« 2018年9月 | トップページ | 2018年11月 »

上岡敏之+新日フィルのブルックナー9番と「テ・デウム」 あざといが、素晴らしい

20181027日、サントリーホールで上岡敏之指揮、新日本フィルハーモニー交響楽団の演奏を聴いた。曲目はブルックナーの交響曲第9番、そして休憩も拍手もなしで「テ・デウム」が続けて演奏された。ブルックナー自身が、第9番が未完成の場合には、「テ・デウム」を加えて、ベートーヴェンの第9のように合唱の曲を加えるという案を示していたという。

実を言うと、私はマエストロ上指揮をこれまで常に「あざとい」と感じて白けてしまっていた。今回ももしかしたら同じように感じるかもしれないと思って出かけた。

で、結論から言うと、今回もまた「あざとい」とは何度か感じたが、それが決して嫌味には感じなかった。素晴らしいと思って何度か感動した。全体的にはとてもよい演奏だった。

オーケストラは、特に金管群が不安定だった。つっかえるところも何度かあった。アンサンブルの乱れることもしばしばあった。上岡の意図している音ではないだろうと思われるところもあった。が、素晴らしいところも多かった。あざとい部分をしっかりと音にしている点に関してはコンサートマスターの崔さんの力が大きいと思った。

第1楽章の第一ヴァイオリンの弱音の精妙な響き、第2楽章のスケルツォの身振りの大きな独特の音の動き、第3楽章の弦の重なり。まさにあざといのだが、第1楽章前半でしっかりとブルックナーの音楽を作り上げた後にそのようなあざとさが満開になったので、私としては素直に鋭くて的確な切込みとして受け取ることができた。なるほど、ブルックナーはこのような音を欲していたのかもしれないと十分に思わせるほどに表情が豊かになった。そして、スケールが大きく彫の深いブルックナーになっていった。あざとさによって全体の統一が崩れるとも感じなかった。

交響曲の後に加えられた「テ・デウム」については、やはり私は交響曲と異質であることを感じざるを得なかった。曲想が異なるし、音楽の質があまりに異なる。連続してとらえることはできないと思った。が、別の曲として聴くと、もちろんとても良い演奏だった。歌手は、山口清子(ソプラノ)、清水華澄(メゾ・ソプラノ)、与儀巧(テノール)、原田圭(バリトン)ともにとても良かった。新国立劇場合唱団も厚みがあって素晴らしかった。ただ、これもオーケストラの精度が私には不十分に聞こえた。

上岡敏之という指揮者を私は苦手にしていたが、ともあれ今日は素直に納得し、しばしば感動した。ぜひまた聴いてみたいと思った。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

安田純平さん解放について思うこと

 このところ音楽と映画と旅行についてばかり書いているが、たまには政治についても書いてみよう。

 シリアで拘束され、3年以上にわたってテログループの人質になっていた安田純平さんが解放された。思っていた通り、大きなバッシングが起こり、「自己責任論」(もっとわかりやすく言うと「自業自得論」ということだろう)が飛び交っているようだ。

 私は安田さんを存じ上げているわけでもないし、中東問題に詳しいわけでもない。まったくの素人だが、素人ながら(あるいは、素人だからこそ?)不思議に思っていることがある。それについて書いてみたくなった。

「危険なのだから立ち入るべきではないといわれている場所に安田さんは自分から立ち入り、しかも政府に頼まれたわけでもなく、むしろ政府に対立する行動をとっていた。その安田さんが人質になったのは自己責任であって、その解放のために日本政府は国民の税金を使うべきではない。英雄扱いするべきでもない」というのが自己責任論だろう。

 私はこの自己責任論を間違った考えだとは思わない。安田さんは好き好んでいって人質になったのだから、そういわれても仕方がない面もある。そのような自己決定論は、少なくとも中国程度の民度の低い国や韓国程度のGDPの国では当然のことだろう。私が中国人であるか韓国人であるかだったら、間違いなく「自己責任論」の立場を取るだろう。

 中国人であれば世界の民主主義を考える必要もなく、韓国人であれば、経済力が不十分なために、志はあってもそれを実行するべきではない。中東などに首を突っ込まず、無駄な税金を使わずに国内の利益のことだけ考えていればよい(誤解のないように付け加えますが、私は中国人、韓国人の友人も多く、中国、韓国の国民を尊敬しています)。

 しかし、日本は先進国なのだ。少し光が失われたとはいえ、大きな経済力を持ち、世界での発言力を持っている。これから、もっと発言権を持って発信していくべきなのだ。その日本が中国や韓国と同じように考えていては恥ずかしいと私は思うのだ。

 フリー・ジャーナリストが世界の各地に行き、時に危険な場所に行って真実を報道することを人類の義務とは私は思わない。ジャーナリズムの宿命だとも思わない。だが、それは民主主義を担う先進国の義務だとは思う。安田さんは先進国のジャーナリストの代表として危険地帯に立ち入って報道していたのだと思う。安田さんにももちろん軽率な行動もあっただろうし、判断の間違いもあっただろう。しかし、ともあれ先進国グループのジャーナリストとして、政府とは離れたところで真実を報道しようとしていた。これは極めて意義のある大事な仕事だと思う。

 私が不思議に思うのは、「自己責任論」をかざしている人々と、ふだん「反中・嫌韓」を唱えている人が重なるらしいということだ。ネットで見る限り、そのような傾向があるように思う。私はむしろ「反中・嫌韓」の人こそ、「中国、韓国のような国では安田さんをバッシングするだろう。だが、日本は中国や韓国などと違い民主主義の定着した世界の先進国だ。だから、安田さんの仕事を高く評価する。そこが我々日本人が中国人とも韓国人とも異なって優れたところなのだ」と考えるはずだと思うのだ。なぜそうならないのだろう。私が今回の問題でもっとも不思議に思うのは、このことなのだ。

 私は安田さんが英雄だとは思わない。安田さんを日本人として誇りに思ったりもしない。ただ、安田さんは先進国のジャーナリストとしてするべきことをした。先進国の人間として極めて大事なことをしていた。安田さんの無事を喜び、その仕事ぶりをきちんと評価するべきだと思う。安田さんをあしざまに言う人々は、「日本は先進国であるべきではない。日本は世界への発言権を持つべきではない。日本は二流国になってしかるべきだ」と主張しているように私には聞こえる。

| | コメント (12) | トラックバック (0)

ティツィアーナ・ドゥカーティの素晴らしい歌声

20181026日、紀尾井ホールでティツィアーナ・ドゥカーティ・川畠成道・山口研生のチャリティコンサートを聴いた。収益金はチャリティのために使われるとのこと。

私はティツィアーナ・ドゥカーティのソプラノを目当てに出かけた。これまで4回ほど聴いてその素晴らしい歌声に圧倒されてきた。ドゥカーティは日本在住のイタリア人ソプラノ歌手だ。これほどの名歌手が日本にいるのが信じられない。これほど素晴らしい声と表現力を持つ日本在住のソプラノ歌手はほかにいないと思う。今回も期待通りの演奏だった。

最初に「セビリアの理髪師」のロジーナが歌う「今の歌声は」。つい数日前にグルベローヴァで聴いたばかりの歌。とても良かった。透明な声で発声がよく、ホール内に響き渡る。グルベローヴァとはまったく異なる表現。ちょっと落ち着きのあるロジーナだが、それはそれで本当に素晴らしい。

そのほか、前半にはドゥカーティは「浜辺の歌」、「赤とんぼ」。もちろん美しい声、見事な表現力で抒情にあふれていたが、ちょっと日本語の聴きとりにくいところがあった。もっとイタリア語の歌を聴きたかった。

後半は、シューベルトの「アヴェ・マリア」、「フィガロの結婚」の伯爵夫人の「楽しい思い出はどこへ」、「ジャンニ・スキッキ」のラウレッタの歌う「私のお父様」。とりわけ、伯爵夫人は見事だった。気品をもって愛を失った悲しみを歌いあげていた。ラウレッタについては、ちょっと落ち着きすぎていた気がしたが、もちろん声は最高に美しい。

アンコールでは、ドゥカーティは「アドリアーナ・ルクブルール」のアリアを歌った。これも素晴らしい。抒情がはじける。

ただ、私はソプラノとヴァイオリンとピアノの組み合わせによるコンサートがしっくりこなかった。三人による演奏も何曲かあったが、無理やり三人にしているとしか思えない。プログラムも一貫性を感じなかった。それぞれが演奏したい曲を持ちよって順番に演奏した感じ。やはりコンサートの曲目には何らかのメッセージがほしい。

私の大きな不満は、もっと私のひいきのドゥカーティの演奏を聴きたかったのに聴けなかったこと。川畠成道さんのヴァイオリンによる「タイスの瞑想曲」もきれいな音だったし、エルンスト作曲の「シューベルトの『魔王』による大奇想曲や「カルメン幻想曲」では、見事な技巧を聴かせてくれたが、やはり私にはドゥカーティが圧倒的に素晴らしかった。

もっと多くの人にこの歌手の真価を知ってほしい。一度聴いたら、きっとこれほどの世界レベルの歌手が日本にいることに驚かれると思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ジョージア映画祭後半 「あぶない母さん」「告白」「ブラインド・デート」など

 岩波ホールで開かれているジョージア映画祭に通い、少し前にみた「放浪の画家 ピロスマニ」をのぞいて、短編を含む17本をみた。前半にみた映画の感想は数日前にこのブログに書いたので、今回は後半にみた映画の感想を記す。

 

「あぶない母さん」 アニ・ウルシャゼ監督 2017

 私はとてつもない傑作だと思った。アニ・ウルシャゼ監督は、「みかんの丘」のザザ・ウルシャゼ監督の娘でまだ27歳だという。驚異というしかない。世界全体で注目されるべき作品だと思う。

