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カタリーナ・ワーグナー演出の「フィデリオ」に感動!

2018530日、新国立劇場で「フィデリオ」を見た。指揮は飯守泰次郎、演出はカタリーナ・ワーグナー。

このブログにも何度も書いている通り、私はオペラの演出についてかなり保守的な人間で、いわゆる「読み替え」演出は大嫌いなのだが、バイロイトで見た「マイスタージンガー」に引き続き、今回もまたカタリーナ・ワーグナーの演出にとても感動したのだった。

が、その前に演奏について少し書く。

2階建て、3階建ての舞台のためか、歌とオーケストラが合わないことが多いと感じた。歌手たちは指揮をきちんと見られないまま歌っているのではあるまいか。第2幕になって歌とオケが合い始めたのも、歌のほとんどが1階になったためもあるのだと思う。

歌手については、やはりフロレスタンのステファン・グールドが圧倒的。伸びていく芯の強い美声で音量も申し分ない。ただ、もちろん息たえだえのフロレスタンのわりに元気すぎて、まさしく英雄的だが、それはオペラの宿命として致し方ないだろう。レオノーレのリカルダ・メルベートも立派な声。そして、今回、メルベートにまったく劣らぬほど素晴らしいと思ったのが、マルツェリーネを歌った石橋栄実。きれいな声で、しかも音量豊か。こんなすごい歌手が日本にいたなんて!

そして、三澤洋史の合唱指揮による合唱についても特筆するべきだろう。このオペラの合唱がこれほどの名曲だったと初めて気づいた。囚人の合唱も、最後の合唱もとてもよかった。厚みがあり、音程がよい。

ドン・ピツァロのミヒャエル・クプファー=ラデツキーは声の質は悪役っぽくていいのだが、音量が少し物足りない。ジャキーノの鈴木准、ロッコの妻屋秀和、ドン・フェルナンドの黒田博、囚人の片寄純也、大沼徹ももちろん健闘。

 オーケストラについては時々金管のミスが聞こえてきた。また、弦楽器も精妙とはいえない音だった。しかし、徐々に盛り上がって、第二幕で演奏されたレオノーレ3番は素晴らしかった。マエストロ飯守のこの曲の演奏は何度か聴いているが、私は毎回、感動する。底力のあるドラマティックな音楽が展開される。

 しかし、今回、やはり何より私が感動したのは演出だ。

 第1幕のテーマは「春」だと思った。マルツェリーネは花が咲き、人々が愛を歌う春に憧れている。フロレスタンは地下牢にいて女性への思いを忘れられず、マンガチックな女性の絵を描く。ピツァロも実はレオノーレにあこがれているらしい(どうも、ピツァロは恋敵であるためにフロレスタンを陥れたという設定のようだ)。だが、オリジナルとは異なって、カタリーナ・ワーグナー演出では、春は憧れであるばかりで、実際には訪れない。囚人たちは暖かくなった春の日差しを受けることが許されずに、暗い牢獄につながれたままで歌う。

 そして、第二幕。私は予備知識なしで見たのだったが、フロレスタンがピツァロに刺されて殺されるのでびっくり! レオノーレまでもレオノーレ第3番が演奏されている間に刺殺されてしまった! 第2場では、黙役のフロレスタンとレオノーレが登場して舞台が進むが、死者である二人が墓場から声を出して歌うという設定になっている。

 第2場に登場するドン・フェルナンドは人々に自由をもたらす解放の使者ではない。強圧的で権威主義的な人物であって、おびえた囚人たちを選別して釈放する。囚人たちは解放の歌を歌うが、実際には暗いところにいるままで解放されない。舞台の奥で希望が輝いているが、現実には人々は解放されているわけではない。そして、最後、ドン・フェルナンドは地位を保ったピツァロと友好関係を結ぼうとしている。

 カタリーナ・ワーグナーのメッセージは、以下のようなものだろう。

 ベートーヴェンが「フィデリオ」で歌い上げた自由の歌は、単なる憧れでしかなかった。その後のドイツ、そしてヨーロッパの歴史を見れば明らかだ。ベートーヴェンの時代の後にこそ、いっそう強圧的で抑圧的で独裁的で残虐な権力者たちが登場し、人々の人権を蹂躙したではないか。第2幕第2場の解放の歌は実現することはなかった。ドン・フェルナンドは実は解放をもたらしたのではなく、もっとひどい社会をもたらした。自由と解放は夢でしかなかった。

 カタリーナ・ワーグナーはそのようなメッセージを実に的確に伝える。そして、私がこの演出家に驚嘆するのは、確かに「フィデリオ」というオペラにはそのような面があることだ。

このオペラのストーリー自体、あちこちでほころびがあり、不自然であり、無理やりのところがある。機は熟していないのに、ベートーヴェンが理念を強引に歌い上げたようなところがある。このオペラが完成されたのも、まさにナポレオン時代から反動時代へと移り変わろうとしている時代だった。実際には暗い時代の幕開けであったのに、ベートーヴェンは力づくで自由への憧れを歌い上げた。そのことをカタリーナ・ワーグナーは見事に捉え、オペラの中に結晶させている。

 繰り返す。私はオペラ演出については保守的な人間だ。読み替え演出は嫌いだ。だが、私はカタリーナ・ワーグナーの演出は「読み替え」だとは思わない。私が「読み替え」と思うのは、原曲にはない演出家の自分勝手なメッセージをオペラに託して語ろうとするものだ。カタリーナ・ワーグナーは現在から見た「フィデリオ」というオペラの本質をえぐりだす。ほかの人が気づかなかったこのオペラの特質を見せてくれる。明らかにほかの演出家の「読み替え」とは根本的に異なるものだと思う。私はカタリーナ・ワーグナーの演出に接すると、オペラ演出の力を強く痛感する。いやあ、ワーグナーのDNA恐るべし。

