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ジョージア・アルメニア旅行

 昨日までジョージア・アルメニアの3泊6日の弾丸ツアーに出かけていた。ツアーといっても、客は私一人。搭乗手続きが2019518日の深夜で、19日の001分に出発する便に乗ってジョージアの首都トビリシに2泊、アルメニアの首都エレヴァンに1泊し、2泊目はしないまま深夜にホテルを出て23日夜に帰国するというスケジュール。「3泊6日」ということになる。

 日本との時差は5時間なので、早朝に目が覚めたので日記のように旅行中の出来事を書いていた。それをそのままここに記す。

 なお、IT技術未熟につき、写真を挿入できない。一時期、できるようになっていたのだが、ニフティの「ココログ」の仕様が変わってから、またできなくなった。旅行記に写真がないのは読み物としては致命的欠陥だが、まあ仕方がない。

5月20

 昨日(519日)からジョージアのトビリシに来ている。

 岩波ホールでジョージア映画祭をみて、ジョージア出身の音楽家たち(ヴァイオリンのリサ・ヴァティアシュヴィリ、メゾ・ソプラノのアニタ・ラチヴェリシュヴィリ)を聴いて、この旧ソ連の小さな国にとても関心を持った。次の旅行先としてジョージアを選び、小さな旅行会社に申し込んで、ジョージアと、その隣国アルメニアを含むツアー(ただし、参加者は私だけの個人ツアー)に申し込んだ。

 ドーハ経由のカタール航空。ドーハ着陸の少し前、飛行機の翼に雷が落ちた。ほとんどの窓はまだしまっていたので、気づいた人は少なかっただろう。ただ、私の列の窓際の女性(中東系に見える若い女性)は窓を開けていた。通路側の席にいた私は窓の外をのぞきこんでいた。と、その時、まさしく翼に雷が落ち、一瞬、激しく光った。女性が悲鳴を上げた。が、それだけ。機体が揺れることもなく、停電になることもなく、揺れることもなく、何事もなかったかのように進んだ。

 着陸時、ちょっと心配だったが、15分遅れ(しかし、それはたぶん空港の都合)で到着。このような小さな雷が落ちることは日常的なのだろう。

 ドーハで1時間15分の待ち時間でトビリシ行きに乗り換える予定だった。急いで乗り換え手続きをすまして、トビリシ行きの搭乗口に向かって、機体に向かうバスに乗り込んだが、それが最後のバスだったようだ。ともあれ、無事乗り換えられた。

 飛行機の中は、羽田からドーハもドーハからトビリシまでも快適だった。窓の外にカスピ海が見えた。

 

 トビリシの空港は新しい清潔な建物だった。途上国の喧騒はまったくない。静かで落ち着いており、空港の周辺はきれいに整備されている。現れたガイドさんは20代のかわいらしい女性。語彙は少ないが、しっかりした発音で話をする。書いた文章もちょっと見せてくれたが、これが実にこなれた日本語。感じもよく素晴らしい! 運転手さんとホテルまで連れて行ってくれた。

 緑の多い街だ。道路はきれいに整備され、古い由緒ある建物と真新しい建物、そしてモニュメントがあちこちにある。ガイドさんが総務省などの庁舎を教えてくれたが、そのどれもが斬新なデザインの建物だった。市街地に入ると、まさにヨーロッパのこじんまりしたきれいな中都市。ロシア時代の名残などほとんど感じない。いかつさはなく、おしゃれで庶民的。

 ホテルは自由広場のすぐ近くにあった。ちょっと古いがとても便利で、感じもいい。まだ昼を過ぎたばかりだが、空いている部屋に入れてもらえた。

 夕方、ガイドさんが食事に連れて行ってくれることになっていたので、ホテルの室内で一休みしてから一人で散歩に出た。

 まず、スマホの地図と「地球の歩き方」の地図を頼りにムトゥクヴァ川に出てみようと思った。観光客が多く、観光客とみるとツアーやタクシーを呼び掛けてくるが、それはどこにでもあること。勧誘してくる人も、東南アジアのようにしつこくない。

