« 2019年1月 | トップページ | 2019年3月 »

アンコーラ公演 SFファンタジーの「ホフマン物語」

 2019227日、新宿区角筈区民ホールでANCORA第6回公演「ファンタジック・ホラー ホフマン物語」をみた。

 ANCORAというのは演出家の三浦安浩さん(音読みするとアンコウさん)の主催するオペラ団体。実力派の歌手がそろっている。

 セリフは日本語、歌は原語。現代に合わせえて原作を多少カットしたり、別のセリフを加えたりして現代にオペラをよみがえらせようという試み。大胆に新しい要素を加えているが、そこには原典を尊ぶ精神が一貫しているので、決してまがい物にはならない。そこが三浦安浩演出の凄みだと思う。

 今回は、「ホフマン物語」を2029年を舞台にしたSFファンタジーに仕立てている。考えてみれば、オランピアはまさにロボット。この物語はAI時代にふさわしい。オペラは映画「アイロボット」や「バイオハザード」のように展開する。2029年にはAIが広まり、核戦争が起こり、人間の住めない時代になっている。人間がゾンビではなく、AIにされてしまう(?)時代になっている。ホフマンは3つの愛によって、本当の愛を知り、最後にはミューズと心を交わしあい、そうすることによって暗い未来を吹き飛ばす。きっとそのようなメッセージが込められているのだろう。

 三浦演出にはわからないところはたくさんある。三浦さんが遠慮なしに自分の演出を押し通しているアンコーラ公演ではその傾向が強い。好き勝手をやって、猥雑になり、映画のパロディのようなものも出てきて、まさにごった煮。だが、三浦マジックでそこに一本の理念が貫かれている。そのため、なんだかよくわからないし、細かいところでは矛盾するところも多いし、そもそも何をしているのかわからない箇所はたくさんあるが、ともあれ終わってみると素晴らしいと感じる。今回もそう思った。そして、確かにこれこそがE...ホフマンの魅力であり、そもそもなんだかわけのわからないオッフェンバックの「ホフマン物語」の魅力でもあると思った。

 歌手陣のレベルの高さには驚いた。とりわけ私はニクラウス(ミューズ)を歌った鮎澤由香理とオランピアの藤井冴にとりわけ感銘を受けた。二人ともとても美しい声。フランス語の発音も明確で声に伸びがあって素晴らしい。

 リンドルフなどを歌った山田大智もしっかりした声で実に見事。ルーテルやクレスペルを歌った香月健もしっかりした声で、とても魅力的だった。

 アントニアの神田さやかはとても丁寧な歌だが、ちょっと平板な気がした。そのような役として捉えているのかもしれないが、もっとダイナミックな歌い方のほうが私は好みだ。ジュリエッタの斉藤紀子はとても迫力ある歌が魅力だが、私にはちょっと迫力がありすぎるように思った。もちろん、そのような役として捉えているのだと思うが、私としては、そんなに気合を入れて歌わなくてもよかろうにと思ってしまうのだった。

 ホフマンの上本訓久はとても魅力的な声で、声楽的にはとびぬけていると思ったが、私にはまったくフランス語に聞えなかった。30年前には少しフランス語をしゃべっていたので、フランス語は多少は聞き取れるし、単語の断片は理解できるが、上本さんの歌は別の言語としか思えなかった。ほかの何人かにも同じような傾向を感じた。私はフランス語のオペラや歌曲を聴くごとに、日本人にとってのこの言語の発音の難しさを感じざるをえない。声楽の場合、まず発音を大事にしてほしいと切に思う。

 フランス語の発音という点では実は不満を抱いたのだったが、全体的に素晴らしい上演だった。このような上演を4つの別のキャストの組み合わせによって4回行われるという。それもまたすごいことだ。ほかのキャストの公演も見たいところだが、残念ながら予定が入っている!

| | コメント (0) | トラックバック (0)

フィルハルモニア多摩のオペラ「幽霊屋敷」 見事な演奏!

2019224日、立川のたましんRISURUホール大ホールてスタニスワフ・モニューシュコ作曲のオペラ「幽霊屋敷」(日本初演・演奏会形式)を聴いた。

 

 もちろん私は初めてこのオペラを聴いた。その存在も知らなかった。作曲者名も知らなかった。かつて今村能指揮によりフィルハルモニア多摩の演奏するフランス音楽を聴いて驚嘆、その後、何度か多摩大学の私のゼミが主催するコンサートにこのオーケストラの方々の演奏をお願いしたことがある。指揮者の今村能さんがポーランド音楽を精力的に紹介なさっていることはよく知っていたが、これまでなかなか時間が合わなくて、聴く機会がなかった。今回、こんな珍しいオペラを上演されるとあっては、何が何でも聞きたいと思ったのだった。なお、多摩フィルハルモニア協会と東京室内歌劇場の主催による演奏で、日本・ポーランド国交樹立100周年記念とのこと。

 

 モニューシュコはワーグナーと同じ時代を生きた作曲家で、ポーランドではこのオペラはとても人気があるという。スメタナのオペラをもう少し古典的にした感じ。とてもおもしろいオペラだと思った。ストーリーもわかりやすいし、話の展開に説得力がある。初めて聴いてもまったく退屈しないし、とてもきれいな旋律がしばしば出てくる。オーケストレーションもしっかりしている。第四幕の合唱など、大きく盛り上がって素晴らしかった。

 

 演奏もかなり高レベルだと思った。とりわけ、ハンナを歌う津山恵さんがやはり声の伸びもコントロールも素晴らしかった。そのほか、ステファンの園山正孝とダマズィの西岡慎介に私は強く惹かれた。そのほかの歌手たちもとてもしっかりと歌った。

 

フィルハルモニア多摩も大健闘。ところどころで心細い音になることはあったが、全体的にはしっかりした音でオペラを盛り上げた。オーケストラの力は管楽器に歴然と現れるが、木管、金管ともにとてもきれいな音を出して、一流の都内のオケに引けを取らないと思った。コンサート・ミストレスのソロヴァイオリンも見事だった。

 

 そして、日本におけるポーランド音楽の第一人者であるマエストロ今村の的確な指揮ぶりも特筆に値すると思う。この大曲を最後まで緊張感を持って演奏。演奏会形式でありながら、しっかりとオペラの世界を作り上げていた。いや、そもそもこのオペラを取り上げて演奏してくれたこと自体、その功績に圧倒される。

 

 ただ私が不満に思ったのは、ポーランド人と思しき人々のマナーだった。78人のポーランド人招待客らしい人が中央の席に並んでいたが、おしゃべりをしたり、演奏中にスマホで動画を撮ったり、スマホでメールを確認したり、スマホで何かを書いたり、第二幕ではコーヒーを飲みながら聴いていたし、シャッター音を立てて写真を撮っていた。じっくりと聴いている様子はまったく見られなかった。子どもも二人いて絵を描いたり、お菓子を食べたりしていたが、それはやむを得ないとしても、それと大差のないことを大人たちがするのにはあきれてしまった。せっかくポーランドの音楽が演奏されているのに、このような態度をとるなんて! これがポーランドの文化のレベルなのだろうか。とても残念だった。私は第二幕まで、ポーランド人たちのすぐ後ろで聴いていたが、いらいらするので、第三幕から別の席に移って聴いた。

