« 2018年11月 | トップページ | 2019年1月 »

秋山+東響の第九  実にオーソドックス!

 20181228日、東京交響楽団の特別演奏会「第九と四季」を聴いた。指揮は秋山和慶。年末の第九を演奏するのはこれが最後だという。

第九の前に秋山和慶の指揮とチェンバロ辻彩奈のヴァイオリンでヴィヴァルディの「四季」から「春」と「冬」。辻彩奈のヴァイオリンを初めて聴く。噂には聞いていたが、とても清潔で若々しく、鮮烈な音楽。もうちょっとアクを強く演奏してもよいと思うのだが、ちょっと遠慮がちに思えた。マエストロ秋山の指揮のもとではなかなか思い切ったことはできないだろう。とはいえ、とてもよい演奏。

その後、第九。秋山の第九は、おそらく20年以上前に一度聴いただけだ。ほとんど記憶にないが、とてもよい、しかしごく当たり前の演奏だと思ったのは覚えている。そして、今日また、まったく同じように思った。もしかしたら、基本的なところではほとんど同じような演奏だったのかもしれない。私は55年くらい前から第九に熱狂しながらレコードで聴いてきたが、秋山の演奏は、これまで聴き慣れた標準的な第九そのままの感じだった。これが秋山の魅力なのだろう。とても生き生きしているし、ティンパニが活躍するし、盛り上がりは素晴らしいし、オケがちょっとバタバタしているが、ともあれ解釈は実にオーソドックス。このごろではむしろ珍しいほどのまともさ。無理な誇張はないし、速すぎもしない。見事。ただ私は本来オーソドックス好きなのだが、ここまでだと、正直言って少々退屈に感じた。

歌手陣(中村恵理・藤村実穂子・西村悟・妻屋秀和)はとてもよかったが、少しちぐはぐさを感じないでもなかった。音程がちょっと不安定な歌手もいた。そのためもあって四人のアンサンブルがきれいに重ならないところもあったように思う。東響コーラスの合唱も少しが鳴り気味に思えた。

アンコールは「蛍の光」。マエストロ秋山の年末恒例の第九との別れ。

 ウェルザー=メスト+ウィーンフィル、オラモ+ストックホルム響、ヴィット+新日フィル、小泉+都響、ザネッティ+読響、ヤノフスキ+N響に続いて、今年7回目の第九だった。いずれもとても楽しんだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ヤノフスキ+N響の第九 第3楽章まで最高だった!

20181226日、NHKホールでNHK交響楽団の「第九」演奏会を聴いた。指揮はマレク・ヤノフスキ。第3楽章までは素晴らしかった。

始まった途端、ドイツの音がするのにびっくり。そういえば、前日聴いたザネッティの指揮はまったくドイツ風ではなかった。正統的なドイツのオーケストラの音の響き。昔よく聞いた響きだ。やはりドイツ風の音は素晴らしい。厚みがあり、深みがある。ヤノフスキの指揮はきわめて正統的。しかし、音は明るめで、テンポは速い。小気味よく音楽が推進され、深く響き渡る。それぞれの楽章が完璧。N響も見事。今年4回目の「第九」だが、さすがにヤノフスキだけあって、今まで聴いた第九とはレベルが違うと思った。

とりわけ第3楽章は素晴らしかった。妙なる音楽が奏でられる。管楽器が実に美しい。まさしく無我の境地とでもいおうか。それまでの自我にこだわってあくせくして来た世界から離れて、新たな境地に入る。音楽によって歌われる。管楽器がとりわけ素晴らしかった。

ところが、第4楽章。オーケストラの部分は素晴らしい。だが、バリトン独唱が始まった途端、私はかなり違和感を味わった。アルベルト・ドーメンの歌い回しがあまりに自由! くだけた歌い回しとでもいうか。ちょっとミスもあったような気がした。ほかの歌手たちも同じ雰囲気ならそれはそれでよいと思うのだが、ロバート・ディーン・スミスも藤谷佳奈枝も加納悦子も、そして合唱の東京オペラシンガーズも、むしろあまりに生真面目に歌う。その差がありすぎる。しかも四人のソリストの声がきれいなアンサンブルをなさない。歌う姿勢も、ドーメンだけゆらゆらと動き、ほかの歌手たちは微動だにしない。もしかしたら、ドーメンは酔っ払っているのだろうか?と疑いたくなったが、むしろ逆に、私としてはほかの歌手たちが生真面目すぎると思った。

とりわけ東京オペラシンガーズは、まっすぐ立ったまま強い声で歌う。だが、そうするとまるで軍隊調に聞こえて、「歓びの歌」に聞こえない。結局ちぐはぐなまま第4楽章は終わった。プログラムにヤノフスキ自身、インタビューに「第4楽章は重要ではない。第3楽章が最高」というようなことを語っている。その通り、第4楽章はあまりよくなかった。

とはいえ、これほどの第3楽章までを聴けることはめったにない。幸せだった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ザネッティ+読響の第九 第4楽章は素晴らしかった

20181225日、東京芸術劇場で読売日本交響楽団「第九」特別演奏会を聴いた。

「第九」の前に三澤洋史指揮、新国立劇場合唱団によってバッハのモテット第1番「新しい歌を主にむかって歌え」が演奏された。素晴らしい演奏だった。第九でも思ったが、世界でもトップクラスの合唱団だと思った!

 そして、第九。指揮はマッシモ・ザネッティ。この指揮者の演奏は初めて聴くと思う。録音でも聴いた記憶がない。アクセントの強い演奏をする指揮者だと思った。すべての音がスタッカート風で出だしが強い。そのためにとてもキレがよく、きびきびしている。快速に、そしてメリハリをもって激しく音楽が進んでいく。爽快ともいえるし、疾風怒濤ともいえる。とてもドラマティック。オーケストラも指揮にしっかりとついていく。その意味で見事な演奏だと思った。私は基本的にはこのような演奏が好きだ(逆に言うと、のろくて大袈裟でひきしまっていない演奏が大嫌いだ)。ただ、ずっと同じ調子なので、私としては手の内がわかってしまう気がして、それほど感動できなかった。第2楽章はとりわけ機械的に響いているかのように感じられた。昨日の小泉和裕のハッタリのない正攻法の音楽のほうにずっと感動したのだった。

 とはいえ、第4楽章の盛り上がりは素晴らしかった。快速に音楽が進み、音が重層的に展開して小気味よく、しかも実に祝祭的。オーケストラも素晴らしかった。ソリスト(アガ・ミコライ、清水華澄、トム・ランドル、妻屋秀和)も高いレベルでそろっていた。そして、第4楽章については新国立劇場合唱団の力が大きいと思う。圧倒的な合唱だった。最後には心が感動で震えた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

小泉和裕+都響の第九 理にかなった素晴らしい演奏

 20181224日、東京芸術劇場で都響スペシャル「第九」コンサートを聴いた。指揮は小泉和裕。

 小泉の第九を初めて聴いたが、素晴らしい演奏だった! まさしく正統の演奏。大袈裟に煽ることもない。テンポを動かすこともない。きわめて理詰めに、的確に音楽が進んでいく。楽器のバランスもとてもいい。指揮者はとりたてて何かをしているようには思えない。いつものようにうつむき加減で手を動かすだけ。だが、その手の動きによってオーケストラの音色が変化し、表情が生まれてくる。そのような表現がとても理にかなっているので、徐々に音楽が高まっていく。心の奥に響く。音色も素晴らしかった。弦も管楽器もとても美しい。アンサンブルが見事。何度も心の底から感動した。最後には涙が出てきた。

