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ミンコフスキ+レ・ミュジシャン・デュ・ルーヴルのメンデルスゾーンを堪能した

2018年2月27日、東京オペラシティコンサートホールで、マルク・ミンコフスキ指揮によるレ・ミュジシャン・デュ・ルーヴルの演奏を聴いた。曲目は、すべてメンデルスゾーン。前半に「フィンガルの洞窟」序曲と交響曲第4番「イタリア」。後半に交響曲第3番「スコットランド」。メンデルスゾーンは大好きな作曲家なので、これを聞き逃すわけにはいかない。

ミンコフスキらしいきびきびしてリズミカルな演奏。かなり速めのテンポで、音楽を強力に推進させていく。だが、決して一本調子ではなく、メロディに豊かな表情がある。レ・ミュジシャン・デュ・リーヴルの音も弾力性があって実にいい。メンデルスゾーンにはもっと潤いがほしいと思うが、古楽器なので、少々ガサガサした感じになるのは致し方ないだろう。「イタリア」の第1楽章と第4楽章は見事。生命力にあふれ、喜びにあふれている。豊かな感受性を古典的な形式の中に表現するメンデルスゾーンらしさが広がった。

「スコットランド」は大好きな曲だ。とりわけ、私は第2楽章が大好き。今日の演奏も素晴らしかった。ぞくぞくするような躍動感。深い陰影があり、メンデルスゾーンの躍動感とともに、深い憂いも聞き取れる。しかし、第4楽章では生命力を大きく歌い上げる。賛歌のような音楽になっていく。

じっくり聞かせるというタイプではない。あっけないくらいに早く終わる。だが、このガサガサした速い速度の中に様々な表情があって、実にいい。妙な思い入れでロマンティックに表現するのでなく、勢いの中に様々な感情をひっくるめてしまう。

ミンコフスキはさっさと指揮台に立ち、すぐに演奏をはじめた。前半の演奏が終わった後も、ぐずぐずしないですぐに控室に戻る。終演後も、アンコールもしないで、数回呼び戻されただけでオケを解散させた。音楽と同じように何事ももったいぶったり、未練がましくしたりしないで、テキパキとこなす人のようだ。何を隠そう、実は私もぐずぐずするのが嫌いで、さっさと済ませてしまうタイプだ。仕事も早いし、人との交際もさっさと切り上げる。そんなわけでミンコフスキのテキパキした態度にはとても好感を持ったのだった。

とても満足できるコンサートだった。大好きなメンデルスゾーンを堪能できた。

 

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「清教徒」「ノルマ」「ルチア」「ロベルト・デヴリュー」「ルクレツィア・ボルジア」「ラ・ファヴォリータ」「三部作」

 イタリア・オペラの映像をいくつかみた。私はずっとドイツ系のオペラを好んできたので、イタリア・オペラにはあまりなじんでいない。初めてみるオペラもいくつかあった。簡単に感想を書く。

 

896 ベッリーニ 「清教徒」 2016年 マドリード王立歌劇場

 エルヴィーラを歌うディアナ・ダムラウが圧倒的に素晴らしい。信じられないような強靭で美しい声。弾力性のある元気な声なので、かよわいエルヴィーラとは少し雰囲気が異なるが、それはそれで思いつめた雰囲気があってとてもいい。アルトゥーロのハビエル・カマレーナは容姿的にはぱっとしないが、声楽面では素晴らしい。リッカルドのリュドヴィク・テジエ、ジョルジョのニコラス・テステなど、全体的に極めて高レベル。

 マドリード王立歌劇場管弦楽団を指揮するのはエヴェリーノ・ピド。時々、妙に頼りない音に聞こえるが、ベッリーニのオーケストレーションに問題があるためかもしれない。エミリオ・サージの演出もわかりやすい。全体的にとても満足。ただ、台本がいかにもご都合主義的で、文学好きの私としてはしばしば苦々しく思う。しかし、イタリア・オペラに対して、いまさらそんなことを言っても仕方がなかろう。

 

899 ベッリーニ 「ノルマ」 2016年 マチェラータ、アレーナ・スフェリステリオ

 ノルマを歌うのはマリア・ホセ・シーリという若手のソプラノ。ダムラウの後にこの歌手を聴くと、やはりその大きな違いを痛感せざるを得ない。幕が上がって時間がたつごとに良くなっていくが、それでも声のコントロールが完璧ではないし、演技もぎこちない。それに対して、アダルジーザを歌うソニア・ガナッシはさすがに安定していて、素晴らしい。ポリオーネのルーベンス・ペリッツァーリもとてもいい。

 ミケーレ・ガンバ指揮のマルケ地方財団管弦楽団は、序曲の段階ではかなり健闘していると思ったが、しばしば頼りない音になった。演出はルイージ・ディ・ガンジ&ウーゴ・ジャコマッツィ。とてもわかりやすくてきれいな舞台だが、取り立てて新しい解釈はなさそう。

 

479 ドニゼッティ 「ランメルモールのルチア」英国ロイヤル・オペラ・ハウス 2016

 素晴らしい上演だと思う。歌手陣は粒ぞろい。その中でも、声楽面ではやはりルチアを歌うディアナ・ダムラウが圧倒的。信じられないような美しい高音。容姿も魅力的。ただ、健康的な姿かたち、躍動的な動きのために、正気を失った女性には見えないのが難点。エドガルドのチャールズ・カストロノヴォも容姿、声ともに素晴らしい。リュドヴィク・テジエのエンリーコも悪役ぶりが見事。ライモンド役の韓国人バス、クワンチュル・ユンも実にいい。

指揮はダニエル・オーレン。とてもしっかりした指揮だと思う。ぐいぐい通していくタイプではないと思うが、少しもだれない。

問題になるのはケイティー・ミッチェルによる演出だと思う。ダムラウが子どもを孕み、どうやら流産したようで、そのショックで正気を失うことにされている。しかも、黙劇でルチアとエガルドがセックスをし、ルチアはライモンドに対してはSM的なセックスを仕掛けるとベッドで殺し、最後、手首を切って自殺する。その様子が映画のように克明に描かれる。それはそれでリアルであり、上質の映画を見ているようだが、そこまでする必要が果たしてあるのか。私にはむしろ邪魔だった。

 

