過酷な夏のパキスタン旅行
2018年6月20日から25日まで(ただし、20日の夜にイスラマバードに到着し、24日の深夜にラホールの空港を出発した)、パキスタン旅行をした。
今となっては、なぜ6月にパキスタンに行こうと思ったのか忘れてしまった。今年の初め、仕事が空いた時期に海外に出かけたいと思い、いくつかの旅行を手配した。その一つがパキスタンだった。旅行会社の広告を見るうち、最低催行人数1名のハラッパなどの遺跡見物のツアーを見つけて申し込んだのだった。
ただ、結論から言うと、この時期にパキスタンに行ったのは、私の思慮不足だった! 6月はもっとも暑い時期だった。毎日、気温40度近くあった。最終日は、41度を経験した。こんな暑い時期にパキスタンに行くと観光どころではない。無知というべきか、私はパキスタンがこんなに暑いところだとは知らず、しかも、6月がもっとも暑い時期だとは知らなかった。それに、少々暑くても、冷房の効いたホテルやレストランや車に逃げ込めば、なんとかなると思っていた。が、パキスタンではそれが通用しなかった。
ともあれ、外には発信できなかったが、早く目が覚めた時など、その日の出来事をパソコンに書いていた。日記風に旅行の印象を記すことにする。
6月20日
イスラマバードに到着。
到着したのが22時過ぎで、そのままガイドさんに連れられてホテルに来ただけだから、まだ街の様子はまったくわからない。かなり暑いが、覚悟していたほどではない。30度くらいだろう。先月だったが、パキスタンはどんな天候なのだろうかとふと思ってネットで調べてみたら、1週間ほど毎日が最高気温46度、最低気温32度前後になっていて恐れをなしたが、今はそのようなことはなさそう。この1週間では最高気温が40度程度の予報が何度かなされている。
バンコクのイスラマバード行きの便に並んでいた時から、乗り込む人たちはバンコクの人々とまったく雰囲気が違っていた。顔つきが西洋風だし、服装もイスラム風。とはいえ、スカーフをしていない女性もいる。みんなゆったりしている。通路を歩くときも急ぐ様子がない。ほかのどの国でも、飛行機が着陸し、シートベルト着用のサインが消えると、少なくとも通路側の客はほぼ全員が立ち上がるものだが、立ち上がるのは少数派。
もうひとつ、飛行機の中で思ったのは、子どもが多いこと! 子ども連れの客が多い。必然的に、あちこちで泣き声が上がる。音に少し神経質な私としてはつらいが、こちらの人は気にしている様子もない。きっとこれが日常なのだろう。そして、きっとこちらのほうが当たり前の社会なのだと思う。
新しいきれいな空港。パスポートコントロールに並んだが、これも恐ろしく時間がかかる。日本以外のいろいろの国でそれを感じるが、ここは特別。ビザが必要で、検査が厳しいということなのだろうが、それにしても。何人か、パスポートの不備があるらしくて、別のところに連れられていかれたが、そんなこんなで一人につき、短くて2,3分、長いと5分以上かかる計算だった。外に出られたのは23時くらいになっていたかもしれない。
空港の出口はほかの都市と大差がない。ガイドさんと会って、日本車でホテルへ。高速道路を通る。車のマナーは悪くない。そんなに急がないせいだろう。途上国でこれほど交通マナーがいい国は珍しい。銃を持った警官が空港や道路のあちこちで目に入る。
30分ほどでホテル。あまりよいホテルではないのだが、入口に銃を持った軍人がいて、荷物検査、身体検査を受けて中に入る。ホテルはそれなりの設備が整っているが、あまり清潔ではない。あちこちにごみがたまっている。これからの旅行が少し不安になってくる。
そのまま就寝。
6月21日
朝、5時ころに目が覚めた。ちょっと周囲を散歩することも考えたが、いちいち検査を受けて出入りするのも面倒くさい。
ホテルで朝食をとった。バイキング式だが、日本や西洋のものと異なる。カレーが中心で、フレンチトーストやら、穀物を固めたものやらがある。カレーはおいしいが、67歳の人間には、朝からカレーはつらい! ハム、ソーセージ、サラダ、パン、ジャムなどはない。コーヒーはインスタントのみ。久しぶりにインスタントコーヒーを飲んだが、意外においしかった。
