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ミャンマー旅行 その1

 2018127日から31日まで、ミャンマー旅行に出かけていた。ミャンマーを個人で動くのは難しそうなので、クラブツーリズムのツアーを選んだ。個人的な制約から、今回も35日の弾丸ツアー。とても良い旅だったが、私には少々ハードすぎた。あまりにハードなため、ブログを書く時間を持てなかった。遅くホテルに到着し、一休みしてすぐに寝て、翌朝早朝に出発するというパターンだった。ただ、入門者にとっては最高の旅だと言えるかもしれない。

 

1日目 2018127

 27日の午前中に成田を出て、ANAの直行便で、夕方、ヤンゴン国際空港着。空港は真新しい。日本車が送迎に並んでいる。車の85パーセントが日本車だという。ただし、もちろん中古車。

 その後、日本の温泉地のホテルの名前が車体にそのまま残っているかつての温泉客送迎バスの中古車でネピドーに向かった。ミャンマーでは、車に日本語などの表示が残っているほうが、性能がよいとのことで喜ばれるという。ネピドーは2006年からミャンマーの首都となっている。

 8時間飛行機に乗った後なので、すぐにホテルに入りたいところなのだが、ネピドーまでバスで5時間かかる。バスから見た感じ、マニラなどと大きな違いを感じない。小さな店があり、屋台があり、車やバイクが行きかっている(ただ、バイクはヤンゴンの中心街には乗り入れ禁止だという)。違うのは、男女ともにロンジーという腰巻をしている人が圧倒的に多い。そして、多くの女性が顔にタナカと呼ばれる木の粉を塗っている。男性にも塗っている人がかなりいる。頬っぺたや額、時には鼻の頭まで白いペンキ状の跡がある。ガイドさんももちろんタナカを塗っている。日焼け止めであり、化粧の一種だというが、正直言って、日本人としてはこの美意識は信じられない。

 温泉客の送迎バスなので、数十分の移動を前提にしたものなのだろう。椅子の感覚が狭くて窮屈。20年くらいたっている車だろう。乗り心地も悪い。しかも、途中でタイヤがパンクして1時間半のロス。ネピドーのホテルに着いたのはなんと夜中の12時過ぎだった。

 夕食はバスの中で弁当が配られた。唐揚げ2つ、アジの塩焼き一切れなどの入った、日本式の弁当。日本人が経営する弁当屋さんのものらしい。うーん、ヤンゴンまで来て、ぼろバスの中で日本式の弁当を食べるなんて! ツアーは八人。高齢者が多い。そのうちの四人は高齢のご夫婦。

 1日目は移動しただけで終わった。高速道路を通ったが、かなり暗かった。道はかなり凸凹がある。途中、サービスエリアに二回寄った。ネオンがあちこちにあり、大きな音で音楽がかかり、現地の人が焼き鳥などを楽しそうに飲み食いしていた。大型バスが何台もやってきていた。ガイドさんの説明によると、列車はバスの1.5倍くらいの時間がかかるので、バスを使う人が多いという。

 ガイドさんは30代?の女性。日本語もかなり上手。熱心で、きわめて有能。この人がいなかったら、トラブルに多かった今回のツアーはひどいものになっただろう。ツアーコンダクターの重要性を改めて認識した。

 寒い。ミャンマーは暑いのだと思っていたら、それほどではない。昼間は30度を超すようだが、ネピドーは15度くらい。厳寒の日本から出かけてきたので、冬用の服はたくさん持っているので問題はないが、意外だった。

 軍事政府の影、ロヒンギャ問題など、少なくとも私にはほとんど感じられない。

 

2日目 128

 朝の515分モーニングコール、6時朝食、7時出発。朝が苦手で、スケジュールに追われるのが大嫌いな私には大いにつらい。

まずネピドー見物。ただ、首都といってもまるでゴーストタウン。政治的な中心として建設されたようだが、少なくとも今のところ、機能しているようには見えない。真新しいビルや立派な建物、整備された道路はあるが、人影が見えない。車もめったに通らない。ここには300を超すかなり高級なホテルがあり、もっとカジュアルな宿泊所もたくさんあるとのことだが、客がいるようには見えない。政治的な何かのイベントが行われるときには人が集まるのかもしれないが、ふだんは人気がないようだ。

 国会議事堂を外から見学。その前に、片側10車線の道路もみた。車もほとんど通らない(1分に1台も通らないのではないかと思う)ので、まるで滑走路。実際、有事の時には滑走路として活用できるように考えられているらしい。

 その後、ウッパタタンティ・パゴダをみた。ヤンゴンにあるシュエダゴン・パゴダのレプリカだという。金ぴかの仏塔。周囲に八曜にまつわる仏像がある。生まれた曜日(西洋暦による曜日)をミャンマーの人は大事にするということで、自分が生まれた曜日の守り仏を信仰しているらしい。ガイドさんが渡してくれた早見表によると私は月曜日に生まれたようなので、月曜日の人を守ってくれて、健康と幸運をもたらしてくれる仏様にとりあえずお参りした。が、キリスト教起源の曜日が、なぜ仏教と結びつくのか納得いかない。

 その後、4時間ほどかけて、大観光地バガンに行った。

 しかし、それにしても・・・。わざわざ長い時間をかけて、ネピドーにまで来る意味があったのだろうか。たいして見どころはなく、ただ疲れただけ。ヤンゴン到着後、すぐに飛行機でバガンに向かっていれば、もっと楽でもっと楽しかっただろう。おそらく、国策として、ミャンマー政府が今はガラガラのネピドーのホテルに客を呼び込んでいるのだろう。ネピドーの存在を世界に紹介したい意味もあるのだろう。仕方がないと思うことにした。

 

 バガンは素晴らしかった。バガンは仏教建築群のある町だ。11世紀にこの地を都として王朝が栄え、多くの寺院が建てられた。数千の大小の仏塔があり、オールド・バガンでは至る所に宗教遺跡が見える。灌木がはえただけの乾いた茶色の土地に、古い石造りの仏塔が次々と現れて、まさに壮観。京都の伏見稲荷には朱色の鳥居がずっと続くが、それを散らばらせたな感じで、古い石造りの仏塔が数キロ平方メートルの間に点在している。聖なる空間を感じる。

11世紀に建てられたアーナンダー寺院見学。東西南北に金箔を施された仏の立像があり、周囲に古い壁画がある。南北の二体の仏像は王族が近くから見ると厳しい顔に見え、庶民が遠くから見ると温和な顔に見えるという。シュエジゴン・パゴダもみた。

ただ、これらを見ているうち、既視感に襲われた。スリランカやチェンマイでみた仏塔ととても良く似ている。仏塔も似ているし、様々なデザイン、寺院のいわれなどもそっくりだったりする。そして、後に少し詳しく書くが、スリランカやチェンマイの寺院よりも厳かさに欠ける気がする。