933 ドニゼッティ 「ロベルト・デヴリュー」 2016年 カルロ・フェリーチェ劇場

 とても良い上演だと思う。エリザベッタのマリエッラ・デヴィーアとロベルト・デヴリューを歌うシュテファン・ポップの主役二人が素晴らしい。デヴィーアの高音はとてもきれいで強靭。生で聴くとどんなにすごいことか。ポップもごく若いテノールだが、声に輝きがあり、しかも声量もあるようだ。サラ役のソニア・ガナッシももちろん素晴らしい。

 それに比べると、ノッティンガム公爵を歌うキム・マンスー(韓国人バリトンらしい)はかなり劣る。声が不安定で、演技もぎこちない。まだかなり若いようなので、これからの人なのだろう。この役がもっと充実していたら、最高の上演になっただろう。

 演出はアルフォンソ・アントニオッツィ。エリザベッタは白塗りで現れる。上手い処理の仕方だろう。舞台はとても魅力的。指揮はフランチェスコ・ランツィロッタ。勢いがあって、とてもいい指揮者だと思った。

 

102 ドニゼッティ 「ルクレツィア・ボルジア」 2012年 サンフランシスコ歌劇場

 私は、近年になってやっとイタリア・オペラに親しみ始めたので、知らないオペラがたくさんある。このオペラもその一つだ。初めて映像を見て、とてもおもしろいと思った。きれいなアリアがたくさんあるし、ストーリーもわかりやすく、しかもなかなかドラマティック。ただ、私の知るルクレツィア・ボルジアの史実とは違うような気がするが、まあそこはイタリア・オペラなので、史実と比較すること自体に意味がないだろう。

 さすがアメリカの歌劇場だけあって、レベルが高い。ルクレツィアのルネ・フレミングはもちろん素晴らしい。そして、ジェンナーロを歌う若いマイケル・ファビアーノも実に魅力的。しかも、容姿もいい。誇り高く、無謀で、しかも甘えん坊の男性を見事に歌っている。悪役アルフォンソを歌うヴィタリー・コヴァリョーフも迫力があって見事。オルジーニを歌うズボン役のエリザベス・デションもとても美しい声。

 リッカルド・フリッツァの指揮もきびきびしていてとてもいいし、ジョン・パスコーの演出も時代の重みを描き出して、雰囲気がある。傷が見当たらない。全体的に大満足。

 

 

109 ドニゼッティ 「ラ・ファヴォリータ」(フランス語版)2016年 バイエルン国立歌劇場

 このオペラを映像付きで見るのは初めてだと思う。とてもおもしろかった。

 レオノーラのエリーナ・ガランチャとフェルナンドのマシュー・ポレンザーニがやはり圧倒的。声が伸びているし、声の表現力にも驚く。ガランチャはあまりに美しい。アルフォンソ11世を歌うマリューシュ・クヴィエチェンはいい歌手だと思うが、なぜか声が伸びないし、訛りがひどくてフランス語に聞こえない。バルダッサーレを歌うミカ・カレスはかなり若い歌手だと思うが、声が不安定で聴くのがつらくなる。

 カレル・マーク・チチョンの指揮はとてもドラマティック。アメリ・ニーアマイアの演出もわかりやすくて美しい。全体的にはとてもよい映像だった。

 

729 プッチーニ 三部作 2007年 モデナ、テアトロ・コムナーレ

 アマリッリ・ニッツァが3作すべてのヒロインを演じ、ジュリアン・レイノルズの指揮するトスカニーニ財団管弦楽団の演奏、演出はクリスティナ・ペッツォーリ。

 ニッツァは本当に素晴らしい。芯が強くて音程のよい美声。演技も見事。容姿もいい。すべてにそろった歌手だ。「外套」のジョルジョッタなど、まさに鬼気迫る。アンジェリーナも健気。ラウレッタの「私のお父さん」もとても美しく、しかもユーモアにあふれている。

ミケーレやジャンニ・スキッキを歌うアルベルト・マストロマリーノも豊かな声でとてもいい。

 これまで何度も書いてきたが、私はプッチーニが苦手だ。オーケストラが歌詞と同じメロディを奏で、情緒に訴えかけるような音になると、私の心は拒絶反応を示してしまう。私はテレビドラマを見ている時、登場人物が自分の悲しい生い立ちを語るようなときに、切々とした音楽がかかるとそれだけでウンザリしてしまうのだが、プッチーニのオペラにそれと同じようなウンザリを感じる。ただ、この三部作はそれほどプッチーニいやなところが少ないので、比較的楽しく聴ける。とりわけ、「ジャンニ・スキッキ」は喜劇なので、私には受け入れやすい。ただ、そうはいっても甘ったるいメロディが聞こえてきて、つい我に返る瞬間は何度かあった。

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東京二期会「ローエングリン」 読み替え演出も含めて世界レベルの上演

2018221日、東京文化会館で東京二期会オペラ劇場「ローエングリン」初日をみた。このところの東京二期会のレベルにふさわしい世界一流の劇場公演に匹敵する素晴らしい上演だった。

 指揮は準・メルクル。オーケストラは東京都交響楽団。第一幕への前奏曲の精緻で官能的な音の重なりからして見事。ところどころ歌手と合わないところ、盛り上がりに欠けるところはあったが、オペラ劇場常設のオケでないのに初日からこのレベルの演奏をしてくれればまったく文句はない。安心して聴いていられた。2日目以降、ずっと精度が上がるだろう。準・メルクルの指揮はツボを押さえて精緻で知的。ただ、もう少しダイナミックな爆発と強いうねりがほしい気はする。合唱は二期会合唱団。見事な声だが、ところどころアンサンブルが崩れるところがあった。これも2日目以降はもっと精度が増すに違いない。

 歌手も全員が大健闘。とりわけ、私はエルザの林正子とテルラムントの大沼徹に惹かれた。林はエルザにふさわしい清澄で清楚な声。しかも強靭。これまでこの歌手を何度も聞いてきたが、そのたびに素晴らしい。大沼も人間的な弱みもありながらプライドを保とうとするテルラムントを見事な美声で歌った。ハインリヒの小鉄和広も見事な声と存在感。伝令の友清崇もこの役にふさわしい立派な声。オルトルートの中村真紀はとてもきれいな声と魅力的な容姿なのだが、演出意図なのか、少々小粒で清楚すぎる。もう少しアクが強いほうがオルトルートらしいのだが、それほどの存在感はなかった。ローエングリンの福井敬はとてもしっかりした声であり、しかも演出によって、さほど英雄的である必要もないのだが、やはりローエングリンとしてはヘルデンテノール的な要素が少々弱い。日本人ではいかんともしがたいと思うが。

