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プラッソン+新日フィルの「幻想」 美しく奏でられる美しくも狂気をはらむ音楽

 20191028日、トリフォニーホールで新日本フィルハーモニー交響楽団の定期演奏会を聴いた。指揮はミシェル・プラッソン、曲目は前半にシャブリエの「スペイン狂詩曲」とバンドネオンの小松亮太が加わってのピアソラの「バンドネオン協奏曲」、後半にベルリオーズの「幻想交響曲」。素晴らしい演奏だった。

 まず、シャブリエの音楽が始まって、フランス的でしなやかで精妙なアンサンブルに心惹かれた。リズムもいいし、音楽に流動が素晴らしい。うきうきした。

 バンドネオン協奏曲もおもしろかった。バンドネオンの生の音を初めて聴いた。マイクを並べていたが、やはりこれは大ホールで演奏するのは辛い気がする。第三楽章をアンコール演奏。

 とはいえ、後半の「幻想」がやはり圧倒的にすごかった。

 あまりおどろおどろしくない「幻想」。精妙に始まり、徐々に盛り上がっていく。緻密に組み立てられ繊細な音楽によって美しく奏でられる美しくも狂気をはらむ音楽。リズム感が素晴らしい。まったくゆるぎない。ピタッと決まってひたひたとドラマが盛り上がる。

 私は「幻想」を聴くとき、第3楽章がどうしても気になる。第12楽章は誰が演奏してもおもしろい演奏になる。だが、第3楽章はよほどの演奏でないと、退屈してしまう。よほどの演奏であっても、しばしば退屈する。だが、今回、不安をはらみながら徐々にドラマが進行し、盛り上がっていく。その様子がとてもよく分かった(専門家なら、スコアを見て説明するところだが、残念ながらその能力がない)。第45楽章は大きく盛り上がり、狂乱の音楽が繰り広げられるが、リズムに揺るぎがないので、高貴さを失わない。だが、バタバタしていないだけにいっそう凄味がある。

 プラッソンは素晴らしい指揮者だと改めて思った。感動した。

 ところで、トリフォニーホールは好きなホールなのだが、今日はちょっと参った。隣の席にかなり大柄な人がいて、しばしば身動きする。かなり大きな身動きをする。音楽に合わせて体を揺らしたり、身を乗り出したり。すると、そのたびに席が揺れる。気になって仕方がなかった。

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日本の名手たちによる「フィレンツェの思い出」 素晴らしかった

 2019924日、ヤマハホールで「伊藤亮太郎と名手たちによる弦楽アンサンブルの夕べ Vol.2」を聴いた。

 演奏は、ふだんは別々のオーケストラで活動する日本を代表する弦楽器の名手たち(伊藤亮太郎・横溝耕一・柳瀬省太・大島亮・横坂源・辻本玲)。曲目は、シューベルトの弦楽三重奏曲 第1番(伊藤・柳瀬・横坂)とブラームスの弦楽五重奏曲第1番(伊藤・横溝・柳瀬・大島・辻本)、そして、チャイコフスキーの弦楽六重奏曲「フィレンツェの思い出」。

 シューベルトの曲は第1楽章だけが完成され、未完に終わった作品だという。初めて聴いたが、とてもシューベルトらしい曲。親しみやすく魅力的で生き生きとしたメロディ。ただ、繰り返しが多くてとりとめがない。実をいうと、私はシューベルトのこの種の曲はかなり苦手。

 2曲目のブラームスが始まってほっとした。シューベルトの直後にブラームスを聴くと、もちろん三重奏曲と五重奏曲の違いはあるが、その重心の低さに改めて驚く。名手たちだけあって、とても良い演奏。音色がぴたりと合い、見事に溶け合っている。

 ただ、実をいうと、ブラームスに関しては、演奏者たちがどんなブラームス像を伝えようとしているのかよくわからなかった。第2楽章の表情についても、憂いにあふれた音楽にしたいのかそうでないのかはっきりしなかった。よくつかめないまま終わった。

