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森麻季 リリックな歌声を堪能した

 2019630日、調布国際音楽祭として、調布市市立文化会館たづくり くすのきホールで、森麻季ソプラノリサイタルを聴いた。ピアノ伴奏は山岸茂人。素晴らしかった。まだ興奮している。

 2007年のドレスデン歌劇場来日公演「ばらの騎士」で、素晴らしいゾフィーを聴いて、森さんの実力を知ったのだったが、今回改めて聴いて、ますます凄みを増していると思った。本当に素晴らしい。世界のトップレベルを行く数少ない日本人歌手の一人だと思う。

 音程のしっかりした澄んだ輝かしい声。声そのものがまず素晴らしい。だが、それだけでなく、声の響かせ方など、テクニックも本当に見事。会場内全体に美しく響き渡る。ピアノ伴奏も澄んだ美音が声にふさわしい。

 最初の、メンデルスゾーンの「歌の翼に」やシューマンの「献呈」もよかったが、マスカーニの「カヴァレリア・ルスティカーナ」のなかの 「アヴェ・マリア」が絶品。本当に清澄で美しい声! 祈りの心が伝わる。

「コシ・ファン・トゥッテ」の「恋人よ、許してください」も「ドン・ジョヴァンニ」の「むごい女ですって!」も、細やかに女の心を歌って素晴らしい。フィオルディリージやドンナ・アンナの心が細かいところまで伝わるような歌だ。

 後半はフランスの歌曲やオペラ・アリア。アーンの「至福の時」の、まさに幸せを歌う清澄な声に痺れた。フォーレの「月の光」も「夢のあとに」も、フランス語の発音が実に美しい。言葉の響きの一つ一つをとても大事にしているのがよくわかる。

 が、やはりオペラのアリアで、森さんの輝かしい声はいっそう魅力的になる。「カルメン」のミカエラのアリア「何を恐れることがありましょう」も清純な心が込められていて美しかったし、シャルパンティエの「ルイーズ」の「その日から」も、まさに幸せの絶頂を可憐に歌い上げていた。カタラーニの「ワリー」のなかの「さようなら、ふるさとの家よ」もしっとりとして味わい深い。

 アンコールに日本歌曲「はつこい」と「からたちの花」。ともに、日本語の言葉も聞き取りやすく、しかもその響きが美しい。最後に、「ラ・ボエーム」のムゼッタのアリア。この躍動も見事。

 今回選ばれていたのは、いずれもリリックな歌だった。これこそ、森さんの声の美しさを存分に味わうことのできる歌だっただろう。声の美しさ、言葉の美しさを堪能できた。

 ただ、私としては、もっとダイナミックな歌やコケティッシュな歌、ユーモラスな歌も聴いてみたかったが、それはないものねだりでしかないだろう。次の機会には今回と違ったタイプの歌も是非聴きたい。

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新国立劇場オペラ研修所オペラ試演会「イオランタ」を楽しんだ

 2019629日、新国立劇場小劇場で、新国立劇場オペラ研修所オペラ試演会「イオランタ」をみた。

 私はこれからのオペラ界を背負って立つ若い歌手たちが出演する新国立劇場オペラ研修所オペラ試演会を毎回楽しみにしている。しかも、「イオランタ」は好きなオペラの一つだ。今回も楽しみにして出かけた。そして、期待通りに楽しめた。

 もちろん、海外のオペラ団体の来日公演や日本の大きな組織が総力を挙げる公演に比べると、力不足は否定のしようがない。歌手たち全員にそれなりに完璧といえない部分がある。舞台にもきっとお金もあまりかかっていないだろう。だが、全員が全力でオペラを作り上げようとするエネルギーが伝わり、多くの歌手たちの長所が見えて、とても頼もしい。

 イオランタを歌った和田悠花は澄んだ声で容姿も美しく、まさにイオランタにふさわしい。ロベルトの野町知弘は自在な歌いっぷりでとても美しい声。レネ王の松中哲平は声量のあるしっかりした声、ボデモンは後半、声に疲れが出て高音で声が割れたが、前半はなかなかの美声だった。すべての歌手は、ところどころ声が不安定になることはあったが、全体的にはとても大いに健闘。チャイコフスキーのオペラの魅力を味わわせてくれた。

 高田絢子と原田園美の二人のピアノを指揮するのは鈴木恵里奈。メリハリのしっかりした小気味よい指揮だったが、はじめのうち歌手とテンポが合わなかったのが残念。弦楽器や管楽器がないためにチャイコフスキー独特の情緒がだせないのはよくわかるが、もう少しじっくりと歌わせてくれてよいのではないかと思う部分もあった。

 演出はヤニス・コッコス。光の環が相撲の土俵のように舞台の中心に作られ、その中でイオランタが演じる。レネ王の束縛としての「鳥かご」のような円環なのだろう。最後、目が見えるようになってイオランタはその円から一歩踏み出す。

 ただ実をいうと、私は「イオランタ」の物語にはいくつも納得できない点がある。ここで描かれるキリスト教はかなり正統から外れているのではないか。中東の医師の二元論解消の考え方は実は中東的ではないのではないか。今日もオペラを見ながら、様々な疑問が頭をかすめた。が、それについては今は語らない。

 ともあれ、才能ある若い歌手たちの歌を聴くのはとても楽しい。今日も十分に楽しんだ。

 

