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ジョージア映画祭前半

 1013日から岩波ホールでジョージア映画祭が開かれている。1026日まで、短編映画を含めて、全20作が上映される。ジョージアは映画の盛んな国だという。私はずっと昔「放浪の画家ピロスマニ」をみただけだったが、最近になって新たに何本か見てとても大きな感銘を受けた。ジョージアという国にも大いに関心がある(来年にはジョージア旅行をしようと計画している!)。そんなわけで、全部をみられるかどうかはわからないが、時間と体力の許す限り、できるだけたくさんみようと思って、岩波ホールに通い始めた。

 これまでみた映画の感想を簡単に記す。

 

「西暦2015年」 ハトゥナ・フンダゼ監督

 ジョージア・フィルムで働く三人の高齢の職員の日常を描く短編。フィルムや映画で使われた衣装などを手当てする様子が描かれる。ほとんど機能していないこの建物の一部を音楽の練習場として貸し出しているのだろう。そこでドラムの練習をしている若者がいる。映画の初めからずっとドラムの音が聞こえていたが、その正体が最後に明かされる。高齢男性はその音を「うるさい」といいながらも、その音をまねしているようだ。個の音が鳴ることによってこのセンターが過去から現在、未来へと続いていることを象徴している。

 

「デデの愛」 マリアム・ハチヴァニ監督 2017

 とてもおもしろかった。婚約者を愛することができず、その友人を愛してしまったデデ。婚約者が自殺したために、愛する人と結ばれ、子どもをもうけるが、その結果、村人たち、とりわけ婚約者の親族を敵に回して生きることになる。デデは男性中心社会のなかで自分を貫こうとするが、そうすればするほども問題が厄介になり、過酷な状況に追いやられる。男社会に屈服するほかの女性たちもデデに同情を示さない。

これは現代のジョージアの物語。田舎社会ではこのような因習が残っているのだろう。このタイプの物語に類は多いが、登場人物の肉付けが的確で、山間の村の風景、ジョージア社会の因習などがリアルに描かれているため、既視感はない。それにしても自然が美しい。そして子どもたちの表情もとてもいい。

 

「他人の家」ルスダン・グルルジゼ監督 2016

 アブハジア紛争後、ジョージア人が着の身着のまま逃げた村の家々に、戦争で家を失った別のいくつかの家族が入居する。が、他人の家になじむことができず、自分の居場所を失ってアイデンティティを疑い始める。そのような状況を象徴的、幻想的に描いた映画。ある種の哲学映画。二組の家族のそれぞれの人間が自分を失っていくが、私が無知なためか、社会背景がよくわからず、登場人物の一人一人が何を悩んでいるのか、なぜそのような行動をとるのかわからなかった。しかも、これまた私の能力の欠陥だと思うが、登場人物の顔を識別できず、ときどき混乱した。美しい風景の素晴らしい映像だが、この映画を見て「さっぱりわからん」と思うのは私だけではないだろう。

 

「少年スサ」 ルスダン・ピルヴェリ監督 2010

 母親の働く不法のウォッカ工場でウォッカの密売の仕事をして貧しい家計を助ける小学生程度の少年。学校にいっている様子はなく、ガラスを割って自分で万華鏡を作ってほとんど唯一の娯楽にしている。ワインを売りに行っては、警官に追われ、与太者にせっかくの収入を巻き上げられながら必死に生きる。出稼ぎに行っている父親が帰るのを待ち、それを機会に事態が進展すると信じ黙々と働くが、帰宅した父も意気地のない男でしかなく、うだつが上がらず、家族を助けてくれるわけではない。父が帰っても何ら事態は好転しない。けなげに働いた少年も最後には感情をむき出しにする。

それだけの話。それを克明にリアルに描いていく。日本の戦後のような廃墟のような場所や貧困層の住まい、いかがわしいお店、途上国特有の繁華街を的確に描く。ただ、私としては、もう少し事件が起こってくれないと、ものたりない。

 

「ダンサー」 サロメヤ・バウエル監督 2014

 バウエル監督の大学の卒業制作映画との表示が出る。ジョージアの民族舞踊を踊るそれぞれ世代の異なる三人の男性ダンサーの練習、日常の生活の様子などを描く短編映画。未来を目指して踊る少年と、いま世界で活躍しているダンサー(それでも舞踊だけで食べていくのは大変だという発言がある)、後進を指導する高齢のダンサー。ジョージアの人々にとってのダンスの意味、それに精魂を傾ける人々の思いなどが伝わってくる。

 

 

