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上岡+新日フィル チャイコフスキー第5番に内省を聞き取れなかった

 2018728日、トリフォニー・ホールで新日本フィルハーモニー交響楽団の定期演奏会を聴いた。指揮は上岡敏之。前半にはピアノのオルガ・シェプスが加わってラフマニノフのピアノ協奏曲第2番、後半にはチャイコフスキーの交響曲第5番。

 これまで上岡の指揮を二度聴いたことがある。だが、残念ながら、世間の高い評価にもかかわらず感動できなかった。これまで聴いてきたのはドイツ系の音楽だったので、ロシア音楽を聴いてみたいと思って出かけたのだったが、やはり私には受け入れがたかった。

 コンサートマスターの崔さんとのプレトークでの上岡さんの発言には共感した。チャイコフスキーの第5は外面的ではない内面的な苦しみを表現した音楽なのに、多くの演奏家は外面的に演奏しすぎる、そんなことを言っておられた。その通りだと思う。私はチャイコフスキーのしばしば外面的になりすぎる面を苦々しく思いながら、交響曲第5番と「エフゲニー・オネーギン」の内省的で地味な響きが大好きなのだ。

 だが、私には今回の演奏もかなり外面的に聞こえた。確かに、上岡の指揮はチャイコフスキーの苦悩、内に秘めた情熱、甘美な思いを歌い上げようとする。ハッとするような管楽器の美しい音、時には美しさを犠牲にしたような心をえぐる音が聞こえてくる。上岡はそのような表現によってチャイコフスキーの内面を描こうとしているのだと思う。だが、私にはそれこそがむしろ行き過ぎに聞こえる。あまりに効果を強めようとしているように聞こえる。いや、それ以前に音の響きそのものにやるせなさや動きのとれない悲しみのようなものが感じられなかった。

 前半のラフマニノフについては、私の席のせいなのかピアノの音が鮮明に聞こえず、オーケストラに埋もれてしまっていた。ピアノのアンコールのプロコフィエフのソナタではかなり鮮烈な音だったので、ラフマニノフもきっと素晴らしい音を出していたのだと思うが、それが十分に聞こえなかったのは残念。

 台風来襲の予報のため、ひやひやしながらコンサートを聴いた。幸い、大雨になる前に自宅に帰り着いた。大きな被害にならなければいいが。

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音楽」カテゴリの記事

コメント

樋口裕一様

内面的と外面的の問題は、記号論的に言うと『メッセージ』と『コード』と分かり易く(難く)言い替えられます。

小説のコードは、紙の上のインクの染み、音楽のコードは空気の振動です。しかし、どこまでがコードでどこからがメッセージかは判断が難しい。

だから、チャイコフスキー交響曲第5番が内面的な部分が出ているか、外面的な部分が出ているか判断するのもあくまでも聴き手の主観の問題ではないでしょうか?

僕は今年の3月にロシア系以外では最も上手い『チャイコフスキーの内面の苦悩が表現されている』とされる小林研一郎さんの5番をインフルエンザのために聴きそびれて悔しい思いをしました。

僕のコンサート歴はしょぼいものですが、それでも最近は機会あればコンサートに行くようにしています。しかしながら、日曜日に行ったコンサートのブラームス交響曲第2番は、僕のイメージからは遠いものでした。

本当に聴きたければ11月に来日するウィーンフィルハーモニーを聴くしかないのでしょうかね。

投稿: KUM | 2018年7月31日 (火) 23時36分

KUM 様
コメント、ありがとうございます。
まだまったく勉強が進んでおりません。新たに書く内容を持たずにいます。
もちろん、内面的かどうかは主観による判断です。芸術は、音楽も文学も主観的な判断しかありえないと考えています。
なお、マエストロ小林は尊敬する指揮者の1人ですが、少なくとも私が考える「内面的な演奏」とは対極の演奏をする指揮者だと私は考えています。私がここで「内面的」「内省的」と書きましたのは、心の葛藤を激しくエネルギッシュに表現するのではなく、思いをさほど外には出さず、内にこもった表現をするタイプの演奏のことです。ウェルザー=メスト指揮のウィーンフィルの演奏は、確かに内面的だと私は考えています。

投稿: 樋口裕一 | 2018年8月 4日 (土) 22時54分

樋口裕一様

樋口さんの考える『内省的』『内面的』という概念がたとえば、内に秘めた情熱のようなものであることがよく分かりました。

僕は音楽の知識もろくにありませんが、たとえば指揮者があまりテンポを動かさない『インテンポで』 振ったりする方に、『内省的』『内面的』を感じ、突拍子もないことをする方に、『外面的』悪くいうならスタンドプレイ、パフォーマンスを感じてしまうのですね。もちろん、パフォーマンスには必ずしも悪い意味だけがあるわけではありませんが。

投稿: KUM | 2018年8月 5日 (日) 19時14分

樋口裕一さん こんばんは

僕は別に樋口裕一さんに勉強を強要させようなどと、生意気なことを考えているわけではありません。

それよりも、樋口さんの旅行記、オペラやクラシック器楽曲の批評が興味深く読めて仕方ありません。

今後とも宜しくお願い致します。

投稿: KUM | 2018年8月16日 (木) 23時38分

KUM様
コメント、ありがとうございます。
いえいえ、強制されているなどとは思っておりません。私自身、大いに関心を持ち、勉強したいと思っています。ただ、ほかに優先せざるを得ないことがあって、勉強に手が回らずにいます。
私はなぜマーラーが嫌いか…というのは、私の永遠のテーマです。

投稿: 樋口裕一 | 2018年8月17日 (金) 00時20分

樋口様

僕も『マーラー苦手つながり』で先生に興味を持ちました。どの曲にも一度は、変な音の聴こえるグスタフ・マーラーは彼自身『汚い音が、吐き気を催すようなメロディーが浮かぶ』と生前語っていたそうです。

投稿: KUM | 2018年8月17日 (金) 00時33分

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