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ドーリック弦楽四重奏団 とてもおもしろい演奏だったが、感動はしなかった

 2019年1031日、紀尾井ホールでドーリック弦楽四重奏団のコンサートを聴いた。曲目は前半にハイドン作曲弦賀寿四重奏曲第38番「冗談」とブリテン作曲の弦楽四重奏曲第3番、後半にベートーヴェンの弦楽四重奏曲第13番(大フーガ付き)。

 ドーリック弦楽四重奏団は初めて聴いた。女性二人が入って、男女二人ずつになったとのこと。

 親密な演奏というべきだろう。キアロスクーロ・カルテットを聴いたときに同じように感じたのを思い出した。繊細に小さく音楽を作る。ひそやかにささやくように。同質の音、完璧なアンサンブル。しなやかでまるでひそひそばなしのよう。楽しげに、冗談を言うように。息を合わせて語り合う。

 この3曲を同じような曲としてとらえているようだ。ちょっと冗談を言うように、息をひそめ、相手の顔を見合わせ、くすくすっと語る。親密な空間ができあがる。繊細で、心の奥にしみこむ。ブリテンの曲のおもしろさには息をのんだ。美しい。もの悲しい。あまりに繊細。

 ただ、これで大フーガを演奏されると、私としては少々物足りない。スケールが小さく、牙がなく、あまりに「草食系」。こんな第13番の弦楽四重奏曲を聴いたことがなかったので、とてもおもしろかったが、感動はしなかった。もっと牙のあるベートーヴェンに私は感動する。

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トリエステ・ヴェルディ歌劇場公演「椿姫」を楽しんだ

 20191028日、武蔵野市民文化会館でトリエステ・ヴェルディ歌劇場公演「椿姫」をみた。イタリアでの日常的なレベルの公演だと思う。十分に楽しめた。

 今年の来日公演ではランカトーレが歌うと聞いていたので、期待していたのだが、武蔵野では若手中心の公演だったのだと思う。ヴィオレッタを歌ったのはジェシカ・ヌッチオという歌手だった。容姿も見栄えがして、声もきれい。ただ、第1幕・第2幕は力み気味で声のコントロールが少し甘かった。第3幕で、重い病のヴィオレッタになってから、声が透明になって素晴らしかった。初めからこのくらい力を抜いて歌うほうがよかったと思った。

 アルフレードのジュリオ・ペッリグラとジェルモンのイタロ・プロフェリーシェも同じような感じ。若手なのだと思う。声はとてもきれいなのだが、ちょっと歌が堅かったり、コントロールがほんの少し甘かったり。要するに、超一流の一歩手前にいる歌手たちなのだろう。あと少しすると、だれもが知る大歌手になるのかもしれない。

 私はむしろ、オーケストラとジャンルカ・マルティネンギの指揮と合唱に、少し物足りなさを覚えた。かなり大味で、びしりと音が決まらない。オーケストラに関しては、弦はとてもきれいだと思ったが、木管楽器がちょっと繊細さに欠ける気がした。指揮については、もう少しドラマを盛り上げたり、情感をかきたてたりしてほしいと思った。演出はきわめてオーソドックス。今まで何度も見てきたのと大差ない舞台。もう少し工夫がほしいと思う。

 というように、世界の名舞台と比べると、少々物足りないレベルの公演だった。とはいえ、これがイタリア国民が日常的にみているレベルのオペラ公演なのだろう。これをこれくらいの料金でみられるのは、やはりとてもうれしい。

 ところで、実は、終演後、私は事務室に行って抗議をしたのだった。

 端の席に座った客が、通路に大きくはみ出して荷物を置いていた。通路の半分近くを荷物が占めていた。このホールは圧倒的に高齢者が多い。杖をついて歩く人、腰の曲がっている人、家族の手助けで歩く人が大勢にいる。もしかしたら80歳以上の客が数百人来ておられるのではないかと思う。それなのに、通路に荷物があってはとても危険だ。特に、暗いうちに歩いたりしてつまずいたら、大変なことになる。しかも段差があるので、勢いがついてしまう。

 私が自分で荷物を置いている客に注意しようかと思ったが、以前、同じようなことがあったとき、係の人に言うと、「私たちが注意しますので、お客様はそのままでいてください」と言われたのを思い出した。そこで、私は休憩時間にスタッフの方にその旨を報告して、危険なので荷物をどかすように注意してほしいと伝えた。その方は年上のスタッフの方と相談していたようだったが、結局、そのままになって、最後まで荷物は置かれたままだった。

 私はこれは非常に危険だと思う。放置した人の危機管理を疑う。私はすぐ後ろの席だったので、注意してみていたが、何人もが迷惑そうに歩いていた。が、迷惑なだけならまだいい。これは危険なのだ。お年寄りがつまずいたりしたら大変なことになる。そのことを事務室に伝え、改善をお願いしたのだった。二度とこのようなことがないように願う。客の安全には細心の注意をしていただきたい。

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カザルス弦楽四重奏団 あまりにスペイン的(?)なイントネーションのベートーヴェン

 20191025日、JTアートホール アフィニスでカザルス弦楽四重奏団の演奏を聴いた。

 曲目は、前半にハイドの弦楽四重奏曲第38番「冗談」とベートーヴェンの弦楽四重奏曲第6番、後半にモーツァルトの弦楽四重奏曲第22番「プロシャ王第2番」とベートーヴェンの弦楽四重奏曲第11番「セリオーソ」。