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「ハチャトゥリアン・コンチェルツ」 まとめて聴けて満足

 2019628日、みなとみらい大ホールで神奈川フィルハーモニーによる「ハチャトゥリアン・コンチェルツ」を聴いた。池辺晋一郎氏の企画で、ハチャトゥリアンのチェロ協奏曲ホ短調とピアノ協奏曲変ニ長調とヴァイオリン協奏曲ニ短調の合計3つの協奏曲が演奏された。指揮は川瀬賢太郎。ゲスト・コンサートマスターは豊島泰嗣。

 私は特にハチャトゥリアンが好きなわけではない。半年ほど前、ジョージアとアルメニアを旅行することにして、はてこれらの国にはどんな出身者がいるんだったかと調べた時、最初に出てきたのがジョージア生まれのアルメニア人であるハチャトゥリアンだった。そんなときにこのコンサートが開かれるのを知ったのだった。

 最初に石坂団十郎のチェロが加わってのチェロ協奏曲。これを聴いた時点では、実は少々退屈だった。とても鮮烈な演奏であり、石坂団十郎はとても素晴らしいチェリストだとはよくわかったのだが、そうはいっても曲自体がつまらないと思った。なじめないメロディで、なんだかよくわからない展開だと思った。

 が、佐藤卓史のピアノが加わってのピアノ協奏曲はとてもおもしろかった。チェロ協奏曲と違って躍動があり、爆発があり、民族舞踊的な高まりがあった。佐藤のピアノのはじけ具合もとてもよかった。川瀬の指揮も佐藤のピアノもきわめて正統派だと思う。派手すぎることはしない。音楽を崩さない。だが、池辺さんがプレトークで語っていた通り、「ハチャトゥリアンの音は一つ一つが生きている」。

 郷古廉のヴァイオリンが加わってのヴァイオリン協奏曲もよかった。この曲は何度か聴いたことがある。これも同じように、誇張することなく、音楽を崩すことなく、正当にしっかりと、しかしそうであるが故に生き生きと音楽を展開させる見事な演奏だった。郷古の音楽性もとてもよく分かった。

 とはいえ、やはり私にはハチャトゥリアンの曲は退屈だと思わざるを得なかった。いろいろな音楽が上滑りに通り過ぎていく。やはり、ショスタコーヴィチやプロコフィエフの曲のほうがずっとおもしろい。

 ただ、ちょっと思ったのは、もしかしたら、ハチャトゥリアンの曲というのはもっとねちっこく、もっと悲劇的なのではないかということだった。アルメニアで2、3日過ごし、アルメニア人のガイドさんの話を聞いたところでは、アルメニア人はもっと思い入れたっぷりでもっと怨念を持ち、もっと悲劇的な感性を持った人たちのようだ。そのような演奏だったらもっと退屈しないで聴けるのではないかと思ったのだった。

 ともあれ、ハチャトゥリアンの協奏曲をまとめて聴くことができて満足。

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読響シンフォニックライブ ヒナステラの曲にびっくり

 2019626日、東京芸術劇場で読響シンフォニックライブを聴いた。日テレの放送のための公開演奏。

 指揮は原田慶太楼。曲目は前半にコリヤ・ブラッハーのヴァイオリンが加わってブラームスのヴァイオリン協奏曲、後半にメゾ・ソプラノの杉山由紀が加わって、ファリャのバレエ音楽「恋は魔術師」とヒナステラのバレエ音楽「エスタンシア」組曲。

 私はブラームスの協奏曲を目当てで足を運んだのだったが、好みの演奏ではなかった。

 指揮は、輪郭のはっきりした明快でメリハリの強い演奏。ぐいぐいと押してくる。前半、ちょっとアンサンブルの乱れを感じないでもなかったが、ともあれ単純でわかりやすい枠組みの中に勢いのある音楽を創ろうとしている。それは決して私は嫌いではない。

 私が嫌いなのはブラッハーのヴァイオリンだった。どうやらブラッハーは、ヴァイオリン・パートを一つの流れのある「メロディ」と考えているようで、メリハリなくずっと歌わせる。まるで、たった一人だけでくどくどと歌を続けているかのよう。そうすると、構成が曖昧になり、勢いがなくなる。第三楽章でさえも同じ雰囲気を続け、ヴァイオリンは歌を歌い続けている。

 ヴァイオリンのアンコールとして、バッハの無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第1番の第1曲が演奏されたが、それも私は同じように感じた。重層的な音の重なりではなく、一つの連続したメロディになっている。私には、これはおもしろく感じられない。

 後半のスペインの音楽になって、原田は自由に音楽を創れるようになったようだ。ただ、ファリャの曲は、杉山の声がオーケストラに埋もれてしまっていた。せっかくきれいな声なのに、もったいない。もう少しオーケストラが音を抑えるべきだろう。

 最後のヒナステラの曲は初めて聴いた。それどころか、ヒナステラという作曲家も初めて知った。オーケストラが躍動し、音が勢いを持って色彩的に鳴りまくるので、びっくり。とても楽しく、とてもダイナミック。原田は大きな身振りで、見事にオーケストラをコントロールし、読響のメンバーは見事に美しく勢いのある音を出す。明るくて明快。とりわけ最後の部分は心が躍動した。

 ブラームスは好みではなかったが、スペイン音楽は楽しめた。ともあれ、満足。

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ボローニャ歌劇場「セヴィリアの理髪師」 とてもよかったが、それほど感動はしなかった