 暑い。30度はありそう。コテ・アブハズィ通りを歩くうち、シオニ聖堂の案内が見えたので、そちらのほうに歩いた。6世紀に建てられた大聖堂だ。あまり飾りのない質素な教会でジョージア正教の中心地とのこと。多くの人が中でお祈りをしていた。こじんまりしていて、信仰心にあふれているが、厳めしい雰囲気はない。聖母の絵があり、十字架があり、そこで何人かがお祈りをささげていた。

 そのまま聖堂の外の階段を下りて川沿いに出た。川沿いのV.ゴルガサリ通りを少し歩いて、平和橋に入った。平和橋は川を横断する真新しい橋だ。おしゃれなデザインで晴れ渡った空の下、薄い青緑色のガラスの英局した屋根が生える。私も平和橋を渡って川の反対側にわたってみた。川を除いてが、決してきれいな川とは言えない。濁っているし、魚もいそうもない。

 その後、一旦ホテルの方向に戻って、ルスタヴェリ大通りを歩いてみることにした。左側にショッピングモールがあり、庭園があり、国家議事堂があった。右側には国立博物館、現代美術館、カシュヴェティ教会、ナショナル。ギャラリーが並んでいた。

 歩いているうち、1970年代、パリのサンジェルマン大通りを歩いた時の記憶がよみがえった。整備されたきれいな並木道。そこをフランス人が歩き(当時は白人がほとんどだった)、古い建物に交じって新しいビルが建っていた。

 道を歩いて感じるのは、お店が少ないこと。観光客向けのレストランはあるが、スーパーやコンビニなどの小売店がなかなか見つからない。横断歩道が少なく、広い道を渡るときには主要地の近く設置されている地下道を渡らなければならないが、そこには必ず物乞いが何人かいる。また、純粋な物乞いではないのだろうか、ほんの数点を地面において、ちょっとした野菜などを売っている人もいる。古本を道路で売っている人も何人か見かけたが、古本屋さんというよりは、自分が読んだ本を売りに出しているような雰囲気だった。地下道には靴や酒や下着や通信道具の商品を売る小さな店が並んでいるが、そこにも食料を扱う店が見当たらない。ただ、ちょっと雑然としているように思えるが、そうした店が静かに並んで、特に客引きをしているわけでもないし、客寄せに音楽がかかっているわけでもない。

 ピロスマニの絵がたくさんあるというナショナル・ギャラリーに最初に行ってみた。キリコ展が行われていた。私は特に絵画に関心があるというわけではないが、ジョージア(グルジア)に関して初めて知ったのは、1970年代に映画「ピロスマニ」をみたときだった。そもそも、ジョージアの画家で名前を知っているのはピロスマニだけだ(ちなみに、ピロスマニも本当の名前はニコ・ピロスマナシヴィリ。この国の人の名前は難しすぎて発音しにくいし、みんなの名前がよく似ていてい覚えられない!)。その後、現代美術館(外からも目を引く建築で、なかも階段がガラス張りで段差が見にくく、足を踏み外しそうになり、なおかつ、階下まで透けて見えるのでちょっとした恐怖を覚えた)をみたが、強く感じたのは、ジョージアの人の独特の感性だ。

 私は美術に関しては人並みの知識さえ持っていないので、偉そうなことは何も言えないのだが、ジョージアの画家たちの絵を見ると、日本の浮世絵と同じような現実を少しデフォルメして自分の独特の目で見る傾向があるのを感じた。

 ピロスマニの作品だけではなく、不思議な雰囲気のものが多い。そして、フランスやイタリアの有名絵画そっくりの構図のものもたくさんあるが、そこには模倣というよりもパロディのような、「おれならこうする」という対抗意識のようなものが感じられる。素人の私から見て「つまらない」と思う絵もたくさんあったが、目を引くものもたくさんあった。(ただ、どの画家も名前が似ていて、しかも長いので、覚えられない! 日本に帰って調べよう)