 

 ともあれ、このような珍しいオペラを見事な演奏で聴けたことにとても満足した。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

二期会「金閣寺」 演奏は素晴らしかったが、台本に無理があると思った

 2019223日、東京二期会オペラ劇場「金閣寺」をみた。

 三島由紀夫はもっとも好きな作家の一人であり、「金閣寺」はとりわけ最高傑作だと思っている。ひところ黛敏郎の「涅槃交響曲」や「曼荼羅交響曲」を夢中になって聴いていた。だから、その昔、オペラ「金閣寺」が作曲されてからずっと関心は持っていた。が、CDはもちろん聴いたものの、実際の上演については、時間が合わなかったり、忙しかったりで、これまでみる機会がなかった。今回、初めてみた。しかも、指揮は有望な若手だというマキシム・パスカル、演出は宮本亜門。悪かろうはずがないと思って出かけたのだった。だが、残念ながら、思っていたほどの感動はしなかった。

 台本はクラウス・ヘンネベルク。原作そのものがきわめて複雑な思想を語るものなので、やはりこれをオペラ台本にするのは難しい。そもそも溝口は吃音によって社会との関係を遮断された状況にある。オペラ台本では、やむを得ずそれを手の障害に置き換えているが、やはりそれでは溝口のもどかしさ、社会との距離感は伝わらない。そのほか、鶴川や柏木の位置づけもこの台本では曖昧なままだ。そうなると、金閣寺というものの意味もしっかり伝わらない。少なくとも私は溝口の苦悩を追体験できず、その痛みも金閣寺への愛憎も自分のこととして感じることができなかった。せっかく黛特有の魂をえぐる音が聞こえているのに、そして、歌手たちがそれを見事に演じているのに、私にはそれが伝わらない。

 そして、同時に、黛敏郎は決してオペラ作曲家ではなかったことがあちこちに感じられた。手慣れなさのようなものを感じる。宮本亜門の演出は、黙役のヤング溝口をうまく使っていたが、やはりそれでも、そうした作品そのものの不足を補うには至っていないと思った。

 演奏はすべてとても良かった。溝口の与那城敬は見事な歌。鶴川の高田智士、柏木の山本耕平、道詮和尚の畠山茂、母の林正子、有為子の嘉目真木子も演技、歌ともにとてもよかった。マキシム・パスカルの指揮も東京交響楽団も文句なし。

 数日のうちに「紫苑物語」と「金閣寺」の2本の名作小説に基づく日本人作曲家の手になる現代オペラをみたが、私は「紫苑物語」のほうに大きな感銘を受けたのだった。が、ともあれ、このようなレベルの高い2本がみられたことは、実に嬉しい。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

三宅理恵ソプラノ・リサイタル 5拍子揃った名歌手!

 2019222日、紀尾井ホールで三宅理恵ソプラノ・リサイタルを聴いた。素晴らしかった。感動した。

 2010年、多摩大学の私のゼミが主催してHAKUJU HALLでコンサートを開いた時、新居由佳梨さん、江島有希子さんとともに三宅理恵さんにも演奏していただいた。まだ若手だった三宅さんは快く私たちの依頼に応じてシューベルトの「鱒」「魔王」「糸をつむぐグレートヒェン」やジブリの歌を歌ってくださったのだった。素晴らしい歌だった。そして、今回、初めてのリサイタルを聴いて、今や押しも押されもしない日本最高のソプラノの一人になっておられたのを改めて感じた!

 最初はパーセルの「妖精の女王」の「聴け、大気はこだまして」。音程の正確な本当に美しい透明な声。ヴィブラートが少なく、自然で清澄。しかも、完璧に声をコントロールして、歌のニュアンスも素晴らしい。時にホール全体に声を響かせる。モーツァルトの「すみれ」でも、清澄でニュアンス豊かな歌唱を聞かせ、ヴォルフの「澄まし娘」や「心変わりした娘」では、もっと軽妙で、もっと深い心の内を聴かせてくれた。そして、ドビュッシーやシャミナードの歌曲では、美しいフランス語の響きが見事。三宅さんが言葉を大事にしていることがとてもよくわかる。聞き取りやすいフランス語。言葉こそが歌曲のエッセンスだということがとても納得できる。もう少しアクが強くていいと思うが、クセのないきれいな声が三宅さんの最高の持ち味だと思う。

 後半には現代曲が中心になった。前半では、軽めの声の、いわばスーブレット風の声で軽快に聴かせてくれたのだが、後半になると、もっと奥深い世界が展開される。藤倉大の「世界にあてた私の手紙 (ソプラノ版 世界初演)では、様々な表現の実験をしている感じ。ハンドリーとプレヴィンとゴードンの3人の作曲家がエミリー・ディキンソンの詩「朝は本当にあるの?」につけた歌も、それぞれの作曲家の個性を描き分けて、とてもおもしろかった。知的で繊細で清潔。

 プログラムの作り方も見事。三宅さんの様々な魅力を聴かせてもらえた。しかも、だんだんと表現の幅が広がり、清澄な声から徐々に、もう少し屈折した音楽になっていく。その展開の仕方も見事。

そして、最後はグノーの「ロメオとジュリエット」の「ああ、なんという戦慄が」。アンコールには同じ「ロメオとジュリエット」の第一幕のアリア。これまでの歌曲的なアプローチと違って、オペラとしてのドラマティックな三宅さんを聴かせてくれた。このような音のドラマの作り方も見事。何度か心が震えた。

ピアノは川島基。突然の変更だったようだ。タッチの美しい、とても感じのよいピアノ伴奏だった。シャミナードの歌曲には永井由比さんのフルートが入ったが、それもとてもきれいだった。

これから、もっともっと歌曲のリサイタルをしてほしい。これほど美しい声と正確な音程といくつもの言語を美しく歌い分ける知性と様々なニュアンスを歌い分ける表現力と、そしてこれほどチャーミングな容姿を持ち合わせる歌手は世界にもほとんどいない。まさに五拍子揃った名歌手だと思った。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

新国立劇場「紫苑物語」 高い完成度で上演された大傑作オペラ

昨日(2019220日)、新国立劇場で「紫苑物語」をみた。完成度が高かった。素晴らしかった。間違いなく、日本のオペラ史に燦然と輝く大傑作だと思った。

私は特に現代オペラに関心があるわけではないのだが、一時期、夢中になって読んでいた石川淳の傑作小説が西村朗の音楽によってオペラになったとあってはみないわけにはいかない。しかも、演奏家たちがそれ以上は考えられないメンバー。楽しみにして出かけ、思っていた以上の素晴らしさだった。