 2019622日、神奈川県民ホールでボローニャ歌劇場公演「セヴィリアの理髪師」をみた。

 歌手陣は全体的にとても充実していた。アルマヴィーヴァ伯爵を歌うのはアントニーノ・シラグーザ。安定した輝かしい声でしっかりと歌う。第二幕終盤の歌は素晴らしかった。フィガロはロベルト・デ・カンディア。豊かな声で自由に歌う。やはりこの二人が最も充実している。

  ロジーナのセレーナ・マルフィもきれいな声で音程もよいのだが、もっと爆発的な声の力が欲しいと思った。ドン・バルトロのマルコ・フィリップ・ロマーノも安定しているし、芸達者だが、もう少し声に伸びがほしいと思った。ドン・バジーリオのアンドレア・コンチェッティとベルタのラウラ・ケリーチももちろん悪くはないが、少し余裕不足を感じた。

 とはいえ、繰り返すが、歌手陣に私はほとんど不満はない。よくを言い出せばきりがないが、十分に感動できる声だった。

 私が不満を覚えたのは、フェデリコ・サンティの指揮だった。ところどころ停滞するのを感じた。ロッシーニらしい躍動がないし、わくわく感がない。バランスが壊れる場面もあったように思う。

 フェデリコ・グラッツィーニの演出は、かなり穏当で伝統的だと思う。バルトロが銃をもって狩りをし、誤解したロジーナが銃で侯爵を脅す場面などあるが、そこに深い意味はなさそう。実はあまりおもしろいとは思わなかった。

 6列の席を購入していたが、会場に到着して、最前列なのにびっくり。右端のほうなので、音のバランスがよくなかった。全体の音楽に私がさほど感銘を受けなかったのには、この席の影響があるのかもしれない。

 もちろん、とてもよくできたオペラであり、一流の歌手たちが歌うので、素晴らしいのだが、新国立で見てきたこのオペラよりもずっと感動的かといわれると、むしろあまり差がないのではないかと思った。言い換えれば、私たちはボローニャ歌劇場とレベル的に大差ない舞台を日常的に新国立劇場で接しているということなのだろう。

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ファルハディ監督の「誰もがそれを知っている」 悲劇そのものの原形

 アスガー・ファルハディ監督の映画「誰もがそれを知っている」をみた。

 私は、「ある過去の行方」をみて以来、このイラン出身の監督のファンだ。「彼女が消えた浜辺」や「別離」、「セールスマン」も素晴らしかった。登場人物のそれぞれの行動に説得力がある。自分がそのような状況にあればきっと同じようにするだろうと、どの人物の行動を見ても思ってしまう。宗教にがんじがらめにされている社会の中で、そうした中で深刻な問題が持ち上がり、のっぴきならない状態になっていく。そのようなドラマをリアルに作り上げていく。

 今回の「誰もがそれを知っている」は、イスラム社会から離れて、もっと普遍的に人間の在り方を根本から描く。

 結婚して南米に暮らすラウラ(ペネロペ・クルス)が妹の結婚式に出席するために子どもたちを連れてスペインの故郷に戻ってくる。親や兄弟、かつての恋人パコ(ハビエル・バルデム)とも再会。ところが、結婚式のバカ騒ぎの中で、娘のイレーネが誘拐される。人々は疑心暗鬼になり、隠されていた家族の過去の出来事がふきだしてくる。最後にはイレーネは救われるが、すべての人が傷ついている。

 ほかのファルハディ監督の映画と同様、ある意味で救いのない内容だが、その中に人間のエゴ、そしてエゴを超えた愛情、いかんともしがたい過去の重みといった人間の真実が感じられて、深い感動を覚える。しかも次々と真実があらわになっていく場面ではハラハラドキドキして息詰まる展開になる。まさしくギリシャ悲劇以来の、悲劇そのものの原形のような映画だといえるだろう。そして、何よりも演出力に驚嘆する。すべての人物が人間の業を背負っている。

 ただ、個人的な好みからすると、私は「ある過去の行方」や「彼女が消えた浜辺」や「別離」のほうが好きだ。「セールスマン」と「誰もがそれを知っている」は娯楽サスペンスの色合いが強まって一層おもしろくなり、映画の作りが上手になった分、がんじがらめになった人間の裸の姿の実像を描くだす力は弱まったように思う。その点のみ不満に思った。

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日生劇場「ヘンゼルとグレーテル」、そして、アンサンブル・ラロのあっと驚くアンサンブル!

 2019615日、日生劇場で「ヘンゼルとグレーテル」をみて、その後、サントリーホールでアンサンブル・ラロの演奏を聴いた。

「ヘンゼルとグレーテル」の歌手陣は健闘。ヘンゼルの郷家暁子、グレーテルの小林沙羅、父の池田真己、母の藤井麻美、魔女の角田和弘、眠りの精・露の精の宮地江奈について、しっかりと声を出していた。とりわけ、郷家暁子と小林沙羅のしっかりした歌はさすが。

 ただ、広崎うらんによる演出は私にはよくわからなかった。

 このオペラには様々な謎がある。母親はなぜ子どもを外に出すのか、魔女の狙いは何なのか、そもそも魔女とは何者なのか。それを明確にしないで上演すると、あやふやになり、少なくとも現代の人間に納得させることはできない。いや、もし納得させなくてよいという方向をとるのであれば、それはそれでこのオペラをどうとらえるのかを明確にする必要がある。そのような「解釈」をするのが演出の役割だと思う。