 カザルス弦楽四重奏団が話題になっていることはもちろんよく知っていたが、私は今回、初めてこの団体を聴く。ハイドンが始まったとき、新鮮な音響にはっとした。独特の節回しだと思う。よい譬えではないが、まるでエサの周りに動物たちがよりあつまってついばんでいるような雰囲気。生き生きとして躍動がある。そして、すっとエサが終わって静まるが、また次のえさが出てくると、動物たちがまた集まって生の躍動が始まる。私はそんな風に感じた。

 ただ、はじめはとても面白いと思ったが、聴き進むうち、ずっと同じような音楽のつくりなので、ちょっと飽きてきた。

 ベートーヴェンが始まって、ますます違和感が高まった。これまで聴いてきたベートーヴェンの演奏とあまりに違う。鮮烈といえば鮮烈なのだが、私は居心地の悪さを感じる。メリハリのつけ方が異なる。メリハリのつけ方、「イントネーション」とでもいうか。構成感が希薄で、部分部分が集中的に盛り上がる。しばらくして、きっとこれは「スペイン風」なのだと思った。力み方、音楽のうねりがスペイン風な気がする。

 ベートーヴェンの「セリオーソ」に特にそれを感じた。アンサンブルは美しい。ちょっと古楽風の音響も見事。だが、私にはしばしば意味なく盛り上がっているように聞こえる。

 アンコールでファリャの「三角帽子」の一部が演奏された。まさにスペイン曲なのだが、ベートーヴェンで感じたのと同じイントネーション! やはりスペイン的イントネーションだったんだと納得。

 私の好きな演奏ではなかった。聴いているだけで、妙に疲れた。いちいち力まずに、もっと全体の構成を考えてほしいと思った。

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アッシュ・メイフェア監督の映画「第三夫人と髪飾り」 ベトナム出身の女性だからこそ作れた名作

 ベトナムで生まれ育った女流監督アッシュ・メイフェアのデビュー作だという。素晴らしい映画だと思う。心から感動した。

 19世紀の北ベトナム。14歳のメイは第三夫人として農村地域の名家に嫁ぐ。そこにはすでに長男を育てている第一夫人、女の子二人を持つ第二夫人がいる。メイも妊娠する。が、求められているのは男の子であり、女の子は余計物とみなされる。そのような状況の中での大家族の日常が描かれる。(以下、いわゆる「ネタバレ」が含まれています)。

 夫人同士の心の葛藤がある。しかし、もちろん憎みあっているわけではない。複雑な感情を抱きながら、女同士、同じ苦しみを持つものとして助け合う。秘めた性愛がある。娘たちの成長がある。自然に即したしきたりがあり、動物を殺してはそれを食すという当然の営みがある。それらが美しいベトナムの自然の中で営まれていく。まさに、自然の摂理に従って、人は大人になり、おなかは大きくなる。

 そうした中、第一夫人の息子ソンはひそかに第二夫人と情を通じている(つまり、若者が父親の第二の妻と不倫している!)ことにメイは気づく。ソンの縁談が持ち上がる。第二夫人を愛するソンは必死に断るが許されない。縁談は進められ、若い妻がやってくる。だが、ソンは初夜を拒否する。ソンの家族はもてあまして、やむをえず若い妻の父親に破談を申し入れるが、父親はそれを受け入れない。一度嫁にやった娘は傷物とみなされ、家の恥になるという。若い妻は居場所を失って自害する。このエピソードは実に衝撃的だ。

 女の子を授かったメイはその状況を黙って見つめる。そして、女として生きることに絶望する。生まれたばかりの娘を死なせようとする・・・。

 しみじみと細やかな情感をもって女の悲しみが描かれる。自然の営みの中で淡々と描かれるがゆえに客観性を持っている。女性にしか作れない映画だと思う。母性というのは、まさに自然であり、女性というのは男性よりもずっと自然に寄り添いながら生きているのだと痛感する。

 ベトナムの人だからこそ作れた映画だろう。だが、そうであるだけに普遍性を持っている。ただ男性の私が勝手に女性の悲しさを想像しているだけなので、もしかしたら、見方が浅かったり、偏っていたりするのかもしれないとは思う。

 いずれにしても、多くの人にみてほしい名作だと思う。

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波多野睦美+大萩康司 「スカボロー・フェア~歌とギターでおくる映画音楽」 澄んだ歌声

 20191023日、和光大学ポプリホール鶴川で「スカボロー・フェア~歌とギターでおくる映画音楽」を聴いた。

 メゾ・ソプラノの波多野睦美の名前はかなり前から知っていた。ヘンデルのオペラなどを何度か聴いて、素晴らしい歌手だと思っていた。ところがふとしたことで、この方が私の卒業した大分上野丘高校の後輩だと知った。坊主頭を強制され、ブラック校則でがんじがらめにされ受験競争を強制される大嫌いな高校だったが、後輩に対しては思い入れがある。聴く機会はないかと探していたら、このコンサートを見つけた。伴奏は大萩康司のギター。

 私は基本的に映画音楽は聴かないが、前半の「ムーン・リバー」や「スカボロー・フェア」「サマータイム」「マルセリーノの歌」など、私にはとても懐かしい曲のオンパレードだった。私が好きだったのはイタリア、フランスの映画だったが、もちろん私は演劇科映画専攻なので、映画はたくさんみている。ここで取り上げられた映画はすべてみた覚えがある。