 ナショナル・ギャラリーの裏に広い公園があった。段差になりながら、川まで続いていた。緑が多く、多くの市民が何人かでおしゃべりしたり、一人で読書したりといった思い思いの時間を過ごしていた。静かな時間が流れている。私もその公園で一休みした。成熟した町だということを強く感じる。

 ナショナル・ギャラリーと現代美術館に囲まれたカシュヴェディ教会は小さな教会だが、何人もの人が訪れていた。周囲には物乞いが5、6人いた。訪れているのは観光客ではなく、現地の人だと思う。祈りをささげていた。男性たちのアカペラの重唱が聞こえた。素晴らしい声! 日本のプロ歌手でもこんなにきれいな男声合唱はできない!

 ところで、この国の人の信仰の深さを感じる場面を何度も見た。教会の前を歩くとき、通り過ぎるだけなのに、教会のほうを見て小さく祈りをささげる。少しアウトローに見えるタイプの男性も同じようにしている。若者もそうしている。通りの向川の歩道からもそのようにしているのを見た。

 ショッピングモールを少し見て、1階のスーパーでちょっとした買い物をしてホテルで休憩。

 

 夕方、ガイドさんがやってきて、夕食。オールドハウスという名前のレストランで、川辺で食事。ハチャプリというチーズピザを中心に、とても素朴な料理を食べた。にんにくの味が聴いて、おいしい。チーズもおいしい。ジョージアはワインの発祥の地なので、もちろんワインを飲まないわけにはいかない。これまたコクのあるとてもおいしいワインだった。

 飲食しながら、ガイドさん、運転手さんと話した。私がワインを飲んでいると、その飲み方が運転手さんには気になったようで、「ワインというのはイエス様の血なので・・・」と言い出した。もちろん日本語はできないが、とても初老の男性なので、もちろん悪気はない。もっと感謝を込めて飲んでほしいということの用だった。その後もガイドさんの通訳であれこれ話したが、ますます打ち解けてくれた。が、同時に、この国の人々の信仰の深さ、ワインへの思いに驚かされたのだった。

 食事中に雷が鳴り始め、大雨になった。が、通り雨だったようで、食事が終わった時にはほぼやんでいた。

 食後、すぐにホテルに戻る予定だったのだが、私の希望を入れて、メイダンを回ってもらった。歴史的に様々な文化が交わり、イスラム教、ユダヤ教などが入り混じる地メイダン。渋谷を思わせるような歓楽街に、シナゴーグがあり、その横をイスラムの姿の人が歩いていた。まさに宗教のるつぼ。地下のかつてのバザールを再現した場所もあった。そこにも立ち寄った。

 疲れ切って、ホテルについてすぐに寝た。

 

 

5月20

 朝の9時にホテルを出発。車でまずムツヘタに行った。先に車で日本のいろは坂のような道を上り、そのあと、200メートルほど坂道を歩いて、丘の上に立つジュヴァリ教会に行った。6世紀に建てられた教会で、世界遺産に指定されている。丘の上にぽつんと立っている。丘からは眼下にムツヘタの赤い屋根の多い町並みと様々な近代的な建物のたつ新しい町並みを見下ろすことができる。古い町の横で色の異なる二つの川が合流している。

 ジュヴァリ教会は、石造りの簡素で小さな教会だ。観光客がかなりいる。先に周囲を見てから、中に入った。十字架やイコンなどの聖なるものがあった。

 ガイドさん(どうやら、大学で日本語を学ぶ学生さんらしい。日本留学が決まっており、アルバイトでガイドの仕事をしているという。日本にこんなにしっかりした学生がどれほどいるだろう!)によれば、外壁のレリーフに太陽の徴があったり、中の絵画に私の知らない聖書由来の物語があったりするなど、西欧のカトリックの教会では聞いたことのないような事柄がたくさんあった。ジョージアの教会に特有のものなのか。あとで調べてみる必要がある。が、ともあれ、信仰が最も素朴に建物になっているのを感じる。