 最後の「フィレンツェの思い出」は素晴らしかった。これも完璧に音が溶け合い、リズムがぴたりと合い、しかも生き生きとしたチャイコフスキーが浮かび上がってきた。あまり感傷的でもロシア的でもないチャイコフスキー。余分な思い入れは入れずにドイツ音楽のようなアプローチで演奏される。フーガ的な部分が先鋭的、重層的で見事に構築されていく。そうでありながら、もちろんとてもロマンティックで陰りがある。とても現代的なチャイコフスキーが浮かび上がってきた。

 アンコールにリヒャルト・シュトラウスの「カプリッチョ」からの弦楽六重奏曲。これも素晴らしかった。シュトラウスのこの曲は大好きな曲だが、室内楽曲として聴いたのは初めてだった。後期のシュトラウスの市全体の打つ草をとてもよく表した曲だと思う。素子れ、それを少しも力まずに自然体に演奏。素晴らしい。

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ティツィアーナ・ドゥカーティ こんなすごいソプラノが日本にいるなんて!

  2019923日、帝国ホテルプラザ オータムフェア2019 アフタヌーンオペラロビーコンサートに出かけた。出演はソプラノのティツィアーナ・ドゥカーティ。ピアノ伴奏は山口研生。本当に素晴らしい。

 第一部はイタリア歌曲から、ジョルダーニ「いとしいひとよ」、トスティ「そうなってほしい」、ビクシオ「森の小道」、デ・クルティス「わすれな草」「とてもあなたを愛している」。

 最初の曲からその澄んだ美しい声に圧倒された。弱音が美しい。人々の耳をそばだてさせる。そして徐々に盛り上がり、美しい声が響き渡る。完璧な音程。長くのばしても音程が崩れない。「忘れな草」はとりわけ素晴らしい。

 15分の休憩をはさんで後半はイタリア・オペラから『蝶々夫人』の「ある晴れた日に」、『ジャンニ・スキッキ』の「私のお父様」、最後に『アドリアーナ・ルクブルール』から「私は神のつましいしもべ」。いずれも絶品。声が伸び、広がり、響いていく。蝶々夫人が、そしてラウレッタが、アドリアーナが目の前に浮かび上がる。見事な表現力。私は何度か心が震えた。

 ティツィアーナ・ドゥカーティは世界的ソプラノ歌手だが、日本で暮らしている。詳しい事情は知らないが、これほどの素晴らしい歌を聴かせてくれるのに、あまり演奏の機会がないようだ。こんなすごいソプラノ歌手が日本にいるなんて、何という幸運だろう。それにしても幻の名歌手としか言いようがない。

 この帝国ホテルプラザのロビーコンサートも、雑音などの彼女の歌にふさわしくない環境に足を引っ張られている。そうでありながら、これだけの素晴らしい声と表現を聞かせてくれる。あまりにもったいない。もっと大ホールで思いっきり彼女の歌を、できればオペラを聴いてみたい。

 1013日には紀尾井ホールでコンサートが予定されている。楽しみだ。

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アマリリス弦楽四重奏団 圧巻のラヴェル!

 2019919日、武蔵野市民文化会館でアマリリス弦楽四重奏団の演奏会を聴いた。素晴らしかった。

 実に精妙なアンサンブル。完璧に音があっている。音色が柔らかく、ニュアンス豊か。第一ヴァイオリンのグスタフ・フリーリングハウスの弓遣いのニュアンスに驚嘆。

 曲目は最初にハイドンの弦楽四重奏曲第67番「ひばり」。ハイドンのしなやかな精神を再現するような音楽。うきうきとし、しかもユーモアに富んでいる。下手な演奏だと硬直して聞こえることがあるが、むしろ全く逆に、実に自由に聞こえる。

 圧巻だったのが次のラヴェルの弦楽四重奏曲。これがラヴェルの音だ!と納得。これまで聴いてきたラヴェルの弦楽四重奏曲は、全部間違っていたのではないかとさえ思ったのだった。精妙でしなやかで生き生きとしていて、まるで感受性豊かな生命を持った小動物のような音楽。無理やりスケール大きく作らないが、そうであるだけに小さな躍動感が察知できる。ラヴェルというのは、このような生命を持つ作曲家だったのだろうと思った。

 最後のベートーヴェン:弦楽四重奏曲 第13番は「大フーガ」のないヴァージョン。カヴァティーナも美しく、そして、それ以上に第2楽章のスケルツォと最終楽章のリズミカルな躍動は素晴らしい。偉大なるベートーヴェンというよりも、等身大で感受性豊かで傷つきやすくもしなやかなベートーヴェン。

