌う林正子。ヴィブラートの少ない清澄な声による「清らな国」のアリアに私は感動した。私の大好きなアリアだ。バッカスとの二重唱も素晴らしかった。そのバッカスを歌う片寄純也も見事に張りのある美声。この役も最高の難度だと思うが、実にうまい。ツェルビネッタの髙橋維はチャーミングな容姿と澄んだ高音が素晴らしい。大劇場で歌うには声量不足だと思うが、日生劇場くらいの大きさのホールでは十分に響き渡った。

 一言で言って、本当に素晴らしかった。ドイツ語の発音も、少なくとも私の耳には完璧に聞こえた。このままこの歌手たちがウィーンで歌っても、そのまま大喝采を浴びるだろう。東京二期会の歌手たちは今やそのレベルに達していることを改めて知った。

 演出はカロリーネ・グルーバー。これもとてもおもしろかった。プロローグは現代の歌劇場の地下駐車場前と思われる場所で展開される。新国立劇場にそっくりだと思った。オペラの部分はレストランのような場所。道化役者たちの動きが一つ一つ実にセンスがいい。最後、アリアドネとバッカスの二重唱の場面で、背景はシュールレアリスムの絵のようなファンタジーの世界になる。夢の中から出てきたような色とりどりの様々な人物が登場し、思い思いの行動をする。それが実に楽しい。最後、登場人物全員が倒れる。神であるバッカスも倒れる。いいかえれば、すべてが永遠ではなく死を迎えるということだろう。だが、最後の最後、黙役のキューピッドが観客に向かって愛の矢を向ける。愛は死なない。

 作曲家は「神聖なるもの」「永遠なるもの」「静止したもの」を求めてアリアドネを作る。だが、そこに「俗なるもの」「刹那のもの、つかの間のもの」「動き続けるもの」であるツェルビネッタが入りこむ。永遠なるもの、神聖なるものがすでに失われたこと、現代にはそのようなものは失われたことがわかってくる。それがこの「ナクソス島のアリアドネ」のテーマだろう。グルーバーは生というものを動き回り、死すべきものと捉えるが、そこに愛という永遠なものがあることを示してくれている。この解釈にも驚嘆した。

 今年はオペラの当たり年だった。いくつものオペラに感動した。今回の「ナクソス島のアリアドネ」が私が今年観る最後のオペラになるはずだ。オペラの当たり年の最後を飾るにふさわしい上演だった。

 

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堀米+カメラータ・ザルツブルクのモーツァルト協奏曲全曲に心を洗われた

 2016年11月21日、杉並公会堂大ホールでカメラータ・ザルツブルクのコンサートを聴いた。指揮はハンスイェルク・シェレンベルガー、ヴァイオリンの堀米ゆず子が加わって、モーツァルトのヴァイオリン協奏曲全5曲演奏。私はモーツァルト中期の曲はかなり好きで、昔よくレコードで聞いていた。ときどきこのような音楽を聴くと、心を洗われる気になる。5曲の協奏曲を一晩ですべて聴けるとあって、雨の中を出かけた。

 とても良い演奏だった。中庸を得た演奏といってよいだろう。速すぎもせず、遅すぎもせず、メリハリをつけすぎもせず、それでいて要所要所でしっかりと味わいがあり、起伏がある。技術をひけらかすでもなく、過度に楽しませようとするのではなく、しかし、間違いなく、そこにいるものを幸せにする。ああ音楽っていいなあ・・・としみじみと思った。

 中期のモーツァルトの音楽に人生という余計なものを加えようとすると、音楽そのものが崩れてしまう。ロマンティックな思い入れを加えても、音楽がつまらなくなる。その点、堀米ゆず子の演奏は見事だった。1980年に堀米さんがエリザベート王妃国際音楽祭コンクールで優勝した後、私は何度かこの人の演奏を聴いた。率直で、力強くて、しかも繊細で、とても楽しく聴けた。今回、久しぶりに聴いて、いっそうの円熟を感じた。つい聞き漏らしがちなモーツァルトの音の一つ一つをとても丁寧に、しかし生き生きと演奏してくれた。

 シェレンベルガー指揮のカメラータ・ザルツブルクも、アンサンブルがよく、きわめて的確に音楽に陰影をつけていく。目立つことはしないが、見事なプロの技。

 私はモーツァルトに詳しいわけではないので、実はこれらの協奏曲についても、実演は数回しか聴いていない。たぶん第1番は今回初めて聴いた。どの曲も初めて聴くカデンツァだったような気がする。とても鮮烈なカデンツァだった。