 なんと美しい声。ヴィブラートの少ない澄んだ声で、音程がとてもいい。弱音が美しく、音を長くのばしても音程の揺れがなく、静かに消えていく。そのため、言葉がじかに聞き取れる。私はワーグナー、シュトラウス好きなので、この種の声をあまり聴かないのだが、私の知る限りでは、エマ・カークビーの声と歌唱に似ている。日本人の歌でこれほど澄んだ声を聴いた覚えがないほど。

 ギターもとても繊細で抒情的。それが古い時代の音楽にぴったりとマッチしている。ソロで「愛のロマンス」(要するに「禁じられた遊び」)が演奏されたが、ゆっくりと繊細に演奏され、独特の雰囲気が描き出される。

 後半はシェークスピアにかかわる音楽や同時代のダウランドの曲を中心に組み立てられたプログラムだった。英語によるシェークスピアの朗読を交えての音楽。波多野さんの歌が言葉の延長線上、詩の延長線上にあること、そして波多野さんがどれほど言葉を大切にしているかがよくわかる。さすがに、英語の発音も日本語の発音もとても美しい。アンコールの最後は「カルメン」の「ハバネラ」だったが、フランス語もとてもきれいな発音。

 ただちょっと、「サマータイム」とアンコールの「ハバネラ」が美しすぎるし、さわやかすぎる。もちろん、意識したうえでさわやかに歌っているのだと思うが、もう少しアク強く歌ってくれるほうが私の趣味ではある。そして、これらの曲よりも、もっとダウランドやパーセルの歌を歌ってほしいと思った。

 高校の先輩として言うのではない。間違いなく、素晴らしい演奏だった。日本にもエマ・カークビーのような歌手がいたんだ!と思った。

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是枝監督「真実」 虚構を通して真実が見えてくる

 学生のころ、カトリーヌ・ドヌーヴの映画を盛んにみたものだ。大ファンというわけではなかったが、ドヌーヴの映画が封切りされるごとに、なけなしのお金を使ってロードショーを見に行った。そのドヌーヴが是枝監督の映画に出演するとあれば、見ないわけにはいかない。

 ドヌーヴが演じるのは、かつての大女優であり、今でも活躍しているベテラン女優ファビエンヌ。自伝「真実」を出版したのを機会に、アメリカでシナリオライターとして活動している娘リュミール(ジュリエット・ビノシュ)が家族とともにやってくる。自分勝手で傲慢な母に翻弄され、むしろ母の犠牲になった人々に共感する娘は母親に強いわだかまりを持っていたが、それが徐々に解消していく。

 大まかに言えば、そのような話だが、そこに、ファビエンヌの姉である早逝した女優サラへの負い目がからむ。しかも、現在、ファビエンヌはサラの再来といわれている若い女優と共演する映画を撮影している。

 サラに似た女優マノンが演じているのは宇宙にいって年を取らなくなった母親の役。70歳を超したファビエンヌが20代のマノンの娘の役を演じることになる。ファビエンヌはマノンの中にサラを見るようになる。同時に、サラを母親のように慕っているリュミールもマノンの中にサラを見る。サラを核にしてファビエンヌの苦悩が見えてくる。こうして、嘘ばかり並べた自伝がきっかけとなって、女優という虚実をないまぜにして生きてきた一人の女性の真実が浮き彫りになっていく。

 そのような家庭劇が、まさしくほとんど屋内を舞台にして繰り広げられる。一人一人の心理が手に取るようにわかり、その心の奥も伝わってくる。子どもの演技も秀逸。地味ながら、まさしく秀作。

 地味な作品にならざるを得ないがゆえに、カトリーヌ・ドヌーヴ、ジュリエット・ビノシュといった世界的名女優が必要だったのだろう。このストーリーでほかの人が演じると、リアリティがなくなり、大女優を題材にしたショボイ映画になる。本物の大女優を出してこそ、地味な家庭劇が輝きを持つ。

 それにしても、サラという人物の中に、私のようなフランス映画のオールドファンは、どうしてもカトリーヌ・ドヌーヴの姉フランソワーズ・ドルレアックを思い浮かべてしまう。きっとカトリーヌもこのヒロインのように姉の影をずっと感じて生きてきたのだろう。観客はそのような「真実」を探そうとする。是枝監督はもちろん、そのような効果も狙っただろう。

 是枝ワールド。熱狂はしないが、私はこの世界が大好きだ。

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全日本オペラネットワークによる全国オペラminiフォーラム 三枝成彰オペラに感銘

 20191022日、天皇即位の日。私は川口市のリリアホール大会議室で全日本オペラネットワークによる全国オペラminiフォーラムに参加した。私もこの会員の一人。

 午前中は、杉理一氏の解説によって世界的な大歌手の秘蔵映像をみた。

 往年のイタリアオペラの大歌手たちの歌に圧倒された。私は50年前からのオペラ・ファンだが、ドイツ系のオペラが好きで、イタリアオペラにはまったく触れなかった。2000年以前にはイタリア物の実演はほとんど聴いたことがない。だが、これらの歌手たちの歌は本当にすごい。カラス、スコット、カバリエ、ノーマン(ドイツ物を得意としてので、もちろん何度も実演を聴いた)、バルツァ、ベルガンサ、ボニソルリ、パヴァロッティ、ドミンゴ、ディ・ステファーノ、ギャウロフ。

 杉さんの功績にも改めて驚く。NHKの職員としてイタリアオペラを日本人に伝え、日本のオペラ創作にも尽力し、退職後もオペラ製作・演出を精力的になさっておられる。

 午後には作曲家の三枝成彰氏においでいただいての特別講演。「忠臣蔵」「Jr.バタフライ」「KAMIKAZEー神風」などの三枝さんのオペラの映像を見ながら、その制作秘話をきいた。