 とりわけ第1楽章が素晴らしいと思った。スケールが大きく、ダイナミック。しかし、もちろん細かなニュアンスもしっかりと伝わる。構成感もしっかりしているし、文句なし。第2楽章もティンパニの音が明確でメリハリがあって、まさに高貴な感じがする。

そして、第3楽章。実は少し不満だった。もっともっと精妙であってほしかった。が、今日、聴きながら、ちょっとした発見をした気になった。私はこれまで第3楽章の構造に納得できなかった。最高に美しい音楽だと思うのだが、突然のファンファーレは一体何なんだ?・・・などとこの曲を夢中で聴き始めた中学生のころからずっと疑問に思っていた。が、今日、聴きながら、「ああ、そんな曲だったのか!」と納得したのだった。ただ、それがどんな納得だったかをここに書くのはよそう。もう少しほかの演奏なども聴いてみることにする。が、ともあれ小泉の演奏を聴いて初めて納得できた気になったのだった。

 第4楽章も見事だった。納得のできる音楽の物語があってソロが始まった。歌手陣(安井陽子・富岡明子・福井敬・甲斐栄次郎)も全員とてもそろっていた。二期会合唱団も全体的にはとてもよかった(ちょっとだけ乱れがあった気がしたが、気のせいか?)。祝祭感が最高だと思った。決して大袈裟に煽るわけではないのに、音色が豊かで抑えていた音楽的方言が解放されるので心の底から歓びにあふれる。小泉の素晴らしい指揮者であり、都響も素晴らしいオケだと改めて思った。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

映画「葡萄畑に帰ろう」 あまりに陳腐だが、ジョージアの風景は見られた

 仕事が思った以上に早く片付いたので、岩波ホールに出向いて、「葡萄畑に帰ろう」をみた。エルダル・シェンゲラヤ監督のジョージア映画。

 さきごろ岩波ホールで開かれたジョージア映画祭のほとんどすべての映画をみたが、そのたびにこの予告編がかかっていた。これだけ予告編を見させられたからには、本編もみないわけにはいかない。

 が、予告編で想像していたのとはかなり異なる映画だった。まず、原題が「椅子」。映画の冒頭からずっと椅子が中心的に語られる。この椅子はCGによっておしゃべりをし、自分の意志で動く。登場人物に語り掛け、観客に向かって解説めいたこともする。

避難民を追い出す担当の大臣になったゲオルギは新しい高価な椅子を購入して悦に入る。が、選挙に負けて大臣の座を追われ、しかも前の首相に贈り物としてもらった家屋からも追い出される。最後にはそれまでの上昇志向の自分を改めて母親の経営する葡萄園に帰る。そうした物語が椅子を中心に語られる。権力に執着する椅子はゲオルギを追いかけるが、最後にはゲオルギはこの椅子を捨てる。それでも、椅子は復活し、ふたたび上昇を求める人間を探そうとする。そこで映画は終わる。

 あまりに陳腐だと思った。「大臣の椅子」を人間化してストーリーを展開すること自体、出来損ないのサラリーマン向けファンタジーのようだし、テーマもあまりにありきたり。ただ、それを臆面もなくやってのけているところにこの映画の価値があるといえるかもしれない。ある種のおとぎ話として、あえて人間描写も表面的にして描こうとしたのだろう。しかし、そうであるとしても、私は残念ながら魅力を感じなかった。

 日本語タイトルをつけた人や予告編を作った人も、「椅子」を出すとあまりに陳腐だと感じて、あえてそれを隠して、「葡萄」「ワイン」を強調したのだろう。が、実際には、葡萄の話はほんの少ししか出てこない。詐欺めいたタイトルと予告編だと思う。

 ただ現在のジョージアの都会と田舎の風景を見ることができた。避難民を抱える政治状況を知ることができた。ジョージアに強い関心を持ち始めている人間には、それはうれしいことだった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ギルバート+都響 「ドン・キホーテ」よりも「カルメン」「スペイン奇想曲」のほうがよかった

 

20181218日、東京芸術劇場大ホールで東京都交響楽団演奏会を聴いた。指揮はアラン・ギルバート。曲目は前半にチェロのターニャ・テツラフとヴィオラの鈴木学が加わって、リヒャルト・シュトラウスの交響詩「ドン・キホーテ」、後半に、ビゼーの「カルメン」組曲より(アラン・ギルバート・セレクション)とリムスキー=コルサコフの「スペイン奇想曲」。

 

「ドン・キホーテ」を目当てに出かけたのだったが、残念ながら私の好きな演奏ではなかった。とてもニュアンス豊かで、しなやかで色彩的。ソリスト二人もとてもきれいな音。都響のアンサンブルもとてもいい。その点ではもうしぶんないと思った。音が濁らないし、管楽器もとても美しい。部分部分は素晴らしい。ところが、とぎれとぎれになって全体のつながりを感じない。もちろん、曲自体にそのような面があるのだが、ほかの演奏家で聴くよりもずっとその傾向が強い。ひとつながりの物語になっていかず、結局何をしているのかわからなくなった。情景描写としても中途半端、かといって一つの統一体としての音楽にもなり切れていないと思った。

 

「ドン・キホーテ」は、シュトラウスの交響詩の中ではかなり好きな曲だ。高校生のころからレコードをずいぶんと聴いてきた。昔はしばしばコンサートにかかっていたが、このごろ、トンと聴かなくなった。そう思ってやってきたのだったが、確かに曲としても弱いかもしれないと思った。

 

 後半はそれに比べれば、ずっと良かった。「カルメン」組曲、「スペイン奇想曲」ともに通俗名曲だが、俗にならず、しかし十分にメリハリをつけ色彩感を表に出し、オーケストラの性能をしっかりと聴かせ、しっかりとまとめている。実にうまい語り口、そして、最後には音に酔わせ感動させる。アラン・ギルバートの手腕に感服。同時に都響サウンドにも感服。

 

 後半を聴きながら思った。ギルバートは、「ドン・キホーテ」も全体をまとめるつもりはなかったのだろう。この交響詩も一つの奇想曲のように、統一性のない気まぐれな曲として提示したかったのだろうと思った。だが、やはり私は「ドン・キホーテ」については全体的な統一感が必要だろうと思う。その点では不満が残った。

 

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

映画「運命は踊る」「ニーチェの馬」「倫敦から来た男」「パリ20区 僕たちのクラス」「カメラを止めるな」「検察側の罪人」

 映画館でみた映画、DVDでみた映画、飛行機の中でみた映画をとりまぜ、最近みた映画数本の感想を書く。

 

映画「運命は踊る」 2018年 サミュエル・マオズ監督

 渋谷の映画館でみた。サミュエル・マオズ監督のイスラエル映画。

夫婦のもとに兵役中の息子が戦死したという知らせが入る。夫婦は絶望するが、しばらくしてそれが誤報だったとわかる。夫は激怒して息子を戦地から呼び戻すように働きかけるが、せっかくそれまで無事だったのに、息子は命令を受けて帰宅している途中に交通事故で死んでしまう。そうしたことがあったために夫婦中はぎくしゃくして別居するようになるが、最後にはドラッグを使って無理やり心を通わせあう。簡単にまとめるとそんなストーリーだが、そこに描かれるのは戦争に疲弊する社会の病巣だ。