「微笑んで」 ルスダン・チコニア監督 2012

 とてもおもしろい映画だった。最後まで飽きずに見た。初めのうちは、「母親コンテスト」などとは無理な設定だと思ってみていたが、なかなかに重いテーマだった。

 テレビ番組で「ジョージアの母」コンテストが企画され、10人の女性が最終予選に勝ち残る。10人の女性は25000ドルと一軒の家が賞品の優勝をめざすが、このテレビ番組には理不尽な内容がいくつもある。女性たちはそれぞれの事情も抱えている。女の争いもある。それでも女性たちは、「微笑んで」といわれながら、にこやかにコンテストのイベントを行おうとする。だが、最後、女性たちはテレビ番組のあり方、審査員の理不尽に怒ってボイコットする。

 ジョージアの社会について知識がないので何とも言えないが、きっとジョージア社会がこのテレビ番組のようになっているのだろう。すなわち、一獲千金を狙い、競い合い、資本主義的に宣伝をし、すべて売り物にする社会、しかしそうでありながら、国家が母親の理想像、国民の理想像を押し付けてくる。それが実際には貧しくて、それぞれの事情を抱えている国民を苦しめている。

 主人公の一人であるシングルマザーのグワンツァはかつてヴァイオニストだったが、弾けなくなっていた。これを機会に人前でバッハの「シャコンヌ」を弾こうとするが、邪魔され、自尊心をことごとく壊され自殺する。紛争に苦しめられ、やっと芸術に目を向ける余裕ができたはずなのに悪しき資本主義化のためにそれができなくなっている社会状況を象徴しているのだろうと思った。

 

「大いなる緑の谷」 メラブ・ココチェシュヴィリ監督 1967

  モノクロ映画。牛飼いのソサナは人里離れたところで牛を飼って生きている。粗野でわがままな男だが、父を牛に殺されても許し、妻に浮気されても許して、頑固に自分の生活を守ろうとする。だが、周囲は近代化され、油田の開発が進んでいるために、徐々に時代に取り残され、周囲との軋轢も増えていく。妻は愛想をつかせて町に逃げだし、石油交じりの水を逃れて牛も逃げ出してしまう。途方に暮れながらも、牛を探し続ける。

 ソ連の近代化にこうして生きた男性の生き方を描いたといえるだろう。白黒の映像が美しい。ソサナの悲しみと絶望が伝わってくる。とても良い映画だと思った。

 

 

「ケトとコテ」 ヴァフタング・タブリアシュヴィリ+シャルヴァ・ゲデヴァニシュヴィリ監督 1948

 白黒のミュージカル映画。スターリンによる大戦後の国民を元気づけるために楽しくて明るいミュージカルを作るようにとの指示でできたという。舞台は1880年代。レヴィン公爵の甥のケトと大商人マカルの娘コテは愛し合っている。取り持ちの女性の勧めで公爵がコテと結婚しようとすることから混乱が起こるが、機転の利く女性ハヌマの知恵によってケトとコテは結ばれる。

 ストーリーはまるでロッシーニやドニゼッティ。ハヌマという女はロッシーニのフィガロのような存在。音楽はレハールなどのオペレッタを劣化させた感じ。ただオペラ、オペレッタ好きの私からすると、舞台上のオペラでこのような不自然な行動の多いストーリーが展開されても気にならないが、映画でこのように不自然だと、あれこれ突っ込みたくなる。それに、ケトもコトも大勢の仲間や民衆の支持を受け、みんなが二人のためを思って明るい顔で歌うといういかにも社会主義的演出が、私には不快だった。

 社会主義を謳歌するはずのミュージカル映画であっても、楽しいおとぎ話にするには、公爵の甥と大富豪の娘を主人公にするほうが作りやすかったのだろう。そこに社会主義的思想を入れるために、無理やりケトもコテも民衆に支持されており、それを阻もうとする公爵と商人は権威主義的という枠組みになっている。これまたあまりに不自然。

 喜劇でよく用いられる二者が対になった対称形の物語という点は面白く思った。二人の主人公の名前がケトとコテ(ketokote)。わかりやすいアナグラムをなして、二人は対称関係を成している。公爵と商人はともに太めの初老の男で対を成し、取り持ちの女とハヌマはよく似た衣装の中年女性で対を成している。商人の道化の召使2人も対になっている。ただ、人間の識別能力に難のある私は、ケトとコテを除いて対になった人物がとてもよく似ているので、人物を取り違えてしまって困った。

 大きな笑い声を上げてみている人が何人かいたので、おもしろいと思う人が多かったのだと思うが、私はあまり面白いと思わなかった。

 

