26年ぶりのカンボジア旅行
2018年12月8日から13日までカンボジア旅行をした。さすがにカンボジアに個人旅行するのは大変なので、クラブツーリズムのツアーに参加した。
1992年に一度カンボジアを訪れたことがある。今回は26年ぶり二度目のカンボジアということになる。
最初のカンボジア旅行については拙著「旅のハプニングから思考力をつける」(角川oneテーマ21)に少し書いた(なお、その少し前に出した拙著「頭がいい人、悪い人の話し方」が250万部のベストセラーになったため、それにあやかって編集部が「思考力をつける」というタイトルをつけたが、私としては旅行記のつもりで書いている)。その時には、内戦が終了してアンコール・ワット旅行が再開されたと聞いてすぐに申し込んだのだったが、プノンペンも目を見張る貧しさであちこちが混乱しており、シェムリアップでは銃声が聞こえ、血だらけの兵士が何人もトラックで運ばれるのをみた。プノンペンにも車はほとんどなく、バイクや自転車がけたたましい警笛やエンジン音をたてながら走っていた。その横をぼろ布を着た男女、素っ裸の子供たちが歩いていた。まさしく昭和20年代初めの日本の状況の南方版だった。
そして、今回の2度目のカンボジア旅行。12月8日午後、プノンペン到着。ガイドさんと空港で合流してバスでホテルに向かった。ツアーメンバーは15名。ほとんどが高齢(ツアーグループ内での交流もあったが、個人情報をさらしたくないので、メンバーについてはここでは触れない)。
空港からバスでホテルに行く間に、窓の外を見て驚いた。話には聞いていたが、想像以上の発展ぶり!一度破壊されて人工的に作られたせいだろう、むしろカトマンズやラホールやジャグ・ジャカルタなどよりずっと近代的で西洋的だ。高層建築もたくさん見える。街を歩いている人たちも、他のアジア諸国よりもむしろきちんとした服装しているように見える。交通標識も整備されているし、道も広い。遊歩道もあり、公園もあちこちにある。フランス風の建物も見える。
車の運転も他のいくつもの都市よりも穏やか。もちろん、南の国の例にもれず、大量のバイクが道を走っており、無理な割込みも多く、三人乗りのバイクもしばしば見かける。野良犬なのか放し飼いの犬なのか、街の中に犬の姿も多く見かける。初めて東南アジアを訪れたツアーのメンバーはバイクの数や乱暴な運転や町中の犬に驚いたようだが、このところ東南アジアにしばしば旅している私からすると、運転も穏やか、野良犬の数もそれほどでない。四人乗り、五人乗りのバイクをほとんど見かけない。
もっと驚いたのは中国の影だ。中華料理の店、中国語の看板のホテルや店が並んでいる。町のいたるところに中国語が氾濫している。ホテルに入って気づいたことだが。観光客も圧倒的に中国人が多い。ホテル内も中国人が圧倒的な大多数を占める。ホテル内で大声で響き渡るのはほとんどが中国語。もちろん、日本国内でも東南アジアの各国でも中国人観光客が多いが、カンボジアはその比ではないように思える。
12月9日はホテル(グリーンパレスホテル)に到着しただけでその後の予定はない。ホテル近くには屋台があり、レストランがあった。中華の店もいくつもある。だが、入る勇気が出なかったので、近くのコンビニ(KIWIというチェーン店)でカップラーメンとお菓子類を買って食べた。値段は決して安くなかった。輸入品が多いせいか。日本の三分の二くらいの値段だと思った。
この国では米ドルがふつうに通用する。ドル表示とリエル表示があるが、カンボジア人を含めて全員が基本的にドルを使っている。1ドルが4000リエルにあたる。リエル紙幣はコイン代わりの端数として使われている。2ドル50セントのものを買って5ドル紙幣を出すと、2ドル札と2000リエルがお釣りに返ってくる。それがふつうに定着している。