 父親は兵役時代に仲間を死なせてしまったことに深い傷を負って、そこから長い間逃れられず、自分の気持ちを整理できずに、今でもしばしば飼い犬を虐待しているようだ。息子は検問所で兵役の仲間たちとだんだんと泥に埋まって傾いていく兵舎で暮らしながらラクダがのんびり通るのを見守るような戦場とはかけ離れた検問をしていたが、ちょっとした誤解から何の罪もないアラブ系の人々の乗る車に乱射して殺戮してしまう。息子が交通事故で死んだのも、誤って人を殺してしまったことに苦悩しているさなかだった。

 イスラエルの映画でありながら、イスラエル人に人権を蹂躙され、自尊心を奪われて屈辱的な立場にいるアラブ人の状況がしっかりと描かれる。イスラエルの社会も、勝利しているわけではなく、すべてが傾き、ゆがみ、実は大義を失い、人と人の健全なコミュニケーションもなくしている。イスラエル政府に真正面から異議を唱えるわけではないが、映像や登場人物のあれこれの動きによってその矛盾を描いている。見事な映画だと思った。

 

81tgyndlrwl_sy445_ 「ニーチェの馬」 タラ・ベーラ監督 2012

 DVDを購入。とてつもない映画だと思った。言葉に表しようのない映画。これまでこんな映画は一度もみたことがない。「おもしろい」というわけではないが、ただただ圧倒された。

 かのニーチェは鞭うたれている馬に駆け寄ってそのまま意識を失い、発狂したといわれている。この有名なエピソードに基づくニーチェの発狂をもたらした馬のその後を描く物語。

とはいえ、激しい風の中の小さな家で父と娘が馬とともに生活する様子が白黒の映像で描かれるだけの映画だ。父親は右手が不自由らしく、娘の手助けがなければ服を着ることもできない。二人は極貧の中にいて、ジャガイモをゆでただけの食事を続ける。その過酷な生活の繰り返しが描かれる。ほとんど会話はない。一度、近隣の男がやってきて、一方的にニーチェ思想を語る。「曙光」の中に確かこのような文章があったと思う。だが、父親はこの男を追い返す。最後に馬は死ぬ。

ニーチェの思想さえもが浅はかな言葉にしか思えないような人間と馬の圧倒的存在感。あらゆる「意味」を排して、人間が存在する。ニーチェが恐れおののいて狂気に陥らざるを得なかったような存在。この馬は、サルトルの「嘔吐」におけるロカンタンの見たマロニエの木の根のようなものなのかもしれない。ロカンタンがマロニエの木を見て存在そのものを感じて嘔吐したように、ニーチェは馬を見て生命の存在というあまりに単純なものに気付いて発狂したのかもしれない。そう思わせるだけの力のある映画だった。

 

51hamtuetrl_sy445_ 「倫敦から来た男」 タル・ベーラ監督 2007

「ニーチェの馬」があまりに凄いので、タル・ベーラ監督の映画をネットで探して購入。この映画にも圧倒された。「ニーチェの馬」とは違って、こちらはジョルジュ・シムノン原作の犯罪映画。しかし、一般の犯罪映画の次元をはるかに超えている。

殺人を目撃し、殺された男の持っていた大金を拾った中年の男の行動を白黒の長回しの映像で追っていく。セリフがほとんどない。映像で心情をわからせるというレベルを超えて、人間の存在そのもの、生の奥にある本質そのものを描き出しているかのようだ。

私はフェルメールの絵画を思い浮かべた。もちろん、描き出される世界はフェルメールとはまったく異なるが、外観を描くだけでその奥にある存在そのものまでも描き出す技はまさしくフェルメールだと思った。カフェや部屋のものの光と影、俳優の肌の質感、目の動き、背景の人の動き・・・そのようなもののすべてがその奥にある世界を描き出している。凄まじい映画!

 

2081ngiiujiel_sy445_ 「パリ20区 僕たちのクラス」 ローラン・カンテ監督 2008

 パリ20区。移民の多い地区。その公立中学の教師とそのクラスの若者たちの話。まるでドキュメンタリー映画のようにリアルだが、俳優が演じているとのこと。主役を演じるのは自らの体験を描いた原作者本人(フランソワ・ベゴドー)だという。

生徒たちはアフリカ系、アラブ系、中国系が多く、勉強意欲がない。多くの生徒の学力も著しく低い。まさに学級崩壊状態。しかも生徒たちは自己主張をして、教師にたてつく。教師は必死にクラスを立て直そうとする。特に感動的な結末があるわけではない。きれいごとを排し、シリアスに教育とは何かを問いかけ、現代のフランス社会の断片を見せつける。

フランスと日本の学校の在り方の違い(なんと、生徒の退学を決める職員会議にオブザーバーとして生徒代表が出席している!)もわかる。教育に身を置く私自身も大いに身につまされる問題でもある。

それにしても監督の演出の手腕に驚く。本当に生意気な生徒たちとしか思えない。すべてのセリフが本人の心の中から生まれているとしか思えない。

 

「カメラを止めるな」 2017年 上田慎一郎監督

 話題になっているのでみたいと思っていたら、プノンペン行きの飛行機でみられた。

初めの三分の一ほどは、カメラを止めずにワンショットによるゾンビ映画が展開する。わざとらしく大袈裟でときどき不思議な間がある。ワンショットでうまくとれているのは見事だが、言われているほど面白くないと思ってみていたら、三分の一を過ぎてからはいわゆるメイキング映像になった。初めのゾンビ映画がどのような経緯で撮られるようになったのか、どうやって撮ったのか、どんなトラブルやアクシデントがあってそれを乗り越えたのかが描かれる。実におもしろい! 一つ一つに納得する。前半に張り巡らされていた伏線がすべて集束する気分を味わうことができる。しかも、そこにはダメ監督と妻、娘の家族の愛情回復の物語がからんでいる。最後には、ゾンビ映画にかかわった人々と一体化して感動を覚えた。こんな映画、これまでみたことがない!

 スタッフもキャストもまったく無名の人々。それなのに、こんなすごい娯楽映画がうまれるなんて。

 

「検察側の罪人」 2018年 原田眞人監督

 飛行機の中で「日日是好日」を見始めたのだが、茶道を教えるこのタイプの映画は少なくとも飛行機の中でみるべきものではないと思って、「検察側の罪人」に切り替えた。木村拓哉、二宮和也の競演で話題になったのは知っていた。期待しないでみたが、なかなかおもしろかった。

 この種の映画について内容を書くと「ネタバレ」になってしまうので、くわしくは書かないが、主役格の人々はしっかりと演じ、主人公のかなり極端な行動にもそれなりに納得できるようにはできている。過去の殺人を告白する異常な犯人を演じた酒向芳の存在感に圧倒された。最後まで退屈せずにみた。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

拙著3冊刊行 「受かる小論文の絶対ルール 改訂版」「頭のいい文章術」「バカ部下を使いこなす技術」

 12月になって拙著が3冊刊行された。が、実はいずれも新刊というよりも、再刊。

51yevhkgzl_ac_us200_ 「受かる小論文の絶対ルール 改訂版」(青春出版)は電車の中でさらっと読んで小論文とは何かを知る入門書だ。2005年刊行のものを時代に合わせて改訂した。

51h8uhebiml_ac_us200_ 「頭のいい文章術」(だいわ文庫)は大和書房から出していた「伝わる文章力がつく本」の文庫化だ。社会人が文章術を高めるためのノウハウを記している。紹介している「型」を用いて文章を書けば、すっきりと論理的に、しかも簡単に知的な文章ができる。

