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ティツィアーナ・ドゥカーティの声が帝国ホテルプラザのロビーのざわめきの中に響き渡った

 2018331日、帝国ホテルプラザ東京で、帝国ホテルプラザスプリングフェア2018 アフタヌーンオペラロビーコンサートを聴いた。演奏はティツィアーナ・ドゥカーティ(ソプラノ)と山口研生(ピアノ)。

 ドゥカーティの実演を聴くのは4回目。昨年、同じ帝国ホテルプラザ東京で本当に素晴らしい演奏を聴いて大いに感動したのだった。素晴らしいということはすでによく知って、今年また訪れたが、予想通りの、いやそれ以上の素晴らしさ。改めて圧倒された。

 曲目は前半にドナウディの「ああ、愛する人の」、成田為三の「浜辺の歌」、トスティの「別れの歌」、ティリンデッリの「おお、春よ」。後半にプッチーニの「私の名はミミ」、トスティの「夢」、プッチーニの「私のお父様」。アンコールにチレアの「アドリアーナ・ルクヴルール」より。

 出だしから、完璧にコントロールされた美しい声。音程はまったく狂わず、声も伸びている。しかも、表現力が豊か。心の奥までしみ込んでくる。そして、強い声が時にぐさりと刺さる。歌詞を読み込んでいることが伝わってくる。

 私はティリンデッリの「おお、春よ」と「私の名はミミ」にとりわけ惹かれた。ロビーコンサートなので、周囲の雑音が耳に入り、エレベーターに乗る人、周囲を歩く人が目に入る。その中でも、聴き手を引き付ける力を持っている。音響のよくないロビーがビンビンと美しい声で響き渡った。

ティツィアーナ・ドゥカーティはまさしく世界レベルの大歌手だと思う。こんな美しい歌声は、世界の大歌劇場の来日公演くらいでしか耳にする機会がない。このドゥカーティが日本在住であって、あまり舞台に立っていないというのはあまりにもったいないことだ。世界の舞台で大活躍していて不思議のない力だと思う。

 実は、昨年10月の紀尾井ホールでのコンサートは少し欲求不満で終わった。選曲やゲスト歌手との二重唱のために、彼女のせっかくの素晴らしさが十分にいかされないと思った。だが、今日は彼女の良さが存分に発揮され、心の底から満足することができた。

 もっともっとドゥカーティの歌が聴きたい。このようなコンサートだけでなく、本格的なオペラ上演での主役を見たい。

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インバル+都響の「幻想」 熱くならない盛り上がり

 2018326日、サントリーホールで東京都交響楽団定期演奏会を聴いた。指揮はエリアフ・インバル、曲目は前半にアレクサンドル・タローが加わってショスタコーヴィチのピアノ協奏曲第2番、後半にベルリオーズの「幻想交響曲」。素晴らしい演奏。

 まず、タローの音色にしびれる。タローはCDを何枚か持っている。とてもいいピアニストだと思っていたが、実演は初めて聴いた(何かのフランス映画をみていたら、タローが出てきて驚いたことがあった)。研ぎ澄まされた音。切れがよくクリアでシャープだが、不思議に温かみがある。第三楽章の高揚も見事だったが、第二楽章の静謐で高貴な音の連なりが何ともいえず美しかった。都響もとてもアンサンブルがよく、美しい音を出していた。とりわけ、木管楽器の美しさにうっとりした。

 後半の「幻想」はもっと素晴らしかった。もし私の記憶が確かなら、私が初めてインバルの録音を聴いたのは、「幻想」だったと思う。それまでしばしば演奏されていたおどろおどろしくて熱狂的な「幻想」とは異なった、繊細で精密で、しかしそうであるだけにいっそう不気味な「幻想」に驚いた記憶がある。その後、インバル的なアプローチが増えてきたので、今聴くと、それほど特異ではないが、やはりインバルらしい精密さがある。ところどころ拡大鏡で除いたように、いびつな時間が現れる。予定調和的ではなく、まさしくアヘン中毒者の夢想のような、いびつでゆがんだ世界。それがとても魅力的だ。熱く盛り上がったりしない。盛り上がりはするが、けっして熱くならない。そこがおもしろい。

 ほかの指揮者ではどうしても退屈になってしまう第三楽章の微妙で繊細な表現にはとりわけ驚嘆した。スリリングで、息をのむような楽章になっていた。ベルリオーズの残した解説では、この楽章で殺人が行われるはずなのだが、まさしくそのような不気味な雰囲気。

 都響は素晴らしいのだが、実を言うと、インバルはもっともっと微妙に、繊細に演奏したいのではないかと思わないでもない。そうすれば、もっと怜悧でもっと幻想的なのではないかと思った。とはいえ、私は十分に満足した。

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「ハムレット」「シブレット」「ファウストの劫罰」「ペレアスとメリザンド」映像

 フランス・オペラの映像を数本みたので、簡単に感想を書く。

 

51fikdwcxll_ac_us160_ アンブロワーズ・トマ 「ハムレット」 2003年 リセオ大劇場 

 トマのオペラ「ハムレット」(近年の傾向から考えて、これはきっと「アムレット」と呼ぶべきだろう)の映像を初めてみた。オフェリー(オフィーリアと呼ぶのはよそう)の有名なアリアしか聴いたことがなかったが、全編通してみて、素晴らしい傑作だと思った。

 アムレットのサイモン・キーンリサイドとオフェリーのナタリー・デセーが圧倒的に素晴らしい。単に歌がうまいというだけでなく、ただ声がいいというだけでなく、ハムレットのドラマの中にぐいぐいと引き込まれる。わきを固める歌手陣も見事。そして、指揮のベルトラン・ド・ビリーがとても美しく、波乱万丈にオーケストラを鳴らす。改めて素晴らしい指揮者だと思った。

 もちろん、演奏や演出が素晴らしいからこそだとは思うが、これほどの傑作がめったに上演されないのは、あまりにもったいない。最後、ハッピーエンドで終わるので、シェークスピアを期待すると裏切られるが、それでも、「ハムレット」のドラマの深みを味わうことができる。幽霊となって現れる父王、それを殺した叔父、母親それぞれが魅力的だ。