12月10日
まだカンボジアの時間に慣れていないので、朝早く目が覚めた。近くを散歩した。
掃除夫が出て道路を清掃していた。ミャンマーなどと違って、確かに道路が汚れていない。屋台など、前日の夜には屋台が並んでいたところもきれいにされている。あとでガイドさんに、最近になって清掃に力を入れていると聞いた。
グリーンパレスホテルはあまりよいホテルでなかった。お湯が突然冷たくなったし、エレベータも老朽化していた。散歩からの帰り、エレベータに乗って14階の私の部屋に戻ろうとしたら、3階で停まってしまって、動かなくなった。ドアも開かない。客は私だけ。焦った! 緊急ボタンを慌てて押し続けたら、やっと係員がドアをこじ開けてくれた。閉じ込められていたのはほんの5分間くらいだったと思うが、長く感じられた。朝食レストランのある3階で停まったのでよかった。別の階だったらもっと長時間、閉じ込められていただろう。
この日、王宮(1866年、プノンペンに遷都された際に建てられた)とその横にあるシルバー・パゴダ(仏教儀式の行われる寺院で、銀のタイルが敷き詰められている)をみた。タイの寺院ほど屋根の曲線が反り返っていない。南の陣に特有の建築だと思うが、素人の私には区別がつかない。ただ、あまり古いものではないので、個人的にはそれほど魅力を感じなかった。その後、国立博物館を見た。ヒンドゥ教と仏教の歴史的な推移というより、その混交でカンボジアの文化が成り立っているといえそうだ。
気温は30度を少し超すくらい。日本の夏と同じ感じ。青空で気持ちがいい。その後、セントラルマーケット(巨大な平屋のデパートのような建物)を見物。装飾品の店が中央に光鮮やかに並んでおり、その周囲に衣料品、電化製品、カバン、靴などの店が並んでいる。そのほうに肉や魚や野菜、果物などの生鮮食料品もある。ほかのツアー客の中には買い物を楽しまれた人もいたようだが、もちろん私は何も買わない。
昼と夜、ツアーグループで食事をとった。全体的にインパクトのない味。タイ料理からインパクトを除いたような味。しかも、すべて妙に甘い。スープも甘いし、春巻きにたれも甘い。デザートのほうはむしろ甘みが少ない。
夕方、国内線でアンコール遺跡群から近いカンボジア第二の都市シェムリアップへ。空港でシェムリアップのガイドさん(若めの女性)と合流してバスでホテルへ。
まず、空港でびっくり。
26年前のシェルリアップ空港は、確か滑走路は整備されていたが、小さな建物があっただけのように思う。待機している飛行機なども見えなかった。ところが、羽田空港とは言わないまでも、日本の大都市の空港とさほど変わらない光景だった。大きな建物があり、搭乗口もいくつもある。飛行機も少なくとも10機くらいは見える。
そして、ホテルまでの道路の周辺にびっくり。26年前のシェムリアップの夜は真っ暗だった! そもそも夜の10時に町全体の電気が止まっていた。いや、電気が通っているときも、あかりはほとんどなかった。高い建物はせいぜい4階建て。あちこちに砲弾の跡があり、田舎風の汚い家があり、その前をプノンペン以上に貧しい人々が歩いていたのだった。
ところが、空港から出てすぐから明かりがあふれている。市内に近づくにつれ、ますます明るくなる。たくさんのホテルやレストランがイリュミネーションで飾られている。クリスマスが近づいているせいもあるのだろう。MERRY CHRISTMASやサンタクロースをかたどったものも多い。日本と同じように、いやそれ以上にきれいにセンスよく飾られている。いかにも中国風の派手な看板ももちろんたくさんある。ここにも漢字がたくさん見られる。真っ暗だった1992年となんという違い!