 私は三枝オペラのファンなので、かなりのオペラの実演を見ているし、映像も見ている。が、改めて見ると、やはり本当に素晴らしい。調性にこだわる三枝さんの姿勢にも共感する。

 確かに、人間の真実は予定調和のない不安定の世界だろう。そうした真実を描くには無調がふさわしい。しかし、すべてのオペラが人間の真実を真正面から描く必要はない。からめ手で真実を描くのでもいい。真実からかけ離れた夢をオペラとして描くのでもいいはずだ。だったら、すべての現代オペラが無調である必要はない。当たり前のことだと思う。それを堂々と三枝さんは実行なさっている。しかも、自分で資金を集め、自分で制作までしている。

 音楽としても本当に見事。「忠臣蔵」の武士たちの合唱は何度聴いても感動する。ただ実は、「KAMIKAZEー神風」の涙っぽいところは私の趣味ではないのだが。

 どうすればウケるオペラが書けるかもちょこちょこと、笑いにまぎらせながら教えてくれた。高尚な、一部の人だけに好まれる音楽ではなく、多くの人にウケるオペラを書こうという姿勢こそが、実は尊いと思う。シュトラウスもまさにそうだった!

 私は三枝さんの最新作「狂おしき真夏の一日」は大傑作だと思う。三枝+林真理子の喜劇第二弾をみたい! 

 

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オペラ映像「セヴィリャの理髪師」「タイス」「ヴォツェック」「パサジェルカ」

 忙しいのは忙しいが、締め切りの迫った原稿がないので、マイペースで仕事をしている。合間合間にオペラ映像をみたので、簡単な感想を記す。

 ロッシーニ 「セヴィリャの理髪師」 2017年 シャンゼリゼ劇場

 予備知識なしに聴き始めたところ、古楽の音が聞こえてきたので、びっくり。楽団はル・セルクル・ドゥラルモニーで、指揮はジェレミー・ローレルというかなり若い男性。序曲を聴いた時点では、アグレッシブな演奏。ロッシーニのオペラ・ブッファのおかしみがないので、先行きが少々心配になった。

 幕が上がってからも、アグレッシブな展開。オペラ・ブッファには、どの人物も、何かしら本気ではないようなおかしみがあるものだが、この上演には、それがない。みんなが激しく歌い、激しく感情をぶつける。とりわけ、ロジーナはおきゃんというよりも、怒りっぽくて感情の起伏の激しい女(ただし、だからこそ可愛らしい!)。

 そして、音楽がどうこうという前に、ロラン・ペリーの演出にまず目を奪われる。舞台全体に五線紙や楽譜をかたどった家具が置かれている。そして、ロジーナは五線紙に閉じ込められている。考えてみれば、音楽教師ドン・バジーリオとバルトロによってロジーナは家に閉じ込められているのだから、ロジーナにしてみればそのような気分だろう。第二幕、ロジーナが解放されるとき、天井から落葉のように音符が大量に落ちてくる。そうした出来事が実にセンス良く、おしゃれに、そして辛らつに、しかも音楽とぴったり合って展開される。ロラン・ペリーの演出には毎回、圧倒させられる。おもしろい。

 歌手たちも全員とてもレベルが高い。フィガロのフローリアン・センペイは声も演技も見事。ロジーナのカトリーヌ・トロットマンは容姿も可愛らしく、歌いまわしも素晴らしい。バルトーリやディドナートのような凄味はないが、この役にふさわしい。アルマヴィーヴァ伯爵のミケーレ・アンジェリーニも超絶技巧の歌を見事に歌う。バルトロのペーター・カールマンもドン・バジーリオのロバート・グリアドウも歌の力もいいが、演技もおもしろい。ただベルタのアンヌンツィアータ・ヴェストリがこの演出では少し宙に浮いた感じがした。アグレッシブな舞台になると、ベルタは生きなくなってしまう。

 最後まで聴いて、この演出だったら、このオーケストラ、この指揮者でよかったのだと思った。演出と演奏がぴたりと合っている。個人的には、もっと余裕があっておかしみがあって、笑いがこぼれるような演出のほうが好みだが、もちろんこのようなアプローチがあってもいいだろう。

 

マスネ 「タイス」 2008年 メトロポリタン歌劇場

 かなり前にNHK-BS放送で見た記憶がある。

 ルネ・フレミングのタイスが妖艶で、声も最高に美しい。敬虔なアタナエルが心を惑わされるのも当然と思わせるだけの説得力がある。アタナエルを歌うトーマス・ハンプソン、ニシアスを歌うミヒャエル・シャーデの二人はさすがにフランス語の発音もしっかりしていて声も伸びて、演技面でも満足できる。指揮は、へスス・ロペス=コボス。特に私としては不満はない。流麗で、メリハリがある。

 ただジョン・コックスの演出のせいもあるかもしれないが、最後の場面で、アタナエルの引き裂かれるような渇望や苦悩は伝わらない。あえてメルヘンのようにして生々しい苦悩を描こうとしていないのだろうが、もう少し純朴で敬虔なアタナエルの苦しみが伝わってもよいのではないかと思った。

 

ベルク 「ヴォツェック」2017年 ザルツブルク音楽祭 モーツァルト・ハウス

 演奏、演出ともにとても満足できる。

 ヴォツェックを歌うマティアス・ゲルネは、この役にしては恰幅がよすぎて、なおかつ知的過ぎるが、やむを得ないだろう。声の面では見事としか言いようがない。マリーを歌うアスミク・グリゴリアンが鮮烈。この役のわりには若々しく、身を持ち崩している感じがないが、これはこれでよしとしよう。次々と素晴らしい声を持った容姿のきれいな女性歌手が現れるが、この人もその一人だ。