 三人の子どもを持つ主婦マナナ(ナト・ムルヴァニゼ)が憑かれたように小説を書く。ところが、そこに書かれていたのは、夫や子どもを憎んで性的で病的な欲望にまみれる血に飢えた妖女の心の奥だった。知人の文房具店主はその作品を高く評価し、出版の手助けをしようとするが、家族はそれに反対。マナナは小説の結末を書くため、家を出て文房具店に寝泊まりするようになる。そして、そうするうち、マナナの精神はだんだんと常軌を逸してくる。そして、マナナの心の奥にある父との葛藤、過去における母の自殺、絶望的な私生活を送っている文房具店主の状況などが明らかになっていく。

 実はよくわからないところがある。もう一度みてみたい気がする。が、カフカ的な雰囲気に圧倒された。この映画では、トビリシの都市がまるでカフカの小説のように不思議な相貌を帯びて迫ってくる。いや、トビリシとは限らない。現実の世界がふだん私たちが考えているのとは異なる真実の姿を現す。マナナの小説の不気味な文体のような雰囲気が映像の中ににじんでいる。そこが凄い。

新作の映画でこの種の衝撃を受けたのは、一昨年の「サウルの息子」以来だと思った。「あぶない母さん」という軽そうなタイトルだが、実はとてつもなく深刻で深いテーマの映画だと思う。

 

「陽の当たる町」 ラティ・オネリ監督  2017

 ソ連時代に鉱山で栄えた町が、今では廃墟のようになっている。そこに残って暮らす人々の様子を描いたドキュメンタリー映画。

私は実はとても退屈だった。最も苦手なタイプの映画だ。苦手な最大の原因は、長回しのカメラだ。始まってすぐ炭坑内のトロッコの動く場面が何も変化がないのに、23分ずっと映し出される。何の変化もなく歩いていく人物をずっとカメラが追いかける場面もある。走っている女の子二人の姿もずっと追いかける。新たな情報があればいい。思想や心情が長回しによって鮮明になるのならいい。だが、何もなく長々と撮影される。せっかちな私はそのような場面ごとにイライラしてきた。ほかの監督がこの映画を撮ったら三分の一の時間で終わるのではないか!と思ったのだった。

要するに、巨大な廃墟があり、そこで暮らす人がいて、それなりに楽しく、町の滅亡とともに生活しているということなのだろう。ただ、繰り返すが、私は大いに退屈に思ったのだった。

 

「ヒブラ村」 ゲオルギ・オヴァシュヴィリ監督 2017

「とうもろこしの島」のオヴァシュヴィリ監督の映画。1991年にジョージアはソ連から独立。圧倒的支持を受けて、ガムサフルディア大統領が誕生する。だが、圧政を行ったためにクーデターが起こり、大統領はいったんチェチェンに亡命し、ジョージアに戻って蜂起するが失敗して、少数の側近とコーカサス山中を逃亡して、ヒブラ村で死亡する。その前大統領の最後の数日間を描く映画だ。きっとジョージアの人にとっては忘れられない過去の歴史なのだろう。そして、「ヒブラ村」という言葉は特定の響きを持つのだろう。

 ジョージア史を知らない私には、どこまでが史実に基づくのかよくわからない。前大統領(フセイン・マシューブ)は山中を逃亡し、広めの家を見つけて無理やり泊まったり、支持者の家、側近の知り合いの家に泊まったりする。家の主は前大統領がやって来たというのでそれなりの歓待はする。そうするうちに、前大統領は徐々に追い詰められ、側近も脱落し、自分の過去に自信をなくしていく。そうした様子が克明に描かれる。なかなかリアリティがあるが、克明に状況を描くだけで内面的、思想的な深まりがあるわけではない。少し克明すぎて、退屈な部分もある。どうもジョージア映画は現実を克明に描こうとする傾向が強いようだ。リアリティが生まれ、存在感が強まるが、しつこさを感じないでもない。

 

「告白」 ザザ・ウルシャゼ監督 2017

「みかんの丘」のウルシャゼ監督の映画。とてもおもしろい。かつて映画監督を目指していたゲオルギ(ディミトリ・タティシュヴィリ)が神父になり、助手ヴァリコとともにある村に赴任する。ところが、そこにマリリン・モンローによく似た未亡人リリ(ソフィア・ムビスクヴェラゼ)がいる。ゲオルギはリリに惹かれつつ理性を守って、リリに絡む村のトラブルを解決しようとするが、リリは実はかなりの悪女であって、神父を陥れる。神父は村を後にする。

 ジョージアの田舎町の閉塞的な状況がよくわかる。教会の手伝いをする女性(「あぶない母さん」の主役ムルヴァニゼが演じている)に典型的に表されるように、みんなそれなりに善良な心を持ってはいるが、狭量で排他的で細かいところで小競り合いをしている。神父はそこで進歩的で開放的な信仰をもたらそうとするが、しっぺ返しにあってしまう。そんな物語といってよいだろう。

 ジョージアの村の自然の美しさ、信仰の状況、人々の生活がわかってとてもおもしろい。リリや軽くて善良な助手ヴァリコなどの人物の描き方もとてもリアル。

 

「映像」 ゲオルギ・ムレヴリシュヴィリ監督 2010

 10分ほどの短編ドキュメンタリー映画。ジョージアの寒村を訪れる映画撮影キャラバン。車で機材が運ばれ、美しい山を背景とする野外で特に子供を対象にした映画会が開かれる。子どもたちは夢中で映画を見る。そして、映画隊が去る。子どものうちの1人は家にあった映写機を持ち出して撮影を始める。映画隊は確かにこの村に映画文化の痕を残したわけだ。

 それだけの映画だが、自然があまりに美しく、子どもたちの姿も生き生きとして、しっかりとしたリアリティと存在感を感じさせる。とてもいい短編だと思った。

 

「ブラインド・デート」 レヴァン・コグアシュヴィリ監督 2013

 40歳になるのに独身で、女性とも付き合いのない学校教師のサンドロ。両親から常に結婚をせっつかれ、ふがいなさに嫌味を言われ続けている。サンドロは友人のイヴァに誘われて出会い系サイト(のようなもの?)を使って女性と会ってみたりもするが、女性に同情するばかりで男女関係に進まない。そんなとき、教え子の母親マナナと恋に落ちるが、その夫は暴力沙汰で刑務所に入っている。夫が刑務所から出る日にマナナを車で送ったために、夫からタクシー運転手と間違われ、手先となって手伝わされ、犯罪者っぽい人たちとも難民一家とも出会う。結局、夫は刑務所に戻るが、マナナとは結婚できそうもなく、夫の愛人だった難民女性の面倒を見ることになる。

 知的で善良でありながら、他人のことを考えてしまい、自己主張できないために損な役回りを演じるしかない男性を狂言回しとしてジョージア社会の模様を描く。ジョージアにもサンドロのような人間が多いのだろう。そして、日本にも多い。もちろん、私も少しそんな傾向を持っている(もちろん、反対の面も持っている)。そうしたジョージア人の暮らす中で犯罪や難民や内戦が起こっているのだろう。

 ブラインド・デートというのは、友だちなどに誘われて、相手がどんな人か知らないままデートすることを言うらしい。出会い系サイトを利用したデートをさしているのだろう。が、この映画では、サンドロのすべての出会いが、まさにブラインド・デート。偶然、今までかかわりのなかった境遇の人と出会って戸惑う物語。イヴァが本当に目の不自由な(ブラインド)女性とブラインド・デートして下心を持ちながらも、目の不自由な女性のしっかりした態度に圧倒されて何もできないというエピソードがある。ブラインド・デートという言葉に対する皮肉だろう。

 

今回の映画祭で13本の長編映画をみた(少し前にみた「放浪の画家 ピロスマニ」はのぞく)。全体として、おもしろい映画が多かった。ジョージア映画のレベルの高さを改めて知った。気づいたのは、特に大きなことが起こるわけではなく、主人公の日常を丁寧に描くタイプの映画が多いことだ。ジョージア映画の傾向なのか、今回映画祭を企画した人々の好みなのかはわからない。その種の映画も、私は嫌いではないが、もう少し事件がほしかったとは個人的には思う。

まとめとして、私の好みによってあえて順位をつけてみる。

 

① 「あぶない母さん」

➁ 「告白」

③ 「デデの愛」

④ 「大いなる緑の谷」

➄ 「微笑んで」

⑥ 「ブラインド・ノート」

⑦ 「少女デドゥナ」

⑧ 「少年スサ」

⑨ 「ヒブラ村」

⑩ 「他人の家」

⑪ 「私のお祖母さん」

⑫ 「ケトとコテ」

⑬ 「陽の当たる町」

| | コメント (0) | トラックバック (0)

グルベローヴァは70歳を超えても凄かった!