 ところが、今回の舞台では、すべての歌手が大きな身振りで演技をし、たくさんの人が登場し、あれこれのジェスチャーをし、踊りを踊るのだが、母親の意図は何か、魔女とはどのような存在なのか、兄と妹について何を語ろうとしているのか、私にはわからなかった。だから、大きな身振り、つまりは大袈裟な演技が不自然に思えてくる。

 そのうえ、日本語のセリフが聞き取りにくく、しかも、「あそこに花があるわ」「そよ風が吹いているわ」などという、今の子どもが絶対に口にするはずのない(いや、昭和30年代の子どもも使わなかった!)語り口なので、いっそう大袈裟なジェスチャーのヘンゼルとグレーテルが子どもの真似をした大人にしか見えない。このような大時代の語り口にしたのには何か意図があるのだろうか。

 指揮は角田鋼亮。子供むけメルヘンというよりも、かなり強めの演奏でワーグナー的な音響を作り出していた。新日本フィルはしっかりとした音を出して、指揮者の要望を実現していたと思う。だが、私にはそれもまた舞台上で行われている芝居との距離を感じて、素直に納得できなかった。

 その後、一休みして、サントリーホール 小ホールでのチェンバーミュージック・ガーデンの一環であるアンサンブル・ラロのコンサートに出かけた。曲目はブラームスのピアノ四重奏曲第3番、後半にヴァスクスという現代作曲家のピアノ四重奏曲。

 アンサンブル・ラロの演奏は初めて聴く。2004年結成のピアノ四重奏団。ラトヴィア、ロシア、ルーマニア、そして日本の血を受け継ぐオーストリアの出身者がメンバー。

 最初の音が聞こえたとたんにびっくり。ブラームスの響きがまるでシェーンベルクのように聞こえるではないか。ロマンティックな情緒を排して完璧なアンサンブルで細部に至るまで緻密に演奏。ピアノのダイアナ・ケトラーが強い音で先制攻撃をしかけ、三人の弦楽器の男性陣がその後を緻密に押し進んでいく感じ。初めのうち、ブラームスらしくないブラームスに違和感を覚えていたが、これはこれで説得力がある。現代的な響き、音の絡まりなど実に見事。あっという間に音楽が終わった。

 後半のヴァスクスの曲は途轍もない曲だった。激しい祈りに救いを求め、狂気に至るかのような精神的な冒険を経て最後に究極の祈りにたどり着く様子を描いたかのよう。それをすさまじいアンサンブルによって演奏。ただ怠惰で享楽的で不真面目な精神を基本に持つ私としてはこのあまりに真摯な音楽についていけず、息苦しくなってきた。もっと遊びがないと私はついていけない(ただ、終演後、尊敬する知人と少し話したが、その方はそのようなぎりぎりの音の絡み合いを楽しんだという。なるほど、そのようにして聴くべきだったのか!と後で思った)。

 アンコールはエネスコのルーマニア狂詩曲の第1番のピアノ四重奏版。前半のブラームス以上にすさまじい演奏。攻撃的なピアノを先頭に完璧なアンサンブルでこの音楽を透明で波乱万丈で起伏の大きな音楽にしていく。スリリングで爽快。この曲ののんびりした雰囲気はそぎ取られ、現代曲に再構築されたような音楽になっている。あまりルーマニアの自然は目に浮かばないが、これはこれで感動的な音楽ではある。アンサンブル・ラロの演奏をもっと聴きたくなった。

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映画「ROMA ローマ」 根付いて生きざるを得ない人々

 アルフォンソ・キュアロン監督の映画「ROMA ローマ」をみた。モノクロ映画。圧倒的な映像美で深刻な世界を淡々と描く。

 舞台は1970年代のメキシコ・シティ(そのローマ地区ということで、このタイトルがついているらしい)の医師の家庭で家政婦として働く原住民出身のクレオは、雇用主の子どもたちに慕われて生活している。同じ出身の男性フェルミンに惹かれて妊娠するが、男はそのまま逃げてしまう。雇用主の理解を得て子供を産もうと決意するが、ちょうどデモが暴発して市街戦が起こった日、フェルミンが市街戦の中で殺人にかかわっていることを目撃して破水、死産してしまう。雇い主の医師一家も主人が愛人を作って家を出たために妻と子供たちが取り残され、途方に暮れる。その一家の中でクレオは懸命に生きようとする。

 そのようなクレオと医師一家の日常を淡々と描く。産みたくなかった子どもでありながら、実際に死産になって取り乱す場面、雇用主の子どもたちを溺死から救った後、子どもを産みたくなかったことを告白する場面など、圧倒的な迫力を持つ。

 雇用主の中にも差別意識がある。拭い去れないほどに存在する。社会の中に階層がある。政治的事件がある。その中で人々は必死に、しかもしばしばエゴイスティックに生きる。犠牲になる人はやるせなく生きる。その地に根付いて生きる。そうするしかない。それを白黒の映像が静かにえぐり出す。

 画面の中にしばしば空を飛ぶ飛行機が映し出される。雇用主の医師は妻子を捨てて逃げた。飛行機はこの矛盾に満ちた現場から逃げ出す手段なのだろう。逃げる人はいる。だが、クレオはその場にい続けるしかない。飛び立つ飛行機の音がする中で、クレオは雇い主の飼い犬が糞をした床を掃除して日常を生きていく。