 演出は深作健太。前奏曲の間、ワーグナー?の扮装をした小柄な男が舞台の左側でルートヴィヒ2世の肖像画のもとで何やら「ローエングリン」の台本(あるいはスコア)をみている。幕が上がって、伝令、そしてハインリヒ、テルラムント、エルザが登場してからも、黙役として舞台に絡む。ワーグナーが「ローエングリン」を構想しているという設定で物語が進んでいくのかと思っていると、そのワーグナーと思われていた男(確かに、よく見ると、福井敬さんだった!)が初老のローエングリンに変身して舞台に参加する。意表を突かれた感じ。ローエングリンらしいさっそうとした騎士姿の人物が時々舞台上に現れていたが、それは幻視としてのローエングリンだったらしい。

 日本人の演出としては珍しく、まるでバイロイトでの演出並みの読み替え演出。舞台はルートヴィヒ2世の時代のバイエルンに設定され、ハインリヒの軍隊はプロイセン軍の軍服を着ている。オルトルートは片目に眼帯をつけており、時々槍のようなものを持つ。つまりは、ヴォータンの徴を持つ。しばしばリンゴが登場する。リンゴはもちろんユダヤ・キリスト教における知恵を意味すると同時に、ヴォータンの世界では命を意味する。第3幕でテルラムントはローエングリンに殺されず、むしろローエングリンが拘禁される。最後、しばしば黙役として舞台の登場していた少年(ゴットフリート)が中心に出て、未来に向けて時を刻む時計を前にする。

 演出については、細かいところはよくわからなかったが、きわめて大まかに理解すると、ブラバント公国をワーグナーの時代のバイエルン王国を重ね合わせ、ハインリヒ王のブラバントへの来訪をプロイセンによるバイエルンへの併合の動きとして描いているといえるだろう。

テルラムント、オルトルートはおそらくプロイセンの影響から離れて昔ながらの生活を送ろうとするバイエルン独立派だろう。ローエングリン=ルートヴィヒ2=ワーグナーは、プロイセンの拡大を苦々しく思いながらもプロイセンと交流を持ち、むしろバイエルンこそがリーダーシップをとって軍隊的ではない、もっと文化的な世界を作り上げようと夢見ている。だが、ルートヴィヒ2世は夢見るばかりで実際には動かないので、ルートヴィヒの庇護のもとでオペラを構想していたワーグナー自身が老いたローエングリンを演じて、エルザの救済、そしてバイエルンの救済に乗り出す。しかし、エルザ(国民?)はローエングリン(=ルートヴィヒ2世)を信用せず、テルラムン側の抵抗もあって、バイエルンはプロイセンへの従属を深めるだけになってしまう。ただ、平和で文化的なルートヴィヒの夢は未来の子どもに託すしかない。

私の解釈があっているかどうかわからない。が、日本人による演出がドイツの歴史にまで踏み込んでおり、観客が頭を使って考えなければならないようになったことに、多少の衝撃を覚えざるを得ない。新しい演出の試みをすることは大事だが、このような、いかにもドイツ的な読み替え演出をすることもないのではないかと思う。ただ、日本の声楽界に声も容姿もローエングリンにふさわしいローエングリンが登場するのは難しい。そのような状況を考えて、このような演出にせざるを得なかったのかもしれない。

なお、「ローエングリン」を見る前、東京国立博物館で「仁和寺と御室派のみほとけ」展をみた。40分待ちで館内に入ったが、中はごった返していた。仏像には素晴らしいものが多かった。このところ、スリランカ、タイ、ミャンマーの寺院でたくさんの仏像を見たが、やはりそれらは日本人の感覚からすると、「ありがたみ」の感じられないものが多かった。日本の仏様は本当に美しいと改めて思った。これこそ静かなところで見たかったが、今回は仕方がないだろう。

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新国立劇場「松風」 大変おもしろかった

 2018218日、新国立劇場で細川俊夫のオペラ「松風」をみた。私は「能」についてまったくの無知なので、詳しいことはわからないが、「松風」というのは有名な演目らしい。それに題材を得た細川のドイツ語台本によるオペラだ。現代オペラを見慣れているわけではないので、素人じみたことしか言えないが、ともあれ、大変おもしろかった。

 まず何よりも音楽に惹かれた。能を意識しているのだろう。幽玄な音。現代音楽に慣れていない耳にも違和感がない。説得力を持って迫ってくる。ドラマティックであり、官能的であり、しかも奥が深い。

 指揮はデヴィッド・ロバート・コールマン。オーケストラは東京交響楽団。この複雑な音楽を美しい音で、見事に聴かせてくれた。松風を歌うイルゼ・エーレンスも村雨を歌うシャルロッテ・ヘレカントも、そして旅の僧のグリゴリー・シュカルパも、これ以上は考えられないほどの素晴らしさ。須磨の浦人を歌う萩原潤も見事。新国立的情合唱団の歌手たちもとても良かった。音楽に関しては、私に理解できる限りでは、すべてにおいて素晴らしいと思った。

 演出・振付はサシャ・ヴァルツ。歌手のほかにほとんど常に、登場人物の分身(と思われる)ダンサーが、心の中を表現するような動きで舞う。松の木を模した人々も情動のうごめきを肉体によって表現する。登場人物が歌手、ダンサーたちへと増幅されて舞台いっぱいに広がっていく。松風と村雨が想う在原行平もダンサーによる情動として表現される。

「能」のような舞台を想像していたら、まったく違っていた。ベトナムの農民のような服装のダンサーが現れて、まるでベトナムの人形芝居のような動きをする。日本人としては、「能」とベトナムの人形芝居を一緒にしてしまうなんてなんという無理解!と感じて少々むっとしたが、おそらくヴァルツはそのことは百も承知でこのような演出を行っているのだろう。ただ、どういう意図があってそうしているのか、実はよくわからなかった。