 20181024日、ミューザ川崎シンフォニーホールでエディタ・グルベローヴァのリサイタルを聴いた。ピアノはペーター・ヴァレントヴィッチ。素晴らしかった。奇跡のソプラノだと改めて思った。

 ただ、やはり往年の輝きは薄れている。一昨年、オペラシティと川口のリリアホールでも聴いたが、その時に比べても少し輝きが弱まったと思った。最初の曲、ヘンデルの「ジューリオ・チェーザレ」の「この胸に息のある限り」は声が出ず、音程が不安定だった。グルベローヴァもついに衰えた!と思った。だが、徐々に持ち直した。だんだんと素晴らしくなってきた。

 私は、1970年代にFM放送でグルベローヴァを初めて聴いて驚嘆。1980年のウィーン国立歌劇場公演によるベーム指揮の「ナクソス島のアリアドネ」のツェルビネッタを東京文化会館で聴いて本当に心の底から感動した。私は演奏家にサインをもらうことはまずないのだが、この時ばかりは興奮してプログラムのサインをもらったのだった。そのころと比べると、やはり声が少しくぐもり、完璧な音になるまでちょっと声がうろうろする傾向がある。時に声がかすれる。が、それでも凄まじい。こんなすごいソプラノを聴いたことがない。

 リヒャルト・シュトラウスの歌曲(「春の喜び」「万霊節」「セレナード」「黄金色に」「献呈」)の表現力も素晴らしい。80年代には、声の美しさだけで聴かせていたが、今で弱音のニュアンスで聴き手を惹きつける。「万霊節」「献呈」はとりわけ素晴らしかった。前半の最後はヨハン・シュトラウス2世の「春の声」。コロラトゥーラの声を堪能できた。

 後半はいよいよグルベローヴァの独壇場。ロッシーニ「セビリアの理髪師」の「今の歌声は」、ベッリーニ「異国の女」のフィナーレ、トマ「ハムレット」のオフィリーの狂乱の場。70歳を越えていると思うのだが、美しい高音がミューザ川崎全体に響き渡る。確かに、しばしば音がつっかえた感じのするところがないでもない。しかし、圧倒的な表現力で、すぐにそれを取り返す。観客を感動に巻き込む。

アンコールはもっと素晴らしかった。とりわけ、ドリーブの「カディスの娘」、最後の「こうもり」のアデーレのアリアはあまりに凄くて涙が出てきた。観客のほとんどがスタンディングオーベーション。もちろん、私も。アデーレのアリアは、CDでもDVDでも聴いてきた。余計に思い入れがある。素晴らしかった。

これが日本での最後のリサイタルだという(一昨年も確かそのように言われていた。それなのに、昨年も来日、今年も来日。でも、今度こそ最後だろう)。かつてのグルベローヴァ自身に比べると確かに衰えているのかもしれないが、これを超える人は世界にほとんどいない。これから日本で聴けないとすると、本当に残念だ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ジャック・ドゥミの映画(初期短編、「ローラ」「天使の入江」「シェルブールの雨傘」)、そして「ジャック・ドゥミの少年期」

 アニエス・ヴァルダの「顔たち、ところどころ」をみたのをきっかけにヴァルダの何本かの映画をみて、今度はその伴侶だったジャック・ドゥミの映画を何本かみた。簡単な感想を書く。

 

51unapywsl_ac_us200_ ジャック・ドゥミ初期短編映画集(「ロワール渓谷の木靴職人」「冷淡な美男子」「アルス」「淫乱の罪」)

 いずれもドゥミらしい感受性豊かで根底のところで「孤独」を感じさせる映画。物語としての面白さはあまり感じなかったが、映像美と独特の雰囲気に圧倒される。とりわけ、モノクロの映像の力に驚嘆する。画面全体から心優しさを感じさせるが、暖かくはない。余計なものを取り除いた厳しさがある。まさしく静謐な世界。「冷淡な美男子」だけがカラーで赤を基調とした大胆な色遣いで、しかも女性がずっとしゃべり続ける。だが、これは、一人の女性の独白と、女性に話しかけられながらもそこにだれもいないかのように振る舞う男性(あるいは、この男性は女性の見ている幻想なのかもしれない)の「非コミュニケーション」の物語。色遣いと饒舌さはまさに孤独そのものを表現している。

 もし私がこれらの映画を公開時に見て、ドゥミの才能を予感できたかどうか自信がないが、今見ると、明らかに後のドゥミの萌芽がある。いずれも愛すべき珠玉の小品だと思う。

 

51nddgghigl_ac_us200_ 「ローラ」 ジャック・ドゥミ監督 1961

 この作品についてはタイトルだけは以前から知っていたが、今回初めてみた。2012年にハリウッドで修復されたきれいな映像。なかなかの名作だと思った。

後の「シェルブールの雨傘」で副主人公になるローラン・カサール(マルク・ミシェル)が主人公。カサールは少年のころに愛した女性セシル(アヌーク・エーメ)と再会する。セシルは今ではローラという名前で踊り子としてキャバレーに出演している。カサールはよりを戻そうとするが、ローラには初恋の男性ミシェルとの間に子供がいて、行方をくらませたミシェルを忘れられず、カサールに心を許さない。しかも今もアメリカ人水夫と付き合っているように見える。ローランは恋をあきらめ旅に出ようとするとき、ローラは戻ってきたミシェルと新しい一歩を踏み出そうとする。

 そうしたカサールのローラへの思いと失恋を語るのだが、そこに若き日のローラを思い出させる清純な14歳の少女セシルとの出会い、その少女とアメリカ人水夫との交流、カサールの行きつけのカフェの常連客などが絡む。舞台となっているのはナント。ラ・フォル・ジュルネで私も何度か訪れたことのある海辺の静かな地方都市だ。そうしたものが相まって、親密で重層的な空間を作り出す。

 詩的で内省的な映画だ。音楽はミシェル・ルグラン。「シェルブールの雨傘」でなじみのメロディが聞こえてくる。撮影はラウール・クタール。ドゥミの映画、そして1960年代、70年代にはなじみの天才たち。映像も美しい。ずっと感動して観た。

 

619bjwuosml_ac_us200_ 「天使の入江」 ジャック・ドゥミ 1962

 ジャック・ドゥミが「ローラ」と「シェルブールの雨傘」の間に作ったモノクロ映画。銀行員の青年(クロード・マン)は友人に誘われてルーレットにはまり込む。南仏のニースやモンテ・カルロのとばく場に出かける。そこでブロンド女性ジャッキー(ジャンヌ・モロー)と知り合う。ジャッキーは賭博にのめりこんだために夫に見放され、子どもとも会えずにいるが、それでもまだ賭博をやめられず、イカサマにも手を染めて賭博場から追い出される始末。二人は行動をともにし、愛を交わすようになるが、全額をスッてしまう。青年は父親にお金を送金してもらい、やり直そうとする。ジャッキーはそれを拒んで賭博場に出かけるが、青年を失おうとするとき、賭博でなく男性を選んで、新しい人生を歩もうとする。あっという間のラストシーンだが、これはとても感動的。

 現実には、まあきっとジャッキーはまた賭博に戻るだろうな・・とは思うのだが、それはそれでとてもいい映画。映画の中のほとんどの場面を占める二人が不毛な賭博にのめりこむ場面は見ていて辛いが、最後の場面のためには必要だったのだろう。

 それにしても本当に美しいモノクロ映像。コート・ダジュールが白黒の美しい映像として納められている。ドラマティックな展開を描きながら、愛を求める孤独が浮き立つ。

ただ、私には役者としてのジャンヌ・モローの存在感が強烈すぎてヒロインの心情に共感できない。ジャンヌ・モローの出演映画を見ると、いつもそのような気持ちになる。役柄のジャッキーではなく、ジャンヌ・モローを見てしまう。賛同してくれる人は少ないかもしれないが、ジャンヌ・モローではなくアヌーク・エーメだったら、どんなにうれしかったことか。

 

51t2mbc13jl_sx466_ 「シェルブールの雨傘」 ジャック・ドゥミ 1964

 大好きな映画だ。久しぶりにみた。改めて素晴らしい映画だと思った。セリフのすべてが、日常の会話のアクセントに少しだけメロディを加えただけの歌から成るミュージカル映画だ。

 50年近く前、私が早稲田大学第一文学部演劇科映画専攻の学生だった頃、この映画が傑作かどうかで大学の映画論の授業中に、担当の先生と大激論を交わしたことがある。「感情を歌い上げられていない。だから駄作だ」と先生が断言した。生意気な学生だった私はそれに反対して、「この映画のセリフがすべて歌になっているのは、むしろ感情を抑え、過度な感情移入を防ぐためなのだ。すべてのセリフを歌にすることによって、〈この映画は非現実のおとぎ話なんですよ、どこにでもある悲恋をおとぎ話として語っているんですよ〉とわからせている。だからこそ、これは画期的な作品なのだ」と食ってかかった。

 ついでに言うと、先生は私の反論に腹を立てたらしく、「よく言われるだろ、フランス人は音痴なんだよ。ミュージカルなんて作れないんだ」といい捨てた。当時からクラシック音楽好きだった私はカチンときて、「フランスにはドビュッシーやラヴェルやフォーレがいるじゃないですか。ベルリオーズだってサンサーンスだって。音痴と言われるのはイギリス人ですよ、先生は勘違いしてるでしょ」とますます食ってかかった。これが先生の怒りに油を注いでしまったようで、激しい言い合いになった。私の若気の至りの思い出の一つだ(もちろん、高齢者になった今は別人のように丸くなっている!)。いずれにせよ、それやこれやでそのまま早稲田演劇科の大学院に進むのは難しくなったのだった!