 メキシコ出身のキュアロン監督自身の体験に基づくという。過酷な社会に生きる人間への愛情があふれている。それにしても、俳優たち(子どもたちを含めて)の自然な演技にも驚くし、1970年のメキシコのリアルな再現にも驚く。メキシコの歴史について無知なためにわかりにくいところも多いが、それでも見るものを感動させる力を持っている。素晴らしい映画だと思う。

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菊本・竹島・新居によるディスカバリー・ナイトを楽しんだ

 2019612日、サントリーホール ブルーローズでのチェンバーミュージック・ガーデン2019の一つディスカバリー・ナイトⅡを聴いた。演奏は、菊本和昭(トランペット)、竹島悟史(パーカッション)、新居由佳梨(ピアノ)。曲目は、前半に菊本と新居によりイウェイゼンというアメリカの現代作曲家のトランペット・ソナタと、竹島と新居によるクレストンというこれまたアメリカの現代作曲家によるマリンバ小協奏曲、後半に、菊本と竹島によるジョリヴェのトランペットと打楽器のための『エプタード』、三人によるプロコフィエフの「ロメオとジュリエット」より(竹島悟史編曲)。

 とてもおもしろかった。予想以上におもしろかった。

 三人の名人芸に圧倒された。菊本のトランペットの神業にまず驚いた。室内楽としてトランペットを聴いたのはたぶん初めてだろう。様々な音色を出せる楽器だと初めて知った。機敏に動き、音程もいいし、リズムもいい。竹島のパーカッションも圧倒的。マリンバがとても良いと思ったが、ほかの楽器も見事。ジョリヴェの曲では、周囲にいくつもの打楽器を並べての演奏。よくもまあこんなたくさんの楽器を間違わずに叩けるものだ!という極めてプリミティブな驚きを覚えた。そして、新居のピアノの色彩的で繊細な音にも聞きほれた。

 私がこのコンサートを聴きたいと思ったのは、新居さんが演奏家の一人に加わっているからだった。多摩大学のゼミでコンサートを企画していたころ、新居さんに何度も参加していただき、素晴らしい演奏を披露していただいた。ショパンの曲や池田香織さん、飯田みち代さん、三宅理恵さんの歌の伴奏も素晴らしかったが、何といってもラヴェルの「ラ・ヴァルス」のあまりの色彩的で華麗でダイナミックでしかも繊細な演奏は今も耳に残っている。新居さんの活躍を聴きたいと思って足を運んだのだったが、予想通りの、いや、大変失礼ながら、それ以上に素晴らしい演奏だった。出しゃばらず、しなやかに、しかししっかりと派手な楽器を支えている。フランス音楽のような繊細な雰囲気が生まれ、色彩感が増す。新居さんのピアノの支えがなかったら、こんな素晴らしい演奏にならなかっただろう。

 どの曲も大変面白かった。豊穣な音に痺れた。満足。

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スジン、コレスニコフ、宮田によるブラームス 素晴らしかった

 2019610日、サントリーホール ブルーローズでチェンバーミュージック・ガーデン2019、アジアンサンブル@TOKYOと題されたハン・スジン(ヴァイオリン)、宮田大(チェロ)、パヴェル・コレスニコフ(ピアノ)の三人によるコンサートを聴いた。

 曲目は、前半にモーツァルトのヴァイオリン・ソナタ変ロ長調K454とショパンのワルツ第9番「告別」、幻想即興曲嬰ハ短調、ドビュッシーのチェロ・ソナタ、そして後半に三人がそろってブラームスのピアノ三重奏曲第1番。

 前半のハン・スジンは、とてもきれいな音だったが、少し硬かった。コレスニコフもまたとても澄んだ音だが、私にはちょっと自由すぎる気がした。が、宮田大が加わってドビュッシーが始まったころから、勢いが出てきた。さすが宮田大。

 後半のブラームスは素晴らしかった。厚みのある深い音でりながら、けっして重くならない。勢いがある。前半硬く思われたハン・スジンのヴァイオリンもきれいに決まる。コレスニコフのピアノも絶妙のタイミング。そして、おそらく音楽をリードしているのは宮田だろう。

 全体が緊密に構成され、そこに様々な感情が抑制されてうごめき、ブラームスの孤独な心のひだが克明に現れ、最終楽章では大いに盛り上がる。まさしくブラームス特有の世界を作り上げてくれた。これぞブラームスの室内楽の醍醐味だ。堪能した。

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東京二期会「サロメ」 歌手陣は素晴らしいと思ったが、指揮と演出の乖離を感じた

 201969日、東京文化会館で東京二期会公演「サロメ」(ハンブルク州立歌劇場との共同制作)をみた。今回の公演の最終日。

 歌手陣については素晴らしいと思った。日本人歌手のレベル向上を改めて感じる。やはりサロメを歌った田崎尚美が圧倒的に素晴らしい。声が伸びているし、音程も安定している。世界のひのき舞台でサロメを歌えるレベルだと思う。ヘロディアスの清水華澄ももちろん素晴らしい。そのほか、ヘロデの片寄純也、ヨカナーンの萩原潤、ナラボートの西岡慎介、小姓の成田伊美も穴がない。

 ただ私はウィリアム・デッカーの演出とヴァイグレの指揮にあまり惹かれなかった。そのためだろう、全体的に大きな感銘は受けなかった。

 大きな階段があるだけの舞台。登場人物はすべてグレーっぽい服で、女性も含めて禿げ頭。私はなぜこのような衣装にしたのか理解できない。こうすると、全体が抽象的になり、登場人物が匿名になり、一つの記号になってしまう。セリフの中で大きな意味を持つ「月」も現れない。そうなると、事象についての象徴性も薄れる。サロメやヘロディアスやヘロデやナラボートの個々の特殊性も薄れる。