 55年以上前、小学生だった私が最初に小遣いで買ったレコードは、もちろんA面の「ウィリアム・テル」序曲が目当てだったが、B面はトマ作曲の「ミニョン」序曲だった。A面に比べてB面はつまらないと思ってあまり聴かなかったが、それでもときどきはかけた。その意味で、トマにはそれなりの思い入れがある。「ミニョン」の映像はクラシカ・ジャパンで見たことがあるが、DVDは販売されていないようだ。もっとトマのオペラを上演してほしいものだ。

 

186 レイナルド・アーン オペレッタ「シブレット」 2013年 オペラ・コミック

 アーンの珍しいオペレッタ。アーンについては、中学生の頃、シュヴァルツコップの歌う「わが歌に翼があれば」をたびたび聞いていたが、それ以外には数曲を何度か聴いたことがあるくらい。

 もちろん、「シブレット」は初めて聴いたし、初めてみた。とてもきれいな曲だと思う。最後の合唱など親しみやすくて実にいい。オペレッタなのでセリフが多くて、しかも早口なのでよくわからず困った(日本語字幕はついていない)が、それなりにはおもしろい。ただ、この映像は音楽的にはかなり問題がある。

 シブレットのジュリ・フュックもデュパルケのジャン・フランソワ・ラポワント(昔、この人のフランス歌曲のCDを何枚か聴いたものだ!)も音程がよくない。合唱もオーケストラ(トゥーロン歌劇場管弦楽団)もかなり頼りない。指揮は日本でもおなじみの女性指揮者ローランス・エキルベイだが、どうもパリッとしない。演出はとてもおもしろく、しゃれた雰囲気がいっぱいなのだが、私は少々がっかりだった。

 

803 ベルリオーズ 「ファウストの劫罰」 1999825日、ザルツブルク音楽祭

 初めてみるつもりだったが、見始めて、かつて見たことがあるのに気付いた。映像を用いて、ファウストの世界を再現している。ベルリオーズのこの曲はオペラとみなすには動きがなさすぎるが、このような映像を用いると、説得力がある。かつてみて圧倒されたのを思い出した。

 ただ、今見ると、歌手たちは必ずしも好調なわけではない。ポール・グローヴズは強いきれいな声でなかなかファウストらしいが、マルガリータのヴェッセリーナ・カサロヴァとウィラード・ホワイトは、ふだんの二人の力量からすると、少し不調な気がする。声が伸びないし、音程が少し不安定だと思う。

シルヴァン・カンブルラン指揮のベルリン国立歌劇場管弦楽団はとてもいい。改めて、この曲が名曲であることを実感。

 

072 ドビュッシー 「ペレアスとメリザンド」2016年 スウェーデン、マルメ歌劇場

 とても良い上演だと思う。

やはり目を引くのは、ベンジャミン・ラザールによる演出だ。マルメ劇場で演出を一時期行っていた映画の巨匠イングマール・ベルイマンへのオマージュがあるとのこと。私はベルイマンの映画はかなり見ているが、どこにどのようなオマージュがあるのかよくわからない。私が好きだったベルイマンの映画は「処女の泉」「第七の封印」「野いちご」「沈黙」などのモノクロ映画なので、色彩的なこの舞台と印象が異なる。むしろ私はジャック・ドゥミー監督の「シェルブールの雨傘」やアニェス・ヴァルダの「幸福」を連想した。とりわけ、メリザンドを歌うジェニー・ダヴィエは「シェルブールの雨傘」のカトリーヌ・ドヌーヴを思わせる。服装、髪形など、1960年代のフランス風。

しかもかなりリアルな舞台装飾だ。まるで映画のよう。そのため、ゴローがイニョルドにペレアスとメリザンドの様子をうかがわせる場面、ゴローがペレアスを刺す場面など、かなりドラマティックになる。

このオペラは学生のころから、クリュイタンス指揮のレコードで聴いて大好きだった。そのイメージが強いせいか、私はこのオペラを静謐で淡々としており、ドラマティックに盛り上がることないが、心の内で静かに燃える、そんな風に考えている。そんな私の好みからすると、これはかなりドラマティックで大袈裟な演出だった。そして、音楽的にもドラマを盛り上げる演奏だった。マキシム・パスカルの指揮は、低弦を強く響かせ、心の奥にある葛藤を強調している。つまりは、私の趣味からすると、もっと繊細で、もっと緻密であってほしい。少々雑な感じがした。

歌手はそろっている。メリザンドのダヴィエはきれいな容姿と美しい声。ゴローのローラン・アルヴァーロもしっかりとした演技と声。アルケルのスティーブン・ブロンクは見事な貫禄。ペレアス役のマルク・モイヨンはフランス語の発音は美しいのだが、ミュージカル風の声と歌い回し。これも「シェルブールの雨傘」の歌を思い出した。オペラ風の歌い回しに慣れてきたので、かなり違和感を覚えた。

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桂林旅行中に考えたこと

 今回は、桂林の言葉をなくすような絶景を嘆賞し、世界有数の観光地を回っただけなので、中国について、その社会についてあまり見たり考えたりしなかった。ありふれたことしか考えなかったが、ともあれ、桂林旅行中に考えたことのいくつかを書く。

 

騒音社会・中国

 日本社会の音に対する鈍感さについては中島義道氏がしばしば書いている。私も全面的に賛成する。私も、日本の街の雑踏の騒音、不必要な音楽、不必要なアナウンスに辟易する。映画館やパチンコ屋の前や渋谷などの繁華街の大音響に悩まされている。そのため、カバンの中に耳栓を持ち歩いている。

 が、中国の騒音たるや、日本の比ではないと今回強く思った。もちろんずっと前から中国人同士の会話の声が凄まじく大きいことはよく知っている。知り合いの日本在住の中国人夫婦は、中国語で話すと疲れるので家庭では日本語を使っていると聞いたことがある。中国語で話をするのにエネルギーを要することは、中国人自身が気づいていることのようだ。同じレストラン、同じ船に中国人の集団がいると、日本人同士の会話が聞こえなくなるほど騒音がひどくなる。