石川淳にふさわしい舞台だと思う。演出の笈田ヨシは石川淳の世界を知り尽くしているのを感じた。原作に合わせた平安時代風の衣装ではあるが、しばしば西洋的。舞台もきわめて現代的な鉄骨の骨組みなどが見える。日本と西洋、平安と現代の不思議な折衷も石川淳の独特の世界を作り出しているといえそう。「ジークフリート」や「ばらの騎士」へのオマージュと思えるような場面もある。

佐々木幹郎の台本もわかりやすくて深い言葉が使われ、手際よく、しかも石川淳の世界を構築しつつ話を進めていく。格調高く、しかもエロティックでえげつない。そうした雰囲気も作り出している。オペラにふさわしく大衆的。オペラの鉄則を踏まえてうまくまとめている。

そして、何より西村の音楽が素晴らしい。私のように現代音楽になじんでいない人間の心の中にも入りこむ。時代を超えた神秘の音がする。いたずらに現代音楽風ではないのに、きわめて現代的。第二幕の四重唱の素晴らしさには圧倒された。古今東西の名作オペラの最高の四重唱に匹敵する美しさ。四つの声が複雑に絡み合い、得体のしれない世界を作り上げる。

そうした音楽を作り上げている歌手陣も素晴らしかった。宗頼の髙田智宏はしっかりと安定した歌。まさに宗順にふさわしい。平太を歌うのは松平敬。なんとホーミーを見事に歌いこなした! 確かに複数の音程の声が聞こえ、それが不思議な音響を作り出して感動的だった。一昨年、ウランバートルで本場の歌手のホーミーを聴いたが、それ以上に見事だったと思う。

うつろ姫を歌う清水華澄の不気味なエネルギーと色気は圧倒的。千草を歌う臼木あいの怪しい魅力もまた見事。藤内の村上敏明の声も演技力もまた素晴らしかった。弓麻呂の河野克典も、そして父親役の小山陽二郎も独特の存在感。

そしてまた、これらを支えた大野和士指揮による東京都交響楽団も文句なしの演奏。三澤洋史合唱指揮による新国立劇場合唱団もいつも通り最高の歌と演技。

すべてが最高に発揮されてとても完成度の高い舞台になった。

ただ、オペラを見ながら、やはりよくわからないセリフや場面がたくさんあった。最初に石川淳の原作を読んだ時から、なんだかわからない小説だと思ったが、オペラとしてみることによって、またまたいくつもの疑問が湧いてきた。原作を読み返し、またこの舞台を見、そしてできれば近い将来、別の演出によるこの作品を見たい。逆に言うと、まさしく汲めども尽きせぬ魅力を、この原作とこのオペラは持っていると思った。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

イブラギモヴァ&ティベルギアンのブラームス 魂が震えた!

 2019年横浜みなとみらい小ホールでアリーナ・イブラギモヴァとセドリック・ティベルギアンによるブラームスのヴァイオリン・ソナタ全曲演奏会を聴いた。素晴らしい演奏だった。魂が震えた。

 一昨日、さいたま芸術劇場で聴いたシューマンと同じようなアプローチだと思う。誇張せず、過度な抒情を排して、楽譜そのものを再現しようとしている。が、私自身がシューマンよりもブラームスのほうがずっと好きなためなのか、あるいはシューマンのソナタよりもブラームスのソナタのほうが名曲であるためなのか、あるいはまた二人の演奏がブラームスのほうに向いていたのか。これらのどれなのかはわからないが、一昨日は少し欲求不満に思った私も今日は心の底から感動し、二人の音楽に酔いしれた。

 実に鮮烈にして繊細。イブラギモヴァのヴァイオリンの音は音程がよく、透明で美しい。しかもスケールが大きく、魂をゆすぶる。表現が多彩で、フレーズによる音色の変化がとても微妙。少しも誇張していないのに、音が魂を揺り動かす。そして、ティベルギアンのピアノの何と美しいこと。繊細でしなやかで、時々はっとするほどの新鮮な響きがする。しかも二人の息がぴったり。音楽観も似ているのだと思う。

 前半は抑え気味。だんだんとブラームスの抑制的でありながら、ロマンティックな心を秘めた世界を形作っていく。そして、後半の第3番で最大限に盛り上がる。第一楽章からスケール大きく、しなやかに演奏。音楽の構成も明確、しかもすべてが自然でクリアで鮮烈。テクニックも最高。いうことなし。理想的な第3番のソナタだった。私は昔、オイストラフとリヒテルのとてつもない第3番の演奏をレコードで聴いて感動に震えていた。それとはまったく違うタイプの演奏。昔のソ連の巨匠たちに比べると、ずっと現代的でずっと洗練されている。そして、確かにずっと小粒でずっとおとなしい。だが、私は同じくらいに感動した。とりわけ第3番のソナタには何度も魂が震えた。

 アンコールはクララ・シューマンのロマンスだとのこと。しみじみとよかった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

イブラギモヴァ&ティベルギアン 素人の私としてはもう少し娯楽的要素がほしい

2019217日、彩の国さいたま芸術劇場音楽ホールで、アリーナ・イブラギモヴァとセドリック・ティベルギアンのデュオ・リサルを聴いた。

曲目は、前半にベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ第3番とヤナーチェクのヴァイオリン・ソナタ、後半にジョン・ケージの「6つのメロディ」とシューマンのヴァイオリン・ソナタ第2番。かなり鮮烈な演奏。ただ、気にいったかというと、そうでもなかった。

抒情を排した演奏といってよいのではないかと思う。あるいは、「物語性を排した」といってもよいかもしれない。楽譜そのものを大事にし、沈黙の中に音を作りだしていこうとする。とても真摯で見事な演奏。

ヤナーチェクのソナタなど、この音楽だけでは何のことやらさっぱりわからないので、多くの演奏家は、ヤナーチェクのオペラを頼りにそれぞれの曲想に何らかの意味を見つけ出し、特有の音に物語性を加えて演奏しようとするだろう。ところが、おそらくこの二人は、あえてそのようなことをしないで、音そのもので勝負しようとする。そうすると、聴き手にも何だかわからない曲になる。それでよいのだと二人は思っているのだろう。音と沈黙だけが残る。それを二人は提示そうとしているのだと思う。物語性のようなものを不要なものとして遠ざけているようだ。

ケージの音楽は、まさにそもそもがそのような曲なのだろう。無機的で意味性を避ける音が続いていく。シューマンも同じような演奏だった。一般には過度にロマンティックに盛り上げようとするのだが、イブラギモヴァとティベルギアンはそのようなことをしようとしない。過度な思い入れのない音そのものを提示する。清潔で明確でクリアな音。それによって音響世界を作り出す。それはそれで見事だと思った。二人とも音楽性が似通っており、とても説得力がある。

だが、実は私としては、これだとヤナーチェクもシューマンもおもしろくならないと思った。もう少し娯楽的要素がないと、素人の私としては楽しめない。もっと楽しませてほしいと思ったのだった。

ただ、もう少しこの二人の演奏を聴いてみたいとも思った。とても魅力ある演奏家たちであることは間違いない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

コンチェルト・ケルン 清新な音!