 ウィリアム・ケントリッジの演出は表現主義時代の絵画や芝居のような雰囲気。人形芝居や影絵が多用される。一つ一つの舞台の動きの意味は分からないが、全体的に雰囲気が伝わる。少年は登場せず、代わりに看護師姿の女性が少年の人形を操る。

 ウィーン・フィルを指揮するのは、ヴラディーミル・ユロフスキー。この指揮者にはとても感動したり、ちょっとがっかりしたりだったが、このオペラは素晴らしい。鋭利で不気味で、しかも十分に抒情がある。

 

ヴァインベルグ 「パサジェルカ(女旅行者)」2010年 ブレゲンツ音楽祭

 だいぶ前から話題になっていたBDだが、今回初めてみた。圧倒された。素晴らしいオペラだと思う。

 1970年代、ポーランド映画特集で、ワイダの監督作品などとともに「パサジェルカ」をみた記憶がある。撮影中にムンク監督が交通事故で死亡したため未完に終わっており、撮影されていない部分を写真とナレーションでつないでいるヴァージョンだった。だが、それでも強く惹かれた。

 このオペラは同じポスムイシの原作に基づいており、何とクルレンツィスが指揮しているというので気にはなっていたが、実は、ちょっとみるのが怖かった。なにしろ、アウシュヴィッツが舞台のオペラなのだから。が、もっと早くみるべきだった!

 まず台本も、そして音楽もとても魅力的だ。ヴァインベルグは1919年生まれで、このオペラは1968年完成されたものだという。いわゆる「現代音楽」だが、ベルクやショスタコーヴィチと同じような感じで聴くことができる。

 それにしても衝撃的だ。かつてアウシュヴィッツで働いていたリーザは、船で収容所の囚人だったマルタそっくりの女性に出会う。リーザはマルタに目をかけ、手先として使おうとしたが、マルタはそれを退ける。そのような過去のいきさつがよみがえる。映画的な緊迫感が全体を覆っている。

 リーザを歌うミケーレ・ブリート、マルタを歌うエレナ・ケレッシーディの二人の存在感が素晴らしい。ヴァルターのロベルト・サッカ、タデウスのアルトゥール・ルチンスキ、そして女囚たちがみごと。ただ、アウシュヴィッツにとらわれていたユダヤ人たちにしては、この歌手たちはやつれていないし、悲惨さがないが、それは致し方ないだろう。

 全く未知の音楽なので演奏についてどうこう言えないが、テオドール・クルレンツィスの指揮は起伏があり、魂の叫びがあってすさまじい。デイヴィット・パウントニーの演出も手際が良く、わかりやすく、しかも切迫感が伝わる。

 ただ日本語字幕がついているという記載があったが、いざかけてみると、どうやっても日本語は出てこなかった、記載ミスだろうか。

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ツィメルマンのブラームス、ピアノ四重奏曲 素晴らしい演奏だったが、室内楽の醍醐味は感じられなかった

 20191017日、サントリーホールで「クリスチャン・ツィメルマン ブラームスを弾く」を聴いた。

 演奏は、ツィメルマンのほかに、ヴァイオリンのマリシャ・ノヴァク、ヴィオラのカタジナ・ブゥドニク、チェロの岡本侑也ら若手奏者が加わって、曲目は、前半にブラームスのピアノ四重奏曲第3番、後半に第2番。

 会場に入って、いつもと雰囲気が違うことに気づいた。品のいい奥様方がたくさんおられる。ピアノの貴公子ツィンマーマンのファンの女性が大勢いるということのようだ。

 曲が始まって、その鮮烈な音に驚いた。ヴァイオリンとヴィオラは女性なのに、かなり強いアタックで、音程がよく、切れの良い音。ピアノの音も素晴らしい。ものすごい演奏だと思った。躍動感があり、繊細で、しかもブラームス特有の陰りもある。

 が、実をいうと、第1楽章、第2楽章と進んでいくうちに、少々退屈になってきた。いや確かに素晴らしい。が、室内楽の醍醐味を感じない。しばらくして気づいた。

 室内楽というのは、やはりそれぞれの楽器の奏者が自分の個性を発揮して音楽を作り、ほかの演奏者と交流しあい、時に妥協し、時に主張して作っていってこそおもしろい。つまりは、奏者たちのつばぜり合いが行われてこそ、おもしろい。ところが、今回の演奏は、大巨匠ツィメルマンと、ほかは若手奏者たち。大先生と優秀な生徒たちという構図だ。ツィメルマンが指揮をして、真面目な秀才たちがそれに従っている風になる。だから、奏者のつばぜり合いにならない。個性のぶつかり合いにならない。

 繰り返すが、素晴らしい演奏であることに違いない。アンサンブルは完璧だし、それぞれの奏者はテクニックも見事。そして、それぞれの音が実に美しい。そして、いうまでもなくツィメルマンのピアノは絶品。ただ、上に書いたことのみ不満。ないものねだりだとはわかっているが、私としては、改めて、私自身の好きな室内楽というのは、奏者たちの個性のぶつかり合いだということに気づいたのだった。

 ところで、今回はどういうわけか「会場内での写真撮影禁止、録音禁止」が普段よりも強く呼びかけられ、開演前にホール内でスマホを開くだけで係の人の注意を受けていた。もちろん、撮影禁止、録音禁止はよくわかるが、開演前にスマホを開くのを禁止する必要がなぜあるのだろう。少々行き過ぎではないかと思った。それとも何か事情があったのだろうか。

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小泉+都響のブルックナー第7番 とても人間的なブルックナー!