今みても、私のほうが絶対に正しいと思う。感情を高らかに歌い上げるのとは異なる、いかにもフランス音楽的なルグランの音楽、人工的な色(上から見た傘の行進、二人の主人公の部屋、人物たちの統一感のある服の色調)、不思議なシーン(自転車が自動的に動いているなど)はそれを示していると思う。

 それにしても、ルグランの音楽、色彩、ストーリー、すべてが素晴らしい。そして、カトリーヌ・ドヌーヴの何という美しさ! 淡々と、しみじみと「人生ってこうなんだよね」と思わせる。まさしく現代の悲しいおとぎ話。それを作るにはすべてのセリフを歌わせる必要があったのだと思う。本当にいい映画だと思う。

 

215vy0etepl_ac_us200_ 「ジャック・ドゥミの少年期」 アニエス・ヴァルダ監督 1990

 ドゥミがエイズにかかって死を覚悟した後、長年連れ添ったヴァルダが記念のために作ったドゥミの伝記映画。小さな自動車修理工場を営む家に生まれ、幼いころから演劇、映画に関心を持ち、初々しく繊細な感性を育てながら映画に傾斜していくドゥミの少年時代が描かれる。大人の世界を知り、戦争がある。技術学校で手に職をつけることを強制されながらそれに反抗して映画を仕事にしていく。ドゥミの映画の場面が挿入され、少年期の様々な経験が映画にいかされていることが示される。

ドゥミの人間思いの人柄、その人生、そしてヴァルダのドゥミに対する愛も伝わる。ドゥミに対する思い入れがある私のような人間にはことのほか訴える力が強いが、そうでない人に対しても、一人の映画人の人生を描く映画として十分に説得力があると思う。3回ほど訪れたことのあるナントの町が出てくるのもうれしかった。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

ジョージア映画祭前半

 1013日から岩波ホールでジョージア映画祭が開かれている。1026日まで、短編映画を含めて、全20作が上映される。ジョージアは映画の盛んな国だという。私はずっと昔「放浪の画家ピロスマニ」をみただけだったが、最近になって新たに何本か見てとても大きな感銘を受けた。ジョージアという国にも大いに関心がある(来年にはジョージア旅行をしようと計画している!)。そんなわけで、全部をみられるかどうかはわからないが、時間と体力の許す限り、できるだけたくさんみようと思って、岩波ホールに通い始めた。

 これまでみた映画の感想を簡単に記す。

 

「西暦2015年」 ハトゥナ・フンダゼ監督

 ジョージア・フィルムで働く三人の高齢の職員の日常を描く短編。フィルムや映画で使われた衣装などを手当てする様子が描かれる。ほとんど機能していないこの建物の一部を音楽の練習場として貸し出しているのだろう。そこでドラムの練習をしている若者がいる。映画の初めからずっとドラムの音が聞こえていたが、その正体が最後に明かされる。高齢男性はその音を「うるさい」といいながらも、その音をまねしているようだ。個の音が鳴ることによってこのセンターが過去から現在、未来へと続いていることを象徴している。

 

「デデの愛」 マリアム・ハチヴァニ監督 2017

 とてもおもしろかった。婚約者を愛することができず、その友人を愛してしまったデデ。婚約者が自殺したために、愛する人と結ばれ、子どもをもうけるが、その結果、村人たち、とりわけ婚約者の親族を敵に回して生きることになる。デデは男性中心社会のなかで自分を貫こうとするが、そうすればするほども問題が厄介になり、過酷な状況に追いやられる。男社会に屈服するほかの女性たちもデデに同情を示さない。

これは現代のジョージアの物語。田舎社会ではこのような因習が残っているのだろう。このタイプの物語に類は多いが、登場人物の肉付けが的確で、山間の村の風景、ジョージア社会の因習などがリアルに描かれているため、既視感はない。それにしても自然が美しい。そして子どもたちの表情もとてもいい。

 

「他人の家」ルスダン・グルルジゼ監督 2016

 アブハジア紛争後、ジョージア人が着の身着のまま逃げた村の家々に、戦争で家を失った別のいくつかの家族が入居する。が、他人の家になじむことができず、自分の居場所を失ってアイデンティティを疑い始める。そのような状況を象徴的、幻想的に描いた映画。ある種の哲学映画。二組の家族のそれぞれの人間が自分を失っていくが、私が無知なためか、社会背景がよくわからず、登場人物の一人一人が何を悩んでいるのか、なぜそのような行動をとるのかわからなかった。しかも、これまた私の能力の欠陥だと思うが、登場人物の顔を識別できず、ときどき混乱した。美しい風景の素晴らしい映像だが、この映画を見て「さっぱりわからん」と思うのは私だけではないだろう。

 

「少年スサ」 ルスダン・ピルヴェリ監督 2010

 母親の働く不法のウォッカ工場でウォッカの密売の仕事をして貧しい家計を助ける小学生程度の少年。学校にいっている様子はなく、ガラスを割って自分で万華鏡を作ってほとんど唯一の娯楽にしている。ワインを売りに行っては、警官に追われ、与太者にせっかくの収入を巻き上げられながら必死に生きる。出稼ぎに行っている父親が帰るのを待ち、それを機会に事態が進展すると信じ黙々と働くが、帰宅した父も意気地のない男でしかなく、うだつが上がらず、家族を助けてくれるわけではない。父が帰っても何ら事態は好転しない。けなげに働いた少年も最後には感情をむき出しにする。

それだけの話。それを克明にリアルに描いていく。日本の戦後のような廃墟のような場所や貧困層の住まい、いかがわしいお店、途上国特有の繁華街を的確に描く。ただ、私としては、もう少し事件が起こってくれないと、ものたりない。

 

「ダンサー」 サロメヤ・バウエル監督 2014

 バウエル監督の大学の卒業制作映画との表示が出る。ジョージアの民族舞踊を踊るそれぞれ世代の異なる三人の男性ダンサーの練習、日常の生活の様子などを描く短編映画。未来を目指して踊る少年と、いま世界で活躍しているダンサー(それでも舞踊だけで食べていくのは大変だという発言がある)、後進を指導する高齢のダンサー。ジョージアの人々にとってのダンスの意味、それに精魂を傾ける人々の思いなどが伝わってくる。

 

 

「微笑んで」 ルスダン・チコニア監督 2012

 とてもおもしろい映画だった。最後まで飽きずに見た。初めのうちは、「母親コンテスト」などとは無理な設定だと思ってみていたが、なかなかに重いテーマだった。

 テレビ番組で「ジョージアの母」コンテストが企画され、10人の女性が最終予選に勝ち残る。10人の女性は25000ドルと一軒の家が賞品の優勝をめざすが、このテレビ番組には理不尽な内容がいくつもある。女性たちはそれぞれの事情も抱えている。女の争いもある。それでも女性たちは、「微笑んで」といわれながら、にこやかにコンテストのイベントを行おうとする。だが、最後、女性たちはテレビ番組のあり方、審査員の理不尽に怒ってボイコットする。

 ジョージアの社会について知識がないので何とも言えないが、きっとジョージア社会がこのテレビ番組のようになっているのだろう。すなわち、一獲千金を狙い、競い合い、資本主義的に宣伝をし、すべて売り物にする社会、しかしそうでありながら、国家が母親の理想像、国民の理想像を押し付けてくる。それが実際には貧しくて、それぞれの事情を抱えている国民を苦しめている。

 主人公の一人であるシングルマザーのグワンツァはかつてヴァイオニストだったが、弾けなくなっていた。これを機会に人前でバッハの「シャコンヌ」を弾こうとするが、邪魔され、自尊心をことごとく壊され自殺する。紛争に苦しめられ、やっと芸術に目を向ける余裕ができたはずなのに悪しき資本主義化のためにそれができなくなっている社会状況を象徴しているのだろうと思った。

 

「大いなる緑の谷」 メラブ・ココチェシュヴィリ監督 1967

  モノクロ映画。牛飼いのソサナは人里離れたところで牛を飼って生きている。粗野でわがままな男だが、父を牛に殺されても許し、妻に浮気されても許して、頑固に自分の生活を守ろうとする。だが、周囲は近代化され、油田の開発が進んでいるために、徐々に時代に取り残され、周囲との軋轢も増えていく。妻は愛想をつかせて町に逃げだし、石油交じりの水を逃れて牛も逃げ出してしまう。途方に暮れながらも、牛を探し続ける。

 ソ連の近代化にこうして生きた男性の生き方を描いたといえるだろう。白黒の映像が美しい。ソサナの悲しみと絶望が伝わってくる。とても良い映画だと思った。

 

 

「ケトとコテ」 ヴァフタング・タブリアシュヴィリ+シャルヴァ・ゲデヴァニシュヴィリ監督 1948

 白黒のミュージカル映画。スターリンによる大戦後の国民を元気づけるために楽しくて明るいミュージカルを作るようにとの指示でできたという。舞台は1880年代。レヴィン公爵の甥のケトと大商人マカルの娘コテは愛し合っている。取り持ちの女性の勧めで公爵がコテと結婚しようとすることから混乱が起こるが、機転の利く女性ハヌマの知恵によってケトとコテは結ばれる。

 ストーリーはまるでロッシーニやドニゼッティ。ハヌマという女はロッシーニのフィガロのような存在。音楽はレハールなどのオペレッタを劣化させた感じ。ただオペラ、オペレッタ好きの私からすると、舞台上のオペラでこのような不自然な行動の多いストーリーが展開されても気にならないが、映画でこのように不自然だと、あれこれ突っ込みたくなる。それに、ケトもコトも大勢の仲間や民衆の支持を受け、みんなが二人のためを思って明るい顔で歌うといういかにも社会主義的演出が、私には不快だった。

 社会主義を謳歌するはずのミュージカル映画であっても、楽しいおとぎ話にするには、公爵の甥と大富豪の娘を主人公にするほうが作りやすかったのだろう。そこに社会主義的思想を入れるために、無理やりケトもコテも民衆に支持されており、それを阻もうとする公爵と商人は権威主義的という枠組みになっている。これまたあまりに不自然。

 喜劇でよく用いられる二者が対になった対称形の物語という点は面白く思った。二人の主人公の名前がケトとコテ(ketokote)。わかりやすいアナグラムをなして、二人は対称関係を成している。公爵と商人はともに太めの初老の男で対を成し、取り持ちの女とハヌマはよく似た衣装の中年女性で対を成している。商人の道化の召使2人も対になっている。ただ、人間の識別能力に難のある私は、ケトとコテを除いて対になった人物がとてもよく似ているので、人物を取り違えてしまって困った。

 大きな笑い声を上げてみている人が何人かいたので、おもしろいと思う人が多かったのだと思うが、私はあまり面白いと思わなかった。

 