2019211日、武蔵野市民文化会館でコンチェルト・ケルン、ヴァレア・サバドゥス(カウンター・テナー)の演奏を聴いた。

曲目は、ヘンデル、ヴィヴァルディ、カルダーラ、ポルポラらの作品。見事な演奏。コンサート・マスターのマルクス・ホフマンさんは急病のために来日していないとのことで、代わってコンサート・ミストレスの平崎真弓さんがオーケストラをリードする。この楽団は基本的に指揮者はおかないので、平崎さんは事実上の指揮者だ。平崎さんはこの素晴らしい古楽オーケストラをしっかりとリードしてくれた。とりわけヴィヴァルディの2つのヴァイオリンのための協奏曲 ニ短調のソリストも兼ねた演奏は素晴らしかった。まさしく清新な音がする。今生まれたばかりのような音が積み重なっていく。

ただ、ラ・フォル・ジュルネで聴いた時の印象と少し異なる。以前はもっと疾風怒濤でもっと起伏が大きかった気がする。選んだ曲のせいなのか、コンサート・ミストレスの個性なのか、この種の音楽に特に詳しいわけではない私には判断できない。とはいえ、十分に勢いがあり、流れがよく、緊密で明確な演奏だと思う。

サバドゥスに関しては、前半はカウンターテナー特有の暗めの音色と音程の不安定さが少々気になった。私がこれまで聴いた世界的カウンタテナー(ジャルスキーやカルロス・メナ)に比べると、音の「抜け」がよくないように感じた。どうしてもくぐもってしまう。最初の曲「オンブラ・マイ・フ」では、とりわけそれを感じた。

が、後半になってとてもよくなった。とてもきれいな声が豊かに響くようになり、音程もよくなった。プログラムの最後のポルポラ作曲のオペラ「ポリフェーモ」のアリア「至高のジョーヴェ」と「おお、これが運命か」、そして最後のアンコール曲(ヘンデルの「背る世」の中のアリア)は、いずれも技巧を聴かせた曲でとてもよかった。

ただ、慣れの問題かもしれないが、やはり高音は女性の声の方が安定しているし、より美しく響くとは思ったのだった。そして、アンコールの2曲目に日本語で歌われた石川啄木の詩による「初恋」は、私には「はつこい」という言葉以外、ほとんど聞き取れなかった。もちろん、私にもっと教養があれば聴きとれたのだろうが、やはり、発声に無理があるのではなかろうかと思わざるを得なかった。

 18世紀に大カストラートであるファルネッリのような歌声が聴けるのではないかと思って足を運んだのだった、私はむしろ、歌のつかなかったダッラーバコの合奏協奏曲ニ長調 Op.5-6やヴィヴァルディの協奏曲イ長調 RV158、ヘンデルのシンフォニア「シバの女王の到着」、カルダーラのシンフォニア へ短調(オラトリオ「アベルの死」)のほうに心惹かれたのだった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

クルレンツィス+ムジカエテルナ まさに別格!

 2019210日、オーチャードホールでテオドール・クルレンツィス指揮、ムジカエテルナのコンサートを聴いた。宣伝文句は正しかった。まさに別格の演奏。

 前半はパトリツィア・コパチンスカヤのヴァイオリンが加わって、チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲。コパチンスカヤらしいきわめて個性的な演奏。チャイコフスキーがチャイコフスキーに聞えない。抒情性がなく、まるで現代音楽のよう。切り込みが鋭く、鋭角的に演奏。

驚くべきなのは、クルレンツィス指揮のムジカエテルナが、コパチンスカヤの演奏にぴたりと合わせて演奏することだ。冒頭のしなやかで研ぎ澄まされた音に驚いた。コパチンスカヤと顔を見合わせながら、最高のタイミングでヴァイオリンの演奏にふさわしいオーケストラの音が出てくる。まるでヴァイオリンとオーケストラの二匹の豹が絡み合っているかのように、スリリングで生き生きとしている。楽器の一つ一つが豹の一つ一つの筋肉のように精妙に、そしてダイナミックに動く。第3楽章のピチカートにびっくり。これまでこの曲でこんなピチカートを聞いた覚えがなかったが、スコアはどうなっているんだろう!

 コパチンスカヤのアンコールは3曲。すべて知らない曲だった。あとで表示を見て知った。1曲目はオーケストラのクラリネット奏者とともにミヨーの「ヴァイオリン、クラリネット、ピアノのための組曲OP.1576の第2曲とのこと、2曲目は、コンサートマスターとともにリゲティの「バラードとダンス」よりアンダンテ、3曲目はコパチンスカヤ自身の叫び声を交えてホルヘ・サンチェス・チョンの「クリン」。最後の曲はコパチンスカヤに捧げられた曲のようだ。どれもとてもおもしろかった。

 後半はチャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」。オーケストラの団員のほとんどが立ったまま演奏。すべての楽器に強いニュアンスがある。しかも、まったく不自然ではなく、音楽全体が激しく律動する。これまで聴いたことのない音がしばしば聞こえてくる。それが有機的につながっていく。動物がのたうち回るような強烈な演奏だが、無理やりに音楽をゆがめるのではなく、躍動的に音楽が推進されていくので納得できる。しかも、オーケストラ・メンバーの力量が凄まじい。第3楽章はとりわけ圧巻だった。ここまで力感にあふれ、アンサンブルも見事な演奏をこれまで聴いたことがない。息を飲み、音楽に引きこまれ、音楽に振り回されているうちに、曲が終わった。凄い!

 クルレンツィスに初めて注目したのは、特に指揮を意識せずにみた「イオランタ」の映像だった。イオランタが自分の盲目に気付く悲嘆の凄まじい表現に圧倒され、この指揮者の名前を頭に刻み付けたのだった。その後、モーツァルトのオペラのCDを何種類か聴いて、その実力のほどを知ったのだった。今日、初来日の演奏を聴いて、まさにその凄みを実感。末恐ろしい指揮者が現れたものだ!

| | コメント (0) | トラックバック (0)

小泉+都響の「冬の日の幻想」 第二楽章が美しかった!

 201929日、サントリーホールで東京都交響楽団の演奏を聴いた。指揮は小泉和裕。曲目は前半に川久保賜紀が加わってシベリウスのヴァイオリン協奏曲、後半にチャイコフスキーの交響曲第1番「冬の日の幻想」。

 シベリウスの協奏曲については、私はあまり感銘を受けなかった。川久保のヴァイオリンはとても気品にあふれ、音の処理が素晴らしい。が、きれいに鳴らすことに神経を向けすぎて平板になってしまい、ダイナミズムに欠ける気がした。とりわけ第1楽章はもっと情熱的に盛り上げてよいと思うのだが、川久保はずっと抒情的に美しく奏でる。きっとこのようにシベリウスを捉えているのだと思うが、そうなると、音楽が立体的に構成されなくなってしまうと私は思う。また、ほんのちょっとの間だったが、少し音程が怪しくなったところがあったような気がしたのだが、私の耳のせいだろうか。