9時にロビーで待ち合わせて、ガイドさん(50代男性)と運転手さん(50代後半の男性)に連れられて、イスラマバード観光に向かった。ツアー客は私一人。このところの私の代理店を使ってのツアー旅行はこのタイプだ。
暑さに備えて、生まれた初めて日焼け止めクリームを塗り、サングラスをかけ、帽子をかぶって出かけた。
イスラマバードの人口は70~80万人程度だが、近郊を加えると数百万になるという。1960年代に、カラチに代わって首都に指定し、人工的に発達してきた都市だ。
最初に訪れたのはシャー・ファイサル・モスク。現代的なデザインの真っ白な大きなモスクで、10万人が礼拝できるという。作られてまがないが、イスラマバードの人の信仰の中心になっている。
私が訪れたのは9時過ぎであって、朝の礼拝が終わって静まった後だった。すでに33度か34度はあろうという暑さ。はだしになってモスク内に入ったが、ところどころ足の裏が焼けそうなところがある! 手すりの鉄は熱くて触れない! 礼拝所なのに、ごみがあちこちに落ちており、汚れが目立つ。モスクの外にはお菓子の袋や食べ終えて捨てたトウモロコシなどがあった。礼拝所に入ると、さすがに大きなごみはないし、暑さからは解放されたが、それでも床には細かいものが落ちているし、砂のようなものでざらついている。礼拝を終えた人や観光にやってきた人が、そのあたりに寝転んだり、話し込んだりしている。そこには、1000人以上が礼拝できる女性専用の部屋があるとのことで、女性もちらほら見かけた。男性はふつうに1万人以上が入ることを想定しているらしいので、基本的に礼拝所は男性のもののようだ。
見物を終えてダマネコー展望台に行った。子どもの遊園地にもなっている。子ども連れもいたが、一番多いのは男性数人のグループで、女性数人のグループも時々いた。男女のカップルはまったく見かけない。そういう社会のようだ。ガイドさんに聞くと、「いえ、よく男女で出かけますよ」というのだが、一日あちこちを歩いて、気づいた限りでは一組も見かけなかった。
35度前後だが、高台には風があって心地よかった。イスラマバードの町は、緑が多く道路も広く、住み心地がよさそう(暑さを除けば!)。
その後、タキシラに向かった。途中、テレビや映画などで見たことのある派手な彩色のなされたトラックをたくさん見かけた。中国、インドの間を行きかっているらしい。重い荷物を載せているらしくて、のろのろと走るトラックも多い。そもそも、インド製のあまり性能のよくないトラックなのかもしれない。馬やロバが荷車を弾いているのもしばしば見かける。ここでは、動物が現役で働いている。草むらには牛や羊もいる。
タキシラは郊外にある遺跡のある町だ。紀元前から紀元後にかけての仏教遺跡が見られる。初めにタキシラ博物館で全体像を見てから、世界遺産になっているジョーリヤーン遺跡とシルカップ遺跡を歩いた。
ジョーリヤーン遺跡は小高い山の上にあり、階段がついている。その時、スマホで見ると気温は37度。ものすごい日差し。石の照り返しもすさまじい。もちろんこれまで経験したことのない暑さというわけではないが、私は元来、怠惰で根性なしなので、こんな暑さの中で何かの活動をしたことはない。が、ここまで来て上まで行かないわけにはいかない。
上に登るまでに二度ほど休憩した。熱中症寸前だという気がした。頭がふらふらしてきた。私だけでなく、私よりも若く、しかも職業上、このような運動に離れているはずのガイドさん(ちょっと腹は出ている!)も、私以上にハーハーヒーヒ―いいながら自分から「ちょっと休みましょうよ」と言い出した。時間は計らなかったが、かなりの時間をかけて遺跡まで登った。紀元2世紀にたてられたストゥーパの後と僧院の跡がある。あちこちに土の仏像が残されているが、首が取れているものも多い。石だけになり風雨にさらされているが、そこで暮らした信仰心あつい人の思いはわからないでもない。ここは撮影禁止のため、写真を撮れなかった。