 その後、車で丘を降りてムツヘタの古い町にあるスヴェティ・ツホヴェリ教会に行った。こちらはジョージア最古の教会であり、もとは4世紀に建てられたのだったが、現在残っているものは11世紀に建てられたという。これも世界遺産。かなり大きな教会だ。まさに大聖堂。しかし、造りは丘の上のジュヴァリ教会に似ている。簡素な石造りで外壁に十字架や太陽の徴や貼り付けなどのレリーフが施されている以外は大きな装飾もない。むき出しの石が存在感を高めている。こちらについても、カトリックなどの教会では聞いたことのない話をいくつか聞いた。また、この教会の由来を示す少女と聖ニノのエピソードを示す絵画もあった。

 少し歩いて、スタムヴロ教会に行った。小さな教会で、女子修道院が併設されていたらしい。こちらも簡素な石造りで美しい。これは世界遺産ではないとのことだが、こじんまりしていてとても感じがいい。

 

 その後、ジョージア軍用道路に進んだ。1799年に帝政ロシアがコーカサス地方からその先までを軍事的に制圧しようとして軍事用に山を切り開いて建設した道路だという。現在はもちろん片側1車線の道として舗装されているが、まさに断崖絶壁を曲がりくねって走っている。私の乗る60歳前後の運転手さんはかなりスピードを出すタイプのようで、次々と前の車を追い抜いていくので、少々怖かった。

 途中、ダムによってできた人造湖、その近くにあるアナヌリの石造りの城塞と教会をみて、どんどん進んだ。観光名所である理由がよくわかる。風景が素晴らしい。渓谷があり、緑に覆われ、切り立った崖があり、渓流がある。車に乗って外から見ているだけで飽きない。

 雨が降り出してきた。山の気流の具合による一時的な雨かと思っていたが、そうでもない。時々晴れ間も見えるが、徐々に雨が強まる。その中で、遠くに雪山が見えてきた。そして、どんどんとそちらの方に近づいていく。そして、実際に周囲は雪景色になってきた。昨日は30度前後あった。今日も平地は20度を超していただろう。が、軍用道路で北上するうち、季節が23か月さかのぼった感じだった。

 小さなレストランで昼食をとった後、ソ連時代に、ロシアとジョージアの友好200年を記念して作られたモニュメントに寄った。周囲には雪が残っている。冷たい雨が吹き付ける。ありったけの服を着て外に出たが、おそらく摂氏5度くらい。しかも雨のためにかなり濡れた。このモニュメント、デザイン的に面白いが、ジョージアの人はロシアに虐げられた歴史を物語るものであって、面白く思っていないようだ。

 そのあと、14世紀に建てられたゲルゲティノツミンダ・サメバ教会に寄った。これも丘の上にある小さな簡素な教会だった。周囲を5000メートル級の山に囲まれているというが、雨や雲のために見えない。山のふもとに小さな集落が広がっている。

 ただ、もうすでにびしょぬれで寒い! 車に戻った。その後、来た道を戻って、トビリシに向かった。体が濡れていて寒かった。10度くらいに思えるところでも半そでにシャツ一枚だった運転手さんにお願いして暖房をきかせてもらっても寒かった。

 が、無事にトビリシに到着。レトロ・レストランというツアー客の集まるレストランで、オランダ人?とドイツ人とアメリカ人?の大集団(一つの集団が40人程度)に囲まれて夕食。オランダ人?の集団が何度も声を合わせて歌い出すのには参った。話ができなかった。