 チャイコフスキーのほうは、とてもよい演奏だったと思う。マエストロ小泉らしく、けっして大袈裟にならず、しっかりと音楽を作り上げていく。ひたひたと盛り上がっていき、納得のゆくドラマになる。都響の音もアンサンブルが美しく、弦楽器の柔らかさが見事。最後にはチャイコフスキーらしく抒情が爆発する。

 ただ、チャイコフスキー好きではない私にしてみると、この若書きの交響曲は、やはりちょっと曲そのものが物足りない。実演を聴くのは初めてだと思う(録音はもちろん何度か聴いている)が、作りの単純さが気になってしまう。ただ、第二楽章のメロディはとても美しい。この部分の都響はとりわけ美しかった。今日の演奏は、物足りなさの残る曲のわりに素晴らしい演奏だったといえるだろう。

 雪の予報だったが、幸い、昼間のコンサートが終わっても、雪はちらつく程度だった。その後、天気予報が訂正されたようで、大雪にはならない模様。明日もコンサートに出かける予定なので、このまま雪にならないでほしい!

| | コメント (0) | トラックバック (0)

METライブビューイング『椿姫』 ダムラウ、フローレス、ネゼ=セガンがあまりに凄い

 東劇でMETライブビューイングの『椿姫』をみた。2018年12月15日に上演された舞台とのこと。音楽監督就任したヤニック・ネゼ=セガンの指揮、ディアナ・ダムラウのヴィオレッタ、フアン・ディエゴ・フローレスのアルフレード、クイン・ケルシーのジョルジョ・ジェルモンという超豪華キャストによる上演。このキャストにふさわしい圧倒的名演だった。

 演出はマイケル・メイヤー。第一幕の序曲の部分でヴィオレッタは舞台中央のベッドに横たわっている。第一幕以降は、死を前にしたヴィオレッタの回想ということだろう。豪華で美しい舞台、存在感のある衣装。オーソドックスだが、説得力がある。

 まずはフローレスの「乾杯の歌」が見事。ベル・カントを歌うときのような輝かしい声の威力を発揮するわけではないが、躍動感にあふれている。そして、もちろんダムラウの透明で芯の強い声に圧倒された。「ああ、そはかの人か」の声の美しさもさることながら、「花から花へ」の歌の演技と声があまりに素晴らしい。ヴィオレッタの心の揺れ動きが歌によって、そして演技によって伝わってくる。しかも透明で美しい声がビンビンと響く。

 第二幕、第三幕と進んでいくにつれ、二人とも凄みを増してきた。フローレスの怒り、苛立ちの表現はまさしくリアル。ヴィオレッタの哀しみ、絶望もひしひしと伝わる。そして、ジェルモンのケルシーも切々と訴え、その父性が伝わる。舞踏にまったく関心のない私はバレエの場面ではいつも音楽だけを聴いているのだが、今回ばかりは第二幕第二場のバレエに目を奪われた。さすがメトロポリタン。まったくの素人も楽しませてくれる。

それにしても、第三幕でヴィオレッタの歌う「過ぎし日よ、さようなら」はあまりに切ない。ダムラウの歌唱に酔った。メロドラマの類が嫌いな私もこれほど美しく伸びる声で悲しい愛を想いながら絶望するヴィオレッタの心情を歌われては涙を流すしかない。「パリを離れて」の二重唱、そして、最後の場面もあまりに素晴らしい。

それにしても、ネゼ=セガンの指揮ぶりにも圧倒された。私は初めてネゼ=セガンを知ったのは2011年のザルツブルグ音楽祭だった。『ドン・ジョヴァンニ』の中身の詰まった雄弁な音に深く感動したのを覚えている。それ以来、私の大好きな指揮者の一人だ。その知的で魅力的な指揮ぶりは、ライブビューイングで映し出されたダムラウとのリハーサルの場面でもよくわかる。ますますの充実。彼がメトロポリタン歌劇以上の音楽監督になったのを私はとてもうれしく思う。

ますます、これからのメトロポリタンの演目が楽しみになってきた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

昔の日本映画「儀式」「乾いた花」「暗殺」「写楽」「はなれ瞽女おりん」「鑓の権三」「エロス+虐殺」「煉獄エロイカ」

  しばらく前から、仕事の合間に時間を見つけては古い日本映画のDVDをみていた。学生のころに一度見た作品も含まれる。簡単な感想を記す。

 

51fd7x1y5rl_ac_us200_ 「儀式」 大島渚監督  1971

 封切当時にみて、深く感動したのを覚えている。当時から大島は大好きな映画監督だったのでかなりの本数を見ていたが、この作品は「絞死刑」に匹敵する傑作だと思った。今回見直して、同じように思った。ただ、改めてみても、大島のメッセージを完全に理解することはできなかった。

 家父長制の権化のような政界の大物(佐藤慶)の複雑な家族の冠婚葬祭を通して、戦後から戦後にかけての思想史を描く。満州生まれの満州男(河原崎健三)が戦後日本の迷える状況を体現させた存在だろう。大和魂を新しい形で戦後に活かそうとする輝道(中村敦夫)の自死を通して方向性を失った戦後日本を描いているといえそうだ。新婦のいない結婚式の場面、満州男が結婚初夜のまねごとを権力者である祖父を相手にしようとする場面など衝撃的だ。

 武満徹の音楽、音羽信子、賀来敦子(私はこの女優さんが大好きだった!「青幻記」は素晴らしかった!)、そして小松方正、戸浦六宏、渡辺文雄の「大島組」の3人のインテリ俳優。実に懐かしい!

 

91ba0bbjokl_sy445_ 「乾いた花」 篠田正浩監督  1964

 篠田正浩も大好きな監督だが、この作品は、今回、初めてみた。石原慎太郎原作。刑務所から出たばかりのヤクザ(池辺良)が賭場で謎の女(加賀まりこ)に出会い、惹かれていく。乾いたニヒリズムの世界。今みると、妙にかっこよがっているところが鼻につく。しかし、素晴らしい白黒の映像美。ヌーヴェル・ヴァーグっぽさはあるが、あくまでも娯楽映画として作られている。

 

51zcfgwhdil_ac_us200_ 「暗殺」 篠田正浩 1964年

勤王、佐幕の間を行きかった謎の幕末浪人、清河八郎(丹波哲郎)の死までを描いた作品。司馬遼太郎の「幕末」に基づくという。退屈しないで最後まで見たが、とりわけこの人物に思い入れがあるわけでもなく、幕末ものが好きなわけでもない私としては、結局、この人物の思想も心情も理解することができず、もちろん感情移入することもできなかった。ただ、篠田監督らしい映像の美しさにあふれており、白黒の映像美に浸ることができる。静かな日本の風景の中に登場した情熱あふれる奇怪な人物像を描き出すことには成功していると思う。

 