各地に仏教遺跡があり、それぞれに釈迦の髪やら歯やら骨やらを祀り、その地に寺院を建てた由来を示す伝説がある。建物の様式、素材も少しずつ違うが、素人目には区別がつかない。仏教がインターナショナルに広まっていったということだが、おそらくそれぞれの土地の特質があるのだろう。もう少し、しっかりと勉強してしっかりと見なければ、私にはもったいない気がした。

夕方、高台に行って、バガンの日没を見た。近くの空き地に合計数十台の観光バスやミニバスや乗用車が停車しており、丘の上にはたくさん人(200人程度?)の人が集まっている。意外と英語は聞こえてこない。中国語も多くない。フランス語が多く聞こえる。日本人も多い。

日没は壮観だった。灌木がぽつぽつと立ち、草が生える乾燥地帯に数十、数百の仏塔が立ち並び、その向こうに太陽が沈んでいく。神聖にして壮大。太陽と仏塔と平原。日没後の夕焼けも美しかった。

その後、ライトアップされた遺跡を見てホテルに戻った。

素晴らしかった。とはいえ、これでは京都に行って、清水寺と西本願寺だけを見たに等しい。バガンは数日かけてゆっくり見るべき場だと思った。近いうち、また来たいと強く思った。

この日も朝からほとんどずっと長袖を着ている。昼間は半袖でもよいが、夜になると、上着が必要。

 

3日目

 バスでバガン・ニャウンウー空港から飛行機でヤンゴンに向かった。FMI AIRの飛行機。小さな空港で、時刻表示もなく、出発便の表示もない。時計もない。客は、現地語と英語のアナウンスをきいて行動しなければならない。が、ともあれ、無事にヤンゴン到着。

 そして、すぐにまたバス(パンクしたのとは別のバス)で聖地チャイティーヨに向かった。

 ところが、途中でトラブル。また、バスが故障。今度はブレーキがきかなくなったとのこと。有料道路の路肩にバスを停めて1時間半以上、待った。トラックなどにぶつけられたら大変なことになると思って、少々怖かった。ガイドさんが携帯電話であれこれ手配してくれたおかげで、昼食を食べたレストランが特別に日本製のハイエースを出してくれることになった。このハイエースも新車ではないらしいが、まだ新しい車なので、なかなか快適。

 5時間ほどで、麓の町キンプンに到着。そこでトラックバスに乗り換えた。聖地チャイティーヨに行くには、このトラックバスしか方法がない。トラックの荷台に席が設けられている。一列5人から6人の席がベンチ状になっており、それが7列ほどぎっしりと前後に作られている。客は前の手すりをもって席に座る。スーツケースなどは持ち込まないように前もって注意を受けている。席が埋まったら出発。次々とトラックバスが待っており、次々と人が埋まっていって、出発する。客のほとんどはミャンマーの人だ。

 トラックバスが出発。海抜1000メートルを超す山頂までトラックバスが細い曲がりくねった道を全速力で走る。まるでジェットコースターのよう。身体が左右に動くので、手すりを持っていなければならない。シートベルトがついているが、ほとんどが壊れているようだ。そうした状況で、離合による待ち時間を入れて45分くらいで頂上近くに着いた。この日はこの近くのホテルで宿泊することになっていた。

 はたして事故はなかったのか、少々心配になる。こんな急な坂道をこのようなスピード(時速80キロくらい出ているのではないか)で、しかも10分おきぐらいに走っていると、絶対に事故が起こると思うのだが、事故が起こったことはないという。にわかには信じられない。

 

 チャティーヨーはゴールデン・ロックで有名な場所だ。

 山頂にある巨大な岩の上に小さな仏塔が建てられている。そこには釈迦の髪が収められているという。そのために、岩は今にも山から転げ落ちそうでありながら、均衡を保って、落ちないでいると言われる。確かに、なぜこれで落ちないのか不思議だ。大きな地震などがあったが、それでも落ちなかったという。そうしたことから、ここは聖地としてミャンマーの人々の信仰の地になっている。事実、ゴールデン・ロックを中心に大きな寺院になっており、岩の前で大勢人が線香をたいたり、お祈りをしたりしている。小さな子供たち、若者、大人、お年寄りも大勢いる。

 ただ、日本人からすると、あれこれと信じられない場面が多い。

 まず、岩が金粉で黄金色に塗られていることに違和感を覚える。これでは岩とは思えない。リアルに感じられない。まるでおもちゃのような気がしてしまう。バチ当たりな精神を持つ私としては、大きな棒を持ってきててこの原理を応用して、この岩を落としてみたくなる。それでも落ちなかったら、奇跡を信じてもいいような気がする。私以外にも、同じようなことを考える人はこれまでいなかったのだろうか。

 来ている人たちも、信仰心にあふれている感じではない。まるで日本の初詣か花見の雰囲気。大きな音でポップ調の音楽がかかり、寺院内のあちこちにネオンが取り付けられ、人々が楽しそうに笑っている。祈っている人もいるが、賽銭箱にお札がたくさん入っており、仏像やら伝説の出来事を紹介する人形のあちこちにもお札が挟まっている。しかも、人形や仏像は、肌色に黒で顔を書いたまるで子供の人形のようなものが多い。

 それ以上にびっくりなのは、多くの仏像の頭にネオンが取り付けられていること。後光だということだが、ネオンが頭から発してチカチカしている。

 ガイドさんは、「ミャンマーの人たちは信仰心が篤いので、ここにきて、熱心に自分に福が舞い込むように、お金持ちになるように、受験などが成功するように祈る」と、疑問を感じることもなさそうに力説していた。いうまでもなく、そのような煩悩をこそ、仏教は否定したと思うのだが、ミャンマーの人はそうは思わないようだ。

 厳かさのほとんどない、現世利益の仏教。宗教が庶民に根付くということはこういうことだとは思うのだが、それにしても、ここまで現世利益だとあきれるというしかない。

 夜の間、ずっと歌声が聞こえていた。お経のような歌。どうやら、24時間かかっていたようだ。翌朝、5時過ぎに目が覚めたが、まだなり続けていた。どうやら、お寺の前のカフェでこの音楽を鳴らしていたらしい。

 

 続きは明日、または明後日書くことにする。今朝、日本に帰ったばかりで、少々疲れた。

 

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ジャッド+新日フィルのロッシーニ「スターバト・マーテル」は超名演だった!