 まだ寒気が抜けず、しかも食欲がない(曲がりくねった道をかなりのスピードで走ったための車酔い? あるいは、ふだんは朝食を抜く生活なのに、朝食付きのホテル料金を無駄にしたくないという貧乏性でつい朝からたくさん食べるせい?)。とてもおいしい料理だったが、早々に帰った。すぐに風呂に入って寝た。

 

 

5月21

 

 朝9時にガイドさんが迎えに来て、車でトビリシのホテルからアルメニア国境に向かった。南に向かう。右も左も野原が続く。人家はほとんどない。なだらかな山。美しい。それがずっと続く。

 車で1時間以上飛ばしてやっと国境の町バグラタシェンに到着。パスポートを確認されてから、国境の施設の中に入った。有料道路の入り口のような検査所があり、中に駐車場や3階建てくらいの建物がいくつか覆われているが、それほど厳しい雰囲気はない。軍人も武装した警察官も見当たらない。人もあまりいなくて、がらんとした雰囲気だった。

 国境までジョージアのガイドさんが連れてきてくれて、アルメニアのガイドさんに引き継いでくれる予定だった。ところが、相手のガイドさんとどこで会うのか打ち合わせができていないようで、30分近くウロウロ。ガイドさんは何度も携帯に電話をかけるが、返事がないという。

 やっと連絡が取れて、パスポートコントロールの先でアルメニアのガイドさんが待ってくれていることがわかって、これまでのガイドさんと別れて、1人でパスポートコントロールのところに行くことにした。そうこうするうち、私の携帯でもアルメニアのガイドさんと連絡できるようになって安心。

 がらんとしているように見えたのに、そこには人だかり。大学の50人教室程度の部屋に係員が7、8人かいて、その前にきちんとした列もなしにおそらく80人以上の旅行者がコントロールを待っていた。部屋からはみ出して廊下にも20人ほど待っている。

 廊下の外で待って30分ほど並んでやっと部屋の中に入れた。コントロールの仕事をしている係官は3人だけ。ガイドのような通常行き来する人はパスポートを見せ、そこにスタンプを押すだけで済んでいるようだが、それ以外の観光客には1人につき5分以上かかっている。私の前の中国人は10分以上かかった。これではいつになるかわからない。

 たまたま比較的人数の少ない列があった。中国人グループが並んでいた。私はその後に着いた。中国人グループの存在感は大きく、他の列には次々と割り込みがなされるのに、中国人が並んでいる所には割り込みがない。私は中国人のグループの1人のような顔をして、そのままコントロールを受けることができた。それでも1時間ぐらい経っていた。

 

 アルメニアのガイドさんと合流。しっかりした感じの小柄で綺麗な女性。ベンツの乗用車に乗って案内してもらった。ちょっと訛りはあるが、語彙が豊かでしっかりした日本語で的確に説明してくれる。

 ジョージアの道はほとんど舗装がなされていた。きれいとは言えなかったが、トビリシ以外の地方でも普通の舗装道路だった。道路に牛がいたりもしたが、それでも舗装はきちんとなされていた。

 ところが、アルメニアに入った途端に道が悪くなる。山道を進んだせいもあるのかもしれないが、穴だらけの道。雨が降っていたので水たまりがたくさんあってまっすぐ進めない。どの車も大きな穴を避けながら左車線のほうに入り込むなどしてゆっくり進む。行き交う車はベンツが多い。道が狭く穴ぼこだらけなのでベンツは運転しにくいだろう思うのだが、なぜか5台に1台位がベンツ。外は日本車や他のドイツ車。ロシア製のラダの車もある。ソ連時代のラダもとろとろと走っている。

 風景は素晴らしい。両側がまさに森の世界。谷川があり、山が広がり絶壁がある。木々が見え、野の花が見える。

 ツアーの予定では、国境の町からいくつかの修道院や教会を見ながら、首都エレヴァンに向かうことになっている。

 1時間近く走って、切り立った山の上にあるハグパット修道院に到着。世界遺産に登録されている丘の上の大きな静かな、そして厳かな建物だ。10世紀から13世紀にかけて建てられてきたとのこと。地面に長方形の石がいくつも並んでいる。かつてそこで暮らした神父たちの墓だという。みんながその上を平気で歩いている。墓を踏みうつけながら修道院を歩くのがふつうのことらしい。踏まれることによって魂を浄化させることができるのだと言う。