51nbzvj5cel_ac_us200_ 「はなれ瞽女おりん」 1977年

 封切時に見て、とても感動したのを覚えている。まず映像が美しい(カメラは宮川一夫)。山間や海辺、神社仏閣を背景にした大正時代の人々の暮らしが描かれる。水上勉原作。

 盲目に生まれたおりん(岩下志麻)は幼いうちに瞽女(ごぜ。盲目の女性旅芸人)の集団の親方(奈良岡朋子)に引き取られて育てられる。が、娘になって男性客(西田敏行)に手籠めにされたことで集団から追い出されて、一人で行動するようになる。その旅の途中、下駄を売る男(原田康雄)と出会い、行動をともにするようになる。だが、おりんは男がごたごたのために警察にとらわれている間に薬売り(安部徹)に強引に情を交わされてしまう。男はそれを知って薬売りを殺す。男は警察に追われるが、脱走兵であることが発覚。囚われて刑に処される。おりんはふたたび一人で活動を始める。最後、山中で三味線と女性の白骨死体が見つかる。

 おりんは盲目ゆえに理不尽な目にあわされ続ける。阿弥陀の生き方をしようとするが、それを妨げられる。それでも阿弥陀にすがろうとする。日本社会は軍国主義へと進んでいるが、それに反する形で庶民の生活がある。そうした状況を激しく、美しく描く映画だ。

 後半、行動をともにする瞽女が登場する。樹木希林が演じている。ほんの脇役だが、その存在感たるや凄まじい。ほかの瞽女たちは目をつむっているが、樹木希林はかすかに目が見えるという設定のために目を開けて演じている。その目の表情、そして動き! それだけで感動してしまう。樹木希林が前に立ち、岩下志麻が後ろについて瞽女姿の二人が大自然の前をひたひたと歩いていく場面が何度か映されるが、これは映画史に残る名場面だと思う。武満徹の音楽も素晴らしい。

 

514hnuroyjl_ac_us200_ 「写楽」 篠田正浩監督 1995

 ひとことでいって、おもしろくなかった。洒落本や浮世絵を売り出した実在の版元蔦屋重三郎(フランキー堺)を狂言回しにして、写楽(真田広之)、十返舎一九(片岡鶴太郎)、北川歌麿(佐野史郎)、葛飾北斎(永澤俊矢)、山東京伝(河原崎長一郎)、鶴屋南北(六平直政)などを配し、反権力の江戸の色彩的なエネルギーを描こうとしたのだろう。このようなものを描きたかった篠田監督の気持ちはよくわかる。

だが、あまりに多くの人物を描き、写楽と花魁(葉月里緒奈)の恋を中心に据え、そこに大道芸人集団(岩下志麻など)を加えたために、焦点ぼけしてしまった。二人の恋にもリアリティが感じられず、そもそも真田広之演じる写楽も、あのような浮世絵を描く内的必然性が感じられなかった。ただ、赤を中心にしたけばけばしい江戸の色が印象に残るだけの映画になってしまった。

 

51lwmcjlkxl_ac_us200_ 「鑓の権三」 篠田正浩監督 1986年

 近松門左衛門の浄瑠璃「鑓の権三重帷子」に基づく。脚色は富岡多恵子。封切されたころ、私は映画を見る精神的、時間的余裕がなかったので、今回、初めてみた。

 夫の留守中、娘の婿にと考えて特別に茶の秘伝を権三(郷ひろみ)に伝えようとしていたおさゐ(岩下志麻)だったが、ほかの娘と関係を持った不実をなじっているところを不義密通とみなされる。言い逃れができなくなった二人はそのまま逃げて夫に討たれることを願う。が、もとより心惹かれていたおさゐは権三と心身ともに結ばれてから討たれることを望む。そして、ついに最期を迎える。

 日本芸能に疎い私は近松の浄瑠璃をまったく知らない。が、琵琶(だと思う)がかき鳴らされ、義理と人情のはざまを人間らしく生きる姿がまさに近松の世界なのだと思う。主要な登場人物だけでなく、背景となる町や人々、祭りの様子など、とても美しく、しかも生々しい。狂おしく愛を求める男女を色彩豊かに描いて、本当にいい映画だと思う。

 

41xuccop9l_ac_us200_ 「エロス+虐殺」 吉田喜重 1969年

 学生の頃に見て、大いに刺激を受けた作品。私は高校生のころからアナキズムの思想に惹かれて、バクーニンやらクロポトキンやらの何冊かを読んでいたのだが、大学生になってからこの映画をみて大杉栄のかっこよさに痺れた。この映画をみたあと、大杉の著作を何冊か読んだのを覚えている。

封切時は2時間45分にまとめたというが、購入したDVDでは、オリジナルの3時間30分を超すヴァージョンが収録されている。

この作品は、大杉(細川俊之)と伊藤野枝(岡田茉莉子)と神近市子(楠侑子。ただし、作中ではプライバシー問題に配慮して「正岡逸子」と呼ばれる)の三角関係のもつれから実際に起こった日蔭茶屋事件を描く。大杉は所有を否定し、それを人間感情にも広げて解釈して自由恋愛を主張し、生の充足を求めるが、野枝は大杉と夫である辻潤(高橋悦史)との間で揺れ動く。大杉の妻・保子(八木昌子)も市子も大杉の自由恋愛を受け入れられない。葛藤しつつ生を燃焼させる大正時代の政治運動家たちの状況と、現代(1969年)の方向性を見失って、「ごっこ」しかできなくなった若者たち(原田大二郎・伊井利子)を対比させて描いているといってよかろう。無機的な建築物の中で人間性を求めてあえぐ現代人の状況が浮き彫りになる。

フランスのヌーヴェル・ヴァーグの影響なのだろう、かなり前衛的な手法がとられている。鼻白むような、そして赤面するような文学青年風のセリフもたくさん出てくる(確かに、私が大学生だったころ、かっこよがってこんなことをしゃべっていた!)が、白黒の映像の美しさ、カメラショットの見事さ、斬新な構図は格別。

信じられないほどカッコイイ細川俊之もさることながら、虚無僧姿で放浪する高橋悦史演じる辻潤の虚無的な姿が印象的だった。今、みなおしてみると「大傑作」とまでは言えないが、それはそれで時代を確かに反映する秀作だと思う。

 

21bx8mmgt2l_ac_us200_ 「煉獄エロイカ」 吉田喜重 1970年

「エロス+虐殺」がとてもおもしろかったので、封切後、大いに期待してみたが、かなり失望したのだった。いや、それ以上にわけがわからなかった。今回みても、まったく同じ印象だった。途中までは何とか整理してみたが、途中からお手上げ。

過去(1950年)と現在(70年)と未来(80年)が錯綜し、様々な登場人物も入り乱れるが、同じ役者がいくつかの年代を同じ扮装で演じ、しかもどうやら別の役も演じているようなので、まったく話がわからない。途中から、理解しようという気もなくした。

どうやら、主人公・庄田(鵜田貝造)は現在では美しい妻(岡田茉莉子)を持つ優秀なレーザー光線の研究者だが、50年代には革命運動に身を投じ、運動の失敗の原因となったスパイの存在について今も疑問を持っている。そうした事柄を基軸に、突然現れた少女や、その父親だと名乗る人物などが現れて3つの時代をまたいで現実と幻影が交叉していく。そうとしかまとめられない。