「少女デドゥナ」 ダヴィド・シャネリゼ監督 1985

 元のフィルムがジョージアにはないため、監督自身が保存していた状態の悪いDVDをDCP化したものが上映された。

 山の中の小さな村で健気に生きる少女デドゥナ(小学校高学年くらい?)。学校の勉強もしっかりして、母のいない家で父の面倒をみ、近くに暮らす親戚に心配りをし、父がつれてきた少年の世話もする。そのような少女の日常を丁寧に描く。元のフィルムがないために画質はよくないとはいえ、実に美しい自然の風景。その中で生きる少女の自然な、そして懸命な姿が浮かび上がる。首都からヘリコプターで弦楽四重奏団がやってきて、シューベルトの「死と乙女」を演奏してまた首都に帰っていく。少年が夕食のお礼に鳥(みみずく?)をかごに入れて持ってくるが、デドゥナは鳥かごの扉を開けっぱなしにする。デドゥナは自然の中に閉じ込められた自分の状況を重ねて考えているのだろう。

 文明から閉ざされた中で暮らし、そこから解放されたいとひそかに願いながら自分の生活を守る人。それをデドゥナという少女に託して描いている。見事な抒情詩だと思う。

 

「メイダン 世界のへそ」 ダヴィド・シャネリゼ監督 2004

「少女デドゥナ」と同じシャネリゼ監督のドキュメンタリー映画。メイダンというのはジョージアの首都トビリシの旧市街地の土地名らしい。まさに世界のへそというべき場所で、ジョージア人のほか、アルメニア人、アゼルバイジャン人、ロシア人、ユダヤ人、クルド人が暮らし、キリスト教のほかユダヤ教、イスラム教が隣り合っている。ゾロアスター教の遺跡もある。人種、言語、宗教が入り混じって暮らす人々の日常を描いていく。インタビューされる人々の人生を経た顔や表情がおもしろい。ごたまぜの様々な人生を歩んできた人たちに寛容な土地であることがよくわかる。

 

「私のお祖母さん」 1929年 コンスタンティネ・ミカベリゼ監督

 サイレント映画。音楽のつかない完全に沈黙の映画。私がこれまで見たことのあるサイレント映画でいえば、キートンの喜劇とブニュエルの「黄金週間」を合わせた雰囲気。テーマとしては、ブルガーコフの小説「悪魔物語」を思い出す。

すでに革命の中心であるべき労働者のことも忘れて自分の出世のことしか考えず、他者には無関心。そんな官僚主義の人々をグロテスクに、時にブラックユーモアを交えて描く。「お祖母さん」というのは「後ろ盾」を意味する隠語らしい。職を失った官僚が新たな後ろ盾を得ようとしてあちこち駆け回る話が中心になり、そこ多くのギャグが加えられていく作りになっている。時にシュールになり、アニメが使用され、大袈裟に戯画化される。大声で笑っている人がいたので、おもしろいと思う人もいたのだろうが、私には笑いとしては不発だった。表現が大袈裟すぎて、笑うよりも、むしろ「引いて」しまった。

 この時代にこのような内容の映画を作れた(すぐに公開禁止になったということだが)ことに驚いたし、ブルガーコフやメイエルホリドの時代にジョージアでこのような映画が作られていたことは実に興味深いことだと思った。ただ、映画として心から楽しむことはできなかった。

 

「スヴァネティの塩」 ミヘイル・カラトジシュヴィリ監督 1930

 サイレントのドキュメンタリー映画。コーカサスのスヴァネティ地方ウシュグリ村を舞台にしている。冬が厳しく、孤立した貧しい村で、長い間、石の塔を築いて外敵から守ってきたらしい。その村に住む人々の貧しく厳しい生活を描く。塩がないために外から運ばなければならないが、孤立しているためにそれが難しい。人も動物も塩に飢えている。

苦難の中で生きる人に共感を寄せつつ文化人類学的に描いていると思ってみていたところ、後半、突然雰囲気が変わる。この村は悪しき宗教(キリスト教の一派だろう)に支配されており、ここでは出産を穢れたものとみなされ、妊婦は外に追い出され、しばしば生まれた子どもは死んでいくという(本当か? とかなり疑問に思った)。そして、革命政府が道路を作り、貧しく迷信にとらわれた人々を近代化していることを高らかに告げる形で映画は終わった。最終的にこのような形にしないとソヴィエト政府に批判されたのだろう。

美しい風景、閉ざされた辺鄙な村の生活、時代の抱える問題。あれこれ考えさせられる映画だった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

アントニーニ+ムローヴァ+読響 とても良い演奏だったが・・・

 20181016日、サントリーホールで読売日本交響楽団のコンサートを聴いた。指揮はジョヴァンニ・アントニーニ。曲目はハイドンの歌劇「無人島」序曲、ヴィクトリア・ムローヴァが加わってのベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲、後半にベートーヴェンの交響曲第2番。アントニーニは古楽の指揮者だという。そのため、読響もきわめて古楽的な演奏だった。とてもダイナミックでスリリングなよい演奏だった。

「無人島」序曲は録音も含めて初めて聴いた。なかなかおもしろい曲。ともあれ、アントニーニがかなりダイナミックな演奏をすることはわかった。そして、ヴァイオリン協奏曲。

アントニーニはムローヴァに遠慮したのかもしれない。指揮は少々中途半端だった。古楽系の指揮者にありがちな強弱の激しい疾風怒濤風の音楽で、ティンパニが小気味よく出てくる。ほかの楽器もしっかりと指揮に即している。だが、もっと強調したそうなのに一歩手前で終わっている感じ。ムローヴァはとても繊細で美しく、しかも厳しい音。時々かなりアグレッシブに音の強弱をつける。

それはそれで大変おもしろかったのだが、感動したかというと、それほどでもなかった。ムローヴァが何度か音を外したような気がしたし、かつてのムローヴァの凄みのようなものを感じることができなかった。かつてのムローヴァはもっと張り詰めた切迫感のようなものがあったのだが、そのような緊張感を少なくとも私はあまり感じることができなかった。指揮者の盛り上げ方もあまりに古楽にありがちでワンパターンに思えた。

カデンツァはオターヴィオ・ダントーネという現代作曲家のものだという。初めて聴いたと思う。ところで、ムローヴァはときどきオーケストラの第一ヴァイオリンと一緒に同じ旋律を時々弾いていた。そのような版があるのだろうか。それとも、手持ち無沙汰だから弾いたのか。ネマニャ・ラドゥロヴィチがそのようなことをしているのを見たことはある(ネマニャだったら、何をしても許される!)。あ、それからテツラフも同じようにしていたような気がしてきた。もしかしたら、最近の流行なのだろうか。

ムローヴァのアンコールはバッハのパルティータの「サラバンド」。これも同じ印象を抱いた。もちろん、とてもいい演奏。素晴らしい演奏といっていいと思う。弱音が美しく、深みを感じさせる。が、感動に震えるには至らなかった。

交響曲については、協奏曲と異なって指揮者が思うがままに振った感じがした。協奏曲よりもオーケストラはずっと刺激的でダイナミック。やはりティンパニがバシッと出てくる。おそらくほかの指揮者の場合よりもほんの一瞬早く出るのだと思う。ヴァイオリン協奏曲と同じように、やはり古楽にありがちな演奏なのだが、遠慮なしに演奏しているので、ビシビシと決まっていく。弦を強く響かせスケール大きく演奏する。とりわけ終楽章の音の重ね方がとてもダイナミックだった。

とても良い演奏だと思いながらも、ただ実を言うと深く感動したわけではなかった。確かにダイナミックで振幅の大きな演奏で、とても躍動感がある。とてもスリリングでエクサイティング。だが、古楽の指揮者だったらこのように演奏するだろうな・・・という予想通りに進んでいくという思いを拭いきれなかった。このような演奏は、これまで何度も聴いてきたような気がしたのだ。いずれにせよ、もう少しこの指揮者を聴いてみたいと思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

拙著「65歳から頭がよくなる言葉習慣」、「小論文 これだけ!Q&A編」、「小論文これだけ! 模範解答 医学・看護・医療 編」(共著)刊行

拙著が数冊刊行されたので、紹介させていただく。

6551diazonbhl_sx341_bo1204203200_65歳から頭がよくなる言葉習慣」(さくら舎)は、毎日、楽しみながらちょっとした言葉の体操をすることでボケを防いで知的になろうとするための本。気楽に読めて、それなりにためになる本にしたつもりだ。「語りおろし」の本であるため、話し口調でわかりやすく、私の言葉についての考えを披露している。また、「おぬし、できるのう。拙者と手合わせ願おうか」という言葉を現代語に訳そう・・・というような簡単な問題を考えながら、語彙を増やすためのノウハウを示し、この種の問題を提示している。言葉による頭の体操に役立つ本だと思っている。

51dbeptulml  東洋経済新報社からも、大学受験生向け「小論文 これだけ!」シリーズの2冊を新たに出した。「Q&A編」は、しばしば寄せられる小論文についての質問、疑問に丁寧に答えた1冊だ。小論文とは何か、どう書けばよいのか、どう勉強すればよいのかについて、これまで私が受けてきた質問に答えたつもりだ。わかりやすく使いやすい参考書になっていると思う。

51se64so4pl 小論文これだけ! 模範解答 医学・看護・医療 編」(共著)は、医学・医療系でしばしば狙われる問題10題について模範解答と悪い解答を示して、この分野を志望する受験生に必要な知識を増やし、どのような小論文を書けばよいかを示している。この本もすぐに役立つ本になっていると思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ヴァルダの映画「百一夜」「アニエスの浜辺」「幸福」、デュラスの映画「アガタ」