 20191016日、サントリーホールで東京都交響楽団の定期演奏会を聴いた。指揮は小泉和弘、曲目は前半にワーグナーの「ジークフリート牧歌」と後半にブルックナーの交響曲第7番。今日、1016日はマエストロの70回目の誕生日だという。古希を迎えるこの日にこの2曲を選んで、満を持しての演奏。とても素晴らしかった。

「ジークフリート牧歌」は楽器の透明な絡みに重点を置いた演奏だと思う。精妙に、そして緻密に組み立て、しなやかに音を鳴らす。細部にまで神経が行き届いている。

 小泉の指揮は手を振るだけの単調な動きなのだが、手のちょっとした動きが音に反映する。身体を横に向けると、それにしたがって、音色が変わる。それによって音楽が見事に構築されていく。魔法を見ているかのよう。

 ブルックナーの第7番は、それ以上に組み立てのしっかりした演奏だった。第1楽章は理性的な組み立てが表に出すぎていて、力感が不足すると思った。が、おそらくそれもマエストロの解釈だったのだろう。第2楽章でロマンティックに盛り上げて、あわてず騒がず、じっくりと宇宙的世界に入っていく。第3楽章のスケルツォで力感が増し、ダイナミックになっていく。そして、第4楽章。音が徐々に重なり合い、縦横に行きかってクライマックスに進んでいく。その理性的な展開はまさに小気味いいほど。完璧に音をコントロールしている。都響は、もちろんちょっとしたミスはあるが、全体的には素晴らしい音を出してブルックナーの世界を構築していく。フィナーレはことのほか素晴らしかった。涙が出てきた。

 徹底的に理性的なブルックナー。おどろおどろしさもあまりないし、宗教的な雰囲気もあまりない。この上なく人間的で予定調和的なブルックナー。もちろん、もっと人知を超えたような激しい音がほしいと思わないでもない。もっともっと狂気にいたるような、あるいは天へと至るような激しさがあってもいいとも思う。が、小泉のブルックナーはそれを目指さない。そして、それはそれで完成されたすばらしいブルックナーだと思う。ちょっとスケールの小さいブルックナーだが、これもブルックナーだ。もしかしたら、これこそがブルックナーかもしれない。実は、私はいたずらに咆哮するブルックナーよりも、このような知的なブルックナーのほうが好きだ。

 終演後、オーケストラによって「ハッピー・バースデー」が演奏され、マエストロに花束が渡された。私も心の中で、「誕生日おめでとう」と叫んだ。

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ティツィアーナ・ドゥカーティにまたも魅せられた!

 20191013日、紀尾井ホールで、「ティツィアーナ・ドゥカーティ&崔宗宝チャリティーコンサート~子どもたちの未来のために」を聴いた。昨日(1012日)は関東地方を台風19号が襲い、午後はほとんどの電車がストップしていた。もしかしたら、このコンサートも開かれないのではないかとひやひやしていたが、予定通り開かれた。

 ドゥカーティは日本在住のイタリア人ソプラノ歌手だ。数年前に生の声を聴いて驚嘆。いっぺんでファンになった。世界トップレベルの歌手だと思う。そのような人が日本で暮らし、しかもその名前がファンの間に知られていないなんて信じられない!

 前半は、崔が「この道」「落葉松」「アメージング・グレース」「赤とんぼ」「万里の長城」を歌い、ドゥカーティが「カーロ・ミオ・ベン」「母もなく」(『修道女アンジェリカ』より)、グノーの「アヴェ・マリア」を歌った。崔はしっかりした張りのあるバリトンの声。ドゥカーティもよく通る声だが、しかも音程がぴたりと合い、表現も豊かでとても繊細。「カーロ・ミオ・ベン」の最初の一声で音楽の世界に引き込む。弱音がとても美しい。もちろん、強い声も最高に美しく、自然にドラマティックに盛り上がっていく。

 ピアノ伴奏は山岸茂人。とても雰囲気のある伴奏で、独唱者にぴたりと寄り添って世界を作り出していく。後半、ソロによる「月の光」も色彩的で、しかも静謐さをたたえていて、とてもよかった。

 後半は、オペラ・アリア。崔が「オンブラ・マイ・フ」「もう飛ぶまいぞ、この蝶々」「おお、カルロ、お聞きください」(『ドン・カルロ』)を歌い、ドゥカーティが「憐みの聖母」(『運命の力』)、「ある晴れた日に」、「宵待ち草」「歌に生き、愛に生き」「私は神の卑しいしもべ」(『アドリアーナ・ルクヴルール』)を歌った。崔もいいが、やはり、ドゥカーティが圧倒的に素晴らしい。

 プッチーニ嫌いなのに、彼女が歌うと、「ある晴れた日に」も「歌に生き愛に生き」も魂が震える。女の喜び、悲しみ、情熱がじかに伝わる。正確な音程によるまったく無理のない発声の美しい声が魂にぐいぐいと食い込んでくる。

 素晴らしいコンサートだった。

 ただ、私がドゥカーティの紀尾井ホールでのコンサートを聴くのはこれが3回目だが、毎回、曲目に脈絡がないのが気になる。しかも、今回は、歌手がイタリアと中国の出身なのに、日本歌曲がたくさん選ばれているのも、私としてはあまりうれしくない。日本人が外国人の歌う日本歌曲を聴くと、やはりその発音が気になる。そこはやはり母国の歌を中心に歌ってほしい。