 アンコールはハイドンの「鳥」の第4楽章。よく知らない曲だが、鳥のさえずりを模したようなアンサンブル。これも精妙なアンサンブルになり、ちょっとユーモラスでリズミカルで美しい。

 弦楽四重奏曲の魅力を堪能した。

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オペラ映像「清教徒」「ジョヴァンナ・ダルコ」「二人のフォスカリ」「沈鐘」

 締め切りの迫った原稿はなく、秋の授業のたぐいもまだ始まっていない(数日後に始まる!)ので、時間的、精神的に少し余裕がある。オペラ映像を何本かみた。簡単な感想を記す。

 

ベッリーニ 「清教徒」2018年 シュトゥットガルト州立歌劇場

 

 歌手陣はとてもいい。とりわけヒロインのエルヴィーラを歌うアナ・ドゥルロフスキは澄んだ音程に良い声でテクニックも見事。堪能できる。アルトゥーロのルネ・バルベーラもしっかりした強い声でとてもよい。外見的にはちょっと不満。リッカルドのガジム・ミシュケタも悪役ぶりがとてもいい。

 ただ気になるのは、マンリオ・ベンツィの指揮だ。第二幕からはだいぶ改善されるが、第一幕では、かなり騒々しくて慌ただしくてがさつ。歌手のことを考えずに自分勝手に突き進んでゆき、しかもオケをコントロールしきれていないように聞こえる。

 ヨッシ・ヴィーラーとセルジョ・モラビトによる演出は、さすがドイツの歌劇場というべきか、あれこれと読み替えがなされている。アルトゥーロが盲目になっていたり、エルヴィーラが狭い屋敷に閉じ込められていたり。私はベッリーニに詳しいわけではなく、そもそもこのオペラも実演でみたことはなく、映像を1、2本みたことがある程度なので、偉そうなことは言えない。この演出意図もよくわからない。が、いずれにせよ、あまり面白いと思わなかったし、演出について深く考えたい気持ちにもならなかった。

 

ヴェルディ 「二人のフォスカリ」2016年 ミラノ、スカラ座

 ヴェルディ初期のこのオペラを初めてみた。ベッリーニの後に聴くと、やはりオーケストレーションがよくできているし、歯切れがいいし、ドラマが整理されている。ハッとするような美しいメロディもたくさん出てくる。ただ、やはり中期以降のオペラに比べると、おもしろみに欠けるのは間違いない。

 フランチェスコ・フォスカリを歌うプラシド・ドミンゴがさすが。バリトンの役だが、まったく違和感がない。もちろんかつての輝きはないが、声は出ているし音程はいいし、風格はあるし。ドミンゴが出てくると、音楽がきりりとしまる。第三幕など圧巻。ヤコポ・フォスカリを歌うフランチェスコ・メーリも声が美しくて、とてもいい。ただ信じられないのは、ルクレツィアを歌うアンナ・ピロッツィ。あとになるといくらかよくなるが、それでもほかの歌手に比べるとかなり力量が落ちると思う。声は出ていないし、音程は不安定だし、演技もよくないし、外見的にもこの役に見えない。なぜこの人が使われているのだろう。

 ミケーレ・マリオッティの指揮はきびきびしていてメリハリがあって、とてもいい。アルヴィス・ヘルマニスの演出も踊りやジェスチャーがたくさん入るが、基本的にはオーソドックスで的確にまとまっている。暖色系に統一されていてとても風格がある。

 

 

ヴェルディ 「ジョヴァンナ・ダルコ」2016年 パルマ、ピロッタ宮殿ファルネーゼ劇場

 ヴェルディ初期のこのオペラを初めてみた。後のヴェルディのオペラに比べると、やはり面白みに欠ける。演出的にも、小さな丸い舞台を使っていて、あまり演劇的な動きがないために、まるでオラトリオのよう。

 ジョヴァンナを歌うのは韓国系のソプラノ、ヴィットリア・イェオ。澄んだ声で、しかもスケールの大きな歌唱。素晴らしい歌手だ。カルロ7世を歌うルチアーノ・ガンチもとてもいい。ちょっと音程の怪しいところを感じたが、よく声が伸びている。

