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新日フィルのメンバーによるクラリネット五重奏曲を楽しんだ

2018425日、トリフォニーホール、小ホールで新日本フィルハーモニー交響楽団のメンバーによる室内楽シリーズ「クラリネット五重奏曲」を聴いた。クラリネットは中舘壮志、ほかはヴァイオリン田村安紗美とビルマン聡平、ヴィオラ井上典子、チェロ長谷川彰子。かなり若手の奏者たち。曲目は、前半にモーツァルトのクラリネット五重奏曲変ロ長調「断片」(モーツァルトが晩年に途中まで作曲したものだという。ロバート・レヴィン補作)とウェーバーのクラリネット五重奏曲変ロ長調、そして、後半にブラームスのクラリネット五重奏曲。

とてもよかった。中舘壮志は若いクラリネット奏者。もちろん、私はクラリネットについてよくわかるわけではないのだが、素晴らしいテクニックだと思う。音の切れがいいし、速いパッセージもとても正確。

誰が音楽を主導しているのか良くわからないが、とても知的な音楽ができ上がっていた。構築性があり、歌があり、メリハリがある。モーツァルトの「断片」もとても美しい曲だった。ウェーバーの曲は、一つ間違うと音楽が崩れてしまいそうな曲だと思ったが、私はとても心地よく聴くことができた。今回のコンサートは室内楽を専門にしていない人たちだが、日本の室内楽の演奏の質の高さに改めて驚いた。

ただ、ブラームスの五重奏曲については、私は少々物足りなかった。この若い奏者たちは、この曲を枯淡の音楽にしたくなかったのだと思う。もっと若々しく、ロマンティックで生き生きとした音楽にしようとしているようだった。第2楽章は成功していると思った。ロマンティックな叫びがクラリネットの音から聞こえてきた。だが、第3楽章、第4楽章は表現しようとしているものとブラームスの音楽との間に距離があったように思う。私には何を訴えたいのか良くわからなかった。やはり、私には枯淡の音楽として描くほうがずっと説得力があるような気がする。

アンコールはモーツァルトの有名なクラリネット五重奏曲の第4楽章。まるで水を得た魚のようだと思った。生き生きと、若々しく溌剌と演奏。素晴らしかった。この若いメンバーにはモーツァルトのクラリネット五重奏曲のほうが似合っていると思った。

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大分のナイヤガラの滝と呼ばれる原尻の滝、そして映画「馬を放つ」のこと

 一昨日(2018年4月21日)から大分市に来ている。市内にある岩田学園を、私が塾長を務める白藍塾がサポートして小論文指導をしているので、その業務の一環として学園を訪れるため。岩田学園を訪れるのは今日(23日)だけだが、大分市は私が10歳から18歳まで過ごした土地なので、少し前に大分入りして、少し近くを回ることにした。一昨日の夜は大分付近に暮らす旧友二人と飲食をともにし、昨日はそのうちの一人の車で、快晴の初夏の陽気の中、原尻の滝にいった。ナイヤガラの滝とよく似た滝だ。今、かなり有名なようだが、私が大分にいるころには知られていなかった。友人も初めてだというので、出かけたのだった。

 友人は仕事と観光で134か国を訪れ、ナイヤガラの滝の近くに住んだこともあるというが、その彼もナイヤガラの滝に似ていると感嘆。その後、佐賀関にあるよしだ会館というレストランで昼食。関アジ、関サバを堪能した。その後、大分のホテルまで送ってもらった。

 夕方にはひとりで大分市内の映画館で「馬を放つ」を見た。岩波ホールで見たいと思いながら、時間が合わずにいた。大分で見られるのはラッキーだった。アクタン・アリム・クバト監督のキルギス映画だ。素晴らしかった。感動してみた。

 ケンタウロスと呼ばれる初老の男。かつては映画技師として働いていたが、現在では建設現場で働き、聾唖の障害を持つ妻との間に言葉を発しない息子と幸せに暮らしている。ところが、夢を見たことから、馬は人間の翼であり、神に近づくことのできるものだというキルギスの伝説を実践したいと考えるようになる。そして、競走馬として飼われた馬たちを野に解き放つ。そこに、遠縁の権力者やケンタウロスに好意を持つ未亡人シェラパット、そのシェラパットに片思いを寄せる泥棒のサルディが絡んで物語は展開する。

 最後、ケンタウロスは村を追放され、サルディに撃たれて死ぬ。が、それと王子に、それまで言葉を発しなかった息子が「倒産」という声を発する。

 ケンタウルスはどこまでも優しい男だ。人間に対しても馬に対しても。馬とはケンタウロスにとって神に最も近い自然そのものなのだろう。人間は自分の都合で自然を破壊する。人間は自分の都合で馬をこき使い、虐待する。ケンタウロスは宗教的な教義には無関心だ。ただ馬を通して神に近づこうとしている。

 キルギスでは中東ほどイスラム教の戒律が厳しくなさそうだ。キルギスの伝説が神の教えと融合しているらしいケンタウロスの考えは異端に属すだろうが、それほど厳しくとがめられない。アクタン・アリム・クバト監督はケンタウロスを肯定的に描く。

 私はドストエフスキーの「白痴」を思い出した。現代に現れたキリストのような他者を愛し、聖なる部分を持つ男性。現代社会に、イスラム社会におけるキリストのような人物が再現し、周囲と折り合うことができずに追放されてしまう。監督はドストエフスキーの徴を映画の中に残しておきたかったのではないだろうか。遠縁の横暴な警察署長、少し頭の足りない宗教勧誘者などドストエフスキー的人物といえるだろう。