 2018126日、新日本フィルハーモニー交響楽団のアフタヌーンコンサートを聴いた。曲目は、前半にハイドンの交響曲第100番「軍隊」、後半にロッシーニの「スターバト・マーテル」。素晴らしい演奏だった。とりわけ、「スターバト・マーテル」は超名演といってよいのではないか。

 指揮はジェームズ・ジャッド。「軍隊」もよかった。きびきびしていてメリハリがあって、適度に古楽的。まったく退屈せず、ワクワクしながら最後まで聴いた。ハイドンのおもしろさを改めて知った。ただ、金曜日の昼間のコンサートとあって、客席が寂しい。高齢者がほとんどで、半分も埋まっていなかったのではないか。しかも、私の少し前のほうの席の人が、始終、ガサガサと音をたてていて、少々気になった。

 が、後半になると、マナーの悪い人がいることなど、どうでもよくなった。ただただ感動して聴いた。実にドラマティック。激しく、デモーニッシュなところもある。しかもロッシーニらしいオペラ的なおもしろさもあり、宗教的なおごそかな雰囲気もある。ジャッドはそれを手際よく、しっかりと歌わせながら進めていく。ロッシーニの魅力がたっぷり。改めてロッシーニの曲の力にも納得する。

オーケストラも厚みのある、潤いのある音を出して見事。そして、歌手陣が圧倒的にすごい。世界の一流のロッシーニ歌いにまったく引けを取らない。ソプラノの髙橋絵理は美しくて勢いのある声。テクニックも素晴らしい。メゾソプラノの谷口睦美も声の力もさることながら、その迫力も満点。テノールの宮里直樹にも高音の声の張りに圧倒された。バスはジョン・ハオ。もちろん素晴らしい歌手だが、今日に限ってはほかの三人のほうがよかったといえるかもしれない。が、それにしても、歌手陣の充実には目を見張るものがあった。

合唱は栗山文昭合唱指揮による栗友会合唱団。見事な合唱。厚みがあり、勢いがあり、指揮に素早く対応。合唱にも圧倒された。

すべてにおいて、最高レベルの演奏。ここまで素晴らしい演奏をしてもらえるとは、正直、期待していなかった。満足!! これほどのロッシーニがこれからも聴けると、こんなうれしいことはない。

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映画DVD「少女ヘジャル」「もうひとりの息子」「オマールの壁」「キャラメル」「過去のない男」「街のあかり」

 中東の映画のDVDを何本かみた。感想を書く。

 

51tyddb9jjl_sy90_ 「少女ヘジャル」 2001年 トルコ  ハンダン・イペクチ監督

 トルコ映画。元判事ルファトは、退職後悠々自適の生活を送っている。ある時、隣の部屋が警官に襲撃され、そこに住む住民(クルド人の過激派らしい)が殺害され、たまたま預けられていた小さな女の子ヘジャルだけが残される。ヘジャルはルファトの部屋に紛れ込む。ルファトはそのままにしておけずに一日だけあずかろうとするが、ヘジャルの行き先がないのでしかたなしにとどめることになる。初めはクルド人への違和感などから冷淡にしていたが、しばらく少女と暮らすうち、身寄りを失ったヘジャルの境遇に深く同情し、養子にすることを決意する。だが、ヘジャルはクルド人の実の祖父と暮らすことを選び、二人は別れることになる。

 老人と幼い少女の心の交流の物語という、かなりありきたりの物語だが、知的で誠実なインテリの中にもクルド人に対する差別意識があり、それが少女との交流によって解けていく様子が描かれて、とてもリアルであり、感動的でもある。トルコ国内で差別されるクルド人の状況がよくわかる。

 

51apzy4uc6l_ac_us160_ 「もうひとりの息子」 2012年 ロレーヌ・レヴィ監督 

 病院で取り違えられた息子。ところが、それが一人はパレスチナ人、もう一人はテルアビブに住むユダヤ人だった。取り違えは、是枝監督の「そして父になる」と同じ設定だが、家族が敵・味方であり、民族、宗教が異なるだけにいっそう複雑だ。しかも、この映画では息子は17歳になっている。

設定を聞いて予想した通りの結果になるし、ある意味で考えられがちなテーマではあるが、演出が繊細で、テルアビブとパレスチナの状況がリアルなので、二人の息子、その両親、きょうだいの気持ちが理解できて、ひきこまれる。テルアビブで育った息子が、パレスチナの両親の家を訪れ、打ち解けない中、歌を歌い始める場面は感動的だった。

ヘブライ語かアラブ語だろうと思って見始めたら、フランス語だったのでびっくり。フランス系ユダヤ人夫婦(パスカル・エルベ、エマニュエル・デュヴォス)が中心になる物語だった。パレスチナの母親を演じたアリーン・オマリという女優さん、間違いなく何かの映画で見た記憶があるのだが、ネットで調べても出てこない。何の映画だったか?

土地に壁を作り、検問所を作って自由に行き来できないようにし、それぞれが対立しあう愚かさを痛切に感じる。

 

C88ab668c2c551b68d4fcaf474a6fa01 「オマールの壁」 パレスチナ映画 ハニ・アブ=アサド監督 2013

衝撃的な映画。壁に囲まれたパレスチナ自治区で屈辱的な目にあわされながら生きている若者たちの物語。オマールはテロに加わり、捕らえられ、拷問にかけられ、スパイになるのを条件に釈放される。それでもオマールは何とか誠実を尽くそうとするが、スパイ網はもっと複雑に仕掛けられており、オマールら幼馴染三人は深みにはまっていく。オマールは愛するナディアを救うために真のスパイであったアムジャドも救おうとするが、アムジャドは卑劣な嘘をついていた。最後、オマールは自分たちをそのようなスパイに仕立てて手玉に取ろうとするイスラエルの担当官ラミを殺す。

これがそのままパレスチナの現実だというわけではないだろう。だが、いたるところに壁があり、同じパレスチナ地区に行くのにも壁を超える必要があり、それらを占領者であるイスラエル兵が我が物顔に支配している状況は現実なのだろう。そして、そこに生きるアラブ人がアムジャドのように卑屈になっているのも事実だろう。人間を裏切り者にしてしまう分断の壁に対する抗議をひしひしと感じる。

なお、ラミを殺す前にオマールの言う「サルの捕り方を知っているか」という言葉の意味がわからなかった。ネットで調べてやっと納得できた。

 

51nzxetookl_ac_us160_ 「キャラメル」 レバノン映画 2007年 ナディーン・ラバキー監督

 ベイルートにあるエステサロンが舞台。その店の女性店員さんたちと顧客、近所の人々の恋の物語。監督しているのは、主演女優でもあるラバキー。あまりの女性的視点の映画なので、初めは戸惑ったが、いやはや実に素晴らしい。いくつもの恋が同時並行的にさりげなく描かれるが、そのどれもが身につまされる。男である私(しかも、これまで何人もの女性にはもちろん男たちにも、女心を理解しないヤツだと評されてきた!)も、これらの女性たちに感情移入してしまう。とりわけ、認知症を患った姉を放っておけずに恋をあきらめる初老の女性の姿には涙が出そうになった。

 これを見ると、これまで私がベイルートという都市を大きく誤解していたような気がしてきた。少々雑然としたところはあるが、フランス語が飛び交う洗練された都市のようだ。しかも、どうやらキリスト教が広く信仰されているらしい。私のこれまでの知識では、イスラム教徒のほうが多いと思っていたのだが。自分の無知を思い知った。

 ただ困ったのは、多くの美女たちが登場するが、その何人かがとても良く似ていて、すぐには区別がつかないこと。それにしても、この主演の若い美女が脚本も書いて監督もしているということにびっくり。まさに才色兼備!