先日、ヴァルダのシネ・エッセイというべき「顔たち、ところどころ」をみてとてもおもしろいと思った。まだみていないヴァルダ映画のDVDを購入。ついでに、マルグリット・デュラスが監督した映画も見た。ヴァルダとデュラス。私の大好きなフランスの女流映画監督だ。簡単に感想を記す。

 

81415uldzll_sy445_ 「アニエス・ヴァルダの百一夜」 アニエス・ヴァルダ 1994

 映画の権化といえるような100歳になる老人ムシュー・シネマ(ミシェル・ピコリ)を中心に、この老人のもとに通って映画の話を百一日続けるというバイトをする女性(ジュリー・ガイエ)や、老人のもとを訪れる映画人との間の様々なエピソードから成る。特に脈絡はないが、往年の映画のパロディがあり、大スターたちも次々登場する。ありものの映像ではなく、この映画のためにセリフを得て登場するスターだけでも、マルチェロ・マストロヤンニ、カトリーヌ・ドヌーヴ、アラン・ドロン、ロバート・デ・ニーロ、ジャン・ポール・ベルモンド、ジェラール・ドパルデュー、アヌーク・エーメ、ジーナ・ロロブリジーダなどがいる。何という豪華さ! このような人々が過去の様々な映画を再現し、友人である大スターたちと映画の思い出話をする。この映画の中で元気な姿を見せてくれたスターたちの多くが今ではこの世にはいないのは残念だ。

私が盛んに映画を見ていた時期のスターたちなので、とても懐かしい。今の若い人にはわからないであろう「ひねり」も私にはかなり理解できる。ニヤリとするところもたくさんある。映画好きたちの他愛のない映画談義として、実におもしろい。自由に飛躍し、想像をはばたかせ、映画の中の様々な人生を追体験できる。私にはとても楽しい映画だった。

 

81zdkjbnnl_sy445_ 「アニエスの浜辺」 アニエス・ヴァルダ 2008

 80歳に近づいたアニエス・ヴァルダのシネ・エッセイ。南フランスの港町セート(フランス文学を学んだことのある人間にはヴァレリーの故郷としてなじみがある!)で子供時代を過ごしたヴァルダが、人生の中で大きな意味をもった浜辺にカメラを据えて、子どものころからのヴァルダ自身の人生を語る。

過去と現在、再現場面と現実の場面、そして映画の中の場面が自由に交錯する。ヴァルダの「5時から7時のクレオ」や「幸福」、ヴァルダと長年連れ添ったジャック・ドゥミの「シェルブールの雨傘」が映し出され、それらが作られた当時の状況が説明される。画面の一つ一つにヴァルダの自由で初々しい精神があふれている。写真を撮ったり映画を作ったりして出会った映画人や文化人、市井の人々へのヴァルダの愛情と関心に共感する。映像の美しさも格別。とびっきりの美的センスを持っていることがよくわかる。当時の映画を見ていない人にも、その楽しさが伝わると思うが、ヴァルダやドゥミの映画が大好きだった私にはことのほかうれしい映画だ。ワクワクしながら見終わった。

 

51a6tgmvwel 「幸福(しあわせ)」 アニエス・ヴァルダ 1964

 今から50年以上前、日本封切時にみて心の底から感動した大好きな映画。自宅にあるDVDを探したが見つからなかったので、新たに購入して、久しぶりにみた。やはり本当にすごい映画。わめくわけでも大騒ぎするわけでもない。美しい色彩で淡々とさりげなく男女の日常を描く。それでいて、この上なく残酷な人間の真実を描き出す。

 パリ近郊の町で妻子とともに幸せに暮らすフランソワ。近くの森(たぶんヴァンセンヌの森)で家族とのピクニックを楽しんでいる。ところが、仕事で家を離れた時、郵便局に勤める女性エミリと知り合い、愛し合うようになる。フランソワは素直に二人の女性を愛し、それを妻に認めてもらおうとする。だが、告白した直後に妻は溺死(おそらく自殺)する。それからしばらくして、エミリがフランソワの妻になり、以前とそっくり同じように幸せな家族のピクニックが続けられる。

 男のわがままが描かれるが、女性問題を扱っているわけではないだろう。人間の心は移り行く。男でも女でも。そのような普遍的な真実を描いているのだと思う。人々は幸せだと考えて日々を生きている。だが、その幸せはすぐに暗転するかもしれない。そして、かけがえのない人間であっても、別の人と交代して何の支障もなく「幸せ」は続いていくかもしれない。そのようなごく当たり前の真実を見せてくれる。

 幸せな場面で金管楽器に編曲されたモーツァルトのクラリネット五重奏曲が流される。そして、悲劇的な場面では「アダージョとフーガ ハ短調」が流される。その効果も素晴らしい。これほど雄弁にモーツァルトの曲が映画に用いられた例を私はほかに知らない。

 

519nafprul_sy445_ 「アガタ」 マルグリット・デュラス 1981

 デュラスは私の大好きな作家だった。大学1年生の時、「モデラート・カンタービレ」を読んで衝撃を受けた。フランス語の勉強を始めた時、原書を買って辞書を引き引き最初に読んだのも、この本だった(ついでにいうと、2冊目が「異邦人」だった)。当時の私の心の中では、デュラスとアニエス・ヴァルダは結びついていた。同じような作風の二人の女流だと思っていた。

デュラスが映画を作り始めたと知って、見たいと思ったが、当時「ラ・ミュジカ」しか見られなかった。その後、デュラスの小説はほとんど読んだが、デュラスが監督した映画のことは忘れていた。最近になって「アガタ」のDVDが発売されていると知って購入した。小説の「アガタ」を読んだ記憶はあるが、内容はまったく覚えていなかった。デュラスの小説を盛んに読んでいたのも、もう30年以上前のことだ。

 映し出されるのは人気のない海辺とがらんとしたホテルの内部。そこに男女の会話の声が重ねられる。過去を共有していそうな、しかし妙に他人行儀な口ぶりが混じる話。まさにデュラス特有の世界! この雰囲気が私は大好きだった。10分くらいしてやっとアガタらしい女性(ビュル・オジエ)が登場する。切れ切れの省略の多い会話によって、男女が実は兄と妹であって、その二人が浜辺のヴィラで男と女として交わった過去があらわになる。そして、永遠の愛、死、人と人のつながりがきれぎれに語られる。避けられない生と死、必死にまさぐり合う愛、人間を包み込む非情な自然、絶対的に静謐な空間、生身のリアリティが消されて音楽の楽譜のように抽象化された登場人物。久しぶりにデュラスの世界を味わった。そして、これは20代から30代にかけての私が夢想していた世界でもあった。

 きっとこの映画を好きだという人は世界中にそれほど多くないだろう。が、私はため息が出るほど、今もこの世界が好きだ。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

ブロムシュテット+N響のブルックナー第9番 自然な中に崇高なものが現れた!

 20181013日、NHKホールでNHK交響楽団のコンサートを聴いた。指揮はヘルベルト・ブロムシュテット、コンサートマスターはライナー・キュッヒル、曲目は前半にモーツァルトの交響曲第38番「プラハ」、後半にブルックナーの交響曲第9番。

 実は前半の「プラハ」にはいつものブロムシュテットとは違って躍動感を感じなかった。反覆を省略しなかったせいもあるのかもしれないが、いつまでも終わらず、聴いていて退屈した。が、ブルックナーは素晴らしかった。奇跡の91歳だと思った。

 前日もインキネン指揮、日フィルの演奏で同じ曲を聴いたばかりだった。サントリーホールの席がよくなかった(音のバランスが悪く、金管楽器ばかりが浮き上がって聞こえた)せいもあるかもしれないが、実に落胆したのだった。だが、今日は満足。なんという違いだろう! インキネンもブロムシュテットもともに誇張しないで音楽を進めていくタイプだと思うが、ブロムシュテットはリズムが生き生きしており、音楽の構築に破綻がなく、ぐいぐいとオーケストラを推進していく。N響の音の重なりも見事。透明で張りのある音。管楽器もとても美しい。音楽がうねりを成し、自然に高揚して、崇高なものが現れる。少なくとも私の席(2階R席)からはオーケストラ全体がまとまりよく聞こえた。

昨日、インキネンの指揮を聴いて、ただ音の交通整理をしているだけのように感じ、崇高なものをまったく感じなかったが、ブロムシュテットで聴くと、宗教的とは言えないにせよ、何かしら崇高なものがそびえたつ。しかも、まったく誇張せず、力まず、無理やり崇高にしようとしないのに、崇高になる。ただ実を言うと、第3楽章はもっと悲痛にもっと劇的に演奏するのが私の好みなのだが、ブロムシュテットの素直な演奏に納得する。あっさり目の作りだが、これがブロムシュテットの持ち味だろう。何度も感動に身が震えた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

インキネン+日フィルのブルックナー第9番 退屈だった

20181012日、サントリーホールで日本フィルハーモニー交響楽団の定期演奏会を聴いた。指揮はピエタリ・インキネン。曲目は前半にシューベルトの交響曲第5番、後半にブルックナーの交響曲第9番。インキネンはプラハ交響楽団を指揮した演奏を聴いて、一度日フィルの演奏も聴いてみたいと思っていた。

 客は三分の二も入っていない状態。なぜこんなに人気がないのだろう・・・と不思議に思って聴き始めたが、曲が鳴り始めて、確かにこれでは人気の出ようがないことに納得した。

 シューベルトについては、特にどうということのない演奏。ただ鳴っているだけだった。さすがにブルックナーになったらそんなことはないだろうと思っていたが、ブルックナーも同じだった。いや、まだシューベルトのほうがよかったかもしれない。