41avm62v2l_ac_us200_ 「バカ部下を使いこなす技術」(KADOKAWA)も既刊本の再編集だが、バカな部下を上手に操縦する方法を説明している。挑発的なタイトルだが、単にノウハウを語る書というよりは人間観察の本として読んでほしい。

 いずれも、それを求めている人には間違いなく役立つ本だと思っている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ヴィット+新日フィルの第九 感銘を受けなかった

 20181216日、オーチャードホールで新日本フィルハーモニー交響楽団の「第九」特別演奏会を聴いた。指揮はアントニ・ヴィット。独唱は盛田麻央(ソプラノ)、中島郁子(アルト)、大槻孝志(テノール)、萩原潤(バリトン)。

 ヴィットの演奏は、ナントのラ・フォル・ジュルネで何度か聴いたことがある。とても良かったこともあったし、そうでないこともあった。ナントでちょっとだけ話を交わしたこともある。私のへたなフランス語を辛抱強く聞いてくれて、ともあれ会話にはなった。昨年の新日フィルの第九(マルク・アンドレーエ指揮)は惨憺たるものだと私は思ったのだが、今年はヴィットが振るというのなら、聴かないわけにはいかない。そう思って出かけた。

 全体的にはかなりオーソドックスな指揮だと思う。が、強調するべきは強調する。ところどころハッとするようなところがあった。とりわけ、第4楽章の合唱のパートでかなり歌い方に工夫が加えられているようだった。きっと合唱指揮の栗山文昭ではなく、ヴィットの指示によるものだと思う。そのおかげで時折新鮮に響くところがあった。その意味ではとても興味深く聴かせてもらった。

 ただ、私はどうもリズムが不安定でバタバタしているように思えた。第1楽章はとてもよかったが、第2楽章でダイナミックでバタバタ感が強まり、第3楽章ではじっくりとした静寂が訪れずにファンファーレに部分も不発に感じた。第4楽章でもそれが続き、とりわけ合唱の始まる前の各楽章のテーマが出現する部分も平板だった。

 歌手陣については、私は萩原潤の自然な美声に惹かれた。大槻孝志もとても安定した歌唱だった。女声陣については、少し声を張り上げすぎているように思えた。栗友会合唱団による合唱も、ヴィットの指揮のせいかもしれないが、安定性に欠けると思った。

新日フィルについても、大きなミスなかったとはいえ、アンサンブルがビシッと決まらず、心もとなさを感じることが何度かあった。昨年に比べればずっと良かったとはいえ、全体的にはあまり感銘を受けなかった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

26年ぶりのカンボジア旅行

2018128日から13日までカンボジア旅行をした。さすがにカンボジアに個人旅行するのは大変なので、クラブツーリズムのツアーに参加した。

1992年に一度カンボジアを訪れたことがある。今回は26年ぶり二度目のカンボジアということになる。

最初のカンボジア旅行については拙著「旅のハプニングから思考力をつける」(角川oneテーマ21)に少し書いた(なお、その少し前に出した拙著「頭がいい人、悪い人の話し方」が250万部のベストセラーになったため、それにあやかって編集部が「思考力をつける」というタイトルをつけたが、私としては旅行記のつもりで書いている)。その時には、内戦が終了してアンコール・ワット旅行が再開されたと聞いてすぐに申し込んだのだったが、プノンペンも目を見張る貧しさであちこちが混乱しており、シェムリアップでは銃声が聞こえ、血だらけの兵士が何人もトラックで運ばれるのをみた。プノンペンにも車はほとんどなく、バイクや自転車がけたたましい警笛やエンジン音をたてながら走っていた。その横をぼろ布を着た男女、素っ裸の子供たちが歩いていた。まさしく昭和20年代初めの日本の状況の南方版だった。

そして、今回の2度目のカンボジア旅行。12月8日午後、プノンペン到着。ガイドさんと空港で合流してバスでホテルに向かった。ツアーメンバーは15名。ほとんどが高齢(ツアーグループ内での交流もあったが、個人情報をさらしたくないので、メンバーについてはここでは触れない)。

空港からバスでホテルに行く間に、窓の外を見て驚いた。話には聞いていたが、想像以上の発展ぶり!一度破壊されて人工的に作られたせいだろう、むしろカトマンズやラホールやジャグ・ジャカルタなどよりずっと近代的で西洋的だ。高層建築もたくさん見える。街を歩いている人たちも、他のアジア諸国よりもむしろきちんとした服装しているように見える。交通標識も整備されているし、道も広い。遊歩道もあり、公園もあちこちにある。フランス風の建物も見える。

E33f2a12669e46a98569654a19baf134

 車の運転も他のいくつもの都市よりも穏やか。もちろん、南の国の例にもれず、大量のバイクが道を走っており、無理な割込みも多く、三人乗りのバイクもしばしば見かける。野良犬なのか放し飼いの犬なのか、街の中に犬の姿も多く見かける。初めて東南アジアを訪れたツアーのメンバーはバイクの数や乱暴な運転や町中の犬に驚いたようだが、このところ東南アジアにしばしば旅している私からすると、運転も穏やか、野良犬の数もそれほどでない。四人乗り、五人乗りのバイクをほとんど見かけない。

もっと驚いたのは中国の影だ。中華料理の店、中国語の看板のホテルや店が並んでいる。町のいたるところに中国語が氾濫している。ホテルに入って気づいたことだが。観光客も圧倒的に中国人が多い。ホテル内も中国人が圧倒的な大多数を占める。ホテル内で大声で響き渡るのはほとんどが中国語。もちろん、日本国内でも東南アジアの各国でも中国人観光客が多いが、カンボジアはその比ではないように思える。

129日はホテル(グリーンパレスホテル)に到着しただけでその後の予定はない。ホテル近くには屋台があり、レストランがあった。中華の店もいくつもある。だが、入る勇気が出なかったので、近くのコンビニ(KIWIというチェーン店)でカップラーメンとお菓子類を買って食べた。値段は決して安くなかった。輸入品が多いせいか。日本の三分の二くらいの値段だと思った。

この国では米ドルがふつうに通用する。ドル表示とリエル表示があるが、カンボジア人を含めて全員が基本的にドルを使っている。1ドルが4000リエルにあたる。リエル紙幣はコイン代わりの端数として使われている。2ドル50セントのものを買って5ドル紙幣を出すと、2ドル札と2000リエルがお釣りに返ってくる。それがふつうに定着している。

 

1210

 まだカンボジアの時間に慣れていないので、朝早く目が覚めた。近くを散歩した。

 掃除夫が出て道路を清掃していた。ミャンマーなどと違って、確かに道路が汚れていない。屋台など、前日の夜には屋台が並んでいたところもきれいにされている。あとでガイドさんに、最近になって清掃に力を入れていると聞いた。

グリーンパレスホテルはあまりよいホテルでなかった。お湯が突然冷たくなったし、エレベータも老朽化していた。散歩からの帰り、エレベータに乗って14階の私の部屋に戻ろうとしたら、3階で停まってしまって、動かなくなった。ドアも開かない。客は私だけ。焦った! 緊急ボタンを慌てて押し続けたら、やっと係員がドアをこじ開けてくれた。閉じ込められていたのはほんの5分間くらいだったと思うが、長く感じられた。朝食レストランのある3階で停まったのでよかった。別の階だったらもっと長時間、閉じ込められていただろう。