 わからないところはたくさんあったが、ともあれ大変楽しむことができた。

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ヤルヴィ+N響のサン・サーンスとフォーレ 「レクイエム」に少々不満を覚えた

2018217日、NHKホールで、パーヴォ・ヤルヴィ指揮による NHK交響楽団定期演奏会を聴いた。曲目は、前半にデュリュフレの「3つの舞曲 作品6」、 樫本大進のヴァイオリンが加わってサン・サーンスのヴァイオリン協奏曲第3番、後半にフォーレの「レクイエム」。全体的にとても良かったが、感動するまでには至らなかった。

デュリュフレのこの曲は初めて聴いた。とてもおもしろいと思った。N響の音も、時々ハッとするほど繊細で美しい。ヤルヴィの出す音は、フランス音楽にしては強靭。中身の詰まった音とでもいうか。しかし、それはそれであまりに美しいので、説得力がある。

サン・サーンスは素晴らしかった。樫本のヴァイオリンも含めて、あまりフランス的ではなく、むしろドイツ的だと思う。情熱的で鋭くて厚みがある。フランスのヴァイオリニストが弾くような色気のようなものは少々不足している。が、理詰めに音楽が重なり合うので、私としてはまったく不満はない。かなり興奮した。サン・サーンスの音楽はこのように演奏しても、その美しいメロディと熱い情熱、そして理知的な構成は伝わってくる。第二楽章は息を飲む美しさだった。

ちょっと不満だったのは、最も期待していたフォーレのレクイエムだった。もちろん、とてもよい演奏だと思う。静かな音を重ね、しかもひとつひとつの音が強靭。えもいわれぬ美しい部分がたくさんある。「サンクトゥス」の最後の部分の美しさには圧倒された。そして、終曲「天国に」はまさに天国的。素晴らしかった。N響の音の美しさ、東京混声合唱団の声の美しさは十分に味わうことができた。

が、私には音楽全体がちょっとカチッと決まりすぎている気がする。ふくよかさ、敬虔なぬくもりといったものが感じられない。フォーレのレクイエムの私のもっとも好きな部分がない。私の勝手な思い込みかも知れないが、わたしはもっと静かに包み込むような優しさにあふれていてほしいと感じてしまう。

そして、ソプラノの市原愛とバリトンの青山貴にも、私は少々不満を覚えた。ちょっとオペラ的すぎる歌い方だと思った。しかも、ちょっと音程が不安定なところもあったように思う。もっと敬虔でもっと清澄な声と歌い回しのほうが、この曲には合っていると思う。

そんなわけで、とてもよい演奏だったと思うのだが、私の求めるフォーレのレクイエムではなかった。その点で不満が残った。

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こんにゃく座「天国と地獄」 歌以外は素晴らしかった

 2018213日、俳優座劇場でこんにゃく座公演「天国と地獄」を見た。昔々、林光のオペラを見て以来、二度目のこんにゃく座。オッフェンバックのオペレッタは何を隠そう、大好きだ。おそらく、DVDで入手できるものはすべて持っている。CDもかなり聴いてきた。「天国と地獄」(もちろん原題は「地獄のオルフェ」)も大好きで、これまで実演も映像も何度か見ている。

 一言で言って、今回の上演(B組による上演)は歌以外はたいへん素晴らしかった。台詞・訳詩・演出を担当した加藤直のセンスと力量に感服。原作のセリフをそのまま上演しても、今の日本人にはあまり面白くない。変更してこそ、楽しむことができるし、そうしてこそオッフェンバックの精神を伝えることができる。それを加藤直は、現代の日本人が楽しめるように、しかもオッフェンバックの精神をしっかりと伝えられるように修正している。笑いのセンスも見事。

 そして、演出の面白さも特筆するべきだろう。気が利いているし、動きがあってあきないし、一人一人の歌手の演技も素晴らしい。顔の表情、手の動きなども見事。すべての歌手たちが、歌手という以上に役者であって、どの人も素晴らしい。

 オーケストラではなく、ほとんどの音楽をピアノとヴァイオリンとクラリネットとファゴットで演奏。か細い音になるが、経費節約を考えれば、これで十分にオッフェンバックは成り立つ。

 ただ、歌手たちの歌については、私は聞くのがつらかった。ほとんどの歌手の音程がかなりよくない。完璧に音程のずれることもかなりあった。声も出ていない。重唱などではきれいにハモらない。これではオッフェンバックのオペラは成り立たない。いくら芝居として面白くても、やはり歌こそがオペレッタの命なのだから。こんにゃく座はオペラ団体なのだから、やはりもっと歌に力を入れてほしいものだ。

 オッフェンバックのオペレッタをもっと上演してほしい。ただし、やはり音程だけはしっかりとした歌であってほしい。

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鈴木優人 BCJの『ヨハネ 』

2018212日、東京オペラシティ・コンサートホールで、バッハ・コレギウム・ジャパン定期演奏会「ヨハネ受難曲」を聴いた。鈴木優人初めてのBCJ定期での指揮。しかも、曲目がバッハの「ヨハネ」とあっては聴かないわけいにはいかない。超天才の凄まじい「ヨハネ」を聴けるものと期待して出かけた。

が、正直にいって、やはり「ヨハネ」は難物だった! もちろん、指揮は全体的にはとてもいいと思う。ものすごい才能! が、所々で停滞するのを感じるのは、私の耳のせいではないだろう。バランスがおかしくなったり、フレーズの整理ができていないのを感じたり。恐る恐る立ち向かっているのを感じるところもあった。

歌手はエヴァンゲリストのハンス・イェルク・マンメルとソプラノの松井亜希がとりわけ素晴らしかった。松井は素晴らしく美しい声で、音程も完璧。バスの加耒徹はとても美しい声だが、低音の音程がちょっと不安定。バッハ・コレギウム・ジャパンの合唱と管弦楽はもちろん素晴らしい。

ただ、実を言うと、「ヨハネ受難曲」は好きな曲で、たびたびCDでも聴いているので、対訳を見ないでも十分にわかって聴けると思っていたら、そうでもなかった。しばしば、何が歌われているのかわからなくなった。十分にバッハを聞きこんでいないことを自覚した。そういえば、最後に「ヨハネ」を聴いたのはいつだったか。この数年間、聴いていなかったような気がする。

