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東京二期会「ローエングリン」 読み替え演出も含めて世界レベルの上演

2018221日、東京文化会館で東京二期会オペラ劇場「ローエングリン」初日をみた。このところの東京二期会のレベルにふさわしい世界一流の劇場公演に匹敵する素晴らしい上演だった。

 指揮は準・メルクル。オーケストラは東京都交響楽団。第一幕への前奏曲の精緻で官能的な音の重なりからして見事。ところどころ歌手と合わないところ、盛り上がりに欠けるところはあったが、オペラ劇場常設のオケでないのに初日からこのレベルの演奏をしてくれればまったく文句はない。安心して聴いていられた。2日目以降、ずっと精度が上がるだろう。準・メルクルの指揮はツボを押さえて精緻で知的。ただ、もう少しダイナミックな爆発と強いうねりがほしい気はする。合唱は二期会合唱団。見事な声だが、ところどころアンサンブルが崩れるところがあった。これも2日目以降はもっと精度が増すに違いない。

 歌手も全員が大健闘。とりわけ、私はエルザの林正子とテルラムントの大沼徹に惹かれた。林はエルザにふさわしい清澄で清楚な声。しかも強靭。これまでこの歌手を何度も聞いてきたが、そのたびに素晴らしい。大沼も人間的な弱みもありながらプライドを保とうとするテルラムントを見事な美声で歌った。ハインリヒの小鉄和広も見事な声と存在感。伝令の友清崇もこの役にふさわしい立派な声。オルトルートの中村真紀はとてもきれいな声と魅力的な容姿なのだが、演出意図なのか、少々小粒で清楚すぎる。もう少しアクが強いほうがオルトルートらしいのだが、それほどの存在感はなかった。ローエングリンの福井敬はとてもしっかりした声であり、しかも演出によって、さほど英雄的である必要もないのだが、やはりローエングリンとしてはヘルデンテノール的な要素が少々弱い。日本人ではいかんともしがたいと思うが。

 演出は深作健太。前奏曲の間、ワーグナー?の扮装をした小柄な男が舞台の左側でルートヴィヒ2世の肖像画のもとで何やら「ローエングリン」の台本(あるいはスコア)をみている。幕が上がって、伝令、そしてハインリヒ、テルラムント、エルザが登場してからも、黙役として舞台に絡む。ワーグナーが「ローエングリン」を構想しているという設定で物語が進んでいくのかと思っていると、そのワーグナーと思われていた男(確かに、よく見ると、福井敬さんだった!)が初老のローエングリンに変身して舞台に参加する。意表を突かれた感じ。ローエングリンらしいさっそうとした騎士姿の人物が時々舞台上に現れていたが、それは幻視としてのローエングリンだったらしい。

 日本人の演出としては珍しく、まるでバイロイトでの演出並みの読み替え演出。舞台はルートヴィヒ2世の時代のバイエルンに設定され、ハインリヒの軍隊はプロイセン軍の軍服を着ている。オルトルートは片目に眼帯をつけており、時々槍のようなものを持つ。つまりは、ヴォータンの徴を持つ。しばしばリンゴが登場する。リンゴはもちろんユダヤ・キリスト教における知恵を意味すると同時に、ヴォータンの世界では命を意味する。第3幕でテルラムントはローエングリンに殺されず、むしろローエングリンが拘禁される。最後、しばしば黙役として舞台の登場していた少年(ゴットフリート)が中心に出て、未来に向けて時を刻む時計を前にする。

 演出については、細かいところはよくわからなかったが、きわめて大まかに理解すると、ブラバント公国をワーグナーの時代のバイエルン王国を重ね合わせ、ハインリヒ王のブラバントへの来訪をプロイセンによるバイエルンへの併合の動きとして描いているといえるだろう。