ただ、それにしても暑い。ガイドさんの説明も少々投げやり、聞くほうも投げやり。汗が吹き出してどうにもならない。客は私たち以外に誰もない。丘の下の川で子どもたちが水浴びをする声だけが聞こえている。
その後、車でシルカップ遺跡に移動。紀元前2世紀の都市の遺跡で、広い土地に屋敷や家の土台などが残されている。入って左側に店の跡が並び、右側に一般住居の跡が残っているという。ところどころにストゥーパ跡があり、寺院跡がある。2~300メートルの距離だと思うのだが、ところどころ遺跡をのぞきながら、メインの通りを行って帰ってくるだけで疲労した。ここにも客は私たち以外にいなかった。係の人が数人とお土産物売りが一人いただけ。鳥が数匹、鳴き声を立てて、舞っていた。
その後、イスラマバードの隣の市に当たるラーワルピンディに行き、マーケットを見物し、私の欲しいもの(アルコール、民族音楽のCD)を探した。口に出しては言えないことかもしれないが、アルコールは何とか手に入れた。この国でアルコールを入手するのはなかなか難しいようだ。私は寝酒がないとどうしても眠れず、酒好きというよりは、眠るための必需品としてアルコールを求めたのだった。
ラーワルピンディの繁華街にもいった。小さな商店が立ち並び、人でごった返している。秋葉原のような電化製品を売る店が並ぶところもあり、洋品店が並ぶところもある。露店のような店も多い。そこにたくさんの車やバイクが駐車され、その横を人が歩く。道路を横切ろうにも横断歩道がないので、行きかう車の隙間を縫って向こう側にわたる。
繁華街を歩いて気付いたことがある。女性用の洋品店がいくつもある。ところが、売り子は100パーセント男性、客も男性の方が多い。そもそも女性をあまり見かけない。食料品店が集まっている区画になって女性を多く見るようになった。
その後、ツアーのプログラムに含まれているパキスタンの一般家庭に招かれての食事をごちそうになった。一般家庭といっても大豪邸だった。とても上品な家庭に招かれ、上品な食事をごちそうになった(プライバシーにかかわるので詳しくは書かない)。とてもおいしかったし、感じよく対応してくれたが、果たしてこれが一般家庭といえるかどうか。
ここでも、食事を作ってくれるのは奥様らしいが、私に対応してくれたのはその家の二人の息子さんだった。奥様やお嬢さんは顔を出さなかった。そういう社会なのだろう。
その後、同じイスラマバード市内のホテルに戻って寝た。
2018年6月22日
8時にロビーでガイドさんと待ち合わせして、すぐに車でラホールに向かった。幹線道路を進む。
バイクがたくさん通っている。2人乗り、3人乗りは当たり前。4人乗っているバイクも多い。ときどき、5人が乗っていることもある。小さい子どもが抱かれていることも多い。ほかの東南アジアでもかつて見かけた光景だが、それにしても、これほどたくさんの3人乗り、4人乗りを見かけるのは初めてだ。運転しているのは男性。女性は一人もみなかった。男同士か家族(つまり、夫婦と子ども)が多い。
もう一つ気づいたことがある。幹線道路が日本の鉄道のように街を寸断しているようだ。幹線道路に基本的に交差点はない。したがって、信号もない。道路の中心には中央分離帯があるが、ところどころにUターンのために分離帯の途切れた個所があり、そこでUターンして戻る仕組みになっている。しかも中央分離帯が途切れるのはごくまれであって、ほとんどずっと分離帯があり、そこは1メートルほどのコンクリートの壁になっている。人々はその1メートル程度のコンクリートの塀を乗り越えて道路を渡っている(おそらく法律違反なのだろう)。ときには、おそらく後になって住民が無理やりハンマーを使ってコンクリートを壊して、通り抜けられるようにしたらしいところもある。かなり非人間的な道路だと思った。
ともあれ、そのような道路を通って、時速80キロから100キロくらい出しながら、ロータス・フォートに行った。16世紀にできた要塞だ。城壁が残されている。フランスのカルカッソンヌを思い出すような城壁。観光客はほとんどいない。そのせいか、入り口でパスポート検査を受けただけならともかく、その後、銃を持った兵士が私とガイドにずっとついてきた。ガイドさんに私が質問すると答えられずに、ガイドさんがその兵士に尋ねたら答えてくれた。そのあと、その兵士がガイド役をしてくれた。1時間ほど、城壁内を歩いた。