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音楽」カテゴリの記事

コメント

 樋口先生の感想に共感します。第1幕を観たときには,カタリーナの演出は非常に説得力があると思いました。第2幕の展開にはなかなかついて行けず,終演時には思わずブーイングをしたくなりましたが,時間がたつにつれて,じわじわとカタリーナの問題提起の重さを感じるようになりました。ベートーヴェンの作曲の時代においては,とても作曲者の意図を体した演出とはいえないと思いますが,21世紀の現時点でベートーヴェンに意見を求めれば,おそらくポジティブな反応が返ってくるのではないでしょうか。特に,今日,ヨーロッパやアメリカで民主的な手続によって,およそ自由主義や民主主義と相容れない指導者が登場している状況の下では,カタリーナの演出は非常に説得力があると思います。今日的状況の下で,脳天気なハッピーエンドの結末にどれほどの意味があるのかと考えさせられました。

投稿: 夕日のジュリー | 2018年6月 1日 (金) 00時14分

夕日のジュリー 様
コメントありがとうございます。
「脳天気」(私は「能天気」だと思っていました!)、おっしゃる通りだと思います。「フィデリオ」の第2幕第2場は、ベートーヴェンにしてはあまりに脳天気ですよね。オペラとしてのリアリティがなく、まるで一昔前のオラトリオのようです。カタリーナ・ワーグナーもそこに違和感を抱いてあのような演出にしたのだろうと思います。カタリーナのものすごい慧眼ですよね!

投稿: 樋口裕一 | 2018年6月 1日 (金) 23時56分

樋口先生
残念ながら共感できません。
好事家の私にとっては、弁慶と義経が富樫に殺されたようなものです。きっとベートーヴェン先生は怒っています。
この時期愚作とは言われていますが「ウェリントンの勝利」、ナポレオン戦争に勝利し一応ウイーン会議など行われ、祝典的交響曲第七番、さらには第九につながる愛と希望の讃歌を標榜していたはずです。原作者ブイイ、台本のゾンライトナーは愛と希望と勇気を書き込んだはずでありベートーヴェンはそれに共感したからこそオペラに採用したのではないでしょうか。

投稿: 豊島健次 | 2018年6月 4日 (月) 12時38分

豊島健次 様
コメント、ありがとうございます。もちろん、お気持ちはよくわかります。
ただ、カタリーナは「現在からみた演出」を心がけているのだと思います。現代の人間が鑑賞するものである以上、過去のオペラを初演したままの状態で見ることはできませんし、そうするべきではないと思うのです。現在からみたそのオペラの意義を示すのが演出家の使命だとも思います。
その後の世界の歴史を知った目から「フィデリオ」を見ると、あまりに不自然で能天気に見えるのは事実です。その後、ヒトラー、スターリンなど残虐な独裁者が登場し、今も世界のあちこちに人間を抑圧する独裁者が存在します。日本社会にも形を変えた抑圧があります。それを無視して、まるで自由が訪れたかのようなオペラを作ってよいのか。そんな問題意識によってあの演出が生まれたのだと思います。カタリーナの演出によっても、ベートーヴェンの自由への思いについては十分に歌われます。ただ、それが舞台上では実現していない。それがカタリーナの選択だったのだと思うのです。
とはいえ、もちろん豊島様がカタリーナの演出を認めないこと、私のブログに共感なさらないことは、それもまたとても大事なことだと思います。様々な意見があってこその自由社会であり、芸術ですので。反論を書いてくださったこと、とてもうれしく思います。

投稿: 樋口裕一 | 2018年6月 5日 (火) 08時40分

樋口先生
多様性の許容とともにコメントしていただきありがとうございます。
私はベートーヴェンを聞くときナポレオン戦争、メッテルニヒ、ハイドン、サリエリ、シューベルト・・・の時代、ケルントナートーア劇場、アンデアウイーン劇場に通ったであろう「ゴットリープ・ビーダーマイヤー」になりきって想像の世界に遊ぶのを趣味の一つとしています。
先日2018年6月2日の新国立劇場は私にとっては1814年5月23日若きシューベルも観客の一人としていたウイーンのケルントナートーア劇場でした。
この種の遊びはウイーンやプラハのオペラハウスの方が街並み、建物、観客のおかげで容易にタイムスリップでき楽しめます。
これを台無しにしてくれたので「ゴットリープ・ビーダーマイヤー」とベートーヴェン先生は怒ったのです。
数十年前初めてパリのガルニエでオペラを見て以来こうして楽しんでいます。
こんな風変りなやつもいることを演出家諸氏に言いたいのです。
長々と失礼しました。
豊島拝

投稿: 豊島健次 | 2018年6月 6日 (水) 11時43分

豊島健次 様
コメント、ありがとうございます。
おっしゃることはよくわかるのですが、現在の演出ではなかなか豊島さんの願いをかなえるのはむずかしいでしょうね。演出家たちは個性を出さないと注目されませんので、目新しいことばかりしようとします(その中には、何人か私が驚嘆する演出家もいるわけですが)。歴史を味わおうとすると、演奏会形式か家で目をつむってCDを聴くしかなさそうです。
以前、ドロットニングホルム宮廷劇場で、かつらをかぶった宮廷風のオーケストラ団員が演奏し、昔ながらの演出がなされていたと思います(LDの時代でしたか、エストマン指揮のモーツァルトのオペラを何本か映像で見ました)。今も同じようなことをしているとすれば、私もぜひ見たいと思います。

投稿: 樋口裕一 | 2018年6月 7日 (木) 09時47分

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