 建物はまさに質素。質実剛健という言葉がふさわしい。飾りはなく、石がむき出しになっている。チャペルにはフレスコ画があったらしいが、それはもう剥がれている。

 大きな建物がいくつかあった。外壁にはほとんど飾りはないが、十字架の印はあちこちにある。これまで見たことのない十字架だ。下のほうに 葉っぱのような模様がある。ガイドさんによると十字架は死の印ではなく、これから生まれる命の象徴だと言う。それがアルメニア正教の考え方らしい。

 ジョージアの修道院や教会ともかなり異なる。ジョージアは質素ですっきりした感じだった。ところがこちらは、がっしりして堅固で厳しい。ガイドさんが強調するのは、アルメニアの人々が迫害にも負けず自分たちの信仰を強く守ってきたこと、修道士たち、そしてアルメニアの人々みんな学ぶのが好きだということだ。修道士は必死に勉強し、自分たちの信仰や歴史を文章にして残し、迫害され、屈辱を受けながらも、それを必死に守ってきたと言う。そのようなエピソードをいくつも聞いた。

 フランス人、ドイツ人のグループの観光客がいた。日本人を見かけなかった。

 次に向かったのは車で30分ぐらいのところにあるサナヒン修道院だった。こちらも切り立った山の上にあり、ハフパッドよりももっと古い修道院だと言う。細かいところではいろいろ違うようだが、まったくの素人でメモを取らずにガイドさんの解説を聞くだけの私にしてみれば、まぁ似たようなものだと思う。同じように質素で厳しい。

 ウィキペディアにも出ているようなので、とりあえず帰ってよく整理してみようと思った。

 ともあれ印象としては、アルメニアの人々の強い信仰の表れが形となったような修道院だった。ジョージアの人々にも強い信仰心を感じられたが、アルメニアの人々の信仰心には、とりわけ強い意志のようなものを感じる。屈辱に満ちた歴史を信仰によって何とか守ろうと言う意地とでもいうか。信仰心に屈辱に対する怨念、1915年のトルコ(当時のオスマン帝国)によるアルメニア人虐殺の記憶が混じっている。

 再び車でエレヴァンに向かう。きれいに整備された舗装道になったかと思うと、またアナらだけの山道になる。風光明媚なところもたくさんある。国境の町バグラタシェンとエレヴァンの間にあるアルメニアの北部はまさに森の世界だと言う。曲がりくねり、道路の穴を避けながら、エレヴァンへと向かった。

 ガイドさんの言う通り、長いトンネルを抜けるとまるで違う世界が広がった。それまでは森林の世界だったのだが、突然草原の世界になる。切り立った山はなくなり、なだらかな草原になる。道路もくねくね曲がるのではなく、直線になる。道路も舗装がしっかりしてくる。山道で道路が穴ぼこなのは寒暖差が大きくアスファルトの中で水分が凍ってアスファルトを破壊するからだと言う。トンネルよりも南ではそのようなことが少なくなるのだろう。

 しばらく進むと左手にセヴァン湖が見えてきた。きれいな湖だ。青々とした水が広がっている。周囲の木立も美しい。海抜2000メートル近くの湖なので、冷たくて、夏でも泳ぐのは無理だという。しかし、それにしても本当に美しい。

湖の縁に小高い山があり、その頂上に9世紀に建てられたという古い修道院後があった。そこは昔、湖の中の島だったと言う。水が減って、今は湖畔の建物になっている。息を切らしながらそこに登った。修道院後は石を石が残っているだけだが、その後建てられた小さな修道院があった。それも雰囲気がある。