 かつて映画館として使われていた場所で村人たち祈りをささげている時、ケンタウロスはふと思い立って、映画技師にもどって馬が走る昔の映画を映し出す。感動的な場面だった。

 何か所か私はかなり深く感動した。

 ただ、大分ではよくあることかもしれないが、この映画を見ていた観客は私を含めて3人だけだった。しかも、私ともう一人は間違いなくシニア料金。いつまでこの映画館が成り立つか少々心配。

 本日、このあと岩田学園で研修を行い、特別授業を行うが、早く目が覚めたので、この文章を書いた。

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ピレシュとブロムシュテットのベートーヴェンに興奮した

 2018420日、NHKホールでヘルベルト・ブロムシュテット指揮、NHK交響楽団の定期演奏会を聴いた。曲目は前半に、マリア・ジョアン・ピレシュが加わって、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番、後半にベートーヴェンの交響曲第4番。どちらの曲も素晴らしかった。興奮した。

 ピレシュ(というか、日本ではずっとピリスと呼ばれてきた)は今年限りで引退を宣言したので、これが最後の来日。20年ほど前のことだったと思うが、ピアノにあまり関心のない私はデュメイのヴァイオリンを目当てに聴きに行ったら、ピアノ伴奏のピレシュがあまりに凄くて圧倒されたのを覚えている。それ以来、数少ない私の好きなピアニストなのだが、そもそもピアノをあまり聴かないので、ピレシュを聴くのはこれが三度目くらい。

 それにしても素晴らしい。一つ一つの音があまりに美しい。ちょっとしたメロディも深みを帯びて響く。私はピアノに疎いので、どういう仕掛けなのかよくわからないが、なぜかピレシュの音はジーンと心に響く。とりわけ、第一楽章のカデンツァがあまりに素晴らしかった。これほど高貴でこれほど繊細でこれほど自然なピアノの音は聴いたことがない。音は必ずしも大きくない(NHKホールが響かないせいではないだろう)が、心の奥にふかぃ深く入り込んでくる。第2楽章もとてもよかった。オーケストラの強めの音とピレシュの静かな音の対比が見事。しなやかで繊細なピアノに痺れた。ただ、第3楽章についてはもっと高揚して、もっとダイナミックでもいいような気がした。その点では少しだけ不満だったが、これがピレシュの作るベートーヴェンなのだろう。しなやかで高貴で深く心に入り込むベートーヴェン。それはそれで素晴らしい。

 ピアノのアンコールとしてベートーヴェンの6つのバガテル作品1261曲だという。一つ一つの音の美しさに驚嘆した。

 前半はどうしてもピレシュに耳を奪われたが、後半はブロムシュテットとN響の素晴らしさを堪能した。

 交響曲第4番は大好きな曲だ。とりわけ、第1楽章の冒頭、霧の中で手探りで歩いて行ったあと、フォルティシモになってみるみる視野が開けていく部分にいつも感動する。ワクワクして躍動感を覚える。それどころか、私は第1楽章をよい演奏で聴くと、ほとんど躁状態になる。ブロムシュテットはきびきびして躍動する音楽を作る。まったく無駄がなく、余計な遊びも誇張もない。だが、実にダイナミックで躍動し、若々しい。私の心の中に躁状態を作ってくれた。第4楽章はもっとすごかった。第1楽章以上にワクワク感を作り出す。私は叫びだしたくなるのを抑えるのに苦労した。身体も動きだしそうになった。N響も実に見事にブロムシュテットの音楽を作り出していた。木管管楽器がとりわけ切れがよく、美しい。ブロムシュテットが指揮をする時、とりわけ素晴らしい音になる

 興奮した。家に帰り着くまで興奮がさめなかった。

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映画「女は二度決断する」 衝撃的なラストだが・・・

「そして、私たちは愛に帰る」や「消えた声が、その名を呼ぶ」を監督したトルコ系ドイツ人ファティ・アキンの新作映画「女は二度決断する」をみた。前の2作が衝撃的だったので、今回も期待してみた。期待を裏切らない衝撃作だった。

新作のストーリーを書くと、「ネタバレ」ということになるだろうからくわしくは書かない。トルコ系の男性と結婚したドイツ女性カティヤ(ダイアン・クルーガー)。ところが、夫と息子がネオナチによるテロで殺されてしまう。カティヤは爆弾を仕掛けた女性を目撃していたこともあって容疑者はしばらくして特定される。だが、・・・・。

アキン監督はこれまでもトルコ系ドイツ人の置かれた状況をたびたび描いてきた。今回はまさしく真正面からその問題を取り上げている。小細工もせず、複雑な状況を絡めることもなく、シンプルに怒りと悲しみ、そして復讐心を描く。観客はカティヤとともに被告夫婦に憤慨し、その弁護人や偽の証言をするギリシャ人に憤慨する。カティヤの復讐心、最後の決断も十分に理解できる。私は夢中になって最後まで見た。そして、最後、カティヤの行動に衝撃を受けた。

ただ、やはりアキン監督にしてはシンプルすぎる。深刻な問題であるだけに、アキン監督は余計なものを描きたくなかったのだと思うが、もう少し社会情勢を描くなり、トルコ系住民の心の奥を描くなりしてほしい。私はこの作品は、「そして、私たちは愛に帰る」や「消えた声が、その名を呼ぶ」には及ばないと思った。

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METライブビューイング「セミラーミデ」 歌手たちの超絶技巧に酔い、ロッシーニの躍動する音楽に心躍らせた

東銀座の東劇でMETライブビューイング、ロッシーニ作曲「セミラーミデ」をみた。驚異的な名人たちの競演に酔いしれた。

まず、指揮のマウリツィオ・ベニーニが素晴らしい。序曲からしてドラマティックで力感にあふれ、高揚感がはちきれそう。やはり、ロッシーニのオペラはこうでなくちゃ! 