 作曲年代にそれほど差はないとされているが、やはり第1・2と3・4・5の間には大きな技術的な差があることを改めて感じた。とはいえ、第1・2も実にチャーミング。そして、第5番は稀有の名曲だと認識した。人生への思いやロマンティックな感情などといった余計なものがなく、ただひたすら音楽の楽しみというところが、実にいい。しばらく、オペラや後期ロマン派の曲ばかり聴いた後では新鮮な気持ちになる。満足して雨の中を帰宅した。

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ティーレマン+シュターツカペレ・ドレスデン とてつもない名演奏

20161118日、サントリーホールで「ザルツブルク・イースター音楽祭IN JAPAN」の演目、ティーレマン指揮、シュターツカペレ・ドレスデンによる「ラインの黄金」を聴いた。セミステージ形式による上演で、後方に小さな舞台が据えられ、簡単な演技が行われた。信じられないほどのとてつもない名演だった。

歌手陣は超バイロイト級。全員が素晴らしかった。ヴォータンを歌ったミヒャエル・フォッレがやはり歌唱、声、人物造形ともに最高のパフォーマンスを見せてくれた。そのほか、私はフライアのレギーナ・ハングラー、ファーゾルトのステファン・ミリング、ファフナーのアイン・アンガーにとりわけ惹かれた。見事な美声と見事な存在感。そして、もちろん、フリッカの藤村実穂子も堂々たる歌唱、アルベリッヒのアルベルト・ドーメン、ミーメのゲアハルト・ジーゲル、ローゲのクルト・シュトライト、エルダのクリスタ・マイヤーもそれぞれの役の現在考えられる限り最高の歌唱だったと思う。ドンナーのアレハンドロ・マルコ=ブールメスター、フローのタンセル・アクゼイべク、そして、三人のラインの娘たちも素晴らしかった。まったく難点のない歌手陣というだけでなく、一人一人が図抜けていた。

しかし、それよりなにより私がひたすら驚嘆したのは、ティーレマンの指揮するシュターツカペレ・ドレスデンだった。なんという精緻で美しく厚みがあり、機敏で、しかも潤いがありドラマがあり人間性のある音であることか。ドラマが大きく盛り上がっても少しも音が濁らず、音と音が精妙につながりあって最高の重層的なアンサンブルを作り上げる。そして、そのすべてがまさしくワーグナーのドラマの求める音になっている。ふだん、オーケストラピットに隠れているために見えない音が目の前に展開されるのに興奮した。ティーレマンはとてつもない指揮者だと改めて思った。いや、数年前に、ザルツブルクで「影のない女」をみたときにその圧倒的な指揮ぶりに度肝を抜かれたのだったが、今回はそれ以上に驚嘆したのだった。

あまりにすごかったので、これ以上は私には書くことがない。ただひたすら。「あそこがすごかった」「あの歌手がよかった」「あの部分のオケがすごかった」ということしかできない。

 ただ実は、私は腰痛に悩んでいた。終演は21時20分を過ぎていた。2時間50分ほどサントリーホールで休憩なしで同じ姿勢をとっていたことになる。これは腰痛持ちにはかなりきつい。来年の3月に定年退職した後は、事情の許す限り、バイロイトをはじめとする世界にいってワーグナーの上演をみたいと思っていたが、体力的に心配になってきた。素晴らしい演奏とは別に、自分の体力の限界を感じて少々気がめいった。

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映画「彷徨える河」をみた

 久しぶりに映画館で映画をみた。夏にみた「帰ってきたヒトラー」以来だろう。渋谷のイメージ・フォーラムにて。

 チロ・ゲーラ監督によるコロンビア映画。アカデミー外国語賞にノミネートされた作品であり、アマゾン河を舞台にしてシャーマンとの交流を描いていると聞くと、みにいかずにはいられない。ごく一部の「夢」の部分をのぞいて、ほとんど全編がモノクロの映画。失われた時代であることを示すためのモノクロなのだろう。

 美しい場面はたくさんある。アマゾン川、川辺のジャングル、舟をこぐ人間など、原初的な人と自然との交わりを感じさせて実に詩的。昔みたサタジット・レイ監督のインド映画「大地の歌」「大河の歌」を思い出した。