 その後まっすぐに車でエレヴァンに向かった。

 エレヴァンに入るころから、遠くにアララト山が見えてきた。アララト山の横には小アララト山といわれる富士山をミニチュアにしたような山もある。

 アララト山はノアの箱舟が到着したとされている山であり、箱舟の跡のようなものが見つかったとのことで一時期、大きな話題になったことがある。富士山が日本人にとってそうであるように、アルメニア人の心の故郷だが、今はトルコ領になっており、アルメニア人は自由に出入りできない。

 アルメニアの人の気持ちはよくわかる。アルメニア人はノアの直接の子孫だと自分たちを信じている。だから、アララト山を信仰の対象にしている。晴れた日には毎日、エレヴァンの町からアララト山がそびえたっているのが大きく見える。それなのに、アルメニア人を15万人虐殺していながら、そのことを認めていないトルコの領地内にその山はあって立ち入ることができない。屈辱と無念を毎日感じ続けている。それがアルメニアの人の気持ちなのだろう。

 19時30分ごろホテル到着。ホテルで予約してもらっていた夕食を1人で食べた。しかし、お腹が空いていないためせっかくおいしいお肉も少ししか食べられなかった。

 

5月22日

 朝9時に出発。ガイドさんに連れられて、リプシメ教会に車で向かった。

 市内にはソ連時代特有の安づくりのアパートがいくつも見える。トビリシとはずいぶんと雰囲気が違う。ソ連時代の車も走っている。あちこちにソ連時代の名残がある。ジョージアとは経済的にも少し差があるのかもしれない。

 リプシメ教会はキリスト教を布教して殉教した女性リプシメを祀る教会で7世紀にたてられた。地下にリプシメの遺骸が残された墓がある。日常的に今も多くの人が訪れている教会だ。赤っぽい色の石でできていて、とても美しい。気のせいかもしれないが、何となく女性的で優美な感じ。だが、装飾もなく、余計なものがない。カトリックの教会とかなり異なる。中はがらんとしており、葉っぱの模様のある十字架と簡素なキリスト像などがあるばかり。

 次にアルメニア使徒教会の総本山エチミアジン大聖堂を訪れた。4世紀に最初に建設され、世界遺産に指定されている。聖堂の近くに修道院、大学などのいくつもの施設がある。トルコの虐殺を逃れた子供たちを収容した施設もある。ただ、残念ながら聖堂は改修中で、中に入ることはできなかった。

 午後もまた世界遺産巡り。まず、ガルニ神殿に行った。ガルニ神殿は、キリスト教以前に信仰されていた太陽神を祀った神殿だ。地震で破壊されていたのが再建されてギリシャ神殿のように丘の上に建てられている。近くに浴場跡も再建されている。しかし、それ以上に、この丘から見える山や谷の美しさに私は驚いた。岩肌の見える切り立った崖があり、そのような丘がいくつも重なって見える。その谷間に緑が広がっており、ところどころに人家がある。さわやかな風が吹き、蝶が舞い、風の音がする。よい季節だ。

 その後、車で10分ほどのゲガルド洞窟修道院に向かった。4世紀に迫害を逃れた修道僧たちが建てたのが始まりだという。その後、アラブ人に破壊された後、現在は13世紀に造られたものが残っている。修道僧たちが岩をくりぬいて作った僧房があり、その下に聖堂が建てられている。

 岩を掘ってこれらの大きさの堂を作る壮絶な信仰心に驚く。中は質実剛健そのもの。僧たちはワインを飲まず、ただ塩とパンと水だけで生きたという。個々もまた装飾はほとんどない。岩肌に十字架などの印があるだけで、飾りのようなものはない。

 その後、いったんホテルに戻って、しばらく一人になって休憩。一人で街を歩こうと思っていたら、突然の大雨になった。散歩はあきらめて、夕食。また、一休みして、夜中の24時ころにガイドさんに迎えに来てもらって空港へ。午前3字の飛行機でドーハに雪、そこから羽田へ。

 23日23時40分過ぎに羽田到着。24日午前1時過ぎに帰宅した。疲れた!