また「マタイ」と「ヨハネ」のCDを何枚か聴きたくなった。

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京都と姫路 「美濃吉」、映画「幸せな人生の選択」、智積院、姫路城

 京都駅前の新阪急ホテル地下にある京料理の店、美濃吉。ここの料理が私は大好きだ。美濃吉は東京を含め、各地にあるが、私は新阪急ホテルの味がもっとも好きだ。時々感動的なほどおいしいと思う。しばらく行く機会がなかったので、機会を探していた。たまたま姫路に住む友人T君が手術をして自宅療養中だというので、それを口実に(T君、ごめん!)、20182月7日、京都を訪れることにした。ついでにちょっと観光もするが、目的は美濃吉での食事。京都に泊まって、姫路まで足を延ばす。

 

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 京都についてすぐに、新阪急ホテルに直行して、美濃吉で昼食。いつものように手ごろな京懐石「鴨川」を食した。うまい! 白味噌仕立てが相変わらず最高にうまい。鰆のみそ焼きもくみ湯葉あんかけご飯もすばらしい。食べに来た甲斐があったと思った。

私は料理についての語彙を持たないし、料理法もろくに知らず、素材についても無知だ。だから、うまく説明できない。ただ、うまいかどうかしか言えない。ともあれ、ここの料理は、ただ単に「おいしい」の先に絶妙のものがある。毎回、私はそれを感じる。「ああ、本当においしい…」とつくづく思う。ミシュランの星付きのお店にも時々行く機会があるが、私はこの美濃吉の料理のほうをおいしいと思うことが多い。

 四条付近のホテルにいったん寄って、荷物を置き、京都シネマで映画を見た。

 東京では私好みのミニシアター系の映画館は新宿、渋谷、銀座などあちこちに点在している。が、京都では京都シネマでそのほとんどが見られる。そんなわけで、時間があったら、京都シネマで映画を見るつもりでいた。「幸せな人生の選択」とモーパッサン原作の「女の一生」のどちらにするか悩んだが、今さらモーパッサンでもなかろうと思って、「幸せな人生の選択」にした。

カナダから、中年の男のトマスが故郷であるマドリッドにがんによって死を間近にしたかつての親友フリアンをはるばる訪ねる。最期の時間を共に過ごすためだ。トマスは4日間、フリアンと行動を共にしている。フリアンは延命治療をしないことを選び、安楽死をしたいと考えていることが明かされる。フリアンの心配事の一つは老犬トルーマン(この「トルーマン」が映画の原題)を自分の死後、だれに託すかなので、それにもトマスは付き合う。アムステルダムに留学している息子を突然訪れる。そのような交流を描く。死を前にした人間のあきらめ、悲しみ、親子の情、そうしたものを情に溺れることなく、淡々と、しかししみじみと描いていく。かつての舞台のスターで、今もわがままを通すフリアン、友情をもってそれを支える寛大で常識人のトマスという組み合わせ、そして二人と微妙な関係を持ってきた女性たちの存在によって、そうした状況を描く設定ができ上がっている。

フリアンに無理やりおしつけられて、トマスはトルーマンをカナダに連れ帰ることになる。親友だったフリアンの身代わりとして、トマスはトルーマンを死までかわいがるのだろう。生と死、友情、社会における市の意味。そうしたものがすべて描かれる。

人生の最期を垣間見るためにとても良い映画だと思う。私は今、東京新聞・中日新聞で「65歳になったら〇〇しなくていい宣言」を連載している。高齢者についてあれこれと考える状況にある。そのための参考にもなる映画だった。

ただ実は、私は翌日、がんの手術をした友人を見舞うのだった。そもそも私は東京からはるばるかつての親友を見舞うために姫路に向かう途中なのだった。「しまった。縁起でもないものを見てしまった。明日、これと同じようなことにならなければいいが!」と心から思った。

映画をもう一本みようかと思ったが、映画館内が寒くて気力を失った。京都の夜の街を散歩しようとも思っていたが、寒さのために、これも諦めた。さっさとホテルに戻って風呂に入って温まってすぐに寝た。

 

2月8日

 京都まで来てどこも観光しないのはあまりに残念。かといって、寒いのであちこちウロウロしたくない。そんなわけで、私の大好きな場所、智積院に行くことにした。

 私は2006年から数年間、京都産業大宅で客員教授を務めていた。京都市内に寝泊まりする場所も確保し、週に2日間通っていた。その間、京都のあちこちを回った。その中でもっとも好きだったのが、智積院だ。そこでみた長谷川等伯の襖絵に驚嘆した。その後、折に触れて智積院を訪れている。今回もそこにだけは顔を出すことにした。

 ちょうど本堂で何事かの儀式が行われていた。念仏が唱えられ、20名ほどのお坊さんが集まっていた。どのような儀式なのかわからなかった。堂内に入ってしばらく見ていたが、携帯に仕事の電話が入ったために堂を出た。その後、等伯とその息子・久蔵の描いた襖絵を見た。見るごとに感動する。生命、ほとばしり、死、美。そうしたものの奥深くにあるものを鮮やかに描き出して見せていると思う。

 京都駅まで歩いて、その後、新快速で姫路へ。姫路に到着してからは、まずは姫路城を見物に行った。姫路在住の友人T君に連れられてかつて内部も見たが、大修理が行われてからは、新幹線から眺めるだけで、訪れる機会がなかった。駅から歩いて、周囲を見物。

 その後、タクシーでT君宅を訪れ、楽しく歓談。手遅れになるところをいくつかの幸運が重なって早期発見につながったとのことで、もちろん前日見た映画のようなことにはならない(ただ、映画の話はしなかった)。高校時代からの友人だが、彼は理系、私は完璧な文系なので、進む方向は違ったが、50年近くにわたって交流を続けている。孫が何人かいて、家族にも恵まれ、定年退職後も自分なりの研究を続けて静かに生活している。素晴らしい人生だ。あと少し療養が必要だということだが、元気になったら、また昔のように一緒に遊びたいと思った。

その後、新幹線で京都に戻り、ちょっと時間があったので、駅の周辺(東寺付近)を歩き回った。寒くなったので、駅に引き上げ、夕方からまた新阪急ホテル地下の美濃吉で食事。