 もし私がこの二人の歌手のプログラムを作るのであれば、例えば前半にはイタリアと中国の歌を中心にして、最後に1曲か2曲だけを日本歌曲にする。そして後半はイタリア・オペラのみにする。そして、アンコールを1曲は日本歌曲、もう1曲はイタリア・オペラの二重唱にする。そしてそこに、プログラム全体が「愛」や「祈り」などのテーマで一つのつながりができるようにする。そうすれば、ストーリーができる。私はコンサートの曲目にはストーリーが必要だと思う。そうしたプログラムの工夫があったら、もっともっと盛り上がったと思う。

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テミルカーノフ+読響 ショスタコーヴィチ「バビ・ヤール」 満足した

 2019109日、サントリーホールで読売日本交響楽団の定期演奏会を聴いた。指揮はユーリ・テミルカーノフ、曲目は前半にハイドンの交響曲第94番「驚愕」、後半に、バスのピョートル・ミグノフと冨平恭平合唱指揮による新国立劇場合唱団が加わって、ショスタコーヴィチの交響曲第13番「バビ・ヤール」。テミルカーノフを聴くのは、10年以上前に、サンクト・ペテルブルク・フィルの演奏以来。多分、3度目くらい。

「驚愕」はあまりおもしろくなかった。大柄なハイドンで、切れが良いわけでも、しなやかなわけでもなく、だからといってスケールが大きいわけでもなく・・・・。何をしたいのかよくわからなかった。正直いって、どう聞いてよいのかわからなかった。私としては少々退屈した。

「バビ・ヤール」はさすがに素晴らしかった。読響のメンバーも素晴らしい。テミルカーノフはオーケストラを完全に掌握している感じ。切れの良い音がストレートに出てくる。しかも音の重なりがとても美しい。そして、ショスタコーヴィチ特有の諧謔的で含みのある強烈な音楽が展開されていく。

 エフトゥシェンコの詩に基づくので、ショスタコーヴィチの音楽のわりにはわかりやすい。意味の仕掛けが理解しやすいといえるだろう。だが、詩と音楽のつながりがよくわからないところは多々ある。ショスタコーヴィチの交響曲を聴くときにはいつものことだが、なんだかよくわからないまま、ともあれ納得させられる。

 テミルカーノフは、その点でも確信に満ちた指揮ぶりで、揺るぎがない。音がびしりと決まって、濁りがない。しかも、重厚さや深みも備えている。本当に素晴らしい音だと思う。読響も見事というしかない。

 バスのミグノフは初めのころ、ちょっと音程が不安定に感じたし、声が十分に伸びていなかったと思う。が、徐々に良くなった。それにしても、この曲を歌い続けるのはあまりに過酷だと思う。ワーグナーのヴォータンだってこれほど長時間は歌わないだろうと思う。これだけ歌えるだけでもすごい。合唱もとてもよかった。

 2回連続のショスタコーヴィチだった。満足した。

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井上+N響 ショスタコーヴィチ11番 素晴らしかったが、ちょっとマーラー風?

 2019106日、NHKホールでNHK交響楽団定期演奏会を聴いた。指揮は井上道義、曲目は前半に植松透と久保昌一のティンパニが加わって、フィリップ・グラスの2人のティンパニストと管弦楽のための競争的幻想曲と、後半にショスタコーヴィチの交響曲第11番「1905年」。とてもよかった。

 グラスの曲はもちろん初めて聴く。私は、「現代音楽」にはかなり無理解なのだが、これはそんな私にもとてもおもしろかった。まったく退屈せず、二人のティンパニストの競演をワクワクしながら聴いた。オーケストラ(コンサートマスターはライナー・キュッヒル)も見事。きっとそれを束ねる井上の指揮が的確なのだろう。ただ、最後の音はあれでよかったのだろうか?と少し気になった。ちょっとずれたような気がしたが、そもそもそんな曲なのだろうか。面白かったが、曲についてどうこう言うことはできない。

 ショスタコーヴィチのほうは正真正銘、素晴らしかった。井上の手にかかると、ショスタコーヴィチの音楽がヒステリックで鬱陶しい音楽ならない。それでいて、魂の爆発があり、ドラマがあり、ストーリーができる。実は私はまったくショスタコーヴィチ通ではないので、この曲にどのようなドラマがあるのか詳しくは知らない。引用される革命歌の元歌も知らないし、その引用にどんな意味があるのかもわからない。だが、音響に身をゆだねるだけで、ショスタコーヴィチの苦悩と闘いが伝わり、魂のストーリーらしいものをたどることができる。何度も何度も魂のこもった音に感動した。

 井上道義の指揮を聴くのは久しぶりだ。実をいうと、好んで聴く指揮者ではない。なぜかというと、やはりこのマエストロは間違いなくマーラー指揮者だと思うからだ。ショスタコーヴィチもきっとマーラーの延長線上にとらえているだろう。そして、それはきっと正しい解釈なのだと思う。だが、マーラー嫌いの私にはどうもそれが気持ち悪い。気のせいか、どうしてもマーラー臭さを感じてしまう。

 とはいえ、これほどの見事な演奏を聴くとそれはそれで納得する。もっとショスタコーヴィチを聴きたくなった。この作曲家、わからないことが多すぎる。もっと勉強しなければ、深く聴くことができない。

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新国立劇場「オネーギン」 抒情的情景としての名演!