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「ワルキューレ」「さまよえるオランダ人」「アラベラ」のオペラ映像

 原稿を書く仕事が一息ついたので、オペラのDVDを何本か見た。簡単な感想を書く。

 

766 ワーグナー 「ワルキューレ」2017年 ザルツブルク祝祭大劇場

 昨年の夏にNHKBSで放送されたものと同じ映像だと思う。

 やはり何よりティーレマンの指揮するシュターツカペレ・ドレスデンに驚嘆する。近年のティーレマンのワーグナーははずれがない。圧倒的な力感とうねり。しばしば陶酔と感動に襲われる。オーケストラの力が尋常ではない。

 歌手ではブリュンヒルデを歌うアニヤ・カンペがとりわけ素晴らしかった。美しくて張りのある声で、容姿も申し分ない。美しくて強いブリュンヒルデにぴったり。フンディングのゲオルク・ツェッペンフェルトも張りのある強い声。かなり痩せ型であることを初めて知った。よくこの体型でこんな声を出せるものだ。ジークリンデのアニヤ・ハルテロスも清楚で強い声。フリッカのクリスタ・マイアもとてもいい。ヴォータンのヴィタリー・コワリョフもいい。ちょっと高貴さに欠ける気がするが、こんなヴォータンがあってもいいだろう。ただ、どういうわけかジークムントを歌うペーター・ザイフェルトが絶不調。風邪でもひいていたのだろうか。声が伸びないし、音程もおかしいし、どうにもならない。

 演出はヴェラ・ネミロヴァ。読み替えなどない、ふつうの演出。ただ、第一幕のトネリコの木に空いた穴はまるで女性器のように見えるのは、必ずしも私がその方面に意識過剰であるというわけではなかろう。そこに名剣ノートゥング刺さっており、それをジークムントが抜き、その後、二人が性的な行為に及ぶのだから、考えてみれば至極当然の解釈だろう。

 全体的には本当に素晴らしい。ザイフェルトさえ本調子だったら、歴代最高レベルの「ワルキューレ」の映像になっていただろう。

 

599 ワーグナー 「さまよえるオランダ人」 2016年 マドリード王立劇場

 パブロ・エラス=カサドの指揮がかなり個性的。アクセントが強く、テンポも速い。木管楽器を強調し、まさしく疾風怒濤。それはそれでものすごい迫力だが、私としては、実はちょっとくたびれた。そんなに攻めまくられると、少々疲れてしまう。録音の仕方にも原因があるのかもしれないが、音が強すぎるのを感じた。

 歌手陣はそろっている。まず私はゼンタを歌うインゲラ・ブリンベルイに驚いた。初めて聞く名前だが、ワーグナー歌手として最高の部類に属すると思う。映像を見たところではあまり若くないように思える(しかし、遠目には、十分に若くて美しいゼンタだ)が、なぜ世界に名前が知られていなかったのか不思議だ。強靭で美しい声。バラードの歌やオランダ人との二重唱は素晴らしい。いっぺんでファンになってしまった。

サミュエル・ユンのオランダ人はちょっと音程が不安定だと思ったが、声の伸びは凄い。クワンチュル・ユンのダーラントも実に安定。この二人の韓国人歌手が世界のワーグナーのバスを引っ張っているのは、日本人としてはとてもうらやましい。もう一人、エリクを歌うニコライ・シュコフも強い声で見事。

アックス・オッレの演出意図はよくわからなかった。ダーラントが暮らすのは、どうやらイスラム教徒たちの村という設定らしい。女性たちはスカーフをかぶり、イスラム教徒らしい格好をしている。エリクはまるでイスラム戦士のような格好で銃を持っている。ただ、第三幕でイスラム教徒に見える人たちがワインを飲んでいるのには違和感がある。

最後に、ゼンタはイスラム戦士であるエリクに心変わりを責められ、オランダ人を救いたいと思いながら板挟みになる。どうやらオランダ人を救われないまま海に飲み込まれ、ゼンタは世界の救済を祈る・・・ということだろうか。

このごろ、イスラム教徒らしい姿がオペラに登場することが多いが、腰が引けていて、メッセージがはっきり伝わらない。曖昧なことをほのめかすだけだったら、初めからイスラム教徒など出さなければいいのに…と思うのだが・・・。

それにしても、このソフト、DVDBDの両方で3000円以下だった! こんなに安くていいのだろうか! と本気で思った。

 

619 リヒャルト・シュトラウス 「アラベラ」2012年 ウィーン国立歌劇場

 演奏、演出ともにとても素晴らしい。アラベラのエミリー・マギーがまさにこの役にぴったり。美しくてかわいらしくて、しかも気高い。トマシュ・コニェチュニのマンドリーカも圧倒的と言えるほど素晴らしい。声の力に驚嘆する。ゲニア・キューマイヤーのズデンカも、歌唱に関しては文句なし。ただ、演出のせいなのだと思うが、あまりに落ち着きのない動きが気になる。マッテオを歌うミヒャエル・シャーデも張りのある声が実にいい。ヴァルトナー伯爵のヴォルフガング・バンクル、伯爵夫人のゾリアナ・クシュプラーもとてもいい。

指揮はフランツ・ヴェルザー=メスト。きびきびしていて知的で、しかも十分に官能的。実にいい指揮者だと思った。演出はスヴェン=エリク・ベヒトルフ。場末のホテルの雰囲気がいい。第三幕では、倒錯的な雰囲気を出している。

このオペラを見るたびに思うのだが、愛するアラベラとベッドをともにしたと信じていたのに、実は相手になってくれたが親友だとばかり思っていたズデンカだったと知ったマッテオの気持ちはいったいどのようなものだろうか。すぐにズデンカと愛し合うようになるとは考えられない。もし私がマッテオだったら、1か月くらい心の整理がつかないと思う。この点について納得できる演出に出会ったことがない。今回の演出では、第三幕に女装の男性が何人か登場するので、ゲイ的な要素を強めた演出にするのかと思ったが、そうでもなかった。

ともあれ、心から満足できる「アラベラ」だ。

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新国立劇場「こうもり」を楽しんだ

 2018121日、新国立劇場で「こうもり」をみた。とても楽しかった。

 全体的に高い水準の上演だと思う。歌手陣もいいし、オーケストラもいいし、演出もおもしろかった。

 歌手陣では、私はロザリンデを歌うエリーザベト・フレヒルに惹かれた。「チャルダッシュ」など劇的に歌ってとてもよかった。このように大袈裟な歌い方がよく似合う歌手だ。アイゼンシュタインを歌うアドリアン・エレートを芸達者で実にいい味を出している。声も美しい。

アデーレを歌うジェニファー・オローリンもとてもきれいな声で、演技も容姿も魅力的だった。ただ、あの有名な「侯爵様、あなたのような方は」で何度かオケと合わないところがあったのが残念。第三幕の歌は素晴らしかったが。フランクのハンス・ペーター・カンマーラーもしっかりした声で演技もいい。オルロフスキー公爵のステファニー・アタナソフはせっかくのきれいな声なのだが、やや声量がなく、しかも棒立ち。とてもいい歌手だと思うが、惜しい(名前に覚えがあると思って調べたら、新国立「ばらの騎士」でオクタヴィアンを歌った歌手だ。確かにあの時も同じような印象を抱いた!)。ファルケ博士のクレメンス・ザンダーはまだ若いのだと思う。ちょっと歌が堅かった。