 19世紀末と1940年代にアマゾンを訪れた二人の西洋人の学者と行動を共にしたシャーマンであるカラマカテを中心に話は進む。二人の学者がカラマカテを案内人として出会う出来事を描くロード・ムービーといってよかろう。西洋文化が入りこんで歪んでしまったアマゾンの状況に二人は出会う。だが、二人とも西洋の知や西洋的価値観という余計な荷物を持っているために感性によってアマゾンの世界と対面することができず、なかなか真実にたどり着くことができない。最後、植物学者は聖なる薬草ヤクルナの最後の一本を見つけ、真実の夢を見るが、その木も失われる。

 ほとんど予備知識なしにこの映画を見たので、わかりにくいところがたくさんあった。40年以上隔てた二人の学者のアマゾン探検が交互に描かれるが、そもそもその二人の学者にどのような関係があるのか、両者にどのような時間的な隔たりがあるのか、案内をする青年と老人にどのような関係があるのか(結局は同一人物であり、その二人は若いころのカラマカテと年齢をへたカラマカテなのだが、そのことを私が確信できたのは、映画のほとんど終わり近くになってからだった)すぐにはわからなかった。アマゾンというほとんど歴史による変化の見えない風景の中では、その時間差を感じることは難しかったし、個人名や民族名、植物名などの聞きなれない名詞が頻出して混乱した。見終わってパンフレットを読んで、二人の学者が実在の人物をモデルにしており、彼らの残した記録がこの映画に用いられていることを知って、やっと納得できたのだった。

 とても美しい映画だったが、私がこの映画から読み取ったのは、西洋文明の罪、西洋的知性の限界、自分の民族の感性を取り戻すことの重要性、それぞれの民族が自らの始原の物語を持つことの重要性・・・という聞きなれたメッセージでしかなかった。その点で少し物足りなさが残った。様々な場面に寓意が込められており、ヘビ(アマゾンの象徴だろう)、ジャガー、薬草、ゴムの木などに象徴的な意味があることはうかがい知れるが、私に理解できる限りでは、それも図式化されすぎている気がした。いや、もっと言えば、その象徴の使い方などが、むしろきわめて西洋的な気がした。もっと非西洋的な映画作法を用いてほしかった。

 また、キリスト気取りの青年(19世紀末のカプチン派による宣教の悪しき影響として描かれている)、燃えるヤクルナの木、カラマカテの呪術の効果などリアリティに欠ける場面が気になった。寓話なら寓話ということで、むしろもっとリアリティを意図的になくすこともできると思うが、その点で中途半端な気がした。

 といいつつ、やはりコロンビアの状況や南米の文化についての私の知識が不足しているために十分に理解できなかった面があるのかもしれない。ともあれ、アマゾンの奥地に住む原住民の価値観の一端に触れることができた。そして、それぞれの民族が始原の物語それについてはきわめてリアルであり、この映画作成に携わった人々の真摯な思いを理解することはできた。

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グルベローヴァ ソプラノ・リサイタル このコンサートのことは一生忘れない

 2016年11月12日、川口リリア・メインホールでエディタ・グルベローヴァ ソプラノ・リサイタルを聴いた。ピアノは先日の東京オペラシティでのコンサートでプラハ国立歌劇場管弦楽団を指揮したペーター・ヴァレントヴィッチ。言葉をなくす凄さ。最高のコンサートだった。

 前半はスラブ系の歌曲。チャイコフスキーの「6つの歌 op.16」からとリムスキー=コルサコフの「春に」から2曲ずつ。そのあと、ドヴォルザーク「ジプシーの歌」全曲。

 私はこれまでずっとグルベローヴァはあくまでもオペラ歌手であって、歌曲に関しては、私がこれまで夢中になって聴いてきたシュヴァルツコップやクリスタ・ルードヴィヒやジェシー・ノーマンに比べると繊細さに欠けると思っていた。だが、まったくそんなことはない。かつて聴いたグルベローヴァの歌曲の録音からは考えられないほどの円熟。チャイコフスキーの最初の曲目「なぜ?」の最初の小さな声のしなやかで美しいこと! 一声で観客を引き付け、完璧にコントロールされた美しい声で、細やかに歌う。「ジプシーの歌」は自然とともに過酷に生きる人々の心の奥を描くような繊細さが素晴らしかった。「わが母の教えたまいし歌」はとりわけ絶品だった。グルベローヴァは歌曲についても現在最高の歌手だと知った。ぜひとも、これから歌曲を歌ってほしい。得意にしていたシュトラウスの歌曲をこれからもっと聴きたい。