この日、王宮(1866年、プノンペンに遷都された際に建てられた)とその横にあるシルバー・パゴダ(仏教儀式の行われる寺院で、銀のタイルが敷き詰められている)をみた。タイの寺院ほど屋根の曲線が反り返っていない。南の陣に特有の建築だと思うが、素人の私には区別がつかない。ただ、あまり古いものではないので、個人的にはそれほど魅力を感じなかった。その後、国立博物館を見た。ヒンドゥ教と仏教の歴史的な推移というより、その混交でカンボジアの文化が成り立っているといえそうだ。

8586cb9ce3a94d2488bb9d3a90a46d82

温は30度を少し超すくらい。日本の夏と同じ感じ。青空で気持ちがいい。その後、セントラルマーケット(巨大な平屋のデパートのような建物)を見物。装飾品の店が中央に光鮮やかに並んでおり、その周囲に衣料品、電化製品、カバン、靴などの店が並んでいる。そのほうに肉や魚や野菜、果物などの生鮮食料品もある。ほかのツアー客の中には買い物を楽しまれた人もいたようだが、もちろん私は何も買わない。

昼と夜、ツアーグループで食事をとった。全体的にインパクトのない味。タイ料理からインパクトを除いたような味。しかも、すべて妙に甘い。スープも甘いし、春巻きにたれも甘い。デザートのほうはむしろ甘みが少ない。

夕方、国内線でアンコール遺跡群から近いカンボジア第二の都市シェムリアップへ。空港でシェムリアップのガイドさん(若めの女性)と合流してバスでホテルへ。

まず、空港でびっくり。

26年前のシェルリアップ空港は、確か滑走路は整備されていたが、小さな建物があっただけのように思う。待機している飛行機なども見えなかった。ところが、羽田空港とは言わないまでも、日本の大都市の空港とさほど変わらない光景だった。大きな建物があり、搭乗口もいくつもある。飛行機も少なくとも10機くらいは見える。

そして、ホテルまでの道路の周辺にびっくり。26年前のシェムリアップの夜は真っ暗だった! そもそも夜の10時に町全体の電気が止まっていた。いや、電気が通っているときも、あかりはほとんどなかった。高い建物はせいぜい4階建て。あちこちに砲弾の跡があり、田舎風の汚い家があり、その前をプノンペン以上に貧しい人々が歩いていたのだった。

ところが、空港から出てすぐから明かりがあふれている。市内に近づくにつれ、ますます明るくなる。たくさんのホテルやレストランがイリュミネーションで飾られている。クリスマスが近づいているせいもあるのだろう。MERRY CHRISTMASやサンタクロースをかたどったものも多い。日本と同じように、いやそれ以上にきれいにセンスよく飾られている。いかにも中国風の派手な看板ももちろんたくさんある。ここにも漢字がたくさん見られる。真っ暗だった1992年となんという違い! 

とてもセンスのよいタラ・ホテルに到着。ただ、翌日に備えて、近くにコンビニ(ミニマート)でアルコールを買っただけですぐに寝た。

 

1211

 いよいよシェムリアップ付近での世界遺産の観光が始まる。

アンコール王朝(9世紀から15世紀までカンボジア全土だけでなく、現在のベトナム、ラオスなどの地域を支配していた強大な王国)の時代に作られた遺跡群だ。シェムリアップ付近に数百と残っている。その代表的なものが12世紀に作られた王の寺院であるアンコール・ワット、その半世紀後に建造された巨大な王都アンコール・トムだ。

晴天で、朝から暑い。ホテルを出発して、まずバスで観光オフィスに行って写真を撮ってもらい、その場で写真入りの「アンコール・パス」を作った。私たちが取得したのは3日間有効のパスで、バスの中や遺跡の前などで提示を求められる。すでに旅行代金に含まれているが、60ドルとのこと。26年前には遺跡は自由に見られたが、今ではこのようなパスが必要になっている。タイ人の僧侶や中国人が列を作っていた。このお金がカンボジアの国家によって使われ、遺跡の保護などにも使われればとても良いことだ。

ただし、最初に訪れるのは、いわゆるアンコール遺跡群ではなく、その前の時代に王都が置かれていたロリュオスの遺跡群だった。これも世界遺産に登録されている。初めに、ロレイ遺跡。8世紀以降に作られたとのこと。古いレンガで形作られ、風化されているがヒンドゥ教の彫刻があちこちに見える。雨ごいに使われたというリンガ(つまりは男根像!)も見られた。

 その後、再び10分ほどバスに乗ってプリアコー遺跡に行った。プリアコーとは「聖なる牛」という意味で寺院の前に牛の像がある。ロレイ遺跡とよく似た(つまり、素人にはあまり区別のつかない)レンガ造りの建物がある。次に最も規模の大きいバコン遺跡に行った。アンコール・ワットと同じように松かさのような塔のあるヒンドゥ寺院で石によって三層に作られている。

976b81bf49364840abcfe32a29f96afc

 よく覚えていないが、26年前にも訪れた記憶がある。その時も、アンコール遺跡を見る前に周辺の遺跡を見て、「早くアンコール・ワットを見たい!」と焦れたのを覚えている。

食事をしてホテルでいったん休憩して、次にバンテアイ・スレイ遺跡を訪れた。

26年前には訪れた覚えがない。そこに向かう途中、バスの中で「地球の歩き方」を読んで、ハッと思いあたった。30年以上前、フランス文学を学んでいたころ、アンドレ・マルローが東南アジアの彫刻の盗掘がらみで大問題になったことは知っていた(ただ、「西欧の誘惑」や「征服者」は読んだが、「王道」は読んだことはなかった!)。バンテアイ・スレイにある「東洋のモナ・リザ」と呼ばれる彫像がまさにマルローが盗もうとし、「王道」にことの成り行きを記したものだという!

バンテアイ・スレイはとても魅力的な寺院だった。東門から入ると、両側にリンガと思われる石柱が並び、土も石も染められたかのように赤みを帯びている。緑の森に囲まれた境内があり、いくつも並んだ堂のあちこちにヒンドゥ教の神々の彫像があり、壁面にはレリーフが施されている。

8255892990284d44b7bce8babb4eb951

東側から入ると、裏側にあたる小さな堂の壁面に「東洋のモナ・リザ」がった。これは本当に美しい。腰を少しひねった形の優美な女性像だ。マルローが盗みたくなる気持ちはよくわかる。宗主国の人間が植民地のこのような素晴らしい彫像を見たら、自分のものにしたくなるだろう。もちろんとんでもない横暴であり、あまりに傲慢であるが。ともあれ、この事件の顛末をマルロー自身が描いた「王道」を読んでみることにする。

71c6b8fae19349a3a74f04e2148efac8

その後、夕陽を見るために、プレループ遺跡に出向いて、日没を待った。上部からの眺めがよいために夕日鑑賞の名所になっているらしい。が、残念ながら、午後には雲が広がって夕日を鑑賞できる状態ではなくなった。日没を待たずにバスに戻った。

その日は、市内のレストランで民族ダンス付きの食事をとった。トタンのような屋根をつけただけの吹きさらしの巨大な会場だった。アジア料理がバイキング形式で並び、数百人の客席が備え付けられ、大量のアジア料理が並べられ、各国の観光客が命名それらを選んで食事をとっている。その前方に舞台があって、そこで民族舞踊が披露される。