 ラモン・テバールの指揮するオーケストラは悪くはないと思うが、私としてはとりわけ惹かれることはなかった。

 

 

レスピーギ 「沈鐘」 2016年 カリアリ歌劇場

 ハウプトマンの原作によるレスピーギ作曲のオペラ。初めてみたが、とてもおもしろい。ほかの作曲家のオペラで言えば、ストーリー的には「ルサルカ」や「ペレアスとメリザンド」を思い出す。音楽的にも「ペレアス」をイタリア語にした雰囲気とでもいうか。私はレスピーギの音楽を感動して聴いたことがなかったが、いい作曲家ではないか!と思った。

 ピエル=フランチェスコ・マエストリーニの演出もとてもおもしろい。背景に湖底が映像で示されるなど、わかりやすいし、美しい。ドナート・レンツェッティの指揮も明確でいい雰囲気。

 多くの歌手がとてもいい。ラウテンデラインを歌うヴァレンティーナ・ファルカスが澄んだ声で容姿もこの役にふさわしくかわいらしい。マグダ役のマリア・ルイージア・ボルシも必死感があっていい。魔法使いの老婆のアゴスティーナ・スミンメーロも貫禄がある。

 ただ肝心のエンリーコを歌うアンジェロ・ヴィッラーリが音程が狂いっぱなしで苦しげに、しかし大声で歌いまくる。ほとんど聴くに堪えない。なんとかならないものか。私には最悪の歌手に思えるのだが!

 

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ロイヤルオペラ「ファウスト」 グリゴーロ、ダルカンジェロ、デグーが素晴らしかった

 2019912日、東京文化会館で英国ロイヤルオペラ公演「ファウスト」をみた。

 ロイヤルオペラの日本公演は何度かみている。毎回、大きな感動をもたらしてくれた。近年では、ネトレプコのあまりに素晴らしいヴィオレッタをきいたのもロイヤルオペラ公演だった。ただ、「ファウスト」に関しては、私は日本人による小さな公演を昔みた記憶がある程度で、映像を数本みた程度。めったにみられない「ファウスト」を最高の舞台でみたいと思って出かけた。

 指揮はアントニオ・パッパーノ。メリハリがあり、うねりがあり、ドラマがあってとてもいい。ただちょっとグノーがヴェルティ的だったり、ワーグナー的であったりするが、それはそれで魅力的だ。演出はデイヴィッド・マクヴィカー。英国舞台の厚みのある演出で、マルグリートがキャバレ・ランフェール(地獄キャバレ―!)のホステスという設定になっている以外は、さほど目を引く修正はないような気がする。

 ファウストを歌うヴィットリオ・グリゴーロがやはりすごい。若返ってからの歌は、それ以前の年寄として現れた時の歌と打って変わって輝かしい強い声。後半、どんどんと歌が自在になって素晴らしい。ただちょっとフランス語らしくないのが少々不満だった。メフィストフェレスはイルデブランド・ダルカンジェロ。相変わらずの迫力。この役にふさわしい存在感。太い声も素晴らしいし、一つ一つのしぐさが決まっている。

 マルグリートのレイチェル・ウィリス=ソレンセンはヴィブラートが強くて私には言葉がほとんど聴き取れず、音程も不安定に感じた。ヴァランタンのステファン・デグーは素晴らしいと思った。律儀な兄を見事に演じ、発音の良い美しい歌を聴かせてくれた。ジーベルのジュリー・ボーリアンもしっかりした演技と歌。意図的にそうしているのかもしれないが、ちょっと地味な歌いまわしだった。「花の歌」など、もう少し華やかに歌ってもよいのではないかと思った。

 全体的に素晴らしい演奏と演出だったと思う。ただ、心の底から深く感動したかというと、それほどでもなかった。やはりグノーの「ファウスト」というオペラの限界を感じてしまう。聴かせどころの歌はたくさんある。美しい旋律もたくさん出てくる。第四幕バレエの曲もとてもおもしろい。ただ、モーツァルトやワーグナーやシュトラウスでオペラを知った人間からすると、最後まで音楽が爆発しないように思える。マルグリートの狂気に至るほどの愛の葛藤や罪の意識も悪魔との葛藤も十分に伝わらない。身を引き裂かれるような感情に聴くものを巻き込まない。この素晴らしい演奏と演出をもってしても、そうならない。