歌手たちも、まさに超絶技巧の連続。イドレーノのハヴィエル・カマレナの強靭な超高音に度肝を抜かれた。セミラーミデのアンジェラ・ミードも技巧も素晴らしいし妖しい魅力の悪女の役作りも見事。アルサーチェのエリザベス・ドゥショングも確かに青年に見えてくる。ミードとの二重唱も声がぴたりと合って圧巻。アッスールのイルダール・アブドラザコフも悪役を演じて素晴らしい。この主役四人はいずれも技巧といい声の力といい、演技といい申し分なし。よくぞ、ここまでの歌手が集まったものだと感心した。

高僧を歌うライアン・スピード・グリーンは貧しいアフリカ系アメリカ人だったとインタビューで答えていた。少年院に入るようなぐれた少年だったのが、若手育成プログラムによってMETの舞台に立つようになったという。立派な声と立派な体格。そのうち、もっと大事な役を歌うようになるだろう。このようにして次々と優秀な歌手が育っているようだ。頼もしい。演出はジョン・コプリー。とてもわかりやすく、しかもドラマティックで美しい。これも文句なし。またしてもメトロポリタン歌劇場の底力を見せつけられた。

それにしても、ロッシーニのオペラは本当にワクワクする。とりわけ、この「セミラーミデ」はドラマとしてもおもしろいし、とてもよくできている。もちろん、ストーリー的には話がうまく出来すぎているし、急展開がはなはだしいし、急展開のわりに歌の部分ではいつまでも話が進まなくて同じことばかりをずっと歌い続けている・・・というようなオペラ特有の問題点はあるが、音楽があまりに楽しく、美しく、ドラマティックなので、そのような欠点を吹き飛ばす。歌手たちの超絶技巧に酔い、ロッシーニの躍動する音楽に心躍らせているうちに、あっという間にオペラが終わってしまった。これぞロッシーニ醍醐味。満足。

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東京・春・音楽祭 ロッシーニ「スターバト・マーテル」 私がロッシーニに退屈するなんて!

2018415日、東京文化会館で東京・春・音楽祭、スペランツァ・スカップッチの指揮、東京都交響楽団によるロッシーニ「スターバト・マーテル」のコンサートを聴いた。本曲の前にモーツァルトの交響曲第25番が演奏された。

率直に言って、私はスペランツァ・スカップッチの指揮に強い不満を抱いた。遠目にはかなり若くてきれいな女性指揮者。大喝采が起こっていたので、私のきわめて個人的な趣味かもしれないが、私は不満という以上に、むしろ「不快」を感じたのだった。

まず、交響曲第25番の第1楽章で私は不快に思った。たびたびテンポを極端に落として、メリハリをつけようとする。モーツァルトの、しかも若書きの曲にそれをやってしまうと、まったく疾走感がなくなり、音楽が停滞してしまう。第2楽章以降も、かなり遅めのテンポであれこれいじる。ロマン派の曲ならともかく、古典派の曲でこのような演奏をされると、私としてはかなり違和感を覚える。

めあての「スターバト・マーテル」では、そのような傾向がいっそう目立った。ロッシーニのこの曲をかなり大袈裟に大仰に演奏。全体的にテンポが異様に遅い。ロッシーニ特有の軽やかさがなく、重くなる。生気がなく、エネルギーがない。しかも、ずっと同じように遅いテンポであれこれいじるので、むしろ一本調子になる。

「スターバト・マーテル」とはいえ、ロッシーニのこの曲はほとんどオペラのようにそれぞれの歌手や合唱の歌の披露という面がある。曲想によって、速いテンポを求めている部分があるはずだ。それをずっと同じような調子で演奏されると、むしろ退屈してしまう。ロッシーニ好きの私がロッシーニの曲に退屈するなんて! 私は退屈しながらも眠ることはなかったが、私の周りでも居眠りしている人が大勢いた。

 終曲ではかなりもりあげた。このような荘厳な盛り上がりを求めて、遅いテンポにしたのかもしれない。だが、全体が遅いと、むしろ盛り上がらない。私がロッシーニに求めている生気あふれる快活さ、快活さの中の明るい信仰心はまったく感じられなかった。今年の初め、ジェームズ・ジャッド指揮、新日フィルの素晴らしい演奏で聴いたのとは同じ曲とは思えないほどのつまらなさだった。

歌手陣は文句なく素晴らしい。ソプラノのエヴァ・メイとメゾ・ソプラノのマリアンナ・ピッツォラート、バスのイルダール・アブドラザコフはこれ以上はないと思われるほどの最高の歌声。テノールのマルコ・チャポーニはちょっと音程が怪しいところを感じたが、もちろん見事な声。そして、東京オペラシンガーズの合唱も音程がよく、声も伸びていて見事。都響もしっかりした音。演奏については、指揮以外はまったく不満はなかった。