ところが、舞踊が始まる前に大雨が降り出した。30分くらいだったと思うが、たぶん雨量50ミリにもなろうという大雨だった。轟音が響いた。舞踏が始まってからもしばらく雨が続いて、音楽が聞こえなくなった。

それにしても学芸会的な素人の踊りだった。観光地での民族ダンスにはがっかりすることが多いが、その最たるものだった。アプサラダンスと呼ばれる伝統舞踊のはずだが、動きが様になっていない。これでは観光客を侮辱したことになると思った。それどころか、伝統文化に対する冒涜でもあると思った。

食事を済ませて、雨上がりの中をバスでホテルに帰った。

 

1212

 朝5時にホテル集合。バスでホテルを出て、駐車場から暗い中を歩いてアンコール・ワットに向かった。アンコール・ワットの建物に昇る日の出見物が目的だ。暗い中を大勢の観光客が歩く。まるで初詣に向かう大晦日の客の雰囲気。中国人が最も多そうだが、英語、フランス語などの西洋語やアジアの言葉もあちこちから聞こえる。私たちはクラブツーリズムの旗を先頭に一列になって、迷子にならないように必死に歩いた。

本来の橋は補修中なので、水に浮かぶブイのようなものをぎっしりと敷き詰めて作った仮の橋を渡ってアンコール・ワットに入った。参道や池の前で立ち止まり、見物する場所を探して、だんだんと白んでくる中で日の出を待った。徐々にアンコール・ワットの姿が暗がりの中から浮き立つようになり、太陽の下に照らされていく様はまさに壮観。私は水面に逆アンコール・ワットが映りだされるという池の近くの石に座ってその様子をみた。明るくなってしばらくして、近くを歩いた。

2b0290d00ea344d9bca50c93365ad1ec

8ce9f96e53ae444ba173ceba8310f0d6

 26年ぶりのアンコール・ワット。残念ながら私は建築にあまり興味を持てない。が、アンコール・ワットの厳粛さに圧倒される。黒く不気味で厳粛。アンコール・ワットは西向きに作られた死の壮麗な大寺院だと聞いたことがある。まさにそうだと思う。人間の死、魂の行く先である天界を表現する一つの宇宙が建築に反映されている。ヒンドゥ寺院として建てられ、仏教寺院として用いられたというが、まさに宗教を越えた存在に感じる。日本の鎌倉時代の遺跡だが、松かさのような形の塔はまさしく歴史を越えようとする間の魂の結晶のように思える。

池のほとりでしばらくアンコール・ワットを見て、参道に移動。そこで朝日を浴びる姿をみた。

いったんホテルに戻って朝食を取り、その後、その日の午前に予定されているのはアンコール・ワットの近くにあるアンコール時代の大城塞都市アンコール・トム観光。ますます暑くなる中、アンコール・ワットと同じような石造りの巨大な建築物を見て歩いた。

石が見事にかみ合わさった南大門、壮大なレリーフが施された回廊や石に掘られた微笑みの菩薩像のあるバイヨン寺院、象の彫刻が施されたテラス、三島由紀夫の戯曲の舞台になったらライ王のテラスなどをみた。



B932f7e60b714f458e08706d3d80226a


Cca4f304738a495589e7773e9a8dacc7

グループの方たちが話していたが、まさに石を組み上げてそれを一つの建築物として、そして一つの都市として構築した時代の技術力と人間の知恵を感じざるを得ない。これは権力の象徴であり、栄華の確認であり、民族の誇りだったのだろう。そして、そこには、おそらく奴隷として重労働を強いられた人間たちもいたのだろう。

 バスでタ・プロム寺院へ。あえて修復されていない遺跡だ。巨大な木々が石の建造物に絡みつき、建造物を破壊している。タコやイカや妖怪の手足のように見える木の根が石と石の間に入り込み、時に不思議な形で均衡を保っている。巨大な石が地震の後のように散乱しているが、カンボジアでは過去数千年、地震は起こっておらず、これはすべて植物の仕業だという。こうしてみると、ここに巨大な意識を運んだ人間の力と、それを破壊する植物の力を思い知る。

30f7f923e64a4080abbfbf7e3317f30d

E005704de751430293079a0838a168fa

 昼食をとって、ホテルで小休憩。

午後はふたたびアンコール・ワット見物。朝は中には入らずに外観を見ただけだったが、午後はガイドさんの説明を聞きながら回廊のレリーフを見て回った。プリミティブな表現だが手が込んでいてとても魅力的。回廊によって描かれている内容は異なるらしいが、ざっと見てもどのような内容が描かれているのかよくわからない。ただ、私は壁面いっぱいに神々や人や猿や馬や牛などの動物、そして空想の動物たちを細かく明確な形で描き尽くしたこと自体に感動する。

 アンコール・ワットに沈む夕日を見て、バスで移動してカンボジアの鍋料理を食べた。

 朝から暑い中を歩き続けている。疲労困憊。ふだんの運動不足がたたって、足が重い。

ガイドさんに勧められたマッサージ店でマッサージを受けた。10人ほどの女性(若い人もいるが、だいたい40歳代が中心だろう)が制服を着て入り口近くで待機していた。代金(90分で22ドル。チップなどを含めて合計25ドルだった)を支払い、2階の個室に通されて施療を受けた。薄暗い中でのマッサージだったので少し警戒したが、怪しいことは起こらず、とても快適なマッサージだった。

 

1212

 往路はプノンペンからシェムリアップまで飛行機で移動したが、帰りは途中、遺跡を巡りながらバスでプノンペンまで移動。まず、11世紀末から12世紀初めに作られたベンメリア寺院。ナーガ(ヒンドゥ教のヘビの形をした神)の像がきれいに残った密林の中の寺院だ。石切り場が残されており、苔むした彫刻が見られる。とても雰囲気がいい。が、けたたましい声で騒ぐ中国人グループがいくつもあり、しかも狭い通路を多くの観光客が通っているのに、何人もの中国人が観光客を通せんぼする形で写真撮影をする。自分が被写体になり、女優さんのようにポーズをとって一人が何枚も撮影する。それを何人かが行う。

 またバスに乗ってアンコール時代の古代橋に寄り、コンポントム(ベトナム戦争時代だったか、ポルポト派の残虐が知られるようになった後だったか、この名前を盛んに耳にしたような気がする)の感じのいい、植民地風のホテル(新しいきれいな建物でプール付き)で昼食を取り、またバスで移動。夕方、プノンペン到着。速めの夕食を取って空港へ。

 そして、2250分出発の便で成田へ。そして、早朝630分ころ無事到着。

 

 今回はツアーに参加し、単独行動はほとんどしていない。朝から夜まで遺跡などを歩くハードなツアーだったので、一人で散歩に行く体力的余裕もなかった。だから、ガイドさんに連れられて歩いただけ。特に都市について気付いたことはないが、気になったことをいくつか列挙する。

・ともあれ、26年前とは別の世界だった。驚くべき繁栄。もちろん、舗装が十分でなかったり、メンテナンスがよくなかったりといった面はあちこちにある。だが、たった26年でここまで成長したことを驚異に思った。

・中国の影をあらゆる面で感じた。日本は戦後25年で対米従属することによって世界を代表する先進国になった。カンボジアは中国に従属することで現在の繁栄を築いている。そう言ってよいのではないか。現在、カンボジアは親中国路線をとるフンセン首相の独裁に近い形にあって、国内の中国資本を積極的に入れている。仕事でも観光でも中国人が我が物顔でカンボジアで活動している。それを苦々しく思うカンボジア人も多いようだ。現在も繁栄も必ずしもめでたいことではないのかもしれない。

・逆に日本の影の薄さを感じた。車はトヨタなどの日本車が多い。スズキのバイクもよく見かける。が、日本企業の看板や広告、建物はほとんど見ない。観光地での日本語表示も少ない。日本人観光客も以前に比べるとずいぶん少ない。

26年前にも感じたことだが、カンボジア人はゆったりのんびりしている! 東南アジアのどの国でもガサガサした面を感じるが、カンボジアではそのようなことはない。おっとりしている。歩くのも、話をするのもゆっくり。まじめでおとなしく、ものしずかにしている。そんなんじゃ中国人にいいようにこき使われちゃうぞ!と声をかけたくなる。このような人の中からなぜポルポトのような人が出てきたのか、なぜクメール・ルージュは残虐なことを繰り返したのか理解に苦しむ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ノット+東響の「英雄の生涯」 本格的で鮮烈な演奏!