 後半はシャルパンティエの「ルイーズ」やプッチーニの「つばめ」の「ドレッタの夢の歌」、デラックァの「牧歌」アリャビエフの「夜鳴きうぐいす」、ヨハン・シュトラウスⅡの「こうもり」のアデーレの「侯爵様、あなたのようなお方は」など、コロラトゥーラ・ソプラノの定番曲のオンパレード。前半抑え気味に深く沈潜した思いを歌ったのに対して、後半は華麗さを前面に出す。そのすべての声の素晴らしいこと!! まさしくコロラトゥーラ・ソプラノの技巧を最高レベルで味わうことができた。

 完璧にコントロールされた美しい高音がホール中に響き渡る。人間の声がこれほどまでに美しく響くこと、それどころか人間にこれだけ声をコントロールできるということそのものにまず素直に驚く。奇跡というか超人的というか。しかもこの人が70歳だというのだから信じられない。まったく衰えていない。11月9日の東京オペラシティのコンサートも素晴らしいと思ったが、それ以上に好調だと思う。リリアホールは、オペラシティのコンサートホールに比べて響きが悪いが、それでもホール全体がグルベローヴァの声で響きわたる。声の奇跡、音楽の愉楽の心をときめかせ、驚き、感動し、陶酔する。

 しかも、エンターテインメントとしても実にこなれている。アデーレのアリアでは、突然ピアノ伴奏のヴァレントヴィッチが合唱の部分を歌いだし他のには笑うしかなかった。二人の無言のやり取りがおもしろい。観衆の大喝采に応えてのアンコールは、最初はスメタナの「キス」。初めて聴く曲。チェコ語なのできっとスメタナだろうと思ったが、曲名は後でネットをみて知った。そのあとピアノソロでラフマニノフのピアノ協奏曲の抜粋版。

次になんと「タンホイザー」からエリーザベトのアリア「歌の殿堂にて」。これには驚いた。アンコールで夜の女王のアリアかツェルビネッタのアリアを歌ってくれるとこんなうれしいことはないと思っていたが、ワーグナーをこよなく愛する私としては、それ以上のうれしさ。グルベローヴァのワーグナーを実演で聴けるなんてこんな幸せなことがあるだろうか。しかも、それが実に素晴らしい。十分にドラマティックなエリーザベトだった。これからぜひともこの役でバイロイトに出演してほしいと思った。

最後に「さくら」を日本語で歌った。もちろん、ちょっとイタリア語っぽい日本語だったが、それでも実に明瞭な発音。しっかりと言葉が聞き取れ、しかも本当に美しい。

今日もまた心の底から感動した。心の底から幸せだった。グルベローヴァを最初に聴いた1980年の「ナクソス島のアリアドネ」とともに、この日のコンサートも一生忘れないだろう。

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ウィーン国立歌劇場公演「フィガロの結婚」を堪能した

2016年11月10日、神奈川県民ホールでウィーン国立歌劇場公演「フィガロの結婚」をみた。堪能した。

 歌手陣はとてもまとまりがよかった。アンサンブルがよく、全員が素晴らしい。とりわけ、私はスザンナを歌ったローザ・フェオーラのヴィブラートの少ない澄んだ声にひかれた。音程がよく、まっすぐに声が伸びる。第一幕の、マルチェリーナ役のマーガレット・プラマーとの互いに中傷し合う二重唱はことばをなくような美しさだった。

アルマヴィーヴァ伯爵のイルデブランド・ダルカンジェロも太くて強い声で、さすがとしか言いようがない。フィガロのアレッサンドロ・ルオンゴ、ケルビーノのマルガリータ・グリシュコヴァもとてもよかった。ただ、伯爵夫人のエレオノーラ・ブラットは、ヴィブラートが強くて、私は少々苦手なタイプの歌手だった。とはいえ、もちろん感動を妨げるほどではない。歌手たちの声がそろっているので、アリア以上に重唱の部分がうっとりするほど美しかった。第四幕幕切れの重唱はまさしく鳥肌ものだった。

 実はリッカルド・ムーティは私の苦手な指揮者の一人なのだが、こうして聞くと、とてもいい。音楽に弾力があり、生き生きとして、ワクワク感を作りだす。演出はジャン=ピエール・ポネル。名演出として名高いもので、私はこれまで実演も映像も何度かみた記憶がある。とても良かったが、そろそろ別の演出を見たい気がする。

 いまさらながらこんなことを言うのも愚かだが、モーツァルトのオペラを久しぶりに見ると、そのとてつもない天才を改めて感じる。本当に信じられないほどの美しい音楽の連続。本当によくできている。音楽にひたすら身を任せ、音楽と一体化する。なんという愉悦。