「少女デドゥナ」 ダヴィド・シャネリゼ監督 1985

 元のフィルムがジョージアにはないため、監督自身が保存していた状態の悪いDVDをDCP化したものが上映された。

 山の中の小さな村で健気に生きる少女デドゥナ(小学校高学年くらい?)。学校の勉強もしっかりして、母のいない家で父の面倒をみ、近くに暮らす親戚に心配りをし、父がつれてきた少年の世話もする。そのような少女の日常を丁寧に描く。元のフィルムがないために画質はよくないとはいえ、実に美しい自然の風景。その中で生きる少女の自然な、そして懸命な姿が浮かび上がる。首都からヘリコプターで弦楽四重奏団がやってきて、シューベルトの「死と乙女」を演奏してまた首都に帰っていく。少年が夕食のお礼に鳥(みみずく?)をかごに入れて持ってくるが、デドゥナは鳥かごの扉を開けっぱなしにする。デドゥナは自然の中に閉じ込められた自分の状況を重ねて考えているのだろう。

 文明から閉ざされた中で暮らし、そこから解放されたいとひそかに願いながら自分の生活を守る人。それをデドゥナという少女に託して描いている。見事な抒情詩だと思う。

 

「メイダン 世界のへそ」 ダヴィド・シャネリゼ監督 2004

「少女デドゥナ」と同じシャネリゼ監督のドキュメンタリー映画。メイダンというのはジョージアの首都トビリシの旧市街地の土地名らしい。まさに世界のへそというべき場所で、ジョージア人のほか、アルメニア人、アゼルバイジャン人、ロシア人、ユダヤ人、クルド人が暮らし、キリスト教のほかユダヤ教、イスラム教が隣り合っている。ゾロアスター教の遺跡もある。人種、言語、宗教が入り混じって暮らす人々の日常を描いていく。インタビューされる人々の人生を経た顔や表情がおもしろい。ごたまぜの様々な人生を歩んできた人たちに寛容な土地であることがよくわかる。

 

「私のお祖母さん」 1929年 コンスタンティネ・ミカベリゼ監督

 サイレント映画。音楽のつかない完全に沈黙の映画。私がこれまで見たことのあるサイレント映画でいえば、キートンの喜劇とブニュエルの「黄金週間」を合わせた雰囲気。テーマとしては、ブルガーコフの小説「悪魔物語」を思い出す。

すでに革命の中心であるべき労働者のことも忘れて自分の出世のことしか考えず、他者には無関心。そんな官僚主義の人々をグロテスクに、時にブラックユーモアを交えて描く。「お祖母さん」というのは「後ろ盾」を意味する隠語らしい。職を失った官僚が新たな後ろ盾を得ようとしてあちこち駆け回る話が中心になり、そこ多くのギャグが加えられていく作りになっている。時にシュールになり、アニメが使用され、大袈裟に戯画化される。大声で笑っている人がいたので、おもしろいと思う人もいたのだろうが、私には笑いとしては不発だった。表現が大袈裟すぎて、笑うよりも、むしろ「引いて」しまった。

 この時代にこのような内容の映画を作れた(すぐに公開禁止になったということだが)ことに驚いたし、ブルガーコフやメイエルホリドの時代にジョージアでこのような映画が作られていたことは実に興味深いことだと思った。ただ、映画として心から楽しむことはできなかった。

 

「スヴァネティの塩」 ミヘイル・カラトジシュヴィリ監督 1930

 サイレントのドキュメンタリー映画。コーカサスのスヴァネティ地方ウシュグリ村を舞台にしている。冬が厳しく、孤立した貧しい村で、長い間、石の塔を築いて外敵から守ってきたらしい。その村に住む人々の貧しく厳しい生活を描く。塩がないために外から運ばなければならないが、孤立しているためにそれが難しい。人も動物も塩に飢えている。

苦難の中で生きる人に共感を寄せつつ文化人類学的に描いていると思ってみていたところ、後半、突然雰囲気が変わる。この村は悪しき宗教(キリスト教の一派だろう)に支配されており、ここでは出産を穢れたものとみなされ、妊婦は外に追い出され、しばしば生まれた子どもは死んでいくという(本当か? とかなり疑問に思った)。そして、革命政府が道路を作り、貧しく迷信にとらわれた人々を近代化していることを高らかに告げる形で映画は終わった。最終的にこのような形にしないとソヴィエト政府に批判されたのだろう。

美しい風景、閉ざされた辺鄙な村の生活、時代の抱える問題。あれこれ考えさせられる映画だった。

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