 時間的な面からも経済的な面からも、今回のロイヤルオペラ公演は1演目だけにしようと考えて、「オテロ」よりも「ファウスト」を選んだのだった(実は、私はオテロの直情径行にイライラするので、このオペラがあまり好きではない)が、やはり「オテロ」にしておけばよかったと思ったのだった。

 とはいえ、さすがの英国ロイヤルオペラ。素晴らしい上演だったことは間違いない。

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オペラ映像「サロメ」「セヴィリアの理髪師」「アルジェのイタリア女」「オリ―伯爵」

 大きな台風だった。2メートルほどの高さの庭木が6本倒れた。予想外の出費だった。ともあれ、いくつかオペラ映像をみたので、簡単な感想を書く。

 

リヒャルト・シュトラウス「サロメ」2018年 ザルツブルク、フェルゼンライトシューレ

 演奏については素晴らしいと思った。

 何よりアスミク・グリゴリアンのサロメに驚嘆。歌も輝きがあり、強さがあり、しかもスケールが大きい。容姿的にも、十分に可憐な少女に見える。ものすごいサロメ歌手が出てきたものだ。ヨカナーンのガボール・ブレッツも強さと威厳がある。ヘロデ王のジョン・ダスザック、ヘロディアスのアンナ・マリア・キウーリも見事。ナラボートがやけにいい歌手だと思って配薬表を見たら、ユリアン・プレガルディエンだった。それに、小姓役のエイヴリー・アムローもとても魅力的。

 そして何よりもフランツ・ヴェルザー=メストの指揮が素晴らしい。初めのうちは、少し勢いのない、緻密なだけの演奏だと思っていたが、そうではなかった。色気のようなものは欠けている気がするが、狂気じみた情念が渦巻いている。精密に組み立てられ、鋭利に切り込んでいく。そして、もちろんウィーンフィルの音の精妙さは言葉をなくすほど。

 ただ、ロメオ・カステルッチの演出については、私はよく理解できなかった。全員が現代の服。王と王の家来たちはスーツ姿で、マスクのように顔の部分をペンキのようなもので赤く塗っている。サロメは踊らずに、縛られた形で石に圧縮される。ヨカナーンは、最後むしろ生首の切り取られた状態で座らされているし、代わりに切り取られた馬の頭部がある。何のことやら!

 

ロッシーニ 「セヴィリャの理髪師」2018年 アレーナ・ディ・ヴェローナ

 野外劇場のライブなので、オーケストラが少し粗い。アルマヴィーヴァ伯爵役のドミトリー・コルチャックもはじめは声が出ない。フィガロ役のレオ・ヌッチもさすがに声の輝きは失われ、舞台姿は老人にしか見えない。が、ヌッチが「私は町の何でも屋」を歌い、大拍手にこたえて再びこれを歌うころから、もうそんなことはどうでもよくなる。最高に楽しい! 演奏もどんどん良くなる。バルトロのカルロ・レポーレ、バジリオのフェルッチョ・フルラネット(ヌッチと並んでこの人もすごい!)も最高。ロジーナのニーノ・マチャイゼも見事な声とおきゃんな演技を見せてくれる。ベルタのマヌエラ・クステルも愛嬌のあるアリアを聴かせてくれる。

 指揮はダニエル・オーレン。ユダヤ帽をかぶって指揮する。初めは粗いと思ったが、ダイナミックでよかった。演出はウーゴ・デ・アナ。ローラン・ペリのタイプの演出。新しい解釈を示すというより、踊りがあり、軽妙な動きがあって楽しい。オペラが終わると同時に花火があがる。それも圧巻。

 

ロッシーニ 「アルジェのイタリア女」2018年 ザルツブルク、モーツァルト劇場

 確か、NHKBSで放送された映像。全体的にレベルの高いとても楽しい上演だと思う。だが、やはり何といっても、これはチェチーリア・バルトリが素晴らしい。もしかしたら全盛期よりも衰えているのかもしれないが、それにしても圧倒的。声の威力、声のテクニック、躍動感。すべてがものすごい。ムスタファのルダール・アブドラザコフ、リンドーロのエドガルド・ロチャも言うことなし。ジャン=クリストフ・スピノジの指揮もとても躍動感がある。

