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ヤング+新日フィルのブルックナー第4番(1874年初稿・ノヴァーク版)に驚いた

 2018714日、すみだトリフォニーホールで、シモーネ・ヤング指揮、新日本フィルハーモニー交響楽団の演奏を聴いた。曲目は前半にヴァイオリンの木嶋真優が加わって、ブルッフのヴァイオリン協奏曲第1番、後半にブルックナーの交響曲第4番(1874年初稿・ノヴァーク版)。

 木嶋のヴァイオリンは流麗な音。ヤングが骨格のしっかりしたオーケストラで支える。もちろんとても良いのだが、私の考えるブルッフとは少々異なっていたので、戸惑った。ヴァイオリンがまるでコルンゴルトのような洗練された官能的な音になる。それはそれでよいのかもしれないが、私個人としては、もう少しブラームスふうに渋くて構成的な演奏のほうが好みだ。

 ブルックナーの第4番のこの版は初めて聴いた。この曲の最初の版はこのようなものだったのだとは驚きだ。通常耳にする曲とはかなり異なる。第124楽章については、聴き慣れた箇所が出てくるかと思うと、すぐに覚えのない展開になっていく。第3楽章はまったく別の曲。雰囲気や構成は似ているが、テーマそのものがまったく異なる。

 演奏に関しては見事だと思う。わかりやすい棒さばきで、構成感があり、しなやかで美しい。オーケストラも厚みのあるしっかりした音を出した素晴らしい。ホルンをはじめとした金管楽器が実に堂々たる音を出していた。

 知的にはとてもおもしろく感じたが、知っている曲になったり、知らない曲になったりして、落ち着いて感動していられない。いや、それ以前に、やはり通常耳にするものこそが「本物」で、その「できそこない」を聞かされているという気にどうしてもなってしまう。事実、改訂された版のほうがずっと完成度が高いと思う。

 とはいえ、このような珍しい版を素晴らしい演奏で聴くことができたことは、とてもうれしい。とても満足だった。ヤングの指揮者としての力量も改めて思い知らされた。

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音楽」カテゴリの記事

コメント

こんにちは。樋口裕一さん

僕は活字が大好きですが、基本的には小説が嫌いで苦手です。

だから、この国の『芥川賞』や『直木賞』の受賞の度に大騒ぎする風潮を心底軽蔑しています。

はっきり言えば、小説が人間を描き切れるとは思えないのです。この国には、下らない小説やサルトルのような軽蔑すべき『実存哲学』が存在していて、人間の心を蝕(むしば)んでいます。僕はそういう下らない小説家どもの上を行かなければならないと日々悪戦苦闘しています(笑)。それは、冗談としても、悪質な文学は『有害図書』として排除してもらいたいですね。彼らは『表現の自由』を持ち出すでしょうがね。

尊敬する永井均さんも、マンガは哲学的だと言っても小説が面白いとは言いません。僕もマンガや映画や演劇やドラマは面白くても、小説やオペラやミュージカルは詰まらないものが多いと思います。

特に小説は息苦しく、出口なしの袋小路に入った気分になります。

作家の高橋源一郎は、アリストテレスのカテゴリーに含まれなかったものが、『映画と小説』であるとかつて自慢気に語っていましたが、僕は小説というメディアの持つ浅さが嫌いですし、蓮實重彦さんのように表層で遊戯することもできないので、小説を読むと大抵の場合、『鬱陶しくて』『息苦しく』なってしまいます。

もしも僕が誰かに『小説を書け』と命令されたら、きっと詰まらないものが出来上がることでしょうね。

小説家はとかく自分の作品の中に『宇宙の全てがある』と思いがちであるし、作曲家のグスタフ・マーラーも自分のシンフォニーには宇宙の全てがあると解釈していましたが、僕はそれは違うと思います。

宇宙の全てがあるとは、ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』のような真に偉大なテキストに対して言うべき言葉です。だから、ウィトゲンシュタインがグスタフ・マーラーを軽蔑したのは僕には理解できます。


以前、永井均さんは
『私の一番の理解者は、自分の一番の批判者である』
と語っていました。だから、僕は文学が専門の樋口裕一さんに失礼を承知で、
『小説を鬱陶しくて息苦しい』
と書かせてもらいました。僕は、哲学を息苦しくないとは断定しませんが、日本人作家(小説家)の多くは低い問題意識の元で活動していると思います。そのため、僕が小説の中のイデオロギーを感じると、鬱陶しさや息苦しさを意識し再投稿ても仕方のない側面はあるかと思います。