ラホールはカラチに次ぐパキスタン第二の都市で、人口は1000万程度とのこと。
ラホールに入った途端に車が増え、バイクもますます増える。ほとんど道をぎっしりと車やバイクが埋めることになる。乱暴な運転も増える。無理な割込み、ぎりぎりの場所でのすり抜けなど、数限りなく見かける。
リキシャ(バイクにリヤカーのようなものをつけたタクシー)やクンキー(リキシャのようなもの。ただ、中国製のバイクを使ったものを特にこう呼ぶらしい)が行きかっている。どれも一様に薄汚く、ぼろぼろのほろがついている。一人か二人で乗っている客は少ない。子どもを抱いて、6人か7人、場合によってはそれ以上の人がぎっしり乗っている。バイクの後ろに小さな子供を抱いて乗っている女性も多い。ちょっと急ブレーキがかかったら、子どもを落とすのではないかと心配になってくる。
道の両側には、店が並んでいるが、おしゃれな店はほとんどない。よくて、薄汚いレンガ造りの1階建てが2階建ての小さな家に店を開いて、そこに食料品やバイク用品などが並んでいる。ひどいところになると、店の前に水たまりがあったり、ごみためのようなものがあったりして、日本人にはボロ家としか見えないような建物が立っているような店だ。
ホテルに入る前に、インドとの国境であるワガでパキスタンとインドの両方の国旗降納式を見に行った。国旗を降ろすセレモニーだというので、ロンドンのバッキンガム宮殿のような儀式だろうと思っていったら大違い。
到着したのは16時少し前。開始が17時と聞いていたので、ゆっくりと会場に向かった。気温は39度。曇り空。曇っていてこの気温なのだから、快晴だったらどんな恐ろしいことになるんだろう!
大勢の人がやってきていた。厳重な荷物検査(3か所で機械を通され、パスポートもチェックされた)を受けて、10分ほど歩いて国境に行くと、まるでスタジアムのようになっていた。1万人かそれ以上収容できるようなスタンドがあり、そこに人が埋まっている。
すでに数千人の客がサッカー場のような椅子に座っていた。ここでも女性だけで来た客のために女性専用のコーナーがある。続々と客がやってくる。その間、大音響でノリのよい音楽がかかっていた。
私がガイドさんとともに席についてすぐ、中心部分でアイドルっぽい男の子があらわれて踊り始めた。姿かたちはよいが、踊りは見ていられないレベル。すぐに片足の不自由な男性が踊りはじめた。こちらの男性は驚くべき身体能力を見せて、くるくる回ったり飛びはねたりしている。観客は大拍手。
その間、多くの観客が儀式用の制服を着た兵士と並んで写真を撮ってもらっているひともいる。記念撮影をする人々も多い。客の多くが子供連れで、まさに子供連れでサッカー観戦に訪れている雰囲気。物売りもやってくる。お菓子や水類が売られている。
大音響の曲によっては一万人を超す観客が強く反応する。大声を出す人がいる。一度はみんなが立ち上がって歌い出した。パキスタン国歌だとのこと。アイドルっぽい少年や初老の男性が観客席に向かってあおって、拍手を促すなどの指示をする。まるでサッカー応援の雰囲気。音楽が途切れている時には、「パキスタン万歳」などの叫び声が上がる。
17時開始と聞かされていたのに、セレモニーが始まったのは18時だった。つまり、2時間、39度の気温の中で音の割れた音楽と下手な踊り(2時間近く、この暑さの中で踊るのは恐るべきことだと思うが)と観客の叫びの中で過ごした。私としては少々閉口した。ただ、面白いのは、国境に向こう側のインド領でもそっくり同じようになされているらしいことだ。やはり大勢の人が集まり、音楽をかけ、中心部分で人が踊り、それをリードしている人物がいる。