 ただモーシュ・ライザーとパトリス・コーリエの演出については、とても愉快で楽しいのだが、エルヴィラのが色仕掛けで夫を惑わそうとするところなど、ちょっとえげつない気がした。とはいえ、最高に楽しい。

 

「オリー伯爵」2017年 パリ、オペラ=コミック座

 とても愉快な舞台だ。歌手陣はそろっている。オリー伯爵のフィリップ・タルボ、フォルムティエ伯爵夫人のジュリー・フックス、イゾリエのガエル・アルケス、ラゴンドのイヴ=モー・ユボー、教育係のパトリック・ボレール、みんなが超一流。とりわけ私は伯爵夫人のフックスに痺れた。場内に響く華麗な美声。声のテクニックも見事。容姿も伯爵夫人にふさわしい。美しくて気品がある。

 ルイ・ラングレの指揮も、私にわかる限りでは何の不満もない。躍動し、わくわくする演奏。ドゥニ・ポダリデスの演出もわかりやすい。観客の笑いも漏れる。

 ロッシーニの舞台は本当に楽しい!

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藤原歌劇団「ランスへの旅」 最初から最後までワクワク

 201997日、新国立劇場オペラパレスで藤原歌劇団公演「ランスへの旅」をみた。この演出で見るのは、2015年以来、二度目。前回にもまして日本のロッシーニ上演のレベルの高さを痛感した。

 指揮は園田隆一郎。オーケストラは東京フィルハーモニー交響楽団。さすがにきびきびしてわくわくした演奏。全体の構成もしっかりしていて、だらけるところがない。最初から最後までワクワク感にあふれていた。

 歌手陣も充実。よくぞこれだけの歌手をそろえられたものだ。全員がとてもよい。重唱部分もしっかりと声がそろって圧巻。ダブルキャストなのだから、この2倍の数のソリストがそろっているのだろう。配役表を見ると、別の日の歌手陣も素晴らしい人が何人もいる!

 コリンナの砂川涼子、メリベーア侯爵夫人の中島郁子、フォルヴィル伯爵夫人の佐藤美枝子、コルテーゼ夫人の山口佳子、騎士ベルフィオーレの中井亮一、リーベンスコフ伯爵の小堀勇介、ドン・プロフォンドの久保田真澄、トロンボノク男爵の谷友博がとてもよかった。その中でも、私はとりわけ第2幕初めの中島と小堀の二重唱に痺れた。世界一流のオペラハウスの上演にまったく引けを取らない歌だと思った。

 演出は松本重孝。手慣れた洒落た演出。しかも、歌手たちの演技のうまいこと! 合唱団もロッシーニのワクワク感を出してくれる。それに、容姿も含めて、日本人歌手は本当に垢抜けてきたと思った。スタイルの良い、貫禄のある男性歌手、とてもきれいな女性歌手が次々と出てくる。ただ、私としては、何人かの女性の顔がそれぞれにとても美しく、しかもとてもよく似ているために、だれがだれだかわからなくなって困った。

 そうした中、佐藤美枝子の演技はほかと一線を画して目を引いた。さすがというべきか。フォルヴィル伯爵夫人をうまく造形していたと思う。

 ロッシーニは楽しい! 

 

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エーベルレと大野+都響を楽しんだ

 201994日、サントリーホールで東京都交響楽団の定期演奏会を聴いた。指揮は大野和士。曲目は前半にヴェロニカ・エーベルレが加わってベルクのヴァイオリン協奏曲、後半はブルックナーの交響曲第9番。

 ベルクの協奏曲については、とても良い演奏。エーベルレは若い女性だが、音程がよく、切れが良い。第2楽章はまさに悲痛な音楽。それを無理やりでなく、大袈裟にがなり立てるわけでもなく、直接的に描く。オーケストラもベルク特有のロマンティックな要素と鋭利な要素を合わせ待つかのような演奏。

 ヴァイオリンのアンコールはプロコフィエフの無伴奏ヴァイオリンソナタの第2楽章。のびやかで切れが良い。とても気持ちの良い演奏。せせこましくなく、のびのびしていてとてもいい。