 いや、そうであっても音楽がもっと表現主義的であったり、抽象的であったりすれば、それでよいと思うのだが、ヴァイグレの作り出す音楽はむしろ豊穣で甘美。読響もヴァイグレの指揮にこたえて、美しい音を出していた。オーケストラはサロメやヘロディアスの心の襞をロマンティックに歌い上げようとしているように聞こえる。私には目の前に見える光景と、聞こえてくる音楽の乖離が感じられて仕方がなかった。

 私の個人的な好みの問題かもしれないが、「サロメ」については、もっと先鋭的、もっとアグレッシブに演奏してくれるほうが嬉しい。官能的に豊かに美しく演奏されると、せっかくの表現主義的な魅力が半減してしまう。読響とのブルックナー演奏など、このところのヴァイグレの充実ぶりには感嘆していたのだったが、今回は少し不満に思ったのだった。

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3回目のホーチミン旅行

 201963日から7日まで、25日の弾丸ツアーで家族の一人(本人が嫌がると思うので、それが誰であるかは明かさない)とホーチミンに行った。6月3日の深夜に羽田で搭乗手続きをし、4日の未明に出発、4日からホーチミンに2泊して、6日をホーチミンですごしたあと、深夜に出発して7日の朝に羽田到着。これで2泊5日ということになる。

 ホーチミンを訪れるのは3度目だ。初回は1992年、ベトナム、カンボジアの旅だった。2度目は2012年、ホーチミン、ハノイ、ハロン湾の旅だった。そして、今回はホーチミンのみ。正月の新聞広告でHISのビジネスクラス格安ツアーを見つけた。最初にベトナムを訪れた時、「ベトナム料理は世界一おいしい!」と思ったので、食いしん坊の家族とともにベトナム料理を堪能したいと思った。

 簡単に旅での出来事を書く。なお、前回のジョージア・アルメニア旅行の際と同様、今回も写真を挿入する技術を持たないので、言葉による記述だけになる。

 

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 JAL便で快適に予定通り、早朝の515分にホーチミン到着。ベトナム人ガイドさんがホテルまで送ってくれた。が、ホテルに到着したのは朝の7時前。部屋には入れない。夕方以降、市内観光などが予定されているが、それまではツアーには何も予定されていない。荷物を置いて、ともあれ近くを歩き始めた。

 ホテルがハイバーチュン通りにあったので、近くのホーチミン随一の繁華街ドンコイ通り、歩行者天国になっているグエンフエ通りなどを歩き回った。

 1992年に訪れた時には、まだベトナム戦争の傷跡があった。空港からホテルに向かうとき、自転車に乗った人々が次々の現れるのに驚いた。その中にアオザイ姿の女性たちが大勢いた。バイクも多くて、そこに4人乗り、5人乗りをしているのが見えた。2012年には自転車はほとんどみかけなくなり、バイクの大群に変わっていた。そして、今回、バイクは一層増えていた。車も多い。車は日本車が大半。2人乗りは多く、3人乗りも時々見かけるが、以前のような4人乗り、5人乗りはまったく見かけなくなっていた。

 派手な色のヘルメットをかぶり、排ガス予防のための色とりどりのマスクをしたバイクの大群は、まさしくバッタの大群のように見える。ドドドドドドドドドという音を立てながら、バッタの大群が次から次へと湧き出してくるかのようだ。

 信号があまりないので、バイクの群れは途切れることがない。前回も大きな道路を渡るのは命懸けだと思ったが、今回は大きな道路だけでなく、もっと細い道に至るまで、バイクが少しだけ途切れるのを待って、必死の思いで渡らなければならなくなっていた。たまに信号があっても、赤信号なのに平気でバイクが走っていく。

 現地の人はバイクや車がかなり通っているときにも、それをかき分けるように進んでいくが、日本人としてはそんな度胸はない。現地の人であっても高齢者はそれができないだろう。事実、ホーチミン市の中心街で高齢者をほとんど見かけない。高齢者は外に出ないのか? 地下鉄の工事が行われていた。公共交通が整備されれば、バイクの大群は減るだろう。

 ホーチミンの町は、ヤンゴンやコロンボやカラチ、ラホール、カトマンズなどのほかの国の大都市に比べてかなり清潔だ。道路沿いにごみが散らばっていることもない。生ごみのにおいが漂っているわけでもない。東南アジアのどこにも多い野良犬もほとんど見かけない。ただ、道路に座り込んだり、低い椅子に座ったりしてものを売る人、何かを食べている人、おしゃべりしている人が目立つ。道路にものを並べて売っている人も多い。これほどバイクが多くてうるさくてばい煙の多くところ、しかもめっぽう暑いところに座っている人が多いのには不思議だ。

 ホーチミンという文字以上に「サイゴン」という文字が目立つ。ホテル名、レストラン名などのサイゴンという名前が見える。初めて訪れたころ、この土地を「サイゴン」と呼ぶのは親米の証とみなされてはばかられているような雰囲気があった。ところが、現在ではサイゴンが当たり前になっている。

 ホーチミン像を訪れた。かつては誰よりも敬愛され、崇拝された人物だが、その像は特ににぎわってはいない。今も愛されているとは、あとでガイドさんに聞いたが、崇拝されているとは言えない状態だ。ホーチミン人民委員会庁舎を外から見た。統一会堂、ホーチミン市博物館などを見物。