またも鴨川。白味噌仕立てを再び食べずに東京に戻るわけにはいかない。お店の人が、二日連続の同メニュと知って少しアレンジしてくれたのはうれしい。でも、同じものでも、これほどおいしいと何度も食べたくなる。海老芋も最高においしかった。そして、別に注文した一品料理「鯛の兜煮」も絶品だった。骨にしゃぶりついて食べつくした。

 満足して京都を後にして、その日のうちの都内多摩地区の自宅に帰った。

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ポンマー+札響のベートーヴェン6番5番 好きな演奏ではなかった

 201826日、サントリーホールで札幌交響楽団東京公演を聴いた。指揮はマックス・ポンマー。今年の3月で首席指揮者を務めたわけだが、私は、初めてこの指揮者の演奏を聴いた。曲目は前半にベートーヴェンの交響曲第6番「田園」。後半に第5番(運命)。

 結論から言って、あまり好きな演奏ではなかった。

 オーケストラは素晴らしいと思った。とりわけ弦楽器と木管楽器はとてもいい。きれいな潤いのある音。オーボエが特に美しいと思った。尾高忠明やエリシュカと演奏するうち、札響は素晴らしいオーケストラになったのだと改めて思った。

 ただポンマーの指揮のリズムが私には理解しがたかった。リズムが安定せず、私にはきわめて恣意的に聞こえる。特有のリズムとして魅力的に響くところもあるが、リズムが崩れる感じがして、私はついていけない。「田園」ではまだ気にならなかったが、「運命」の、とりわけ第2楽章でリズムが安定しないと、音楽の構造が曖昧になり、ぐにゃぐにゃになるのを感じた。アンコールはバッハの「アリア」だったが、それも同じ感じ。メロディを強調するあまり、リズムが不安定になっているように私には思える。

 明日、私用で関西に行かなければならないので、早々に会場を後にした。

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映画DVD「過去のない男」「街のあかり」「パラダイス・ナウ」「歌声にのった少年」「クーリエ」

 カウリスマキ監督とハニ・アブ・アサド監督の映画をDVDでみた。感想を書く。

51infxnwunl_sy445_ 「過去のない男」 フィンランド映画 アキ・カウリスマキ監督 2002

 カウリスマキ監督らしい、ちょっととぼけた、心温まる映画。しかし、そうでありながら、真摯に世界を見つめているので、決しておめでたくはない。静かな映像も魅力的だ。

 男(マルック・ペルトラ)がおやじ狩りにあって、重傷を負い、ショックで記憶をなくしてしまう。途方に暮れているところを貧しい地域の人々に助けられて、浮浪者として生活するようになる。救世軍に援助を受けているうち、そこで働く女性イルマ(カティ・オウティネン)と恋に落ち、様々な能力を発揮して働くようになる。銀行で口座を作ろうとしているときに銀行強盗にまきこまれて警察に知られることになり、身元が発覚するが、元の妻とは離婚が成立していた。イルマの元に戻ることになる。

 それだけの話だが、少ないセリフ、善良な人たち、善良ではない人たちがそれぞれの形でかかわってきて、実に面白い。深刻に悩んでいるところなどほとんど描写せず、すべてをさりげなく描きながら、ちょっとしたしぐさで登場人物の置かれている状況や心情をわからせる手腕におそれいる。

 

510lzhl1hcl_sy445_ 「街のあかり」 フィンランド映画 アキ・カウリスマキ監督 2006

 犯罪組織に目を付けられ、女性を差し向けられ、宝石泥棒に利用されながら、愛した女性のために口をつぐんで罪を引き受けてしまう孤独な警備員(ヤンネ・フーティアイネン)。刑務所に入り、ひどい目に遭い続けるが、最後、手を差し伸べるなじみのソーセージ屋の女性の愛を受け入れる。

 孤独に、そして誠実に生きながら恵まれない人を描いて、心温まる。静かなタッチ。あえて古い映画の手法を用い、時代に取り残された人への共感を描いている。チャップリンやルネ・クレールの時代から繰り返し描かれてきたテーマなのだが、現代社会に忘れられた人情が示されていて、とても感動的。

 

517jttnfasl_sy445_ 「パラダイス ナウ」 2005年 ハニ・アブ・アサド監督

「オマールの壁」の監督作品。これは「オマールの壁」以上に衝撃的。イスラエルに占領されたヨルダン川西岸で暮らす親友の二人の青年サイードとハーレドが自爆して殉教者となる道を選ぶ。ところが、アクシデントがあって、二人は腹に爆弾を巻いたまま離れ離れになる。しかも、密告者の息子であるサイードは裏切りを疑われる状況に追いやられる。サイードは仲間と連絡を取ろうとするうち、英雄の娘に惹かれ、自爆以外の方法があることに考えが及ぶ。しかし、もう取り返しがつかない。イスラエルは占領地に密告者を作るシステムを作り上げており、それに打撃を与えるには自爆も有効だと考える。そして、最後、自爆を実行する。

 自爆の論理がとてもよくわかる。イスラエル占領地の人々の気持ちもとてもよくわかる。密告者になるか自爆するかの道しかなくなったサイードの状況もよくわかる。ただ、あまりの深刻な内容のため、見ているのが辛くなって、DVDを何度も止めた。

 

51npjtj5pl_ac_us160_ 「歌声にのった少年」 2015年 ハニ・アブ・アサド監督

 同じハニ・アブ・アサド監督の映画だが、実話に基づく映画。ガザ地区に住みながら、子どものころから黄金の声で周囲を楽しませていた少年ムハンマド・アッサーフが「アラブ・アイドル」というテレビのオーディション番組に出演して勝ち抜き、大スターになっていく。私はまったく知らなかったが、このムハンマド・アッサーフという歌手は誰もが知る大スターらしい。映画も本当によくできている。少年時代の子どもたちの描き方が素晴らしい。とりわけ若くして病死するムハンマドの姉の溌溂とした描き方が秀逸。ガザ地区の置かれた状況、その不自由な日常も描かれ、その苦しみを人々に伝えようというムハンマドの気持ちもよくわかる。私はこの種の映画を見て涙を流すことはあまりないのだが、最後、涙を流しながらみた。

 