 日本人の歌手陣では、アルフレードの村上公太が素晴らしいと思った。美声が伸びている。ブリントの大久保光哉もよかった。

 指揮はアルフレート・エシュヴェ。バランスのとれた演奏。ウィーン風といってよいのだろうか。かなり上品。しかし、そうでありながら、取り澄ました感じはならない。東京交響楽団もとてもきれいだった。少し間違うと取りすましてつまらなくなったり、逆に下品になってしまったりしがちなこの曲を、本当に美しく、楽しく演奏してくれた。三澤洋史の合唱指揮による新国立劇場合唱団も、演技も含めて見事。

 演出はハインツ・ツェドニク。かつて、私は何度かこの歌手の歌を実際に聴いた。映像でも何本も見ている。「こうもり」のツェドニク演出も二度目。だが、実に面白い。何度も声をたてて笑った。大人の娯楽を存分に楽しんだ。「こうもり」って名曲だよなあ・・・とつくづく思う。大人の楽しみの時間を味わえる。

 少し、「マナー」について触れる。

隣の席の男性がずっとガムを噛んでいた。かすかな音だが、ガムを噛む音が聞こえていた。視覚的にも、口をもぐもぐしているのが気になった。そもそも、クラシックを聴くときにガムをくちゃくちゃ噛むとは何事ぞ!と思わないでもない。とはいえ、本人はオペレッタを存分に楽しんでいるようだし、このくらいのことだったら、気にするほうが悪いのかもしれないと思って、特に注意はしなかった。しかし、ガムを噛んだり、大きく身動きしたり、帽子をかぶったり・・・といったことは、たとえ聴覚的に邪魔にならなくても、演奏中は遠慮してほしいと思う

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カンブルラン+ファウスト+読響のブラームスと「運命」に興奮

2018120日、パルテノン多摩大ホールで、読売日本交響楽団の演奏を聴いた。指揮はシルヴァン・カンブルラン、前半にイザベル・ファウストが加わって、ブラームスのヴァイオリン協奏曲、後半にバッハ(マーラー編)の管弦楽組曲から第234曲とベートーヴェンの交響曲第5番。凄い演奏だった。

まず、前半のブラームス。ファウストが凄い。何気なく始まった感じがしたが、そんなことはない。しっかりした音。目立ったことをしているわけではないが、的確に音楽を作っていくので、一つ一つの音が心の奥に響く。無駄がなく、鋭く、しかもロマンティックで、しかも高貴。感傷を排したきりりと引き締まったロマンティズム。

ただ、第一楽章のカデンツァの前、突然、何かが起こった気がした。油断していたのでよくわからなかった。音程が大きく狂ったと思ったのだが、あれでよかったのだろうか。ともあれ、何事もないかのように音楽が進み、ブゾーニのカデンツァに入っていった。

第二楽章がとりわけ素晴らしかった。これにはカンブルランの功績が大きいのかもしれない。室内楽的といってよいだろう。管楽器との絡み合いが素晴らしかった。そして、第三楽章も自然に盛り上がっていく。

ファウストはアンコールとして馬のいななきのような音で始まる無伴奏の現代曲を弾いた。ロッホベルク作曲の「カプリース」だという。それなりには面白かったが、アンコールはなくてもよかったと思った。

そして、後半。バッハもよかったが、それ以上にやはり「運命」が圧倒的だった。

きびきびしていて切れの良いベートーヴェン。音が畳みかけるように押し寄せてくる。クレシェンドが効いて実に壮大。独特のアクセントがあるが、決して不自然ではない。第三楽章の音の刻み方、音の強弱のニュアンスの付け方に圧倒された。聞きなれた曲なのに、このように演奏されるときわめて新鮮。再構築されたかのような「運命」だ。管楽器とティンパニがとても効果的に響く。私は興奮しっぱなしだった。カンブルランが大指揮者であることを改めて認識。感動した。

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ヘンデルのオラトリオ「テオドーラ」 テオドーラの凛とした美しさ

 2018114日、浜離宮朝日ホールでヘンデル作曲のオラトリオ「テオドーラ」を聴いた。第15回ヘンデル・フェスティバル・ジャパンのイベントだ。

 このオラトリオを聴くのは初めて。そもそも、実はヘンデルを聴くこともほとんどない。が、数年前、ザルツブルク音楽祭でこのオラトリオが上演された時から、関心を持っていた。一度聴いてみたいと思っていた。

 第一部は少々退屈だと思ったが、第二部以降はとてもおもしろく聴くことができた。美しいメロディがたくさん出てくる。すがすがしかったり、抒情的だったり。深い信仰も示される。しかも、とてもわかりやすい。テオドーラの凛とした美しさが描かれている。確かに素晴らしい音楽世界だ。

ただ、あまりの長さにびっくり。ローマ時代、キリスト教徒の処女テオドーラは異教の神々を崇拝することを拒否したために、総督に娼婦になることを命じられる。テオドーラを愛する青年ディディムスは策を弄して助けようとするが、ついには、二人ともに死刑になる。それだけのストーリーなのだが、3時間半近くかかる。ワーグナーでもこれだけのストーリーなら1時間半くらいの一つの幕で終わるのではないかと、ヘンデル初心者の私は思ってしまう。同時に、きわめてプリミティブな感想だが、純潔に対するキリスト社会の強い思い入れに改めて驚いた。

 男声(バスの牧野正人、テノールの辻裕久)も健闘していたが、女声のほうがいっそう充実していた。アルトの山下牧子はとても安定した歌唱。じっくりと美しく歌った。ソプラノの阿部早希子はきれいな声で清澄に歌って、テオドーラの凛とした美しさを表現していた。

とりわけ素晴らしかったのは、メゾ・ソプラノの波多野睦美だ。英語の語り口が見事。ほかの歌手では聞き取れない発音も、波多野が歌うとしっかりと聞きとれる。この種の音楽で発音の明瞭さがいかに大事であるかが良くわかる。しかも、とても美しい声。この人がいたからこそ、このオラトリオが成功したのだと思う。

 キャノンズ・コンサート室内合唱団&管弦楽団もとてもよかった。初めのうちは合唱の音程が不安定なことがあったが、徐々にしっかりして来た。後半素晴らしかった、オーケストラはとてもよかった。ヘンデルの音楽を聞きこんでいるわけではないので、指揮については何も言えないが、三澤寿喜の指揮はめりはりもあり、リズムもよく、ヘンデルの素晴らしさを見事に引き出していると思った。

 ところで、会場が異様に寒かった。まるで野外コンサートのよう。私は第二部の間、コートにくるまって聴いていた。何か事情があったのだろうか。第二部の終わりころになってやっと暖房が入ったようで、第三部ではコートを脱ぐことができた。