とてもセンスのよいタラ・ホテルに到着。ただ、翌日に備えて、近くにコンビニ(ミニマート)でアルコールを買っただけですぐに寝た。
12月11日
いよいよシェムリアップ付近での世界遺産の観光が始まる。
アンコール王朝(9世紀から15世紀までカンボジア全土だけでなく、現在のベトナム、ラオスなどの地域を支配していた強大な王国)の時代に作られた遺跡群だ。シェムリアップ付近に数百と残っている。その代表的なものが12世紀に作られた王の寺院であるアンコール・ワット、その半世紀後に建造された巨大な王都アンコール・トムだ。
晴天で、朝から暑い。ホテルを出発して、まずバスで観光オフィスに行って写真を撮ってもらい、その場で写真入りの「アンコール・パス」を作った。私たちが取得したのは3日間有効のパスで、バスの中や遺跡の前などで提示を求められる。すでに旅行代金に含まれているが、60ドルとのこと。26年前には遺跡は自由に見られたが、今ではこのようなパスが必要になっている。タイ人の僧侶や中国人が列を作っていた。このお金がカンボジアの国家によって使われ、遺跡の保護などにも使われればとても良いことだ。
ただし、最初に訪れるのは、いわゆるアンコール遺跡群ではなく、その前の時代に王都が置かれていたロリュオスの遺跡群だった。これも世界遺産に登録されている。初めに、ロレイ遺跡。8世紀以降に作られたとのこと。古いレンガで形作られ、風化されているがヒンドゥ教の彫刻があちこちに見える。雨ごいに使われたというリンガ(つまりは男根像!)も見られた。
その後、再び10分ほどバスに乗ってプリアコー遺跡に行った。プリアコーとは「聖なる牛」という意味で寺院の前に牛の像がある。ロレイ遺跡とよく似た(つまり、素人にはあまり区別のつかない)レンガ造りの建物がある。次に最も規模の大きいバコン遺跡に行った。アンコール・ワットと同じように松かさのような塔のあるヒンドゥ寺院で石によって三層に作られている。
よく覚えていないが、26年前にも訪れた記憶がある。その時も、アンコール遺跡を見る前に周辺の遺跡を見て、「早くアンコール・ワットを見たい!」と焦れたのを覚えている。
食事をしてホテルでいったん休憩して、次にバンテアイ・スレイ遺跡を訪れた。
26年前には訪れた覚えがない。そこに向かう途中、バスの中で「地球の歩き方」を読んで、ハッと思いあたった。30年以上前、フランス文学を学んでいたころ、アンドレ・マルローが東南アジアの彫刻の盗掘がらみで大問題になったことは知っていた(ただ、「西欧の誘惑」や「征服者」は読んだが、「王道」は読んだことはなかった!)。バンテアイ・スレイにある「東洋のモナ・リザ」と呼ばれる彫像がまさにマルローが盗もうとし、「王道」にことの成り行きを記したものだという!
バンテアイ・スレイはとても魅力的な寺院だった。東門から入ると、両側にリンガと思われる石柱が並び、土も石も染められたかのように赤みを帯びている。緑の森に囲まれた境内があり、いくつも並んだ堂のあちこちにヒンドゥ教の神々の彫像があり、壁面にはレリーフが施されている。
東側から入ると、裏側にあたる小さな堂の壁面に「東洋のモナ・リザ」がった。これは本当に美しい。腰を少しひねった形の優美な女性像だ。マルローが盗みたくなる気持ちはよくわかる。宗主国の人間が植民地のこのような素晴らしい彫像を見たら、自分のものにしたくなるだろう。もちろんとんでもない横暴であり、あまりに傲慢であるが。ともあれ、この事件の顛末をマルロー自身が描いた「王道」を読んでみることにする。
その後、夕陽を見るために、プレループ遺跡に出向いて、日没を待った。上部からの眺めがよいために夕日鑑賞の名所になっているらしい。が、残念ながら、午後には雲が広がって夕日を鑑賞できる状態ではなくなった。日没を待たずにバスに戻った。
その日は、市内のレストランで民族ダンス付きの食事をとった。トタンのような屋根をつけただけの吹きさらしの巨大な会場だった。アジア料理がバイキング形式で並び、数百人の客席が備え付けられ、大量のアジア料理が並べられ、各国の観光客が命名それらを選んで食事をとっている。その前方に舞台があって、そこで民族舞踊が披露される。