僕が投稿したのは、樋口裕一さんの古いブログ『音楽は思想である』ですが、新しい記事に再投稿させていただきます。

投稿: KUM | 2018年7月20日 (金) 19時00分

KUM 様
コメントありがとうございます。
その後、マーラーについて、ヴィトゲンシュタインについて、永井均氏についてまったく勉強が進んでおりませんので、たいしたことは言えません。ただ仕事やコンサートや旅行(現在も九州のホテルでこれを書いています)に追われるばかりです。
私は大の小説好きです。読む本の8割くらいは小説でしょう。私は文体によって作家たちの世界が重層的に構築されていくことに知的興奮を覚えます。日常みんなが使っているさりげない言葉がちょっとしたことで爆発的な威力を持つことも楽しみます。サルトルの小説については、志はよいと思うのですが、少々「へたくそ」だと考えています。
 ただ、KUMさんのご意見との絡みで言いますと、私がマーラーが嫌いなのは、あまりに「小説」的だからでもあります。マーラーを聞くと、つい私は「おれは、お前の私的な悩みなんぞに関心はないよ。そんな卑小なことを大オーケストラを使って語らないでくれよ」と思ってしまうのです。
私が小説に求めているものと、音楽に求めているものは異なるので、小説的なマーラーを嫌うのかもしれません。
あれこれわからないままです。もう少し時間を作ってじっくり考えたい問題です。

投稿: 樋口裕一 | 2018年7月20日 (金) 22時56分

樋口裕一様

僕はマーラーに嫌われた者です。マーラーの交響曲は、大抵の小説同様『小宇宙』ですが、私が聴いたブルックナーの第4番には大宇宙を感じました。

僕は、若い頃ジル・ドゥルーズ=フェリックス・ガタリの『アンチ・オイティプス』に熱中して、フロイトの精神分析や家族というフィルターを通して世界を眺めた小説などを批判していました。

オイティプス形式の文学は商品形式の文学なのだ。

でも、結果的にアンチ・オイティプスはフロイトとラカンの 精神分析には勝てましたが、文学には大敗しました。それは、アンチ・オイティプスが一面で資本主義に負けたことにもなります。

樋口裕一様は、僕の苦手なオペラや小説にも通じていて、うらやましい限りですが、僕はドゥルーズに対しても負債があるので、特にオイティプスを感じる小説はなるべく避けるようにしているのです。

最近また、マーラーの交響曲第8番の冒頭を聴いて思わず格好いい。と思ってしまいました。でも、全体像はイヤなのですがね。

投稿: KUM | 2018年7月20日 (金) 23時28分

すみません。オイディプスがオイティプスになっていました。訂正をお願い

投稿: KUM | 2018年7月20日 (金) 23時37分

すみません。オイディプスがオイティプスになっていました。訂正をお願いしますね。

投稿: KUM | 2018年7月20日 (金) 23時38分

KUM様
コメント、ありがとうございます。
ドゥルーズは「プルーストとシーニュ」が大変刺激的なテクストでしたので、「アンチ・オイディプス」も翻訳本出版と同時に入手して読んでみたのですが、全く歯が立たず、解説本を読んでも理解不能で、実はそのころからフランス思想への関心を失った、いえ、それどころかフランス思想そのものを敵視するようになったのでした。ですから、ごめんなさい。KUM様のお話についていけません。ただ、ブルックナーには大宇宙、マーラーには小宇宙という意識を、マーラーを初めて聴いたころから抱いておりました。

投稿: 樋口裕一 | 2018年7月26日 (木) 07時56分

樋口裕一様、こんばんは

>私がマーラーが嫌いなのは、あまりに「小説」的だからでもあります。マーラーを聞くと、つい私は「おれは、お前の私的な悩みなんぞに関心はないよ。そんな卑小なことを大オーケストラを使って語らないでくれよ」と思ってしまうのです。

アンチ・オイディプスの主張は単純です。
神経症とフロイトの精神分析と文学と宗教との共犯関係を暴き、それらが商業主義に、詰まるところ資本主義の犬になってしまっていることを糾弾しています。

それは、樋口裕一さんがマーラーを小説的と批判して、自分の家族の悩みを大オーケストラで演奏しないで欲しいと思っていることと何ら変わりはありません。

ドゥルーズは、社会や宇宙という壮大な作品を家族というフィルターを通して分析しないで欲しいと思っているだけです。しかし、プルーストやカフカといった真にコードを破壊する文学のことは評価します。

わたくちはパパやマンマのものちゃない。(アントナン・アルトー)

僕が求めている文学は商品形式の文学でも、資本主義の文学でもなく、既存の価値を変革して行く文学ですが、残念ながら、小説の中に僕を満足させる作品が少ないというだけかもしれません。

投稿: KUM | 2018年7月26日 (木) 22時01分

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