もういいトシになったので、なるべくいろいろなことに寛大になりたいと思い、様々な音楽の解釈を許容したいと思うのだが、今日のような演奏をされると、私としてはやはり「我慢ならん」に思ってしまう。なかなか「いいジイさん」になれない。

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ブロムシュテット「幻想」 音楽美にあふれ、律動にあふれた演奏に感動

 2018414日、NHKホールでヘルベルト・ブロムシュテット指揮、NHK交響楽団による定期演奏会を聴いた。曲目は前半にベルワルト作曲の交響曲第3番「風変わりな交響曲」(ブロムシュテット校訂版)、後半にベルリオーズの「幻想交響曲」。

 ベルワルトは1796年生まれの作曲家。シューベルトと同じくらいの生まれだ。今からすると、さほど「風変わり」ということもないが、確かにシューベルトの時代にこのような曲を作ったとすると、確かに先進的だろう。あれこれ不思議な工夫がある。楽器のつながりが妙だったり、ユーモラスなリズムだったり。ただ、やはりそれ以上に、「ちぐはぐ」という感じがして、古典派好きの私としてはついていけなかった。

 後半の「幻想」は素晴らしい演奏だった。ブロムシュテットは90歳のはず。驚くべき若さ。音楽も生命力にあふれ、まったく緊張感が途切れない。

きわめて正攻法の演奏だと思う。先日のインバル+都響のような「妖しい幻想」ではない。かといって、ベルリオーズ的な何でもありの燃え上がる大仰な幻想でもない。もっとずっと気品にあふれ、音楽美にあふれ、律動にあふれた演奏。精妙な音、激しい音、強い音のバランスが見事。冒頭や第五楽章の始まりなど、得も言われぬ美しさを出すNHK交響楽団の見事さも特筆するべきだろう。コンサートマスターがライナー・キュッヒルだということも関係があるかもしれない。

 とりわけ、第45楽章に盛り上がりは素晴らしかった。純音楽的な盛り上がりといってよいのではないか。もしかすると、何かブロムシュテットの意図があるのかもしれないが、私としては、インバルの指揮で聴く時のように、「この楽器、このメロディで何を表現しているか」をあまり気にしなかった。インバルでは、あれこれと意味ありげな音がするので、どうしても考えてしまう。が、ブロムシュテットの音楽は、何を表現しているにせよ、音が美しく、音の連なりが感動的で、音の爆発が素晴らしかった。すべての音に緊張感があふれており、生命にあふれている。音自体に感動する。

 特に何かを工夫しているようには見えないのだが、最高の音楽が作られていく。まさしく名人の音楽だと思った。

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映画「ラブレス」「15時17分パリ行き」

 映画館で2本、最近封切られた映画を見たので、簡単な感想を書く。

 

「ラブレス」 アンドレイ・ズビャギンツェフ監督 ロシア映画

 歴史に残るような名画であるという評を読んだので、映画館に足を運んだ。とても良い映画だった。ただ、歴史に残る名画かというと、それほどとは思わなかった。

 愛情の冷めてしまった夫婦。ともに別の愛人をもって、そこで愛の枯渇を癒そうとしている。夫婦とも愛のない家庭で育ったことがほのめかされる。そのため夫は子どもにどう接してよいかわからず、妻は子どもを産んだことを後悔し、自分がされたと同じように子どもに冷酷な言葉を投げつけ、ほとんど「ネグレクト」の状態。夫婦は子どもの親権を相手に押し付けようとするが、その話を聞いてしまった12歳の少年が失踪する。夫婦は愛人との時間ばかりに気を取られて子どもの失踪に気付かない。2日後に気付いて捜索を開始するが、夫婦の溝は深まるばかり。捜索もボランティア(それにしても、ボランティア団体が真剣に捜索しているのに驚いた)が中心で、その間も夫婦はそれぞれの愛人との性愛の時間をなくそうとはしない。結局子どもは見つからずに、夫婦はそれぞれ別の家庭を持つようになる。子どもは何らかの事情で池に入ったらしいことが仄めかされるが、子どもの状況はわからない。

「ラブレス」という言葉を聞いただけで、私は「愛の不毛」を描いたアントニオーニ監督(パゾリーニ、ワイダとともに私の大好きなヨーロッパの映画監督だ!)を連想する。映画をみながら、とりわけアントニオーニの名作「情事」を思い出した。ある無人島で女性が行方不明になる。女性を探す男と女が探索を進めるうちに心を通い合わせるようになるが、行方不明の女性の「不在」が空虚な重しとなって心から愛し合うことができない。「情事」はそんな映画だった。

「ラブレス」でも、息子の失踪の後、夫婦の間に息子の不在がのしかかって、別の家庭を持ちながらも愛ある家庭を作ることができない。妻はとりわけ、以前と同じようにずっとスマホをいじり、横にいる夫と心を交わそうとしない。そして、アントニオーニが空疎で不毛な現代社会を映像にして見せたように、ズビャギンツェフも荒廃した無機質なロシアの社会を映像化する。

 映画の中でしばしばテレビやラジオのニュースが流れる。社会の荒廃ともいえる様々な出来事が報道され、ある宗教団体の語る世界の終わりが話題になっている。映画全体から、人々が愛を失い、他人に対する関心を失い、世界は無機質になってついに終末に向かっている、というメッセージが読み取れた。

 ピアノの連打の悲痛な音楽(アルヴォ・ペルト作曲らしい)が印象的だった。現代人の心の叫びに思える。

 