 20181215日、サントリーホールで東京交響楽団の定期演奏会を聴いた。指揮はジョナサン・ノット。曲目は、前半に主席フルーティストの甲斐さちが加わってヴァレーズの「密度21.5」、それに続けて「アメリカ」、後半にシュトラウスの交響詩「英雄の生涯」。素晴らしい演奏だった。

 ヴァレーズの曲は、フルートの無伴奏も、その後の「アメリカ」も音が鮮明で、ときどき魂が震えるような広がりを持つ。かなり透明で濁りのない鮮烈な音。ただ、私はヴァレーズの曲にそれほどなじみがない(かなり前、「イオニザシオン」などの入ったレコードだったかCDだったかを1枚だけ持っていて何度か聴いた程度)ので、演奏についてはどうこういえない。

 後半の「英雄の生涯」は前半以上に素晴らしかった。

最初、何気なしに、あちこちに音楽が散らばったような始まり方をしたので、「あれ?」と思って聴いていたらぐいぐいと求心的になり、音楽に表情が生まれてきた。とても自由に楽しんでいる雰囲気が伝わってくる。だが、そうであるのに音楽は生き生きとしてアンサンブルはしっかりとまとまっている。

 コンサートマスター水谷晃のソロは官能性を抑えたかなり攻撃的な音だった。指揮者の指示もあるのだろうか。特にロマンティックな演奏ではなく、大袈裟に強調するわけではないのだが、音が美しく、鮮烈に明確に音楽が作られていくので、それだけで音楽に表情が生まれて、豊かになっていく。まさに本格的な音楽。トランペットのミスがあったのは残念だったが、全体的にはオーケストラは素晴らしかった。

私はシュトラウス好きだが、もっぱらオペラが好きなのであって交響詩については実は心に響くことは少ない。ところが、後半、何度も感動に震えた。

 ジョナサン・ノットの指揮を聴くのは久しぶりだった。東響の首席指揮者に就任してから今回初めて聴く。それにしても、素晴らしい指揮者だと改めて思った。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

新国立劇場「ファルスタッフ」 素晴らしい演奏!

2018126日、新国立劇場で「ファルスタッフ」をみた。演奏に関しては素晴らしかった。

カルロ・リッツィが指揮をすると東京フィルハーモニー交響楽団もぐっとしまる。力感にあふれ、精妙な部分も見事に表現されていた。ちょっと粗いところもないではなかったが、初日の演奏としては出色ではないか。とてもまとまりがよく、音色もしっかり出せて、エネルギーのある演奏だった。やはりオーケストラがいいと全体がしまる。

歌手陣も素晴らしかった。やはりアリーチェを歌うエヴァ・メイが声も演技も、そして容姿も素晴らしい。しなやかで色気があって気品がある。ほれぼれするような美しさ。ファルスタッフのロベルト・デ・カンディアも見事なファルスタッフぶり。声もしっかりしている。フォードのマッティア・オリヴィエーリは絵にかいたような二枚目。ちょっと声に一本調子の部分があったが、きっとまだ若いのだろう。これからが楽しみ。クイックリー夫人のエンケレイダ・シュコーザも伸びのある声で深みがあって素晴らしかった。

 日本人歌手も外国人勢にまったく引けを取らなかった。全員がきわめて高レベルだった。本当に素晴らしい。メグの鳥木弥生は伸びのある声でアリーチェに劣らなかった。ナンネッタの幸田浩子もとても美しい声。フェントンの村上公太も若者らしい率直な美声。カイウスの小山陽二郎、バルドルフォの糸賀修平、ピストーラの妻屋秀和はいずれも見事な声と演技。そして、三澤洋史の合唱指揮による新国立劇場合唱団はいつも通りの見事さ。常に高いレベルで舞台を支えている。

 ジョナサン・ミラーの演出はいかにも手慣れた感じ。フェルメールの絵画を思わせる室内。スムーズに、そして的確にストーリーが展開される。ただ、喜劇性は少ない。もっと笑える部分があってもよかったのではないか。そうしてこそ、最後の場面がもっとワクワクしたのではないか。その点、少し物足りなかった。

 とはいえ、本当に素晴らしい舞台だった。新国立劇場のレベルの高さをまたも痛感した。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「哀しみのモーツァルト」 珠玉の哀しみ!

201812月4日、サントリーホールブルーローズで第1回「哀しみのモーツァルト」を聴いた。モーツァルトの短調の曲を集めたコンサート。モーツァルトの短調の曲をこれほどまとめて聴く機会はめったにないし、演奏は仲道郁代(ピアノ)、小林沙羅(ソプラノ)、崔文洙(ヴァイオリン)、崔文洙弦楽四重(五重)奏団、そして三枝成彰さんの解説付きとあっては悪かろうはずがない。そう思って出かけた。

 曲目は、ピアノ・ソナタ第8番、「フィガロの結婚」のバルバリーナのカヴァティーナ「 失くしてしまって・・・あたし困ったわ!」、「魔笛」のパミーナのアリア「 ああ、私は感じる、愛のしあわせが」、そして、歌曲「希望に」「魔術師」「老婆」「ルイーゼが不実な恋人の手紙を焼いたとき」、そして、「泉のほとりで」の主題による6つの変奏曲、ヴァイオリン・ソナタ第21番、弦楽四重奏曲第15番第一楽章、弦楽五重奏曲第4番第一楽章、アダージョとフーガ ハ短調、ピアノ協奏曲第23番第二楽章など盛りだくさん。

「老婆」はかつてシュヴァルツコップのレコードをずいぶんと聴いたものだ。確か、実演でもシュヴァルツコップの歌を聴いた気がする。とてもおもしろい曲だと改めて思った。

 とりわけ、弦楽四重奏曲第15番と弦楽五重奏曲第4番、アダージョとフーガは私の大好きな曲だ。この3曲は一時期、繰り返し聴いた。悲痛であり、人生の深みが込められており、しかしそうでありながら重くならない。哀しみを珠玉の作品に変えたのはモーツァルトの功績といえるのかもしれない。三枝さんが繰り返し言われていた通り、まさしく「疾走する哀しみ」tristesse allant「トリステス・アラン」! 演奏に関しては、初めのうちは「安全運転」という感じがしたが、徐々にモーツァルトの哀しみが乗り移ったかのようになった。