ところが、舞踊が始まる前に大雨が降り出した。30分くらいだったと思うが、たぶん雨量50ミリにもなろうという大雨だった。轟音が響いた。舞踏が始まってからもしばらく雨が続いて、音楽が聞こえなくなった。
それにしても学芸会的な素人の踊りだった。観光地での民族ダンスにはがっかりすることが多いが、その最たるものだった。アプサラダンスと呼ばれる伝統舞踊のはずだが、動きが様になっていない。これでは観光客を侮辱したことになると思った。それどころか、伝統文化に対する冒涜でもあると思った。
食事を済ませて、雨上がりの中をバスでホテルに帰った。
12月12日
朝5時にホテル集合。バスでホテルを出て、駐車場から暗い中を歩いてアンコール・ワットに向かった。アンコール・ワットの建物に昇る日の出見物が目的だ。暗い中を大勢の観光客が歩く。まるで初詣に向かう大晦日の客の雰囲気。中国人が最も多そうだが、英語、フランス語などの西洋語やアジアの言葉もあちこちから聞こえる。私たちはクラブツーリズムの旗を先頭に一列になって、迷子にならないように必死に歩いた。
本来の橋は補修中なので、水に浮かぶブイのようなものをぎっしりと敷き詰めて作った仮の橋を渡ってアンコール・ワットに入った。参道や池の前で立ち止まり、見物する場所を探して、だんだんと白んでくる中で日の出を待った。徐々にアンコール・ワットの姿が暗がりの中から浮き立つようになり、太陽の下に照らされていく様はまさに壮観。私は水面に逆アンコール・ワットが映りだされるという池の近くの石に座ってその様子をみた。明るくなってしばらくして、近くを歩いた。
26年ぶりのアンコール・ワット。残念ながら私は建築にあまり興味を持てない。が、アンコール・ワットの厳粛さに圧倒される。黒く不気味で厳粛。アンコール・ワットは西向きに作られた死の壮麗な大寺院だと聞いたことがある。まさにそうだと思う。人間の死、魂の行く先である天界を表現する一つの宇宙が建築に反映されている。ヒンドゥ寺院として建てられ、仏教寺院として用いられたというが、まさに宗教を越えた存在に感じる。日本の鎌倉時代の遺跡だが、松かさのような形の塔はまさしく歴史を越えようとする間の魂の結晶のように思える。
池のほとりでしばらくアンコール・ワットを見て、参道に移動。そこで朝日を浴びる姿をみた。
いったんホテルに戻って朝食を取り、その後、その日の午前に予定されているのはアンコール・ワットの近くにあるアンコール時代の大城塞都市アンコール・トム観光。ますます暑くなる中、アンコール・ワットと同じような石造りの巨大な建築物を見て歩いた。
石が見事にかみ合わさった南大門、壮大なレリーフが施された回廊や石に掘られた微笑みの菩薩像のあるバイヨン寺院、象の彫刻が施されたテラス、三島由紀夫の戯曲の舞台になったらライ王のテラスなどをみた。
グループの方たちが話していたが、まさに石を組み上げてそれを一つの建築物として、そして一つの都市として構築した時代の技術力と人間の知恵を感じざるを得ない。これは権力の象徴であり、栄華の確認であり、民族の誇りだったのだろう。そして、そこには、おそらく奴隷として重労働を強いられた人間たちもいたのだろう。
バスでタ・プロム寺院へ。あえて修復されていない遺跡だ。巨大な木々が石の建造物に絡みつき、建造物を破壊している。タコやイカや妖怪の手足のように見える木の根が石と石の間に入り込み、時に不思議な形で均衡を保っている。巨大な石が地震の後のように散乱しているが、カンボジアでは過去数千年、地震は起こっておらず、これはすべて植物の仕業だという。こうしてみると、ここに巨大な意識を運んだ人間の力と、それを破壊する植物の力を思い知る。
昼食をとって、ホテルで小休憩。
