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映画「聖なる泉の少女」 魅力は感じたが、思わせぶりに鼻白んだ

 岩波ホールでジョージア、リトアニア合作映画「聖なる泉の少女」をみた。ザザ・ハルバシ監督作品。

 ジョージアには今年、訪れたばかりで思い入れがある。ジョージア映画であればぜひ見たいと思って出かけた。5分ほど前に岩波ホールに到着したが、整理番号は6番だった。私の後には誰も入場しなかったようなので、客は最後まで6人だけだったのだろう。みおわってから、やはりこれは客が入らなくてもやむを得ないな・・・と思ったのだった。

 一言で言って、詩的な映画。美しい映像。美しい自然。説明がほとんどなく、会話もほとんどないまま物語が続く。映像のちょっとしたことから想像をたくましくして読み取っていかなければならない。だから、何をしているのか、何を訴えたいのかわからない場面が連続する。とても美しい映画だとはいえ、ここまで「芸術的に」、そして「思わせぶり」にする必要はないのでは?と思ってしまう。しっかりと明示しないので、すべてが曖昧。

 きわめて散文的にストーリーをまとめると、こういうことだろう。

 ある老人がジョージアの森の聖なる泉を守っていたが、老いとともに泉を守れなくなってきた。工場ができたため、泉は枯れ、汚染されている。泉の生命を象徴する黄金の魚を生簀に入れて入れているが、その魚は健康でなくなっている。老人には息子が三人いたが、泉を守る役割を継がずに、それぞれキリスト教の神父、イスラム教の聖職者、科学者になっている。跡を継いだのが霊感を持つ少女ナーメだった。ところが、そのようなとき、工場ができて、泉が枯れる。ナーメは俗世の男性に恋をし、泉を継ぐことをためらっている。そして、最後、ナーメは湖にいって命の象徴である魚を生簀から解き放つ。ナーメはイエス・キリストのように湖面を歩いていく。

 つまり、ジョージアの国土の聖性を汚すものに対して、キリスト教もイスラム教も科学も無力である。自然に基づいた聖性のみがそれを解決する可能性を秘めているというメッセージなのだろうか。

 ただ、それだけのことに、これほど持って回って曖昧なことを描き続ける必要はないのではないかといいたくなる。あまりに説明を排し、意味ありげにすると、結局は観客にはありふれた浅いことしか伝わらないと私は思う。

 一言で言って、魅力的な部分はありながらも、不満の残る映画だった。

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