51ln9tcu8l_ac_us160_ 「クーリエ 過去を運ぶ男」2011年 ハニ・アブ・アサド監督

 ハニ・アブ・アサドのアクション娯楽映画。舞台はアメリカ。突然、60時間以内に人を探せと命令される運び屋(ジェフリー・ディーン・モーガン)が、自分の過去の事件と関わっていく話らしい。「らしい」というのは、わけがわからなかったから。初めは、ジェイソン・ステイサム主演の「トランスポーター」シリーズのような映画かと思っていたら、そうでもない。主人公は何をしようとしているのか、次々出てきて殺される人たちは、なぜ殺されるのか。陰の悪漢(ミッキー・ローク)は何が目的だったのか、そもそも様々な謎は何を意味していたのか。HBIがなぜ関わっているのか。私が何か見落としたのかと思って、映画サイトのレビューを見たら、やはり、わけがわからんという感想がほとんど。これがあれほどたくさんの傑作を作ったハニ・アブ・アサド監督の作品とは思えない。私もたくさんの本を書いているからわかる。あれこれの事情があって駄作になってしまうことがあるものだ。

 

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慶児道代(ソプラノ)、石井里乃(ピアノ)のみごとなチェコ語のリサイタル

201822日、東京文化会館小ホールで慶児道代(けいこ・みちよ)のソプラノ・リサイタルを聴いた。すべてチェコ語による歌唱。ピアノ伴奏は石井里乃。ヤナーチェク友の会の誘いを受け、しかも「イェヌーファ」の抜粋が聴けるとのことで、出かけたのだった。とても良い演奏だった。

曲目は、前半はスメタナの歌曲集「夕べの歌」とドヴォルザークの歌曲集「聖書の歌」。後半はヤナーチェクの「イェヌーファ」、ドヴォルザークの「ルサルカ」からいくつかの場面。

ヴィブラートの少ない美しい声。長い間、チェコで暮らしてきた人なので、きっとチェコ語の発音は完璧なのだろう。ただ、実は歌曲については少し不満を感じた。丁寧に、そして「心を込めて」歌いすぎているために、平板になり、すべての歌が同じような雰囲気になっていると思った。スメタナの歌曲は初めて聴いたが、「聖書の歌」に関して、私がこれまでCDなどで聴いた演奏はもっとメリハリがあり、もっと躍動的でもっと振幅の大きさがあった。まるで日本の多くの人が「荒城の月」や「故郷」を歌うように心を込めて歌われると、チェコの音楽の本質からずれてしまうのではないかと思った。

だが、後半は素晴らしかった。とりわけ、「イェヌーファ」はよかった。これは「心をこめて歌う歌」にはなりにくい音楽なので、必然的に心の叫びになり、言葉そのものの爆発になる。イェヌーファの清楚さ、真摯な叫びが聞こえてきた。声のコントロールも見事だった。

「ルサルカ」もよかった。「月に寄せる歌」もとてもきれい。透明で伸びのある音で、発声がよく、音程がいい。こんなに美しい声で音程が見事で音楽も豊かな歌手は日本人にはなかなかいないと思う。

 そして、私はピアノの石井里乃に驚嘆した。スメタナの第一曲では歌とタイミングがずれたが、その後すぐに立て直して、クリアで清潔でしかも強さのある音の世界を繰り広げてくれた。前半を聴いた時点で、私は「歌はまずまずだが、ピアノが素晴らしい」と思っていたほどだ(後半に入って、歌も素晴らしいことがわかってきた)。

 フリー・アナウンサーの西田多江の司会が入った。音楽にはあまり詳しくない人のようで、音楽的な言い回しがたどたどしかった(「わが祖国」を「交響曲」を呼んだような気がした!)が、落ち着いた声でしっかりと役割を果たしていると思った。一人の歌手のリサイタルの場合、どうしても歌と歌の間に喉を休める時間が必要だ。その間に、このようなMCが入るのもよい方法だと思う。それぞれの作曲家の説明、オペラのストーリーの説明も見事だった。かなり入り組んでおり、しかも簡単にまとめるとどうしてもわかりにくいところが出てくるストーリーを見事にまとめていた。慶児さんの作った原稿なのだろうか。西田さんの語り口も見事だったために、オペラの世界に引き込まれた。

 ところで、「聖書の歌」の終曲のピアノ伴奏は、日本人には「雪やこんこ」にどうしても聞こえる。ある本の中で書いたことがあるが、このこととブラームスの「四つの厳粛な歌」の第1曲が「黄金虫」にそっくりに聞こえるのは偶然ではないと私はにらんでいる。明治の頃、これらの曲を間近で聴く機会のあった人(あるいは人々)が、意識的か無意識的か、童謡に使ったのではないか。ブラームスとドヴォルザーク、すなわち師弟関係の二人の、それぞれ珍しい宗教的な歌曲が、明治以降作られた童謡にあまりに似ているというのを偶然とみなすのは難しいと思う。

実は一時期、このような仮説のもとに、何か解明できないかと童謡作曲の際のいきさつなどを調べていたが、今は諦めている。

ミャンマーから帰ったばかりで、体調が完璧ではない。リサイタルに行くのも少しためらったが、とても良い歌を聴けて満足だった。

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ミャンマー旅行 その2

 昨日に引き続き、ミャンマー旅行の感想を書く。

 なお、「ミャンマー旅行 その1」に写真を挿入しようとしたのだが、先日、スマホを買いなおしたせいか、それができなかった。技術を身に着けたら、後ほど写真を加えることにする。

 

4日目 130

 朝、6時過ぎに起きて、チャイティーヨの頂上付近にあるホテル付属のレストランで647分の日の出を待った。そのテラスは絶壁に建てられており、眼下に山や平原が広がるのを見ることができる。そこは、日の出を見る絶好の場所とのことだった。

620分ころからだんだんと明るくなり、35分ころに日の出。なぜか、ネットなどで予告されていた時刻よりも10分以上早かった。どういうわけか。まさか、ここは物理法則が当てはまらない聖地であるため、岩は落ちそうで落ちず、時間もゆがみが生じているというわけでもあるまい。

それにしても絶景。朝焼けになって、だんだんと光が広がっていく。はるか遠くの山並みから太陽が顔を出す。そして、朝になる。

その後、トラックバスで下山。下り坂のほうが上り坂よりもスピードが緩く、それほどのスリルはなかった。その後、バスに乗り換えて、途中、食事をマジながら、またまた5時間以上かけてヤンゴンへ。