 そして、今回、大音量の音楽、大音量のアナウンスを何度か経験した。観光船の中と雑技団公演の際、司会者が大音量のスピーカーを通して、元気いっぱいの声でしゃべりまくっていた。よどみなく、ジェスチャーを交え、息つく暇もないほどに語っていた。そして、雑技団公演では、そのあと大音量の音楽が続いた。大瀑布ホテルの屋上から大量の水が流れ落ちる時にも大音響の音楽。

 中国の人は日本人以上に騒音に無神経だと思う。彼らの喋り自体が大きいために、大音響に慣れっこになっているのが、その大きな原因なのかもしれない。そして、音に関してあまり敏感ではないので、スピーカーの音が割れていても、それほど気にならないのだと思う。

 

「大きいことはいいことだ」主義

 「大きいことはいいことだ」主義を感じた。大規模な資本を集中的に投入して、巨大なものを作る国家資本主義。あらゆるものを大規模化し、大勢の人を呼び、それが好ましいこと、正しいことになっていく。それが都市の形にも表れている。大音響にするのも、その表れだろう。きっと大音響にすることは、彼らにとって良い音楽にすることなのだと思う。必要以上の大きな音にして、大勢の人間を集め、良い音楽、みんなで楽しめる音楽にしようとしているのだろう。

 

「なんでも商売」主義

 観光船に乗る。雑技団の公演を見る。美術館のようなところに行く。日中友好協会のようなところに行く。初めは案内がついて観光や芸術や日中友好の説明がなされる。私たち観光客は商売気のない公的な機関かと思って、話を聞いている。ところが、どこもすぐにそれが「商売」に移っていく。観光船で土産物や香水の販売が始まる。美術館だとばかり思って案内を聞いていると、工芸品やお酒やお茶の販売会になってしまう。

 もちろん、観光ツアーに参加しているからそのような仕組みになっているといえば、それまでだが、それがあまりに露骨だ。どこに国でもツアーに参加すると、確かに「工場見学」などと称して作業場を見学して、その後、その品物の販売会になることがよくある。それでツアーは成り立っている面がある。が、これまで私がツアーで訪れたところでは、それらはあまり公的な臭いのしない小さな「作業場」だった。が、中国では立派な建物を構え、それなりにきちんと公的な仕事もしているような組織がそうしたことをする。そのような「商売」が堂々と成り立っている。

 そのせいか、社会主義と拝金主義によって、現代中国人の芸術意識はかなり薄れているように思った。美術館らしい場所に飾られている絵画があまりにお粗末に見えた。私は美術についての鑑定眼はまったくないが、さすがにこれほど凡庸だと私にもわかる。これらは、日本人を中心とした観光客だけを相手にした建物なのかもしれないが、それにしても、このような「美術品」を飾るセンスに私は疑問を持つ。また、雑技団の演技にしても、それに盛大な拍手を送っている中国人がたくさんいることに驚いた。

 ただし、誤解しないでいただきたい。ここに書いたことは、中国批判に見えるかもしれないが、私は反中国ではない。むしろ、中国びいき。ここに書いたことこそが、中国の原動力であり、その強みだろうと思う。このように組織的に大量に大規模な事業をされると、小規模なところは勝てない。電気自動車の部門でも、AIの部門でも、近いうちに中国が世界をリードするようになるだろう。そして、そのうち、中国も成熟していくだろう。

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桂林旅行

 2018315日から18日まで、ツアーに参加して桂林旅行をした。桂林に1人で行くのはつらい。ツアーに参加するほうが確実だと思った。そこで、昨年、ツアーに申し込んでいたが、最低催行人数に達しなかった。今回は、二度目の申し込みで、めでたく行けた。14名のツアーで、私は一人参加。ただ、ツアーの場合、早朝にモーニングコールで起こされ、7時台や8時台、早い時には6時台に観光に出発する。そんなわけで、ブログの文章を書く時間がなかった。帰国後、落ち着いた今、簡単に記す。

 

1日目(3月15日)

 午前中に羽田を出発して、全日空便で広州に到着。広州は一昨年、当時の勤務先だった多摩大学と提携している広東財経大学での特別授業のために、1週間ほど滞在したので、なじみのある土地。空港からバスに乗って南駅に到着。そこから高速鉄道に乗って桂林に向かった。

 高速鉄道は日本の新幹線に似ている。乗り心地もいい。1時間ほどたって、賀州駅に到着したころから、周囲の景色が変わってくる。山がまさに水墨画のような形になる。切り立った山が連なっている。しかも、周囲の雰囲気が異なる。ここは中国の広西チワン族自治区。漢民族中心の社会ではない。外は暗い。列車から人家はあまり見えないし、人家が見えても、光がついていない。1時間40分ほどで桂林に到着。駅は薄暗かった。駅のエスカレーターが、私が乗ろうとする直前、故障して急停車。まだまだインフラは未整備のようだ。

 その後、レストランで食事をとった後、ホテルへ。なかなかの大都市。桂林市内に暮らすのは70万人程度、周辺を合わせると500万人程度だという。大観光地で、中国国内のほか、各地から観光客が押し寄せている。大型観光バスが連なっている。圧倒的に中国人観光客が多い。

私の部屋は西洋のホテル以上に暗い以外には特に問題はなかったが、ほかのメンバーの部屋ではブレーカーが落ちたりトイレの水が詰まったりといったアクシデントがあったらしい。

 

2日目(316日)

客船に乗って念願の漓江下り。

漓江は桂林を南北に流れる川幅50メートルから100メートルくらいの川だ。私たちの乗り込んだ船の客は私たち日本人の一団のほかはほとんどが中国人(北の方の人たちがかなりいるらしい)と西洋人が数人。全部で7080人ほどの乗客がいたと思う。同じような観光船が次々と川を下っていく。

船に乗ってすぐから、中国人男性が先頭に立ってマイクをもって大音量でしゃべり始めた。観光案内かと思ったら、土産物の売り込み。これが20分以上続いた。これまで日本の映画館やカイロのナイトクルーズなどで大音量に悩まされているので耳栓を持ち歩いている。すぐに耳栓をした。しばらくしてデッキに出た。