セレモニーは次々と儀式用の軍服を着た兵士が行進するだけ。背の高い兵士たちが頭の上に扇子のような飾りをつけているので一層長身に見える。その兵士たちが足を自分の身長ほどの高さに挙げて歩く。背が高くて足が高く上がる兵士がここではスターだ。兵士が現れるごとに大喝采が起こる。私には何が面白いのかさっぱりわからないのだが。国境の向こうでかろうじて見えるインドの側でも、服装は違うものの、そっくり同じようにしている。同じような扮装、同じような歩き方。
次々と兵士が現れ、国境の門が開き、それぞれの旗がおろされた。その間、太鼓が鳴り、門の上で兵士がマイクで大声で何かをしゃべる、シュプレヒコールのようなものだ。そして、大声でワーという声を長く続けた。何事かと思っていたら、パキスタンとインドでどれほど声が長く続くかを競い合っているらしい。それを何度も繰り返す。パキスタンの兵士のほうが声が長く続くようで、1回を除いてそれ以外はすべて(5、6回だったと思う)パキスタン側の価値だった。インドの兵士の声が途切れたとたんに観客席から大喝采が起こる。
要するに、パキスタンとインドがそれぞれ全く同じことをして競い合っているわけだ。セレモニーが一つの大イベントになり、スペクタクルになっている。
パキスタンとインドはカシミール地方の領有権などの問題で長く扮装を続けてきた。今も決して関係がよいわけではない。そんな中、このような同じルールに基づいて競い合っているのは、それはそれで平和なことで、好ましいことだと思う。それにしても、このようなイベントが毎日行われ、毎日大勢の客を集めていることに驚いてしまう。
セレモニーが終わって、ラホールのホテルに入った。またしても、銃を持った軍人が警備をする。車のボンネットとトランクも開けて調べられる。もちろん荷物検査と身体検査を受けて中に入る。部屋はとても快適。
2018年6月23日
朝8時に出発して、ハラッパに向かった。ハラッパ、モヘンジョ・ダロという言葉は、昔々、高校生の頃、世界史で習ったが、どんな所かイメージできなかった。今回、モヘンジョ・ダロは遠いので行けないが、ハラッパには行ける。というか、ハラッパに行ってみたくて、パキスタン旅行を決めたのだった。
車で3時間。私の乗る車の運転手さんは決して乱暴な運転ではないし、この国の車がひどい運転をするわけではないのだが、日本人からすると、やはりあまりに無謀な運転。時速100キロくらいで走っている時も、前の車の1、2メートルのところまで近づいて、その車が別車線に移動するように仕向ける。先頭の車がなかなかどかないと、そのようにして何台もの車が縦列駐車のようにして時速80キロから100キロくらいで走っていたりする。そうやって、自動車専用道路やら一般道(ほとんど信号はないので、一般道でも100キロくらい出せる)やらを進んだ。
途中、ハプニングがあった。ヤギが道路に出てきたために前の車が急停車した。私の乗る車もすぐに急ブレーキをかけ、左のハンドルを切った。ところが、目の前にヤギが現れ、ぶつかった。ただ、軽くぶつかっただけだったようで、車の損害はなく、ヤギも逃げ去っただけだったようだ。道路わきにはラクダや牛や羊やヤギがいて、時々道路上に出てくる。
そうした運転上のスリルを別にすれば、木々が連なり、麦やトウモロコシの畑が続く平和な風景だ。朝方雨が降ったおかげで、午前中はそれほど熱くなかったが、天気は回復して、ハラッパに着いた時には37度になっていた(ちなみに、帰りに運転手さんの休憩のために寄った場所は、ネットで見ると39度とのことだった!)。
ハラッパの博物館を見て、遺跡に向かった。紀元前3000年以前から成り立っていた都市遺跡で、1920年代から発掘されているとのこと。数か所にわたって、富裕層の住居跡、労働者の住居跡、倉庫跡などがあり、それらが当時のレンガ(復元のために新しいものも加えられているらしい)が見られる。ただ、赤茶けた土の上にレンガが並んでいるだけなので、専門家ではない人間には、これまで見たことのあるギリシャのミケーナイ遺跡などとどこが違うのかさっぱりわからない。まあ、ともあれ「見た!」ということで良しとしよう。
なにしろ気温37度。立っているだけでもつらいのに、1時間近くかけて回ったので、汗だくで、大げさに言うと「ふらふら」の状態。車に乗って冷房をガンガンにかけてもらって、しばらくしてやっと回復した。
