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映画「幸福なラザロ」 ラザロの魂を追い出した社会には音楽も宗教も意味をなさない

 アリーチェ・ロルバケル監督の映画「幸福なラザロ」を見た。圧倒されてみた。

 以下、いわゆるネタバレを書く。

 前半は30年ほど前が舞台だろう。侯爵夫人の領地で暮らす貧しい小作人たちの中でもとびきり貧しく、親がだれなのかもわからず、みんなから下男のように使われながら善意を失わず、懸命に働くラザロ。侯爵の息子タンクレディが純真なラザロを巻き込んで狂言誘拐を企てたことから、小作制度がとっくに廃止されているにもかかわらず、村人をだまして農民を無報酬で過酷に働かせていたことが発覚して、侯爵夫人は逮捕され、小作人たちは解放される。ラザロはその混乱の中、崖から落ちて絶命する。

 後半は、それから30年ほどが経った現代。ラザロは復活して、現代によみがえり、都市にやってくる。現代社会には小作人はいないが、同じように底辺の人がいる。イスラム教徒たち、そしてかつて侯爵夫人の領土で暮らしていた人たち。ラザロはかつての知人と再会する。だが、無垢で善意なものが排除された世界では、ラザロには居場所がない。今は落ちぶれたタンクレディとも再会するが、タンクレディもかつてのタンクレディではない。教会に行くが、そこでも追い払われる。銀行に出向いてかつての領土の復活を懇願しようとするが、強盗と間違われて殺されてしまう。

 ラザロはドストエフスキーのムイシュキンを思わせるような無垢で善良な人物だ。無垢で善良ということは、現代においては「白痴」として扱われるしかないとしてドストエフスキーはムイシュキンという人物を創造したのだったが、ラザロはまさにそのような人物だ。

 ラザロが求めているのは、純粋なる心の統合だろう。階級を超え、そしておそらくは民族も超え、立場も超えて、心と心を結び合わせてつながること。冗談で語ったタンクレディの「もしかしたら、俺たちは兄弟かもしれない」という言葉をおそらく真に受けている。だから、侯爵夫人の「バカ息子」でありながらも純粋さを持っているタンクレディと心を通わせ、最後には領土の復活を銀行で呼びかける。

 ラザロとタンクレディが心を通わせるとき、バッハの音楽が鳴り響く。平均律クラヴィーア曲集 第1巻 第8番。教会の場面で聞こえるのは、ネットで調べたら、BWV 721コラール「おお主なる神、われを憐れみたまえ」のようだ。

 ラザロが教会から追い出されると、教会のパイプオルガンが鳴らなくなる。音楽がラザロを追いかけて教会を去ってしまう。そして、おそらく宗教の心もオルガンの音楽とともに去る。

 音楽も、そして宗教も純粋なる魂の統合なのだ。ラザロの魂を追い出した社会には音楽も宗教も意味をなさない。純粋な魂の統合であるラザロに居場所はない。音楽にも、そして宗教にも。

 私はそのようなメッセージを読み取った。美しい映像。重層性のある物語。感動的な場面。本当にいい映画だった。私は渋谷のル・シネマでみたが、満席にはほど遠かったのが残念。

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