外はあまりの絶景。あいにくの曇天だと思ったが、これがなかなかよかった。雲が山の中腹にかかって、まさしく幻想的な風景。墨絵の世界が見渡す限り続いている。右も左も切り立ったいびつな形の山があり、それが折り重なっている。本の数か所が墨絵の世界というのではない。桂林全体、それどころか、広西チワン族自治区のかなりの部分がこのような土地なのだと思う。行けども行けども絶景。船で4時間くらい、川下りをするが、その間、目に見える風景はすべてが絶景。さすが、世界的な観光地だけのことはある。

見どころとされているところがあって、ガイドさんが何か所か説明してくれたが、それらは山が何かの形に似ているとのことで名所とみなされているのだった。タケノコ、こうもり、観音様、羊の蹄、りんごなどなど。が、私にとって、山が何かに似ていることはあまり説得力を持たない。すべての山がいびつな形をしているのだから、こじつければなんにでも見えるだろう。そういえばそう見えないでもないが、そんなことよりも、いびつな形そのものが圧倒的な存在感で迫ってくる。何かの形に例えるよりは、その形そのものを味わうほうが面白い。

こうして、4時間ほどかけて陽朔にて下船。船から降りた客と客引き、道の両側の土産物売りでごった返す中を歩いて、陽朔の古い町並みや新しくできた繁華街(陽朔西街)を歩いた。

その後、バスで移動。途中、バスを降りて、道路から、月亮山という、満月のような穴がぽっかりあいた山を見物。そのまま桂林に戻った。桂林市内で穿山岩という鍾乳洞を見物。

夜は、桂林市内の両江四湖ナイトクルーズのオプショナル・ツアーに参加。ひとつながりになった四つの湖を遊覧船でめぐるもの。いくつかのツアーの日本人客が集まって、日本語の解説(私たちのツアーのガイドさんが担当。日本語の達者な、そしてユーモアのある50代の男性だった)。次々と遊覧船が走り、客に向けて、外で音楽が演奏され、踊りがなされている。船内でも二胡の演奏が披露された。

ただ、演奏、踊りはいずれもかなりお粗末。外で踊りがあり、銅鑼や太鼓の演奏がなされていることになっていたが、明らかに音源に合わせてそのふりをしていただけ。スピーカーから聞こえてくる音と目の前の楽器の動きがあっていない! 二胡の演奏はかわいらしい10代の女性。日本の歌謡曲や季節外れの「ジングル・ベル」を交えての演奏だったが、しばしば音程がくるっていた。

その後、船着き場の近くにある第瀑布ホテルで20時に始まる滝のショーを見た。交差点にある10階建てくらい屋上から水が吹き出し、滝のように水が落ちてくる。その間、大音響でラフマニノフのピアノ協奏曲風の音楽が鳴り続けている。水と電気の料金が一日日本円で100万円ほどかかるという。10分間そのショーが続いたが、道路で百人程度が見物していたようだ。これで100万円かかっているとすると、コストパフォーマンス的にはあまりよくないといえそうだ。

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3日目 (3月17日)

雨の中、七星公園を見学。そのほか、ツアーなので、いくつかのお土産物屋、工芸品展などに連れていかれた。その後、桂林の繁華街・正陽の歩行街を歩いた。食べ物屋さんが多く、そのほかは土産物やファッションの店などが続いていた。

その後、オプショナル・ツアーに申し込んで、桂林民族雑技ショーをみた。ショーが始まる前、観客を相手に競りのようなものが行われているのにびっくり。ここでも男性が前に出て、大音響で司会をして掛け軸のようなものを競りで売っている。少なくとも私にはまったく価値のなさそうなつまらない字や絵に見えるのだが、買い手がいるらしいのにも驚いた。

その後、ショーが始まった。少数民族の歌や踊りが披露されるのかと思って申し込んだのだったが、レベルの低いサーカスのようなものだった。中学生のような子供たちが出て、日本の中学の体操部の生徒でもできそうなバク転やら前転やら、ひもにぶら下がっての回転やらを披露。歌芝居があったが、これも明らかな口パク。大音響の音楽が鳴り、しかもスピーカーの音が割れているので、不愉快極まりない。背景にダイナミックなCGが映し出されて、自然と人間の一体性のようなものが描かれているが、歌と演技のレベルの低さのせいで私は見るに堪えなかった。

最後にオートバイショー。輪の中にオートバイが入って回転する。2台、3台と入って、最後には5台入った。これは凄い。ほかのパフォーマンスはすべて子どもだましだが、これは圧倒された。

その後、ホテルで食事。

4日目は、朝の6時半にホテルを出て、高速鉄道を使って広州経由で日本に戻った。

そのほか、桂林について、中国について考えたことがある。できれば、明日、ブログに書く。

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ロータス弦楽四重奏団のベートーヴェン 退屈だった!

 2018320日、武蔵野市民文化会館小ホールでロータス弦楽四重奏団のベートーヴェンの弦楽四重奏曲第12番と第13番を聴いた。とても退屈だった。退屈だったのは私だけではなかったと見えて、周囲に居眠りしている人がかなりいた。私は眠くはならなかったが、いつものように「こんな良い演奏をしているのに、眠るなんて何ともったいない」などとはまったく思わなかった。むしろ、居眠りするのも無理はないと思った。

 ロータス弦楽四重奏団は三人の日本人と一人のドイツ人からなる団体で、ドイツを本拠地にして活躍しているという。私はまったく知らなかったが、評価は高いようだ。そのため。楽しみにして出かけたのだったが、私にはよさがわからないまま終わった。

 第12番も13番も、鋭さや深みがない。のんびりと合わせているだけの感じが私にはする。平穏でのどかな演奏。もしかしたら、近年のベートーヴェンの後期弦楽四重奏曲の、メリハリの強い、鋭い演奏に異議を申し立てて、あえてこのような演奏をしているのだろうか。とりわけ、チェロがあまりにのどかに舞曲的なリズムを刻んでいる。緩徐楽章では、のんびりしていて緊張感がない。フォルテとピアノの差も少ない。ベートーヴェンの後期の弦楽四重奏曲を聞くと、私はベートーヴェンの魂にわしづかみにされたような気分を味わうのだが、まったくそのような気持ちにならない。