午後はふたたびアンコール・ワット見物。朝は中には入らずに外観を見ただけだったが、午後はガイドさんの説明を聞きながら回廊のレリーフを見て回った。プリミティブな表現だが手が込んでいてとても魅力的。回廊によって描かれている内容は異なるらしいが、ざっと見てもどのような内容が描かれているのかよくわからない。ただ、私は壁面いっぱいに神々や人や猿や馬や牛などの動物、そして空想の動物たちを細かく明確な形で描き尽くしたこと自体に感動する。
アンコール・ワットに沈む夕日を見て、バスで移動してカンボジアの鍋料理を食べた。
朝から暑い中を歩き続けている。疲労困憊。ふだんの運動不足がたたって、足が重い。
ガイドさんに勧められたマッサージ店でマッサージを受けた。10人ほどの女性(若い人もいるが、だいたい40歳代が中心だろう)が制服を着て入り口近くで待機していた。代金(90分で22ドル。チップなどを含めて合計25ドルだった)を支払い、2階の個室に通されて施療を受けた。薄暗い中でのマッサージだったので少し警戒したが、怪しいことは起こらず、とても快適なマッサージだった。
12月12日
往路はプノンペンからシェムリアップまで飛行機で移動したが、帰りは途中、遺跡を巡りながらバスでプノンペンまで移動。まず、11世紀末から12世紀初めに作られたベンメリア寺院。ナーガ(ヒンドゥ教のヘビの形をした神)の像がきれいに残った密林の中の寺院だ。石切り場が残されており、苔むした彫刻が見られる。とても雰囲気がいい。が、けたたましい声で騒ぐ中国人グループがいくつもあり、しかも狭い通路を多くの観光客が通っているのに、何人もの中国人が観光客を通せんぼする形で写真撮影をする。自分が被写体になり、女優さんのようにポーズをとって一人が何枚も撮影する。それを何人かが行う。
またバスに乗ってアンコール時代の古代橋に寄り、コンポントム(ベトナム戦争時代だったか、ポルポト派の残虐が知られるようになった後だったか、この名前を盛んに耳にしたような気がする)の感じのいい、植民地風のホテル(新しいきれいな建物でプール付き)で昼食を取り、またバスで移動。夕方、プノンペン到着。速めの夕食を取って空港へ。
そして、22時50分出発の便で成田へ。そして、早朝6時30分ころ無事到着。
今回はツアーに参加し、単独行動はほとんどしていない。朝から夜まで遺跡などを歩くハードなツアーだったので、一人で散歩に行く体力的余裕もなかった。だから、ガイドさんに連れられて歩いただけ。特に都市について気付いたことはないが、気になったことをいくつか列挙する。
・ともあれ、26年前とは別の世界だった。驚くべき繁栄。もちろん、舗装が十分でなかったり、メンテナンスがよくなかったりといった面はあちこちにある。だが、たった26年でここまで成長したことを驚異に思った。
・中国の影をあらゆる面で感じた。日本は戦後25年で対米従属することによって世界を代表する先進国になった。カンボジアは中国に従属することで現在の繁栄を築いている。そう言ってよいのではないか。現在、カンボジアは親中国路線をとるフンセン首相の独裁に近い形にあって、国内の中国資本を積極的に入れている。仕事でも観光でも中国人が我が物顔でカンボジアで活動している。それを苦々しく思うカンボジア人も多いようだ。現在も繁栄も必ずしもめでたいことではないのかもしれない。
・逆に日本の影の薄さを感じた。車はトヨタなどの日本車が多い。スズキのバイクもよく見かける。が、日本企業の看板や広告、建物はほとんど見ない。観光地での日本語表示も少ない。日本人観光客も以前に比べるとずいぶん少ない。
・26年前にも感じたことだが、カンボジア人はゆったりのんびりしている! 東南アジアのどの国でもガサガサした面を感じるが、カンボジアではそのようなことはない。おっとりしている。歩くのも、話をするのもゆっくり。まじめでおとなしく、ものしずかにしている。そんなんじゃ中国人にいいようにこき使われちゃうぞ!と声をかけたくなる。このような人の中からなぜポルポトのような人が出てきたのか、なぜクメール・ルージュは残虐なことを繰り返したのか理解に苦しむ。
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