 後半のブルックナーもとても良い演奏だったと思う。都響サウンドと呼ぶべき澄んだ音。滞ることなく流れ、スケール大きく音楽が広まっていく。構成にも説得力がある。ところどころ大いに魂が震えた。

 とはいえ、私の好きな演奏だったかというと、そうではない。私が昔から親しんできたブルックナー演奏ではない。少しマーラー的といえるのではないか。メロディの線を重視して、音楽がずっとメロディアスに連続的に鳴らそうとする演奏だと思う。が、私の好きなのは、そして私が「ブルックナー!」と思っているのは、メロディの流れよりも構築性や和声を重視した音楽だ。だから、私の耳には、大野の演奏はなよなよしているように聞こえる。しかも低弦が弱く、どっしりした感じがない。

 今では、昔懐かしいブルックナー演奏をする指揮者は少なくなった。しなやかでメロディアスで色彩的なブルックナーが増えた。それはそれで、もちろん悪いことではないのだが、昔ながらのどっしりとして後世的なブルックナーが懐かしい。

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中国映画「胡同の理髪師」「胡同愛歌」「初恋のきた道」「活きる」

 中国とのかかわりが増えてきた。来年10月に開校を予定している日本語学院の学院長を務めることになり、これからますます中国と関わることになるだろう。

 ところが、それなのに考えてみると、中国の小説も、この30年くらい読んでいない(大学生のころ、当時岩波文庫に含まれているものをそこそこ読んだきりだ)し、中国映画もほとんどみたことがない。高名なチャン・イーモウ監督の映画さえもみたことがない。社会主義を国民に強く訴えかけている国の映画はつまらないという偏見を抱いていたため、これまで敬遠してきた。

 そんなわけでDVDを購入して、中国映画をいくつかみた。まずは、先日訪れた北京が扱われている映画、そしてチャン・イーモウ監督の映画。どれも素晴らしかった。簡単な感想を書く。

 

「胡同(フートン)の理髪師」 2006年 中国 ハスチョロー監督

 北京の什刹海(シチャーハイ)の胡同に生きる93歳の老人。訪問理髪をして一人で生活している。中国は急激な近代化に進み、昔ながらの胡同の生活が成り立たなくなり、建物の取り壊しが始まっている。仲間の老人たちが次々と世を去っていく中、静かに自分を守りながら生きていく。まるでフェルメールの絵のような生活用品の質感、その中で生きる主人公の東洋の生そのもののような表情。ドラマを盛り上げるでもなく、観客の感情を高ぶらせるわけでもなく淡々と静かに、時にユーモアを交えて老人の生活を描く。生きるというそのこと自体、そしてそれが壊されて商業主義になっていく社会が淡々と描かれる。これは素晴らしい映画。原題は「剃頭匠」。要するに、「理髪の名人」というような意味だろうか。

 

「胡同愛歌」 アン・ザンジュン監督 2003

「胡同の理髪師」をアマゾンで検索しているうちに出てきたので、これも購入してみてみた。なかなか良い映画だと思う。

 妻と離婚して、駐車場の管理人として北京の胡同で息子とつましく暮らす杜(トウ)は、近くに住む女性と恋仲になり、結婚しようとしている。ところが、離婚に合意したはずの女性の夫が刑務所から出てきて、よりを戻そうとし、女性や杜、その息子に乱暴をふるう。耐えかねて杜は男を襲って重傷を負わせ、自首して服役する。そうした話を、父と息子の心の行き違いや思いやりを含めて描く。

 毎日必死に生きているうだつの上がらない庶民の哀歓、心のつながりが見事に描かれている。ただ、情緒的な音楽などの感情移入を促すためのあれこれの手法が気になって、私は心から感動することはできなかった。

 なお、「胡同愛歌」というのは邦題であって、原題は「看車人的七月」。「駐車場管理者の七月」という意味だろうか。

 

「初恋のきた道」 チャン・イーモウ監督 

 寒村で小学校に赴任した男性教師に恋した娘(チャン・ツィー)の恋の物語。教師は文化大革命のあおりを受けて町に呼び戻されるが、娘は思い続け、ついに結ばれる。そのような恋の物語を、教師の死後、葬儀のために村に戻った息子が母とともに追憶する。現在の状況がモノクロで、過去がカラーで描かれる。