 最後に大フーガが演奏されたが、あの大フーガまでもが平穏な曲想になってしまっている。異様な響きもしないし、巨大なフーガの重なりも感じない。予定調和のまとまった世界。これでは大フーガにならないではないか。しかも、第一ヴァイオリンに時々音程の狂いを感じたのだったが、私の気のせいだったのだろうか。

 世界の苦しみのすべてを体現するようなヒステリックなまでの魂の叫び、そしてその先にある透明で人知を超えた境地。そんな音楽がベートーヴェンの後期弦楽四重奏曲なのだと思うが、それをまったく感じることができなかった。

 ともあれ、今日の演奏は、私も最も嫌いなタイプのベートーヴェン演奏だった。このごろ、このような弦楽四重奏曲の演奏に時々出会う。これも一つの流行なのだろうか。大変残念だった。

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二期会ホワイトデーコンサート 最高に楽しいコンサート

コンサートに出かけようとして、気づいた。おや、公演名が「ホワイトデーコンサート」となっているではないか。ホワイトデーというのは男が女性にプレゼントする日のはず。出演者は全員男性。しかも出演は宮本益光、加耒徹、近藤圭、与那城敬。歌唱がすぐれているだけでなく、二枚目として知られたバリトン歌手たち。もしかしたら、これは女性客向けのコンサートではないか?

危惧していた通り、サントリーホール ブルーローズの観客のたぶん95パーセントくらいが女性。入場の時、観客全員にチョコレートが配られた。出場者の写真付きのチョコレート! 私が受け取っていいのかな? とちょっとためらった。

しかし、とても楽しいコンサートだった。宮本益光さんが中心となった企画とのこと。まさしくライバルでもあるイケメンの名歌手たちの競演。宮本さんを中心としたトークも大変おもしろかった。そして、四人の歌手の歌も、そして演技も見事。四人とも日本を代表する名歌手たちだが、このくらいのレベルになると、演技もうまいことを改めて感じた。姿かたちが様になっているし、表情も実に自然。

近藤圭の「踊り」(ロッシーニ)と「魔笛」のパパゲーノのアリアは勢いがあって素晴らしかった。加耒徹のラフマニノフの「アレコ」のカヴァティーナもあまりの美声に驚嘆した。声の迫力も素晴らしかった。与那城敬の「エロディアード」のアリアも最高に張りのある歌。声に威力があり、しかも声を完璧にコントロールしている。宮本益光の「レ・ミゼラブル」の歌は絶品。高音、弱音の使い方など実に見事。

ピアノ伴奏は加藤昌則。伴奏というよりも、まさに共演。ともに音楽を作り上げているのが良くわかる。最後は、加藤昌則作曲、宮本益光作詞の「もしも歌がなかったら」が全員で演奏。これも素晴らしかった。

宮本さんの企画センス、話術に驚嘆。さだまさしや葉加瀬太郎並みの話術! ぜひこのメンバーのコンサートの第二弾、第三段を期待したい。いや、このメンバーでユニットを作ってほしい。全員が同じ声域という問題はあるが、それはそれで一つの魅力だろう。日本のイル・デーヴはもちろん、本家のイル・ディーヴォにも負けない人気グループになる可能性だってある。それが起爆剤になって、日本のオペラ愛好家が増えることも考えられなくもない。今日のような楽しいコンサートが一部のおばさまたちだけのものにしておくのは、あまりにもったいない!

3月とは思えない暖かい日だった。夜になっても、少しも寒くなかった。大変満足。

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ズヴェーデン+ニューヨーク・フィル ちょっと生真面目すぎる演奏

 2018313日、サントリーホールでヤープ・ヴァン・ズヴェーデン指揮のニューヨーク・フィルハーモニックのコンサートを聴いた。曲目は、前半にユジャ・ワンが加わって、ブラームスのピアノ協奏曲第1番と、後半にストラヴィンスキーの「春の祭典」。

 ニューヨーク・フィルはこれまで何度か聴いたことがある。そのたびに思うが、機能的にすさまじい。女性奏者が多いように思うのだが、力感がものすごい。数年前、アラン・ギルバート指揮の「幻想」に度肝を抜かれた記憶がある。ところが、ズヴェーデンの手にかかると、力感はそのままだが、重くて深くなるのにびっくり。いかにもブラームスらしい。そのようなオケをバックに、ユジャ・ワンの、これまた力感にあふれ、躍動し、粒立ちのきれいなピアノが加わる。しばしばユジャ・ワンのピアノに酔った。とりわけ、第三楽章は見事だった。

 ズヴェーデンは実演を何度か聴いたし、CDもかなり聴いている。好きな指揮者の一人だ。が、こうして聴くと、私は少し生真面目すぎるのを感じた。誇張もしない。突飛な解釈もしない。私の好きなタイプの演奏だ。が、あまりに真正面から音楽に取り組むので、私のような真面目さに少し欠ける人間は、少々窮屈になってくる。

 とりわけ、「春の祭典」でそれを感じた。確かにすごい音。音の一つ一つも美しいし、その重なりも見事。音程もいいし、縦の線もあっている。が、あまりに遊びがない。楽器の音は色彩感にあふれているはずなのに、音楽に色彩をあまり感じない。けっして一本調子というのではないが、なんだか退屈する。

 アンコールは「ワルキューレの騎行」。これもすさまじい音で見事な演奏なのだが、やはり心に響くものがない。

 というわけで、前半のブラームスについてはかなり感動するところが多かったが、「春の祭典」については少々物足りなく思ったのだった。

 私的なことを付け加える。

 36日、大学院生の時代から親しくしていた人が亡くなった。私が所属していた仏文研究室の職員として教員、院生、学部生をまとめていた女性だ。私よりも2歳くらい年上だったと思う。おっとりして、いつも穏やかで周囲のみんなと仲良くしていた。物静かな人だったが、みんなの中心だった。私とは音楽という共通の趣味があったので、そうしたことについてよく話をした。コンサートやオペラで顔を合わせることもたびたびあった。