思い出してみるに、1970年前後、わけのわからない(わざとわからなくした)実験演劇作品がたくさん上演されていた。多くの人がベケットやイヨネスコやアラバールの真似をし、もっとわからなくして悦に入っていた。この種のものを何本か見たし、台本をずいぶん読んだ。この台本もそれに近いと思う。

一体何が起こっているのかさっぱりわからないので、せっかくの美しい映像なのだが途方に暮れてみるしかない。どうやら、「裏切られて誕生した戦後」というテーマのようだが、それも自信を持って語ることはできない。ここまで理解できないと、やはり退屈してしまう。

主人公を演じている鵜田貝造はフランス演劇研究家で、後に立教大学教授になられた塩瀬宏先生の別名だ。吉田喜重の東大時代の友人ということで出演を持ちかけられたそうだ。私は立教の大学院で塩瀬先生には大変お世話になった(考えてみると、お世話になりっぱなしで、お礼も言っていない!)。今、久しぶりに若き日の塩瀬先生の演技を見て、素人っぽい演技だとは思うが、この役には違和感はないし、端正で知的な顔立ちはこの役に申し分ない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

心外だったこと

 心外なことがあった。過去の心外だったこともいくつか思い出した。

第一話

 電車の中でのこと。向かいの席にミニスカートをはいた女性がいた。何度か目があった。私のほうを気にしている様子だった。私は300冊近い数の本を出しており、その中には写真を載せているものもある。映像授業も行っている。有名人というほどではないが、ごく稀に店に入ったときなどに「樋口先生ですか」と声を掛けられることもある。もしかしたら私のことを知っているのかな?と思いながら本を読み始めた。しばらくしてふと目を上げると、向かいの女性は着ていたコートを脱いでミニスカートの脚に巻いていた。・・・どうやらその女性、私がスカートの下をのぞき込みそうだと警戒したようだ。・・・心外!! 

 

第二話

 バンクシーの作品と思われる「落書き」が見つかったとのことで話題になっている。それで思い出したことがある。

数年前のことだ。東京の都立高校で「人間と社会」という科目が始まるにあたって、多くの高校の先生方がどのように授業を展開するか困っておられるようなので、そのヒントになるようにと、ある教育企業の企画で研修会が開かれ、私が高校の先生方の前で話をすることになった(ご存じない方も多いと思うが、私の専門は文章教育・小論文指導であって、私は一部の方からは「小論文の神様」と呼ばれ、しばしば講演などを行っている)。

要するに、この科目は、高校生に「よい社会にすることをまじめに考え、社会活動に参加しましょう」と訴えかけるかなり道徳的な目的をもっている。ふつうに授業をすると、道徳的な押し付けになってしまって生徒は自分で考えなくなると思い、私はおもしろくて活発な授業にするための方法、生徒に考えさせる課題などを提案した。

そのような課題の一つとして「あなたの知り合いに、商店街のシャッターや公園にスプレーで落書きをする人がいます。その人を説得して、やめるように言い聞かせてください」という問題を取り上げた。そして、高校の先生方にワークショップとしてこの課題を考えてもらうことにした。

私としては、まず落書きをしている人の言い分(「誰にも迷惑をかけていない」「アートとして行っている」「喜んでいる人もいる」「もっとおおらかな社会のほうが楽しい」などが考えられるだろう)を推測し、それを一つ一つつぶして、一部の人の行動が社会にどのような影響を及ぼすか、社会と人間のあり方はどうあるべきか、人間は社会にどうかかわるべきなのかについて根本的に考えるきっかけにしたいと思った。そのことを研修に参加している先生方に説明した。

ところが、高校の先生のおひとりが、この課題に異議を唱え、ワークショップを拒否なさった。その先生の言われることをまとめると、「落書きをするなんて悪いに決まっている。悪いに決まっていることを説得する必要などない。落書きをする人の言い分なんていうふざけたことを考えるなんてばかげている。そんな不届きなことは考えたくもない。問題はどうやって落書き犯を捕まえて、どうやってやめさせるかだ」ということらしい。しかも、このような不届きなことを考えるように促す私に怒っておられるようだった。しかも、その先生はそれをかなり強く主張なさるので、私の意図しているワークショップがスムーズに進まなくなってしまった。

私に言わせれば、「悪いに決まっている」と決めつけたのでは何も説得できない。どんな問題であれ、たとえどんなに不届きな考えであれ、相手の言い分を考え、それがいかに間違っているのかを根拠を示して説得する必要がある。それをしないことには、誰も説得できないし、思考することもできない。考えを深めることもできない。論拠を示して説得しなければ、相手を力で屈服させることしかできなくなってしまう。理性的に思考するということは、とりもなおさず、相手の論拠が間違っていることを理解させることだ。「人間と社会」という科目は、そのような問題を取り上げて、社会はどうあるべきかを考える科目のはずだ。

いや、それ以前に「悪いに決まっている」といってしまったら、すべての学が成り立たないのではないか。文学や哲学は、「人は生きる必要があるのか」「自殺してはいけないのか」「なぜ人を殺してはいけないのか」などの根本的な問題を考える領域だ。さすがに高校生にこれらのことを考えさせるのは少し無理があるにせよ、そのようなことを考えるための基礎力をつけるのが教育であるはずだ。私には、「悪いに決まっているので説得する必要はない」という考えは教育の放棄、思考の放棄、学の放棄に思える。いや、もっと言えば、頭から決めつけて相手の言い分を考えないことは誠実に生きることの放棄にさえ思える。

グループワークが終わった後で私の考えを示し、異を唱えた先生にわかってもらいたいと思っていた。いや、それ以前に、その先生のお考えによれば、そもそも反対意見の根拠を考える必要がないと思われる根拠は何か、相手を説得する必要はないと考える根拠は何か、その先生は教育とは、学問とはどのようなものと考えておられるのかくわしくうかがってみたいと思っていた。が、その先生は怒って途中で帰られたようだった。

 あれからかなりの時間がたつが、今でも、大変心外に思っている。

 

第三話

 大学での出来事。狭い階段を歩いていたら、後ろから速足が聞こえた。50歳前後の後輩教授だった。私はその教授を先に行かせようと思って、「年齢相応にゆっくり行きますから、お先にどうぞ」と謙遜していった。ところが、その教授、「気を付けてくださいね」と大真面目に言いおいて、すたすたと追い抜いていった。うーん、私は半ば冗談で言ったつもりだったのに・・・

 同じ教授と話した。「トシのせいか、車の運転が怖くなって、このごろ、あまり運転をしないんですよ」と話したら、その教授は、「今までできてたことができなくなりますから、お気を付けくださいね」と真顔で言った。

これからこの教授の前では、年齢で自虐的なことは言わないことにしよう!