 短調の曲はモーツァルトの曲全体の5パーセント程度だという。交響曲や協奏曲は時々聴く機会があるが、室内楽を聴く機会は少ない。それをこれほどまとめて聴けて、実にうれしい。短調について、とりわけモーツァルトの短調の特徴について三枝さんのお話もうかがえた。第2回も来年の12月5日に開催されるとのこと(今年はモーツァルトの命日の12月5日言開かれなかったのは、会場が取れなかったためとのこと)。楽しみだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

フェルメール展とウィーンピアノ四重奏団、そしてM1グランプリ

 2018123日、午後に少し時間ができたので、上野の森美術館でフェルメール展をみた。

オランダにも何度か行って美術館巡りをしたし、デルフトを訪れたこともあるので、フェルメールの絵はかなり見ている。今回見た絵も、すべてこれまでに見たことがあったはずだ。が、改めて見ても、やはり圧倒的に素晴らしい。ほかの画家の作品も展示されているが、やはりフェルメールの絵の存在感はすさまじい。

「牛乳を注ぐ女」の静謐さ、存在の豊かさには言葉をなくす。そのほか、「ワイングラス」「リュートを調弦する女」「真珠の首飾りの女」「手紙を書く女」「手紙を書く夫人と召使」も素晴らしかった。「赤い帽子の娘」は人気がないようで、ほかの絵の前で人だかりができているのに、この絵の前だけはがらんとしていた。が、よく見てみると、これもとてもいい絵だと思った。娘の顔が緻密に描かれていないのでフェルメールらしくないが、帽子の色彩感はとてもいい。ただ、私は美術には疎いので、それについて語る語彙を持ち合わせていない。よって、くわしくは書かない。

 フェルメール展を見終えた後、銀座である出版社の編集の方と打ち合わせ。その後、日経ホールに場所を移して、ウィーンピアノ四重奏団の演奏を聴いた。

 曲目は、前半にモーツァルトのピアノ四重奏曲 第2番 変ホ長調とドビュッシーのピアノ三重奏曲 第1番、ショパンのバラード第1番(ピアノ四重奏版)、後半にコレッリの合奏協奏曲 第8番 ト短調「クリスマス協奏曲」より「パストラーレ」、そしてブラームスのピアノ四重奏曲 第3番。

 ウィーンピアノ四重奏団はウィーン在住のピアニスト、フォゥグ・浦田陽子さんとウィーンフィルのメンバーによる四重奏団。ただ、私は期待ほど楽しむことができなかった。

ピアノの音にちょっと癖があり、指が少しもつれた感じになるのを感じたが、気のせいだっただろうか。それに、なんだか音楽が一本調子で、初めて音合わせをしているような雰囲気。音楽が構築されていかない。常設のピアノ四重奏団とは思えなかった。私の最も嫌いなタイプの演奏。このブログで私が「けなす」のはだいたいにおいてこのようなタイプの演奏だ。演奏者には申し訳ないが、ずっと退屈だった。

 音楽は楽しめなかったが、その分、フェルメールが素晴らしかったので、今日はこれで満足。

 ところで、ついでに昨日テレビで見た「M1グランプリ」について少し書く。私は小学生のころからの漫才ファン。大学生のころには末広亭に通っていた。三球・照代の地下鉄漫才に何度笑い転げたことか! 今回は和牛とジャルジャルがともに最高におもしろいと思った。優勝した霜降り明星もおもしろかったが、和牛とジャルジャルにはかなわないと思う。テクニックとしては和牛。が、ジャルジャルのシュールなおもしろさはほかの人にはまねできない。どちらかに優勝してほしかった。が、ともあれ、昨日はテレビで彼らの芸を十分に見られたことに満足だった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

調布市民オペラ「アイーダ」 素晴らしい演奏、衝撃の演出

 2018年12月1日、調布グリーンホールで調布市民オペラ第21回公演「アイーダ」をみた。素晴らしい演奏、そして衝撃の演出だった。

 歌手陣の素晴らしさにまず驚いた。アイーダの江水妙子(旧姓石原)、アムネリスの大賀真理子、ラダメスの小野弘晴、アモナズロの小林大祐の四人の主役格はいずれも音程のよい伸びのある声。エジプト王の狩野賢一、ランフィスの後藤春馬、伝令の工藤翔陽もとてもよい。これまで日本人によって上演された「アイーダ」でも最高レベルの歌唱なのではないかと思う。市民オペラを見くびってはいけないと思いつつ、実はこれほどの高いレベルの歌唱が聞けるとは思っていなかった。市民オペラのレベルの高さに脱帽!

ステーファノ・マストランジェロの指揮による東京ニューシティ管弦楽団もさすが手慣れたもので、しっかりとした音楽を聞かせてくれた。もちろん、ときどき歌とずれるところもあった。だが、だんだんと調子がでてきて、第34幕は見事だった。

谷茂樹指導による調布市民オペラ合唱団もしっかりと歌っていた。かなりの高齢の方々のようだ。もしかしたら、80歳を超す方がかなりおられるのではないか。よくぞここまで歌えると思った。私は、高齢の合唱団の方々が楽しそうに、そして必死に歌っている姿を見て、心から感動した。これこそが音楽の楽しみだと思った。オペラというのは本来このようなものだと思う。近所のおじさんやおばさんが合唱団やオーケストラに所属していて、親しみやすいものとしてみんなで楽しむのがオペラなのだと思う。まさにそれをこの市民オペラは実践している。

そして、特筆するべきは三浦安浩の演出。実は、きわめてオーソドックスなわかりやすい演出だと思う。目立った解釈は少しもない。何度も見てきた「アイーダ」の物語。ただ、1点を除いては。が、その1点があまりに衝撃的だった。

その1点というのは、ミカン箱で作ったかのような粗末で安づくりの山鉾が2台舞台上に置かれ、それが階段になったり、2台が組み合わされてピラミッドのようになったりすることだ。豪華な舞台とは対照的な安っぽい装置! 

これは、「アイーダ」を豪華絢爛な大スペクタクルにすることに対する三浦流のアンチとしての仕掛けなのだと思う。こうすることで、「アイーダ」は王や王女や英雄たちの豪華で壮大な物語ではなく、市井の男と女の物語になる! 戦争に翻弄された男女の普遍的な悲劇になる。私たちの心の中の出来事になる。

実は私は「アイーダ」はあまり好きではない。先日、ムーティ指揮のザルツブルク音楽祭2017年の「アイーダ」の映像をみたが、その思いを強くした。私が「アイーダ」が好きでない理由、それはこれが市井の人間からかけ離れた王や王女や英雄たちのあまりに壮大な物語だということだ。これほど壮大だと私はむしろ空々しさを感じてしまう。こけおどしのようなものを感じてしまって、リアリティを感じない。

ところが、三浦演出は、そのような豪華絢爛な壮大さを、たった一つの仕掛けによって打ち崩す。ほかは何もいじらず、オーソドックスな演出をしながら、安っぽい装置をさりげなく使うだけで、根底から「アイーダ」のあり方を変えてしまう。しかも、このようにすることで、市民オペラが手作りであること、市民がみんなで作っていることを強調することにもつながる。これはすさまじいことだと思った。

三浦さんとは親しくさせていただいているので、終演後、ご本人にこのことについて問いただしたいと思った。が、そうするとここに勝手な私の感想を書けなくなる。それもあって、あえて三浦さんには何も聞かないままここに書きつけることにした。

私が「アイーダ」に心から感動したのはこれが初めてだ。このような市井的な面を強調した「アイーダ」なら私は大好きなのだ。素晴らしいオペラだと改めて納得した。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2018年11月 | トップページ | 2019年1月 »