 2016年の12月に電話で話したのが最後だった。病気のことなど何も知らなかった。亡くなったという知らせを突然受けて驚いた。11日の通夜に出席した。

 通夜に行く途中、泣き出したくなるほど悲しくなった。そして、今日また会場に向かう途中、サントリーホールで彼女に何度か会ったのを思い出した。また激しい悲しみに襲われた。

 年を取るということは、知り合いがだんだんと亡くなっていくということだ。通夜の席で、かつての先生筋の人たちや友人たちが老け込んでいるのに衝撃を受ける。おそらく、友人たちも私を見て同じように思っているのだろう。次に会うのは、この中の誰かの葬儀の席かもしれないなどと不謹慎なことも思ってしまう。人生の先輩たちはみんながこのような思いをしていたのだろう

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新国立劇場オペラ研修所修了公演「イル・カンピエッロ」 曲のつまらなさに閉口した

 新国立劇場中劇場で、新国立劇場オペラ研修所修了公演「イル・カンピエッロ」をみた。ヴォルフ=フェラーリのオペラ。もちろん、私がこのオペラをみるのは初めて

 演奏については大健闘。とりわけ、男声陣が充実していた。ファブリーツィオの清水那由太、アンゾレートの氷見健一郎、ゾルゼートの荏原孝弥、アストルフィの高橋正尚、そして女性役を歌う水野優、濱松孝行はとてもしっかり歌っていた、ニェーゼの吉田美咲子、ルシエータの砂田愛梨、ガスパリーナの宮地江奈もよかった。粟國淳の演出はおもしろかった。騎士の時代の広場をうまく描いている。ただ、登場人物に音楽的な特徴がないために、誰が誰なのかうまく識別できなくて困った。

 そして、それ以上に、私はあまりの曲のつまらなさに閉口した。特に旋律的でもない、淡々とした平板な音楽がずっと続き、人物によって音楽に違いがあるわけでもなく、ストーリーが盛り上がるべき時も、音が大きくなることはあっても、ずっと単純なままで、音楽が盛り上がることはない。楽器の絡み合いの美しさもない。

 ヴォルフ=フェラーリは「マドンナの宝石」の間奏曲だけ聞いたことがあった。昔、小学生のころに何かのレコードを買ったら、裏面にこの曲が収録されていた。あまりにつまらないので、数回聞いただけだった。「マドンナの宝石」も確かこんな感じの曲だったと、久しぶりに思い出した。

ただ、当時、友人が家に来た時、持っているレコードをあれこれ聞かせたが、その友人はロッシーニもベートーヴェンもモーツァルトもチャイコフスキーも気に入らず、「マドンナの宝石」を聞いて、「樋口もいい曲を持っているじゃないか」といって喜んでいたのを覚えている。一定程度、このような曲を好む人もいるのだと思う。

しかし、私にはどうにも耐えがたかった。途中で帰ろうかと思ったが、記念に最後まで聴いておこうと思って、なんとか我慢した。

 指揮は柴田真郁。オーケストラは新国立アカデミーアンサンブル。これについては何ともいえない。もっと工夫して盛り上げてほしいと思ったが、きっと作曲家がそのように楽譜に書いていて、これ以上どうにもできないのだろう。こんなつまらない曲を一生懸命演奏する人々が気の毒になった。

 なぜこんなオペラを上演したのか。もっとほかに良いオペラがあるだろうと思った。

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バッティストーニ+東フィル イタリア・オペラのようなベートーヴェン

 2018310日、千葉市の京葉銀行文化プラザホールで東京古ハーモニー交響楽団第50回千葉市定期演奏会を聴いた。指揮はアンドレア・バッティストーニ。曲目は前半にベートーヴェンの交響曲第5番(運命)、後半に第7番。

 私は千葉県民ではないので、はるばる出かけたことになる。実に遠かった。バッティストーニのCDで聴いた第九が素晴らしかったので、第5と第7もぜひ聴いてみたいと思って、千葉市にまで足を運んだ。

 かなりデッドなホールだった。私はM席(つまり13列にあたる)の右隅の方だったが、それでも音が届かない感じ。そのせいもあるかもしれないが、第5には私は不満だった。クレシェンドをつけたり、タメを作ったり、テンポを動かし、全力で音を出し切るバッティストーニの持ち味が、いずれもわざとらしく感じられた。まるで、ベートーヴェンがイタリア・オペラのようになっていた。むしろ、完璧に構成されたこの楽曲の形を壊しているように感じた。第4楽章は大いに盛り上がり、大喝采が起こったが、私はそれに加わる気分にはならなかった。

 だが、第7番については、私は大いに心を動かされた。単に私の第5と第7への思い入れの違いのせいかもしれない。が、第7に関しては、舞踏ふうに揺れ動き、音がダイナミックに駆け回るのに、まったく異存はない。これもイタリア・オペラ風のベートーヴェンだが、この曲をヴェルディ風に演奏しても、それはそれで十分に成り立つ。とりわけ、第4楽章はすさまじかった。音の洪水のようにたたきつけられ、それが勢いをもって迫ってくる。

 東フィルはバッティストーニのダイナミックな音楽をしっかりと作っていた。管楽器の美しさがもう少しほしいと思ったが、ないものねだりをしても仕方がない。

 アンコールはチャイコフスキーの弦楽セレナードの第二楽章。このような曲を演奏すると、もっと潤いやもの悲しげな情緒がほしくなる。

 とはいえ、第7に関しては実に満足。千葉まで足を延ばした甲斐があった。

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アルモドバル監督の映画

 スペインの映画監督ペドロ・アルモドバルの作品をこれまでみたことがなかった。DVDを何本か見たら、これがなかなかおもしろい。感想を書く。

 

21f0zkq7ejl_ac_us160_ 「バチ当たり修道院の最期」 1983年

 なんだかよくわからない映画だった。ヘロイン中毒の歌手ヨランダは、恋人がヘロイン接種で中毒死したために修道院に逃げ込む。ところが、その修道院は資金切れで閉鎖間近。しかも、尼さんたちはヘロインを平気で吸ったり、神父と恋に落ちていたり、官能小説の作家だったり。しかも、ここでは虎が飼育されている。厳しい修道院長がやってきてついに閉鎖になり、ヨランダも去っていく。はて、アルモドバルは何をしたかったのか。謎だ。