「15時17分 パリ行き」 クリント・イーストウッド監督

 アムステルダムを15時17分の出発したTGVにテロリストが乗り込み、大量虐殺を企てるが、アメリカ出身の三人の若者がそれを食い止め、銃で撃たれた人も助ける。世界で大きく報道された大事件を87歳のイーストウッドが映画化した。しかも、三人の青年を実際の人物が演じている。本人が演じるだけに、まさしく等身大の英雄たちが映画に現れる。

 問題児だった三人が自分の生き方を探りながら成長していく。しかも、それまたきわめて等身大。ごく普通の青年たち。ナンパっぽいことをし、飲んだくれ、当たり前の日常を過ごす。ただ、運命に操られるように、アムステルダム発の列車へと導かれる。人を助けたいと思って軍隊に入り、それまで経験していたことが、まるでそれを実現するために準備されており、あらかじめ定められていたかのように。三人に演技力があるわけでもないので、いっそう日常のことであるかのように感じられる。三人以外にも、何人か実際にテロにあった人たちが本人として登場しているという。

 考えようによっては、たまたま血気盛んな休暇中の兵士が友だちとともに乗った列車でテロリストに遭遇して退治したというだけのことなのだが、それをイーストウッドは若者たちの自己実現として描く。その手際がいい。そもそも、本人に出演させて、これだけの映画に仕上げる手腕にも驚嘆する。

 英雄を描くとどうしても超人になってしまう。イーストウッドが演じたダーティ・ハリーもそうだった。が、今回の映画は、本人が演じ、しかも、それが普通の若者だったこともあって、まさしく等身大で真実の英雄物語ができ上がった。その意味ではまさしく画期的な映画だと思った。

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ラ・フォル・ジュルネ2018が楽しみになってきた

 先日、このブログに5月の東京でのラ・フォル・ジュルネに出演予定のラルス・フォークトとロイヤル・ノーザン・シンフォニアのことを書いた。その続きを書く。

 その後もフォークトの録音をいくつか聴いてみた。テツラフ兄妹と演奏したブラームスのピアノ・トリオ2枚組、そしてモーツァルトのピアノ・ソナタや幻想曲を録音した2枚組がどちらも素晴らしい。とりわけ、ニ短調とハ短調の幻想曲にびっくり。弦楽器好きの私がピアノに惹かれることなんてめったにないのだが! イタリア・オペラ嫌いだった私がネトレプコに導かれてヴェルディやベッリーニやドニゼッティのオペラを楽しむようになったのだが、フォークトに導かれて今度はピアノの世界に入り込む予感がしないでもない。いよいよもってラ・フォル・ジュルネが楽しみになってきた。

 その勢いで、今年のナントのラ・フォル・ジュルネでライブ録音されたヴァイオリニスト数人の演奏を関係者にお願いして聴かせてもらった(Tさん、ありがとうございます)。

 まず、アレーナ・バーエワによるコルンゴルトのヴァイオリン協奏曲。曲の冒頭のソロ・ヴァイオリンの深みのある妖艶さに耳を引き付けられた。鮮烈な音なのだが、不思議な色気がある。腰がどっしりと落ち着いており、じっくりとコルンゴルト特有のロマンティックな世界を展開してくれる。その後も、堂々たる演奏。大演奏家の風格と初々しさがいりまじっている。写真で見ると、かなり若い、しかもとびっきりの美人。ますます楽しみ。

 もう一人、女流ヴァイオリニストのアレクサンドラ・コヌノヴァも楽しみだ。サン=サーンスの「序奏とロンド・カプリチオーソ」を聴いた。バーエワに比べるとずっと若々しくて躍動的。音の処理がとても清潔。このヴァイオリニストも写真で見ると、とんでもない美人。もちろん楽器の演奏家にとって容姿は大きな意味を持たない(オペラ歌手の場合には、とても大きな意味を持つ!)が、男性の一人として、やはりきれいな演奏家だと嬉しい。

 もう一人、5月のラ・フォル・ジュルネのプログラムに含まれているシュポルツルと伝統ロマ音楽団体によるジプシー音楽も聴いてみた。これも実におもしろい。シュポルツルはこれまでラ・フォル・ジュルネでも、それ以外のコンサートでも何度か聴いてきた。青いヴァイオリン(!)を弾く魅力的なヴァイオリニストだ(こちらは女流ヴァイオリニストではなく、中年男性)。

 シュポルツルのヴァイオリンは、私がジプシー音楽といって想像したような情熱的な演奏ではない。もっと軽やかで、悪く言えば無表情。よく言えば天衣無縫。あっさりとさりげなくとてつもないテクニックが披露される。シュポルツルはジプシーの人生の苦しみや喜びを音楽に込めようとはしない。ただただ音楽の楽しみを軽やかに歌い上げる。それが重めのロマの楽器と相まって独特の雰囲気を作り出す。おもしろい。どんどん盛り上がっていく様子が音からわかる。が、実際のコンサートを見てみないと何が起こっているのかよくわからない。

 そのほか、今回のラ・フォル・ジュルネにはジュリアン・ラクリンもヴァイオリンと指揮を披露するらしい。かなり前になるが、ラクリンのヴァイオリンを聴いて、最初に聴いた時は凄まじいテクニックと深い音楽性を感じさせる名演、二度目に聴いた時には最初の名演が信じられないような凡演だった記憶がある(曲目に記憶はない)。さて、今回の日本での演奏はとどちらだろう。これも楽しみの一つだ。

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カンブルラン+読響のベートーヴェン7番 何度か感動が身体を走った