 ヘンデルをもっと聴いてみたいと強く思った。

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2本の「濹東綺譚」映画と3本のアキン映画のDVD

 急ぎの仕事がないので映画DVDを数本みた。簡単に感想を記す。

51p2vzkrqjl_sy445__2 「濹東綺譚」 豊田四郎監督 1960

 必要があって、永井荷風を数冊読み返していた。その過程で、関心をもってこの映画を見てみた。原作とまったく異なる。原作では、私娼であるお雪(山本富士子)のもとに通うのは永井荷風自身を思わせる初老の作家だが、この映画では妻子を持って、妻(新珠三千代)に責められる中学教師(芥川比呂志)ということになっている。原作では主人公の作家が小説のストーリーを構想しているが、まさにその構想された小説の人物が映画では主人公になっている。しかも、お雪は健気な娼婦で、親戚に騙され、最後には悲惨な中で死んでしまう。そのうえ、ずっと悲しげな音楽がかかっている。

これではまったく荷風の世界ではない! それどころか、荷風が最も嫌った価値観であり、世界観だろう。いや、それ以上に、これはもっとも私の嫌いなタイプの映画だ。私は、この種のウェットで情緒的な映画が大嫌い(ついでに言うと、「熱演」と呼ばれる、泣いたり叫んだりの演技の続出する映画も大嫌いだ)。荷風の文学を、当時、映画や新派などで取り上げられていた安手の不幸な商売女の物語にしてしまっている。

 私が子どもの頃(つまり、まさしくこの映画が作られた1960年前後)、「濹東綺譚」は日本文学を代表する名作として、ふだん文学に関心を持たない人にも語られていた。この映画の作風が日本国民に永井荷風のイメージを広げたとしたら、大いに問題があると思う。

 

91vieynvnl_sy445__2 「濹東綺譚」 新藤兼人監督 1992

 同じ原作に基づくが、こちらの方がずっと原作に近い。新藤監督は好きな監督で、私はかなりの映画を見ているが、本作が公開されたころ、私はもっとも忙しい時期だったので、みる時間が取れなかった。今回、初めてみる。

これは主人公を永井荷風その人とみなし、荷風の日記「断腸亭日乗」やほかの小説作品に記されるエピソードを盛り込んで、荷風の孤独死までを描いている。また、新藤兼人によるオリジナルだと思われる、お雪の女主人(音羽信子)とその出征する息子のエピソード、主人公二人の結婚話が加えられている。

荷風を演じるのは津川雅彦。女好きで放蕩でひょうひょうとして権力を嫌い、腹を決めて自分のスタイルを貫く荷風を見事に演じている。墨田ユキ(この映画が本格デビューのため、この役名から芸名をつけたのだった)も気がよくて素直な私娼お雪を見事に演じている。原作の精神を映像化していると思う。下層の人たちのおおらかな性、それに出会って人間の心の奥にある渇望や悲しみを実感する知識人。そのような原作をうまく描いている。原作の世界観を的確に再現していて、私はとても良い映画だと思った。荷風の世界観を現代に問うことは、戦争に対抗する意識を明確にとらえるために必要なことだと考える。

それにしても、不倫を攻撃し、売春を悪とみなす現代社会からすると、何と寛容で鷹揚な社会であることか。荷風のころまでは、男が女を買いに行くのが当然のことだという前提に立っている社会だったのだと痛感する。現代社会で荷風の世界観を理解するのは徐々に難しくなっているのかもしれないと、この映画を見て考えた。

 

71j9kpkofml_sy445__2 「愛よりも強く」 2004年 ドイツ ファティ・アキン監督

少し前にこのブログで感想を書いた「そして、私たちは愛に帰る」などを監督したトルコ系ドイツ人のファティ・アキン監督の映画。酒とドラッグとタバコに溺れて自暴自棄に生きる中年男ジャイトと、束縛された家族関係から逃れようとして自殺未遂をした若い女性シベル。ジャイトは家族から逃れたいというシベルの願いを聞き入れて偽りの結婚(性的関係をあえて避ける結婚)をするが、互いの異性関係に嫉妬するようになり、ジャイトはシベルと寝た男を殺して、刑務所に入る。その事件によって二人は強い愛を意識し始めるが、ジャイトが刑務所にいる間に、シベルはトルコで自堕落な生活に陥り、その後、そこから立ち直って、別の男と家庭をもって子どもを設け、平和に暮らす。そこに、刑務所から出たジャイトがやってきて、二人は初めて性的関係を持つ。ジャイトは故郷でともに暮らそうと持ち掛けるが、シベルは約束の時間に現れない。

 前半のジャイトの荒れた生活を描く前半は退屈だった。私も30歳くらいまでかなりのロクデナシだったが、ジャイトとは別の種類のロクデナシだったので、あまり共感できなかった。が、殺人事件が起こるあたりから、二人の苦しみを自分のことのように感じられるようになった。ジャイトが一人で故郷に帰る場面はかなり感動してみた。

 川辺のモスクを背景にトルコ音楽を奏でる場面が唐突に何度か映し出される。心の故郷への思い、人生の悲しみを強く感じる。

 

514xvprlprl_sy90__2 「太陽に恋して」 2005年 ドイツ ファティ・アキン監督

 同じファティ・アキン監督の映画。アキンはチョイ役で出演している。真面目な教師がちょっとしたことからトルコ系の女性と出会い、それを太陽のお守りの効力だと感じて、恋に落ちる。その女性に会いにイスタンブールに行こうとして別の女性と行動をともにし、様々な冒険を経て、結局はともに行動した女性との恋を成就するロードムービー。これまでみたアキンの映画はどれも深刻さを抱えていたが、これはあっけらかんとして楽しい。いわば「青い鳥」の物語といってよいだろう。憧れの太陽を求めて旅をするが、結局は太陽はすぐ近くにあった!という物語。そうした枠組みの中に、ドイツの若者の心情、人間のやさしさ、トルコ移民の置かれた状況を描いていく。映像も美しい。

 

814gjhg0w9l_sy445_ 「トラブゾン狂騒曲」 2013年 ドイツ ファティ・アキン監督

 これはアキン監督のとったドキュメンタリー映画。ほかの劇映画とかなり雰囲気が異なる。

トルコのトラブゾン村にごみ集積場が建設され、杜撰な計画のために、村中に臭いが充満し、鳥や犬が集まって農業お邪魔をし、雨のために汚染された水が海に流れ出す。村長を中心に村人たちは抗議をするが、知事や建設会社はそれを受け入れずに苦しい言い訳を繰り返す。

かつて日本の各地で起こった問題だ。沖縄問題、原発問題とも似ている。それゆえ、きわめて普遍的な問題といってよいだろう。日本と比べて、工事があまりに杜撰であり、責任者の言い分があまりに幼稚であり、つまりは民主主義が定着していないトルコ社会での出来事であるために、むしろ問題の本質が浮き彫りになる。現代社会で社会を築くためには、どこかにごみを捨てなければならない。その場所は大きな犠牲を強いることになり、それは実は社会全体の問題(環境汚染、人口集中、過疎化、人心荒廃)などとつながっていく。