 ペンタイン市場にも行ってみた。市場には肉や魚、果物が売られる生鮮食料品のほか、衣服、時計、バッグなどが売られていた。やっと人がすれ違えるような狭い通路を挟んで、ぎっしりと小さな売り場が並んでいる。これまで見てきた東南アジアの様々な国の市場とさほど変わらないが、ただ、ベトナムの特徴といえそうなのは、売り場の前に必ず売り子が低い椅子に座っていることだ。そのほとんどが若めの女性だ。ずらりと並んで女性たちがおしゃべりしていたり、何かを食べていたりする。不思議な光景だ。

 暑くなってきた。午前中なのに30度を超す。歩くのに疲れたので、ちょっとおしゃれな冷房の効いたカフェに入って休憩。ジュースを飲んだ。やっと昼になって、チャン・フン・ダオ像のある広場の近くのガイドブックなどに出てくるレストランで食事。実においしい。ベトナム料理は本当においしい!

 その後、ホテルに入れる時間になったので、部屋で一休み。ビジネスクラスとはいえ、十分には眠れなかったので、ひと眠りした。

 夕方、ガイドさん(ホテルまで送ってくれたのは別の人)が来て、初めて出会う日本人客数人とともに水上人形劇を見に行った。水上人形劇はハノイで以前見たことがある。とてもおもしろかった記憶があるが、今回は、少々子供だましだと思った。人形の動きもそれほどの工夫が感じられず、あまりリアルではないし、様式美があるわけでもない。しかもワンパターンで退屈になった。客もそれほど面白がっている様子はなかった。

 その後、サイゴン川でのディナー・クルーズ。そこでまた新たに日本人客数人と合流して10名ほどで食事。ベトナム料理はどこで食べてもおいしい。が、増幅された大音響の音楽(民族楽器が使われていたが、曲目は現在の曲がほとんどだったようだ)は私には耐えがたかった。

 どこに行ってもあれほどものすごい人数の中国人観光客をほとんど見ないことに気づいた。たまたまそのような場所に私たちが出入りしているのかもしれないが、日本人によく出あう。中国人よりも日本人のほうが多い外国など、本当に久しぶり。

 ホテルに戻って寝た。

 

65

 ツアーに含まれるミトーのメコン川見物。バスで1時間半ほどかけて、メコン河畔の町ミトーへ。今回のツアーは、ずっと同じガイドさんについて歩くのではなく、行動ごとに別のガイドさんが来て、客もその都度変わる。今回は13人の客だった。

 いつまで行っても、バイクの大群が続く。ホーチミン市内から離れて、やっとバイクの数がぐっと減った。

 メコン川到着。決して美しい水ではない。だが、チベットから様々な森の栄養を運んでくる大河だ。船で中州に行き、そこで果物を食べた。

 そのときに、突然、大スコール。雷が鳴り、豪雨になり、座っている椅子にまで雨が吹き込んできた。が、30分ほどで雨はやみ、晴れ間が見えてきた。それはそれで実に爽快。その後、二人が手漕ぎをするボートで狭い川を下った。突然のスコールを除けば、2012年に訪れた時とまったく同じコース、同じ店だった。既視感に襲われた。

 その後、バスでレストランに移動してエレファント・フィッシュなどを食べた。2012年にも同じような料理を食べたが、レストランは異なる。今回のレストランは、池があり、ベトナム風の建物があって、風雅な作りだった。料理はここも実にうまかった。

 その後、ホーチミン市に戻って、市内観光。サイゴン中央郵便局、歴史博物館、英簿マリア教会(ただし、改修中につき中は見物できず)などをみた。

 いったんホテルに戻って、夕方、別のガイドさんに連れられて、今度は家族の二人だけで夕食。そこもおいしかった。本当にすべてのレストランでおいしいものが食べられる!

 それまで泊まっていたホテルは、ビジネスクラスのツアーだということで期待していたものとはかなり異なっていた。しかも、あてがわれた部屋は窓がなく、清潔ではない。そのほかにもいくつも問題を感じた。この日の午後、追加料金を支払って、別のホテルに変えてもらうことにした。食事の後、新しいホテルに移った。

 そのホテルはグエンフエ大通り沿いにあった。ところが、この日、ベトナム対タイのサッカーの国際試合が行われており、そのライブビューイング会場がホテルの目の前だった。大画面がいくつか用意され、道は通行止めになり、人があふれ、大騒ぎしている。ホテルの前まで車は入れず、途中から歩いた。全員が大画面のほうを見ている。とはいえ、ベトナム人は礼儀正しいので、大混乱の様子はない。部屋に入っても音が聞こえる。

 22時まで営業しているスーパーが近くにあったので、買い物に行った。お土産物もついでに買った。高級スーパーのようで、高級品がそろっており、日本人客が大勢いた。

 ドンの価値は日本円の200分の1ほどにあたる。1万ドンが50円、10万ドンが500円。物を買おうとするごとに、桁の大きさに頭が混乱し、イチジュウヒャクセン・・・とゼロの数を数え、それを日本円に計算しなおす。

 しかも支払いの段になると、紙幣はすべてホーチミンの図柄で、そこにいくつもの0の並ぶ数字が書かれている。どの紙幣が1000か10000か100000かわかりにくい。わけがわからず、ともあれ店員さんのいうとおりに支払うしかない。