 201847日、東京芸術劇場でシルヴァン・カンブルラン指揮による読売日本交響楽団のコンサートを聴いた。曲目は前半に、ラモー作曲の歌劇「ダルダニュス」組曲からと、佐藤俊介のヴァイオリンが加わって、モーツァルトのヴァイオリン協奏曲第5番「トルコ風」、後半にベートーヴェンの交響曲第7番。「生と死の舞踏」をテーマにしたコンサートの一環。とても良かった。

 ラモーの曲もなかなかおもしろかった。古楽奏法を取り入れているのだと思う。メリハリがあり、きびきびした中にも歌があり、舞踏があって、良い雰囲気。ただ、この時代の音楽のさしたる興味のない私としては、特に言うべきことを持たない。

 モーツァルトの協奏曲の佐藤俊介のヴァイオリンも素晴らしかった。肩の力を抜いた、いわゆる「草書」的な弾き方を時折織り交ぜる。それがとても魅力的に響く。力んで音楽に立ち向かうのでなく、軽やかに、まさしく舞踏的に。しかし、もちろん雑な感じにはならない。むしろ天国的な音に聞こえる部分もある。カンブルランもそれに合わせて、見事にオーケストラを操る。読響もそれにうまくついていく。がっちりと合わせたというよりも、少し即興的な雰囲気がある。それがこの曲にぴったりと合っている。

 佐藤さんには10年以上前、私が多摩大学で働いていたころ、多摩大学創設25周年コンサートに菊池洋子さんとともに演奏をお願いしたことがある。その時も素晴らしい演奏に圧倒されたが、今回、以前よりもずっと表現の幅が広がっているのがきけて、とてもうれしく思った。

 後半の交響曲第7番は圧巻だった。とはいえ、これも力んでダイナミックに演奏するわけではない。むしろ、細身で、無駄なものはすべてはぎ取ったかのように音楽が進んでいく。先日、千葉で聴いたバッティストーニ+東フィルのダイナミックで豊穣な、まるでオペラのような第7とは正反対の演奏。もっと厳しく、もっと論理的。テンポを動かすわけでもなく、タメを作るわけでもなく、早めのテンポできわめて論理的に音楽を構築していく。しかし、そこに本質的な音のドラマが作られていく。ものすごい力感。読響も実に美しい音を出している。特に第4楽章で何度か感動が身体を走った。

 カンブルランの指揮はとてもわかりやすい。観客にも、どのような音楽を作りたいのかとても良く理解できる。そして、確かにその通りの音が出てくる。舞踏にあふれ、リズムにあふれ、生気にあふれた音楽。

 モーツァルトもベートーヴェンももっと盛り上がっていいと思ったのだが、今日の観客はかなりおとなしかった。私は大変満足した。

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東京・春・音楽祭2018の「ローエングリン」 素晴らしい歌手陣

201845日、東京文化会館で、東京・春・音楽祭の「ローエングリン」(演奏会形式)を聴いた。

歌手陣が世界最高のワーグナーを聴かせてくれた。その中でもやはりローエングリン役のクラウス・フロリアン・フォークトが圧倒的。やわらかい自然な声。少しも力んでいないのにホール中に響き渡る。あまり英雄的ではなく、やさしく人間的な声だが、これも一つのローエングリンのあり方だろう。第三幕の語りの部分はとりわけ素晴らしかった。

オルトルートのペトラ・ラングも声の迫力もさることながら、演技力も圧倒的。強靭な声でありながら、色気もあり妖艶さもある。まさしくふてぶてしく不気味なオルトルート。素晴らしい歌手だと思う。そのほか、律義な悪役テルラムントをエギルス・シリンスが最高の声で歌い、ハインリヒ王のアイン・アンガーも威厳ある王を歌って見事。これらのベテラン歌手たちの中では、エルザのレジーネ・ハングラーはやや若さを感じたが、それでも初々しく、しかも清澄な声で、まったく不満はなかった。伝令役の甲斐栄次郎もほかの主役格にまったく引けを取らなかった。

 ライナー・キュッヒルがコンサートマスターを務めるNHK交響楽団もよかった。第一幕の前奏曲の精妙さはとりわけ感動的だった。第三幕の前奏曲もさすがの迫力。

と言いつつ、実は私はあまり感動できなかった。ウルフ・シルマーの指揮に少々不満を覚えた。シルマーはとてもよい指揮だと思っているのだが、今回は、手際よくオーケストラをコントロールして、小気味よいほどに切り込んでいくものの、ワーグナー特有のうねりや豊かさや官能性を感じなかった。かなり快速で、余裕のないワーグナー。「ローエングリン」なんだから、もう少し音楽に酔わせてほしい。テキパキ進みすぎて、少しも酔うところがなかった。

 感動できなかったのには、もう一つ原因があった。私から近い席の男性(三人組でやってきて、中国語で話していたようだ)が第三幕の演奏中、何度もスマホをいじっていた。どうやらずっと録音していたようだ。しばしばスマホに明かりがつくので気が散った。注意をするには少し席が遠かったが、何度かやめるように言おうかと思った。そう思っていると、ますます音楽に集中できなくなった。

 中国人のマナーはなっていない、などと決めつける気はないが、中国の人がこのような行為をすると、いっそう中国人が誤解されてしまうと思う。

 しかし、私の不満はないものねだりのうちだろう。素晴らしい歌手たちの声を聴けただけでもとても満足な時間を過ごすことができた。

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映画「モリのいる場所」 一本締めの場面に涙しそうになった