 2019103日、新国立劇場で「オウゲニ・オネーギン」をみた。素晴らしかった。私の好きなタイプの演奏だったので、大いに興奮した。

 私はこのオペラをグランド・オペラとして演奏するのに強い抵抗を感じる。1960年代からレコードで抒情的情景としてのこのオペラに親しみ、初めて1970年代にボリショイ・オペラの来日公演に接して、あまりに豪華で大規模に上演されるのをみて、とてもがっかりしたのを覚えている。このオペラは「抒情的情景」なのであって、ものうげで抒情的な溜息のオペラなのだと私は頑なに思っている。大スペクタクル・オペラでは断じてない。

 今回の上演は、演奏も演出もまさに抒情的情景。

 私はこのオペラの第一幕が大好きだ。このオペラのものうげで夢見がちで内省的な雰囲気を決定づける。まさに抒情的情景! そうして徐々に盛り上がるが、決してチャイコフスキーの交響曲のような全身での感情表現にはならない。そこが素晴らしい。

 私はこの抒情的情景としてのオペラをしっかりと構成し、しなやかに美しく演奏してくれたアンドリー・ユルケヴィチの指揮が素晴らしいと思う。初めて聞く名前だが、見事な手腕だと思う。後半の鳴らし方も実にいい。深みがあって静かな叫びがある。東京フィルハーモニー交響楽団もまさしく抒情的で内省的な音をしっかり出していた。

 歌手陣のなかでは、タチヤーナのエフゲニア・ムラーヴェワが際立っていた。ヴィブラートの少ない澄んだ声で、音程がよく、美しく響く。手紙の場面の焦り、いら立ちもしっかりと表現している。立ち姿も美しい。オネーギンのワシリー・ラデュークは、前半、少し抑え気味に聞こえたが、最後の幕は声もよく伸びて素晴らしかった。ただ、もう少し斜に構えた拗ねた感じがないとオネーギンらしく見えない。レンスキーのパーヴェル・コルガーティンは美しい声で一途で神経質な青年を演じていた。グレーミン公爵のアレクセイ・ティホミーロフも朗々たる声で見事に歌って文句なし。

 日本人歌手たち(オリガの鳥木弥生、ラーリナの森山京子、フィリッピエヴナの竹本節子、トリケの升島唯博)も健闘していたが、やはり外国人勢とはかなり差を感じた。

 そして、いつもの通り、三澤洋史の合唱指揮による新国立劇場合唱団が素晴らしい。歌もさることながら、動きも見事。これは外国人勢にまったく引けを取らない。世界最高レベルの合唱団に成長したとつくづく思う。

 ドミトリー・ベルトマンの演出については、オリガやラーリナ、フィリッピエヴナ、トリケ、そして合唱団の動きにコミカルな要素を加えて興味深かった。大袈裟な悲劇になってしまうのを防ぐ意味があるように思った。大袈裟なスペクタクルになっていない。

 決闘の場面では、酔っぱらったトリケが介添え人として登場。オネーギンが介添え人を紹介するときのセリフも「フランス人」と変更されていた。そこまでする必要があったのか大いに疑問に思った。

 第一幕第一場が終わって音が静まったとき、観客席から叫び声が上がった。「もっとしっかり演奏しろ」というようなことを言っているようだった。オーケストラ団員をどやしつけたつもりだったのだろうか。が、オケは音を外したわけでもなかったし、アンサンブルが崩れているわけでもなかった。もしかしたら、「抒情的情景」として、静かに演奏していたのを、まるで気合が入っていないとでも思ったのではないか。いずれにせよ、上演が終わる前にこのような声をかけるのは演奏者に対しても観客に対しても、そして音楽そのものに対しても失礼な行為だと思った。

 だが、いずれにしても素晴らしい上演。久しぶりに私の理想とするタイプの「エウゲニ・オネーギン」を見ることができて幸せだった。

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私の女神だったジェシー・ノーマンが亡くなった!

 ジェシー・ノーマンが亡くなったことを夕刊で知った。

 LPからCDに切り替わったばかりのころだっただろうか。シュトラウスの「四つの最後の歌」が大好きな私は、レコード店でジェシー・ノーマンの歌うこの曲のCDを見つけて、早速購入。それまでシュヴァルツコップのこの曲を愛聴していたのだったが、あまりのおおらかでスケールの大きな歌い方に圧倒された。いっぺんにジェシー・ノーマン・ファンになった。

 その後、来日時にも「四つの最後の歌」を聴いた。たびたび来日したが、私はほぼ毎回出かけ、毎回、感動でいっぱいになった。モノオペラ「期待」も素晴らしかった。シュトラウスのリートも素晴らしかった。アンコールでよく歌ってくれる「さくら」も大好きだった。

 ある時、リサイタルからの帰り道、話している人の声が聞こえた。「ノーマンの歌を聴いても、まったく参考にならないよね。おれたちともとからまったく違うもんな」といっていた。きっと声楽関係者なのだろう。その通り、技術も圧倒的だったが、それ以前に生まれ持ったものが凡人とはまったく違っていた。太くて柔らかい美しい声。文化会館全体が揺れるような声だった。

 多分、私は彼女の歌ったほとんどすべてのCDやDVDを持っている。そして、その中でも、「四つの最後の歌」が最も好きだった。私が死んだら、葬式の際には、ジェシー・ノーマンのこの曲をかけてくれるように妻に頼んでいた。

 また一人、私の女神だった人が亡くなった。合掌。

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