 本日もまた満足なり。とはいえ、オペラやコンサートが続き、お腹いっぱいの感じ。ちょっと「休音楽日」を作りたい気持ちになった。

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グルベローヴァのオペラの名場面に興奮

 2016年11月9日、アメリカ大統領選挙でドナルド・トランプ氏が勝利し、世界の先行きが不透明になった日、私はのんきにオペラシティ・コンサートホールで、グルベローヴァのオペラ名曲コンサートに出かけた。いやはや興奮した。このところ、コンサートやオペラに行くごとに、その素晴らしさに圧倒されているが、今日もまた名人芸に酔いしれた。

 私が最初にグルベローヴァの実演に触れたのは、忘れもしない、1980年のウィーン国立歌劇場引っ越し公演のときだった。ベーム指揮の「ナクソス島のアリアドネ」でグルベローヴァはツェルビネッタを歌った。それ以前からFM放送によるザルツブルク音楽祭の録音によってすごさを知っていたが、実演をきいて天地がひっくり返るくらいびっくりした。すさまじい声だった。ふだん、私は演奏家のサインをもらうことはないのだが、その時ばかりは東京文化会館の出口待ちしてサインを求めた。

それから36年。今、グルベローヴァは70歳だという。きっと昔ほどの声の力はなくなっているのだろう。音程が決まるまでにふらふらすることが何度かあったが、全盛期にはこんなことはなかったのだろう。高い声がかすれることも何度かあったが、これについても全盛期にはもっともっと美しい声が響き渡ったのだろう。だが、たとえそうであっても、あまりに凄まじい。まさしく奇跡としか言いようがない。70歳とは思えない。現在、これほどの声と歌唱力を持っているソプラノ歌手は世界に数えるほどしかいないだろう。いや、もしかすると現在でも世界随一のコロラトゥーラ・ソプラノかもしれない。

曲目は前半に、ドニゼッティの「ランメルモールのルチア」と「ロベルト・デヴリュー」から、狂乱の場など。後半はベッリーニの「清教徒」第2幕と「異国女」より。アンコールは「トゥーランドット」のリューのアリアと「こうもり」のアデーレのアリア。オーケストラはプラハ国立歌劇場管弦楽団、指揮はペーター・ヴァレントヴィッチ。

十分に美しい声がビンビンとホール全体に響き渡る。私は6列目中央で聴いたが、軽い耳鳴りがするほどの威力。昔ほどではないにしても、今でも十分に声がコントロールされている。そして、それ以上に、感情表現、音楽の盛り上げが素晴らしい。昔、アリア集のCDを聴いた時、声の威力だけで勝負しているのを感じたが、今では声の威力にまして表現力があり、観客を引き込む力がある。時々、私はあまりの美しさに陶然となった。人間にこれほどの声が出せるのか・・・というプリミティブな驚きを改めて覚えた。オーケストラも実に良かった。ぴたりとグルベローヴァに寄り添っていた。

私はドイツ音楽びいきなので、アンコールでアデーレのアリアを歌ってくれたのは実にうれしかった。まさしく声の快楽。歌の愉楽。

 今年の秋は、オペラの面で最高に充実している。毎日のように私は音楽に興奮している。こんなに幸せでよいのだろうかと思ってしまう。

 ああ、それにしてもトランプが大統領になったら世界はどうなるのか。帰りの電車の中で現実に戻って憂鬱になった。

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「ごしてんのう」のこと

4、5年前のことだ。「ごしてんのう」という言葉を50数年ぶりに突然、口にしたのは、母だった。なぜそんな話になったのか、まったく憶えていない。母はまだ元気で、記憶も判断力もしっかりしていた。「あんたはよく、ごしてんのうに遊びに行っていたよね」。そんな話をしたのだった。

「ごしてんのう」。まるでかすかな色や臭いから前世での出来事を掘り出すように、私はその言葉を自分の昔々の過去の中から取り出した。

 私は大分県日田市で生まれたが、5才から小学校4年生の終わりまで(1957年から1961年までだったか?)同じ大分県の中津市で暮らした。その時代、田舎はどこもそうだったのか、それともその地域だけだったのかはよくわからないが、中津市上宮永四丁目の子どもたちは集団になって遊びまくった。野原や川に入り、木や竹を切ってチャンバラごっこをし、市販のものだけでなく、手製のバットやグローブを使って野球をした。コマ回し、めんこ(私たちはパッチンと呼んでいた)、相撲、プロレスごっこ、缶蹴り、鬼ごっこ、虫取りなどなど。なぜかその地域には男の子が多かったので、荒っぽい遊びばかりしていた。下は幼稚園児、上は中学生までの10人以上の集団で遊んだ。私はおとなしくて泣き虫で、すべての遊びがほかの子どもたちに比べてめっぽう下手だったが、それでも年上の友だちのあとについて、ときに泥だらけ、傷だらけになりながら遊んでいた。