その後、途中で現代的な建物のレストランで食事。パキスタン料理はなかなかおいしい。が、気温37度の炎天下、1時間ほど歩いて、へとへとになり、頭がくらくらし、胃もむかむかしていた直後に食欲が出ようはずがない。しかも、実は私は21日の夜から胃をこわしていた。夜中に嘔吐した。それ以来、刺激の強い食事は避けようとしてきた。が、パキスタンに胃にやさしい料理はないようだ。
ガイドさんにお願いして、刺激の少ないものにしてもらうが、食べてみると、辛くて油濃くて胃に負担が大きそう。22日の昼には、メニュに「チャイニーズ」の料理もあると記されていたので、中華麺なら胃にもたれないだろうと思って「ヌードル」を頼んだたら、運ばれてきたのは焼きそばで、しかもパキスタン味だった! 今回も半ばあきらめ気味に、「魚」と頼んだら、出てきたのは、これまたカレー味の魚フライだった。食べてみたら大変おいしかったし、食べるうちに食欲がいくらか回復しているのを感じたが、それにしても、こんなに暑い時には日本人なら、そうめんかざるそばにしたいと思うところなのだが、なぜこちらの人はこんなものばかり食べるのか。パキスタンにだって胃の弱い人がいるだろうに!と思ったのだった。
ともあれ、夕方、無事にラホールのホテルに到着。一休みして、今度はガイドさんに連れられて、ラクシュミ・チョークという繁華街に夕食に行った。多くの人でごった返し、料理店が立ち並ぶ界隈。たくさんの人が車やバイクでやってきて、狭いところに無理やり駐車して大混乱しているが、こちらの人にとっては当たり前の光景のようだ。「胃は回復した」とガイドさんに言ったせいではあるのだが、これまた刺激の強いマトンとチキン。とてもおいしかったのだが、私はガイドさんと運転手さんの三分の一も食べられなかった。ラホールの同じホテルに宿泊。
6月24日
朝から暑い。それまでの2日間は、朝方は曇り空だったり、雨だったりで、朝の9時には30度を少し超えたくらいだったが、今日は快晴で、9時にホテルを出る時にはすでに36度。そのままラホール市内のラホール・フォートに向かった。まずはフォートの横にあるバードシャーヒー・モスクに行った。ムガール時代のモスクで、赤い石でできているが、形はインドにあるタージマハールにちょっとだけ似ている。日曜日なので各地からの観光客が来ていた。裸足で歩く。太陽に照り付けられた石が焼けているために人の通る道に絨毯が敷かれていたが、そのうえでもかなり足が暑い。絨毯の途切れるところは仕方なしに石を上を歩いたが、やけどしそう。
その後、すぐ近くにあるラホール・フォートをみた。ムガール帝国の歴代の皇帝が築いてきた城跡で、石の下の部分は紀元前のものもあるという。噴水の庭園や鏡の間、皇帝の謁見室などを見て歩いた。が、このとき、すでに38度、39度。歩いていられない。汗が吹き出し、頭がくらくらする。とても良い光景なのだが、味わう余裕がない。
ガイドさんが入場料を払おうとしている時、料金表を見てびっくり。一般の市民は20ルピー、子どもや高齢者は無料。外国人は500ルピー! なんという差だ! 「不当だ!」と言いたくなるが、市民に安く提供しているのはよいことだと思うことにしよう。
その後、ラホール博物館を見物。パキスタンでいくつかの博物館を見たが、ここが最も充実している。ただ、どこもエアコンがない。外よりは暑くないのだと思うが、間違いなく室内の温度は35度以上ある! 有名な「断食するシッダールタ」の像があった。これはさすがに素晴らしい。まさしく別格。1階にヒンドゥー教、シーク教、イスラム教の様々な時代の美術品や器具があった。2階にはパキスタン国誕生後の歴史的な写真などが展示されていた。
そのあと食事の時間になった。が、暑い中を後では、またしても食欲はなく、小さなバナナ3本でいいとガイドさんに行って、果物屋に連れて行ってもらって、チェックアウトを延長してもらっていたホテルに戻って一休みした。
午後、また観光開始。