 

51cgml2xxnl_ac_us160_ 「グロリアの憂鬱」 1984年

 不思議な映画。マドリッドの剣道教室(ちゃんと、日本式にきちんと練習しているようだ!)の掃除婦をする中年女性グロリア(カルメン・マウラ)。うだつの上がらないタクシー運転手の夫、口うるさい義母、ドラッグ売人の長男、年上の男性の性の相手をしているらしい次男、隣に暮らす売春婦、そこに出入りするいかがわしい客たち、同じアパートに暮らす母娘(その娘は超能力者!)との救いのない生活が深刻にならないタッチで描かれる。グロリアも気軽にいきずりのセックスをし、ドラッグ漬けになり、夫を死なしてしまう(あえて、「殺して」とは言わない)が、家族全員がそれほど大きなこととはとらえていない。

現実的とは言えないことばかり起こるが、不思議なリアリティがある。「バチ当たり修道院の最期」と似たタッチだが、私はこの映画には魅力を感じた。ありそうもない話の展開の中に人間の本質的な部分を描いているといえるだろう。あえて言葉にすれば、「孤独感」ということになるだろう。

 

51xlbprr0l_ac_us160_ 「私の秘密の花」 1995年

 覆面ベストセラー女流作家レオは、自分の才能と激しい感情を持て余している。愛する夫に親友との長年の裏切りを告白される。才能を認める編集者に愛され、レオも徐々に愛を取り戻していく。そんなストーリーにまとめられるだろう。が、ストーリーそのものよりも、鮮やかな色遣い、ドタバタした中での深い孤独感の表現が見事だと思う。レオのどうにもならないやるせない気持ちが伝わってくる。とても良い映画だと思う。

 

51vkl4eirl_ac_us160_ 「トーク・トゥ・ハー」 2002

 とてもおもしろかった。

 牛との戦いで植物状態になった女闘牛士の恋人であるノンフィクション作家と、同じように植物状態になった若きバレリーナを介護する介護士の若い男性。以前、オペラ観劇(パーセルのオペラのようだ)中に出会い、その後、病院で言葉を交わすようになった二人の男性が友情を深めていく。女闘牛士は死に、バレリーナは奇跡的に意識を取り戻す。だが、介護士は植物状態のバレリーナを妊娠させた疑いをかけられ逮捕され、自殺する。二人の男性の孤独でやるせない愛が痛いほどわかる。

 愛する人が物言わぬ状態にいる。一方的な愛になってしまう。互いに愛し合っているという錯覚を抱くが、それは自己満足でしかない。考えてみれば、愛というのは実は植物状態の相手に一方的に愛を確かめようとしているだけなのかもしれない。そんなことを考えてしまう。

 アルモドバル監督の映像も美しい。深刻な状態を、あまり深刻にならずに描いていくのも実にいい。バレー教師の役でジェラルディン・チャップリンが出演しているのでびっくり。スペイン映画にも多数出演しているとは知らなかった!

 

51jajuvoubl_ac_us160_ 「ライブ・フレッシュ」 1997年

 素晴らしい映画。バスの中で売春婦が産み落とした男の子ビクトル。長じて、たまたまであった女性エレナに一目ぼれして、その自宅を訪れるうち、エレナの持ちだしたピストルで、駆けつけた刑事を傷つけてしまう。ビクトルは服役中、テレビで刑事が半身不随になりながらパラスポーツを楽しみ、エレナを妻にしていることを知って、憎しみを募らせる。刑務所から出ると、すぐにエレナに会いに行こうとする。

ストーリーはこのくらいにするが、一方的に憎しみを募らせる歪んだストーカーと思われたビクトルが実は純情であり、最後にはエレナと結ばれる。ビクトルもエレナも二人の刑事も、もうひとりの重要人物クララも、それなりに懸命に生き、自分の愛を守ろうとするが、それが思わぬ方向に進んでしまう。人生の重み、人と人のつながりについて考えこみたくなる。それを色彩鮮やかに描く。エネルギーと猥雑さと生きる悲しみにあふれた名作だと思う。

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METライブビューイング「愛の妙薬」2017-18 最高に楽しい舞台!

 METライブビューイング「愛の妙薬」をみた。最高に楽しい上演だった。世界の最高レベルの人が結集すると、これほど楽しい舞台ができ上がるのか!と改めて知らされた。

 やはりネモリーノを歌うマシュー・ポレンザーニが圧倒的に素晴らしい。「人知れぬ涙」は息をのむ凄さ。声を大きく張り上げるのではなく、むしろ柔らかい声で繊細に、抒情的に表現している。そして、ドゥルカマーラのイルデブランド・ダルカンジェロもさすがの貫禄。初めの部分では全盛期の輝かしさを失ったのかと思ったが、その後の声の張りは見事。このペテン師でありながらも憎めない役を楽しく不気味に演じて、素晴らしい。ポレンザーニといい、ダルカンジェロといい、歌唱だけでなく演技力にも感服。

 アディーナ役のプリティー・イェンデも新人とは思えない美しい声と演技。南アフリカ出身だという。ここまでかなりの苦労があったのだろう。ベルコーレのダヴィデ・ルチアーノは若いバリトンだが、ポレンザーニやダルカンジェロに一歩も引けを取らない歌。

 指揮はドミンゴ・インドヤーン。初めて聴く指揮者だが、メリハリがあり、生き生きとしていてとても良かった。演出はバートレット・シャー。最高に楽しく、しかも美術品のように美しい舞台。

 このオペラを見ると、しばしばアディーナが突然、ネモリーノにやさしくなるのが不自然に感じられる。また、なぜこんなおバカな男をアディーナが愛しているのか納得いかないと感じることも多い。が、今回の演出で見ると、そのあたりの説明が仕草によってとてもわかりやすかった。また、ネモリーノはそれはそれで魅力的な男性に描けていた。

 さすがMET! と、ライブビューイングを見るごとに思うが、今回もその思いを強くした。

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バティストーニ+東フィルの「カルミナ・ブラーナ」 アマチュアっぽかったが、大いに感動!