 スーパーからホテルに戻っているときもまだライブビューイングのサッカーが続いていた。大画面を見ながらホテルに入ろうとしていた時、ベトナムがゴールを決めた。大歓声。その後もゴールを決めたシーンが何度か再生される。そのたびに、喜びの声が広まる。

 大騒ぎの中、部屋に戻った。前日までのホテルに比べれば、格段に快適な部屋だった。

 

6月6

 この日は20時半にホテルからガイドさんが空港まで送ってくれることになっているが、基本的に終日自由行動。ただし、午前中にホテルのチェックアウトの時間なので、外で過ごすしかない。おいしいもの巡りをすることにした。

 朝からチェロン地区にあるビンタイ市場まで歩いて、デザートで有名だという店に行った。テイクアウトの弁当なども扱っている店で、大勢の人が列を作っていた。エアコンのついていない店だった。スイーツを食べた。絶品。3品で日本円で200円程度だった。

 いったんホテルに戻ってシャワーを浴び、チェックアウトして、荷物をホテルに預けて、また市内を歩いた。

 チェックアウト後、昼食のためにバインセオのおいしいという店に向かって歩きながら、統一会堂や、お店の近くにあるダンディン教会(ピンク色の教会)などを見物するつもりだったが、スマホのナビに従ったのが間違いだったのか、予想以上に遠かった。

 それにしても暑い。33度くらい。そして、どこに行ってもバイクのドドドドというエンジン音とクラクションのけたたましい音が響く。静かで涼しいところを探してゆっくりしたい気になるが、そんな場所はほとんどない。

 暑い中歩くのに疲れてカフェ(エアコンのないオープンスペースの店だった)で休憩したために、店に到着したのが14時直前で、バインセオで有名な店はすでに閉店だった。意気阻喪。

 疲れ切ったので、いったんホテルのロビーで涼もうと思い、ダンディン教会前に停車中のタクシーに乗ったのが失敗のもとだった。

 今回のホーチミン旅行で乗る初めてのタクシー。40代に見える運転手。警戒をして、メーターを下すように言った。1時間以上歩いた距離なのに、タクシーだと10分ほどだった。メーターに62という数字が見えたが、メーターが曇っていて、よくわからない。ホテルのドアまでおろしてもらえると思っていたら、道路の反対側で停車。

 6万5000ドン(330円くらいにあたる)だと思って、10万ドン札で支払おうとすると、運転手は「ノーノー」といい、私の財布をのぞき込んで、50万ドン札を指さし、「それだ」という。

 例によって、ベトナムのドンは桁数が多いので、紙幣の価値がよくわからない。紙幣はすべてホーチミンの図柄で、ゼロの数字が並んでいるので、さっぱりわからない。ちょっと疑問に思ったが、強く「もう一枚」といわれて、根が善良な私は、言われたまま、もう一枚同じ札を渡してしまった。運転手は釣りの紙幣を数枚くれた。

 で、タクシーを降りて考えてみると、運転手に渡したのは間違いなく50万ドン紙幣2枚だった。100万ドン。つまり5000円ほどに当たるではないか! 返ってきたお釣りは5000ドンほど。これは間違いなくぼられた!! 旅慣れたはずの私がまんまと騙された!

 後で、日本人向けのタクシーの乗る時の注意がガイドブックに書かれているのを見た。そこに「10万ドン以上の紙幣を渡さない」という注意があった。もっと前に読んでいればよかった!

 しばらくショックから立ち直れなかった。5000円でよい経験ができたと思うことにしたが、それにしても悔しい。しかも、余裕をもって一日を過ごせると思っていたのに、ドンの手持ちが少なくなってそれだけでは夜までホーチミンで過ごせない。

 遅めの昼食を終えた(現金が心配なのでカードで支払い)あと、ベトナム戦争証跡博物館まで歩いて行った。敷地内にベトナム内でとらわれたアメリカ軍の戦闘機などが展示されている。かつての2度のホーチミン旅行ではこの博物館が強く印象に残っている。ベトナム戦争の残虐さ、ベトナム人の必死の戦いの跡が示されていた。地下基地などを見たのもこの場所だったような気がする。

 ところが、今回来てみると、ガイドブックにはあまり大きな記載がなく、しかもツアーの市内観光にも含まれていない。客の人数もそれほど多くない。館内の展示も1階はむしろアメリカ兵のベトナム兵の友情、アメリカ人の反省などが目立つ。疲れたので椅子に座ると、その前で映像が流されていた。ベトナム語だったので内容はよくわからなかったが、アメリカ人らしい高齢の西洋人が墓参りをしたり、ベトナム人と握手をして涙を流したりする場面の連続だった。

 かつての「残虐な戦争を戦って、アメリカに勝利したベトナム人」を訴える場から、「ベトナム戦争を経て、国際協調を重視するベトナム」を訴える場にこの博物館も方法転換されていることがよくわかる。

 いったんホテルに戻ることにした。到着した直後に雨が降り出した。しばらく休憩して、近くで軽い夕食(ここでも仕方なしにカードで支払い)を済ませて、ガイドさんに連れられて空港に向かって帰国。

 今回の最大の目的は「ベトナム料理」だったので、ともあれ満足。すべての食事が満足できるものだった。なぜベトナム料理がこれほどおいしいのか、まさに謎。タクシー料金をだまされたのがとても残念だが、このくらいの損害で済んで、まずはよかった。ホーチミン市の中心部はかなり歩き回ることができた。道に迷いつつ、周囲を見て、異国の生活を味わうという旅ができたと思う。

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