 試写会で、映画「モリのいる場所」をみた。素晴らしい映画だった。

 昭和49年(1974年)、94歳の孤高の画家・熊谷守一(山崎努)が自宅で過ごす一日を描く。守一は30年近く、妻(樹木希林)と姪(池谷のぶえ)が三人で暮らすこの家から外に出ずに暮らしている。だが、そこに様々な人が訪れる。人だけでなく、緑豊かな庭に様々な生き物が訪れる。守一は世俗の欲望にとらわれず、やってくる人々を拒むこともなく、利用されることもなく、もちろん利用することもなく淡々と生きる。

この場所は守一の森のような世界だ。生きる者のすべてがやってくる。生命のすべてがある。そこで、守一は庭の石をじっと見つめ、アリなど虫や植物を飽きずに眺めて過ごす。子どもたちを早く失った夫婦は、生きるものいとおしむ。生命を、いやそれだけではなく、自然の作り出す存在そのものをいとおしむ。

言ってみれば、それだけの映画だ。だが、守一の生きざまがあまりに常軌を逸しており、あまりに純粋なので、見るものは、笑い声を上げ、共感しながら、まるで守一がアリに対するように、いとおしい気持ちをもって、この老人の生態を見てしまう。

「ネタバレ」になるので、くわしくは書かない。

 マンション建設の現場責任者(青木崇高)と守一との「一本締め」の場面では涙がこみ上げそうになってきた。

1974年。近代化され、マンションが建設され、社会は豊かになっていった。同時に、自然が壊され、緑が減っていった。自然破壊がようやく問題になりかけた時代だ。時代に必然として自然が都市部から失われていく。だが、どっこい近代化を推し進める側にも、粗野な形ながら、芸術を愛し、自然を慈しもうという心が残っている。守一の精神のようなものは人々の心の中に素朴な形で伝えられていく。それを「一本締め」に感じた。

それにしても、名優ぞろいのキャスト。最初の一言を発する昭和天皇役の林与一がまず素晴らしい。山崎勉、樹木希林の二人はすべての画面が最高の絵画になっている。加瀬亮、光石研、吹越満、青木崇高、きたろう、三上博史。よくぞここまで魅力ある俳優がそろったものだ。このように俳優を輝替える監督沖田修一の演出力に脱帽。映像も美しい。

今の時期にこんなことを言うのは時期尚早だが、少なくとも私の中では、今年の日本映画の主演男優賞、主演女優賞は間違いなく、山崎勉と樹木希林だ。これ以上の演技がありえるなど考えられない。

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METライブビューイング「ラ・ボエーム」2018 さすがMET!

  東銀座の東劇でMETライブビューイング「ラ・ボエーム」(2017-18シーズン)をみた。素晴らしい上演だった。プッチーニを大の苦手とする私が見ても納得できる見事さだった。

演出はこれまで何度も映像化されてきたフランコ・ゼフィレッリのもの。いまさらながらに、その規模の大きさ、その圧倒的なリアリティに驚く。第二幕の二階建てのパリの街の再現など、まさに本物の持つ存在感。コンピュータを使ったデジタル映像ではこうはいかない。

今回は、昔のパヴァロッティやドミンゴやミレッラ・フレーニのような傑出した大歌手はいないが、そうであるがゆえに、むしろとてもまとまりがとてもいい。ミミのソニア・ヨンチェヴァ、ロドルフォのマイケル・ファビアーノ、ムゼッタのスザンナ・フィリップス、マルチェッロのルーカス・ミーチャムがまさしく役柄そのものになり切ったかのよう。パヴァロッティ級の大スターが登場すると、ロドルフォが歌っているというよりも、パヴァロッティがロドルフォを歌っているのを承知で見ることになるが、ファビアーノが歌うと、ロドルフォその人が歌っているかのように感じられる。

ショナールのアレクセイ・ラブロフ、コルリーネのマシュー・ローズも役柄にぴったり。さすがMET。しかも、ラブロフはMETの新人発掘プログラムの研修によって能力を開発した歌手とのこと。こうして次々と名歌手が生まれてくるシステムに驚く。

指揮はマルコ・アルミリエート。かなり手堅い演奏だと思う。しっかりとプッチーニの抒情を聴かせる。一つの演出が時代を通して、その劇場の歴史そのものになり、大きな売り物になっている。そこに登場するすべての人が、スターも、そうでない人も完璧にその役割を演じる。劇場の伝統とはこのようなものなのだろう。

といいつつ、やはり私はどう聴いても、プッチーニの甘いオーケストレーションに違和感を抱き続ける。最終幕、感動的な場面なのだが、私はオーケストレーションが気になって感動に心をゆだねることができない。どうやら、私はプッチーニに感動できない体質のようだ。

 

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今年のラ・フォル・ジュルネに出演するラルス・フォークトのこと

 ラルス・フォークト。

もちろん、ピアニストとしての名前は知っていた。このフォークトが今年のラ・フォル・ジュルネでロイヤル・ノーザン・シンフォニアを指揮し、いくつかのピアノ協奏曲で「弾き振り」することが予定されているというので、久しぶりにサイモン・ラトル指揮、バーミンガム市立交響楽団によるベートーヴェンのピアノ協奏曲第1番、第2番(この2枚組CDにはグレン・グールドによるカデンツァのついた第1番が含まれる!)を聴きかえしてみた。

驚くほどの素晴らしさ! ラトルもいいが、フォークトの若々しくて鮮明でダイナミックなピアノが素晴らしい。

私はオーケストラ好き、弦楽器好き、声楽好きであって、ピアノはあまり聴かない。その私がフォークトの自在でダイナミックでしかも自然なピアノに痺れた。恥ずかしながら、ロイヤル・ノーザン・シンフォニアを弾き振りしているベートーヴェンのピアノ協奏曲集のCDが発売されていることを初めて知って、まず第2番と第4番が収録されている1枚を聴いてみた。すごいのなんの!