 

旅のまとめ

・ジョージアについては少しだけ映画などで「予習」していたが、アルメニアについてはほとんど何も知らないままの旅行だった。ハチャトゥリアンがジョージア生まれのアルメニア人だという認識くらいしかなかった。サローヤンがアルメニア移民だったことをガイドさんに聞いて思い出した(昔、文庫で短編集を読んだ記憶がある)。

・ジョージアとアルメニア。日本人からするとほとんど区別のつかない二つの国だが、だいぶ雰囲気が違っていた。私の見る限り、ジョージアは芸術的なセンスにあふれた西ヨーロッパ風の国。信仰心は強いが、自然でしなやか。とりわけトビリシにそれを感じる。それに対して、アルメニアはソ連の雰囲気を残し、迫害の歴史をアイデンティティにした意志の強い人々の国。強固な信仰心を持ち、不屈の精神力を持っている。そうした点を除けば、やはりこの二つの国は似ている。風景は美しい。信仰心が篤い。料理も細かいところではかなり異なるのだろうが、大まかには同じような味がする。どちらもなかなかおいしかった。

・アルメニアのガイドさんにいくつもの音楽を紹介してもらった。ガイドさんの好みも入っているのかもしれないが、それらの音楽はいずれも人生の悲哀をかみしめる音楽だった。コミタスという国民的作曲家を初めて知った。彼の作品をいくつかyoutubeで聴いたが、とてもいい。まさに魂を歌い上げる音楽。ただ、ブルックナー的、ワーグナー的な重みは大好きだが、魂に訴える系の重みが苦手な私としては少々うっとうしさを感じるが、なかなかに聴きごたえがある。確かにこれがアルメニアの魂なのだろう。

・道路マナーを私は民度の指標と考えているが、二つの国ともに、ルールをきちんと守っていた。やはりとても民度の高い国だと思う。

・日本の観光客にはほとんど会わなかった。唯一人、ゲガルド洞窟修道院を観光中、日本語で話しているときに日本人の若い女性に話しかけられた。その人は、現地の友人とともに来たという。その方も日本人が珍しいので声をかけてきたのだろう。ほとんどは欧米人だが、中国人旅行客は大勢いる。ホテルでもレストランでも観光地でも中国人の団体としばしば一緒になる。韓国人もちらほら。エレヴァンに大きな中国大使館が建設中だった。ますます中国の存在感が高まる。

・どこに旅行に行っても、その国の歴史を予習していなかったことを後悔する。が、今回、とりわけそうだった。今回訪れた二つの国について、あまりに無知であることを改めて感じた。もう少し勉強してからまた訪れたい。そうでないと、ガイドさんの説明を聴いてもよく理解できない。まあ、今回はこれで良しとしよう。

 

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コメント

お疲れさまでした! ご紹介いただいたコミタスKomitasという作曲家の作品をさっそくYoutubeで探してみました。1曲聴いてみましたが、しみじみしたいい曲ですね。いずれ他の曲も聴いてみたいと思います。Wikipediaを調べてみましたが、日本語版にはありませんでしたが、英語版に長文の解説があり、重要な人物であることが分かりました。ありがとうございました。

投稿: Eno | 2019年5月25日 (土) 14時08分

Eno 様
コメント、ありがとうございます。
コミタスはとても魅力的な作曲家だと思います。そのほか、Arno Babajanyan、Djivan Gasparyanの音楽を教えてもらいました。いずれも不思議な調べの音楽です。
今回のアルメニアはまさしく修道院巡りでしたが、もう少しゆっくりと自由にあちこち回ってみたかった気がします。とはいえ、とても有意義で楽しい旅でした。

投稿: | 2019年5月27日 (月) 00時41分

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