ヤンゴンでは、まずボージョーアウンサン・マーケットへ。要するに、大きな外国人向けのお土産物屋さんだ。宝石、特産品などの店が並び、外国人(西洋人、中国人、日本人)やそれぞれの言葉を話す客引きが大勢いた。が、私はそのようなお土産物には関心がないので、ガイドさんに近くのデパートに連れて行ってもらって、そこに入っているスーパーをのぞき、民族音楽のCDを購入した。私はアジア地域に行くと、必ず、少なくとも一枚は民族音楽のCDを購入することにしている(ただし、帰国後聴いてみたら、あまりおもしろくなかった。選択失敗だった!)。

日本企業などが入っている商業ビル、サクラ・タワーの上層階にあるレストランでコーヒータイムを過ごし、高みからヤンゴンを見た後、シュエダゴン・パゴダを訪れた。ヤンゴンの最大の寺院であり、聖地ということらしい。大きな仏塔があり、その周囲に小さな仏塔や建物が林立している。仏塔は大小すべて金箔に包まれており、金色に輝いている。

ここでも私は既視感に襲われた。いくつも同じような寺院を見たような気がするが、とりわけ、タイのチェンマイのワット・プラシンに似ている。いや、似ていること自体は構わない。お寺なんてそんなものだろう。私が気になったのは、ワット・プラシンでは私はかなり感動したのに、ここではそれを感じないことあd。すでに似たようなものを見たことがあるがゆえに、新鮮さの欠如というだけではなさそうだ。タイの寺院には仏塔だけでなく、急な角度の反った屋根と赤茶色の瓦を特徴的なお堂がある。そこで静かにお参りしている人がいる。ところが、こちらにはそれがない。金ぴかの仏像、時にはディズニーの人物のような神々や釈迦の弟子たちの像がある。そして、ここでもいくつもの仏像の背後にネオンが取り付けられており、後光がピカピカと光るような仕掛けがある。少々白けてしまった。峻厳さ、生と死のかなたに肉薄しようとする厳しさ、現世の生きる苦悩から逃れて救いを求めようとする真摯さ・・・そのようなものが感じられない。

これでヤンゴン見物は終わり、夕食をとって、空港に向かった。

 これでは、銀座にちょっと寄って、そのあと浅草寺をみただけで東京観物を終えるに等しい。もう少しヤンゴンの深みを見てみたかった。

 

旅のまとめ

・ツアーであるから仕方がない。が、やはり見たいところを見られなかったという思いは残る。表面だけほんの少し見たに過ぎない。ツアーのよいところもたくさんあるが、限界があることを改めて痛感。

・ツアーというのは、ガイドさんやツアー客によって、よくなったり悪くなったりする。今回のガイドさんは大変良かった。あれこれと気を使い、何かが起こったらすぐに的確な対応をし、客の一人一人を気遣っていた。お客さんもよい方ばかりだった。そのおかげで楽しく過ごせた。

・自分でミャンマーを歩き、じかに人に接したわけではないので、これまでの旅行以上に曖昧なことしか言えないが、ミャンマーの人々の穏やかさをしばしば感じた。殺気立ったところや険しいところがない。物売りが近づいてくるが、しつこくない。

・聖地チャイティーヨに行くとき、トラック・バスに大きな物は入らないのでスーツケースはふもとに残して、頂上のホテルで一泊するだけの分を持っていくように言われていた。が、私はもともと荷物をかなり小さくまとめているので、そのまま持ち込んだ。トラックバスでは問題なかったが、それを降りてホテルまで行くときに、少々重さを感じたので、ポーターに運ぶよう頼んだ。ポーターの存在はガイドさんに聞いていたが、実際に見てびっくり。トラックバスの終点の近くに何人もポーターが待ち受けていた。屈強の男性だとばかり思っていたら、ポーターのほとんどが若い女性だった。高校生くらいの年齢の子もいる。中年女性もいる。籠のようなものを背負って、その中に荷物を入れて運ぶ。数百メートルだったが、6ドル取られた。ガイドさんによると、ほかの何人かに声をかければ、もっとずっと安く済んだだろうという。

・あちこちで中学生くらいにしか見えない子どもがレストランのボーイなどをして働いているのを見た。小さな子どもが物売りをしているのも当然の風景として溶け込んでいる。

・ミャンマーの道の最大の印象、それは「汚い」ということだ。中心街から外れると、途端に歩道や道の両端には、ごみが続く。バスで数十分、それどころか、数時間進んで郊外に行ってもごみが途絶えることがない。ほとんど人の通らない田舎道まで来て、やっとごみが見えなくなる。ごみのほとんどは買い物のポリ袋、ペットボトル、商品の包装、紙切れだ。人家の前にも、ごみがある。人家の庭にもごみが散乱している。ごみが土の上にあるだけでなく、土に埋まって、あちこちからポリ袋などが顔を出している。ちょっとした空き地があると、その多くがごみ溜めになっている。川にもごみが流れ、時にごみが停滞している。カイロに行ったときも同じような光景を見たが、さほど差がない。おそらくミャンマーの人はごみを汚いと思わず、平気でいるのだろう。だが、これは間違いなく汚染だ。この国が途上国から脱するには、まず道端のごみをなくすことから始めるべきだと思った。つまり、衛生観念、公共意識、自分の周りをきれいにしておこうという自尊心の醸成が必要だと思う。

・ミャンマー料理はとてもおいしかった。私は東京でも何度かミャンマー料理を食べたことがあるが、ずっと不満に思っていた。インパクトがなく、雑駁な味だと思っていた。が、今回のツアーでの食事はすべておいしかった。ただ、ごみためのようになった川のすぐそばで、魚を取ったり、農作業をしたりしている人を見た。出てくる食事があんなごみのようなところでとれた食材だと、少々健康が心配になる。

・結論として、私はミャンマーを、ブータンやスリランカやタイのチェンマイほど大好きにはならなかった。バガンには大いに惹かれたが、十分に見ることができなかった。ツアーでミャンマー旅行をしたおかげで少しw事情がわかったので、次にはバガンを中心に個人旅行をしたいと思った。

 

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