アクセントが強く、切れがよくて、バリバリ弾いて音楽を推進していくタイプのピアノなのだが、抒情性も豊かでふくらみがあって、音の一つ一つの粒だちが最高に美しいので、不自然さがまったくない。オーケストラもとてもいい。ピアノについているというだけでなく、あちこちでピアノに対抗した音が出てくる。単にピアニストがピアノを弾いて、オケがそれに合わせているという音楽ではない。別に個性的な指揮者がいるかのよう。第4番の第2楽章は様々なアプローチのできる曲想だが、力強さと繊細さの入り混じったこの演奏に私は心の底から納得した。

あわててほかのCDも注文して聴いてみた。「皇帝」も素晴らしい。もしかしたら、第4番よりもこちらの方がいっそう名演かも知れない。テツラフと共演したブラームスの3つのヴァイオリン・ソナタも名演だと思う。

今年のラ・フォル・ジュルネで、フォークトとロイヤル・ノーザン・シンフォニアのコンサートがいくつも聴ける。5月3日にはベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番「皇帝」、4日には第4番、5日にはショパンのピアノ協奏曲第1番の弾き振りを聴くことができる。また、フォークトはハイドンやモーツァルトの交響曲、そして、ショスタコーヴィチの室内交響曲作品110a(原曲はあの弦楽四重奏曲第8番!)を指揮する。これも私は大いに関心を惹かれる。間違いなく、指揮者としても一流なのだと思う。

来月開かれるラ・フォル・ジュルネが俄然楽しみになってきた!

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中日新聞・東京新聞の連載「65歳になったら、○○しなくていい宣言」が無事終了

 昨日、2018年3月31日をもって、1月4日から始まった中日新聞・東京新聞での「65歳になったら、○○しなくていい宣言」の連載が終わった。3か月、60回の連載だった。

 お読みいただいた方、気にかけていただいた方にお礼を申し上げたい。おかげで、とても好意的な便りが寄せられ、私としては大変励みになった。

 東京新聞からお話をいただいたのは昨年の夏ころだった。実はそれよりも前に、まったく別のテーマによる短い連載のお話を東京新聞からいただいていた。が、ちょうどそれは高齢の両親が東京の老人施設で暮らし始め、父が急激に体調を悪化させていた時期だった。連載どころではなかったので、残念ながらお断りするしかなかった。

その後、父が亡くなり、東京新聞に機会を与えていただいて、父の死を契機にして考えた高齢者の生き方の問題をコラムに書いた。そして、その流れで、今回、高齢者の生き方にかかわる60回の連載の話になったのだった。

 私はまだ66歳。高齢者の仲間入りをしたばかりで、高齢者の生き方をまさしく模索している時期だ。だから、高齢者に向かって生き方を説くことはできない。これまで大学受験生や小学生や若い社会人に向けて、文章術を教えたり、ちょっと戦略的な生き方を提唱したりしてきたが、まさか高齢者の戸口にいる私が本物の高齢者に向かって、そのようなことをするわけにはいかない。する能力もなければ、その度胸もない。

 ただ、私は65歳になってからではなく、もっと前から、「できるだけ、しなければならないことを減らそう」「産業社会にどっぷりつからずに、質素でいいので、自分らしい人生を貫こう」「好き勝手に生きよう」と考えて生きてきた。そもそも、この私のブログのサブタイトルにしている「すべての道がローマに通じるなら、ドン・キホーテよ、デタラメに行け!」という新居格というアナキストの言葉は、私のそんな生き方を表わしたものだ。受験勉強もろくにしなかったし、企業で働いた経験もない。ほとんどの時期をフリーランスとして暮らし、56歳になってやっと大学という組織に属した。40歳代のころだったか、小さな会社を設立したが、私は社長なので、気分はフリーランスのままだった。もちろん、必死に働かなくてはならない時期はあったが、ずっと音楽を楽しみ、本を読み、旅行をしてきた。自分を抑えて「・・・しなければならない」とはほとんど考えなかった。したくないことはしなかった。

 私は常々、多くの人が社会的義務に駆られて必死に生きているのを不思議に思っていた。自分の人生や社会の様々なことから距離を取って、余裕をもって生きれば、もっとずっと気楽に楽しく生きていけるだろうにと思っていた。壮年の働き盛りの人は仕方がない。だが、高齢者になってもまだ同じことを続けている人がいる。考え方さえ変えれば、もっとずっと気楽に生きることができるのに、自分を追い込んでいるように見える。

 私は65歳を過ぎ、高齢者になっていくが、今までの生き方を改める気はない。いや、ますます、私のような考えが高齢者にとっては意味を持つはずだ。そのような私の考えを書けば、もしかしたら、高齢の方々への私からのメッセージになるかもしれないと思った。

 こうして連載を引き受けた。私のメッセージがいくらかでも役に立てば、私としてはとてもうれしい。なお、この連載は今年の夏までには書籍化される予定になっている。関心がおありの方には、書籍をぜひ読んでいただきたいと思う。

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