シャリマール庭園に行った。ムガール帝国最盛期の皇帝が保養地として作った庭園だという。ヴェルサイユ宮殿を思わせるような幾何学的な庭園で、とても美しい。ただ、気温はますます上がって、41度。しかも、日が照っているので、太陽に照らされているところは50度を超えているに違いない。歩いていられない。庭園を歩くようにガイドさんに促されたが、体力に自信がないので拒否。
日曜日なので多くの客がいる。少し遠くから遊びに来ているのだという。ほとんどが子ども連れ。10人程度の集団が多い。親族や友達が家族でやってくるのだという。木陰にシートを敷いて、語り合ったり、笑いあったり、何かを食べたり。クリケットのバットとボールで遊んでいる子ども、駆け回っている子どももいる。よくもまあ、この暑い中に遊びに来ようとする家族がいて、この炎天下で駆け回る子どもがいるものだと、日本人としては感心するやあきれるやら。
その後、アナルカリ・バザールにいった。多くの人でごったがえしている。アメ横の雰囲気。衣服、靴、革製品などの店が立ち並び、狭い道をバイクが行きかい、人が歩いている。ただ、私は食料品店の並ぶところは通らなかった。たまたまその区画を歩かなかっただけかもしれない。あるいはこのバザールでは食料品は扱っていないのか。夕方近くになっていたが、まだ39度くらいあるので、「もっと見たい」とガイドさんに注文する気になれない。むしろ、「早く冷房の効いた車に戻ろうよ」と言いたい気持ちをぐっと抑えている。
その後、ガイドさんにお願いして、冷房の効いた車の中で、サンドイッチやチキン(タンドリーチキン風のものだったが、もっときついカレー味だった)、春巻き風のもの(中華風を期待したのだったが、これも中はかなりスパイシーだった)を食べて、空港に向かった。
空港に行くのは早すぎるので、もっとどこかに行こうかとガイドさんは言ってくれたが、さすがに空港は冷房が効いていると思うので、そこで出発までぼんやりと過ごすほうがいいと思ったのだった。すくなくとも、そのほうが健康を害せずに済む。
こうして、空港に行き、これまで経験のないほどの厳しいチェックを受けて空港に入り、飛行機に乗り、バンコクを経由し、成田へと帰ったのだった。
明日、今回の旅行で気づいたことを箇条書きふうに記すことにする。
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コメント
こんにちは。旅行記、とても楽しく拝見しました。私も6月に2週間ほどパキスタンを旅行しました。女性の一人旅です。
実は2018/06/23にロータスフォートに、2018/06/24にタキシラに訪問した際、ロータスフォートでは「昨日日本人男性が来た」、タキシラでは「3日前に日本人男性が来た」と言われてました。たまたまこちらの記事を拝見して、もしやこの方では、と思い、連絡させていただきました。
私は北部メインで予定したので、6月がベストシーズンということで、覚悟して行きました。ラホールから入国して、中国へ抜けたのですが、北部はちょうどいい、すばらしい気候でした。
見どころも多く、人が圧倒的に親切で、英語が通じて、女性でも旅行しやすい国、という、とてもポジティブな印象だったので、また行く予定です。その時には春か秋にして、ハラッパなどの遺跡にも行きたいと思います。
投稿: ウラ | 2018年8月16日 (木) 15時42分
ウラ様
コメント、ありがとうございます。
日にちから考えると、その「日本人」というのは私かもしれません。ほかには日本人には一人しか会いませんでしたし。
それにしても、女性おひとりの旅行とは! パキスタンの暑さには参りましたが、私は旅行そのものはとても楽しみました。おっしゃる通り、パキスタンの人々はとても親切でした。ただ、パキスタン在住の女性は生活しづらいだろうと思いましたし、外国からの女性の観光客も楽しめないのではないかと思ったのでした。
北部は6月がベストシーズンなんですね。もう少し考えて予定を立てるべきでした。参考にさせていただきます。ほんとうにありがとうございました。
投稿: 樋口裕一 | 2018年8月17日 (金) 00時18分