 インキネンがどのような意図でこのような演奏をしているのか、私にはよくわからない。シューベルトに関しては、きれいに鳴らすことを心がけているのだろうか。ブルックナーについては、できるだけ力まないように、できるだけ激しい音を出さないように心がけているとしか思えなかった。かといって、抒情的なわけでもないし、論理的にぴしゃりと決まっているわけでもない。とりとめもなく音楽が流れていく。きっとそのような演奏をしたいのだろうと思う。とりとめのなさに、きっとインキネンはブルックナーの美しさを感じているのだろう。世の中にはそのような美意識の人もいるだろう。が、やはり私は、それではあまりに退屈だった。とりわけ、第3楽章にいたっては、平板でのっぺりで、まったく盛り上がりなく終わった。日フィルについては安定した音を出しており、とりわけ金管はよかったが、指揮がこれではどうにもならない。インキネン指揮のブルックナーについては少なくとも、もう足を運ぶのをやめようと思った。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

映画「バッド・ジーニアス」 カンニングを切り口におもしろく社会矛盾を描く

 タイの映画「バッド・ジーニアス 危険な天才たち」(ナタウット・プーンピリヤ監督)をみた。タイは大好きな国。タイの映画が大ヒットして話題になっているとあっては、みないわけにはいかない。とてもおもしろかった。

 良家の子女の通うタイのエリート校につましく暮らす教師の娘のリンが入学してくる。リンは成績抜群。勉強のできない友人の手助けをするうち、お金持ちの子女たち相手にお金を取ってカンニングの手助けを始めるようになる。そして、ついには、もう一人の成績抜群の貧しい男子生徒バンクも巻き込んで国際的な大学入試資格試験(STIC)での大掛かりな不正を行う。

「ネタバレ」になるので、ストーリーについてはこれ以上書かない。が、手に汗握る展開。大袈裟な音響によってカンニングを大サスペンスとして描き、娯楽作品として面白く見せながら、しっかりとタイ社会の矛盾も突く監督の手腕に驚く。お金持ちが社会を牛耳り、子どもに地位を継がせようとするが、良家の子どもたちは遊び惚けるばかり。貧しい家の子どもたちは学歴を積むしか上層に浮かび上がる道はないが、良家の子女たちにお金で誘惑される仕組みができている。そんな社会矛盾が浮かび上がる。サスペンスを高める手法も、ちょっと笑わせてくれるところが、実にいい。

しかも、観客は真面目で素朴な父親の愛情にもほろりとし、リンの心情にも感情移入して、いつの間にか深く感動している。そして、もちろん最後には、カンニングを肯定するわけではなく、落ち着くべきところに落ち着く。そのあたりの着地の仕方も実に見事。

 リンを演じる女の子(チュティモン・ジョンジャルーンスックジンという長い名前! 黒木華にとてもよく似ている!)の演技力にもびっくり。お父さん役の役者さんも、バカっぽい同級生を演じる俳優さんたちも好演。

 少し前までタイの小説や映画は生真面目なものばかりだった。こんなに楽しませてくれる映画が現れたのは実に嬉しい。ただ、個人的に少し残念だったのは、舞台が学校内や室内ばかりで、タイの町の様子がほとんど見られなかったこと。市街地の場面などがあるともっと嬉しかった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

新国立「魔笛」 大きな感銘は受けなかった

 2018108日、新国立劇場で「魔笛」をみた。

 歌手陣については特に傑出した歌手はいなかった。タミーノのスティーヴ・ダヴィスリムはとてもきれいな声。パパゲーノのアンドレ・シュエンもまじめな歌いっぷり。ただ、二人とも歌の表情も演技も少々硬い。味わいや面白みを十分に感じなかった。ザラストロのサヴァ・ヴェミッチもとてもいい声なのだが、自在に歌っているようには思えなかった。

日本人歌手は外国人歌手たちにまったく引けを取らない歌と演技だった。夜の女王の安井陽子はきれいな高音をしっかりと出した。パミーナの林正子も色気のある歌い回しはとてもよかった。日本人歌手のレベルの高さを改めて感じた。そのほか、増田のり子・小泉詠子・山下牧子の三人の侍女、モノスタトスの升島唯博、パパゲーナの九嶋香奈枝もとてもよかった。

 映像やアニメやドローイングを多用したウィリアム・ケントリッジの演出(新国立劇場では新演出ということになるが、この演出自体は2005年以来ヨーロッパのいくつかの劇場で上演されてきたらしい)。それはそれで変化はあるのだが、何を主張しているのが私にはとらえきれなかった。幾何学的、科学的なドローイングが多かった。ザラストロの語る理智主義を象徴しているのだろう。だが、それにどういう意味があるのか、このオペラをどうとらえているのかははっきりしなかった。映像で銃によって犀が殺される場面があった。理智主義の行きつく先としての武器の開発と殺戮について語っているのかと思ったが、そうでもなさそうだった。結局、新しさはアニメとドローイングだけで、解釈的に踏み込んだところはなかったように思う。むしろ、映像やドローイングのために演技のタイミングが合わせづらくなって間延びしているところが何か所かあったように思えた。

 今回の上演で私が最も不満に思ったのはローラント・ベーアの指揮だ。ミラノ・スカラ座でも振っている人らしいが、私はオーケストラに勢いを感じなかった。それなりにまとめているだけで少しも踏み込もうとせず、オーケストラを推進していかない。これではモーツァルトの音楽にならないと思った。東京フィルハーモニーの責任ではないと思うが、私にはオーケストラも間延びしているように聞こえた。いつもは素晴らしい新国立劇場合唱団の歌声もびしりと決まらなかった。

 一言で言えば、今日の「魔笛」は、日本人歌手もなかなかのものだということを改めて認識させてくれただけで、残念ながらさほど大きな感銘を与えてくれなかった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ネマニャの音楽にまたも魂を揺り動かされた

2018107日、浦安音楽ホールでネマニャ・ラドゥロヴィチのヴァイオリン、ロール・ファヴル=カーンのピアノによるリサイタルを聴いた。4日に浜離宮朝日ホールで聴いたのと同じプログラム。すなわち曲目はフランス系のヴァイオリン曲。前半にサン=サーンスの「死の舞踏」とフランクのソナタ、後半にドビュッシーのソナタとショーソンの詩曲、そしてラヴェルの「ツィガーヌ」。 ホールが小さくて響きがよいせいか、私は前回以上に興奮した。

 精緻な演奏。しかもいっそうダイナミック。前回はネマニャ が伴奏者との掛け合いをかなり気にしている様子が見えたが、今回は完全に信頼した様子。聴いている私は何度心を掻き乱されたことか! 音楽が躍動し、魂が躍動する。細くて鋭い音が聴くものの魂を揺り動かす。細くて鋭くて怜悧といえるような音なのだが、熱い魂がのっているので、けっして冷たくは感じない。

 フランクのソナタの第2楽章が終わったところでネマニャが舞台袖で引っ込んで何かを手に持ってきた。松ヤニらしい。第3楽章が始まってから、ちょっとした合間に松ヤニを弓に塗った。ネマニャが激しく弓をうごかすと松ヤニの粉が煙のようには空中に何度か広がった。音楽もそれと同時に大きく広がった。

 前回よりはフランクの出来はかなり良かったと思う。まだちょっとピアノの弱さを感じるが、それでもしっかりとネマニャを支えている。第2楽章と終楽章の盛り上がりは素晴らしかった。

 ドビュッシーのソナタも前回同様、ドビュッシーの心の動きをそのままたどるような初々しくて感受性豊かなヴァイオリン。きっとドビュッシーは意識の流れそのものをこのヴァイオリンの音に託したのではないか。そう思った。「詩曲」もよかったが、「ツィガーヌ」が圧倒的だった。前回も凄かったが、今日はもっと凄かった。私の全身が揺り動かされた。感動した。

 2年ぶりのネマニャはいっそう凄さを増していた。来年もまた来日するとのこと。今から楽しみでならない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ネマニャのヴァイオリンに酔った!

2018104日、浜離宮朝日ホールでネマニャ・ラドゥロヴィチのヴァイオリン、ロール・ファヴル=カーンのピアノによるリサイタルを聴いた。素晴らしかった。

曲目はフランス系のヴァイオリン曲。前半にサン=サーンスの「死の舞踏」とフランクのソナタ、後半にドビュッシーのソナタとショーソンの詩曲、そしてラヴェルの「ツィガーヌ」。

「死の舞踏」ですでに多くの観客がネマニャの音の虜になったのではないか。聴いている人の心を鷲掴みにするような躍動する音楽。しかもこの上なく繊細で美しく透明な音。まさしく不気味で妖しく、しかも華麗な死の舞踏が繰り広げられる。この曲の冒頭、私の知らないメロディが出てきたのだが、ふだん演奏されるのとは別のヴァージョンなのだろうか。

 フランクのソナタはまさしく正攻法。

 私は10年ほど前ナントのラ・フォル・ジュルネでこの若いヴァイオリニストの驚異の音楽を知ってからネマニャを追いかけている。ファンクラブ結成を呼び掛け、ファンクラブ・プレピスカの初代会長を務めたのも私だ。

以前は20歳そこそこの男の子の演奏する怖いもの知らずの躍動する音楽だった。鬼気迫るものがあったが、音楽そのものの楽しさが心の底から爆発するような音楽でもあった。ところが、今ではネマニャも成熟し、外面的な効果を追いかけるのでなく、もっと真摯に深い音楽を創り出そうとしている。以前のネマニャだったらもっと派手に情熱を表に出すところをあえて抑え気味にしている。とりわけ第一楽章は抑え気味にして、徐々に盛り上げていく。

 ただ、この曲に関しては私はファヴル=カーンのピアノがヴァイオリンとかみ合っていないように思えた。バランスよくぴしりと決まらず、バタバタする感じがした。フランクのソナタはピアノの役割が大きい。ちょっと力不足を感じた。

