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日生劇場「ヘンゼルとグレーテル」、そして、アンサンブル・ラロのあっと驚くアンサンブル!

 2019615日、日生劇場で「ヘンゼルとグレーテル」をみて、その後、サントリーホールでアンサンブル・ラロの演奏を聴いた。

「ヘンゼルとグレーテル」の歌手陣は健闘。ヘンゼルの郷家暁子、グレーテルの小林沙羅、父の池田真己、母の藤井麻美、魔女の角田和弘、眠りの精・露の精の宮地江奈について、しっかりと声を出していた。とりわけ、郷家暁子と小林沙羅のしっかりした歌はさすが。

 ただ、広崎うらんによる演出は私にはよくわからなかった。

 このオペラには様々な謎がある。母親はなぜ子どもを外に出すのか、魔女の狙いは何なのか、そもそも魔女とは何者なのか。それを明確にしないで上演すると、あやふやになり、少なくとも現代の人間に納得させることはできない。いや、もし納得させなくてよいという方向をとるのであれば、それはそれでこのオペラをどうとらえるのかを明確にする必要がある。そのような「解釈」をするのが演出の役割だと思う。

 ところが、今回の舞台では、すべての歌手が大きな身振りで演技をし、たくさんの人が登場し、あれこれのジェスチャーをし、踊りを踊るのだが、母親の意図は何か、魔女とはどのような存在なのか、兄と妹について何を語ろうとしているのか、私にはわからなかった。だから、大きな身振り、つまりは大袈裟な演技が不自然に思えてくる。

 そのうえ、日本語のセリフが聞き取りにくく、しかも、「あそこに花があるわ」「そよ風が吹いているわ」などという、今の子どもが絶対に口にするはずのない(いや、昭和30年代の子どもも使わなかった!)語り口なので、いっそう大袈裟なジェスチャーのヘンゼルとグレーテルが子どもの真似をした大人にしか見えない。このような大時代の語り口にしたのには何か意図があるのだろうか。

 指揮は角田鋼亮。子供むけメルヘンというよりも、かなり強めの演奏でワーグナー的な音響を作り出していた。新日本フィルはしっかりとした音を出して、指揮者の要望を実現していたと思う。だが、私にはそれもまた舞台上で行われている芝居との距離を感じて、素直に納得できなかった。

 その後、一休みして、サントリーホール 小ホールでのチェンバーミュージック・ガーデンの一環であるアンサンブル・ラロのコンサートに出かけた。曲目はブラームスのピアノ四重奏曲第3番、後半にヴァスクスという現代作曲家のピアノ四重奏曲。

 アンサンブル・ラロの演奏は初めて聴く。2004年結成のピアノ四重奏団。ラトヴィア、ロシア、ルーマニア、そして日本の血を受け継ぐオーストリアの出身者がメンバー。

 最初の音が聞こえたとたんにびっくり。ブラームスの響きがまるでシェーンベルクのように聞こえるではないか。ロマンティックな情緒を排して完璧なアンサンブルで細部に至るまで緻密に演奏。ピアノのダイアナ・ケトラーが強い音で先制攻撃をしかけ、三人の弦楽器の男性陣がその後を緻密に押し進んでいく感じ。初めのうち、ブラームスらしくないブラームスに違和感を覚えていたが、これはこれで説得力がある。現代的な響き、音の絡まりなど実に見事。あっという間に音楽が終わった。

 後半のヴァスクスの曲は途轍もない曲だった。激しい祈りに救いを求め、狂気に至るかのような精神的な冒険を経て最後に究極の祈りにたどり着く様子を描いたかのよう。それをすさまじいアンサンブルによって演奏。ただ怠惰で享楽的で不真面目な精神を基本に持つ私としてはこのあまりに真摯な音楽についていけず、息苦しくなってきた。もっと遊びがないと私はついていけない(ただ、終演後、尊敬する知人と少し話したが、その方はそのようなぎりぎりの音の絡み合いを楽しんだという。なるほど、そのようにして聴くべきだったのか!と後で思った)。

 アンコールはエネスコのルーマニア狂詩曲の第1番のピアノ四重奏版。前半のブラームス以上にすさまじい演奏。攻撃的なピアノを先頭に完璧なアンサンブルでこの音楽を透明で波乱万丈で起伏の大きな音楽にしていく。スリリングで爽快。この曲ののんびりした雰囲気はそぎ取られ、現代曲に再構築されたような音楽になっている。あまりルーマニアの自然は目に浮かばないが、これはこれで感動的な音楽ではある。アンサンブル・ラロの演奏をもっと聴きたくなった。

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