 そんな私たちが、ときどき意を決して遠出し、探検のつもりで出かけたのが、「ごしてんのう」だったのだ。

 が、実は「ごしてんのう」でどんな遊びをしたのか、定かな記憶はない。ただ、うっそうとした木が茂り、薮が広がり、虫がいて、ヘビがいて、ぼやぼやしていると置いてけぼりを食う、いやそれどころか神隠しにあってしまう・・・。そんな恐怖を呼び起こす場所だった記憶がある。臆病者だった私は子どもたちで「ごしてんのう」に行くことになると、心の底で、「とりやめになってほしい」「誰か反対してほしい」と思いながら、だからといって反対を口にするのも恥ずかしくて、みんなに従っていた。ごしてんのうは、子どもの脚ではかなり遠くにあったので、帰りが遅くなった。暗くなることもあった。それもまた怖かった。「ごしてんのう」がどんなところかは覚えていないが、何かしら薄気味悪く怖い気分だけは今もはっきりとよみがえる。

 それにしても、「ごしてんのう」とは何だったのか。なぜ、そんな名前で呼んでいたのか。由緒あり気な言葉の響きではあるが、その正体がわからずにいた。そして、中津を離れ、大分市で暮らすようになった。その後もしばらくは「ごしてんのう」のことを思い出していた。だが、時がたつうちにそのまますっかり忘れ去った。

 そして、つい先ごろ。老人ホームで暮らし、認知症のために時々つじつまの合わないことを口にする母が、また「ごしてんのう」のことを言いだした。「中津にいたころは楽しかったねえ」「あんたが、ごしてんのうに行くと、帰りが遅くなるんで心配することが多かったねえ」。そんな話を始めた。

 4、5年前に母が「ごしてんのう」の話をしたときにも、ネットで調べてみた。だが、確証は得られなかった。「中津 ごしてんのう」と検索しても、何も引っかからなかった。

中津時代にともに子供時代を過ごした久恒啓一・多摩大学副学長(昔、「ケイボちゃん」と呼んでいた。100メートルと離れていない家に住み、行動を共にしていた)に「ごしてんのう」を覚えているのかを尋ねてみた。もちろん、良く覚えていた。が、やはり細かい記憶はなかったようだ。「一体何だったんだろうね。どんな漢字を書くかわかるといいんだけどねえ」などと話しただけだった。

ところが、次に母の老人ホームで話をしたとき、また「ごしてんのう」の話になった。母を前にして老人ホームでスマホを使って調べてみたら、すると、今度はすぐに出てきた。

「牛頭天王(ごずてんのう)」。これが、私たち、当時の子どもが「ごしてんのう」と呼んでいたものの正体だった。

 福岡県上毛(こうげ)町に牛頭天王公園があるという。上毛町は山国川を挟んで中津市の隣の町だ。「牛頭天王」というのは、「神仏習合の神。釈迦の生誕地に因む祇園精舎の守護神」とのこと。ネットに公園の写真が出ていた。きれいに整備された公園。記憶の中の「ごしてんのう」とはあまりに違う(その写真を見た久恒副学長もそのような感想を漏らしていた)。しかし、私たちの記憶の中の「ごしてんのう」は60年近く前のものだ。きっとその後に整備されたのだろう。地図で見ても、私たちが住んでいた中津市上宮永4丁目から、子どもでも行ける距離にある。

 長年の謎が解けた気がした。すぐに母に報告した。久恒副学長にもメールした。私の子ども時代、母がまだ30歳前後だったころの出来事が今また蘇った気持ちになった。

 長々と書いたが、たいした話ではない。このところ、ずっとこのブログに音楽、特にオペラの感想ばかり書いてきたので、久しぶりに違うことを書きたくなったのだった。

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ウィーン国立歌劇場公演「ワルキューレ」 最高の体験!!