日本でこの種のドキュメンタリーを撮るとなると、必ず汚染の数値を示すと思うが、それが一切出てこないのが私には不思議に思える。映像を見る限り、明らかな数値の変化が示されるはずだが、それを出してこないのは何かの意図があるだろう。あえて感覚に訴えたいということなのだろうか。

おもしろかったけれど、ほかのアキンの映画のほうが好きだ。

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 映画「希望のかなた」と「プラハのモーツァルト」

 新作の映画を2本みた。感想を簡単に記す。

 

映画「希望のかなた」 アキ・カウリスマキ監督

 アキ・カウリスマキ監督のフィンランド映画。シリアのアレッポで暮らしていた青年カリードは内戦で婚約者と家族を失い、妹とともに国を逃れたが、いくつもの国で追放されてさまよううちに妹とも生き別れて、偶然乗った船でフィンランドにやってきた。難民申請をするが、受け入れられず、ここでも国内退去処分になる。警察から逃れて、偶然出会ったレストラン経営者の世話になり、そこの従業員の助けを得て不法に働くようになる。妹と再会できるが、移民排斥の国粋主義者から迫害され、ナイフで刺されてしまい、不安定な状況が続く。

 前作「ル・アーヴルの靴磨き」とよく似た筋立てで、同じく難民とそれを取り巻く人々の人情を描いている。「ル・アーヴル」のほうはフランスを舞台にして、まるで1930年代のジャン・ルノワールやジュリアン・デュヴィヴィエやルネ・クレールのフランス映画のように下町の人々を描いたのだったが、今回は、ノスタルジックな雰囲気はなく、静かにフィンランドの状況を描く。

 無口で表情のない登場人物の説明のほとんどない映像がとても魅力的だ。確かなリアリティがあり、人々の心の奥にある愛情、それにもかかわらず無理解な社会状況がしっかりとつたわってくる。そして、カウリスマキの強い憤りがじわじわと伝わる。

 それにしても、妻と別れ、一か八かの賭けをし、レストランを経営し、試行錯誤でやっていく男の描き方が実にうまい。その人間味が伝わってくる。カウリスマキらしい佳作といえるだろう。

 

「プラハのモーツァルト」 ジョン・スティーブンソン監督

 モーツァルトが主人公で、舞台がプラハというのであれば、みないわけにはいかない。退屈しないで最後までみたが、良い映画とは言えないだろう。モーツァルトの伝記について、それほど正確なことは知らないが、ほとんど史実に基づいてはいないと思うし、モーツァルトについての新しい解釈を示しているわけでもなさそう。

プラハに招かれたモーツァルト(アナイリン・バーナード)は、「フィガロの結婚」のプラハでの上演でケルビーノを演じた貴族の令嬢(モーフィッド・クラーク)と恋に落ち、作曲中の「ドン・ジョヴァンニ」のドンナ・アンナに抜擢する。ところが、オペラ劇場を支配し、権力にものを言わせて次々と女性を毒牙にかけるサロカ男爵(ジェームズ・ピュアフォイ)が令嬢に目をつける。その状況を知ったモーツァルトは、令嬢を救おうとするが、男爵は抵抗する令嬢を襲おうとして殺害してしまう。モーツァルトは、自分の愛と悲しみの体験を「ドン・ジョヴァンニ」に重ね合わせて完成させる。

 かつての「アマデウス」とは違ったモーツァルト像。若くて溌溂として元気にあふれるモーツァルト。「アマデウス」よりはこちらの方が実像に近いだろうが、ただ映画の登場人物としては魅力に欠ける。「ドン・ジョヴァンニ」がプラハで初演されたことはよく知られているが、この映画は、ただドン・ジョヴァンニ的な悪漢が実際に存在したとしたら?・・という思い付きで作っただけに思える。

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見事な若手の弦楽四重奏団、そしてカウフマンの素晴らしい声

 201816日、午前中と夕方、二つのコンサートを聴いた。

 まず午前中に、上野学園石橋メモリアルホールで、「プロジェクトQ・第15章 若いクァルテット、ハイドンに挑戦する トライアル・コンサート1」を聴いた。クラルス弦楽四重奏団(周防亮介・福田ひろみ・島方瞭・森田啓佑)によるハイドン弦楽四重奏曲第67番「ひばり」とヴォーグ・クァルテット(城戸かれん・櫃本樹音・湯浅江美子・櫃本瑠音)による第77番「皇帝」。

 クラルス弦楽四重奏団は、第一ヴァイオリンの周防亮介が美しい音と見事な音楽性で引っ張っていくタイプの演奏を聴かせてくれた。それはそれで一つのあり方だと思う。ただ、ほかのメンバーももう少し個性を主張してもよいのではないかと思った。ヴォーグ・クァルテットのほうは誰かが強いリーダーシップで進めていくというよりは、四人が息の合ったアンサンブルによって一つの音楽を作り上げていくタイプ。それぞれが個性を示し、主張をしながらも明確なグループの音楽性があって、とても良かった。両方とも、若手と言いながらすぐにもプロで活躍できるレベルだが、私は今回の演奏に関しては、ヴォーグ・クァルテットのほうにいっそう共感を覚えた。だが、どちらも長く活動してほしい。頼もしい団体だと思う。

 夕方からは、サントリーホールで、ヨナス・カウフマンのコンサート。伴奏は、ヨッヘン・リーダー指揮による東京ニューシティ管弦楽団。

 曲目は、プッチーニの「トスカ」から「妙なる調和、「トゥーランドット」より「誰も寝てはならぬ」、ヴェルディ「アイーダ」より「清きアイーダ」、ビゼー「カルメン」より「お前の投げたこの花を」、マスカーニ「カヴァレリア・ルスティカーナ」より「母さん、あの酒は強いね」など。イタリアとフランスのオペラのアリア。アンコールではタウバーとレハールのオペレッタのアリアが歌われたが、一曲もドイツものはなかった。

 プログラムの中に好きな曲がないので、ちょっとケチってB席を購入して、ホールに行ってみたらオーケストラの後ろの方の席だった。歌でこの席はつらい。しかも、私はイタリア・オペラのオーケストレーションの粗さが気になって仕方がないのだが、この席だと歌手の声よりもオーケストラが聞こえるので、いっそう気になる! とはいえ、やはり素晴らしい声だった。後ろの席でもビンビンと響く。カウフマンの何よりもの魅力はピアニシモの美しさだと思う。それを存分に味わうことができた。

 パヴァロッティなどのようなイタリアらしい明るい声ではない。どちらかというとくぐもった独特の声。しかし、知的な歌いまわし。訴える力が見事。素晴らしいと思った。

 とはいえ、私としては、ちょっとこの雰囲気にはついていけなかった。カウフマンは声だけでなく、容姿が抜群なので、女性客が目立つ。チケットが異様に高いためか、後ろの方は空席が目立つが、着飾った女性が前方に大勢押し掛けて、ある種、異様な雰囲気。しかも、イタリア・オペラ的な「ノリ」。オーケストラが鳴っている時の拍手が鳴ったり、歌い終わった直後にブラボーの声がかかったり。