 

第四話

 数年前のこと。以前から少しだけ付き合いのある講演仲介の会社から講演依頼のメールが届いた。ある地方の団体の会合で講演をしてほしいとのことで、先方の希望する候補日、演題、講演時間、講演料などが書かれている。そして、「ご質問がありましたら、以下に連絡をください」とのことでその会社の担当者の携帯番号が書かれていた。私がメールをみたのは土曜日の昼過ぎ。その12時間前に送信されたものだった。疑問点があったので、すぐに指定された番号に電話をした。

 すると、明らかに不愉快そうな声。声からして、おそらく20代か30歳そこそこの若い男。電話の向こうでは確かに店内だか繁華街だかの音がしている。仕事が終えて私的に行動しているのだろう。が、ともあれ、私は名前を名乗って講演についての疑問点を質問しようとした。すると、相手がそれを遮って、つっけんどんに「月曜日にご連絡いただけますか」と返してきた。おいおい、質問があったらここに電話するようにとあんたがこの番号をしらせたんだろうに!

 仕方がないので、私はメールでかなり皮肉を交えて、「先ほどは、お休みのところ、お電話を差し上げまして、大変失礼いたしました」などと必要以上にお詫びを前置きにして質問をした。講演を依頼している「先生」にそのようなメールをもらったら、その社員はきっと恐縮するだろう、きっと自分の非礼に気付いてあわてて詫びの電話かメールをくれるだろうと思っていた。

 が、まったくそんなことはなく、そのことには何も触れない返事が来た。

 結局、その社員とは顔を合わせる機会はなかったが、いったいどんな社員なんだろう。今でも心外に思っている。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

新国立「タンホイザー」 第三幕に魂が震えた

201922日、新国立劇場で「タンホイザー」をみた。素晴らしい上演だった。

歌手はきわめて高いレベルでそろっている。タンホイザーを歌うトルステン・ケールは前半抑え気味だったが、第三幕の「ローマ語り」の場面ではさすがの力感あふれる声。ただ、バイロイトでこの人の声を聞いた時にはもっと圧倒的だった気がする。ヴォルフォラムを歌ったのはローマン・トレーケル。私はこの歌手のファンの一人なのだが、ちょっと不調だったのかもしれない。これまでバイロイトや日本で聴いた時に比べて、声の輝きや深みがない。しかし、「夕星の歌」はまるでリートのように繊細に歌って素晴らしかった。声が出ない分をテクニックで補って、役柄にぴたりの歌を聴かせてくれた。

女声陣も素晴らしかった。エリーザベト役のリエネ・キンチャはとても澄んだ声で、しかも声に威力がある。「歌の殿堂にて」はちょっと硬い歌い回しだったが、第三幕の祈りの部分は文句なし。声を張り上げないのに、会場全体に透明な声が静かに響き渡る。容姿も美しく、まさにエリーザベトそのもの。ヴェヌスのアレクサンドラ・ペーターザマーもしっかりした声と肉感的な容姿によってこの役にぴったり。

そしてもう一人圧倒的に素晴らしいと思ったのが牧童の吉原圭子。これまでにも何度かこの人の牧童を聴いたが、美しい声としっかりした音程に毎回ほれぼれする。

ヘルマン役の妻屋秀和もさすがの貫禄。ヴァルターの鈴木准、ビーテロフの萩原潤、ハインリヒの与儀巧、ラインマンの大塚博章も見事。ただの一つも穴がなかった。東京交響楽団の演奏もとても美しかった。弦楽器の響きに特に惹かれた。三澤洋史の合唱指揮による新国立劇場合唱団ももちろんいつも通り素晴らしい。

ただ私の期待と少し違っていたのはアッシャー・フィッシュの指揮だった。フィッシュの指揮は「ワルキューレ」のCDを聴いたことがある。鮮烈な指揮ぶりだった記憶があるのだが、今回の「タンホイザー」は何よりも手堅さを感じた。もっとドラマティックに、もっと官能的に盛り上げ、うねりのある音楽を作ってほしいと思うのだが、じっくりとして繊細。それはそれで美しいオーケストラの音を引き出し、最後には納得させるのだが、「タンホイザー」はもっと推進力のあるロマンティック・オペラだと思う。

演出についても、私にはあまり納得できなかった。第一幕でヴェヌスが途中で着替えたり、エリーザベトが聖母マリアのように見えたりといった工夫はあるが、全体的に何を訴えようとしているのかわからなかった。

とはいえ、第三幕には心から感動し、魂が震えた。「いやあ、ワーグナーは最高だなあ!」とワーグナーに触れるたびに思う!

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ベルチャ弦楽四重奏団 メンデルスゾーンの悲しみを最高のアンサンブルで再現

 201921日、紀尾井ホールでベルチャ弦楽四重奏団の演奏を聴いた。とてつもない演奏。こんな凄まじい弦楽四重奏団は初めて聴いた。

 曲目は初めにモーツァルトの弦楽四重奏曲第22番「プロシャ王第2番」とバルトークの弦楽四重奏曲第6番、後半にメンデルスゾーンの弦楽四重奏曲第6番。

 ともかくアンサンブルが驚異的。そもそも音が絶妙の美しさ。第一ヴァイオリンのコリーナ・ベルチャの音程のよい繊細でやわらかい音が素晴らしい。弱音のニュアンスにうっとりする。そして、第二ヴァイオリンのアクセル・シャハーが絶妙に第一ヴァイオリンに重ねる。同じ音色で、同じニュアンスで、そして音色の変化も同時に起こる。ヴィオラのクシシュトフ・ホジェルスキーも、そしてチェロのアントワーヌ・レデルランも言葉をなくすようなアンサンブルをなす。確かに噂通り、この団体は弦楽四重奏曲のあり方を変えるように衝撃力を持っている。

 ぴたりと合った音程のよい音、しかもそれが豊かさをと繊細さを持っている。そのうえ、きわめて現代的に音楽が展開する。四人ともタブレットに楽譜を写して演奏。足でページを更新しているようだ。そのような現代的なスタイルにぴったりの演奏。

モーツァルトは限りなく繊細。柔らかい音であえて珠玉のものを大事に扱うように静かに演奏する。バルトークはもっと鋭く、切れよく、しかも深く沈潜する。

メンデルスゾーンはユダヤ人として差別を受け、深く傷つき激しい悲しみを抱きながらも、それを押し隠し、古典的で育ちのよい音楽を書き続けていた。ところが、ベートーヴェンの後期の弦楽四重奏曲の影響を受けて、自らの哀しみのすべてを弦楽四重奏曲の中に叩きつける。その典型的な曲が第6番の弦楽四重奏曲だ。そうした哀しみ、怒り、心の中の屈折をベルチャ弦楽四重奏団は最高のアンサンブルでニュアンス豊かに再現する。メンデルスゾーンの悲しみや怒りが渦巻く。

 アンコールはベートーヴェンの弦楽四重奏曲第13番第5楽章「カヴァティーナ」とショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲第3番の第3楽章。「カヴァティーナ」は緻密で緊張感にあふれる演奏。ショスタコーヴィチは魂の怒りをたたきつけるような強烈な演奏。ただただ圧倒された。

 30年以上前になるだろうか、アルバン・ベルク四重奏団の演奏をCDで聴いて、「弦楽四重奏の演奏法がこれまでと変わった!」と思った。それと同じことが、今、ベルチャ弦楽四重奏団によって起こっているような気がする。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2019年1月 | トップページ | 2019年3月 »