2016116日、ウィーン国立歌劇場公演「ワルキューレ」をみた。圧倒的な上演だった。最高の体験だった。

歌手陣が現代最高の顔ぶれ。何よりも、ニーナ・シュテンメ(昨日、METライブビューイングの「トリスタンとイゾルデ」では、配布された配役表に基づいてステンメという表記にした)のブリュンヒルデが言葉をなくすような歌と演技。これまでのブリュンヒルデ歌手以上に豊かな声量と美しい声なのだが、女性らしい柔和な声質と容姿を備えている。しかも表現力が実に豊か。第三幕のヴォータンとのやり取りなど、涙なしには聴いていられない。私はCDや映像ではこの人の歌に親しんできたが、実演は初めて。最高のワーグナー歌手であることを確認した。歴史に残る名歌手の一人に数えてよいと思う。

 ヴォータンのトマス・コニエチュニーも実にいい。豊かな声量で強く歌い、迫力がある。ただ、あまり高貴な声質ではないので、これまでヴォータンを得意にした歌手たちとは多少異質といえるかもしれない。しかし、もちろんこれはこれで別のタイプのヴォータンとしてとてもいいと思う。

 フリッカのミヒャエラ・シュースターも強い声がこの役にぴったり。本当にこの人は癖のある役がうまい。憎々しく皮肉たっぷりなフリッカ。ジークリンデのペトラ・ラングも、ちょっと癖のある歌い方ながら、虐げられ、ひたむきなジークリンデ像を作り上げて見事。容姿的にもぴったりだった。ジークムントのクリストファー・ヴェントリスも見事な美声で若々しく歌い、とてもよかった。そして、フンディングを歌ったアイン・アンガーも以下にも悪役の強い声が素晴らしかった。歌に関してはまったく文句はない。

 ウィーン国立歌劇場管弦楽団も素晴らしいが、指揮のアダム・フィッシャーがすごいというしかない。第一幕の前奏の最初のいくつかの音で観客も一挙にワーグナーの世界に引きずり込んでいく。昔風のワーグナー指揮者の、小細工をしないでじわじわとうねりを作るのとは違って、波乱万丈で、ドラマティックでキレの良いワーグナー。しかも、それほど主知的な感じではなく、うねりがあり、じっくりとした感情の高まりもある。なるほどこんなワーグナーもあるのだと思った。

 演出はスヴェン=エリック・ベヒトルフ。簡素な舞台で、特に新しい解釈はなかったように思う。第三幕では、大きな木馬がいくつか据えられ、それらがCGによる日によって燃え上がるように描かれる。

 何はともあれ、音楽的にはこれは最高の上演だった。感動し、涙を流し、全身痺れ、オーケストラの音とすべての歌手の声にうっとりし、それぞれの力量に感服した。

新国立劇場「ワルキューレ」、マリインスキー劇場公演「エフゲニー・オネーギン」、東フィル「イリス」(演奏会形式)、ウィーン国立歌劇場「ナクソス島のアリアドネ」、藤沢市民オペラ「セミラーミデ」・・・とこのところとても素晴らしいオペラをいくつか聴いてきたが、その中でも今日の「ワルキューレ」は格別だった。いやあ本当にワーグナーはいいなあ・・・、ワーグナーを好きになったおかげで心の底から感動するという体験を何度もさせてもらったな・・・とつくづく思った。

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METライブビューイング「トリスタンとイゾルデ」 言葉をなくす凄さ

 2016115日、東銀座の東劇でMETライブビューイング「トリスタンとイゾルデ」の試写をみた。201617年のシーズンの幕開けの上演だ。演奏については言葉をなくす凄さ。

 圧倒的なのはイゾルデを歌うニーナ・ステンメ。強靭で太いドラマティックな声だが、色気があり柔和さがある。しかも演技力もあって、まさしくイゾルデそのもの。第一幕からあれだけ歌いながら、最後の「愛の死」までまったく声の伸びが衰えない。最後の場面ではあまりの感動に涙するしかなかった。

 もう一人特筆するべきはマルケ王のルネ・パーペ。この人の声はこれまで生でも何度も聴いたが、相変わらず衰えない。太くて周囲を圧倒する声の威力を持っている。が、それだけでなく、マルケ王の心境を実に細かく歌っているのにも驚いた。