 私はかなり前からのカウフマンのファンだ。が、私が好きなのは、フロレスタンやローエングリンやジークムントやパルジファル、そしてシューベルトなどの歌曲を歌うカウフマンだ。もちろん、イタリア・オペラもいい。それが求められているし、カウフマンのアンドレア・シェニモもドン・カルロもトゥリドゥもカニオもオテロもドン・ジョゼもウェルテルも素晴らしい。しかし、ドイツものを歌うときの知的な歌い回しが最高なのだ。今回のプログラムでは、それを聴くことができなかったのがまことに残念。ドイツ音楽好きからすると、カウフマンというドイツの宝をイタリアに取られた気分! 次の機会にぜひとも、ドイツモノのアリアを歌ってほしい。そして、ドイツ・リートのリサイタルをぜひ開いてほしい。

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東京新聞・中日新聞の夕刊で連載開始 「65歳になったら、○○しなくていい宣言」

 本日、201814日から、東京新聞・中日新聞の夕刊でエッセイ「65歳になったら、○○しなくていい宣言」の連載を開始した。これから3月末まで、60数回にわたって夕刊での連載を続ける予定だ。

 私も66歳になった。高齢者の中では「ひよっこ」だが、高齢者であることには違いがない。大学も定年退職し、年齢を感じることも多い。そんな中、これからどのようなことをして、どう生きていくか。それについての私なりの考えをエッセイとしてまとめたものだ。

 なお、エッセイには、かなざわまこと氏の楽しいイラストが添えられている。とても魅力的なイラストで、これを見るだけで楽しい。イラストには私の似顔絵が描かれているが、たぶん実際の私よりも50パーセント増しくらい(あるいはそれ以上?)の「感じのよさ」だと思う。このイラストで想像した人が本物の私を見て、あまりの感じの悪さに落胆するのではないかと心配になってきた。

 今日の第一回の文章にも書いた通り、これから連載するつもりのことを簡単にまとめると、「しなければならない」という意識をできるだけ棄てて、タイで言われる「マイペンライ」、つまり「なんとかなるさ」「気楽にいこう」という気持ちで生きようということに尽きる。そのためにはどんなことをすればよいのか、どういう心構えが必要なのかをまとめた。

 できるだけおもしろく、できるだけ役に立つようにまとめたつもりだ。東京新聞と中日新聞を読まれる機会があったら、お読みいただけると、私としてはとてもうれしい。

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2017年の「ベートーヴェンは凄い」も凄かった!

 20171231日、東京文化会館で、「ベートーヴェンは凄い」を聴いた。小林研一郎指揮、岩城宏之メモリアル・オーケストラ。コバケン10回目のベートーヴェン全国響曲演奏。昨年は風邪、一昨年は父の死から間のない大晦日に母を一人にするわけにはいかずに欠席したが、その前は数年連続して聴いていた。3年ぶりの「ベートーヴェンは凄い」ということになる。

 まず、オーケストラの素晴らしさに圧倒された。各オーケストラから名手が集まって結成された特別編性のオケだけに、研ぎ澄まされ、しかも厚みのあるオケになっている。管楽器の美しさにほれぼれした。金管も、もちろん弦楽器のこの上なく安定している。そして、ティンパニのすごさ。世界の一流オーケストラにまったく引けを取らない。

 マエストロは年齢を重ねているためか、3年前よりは少しおとなしめ。初めて聴いたときには第1番から凄まじいテンションに驚いたが、今回は最後まで力を温存するためか、第1番・第2番あたりまでほんの少し軽め。第1楽章・第4楽章ではコバケン特有の燃焼する音楽づくりだが、ほかの楽章は力で押さずにじっくり聞かせようとする。

が、第3番「エロイカ」あたりから、燃焼度がぐいぐい高まってきた。私は3番・5番・7番・9番に圧倒された。コバケンは奇数番号の交響曲が圧倒的。とりわけ第7番は奇跡的な名演だと思った。音の勢いが凄まじい。躍動し、音が絡み合う。実はあたしは奇数番組が好きだというわけではない。4番と8番は大好きなのだが、マエストロの演奏はこれらも奇数番号風で疾風怒濤の完全燃焼なので、私としてはもう少し違った表現を求めたくなる。

そして、第九。これもすさまじい。オーケストラも大編成。合唱は間違いなく200人以上いたと思う。まさしく大合唱だ。私は今年聴いたエッシェンバッハ+N響よりも、ゲッツェル+読響よりもずっと説得力を感じた。日本人指揮者は第九を知り尽くしているので、見事に演奏してくれる。新しい解釈は特にないと思う。かなりオーソドックスな解釈。だが、完全燃焼、全力投球なので、すべてが心に響く。最後の2分間のコバケンの燃焼は、ほかのどのような巨匠の演奏よりも圧倒的に人の心を動かす。

ソリストはスプラノの市原愛、アルトの山下牧子が素晴らしかった。テノールの笛田博昭、バリトンの青戸知はよく声を出していたが、意図的なのだと思うが、あまり第九らしからぬ歌い方。私には少し違和感があった。

年に一回、大晦日に完全燃焼のベートーヴェンの交響曲全曲を聴くというはいいものだ。自分もそれまでの一年を完全燃焼させて次に移れる気持ちになれる。

ただ、客席が明るかったために、マナーのよくない客が何人も目に入った。プログラムが充実し(とても役に立つ文章がたくさん出ている!)、しかも場内が明るいために、プログラムをずっと読んでパラパラ音を立てている客が何人もいた。

そして、もう一組、とてつもなく非常識な男女を見た。夫婦か友達か親子かはわからなかった。男性は60代か。女性はもう少し若く見えた。一階の中央前方の良い席。演奏が始まると女性は編み物を始めた! 近くの席の人は、編み物の手の動きが邪魔だろう。それ以前に「ながら聴き」は演奏家に対してあまりに失礼だと思う。それだけならまだしも、演奏中に2人でしばしば話をする。そのうえ、男性は演奏中に何度もペットボトルの飲み物を飲み、スマホをいじり、ガサガサ音を立ててパンフレットを読む。2人とも何度か演奏中に目薬をさしていた。まったくもって自宅でテレビを見ている感覚。公と私の区別の欠如とでもいうか。

久しぶりにこれほどマナーの悪い客を見た。誰か近くの被害を受けている人、あるいは一緒に来ていた仲間が注意するべきだと思う。本人たちはきっと自分が周囲が呆れるほど非常識だと気付いていないのだろう。私も注意したかったのだが、席が遠かったし、私自身は音の被害を受けているわけではないので、呆れてみていることしかできなかった。

というわけで、2018年になった。2017年にはラ・フォル・ジュルネを含めて87回のコンサートやオペラを聴いた。9回、海外旅行に行った。3月に定年退職して、あれこれ焦って遊びまくった感がある。2018年には少しペースを落としてあれこれをじっくり楽しみたいと思っている。

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