 厳しくも美しい中国寒村の四季、そこで学ぼうとする人々、文化大革命のうねり、そしてその中で繰り広げられる初々しい恋。それだけのことなのだが、本当に素晴らしい。映像の美しさもさることながら、チャン・ツィーのあまりの可愛らしさ、あまりの愛くるしさに心を奪われる。そして、もちろんチャン・イーモウ監督の演出力にも驚嘆。大自然の中で素直な心の動きを感じることができる。

 

「活きる」 チャン・イーモウ監督 1994

 1940年代に博打ですべての財産を失い、親も妻も子どもたちも路頭に迷わすことになった福貴の60年代までの半生を語る。心を入れ替えて影絵芝居の弁士として活動するが、中国内戦がおこり、文化大革命が起こる。まさに時代に翻弄されながら、必死に生きるが、息子も娘も失い、最後、妻と孫とともに平穏に暮らすことになる。

 この時代の中国で映画を作るには、このようにする必要があったのだろう。中国共産軍が伝え聞いているよりはずっと紳士的で、共産党も人民にできるだけ尽くす。文革の描き方も中途半端。しかし、全体的には大きな歴史の中で生きる人々の姿を生き生きと描いて、とても説得力がある。

 福貴の弟分でありながら、区長となって赴任する途中、こともあろうに福貴の息子を車で轢いて死なせてしまう春生、文化大革命で走資派と認定され、逃げ出すときに全財産を福貴に渡そうとする。同じく走資派に認定された医師は、福貴の娘の出産に立ち会いながら、囚われていた間に飢えていたために饅頭を7つも食べてしまって、娘の異常時に救うことができない。そのような人間の機微をつく描写にリアリティがある。

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映画「聖なる泉の少女」 魅力は感じたが、思わせぶりに鼻白んだ

 岩波ホールでジョージア、リトアニア合作映画「聖なる泉の少女」をみた。ザザ・ハルバシ監督作品。

 ジョージアには今年、訪れたばかりで思い入れがある。ジョージア映画であればぜひ見たいと思って出かけた。5分ほど前に岩波ホールに到着したが、整理番号は6番だった。私の後には誰も入場しなかったようなので、客は最後まで6人だけだったのだろう。みおわってから、やはりこれは客が入らなくてもやむを得ないな・・・と思ったのだった。

 一言で言って、詩的な映画。美しい映像。美しい自然。説明がほとんどなく、会話もほとんどないまま物語が続く。映像のちょっとしたことから想像をたくましくして読み取っていかなければならない。だから、何をしているのか、何を訴えたいのかわからない場面が連続する。とても美しい映画だとはいえ、ここまで「芸術的に」、そして「思わせぶり」にする必要はないのでは?と思ってしまう。しっかりと明示しないので、すべてが曖昧。

 きわめて散文的にストーリーをまとめると、こういうことだろう。

 ある老人がジョージアの森の聖なる泉を守っていたが、老いとともに泉を守れなくなってきた。工場ができたため、泉は枯れ、汚染されている。泉の生命を象徴する黄金の魚を生簀に入れて入れているが、その魚は健康でなくなっている。老人には息子が三人いたが、泉を守る役割を継がずに、それぞれキリスト教の神父、イスラム教の聖職者、科学者になっている。跡を継いだのが霊感を持つ少女ナーメだった。ところが、そのようなとき、工場ができて、泉が枯れる。ナーメは俗世の男性に恋をし、泉を継ぐことをためらっている。そして、最後、ナーメは湖にいって命の象徴である魚を生簀から解き放つ。ナーメはイエス・キリストのように湖面を歩いていく。

 つまり、ジョージアの国土の聖性を汚すものに対して、キリスト教もイスラム教も科学も無力である。自然に基づいた聖性のみがそれを解決する可能性を秘めているというメッセージなのだろうか。

 ただ、それだけのことに、これほど持って回って曖昧なことを描き続ける必要はないのではないかといいたくなる。あまりに説明を排し、意味ありげにすると、結局は観客にはありふれた浅いことしか伝わらないと私は思う。

 一言で言って、魅力的な部分はありながらも、不満の残る映画だった。

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