テルラムント、オルトルートはおそらくプロイセンの影響から離れて昔ながらの生活を送ろうとするバイエルン独立派だろう。ローエングリン=ルートヴィヒ2=ワーグナーは、プロイセンの拡大を苦々しく思いながらもプロイセンと交流を持ち、むしろバイエルンこそがリーダーシップをとって軍隊的ではない、もっと文化的な世界を作り上げようと夢見ている。だが、ルートヴィヒ2世は夢見るばかりで実際には動かないので、ルートヴィヒの庇護のもとでオペラを構想していたワーグナー自身が老いたローエングリンを演じて、エルザの救済、そしてバイエルンの救済に乗り出す。しかし、エルザ(国民?)はローエングリン(=ルートヴィヒ2世)を信用せず、テルラムン側の抵抗もあって、バイエルンはプロイセンへの従属を深めるだけになってしまう。ただ、平和で文化的なルートヴィヒの夢は未来の子どもに託すしかない。

私の解釈があっているかどうかわからない。が、日本人による演出がドイツの歴史にまで踏み込んでおり、観客が頭を使って考えなければならないようになったことに、多少の衝撃を覚えざるを得ない。新しい演出の試みをすることは大事だが、このような、いかにもドイツ的な読み替え演出をすることもないのではないかと思う。ただ、日本の声楽界に声も容姿もローエングリンにふさわしいローエングリンが登場するのは難しい。そのような状況を考えて、このような演出にせざるを得なかったのかもしれない。

なお、「ローエングリン」を見る前、東京国立博物館で「仁和寺と御室派のみほとけ」展をみた。40分待ちで館内に入ったが、中はごった返していた。仏像には素晴らしいものが多かった。このところ、スリランカ、タイ、ミャンマーの寺院でたくさんの仏像を見たが、やはりそれらは日本人の感覚からすると、「ありがたみ」の感じられないものが多かった。日本の仏様は本当に美しいと改めて思った。これこそ静かなところで見たかったが、今回は仕方がないだろう。

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コメント

私も初日を見ました。先生も来ておられるかなと2回目の休憩でロビーに出てみましたが、見つけることはできませんでした。もっとも先生は私の顔をご存知ありませんね。

今度の演出の意図はまったくわかりませんでした。先生の解説でそんな意味があったのかと、うっすらわかりました。しかしどうしてこのオペラをプロイセンとバイエルンの争いに置き換えなければならないのでしょうね。私には、薄幸の姫が窮地に陥ったときに白鳥に引かれた騎士が現れて窮状を救い、しかしのちに悲劇に終わる、、、というストーリーで十分なのですが、それではダメなのでしょうか。CDを聞くときは、そんなストーリで聞いています。決してルートヴィッヒ2世も幻の騎士も出てきません。なんであんな「解説」がなければ理解不能な演出なるものを持ってくるのか、はなはだ理解に苦しみます。

演奏の方は、いつもと違っていささか先生と違うように聞いていました。歌手は福井敬さんがやはりすばらしく、他はどうも聞き劣りがしてしまいました。特にオルトルートはもっと毒気が欲しかったです。
準・メルクルさんの指揮は明快で、時々ピットを覗くと舞台上の人たちにも的確に細かく指示を出しているのがわかりました。オペラの指揮とはこういうものかと感心して見ておりましたが、どこか演奏会形式のオペラを聞いているような感じもしてきました。
しかし4時間の長丁場を眠くもならず、最後まで集中して聞かれたのは、やはり水準を超えた公演だったのだろうと思いました。

投稿: ル・コンシェ | 2018年2月23日 (金) 12時04分

ル・コンシェ 様
コメント、ありがとうございます。
いえ、演出について、私の解釈にまったく自信があるわけではありません。理解できた切れ切れをつなぎ合わせて自分なりに考えただけのことです。私も読み替え演出には基本的に反対です。ただ、ワーグナーについて新しい見方、新しい発見を演出に加えてほしいとは思います。とても難しいとは思いますが。
福井さんは私もとてもよい歌手だと思っています。おそらく、おっしゃる通り、今回の歌手たちの中でも随一でしょう。ただ、ローエングリンという超人的な役としては物足りなく思ってしまいました。ヘルデンテノールの歌い方でもないと思ったのでした。林さんと大沼さんは、私は素晴らしいと思いました。

投稿: 樋口裕一 | 2018年2月25日 (日) 16時25分

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