201834日、新宿文化センターでアンドレア・バッティストーニ指揮、東京フィルハーモニー交響楽団によるコンサートを聴いた。前半はラヴェルの「ダフニスとクロエ」第2組曲、後半にはオルフの「カルミナ・ブラーナ」。

ホールに到着してびっくり。いつもと雰囲気がまったく異なる。アマチュアの発表会のような雰囲気。コンサート慣れしていない感じの人たちが大勢で、ご近所話をしているのが耳に入る。子どもたちも目立つ。

300人前後の大合唱団が登場。新宿文化センター合唱団ということだが、見るからにアマチュアの人たち。圧倒的な高齢者がほとんど。「カルミナ・ブラーナ」の児童合唱は新宿区立花園小学校合唱団とのことで、これマアマチュア。観客も、まさに「うちの子どもが出てる!」「あそこに、じいじがいる」という雰囲気。正面前方に、演奏中、堂々と撮影している高齢者もいる! 子どもの発表会のような意識なのだろう。

実はかなり心配になった。ひどい演奏になりはしないか? とんでもないコンサートに来てしまったのではないか? ところが、ところが!

いや、初めはやはり合唱の精度の低さを感じた。300人いるとは思えない音量だし、音程はぴしりと決まらないし、輪郭がぼやけているし・・。しかし、聴き進むごとに納得していった。いやあ、大健闘! バッティストーニの独特のクレシェンドにも、ドラマティックな味付けにも、合唱はしっかりとついていっている。細かいニュアンスもしっかりと伝わってくる。オーケストラとの掛け合いも見事に決まっている。何度も感動に震えた。

独唱者が素晴らしかった。バリトンの小森輝彦が見事な歌い回しで、全体を引き締めていた。そして、ソプラノの伊藤晴もしっかりした音程と強い美しい声で素晴らしい。カウンターテナーの彌勒忠史も白鳥の歌を不思議なユーモアを交えて歌い、実に楽しかった。

東フィルにはときどきがっかりさせられることがあるが、今回は、まったく文句なし。もちろん、合唱との掛け合いでところどころ不発に感じるところもあったが、そのような細かいところは気にしなくてよいような雰囲気が全体にみなぎった。最高に楽しい。生きることの苦しみと楽しみと自然の営みの偉大さが大音量で、そして、全身の躍動によって伝わってくる。歌っている人のほとんどがかなりの高齢者なのに、まさしく「春」の躍動が伝わる。

「カルミナ・ブラーナ」を取りすまして演奏しても仕方がない。あら捜ししても仕方がない。演奏者とともに観客も楽しみ、命を感じ、音楽に感動すれば、それでいい。その意味で最高の演奏だった。アマチュアが混じって演奏するのに適した曲であり、そのようなダイナミックな演奏だった。老いも若きも、プロもアマも、クラシック通もクラシック初心者もみんなで生きることの苦しさ、楽しさ、音楽の楽しさをともに味わうことができた。実はこれこそが音楽の喜びなのだろう。

 実は私は大袈裟な身振りの指揮者は好きではない。が、このバッティストーニの音楽を聴くと、その大きなドラマに引き付けられる。演奏者と一緒になって感動してしまう。1987年生まれというから、30歳そこそこの若い指揮者なのだが、いやあ、すごい指揮者だ!と改めて思った。

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新国立劇場「ホフマン物語」 見事な上演だが、フランスっぽくなかった

 201833日、新国立劇場で「ホフマン物語」をみた。全体的にとても良かった。ただ、素晴らしい上演とまでは行かなかった。

 セバスティアン・ルラン指揮による東京フィルハーモニー交響楽団は十分にこなれた演奏だと思う。大きな失敗もなく、とてもきれいな音を出しているのだが、もう少し、香りというか雰囲気というか、そのようなものがほしい。その点で物足りなさを感じた。

 圧倒的に素晴らしかったのは、リンドルフなどを歌うトマス・コニエチュニー。太くて存在感のある歌。音程もいいし、容姿もいいし、この役には申し分ない。悪魔的で得体の知れない面もうまく出している。ニクラウスなどを歌うレナ・ベルキナもとてもしっかりとした声でこの多面的な役を見事に歌いこなしていた。

 ホフマンを歌うのはディミトリー・コルチャック。きれいな声でしっかり歌っているし、容姿も素晴らしい。ただ、少しだけ「決まらない」ところを感じた。ちょっと音程があやふやになったり、声が出なかったりする。しかし、もちろん十分に主人公を歌っている。

 日本人キャストも外国人に劣っていなかった。オランピアの安井陽子はとてもきれいな高音。デセイなどと比べると音の輝きに欠けると思ったが、そんなことを言っても始まらないだろう。アントニアの砂川涼子は清澄なきれいな声で、この役にふさわしい。はじめのうち、ちょっと歌が平板になるのを感じたが、徐々に安定してきた。ジュリエッタの横山恵子も健闘していたが、少し声が出ていなかったかもしれない。アントニアの母やステッラを歌う谷口睦美もとても安定した美声。フランツなどを歌う青地英幸もよかった。特筆するべきは、三澤洋史合唱指揮による新国立劇場合唱団だ。声がそろっているし、音程もいい。

 ただ、全体的にあまりフランス的なところが感じられなかった。指揮者はフランス人なのだから、オーケストラや歌手たちに問題があるのだろう。フランス語らしい洗練された軽みがなく、言葉の発音も妙にかっちりしている。フランス語特有に鼻母音などが聞こえてこなかった。先ほど、「雰囲気」に欠けると書いたが、そのあたりがそうなってしまっている原因なのかもしれない。コニエチュニーは素晴らしかったが、その彼でもフランスっぽさがあまり感じられなかった。

 演出はフィリップ・アルロー。幻想的で洒落ていて、とても良い演出だと思う。わかりやすいし、奇をてらっていないし、 これは雰囲気にあふれている。演奏もこの演出のような雰囲気がほしかった。

 とはいえ、繰り返すが、全体的にはかなりレベルの高い上演だと思う。このレベルのオペラを日常的に上演してもらえるのだから、首都圏の住民は実に幸せだと思う。

 

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