 トリスタンのスチュアート・スケルトンもとてもいい。美しい強靭な声が最後まで崩れなかった。イゾルデと二重唱でもまったく負けておらず、最高のハーモニーを作りだしていた。エフゲニー・ニキティンによるクルヴェナールも、演出のせいもあるのだろうが、あまり従順ではない、ならず者風の人物像を出しておもしろかった。エカテリーナ・グバノバによるブランゲーネは逆に従順で生真面目。声に関しては二人とも申し分ない。現代考えられる最高の歌手陣だと思う。本当にすべてが最高の歌唱だった。

 サイモン・ラトルの指揮するオーケストラもすさまじかった。私はラトルの指揮する演奏を聴くと、宮崎駿監督のジブリ映画(たとえば「もののけ姫」)のいくつかの場面を思い出す。細部に至るまで生命力を持って描かれ、ものであってもまるで生き物のように動いている。ラトルの指揮も音が生命をなしている。そのため、彼が「トリスタン」を振ると、汎神論的世界になる。まるでトリスタンとイゾルデの生きた世界が、神が宿りすべての生物が神の恩恵を受けて輝くような世界に思えた。実を言うと、時々そのような音の世界をうっとうしく思う部分もあったが、聴かせどころなど最大の効果を発揮する部分も多かった。

 マリウシュ・トレリンスキの演出もおもしろかった。舞台は現代に変えられている。海が強調され、揺れ動く生命、すべてが一体化する宇宙を描こうとしている。そこに太陽、ライターの光といった生命を思わせるものが現れる。一人一人の生と死、海のように広がる世界との一体化というテーマが見える。ただ、円形のレーダーが何度も出てくるのは、よく理解できなかった。「円」という一体化、見えないもの見えるようにするという象徴なのだろうか。また、マルケ王の属すグループ(当然、トリスタンもその一人)がナチスを思わせるような軍服を着ており、トリスタンが傷を受けるのがピストルによることについても私にはその意図がよくわからなかった。第二幕の最後、ブーイングが起こっていたようだが、きっとこのような演出に向けたものだったのだろう。

「トリスタンとイゾルデ」は、50年近く前から私の好きなオペラの不動のトップを占め続けている。第二位以降は私の年代とともに変わってきたが、一位だけはずっと「トリスタン」だった。その「トリスタン」で、これほどの名演奏を映像で見られて実にうれしい。シーズンの開幕を告げるにふさわしい圧倒的名演といってよいのではないか。第二幕と第三幕で何度か感動のあまり身体中がしびれた。

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ブロムシュテット+バンベルク響 身体が痺れ、感動の涙が出た

 2016112日、サントリーホールで、ヘルベルト・ブロムシュテット指揮、ベンベルク交響楽団のコンサートを聴いた。曲目は、前半に諏訪内晶子が加わって、ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲。後半にベートーヴェンの交響曲第5番。このところ、ずっとオペラばかりみていたが、久しぶりのオーケストラ。

 ヴァイオリン協奏曲については、ブロムシュテットはかなり抑え気味に思えた。諏訪内晶子のヴァイオリンは美しい音を紡ぎだして素晴らしい。ただ、私としては、後半の「運命」のほうにずっとひかれた。バンベルク響も全力で指揮に応えているのがよくわかる。

 バンベルク響は、昔々、カイルベルトが指揮していたころのような田舎臭い音ではなく、もっとずっとクリア。溌剌として生き生きとして、音の一つ一つが実に美しい。ブロムシュテットは特に目立つことはしていないように聞こえるが、どの音も理にかなっている感じがする。すべてがバランスよく、すべての音に納得する。弛緩するところはまったくなく、自然に音が流れる。そうでありながら、要所要所で感動に導く。すごい! すべての楽章が素晴らしかったが、私は、やはり第四楽章の最後の5分間くらいに言葉をなくすくらい圧倒されていた。

 アンコールは「エグモント序曲」。これも最初から最後まで言葉をなくす凄さ。これほど明瞭にクリアに明るい音で展開されながら、英雄の悲痛な思い、ドラマティックな人生が伝わってくる。エグモントの死後の最終部分のまさしく「苦悩の後の勝利」の場面の躍動感は見事。50年以上前、大好きな曲の一つとしてしばしばレコードを聴いていたこの曲を久しぶりに聴いて、心の底から揺すぶられた。身体が痺れ、感動の涙が出てきた。

 ブロムシュテットは今年89歳になるという。一体、この人はどうなっているんだ?? まったく老いを感じさせない若々しい音楽。これまで聴いてきた巨匠たちは、晩年、テンポが遅くなり、重厚になっていったが、ブロムシュテットはまったくそんなことがない。驚異の巨匠としか言いようがない。感動をかみしめながら自宅に帰った。

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