 後半のドビュッシーはピアノも含めて素晴らしいと思った。これも、いじろうと思えばいくらでもいじれる曲だと思うが、ネマニャは正攻法で演奏する。透明な音でドビュッシーの音符の奥にある内向的で静かな心をえぐりだすかのよう。フランクよりも拍手が少なかったが、私はこの曲の演奏のほうが素晴らしいと思った。このように内部まで突き刺さるような初々しいドビュッシーのソナタを初めて聴いた。まさしく生きた音楽だと思った。

 その後の「詩曲」と「ツィガーヌ」についてはまさにネマニャの独壇場。詩曲はロマンティックの極致を描く。透明で美しい音。だが、けっして感情過多にはならない。形が崩れない。私は何度も感動に身を震わせた。

「詩曲」があまりに素晴らしく、ネマニャが動きを止めたままだったこともあって拍手は起こらず、そのままネマニャは「ツィガーヌ」を弾き始めた。ファヴル=カーンはそれを予期していなかったようで、あわてて譜めくりの男性に指示、男性は一度舞台から離れて楽譜を持って戻ってきた。

 最高の「ツィガーヌ」だった。華麗で透明で音程がびしりと決まり、まさに躍動する。ダイナミックで情熱的。だが、構成感が抜群なので、まったくゆるぎない。本当に素晴らしい演奏。この曲でも私は何度も感動に震えた。アンコールはモンティのチャルダッシュとドヴォルザークの「母が教えてくれた歌」。何という美しい音。

 久しぶりにネマニャの音楽を聴くことができた。満足だった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

映画「とうもろこしの島」「みかんの丘」「あの日の声を探して」「シビラの悪戯」「禁じられた歌声」「きっと、うまくいく」

 ジョージアやアフリカやインドの映画を数本みた。簡単な感想を書く。

 

51mycs6pl_sy90_ 「とうもろこしの島」 ゲオルギ・オヴァシュヴィリ監督 2014

 とても美しい感動的な映画。昔の新藤兼人監督の「裸の島」を思い出した。新藤の映画は夫婦(殿山泰司と音羽信子)が島で働く様子をほとんど会話のない映像でとらえていたが、「とうもろこしの島」は老人と孫娘の働く様子を、これまたほとんど会話のない映像で綴る。

 ジョージアの紛争地帯にあるエングリ川には、雨期の後に肥沃な中州ができる。ある老人が孫娘とともにそこにやってきて小屋を作り、とうもろこし畑を作る。そこに敵に追われたジョージア軍の兵士が重傷を負って逃げてくる。二人はそれを助け、孫娘は兵士に惹かれ始める。だが、敵軍に追われて兵士は去る。何事もなかったようにかつての生活が始まり、収穫が近づく。ところが、急激に大雨になったため、とうもろこしを小舟に載せて去ろうとするとき、老人は足を取られて舟に乗り込めず、川に流されていく。そして、数か月後、今度は別の老人が新たにできた中洲にやってきて、同じようにとうもろこしを作ろうとする。

 四季があり、自然の過酷な営みがあり、人間同士の争いがある。だが、そこで農民は土地を耕し生きていく。セリフのほとんどない映画であるだけに、むき出しの「生」を感じる。男と女が惹かれ合い、戦い、懸命に生きる。それだけの映画なのだが、美しい映像とともに心の奥にしみる。

 

518xpifj1sl_sy90_ 「みかんの丘」 ザザ・ウルシャゼ監督 2013

日本では「とうもろこしの島」と同時上映された。2本の予告編を見たのを覚えている。ジョージアのアブハジア自治区で独立戦争が起こっている頃、みかんを栽培するエストニア人の集落に高齢の二人のエストニア人が残っている。そこに戦いが起こり、同じ家にともに重傷を負ったキリスト教徒のジョージア人とイスラム教徒でアブハジア自治共和国を支援するチェチェンの傭兵の二人が介抱されることになる。二人の世話をする老人イヴォ(レムビット・ウルフサク)の仲立ちで敵同士の二人は心を通わせ始めるが、不寛容な兵隊たちが現れて撃ち合いが起こり、ジョージア人は殺される。

悲劇的な結末に終わるが、うまくすればそうならなかったのではないか。ちょっと唐突で安易な気がしないでもない。中立的なエストニア人のところに敵対する二人が運ばれるという設定自体、寓話として描いているにしても、あまりに図式的すぎる。そのような点で私としては素直に感動できない部分があった。とはいえ、映像は美しく、主役の老人も魅力的(ただ、役柄のわりにちょっとカッコよすぎる!)であって、なかなかの佳作ではある。

 

51nqgjxokll_sy90_ 「あの日の声を探して」 ミシェル・アザナヴィシウス監督 2015

 チェチェン紛争を舞台にしている。テロ組織壊滅という名目でロシア兵がチェチェンに進攻するが、実際には略奪、暴行、無差別殺戮が行われる。ロシア兵に両親を殺された9歳の少年ハジは小さな弟を連れて逃げ出し、手に負えなくなって弟を放置、自分も声を失って放浪する。EU職員でチェチェンに派遣されているフランス女性キャロル(ベレニス・ベジョ)に救われ、ともに暮らすようになる。最後にはハジは姉と再会して家族に戻る。そうしたストーリーと、ロシア軍に入り、理不尽が通用する軍の中で生き抜くうちに人間らしい感覚をなくし暴力的になっていく若者が並行して描かれる。

 とてもよくできた映画だと思う。一般の国民が犠牲になる戦争の悲惨をわかりやすく描いているし、声を失った少年の気持ちもよくわかる。略奪や殺戮を受け入れる人間になっていく若者のすさんだ気持ちもよく描けている。キャロルを演じるベジョも同僚女性を演じるアネット・ベニングも魅力的。ただ、これと同じような映画はこれまで何度も見てきた気がする。それ以上の映画には思えない。

 

21qh21yvcml_sy90_ 「シビラの悪戯」 ナナ・ジョルジャーゼ監督

 ジョージア出身の女性監督ナナ・ジョルジャーゼの映画。14歳の美少女シビラ(ナッサ・クヒアニチェ)が学校の夏休みに親戚のいるジョージアの田舎町にやってくる。少年はすぐにシビラに恋に落ちるが、シビラはその少年の父親に恋し、誘惑しようとする。父親のほうは村のきれいどころ何人かとすでに不倫関係にある。そのような村の人々の様子を描く。

トルナトーレ監督の「マレーナ」によく似た雰囲気。フェリーニの「アマルコルド」も思い出せてくれる。それらの影響を受けているのかもしれない。イタリア的な人間模様があり、ファンタジックな映像(海底に沈んだ船を陸にあげるフランス人の船長のエピソードなど)がある。最後、シビラが父親を誘惑しようとするが、誤解した息子に撃たれる。

 村で「エマヌエル夫人」が上映されるというので騒ぎになっていたり、何度もシビラの裸身が映し出さたり、浮気性の人妻のセックス話が出てきたりして異様なまでにエロティック。ただ、女性監督であるだけに、とても美しい。とはいえ、やはりフェリーニやトルナトーレなどの巨匠の映画ほどの躍動感も人生の機微もなく、ただ14歳の少女の魅力を見せつけるだけの映画で終わっている。確かに目を見張るような魅力的な少女ではあるが、特に美少女趣味のあるわけではない私としては、この映画にあまり惹かれなかった。

 

51mnsaiz21l_sy90_ 「禁じられた歌声」 アブデラマン・シサコ監督 

 マリ共和国の都市ティンブウクトゥを舞台に、イスラム過激派が街を支配していく恐怖を描く。原題は「ティンブクトゥ」。この映画の中心は歌を歌うのを好む男とその妻、そしてその娘。男が牛について諍いから猟師を死なしてしまい、死刑になる物語を中心にティンブウクトゥの町の人々を描く。街では歌もサッカーも禁じられ、何もかもが支配者たちの思うようになっていく。なかなかリアル。

 ただハリウッド映画ふうに政治的恐怖を強烈に描くのではなく、西アフリカの人々の自然の中で生きる人々の生活を淡々と描く。むしろ、平和で淡々とした日常の中に独善的な人々が現れて静かに支配していく様子を描いるといえるだろう。ただ、焦点がどこにあるのかわからず、多くの登場人物のキャラクターも描かれないので、特に感情移入することもなく、共感するわけでもなく、そもそも監督が何を言いたいのかもよくわからない。散漫な印象を受けた。ティンブクトゥの魅力的な景色に惹かれただけの映画だった。

 

81ldjduigbl_sy445_ 「きっと、うまくいく」 ラージクマール・ヒラニ監督 2010

 インド映画。面白さという点では最高だと思う。久しぶりにこんな愉快で痛快で笑えて感動できる映画をみた。インド映画はこれまであまり見ていないが、こんなに面白いのだったら、これから病みつきになりそう!

 エリート大学が舞台。そこに合格したが、やる気のない二人の劣等生(R.マーダヴァン、シャルマン・ジョーシー)と、ずば抜けた能力を持ちながらも競争重視の学長の方針に歯向かって二人の劣等生と行動をともにするランチョー(アーミル・カーン)。いわばこの三人(この映画の英語タイトルは「3 idiots」要するに「三バカ」)が大学に混乱を巻き起こし痛快に解決して、ともあれ最後には三人とも自分の生き方を見つけ出す物語だ。そこには、「勉強は成功のためにするものではない。学識を積めば成功はおのずとついてくる」「ひとつの方向に向かっての競争はやめて、自分らしい道を探そう」「とりあえずやってみよう。きっとうまくいく」というメッセージがとても説得力を持って語られる。

そして、なによりも映画の作りが実に見事。ミュージカル風になるところも実に自然で、本家のハリウッド製のミュージカルよりもずっと洗練されている。娯楽大傑作だと思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2018年9月 | トップページ | 2018年11月 »