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あまりにいびつなエッシェンバッハ+バルトのブラームスのピアノ協奏曲 

 2020年1月17日、NHKホールでNHK交響楽団定期公演を聴いた。

 指揮はクリストフ・エッシェンバッハ、曲目は、前半にピアノのツィモン・バルトが加わって、ブラームスのピアノ協奏曲第2番。後半にシェーンベルク編曲によるブラームスのピアノ四重奏曲 第1番。

 ピアノ協奏曲に関しては、きわめていびつな演奏だった。第一楽章冒頭、あまりに遅いテンポに驚いた。ゆっくりと抒情的に演奏。だが、ゆっくりというよりも、あまりに鈍重といいたくなる。あまりにのろい。しかも、ピアノも速くなったり遅くなったり、がんがんと鋼鉄のような指で弾いたり、優しくしなやかに弾いたり。それがゆっくりと展開されるものだから、全体が統一を持たず、むしろ瓦解しているように聞こえる。いびつな世界が展開される。それにしても、バルトは大柄で筋肉のたくましい男性。時にものすごい腕力でピアノをたたきまくる。ただ、私はそれにもあまり説得力を感じなかった。

 第2楽章も、第1楽章に輪をかけてゆっくり。第3楽章ものろかった。さすがに第4楽章は速くなるかと思ったら、最後までゆっくり。なんと、1時間を超す演奏時間だったようだ。この曲はもともと50分近い大曲だが、それにしても!

 素晴らしい箇所はあった。アッと思うほどに美しいパッセージもあった。だが、全体がこれではどうにもならない。私はただあきれて聴くばかりだった。エッシェンバッハの解釈なのか、それともバルトの解釈なのか。いずれにせよ、私は納得できない。

 後半のピアノ四重奏曲のほうは、協奏曲よりはずっとよかった。こちらのほうはかなり速いテンポで激しくドラマティックに、しかも派手に演奏。ブラームスの曲想だが、シェーンベルクのオーケストレーションはまったく異なった世界を現出させる。ブラームス特有の抑制された渋くて深いロマンティスムは影を潜め、切れの良い、ちょっとエキセントリックな音楽になっている。それはそれでおもしろい。エッシェンバッハの手際の良さを感じる。

 ただ、ブラームス好きの私からすると、「やっぱりブラームス自身のオーケストレーションのほうがいいなあ」と思わざるを得なかった。

 

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音楽」カテゴリの記事

コメント

樋口さん こんばんは。

エッシェンバッハ+バルトのブラームスにご立腹のようで、確かにテンポの遅い曲が「胃にもたれる」ことはよくあります。

僕は先週までのクラシック音楽館『アンドラーシュ・シフのベートーヴェン ピアノ協奏曲全曲演奏』に感動して何回も聴いていましたので、早くブラームス ピアノ協奏曲第2番も聴きたいと思っています。

先生、ご無沙汰していますが、お元気そうで何よりです。

投稿: kum | 2020年1月18日 (土) 19時01分

樋口裕一さん、こんばんは。

先生の返信がないので、続きを書き込みますが、1月17日の夕方、実は僕も渋谷にいました。途中、電車の中で平田オリザさんによく似た方を見かけました。

その後、僕はセルリアンタワー能楽堂で珍しく能舞台を見てきました。能と言っても能楽師の津村礼次郎さんと舞踏家の笠井叡さんとのコラボレーションです。いつも行く音楽会と違って「一期一会」の経験を一層実感しました。

土方巽さんの系譜に連なる笠井叡さんと、観世流の津村礼次郎さんの舞台はユーモラスで楽しかったですね。少しばかり「予定調和」なのは気になりましたが、もしかしたら僕の勘違いかも知れません。

投稿: kum | 2020年1月20日 (月) 23時07分

このところ、朝早く家を出て仕事場に行くという、まるでサラリーマンのような生活をしていますので、返信が遅れました。・・・いえ、「立腹」ということはないのです。ただ、あきれて途方にくれたのでした。ぜひ、放送でお聴きになってください。ほかの方がどのように感じるのか関心があります。「能」についてはまったく門外漢です。昔、一度だけ見て、全く面白さを感じず、しかも不覚にも眠りに落ちてしまい、それ以来、大きな恐れを抱いております。文楽についてはぜひ見たいと思っているのですが。

投稿: 樋口裕一 | 2020年1月21日 (火) 12時41分

樋口裕一先生。

ヨハネス・ブラームスは、<門外漢の>僕からみても素晴らしい作曲家です。完全主義で、失敗作と思えば破棄する。<なんと勿体ない>

交響曲・協奏曲は勿論、室内楽やソナタ、間奏曲も聴いた限り奇を衒ってはいませんし、変な音も出ません。クリストフ・エッシェンバッハの指揮を僕はN響とのブラームス交響曲全曲、NDRとのシューマン交響曲全集を見聞きしたくらいなので偉そうなことは言えませんが、彼はダニエル・バレンボイムや最近引退を発表したウラジーミル・アシュケナージと同じようにピアニストで指揮者ですね。少なくともブラームスの交響曲の指揮は上手だと思います。

N響の定期演奏会は原則Eテレで放送するので、楽しみにします。僕はカルロ・マリア・ジュリーニやレナード・バーンスタインほどでないにしろテンポの遅いクルト・ザンデルリンクのブラームス交響曲全集<旧盤>がだいす

投稿: kum | 2020年1月21日 (火) 21時49分

樋口裕一先生。

ヨハネス・ブラームスは、<門外漢の>僕からみても素晴らしい作曲家です。完全主義で、失敗作と思えば破棄する。<なんと勿体ない>

交響曲・協奏曲は勿論、室内楽やソナタ、間奏曲も聴いた限り奇を衒ってはいませんし、変な音も出ません。クリストフ・エッシェンバッハの指揮を僕はN響とのブラームス交響曲全曲、NDRとのシューマン交響曲全集を見聞きしたくらいなので偉そうなことは言えませんが、彼はダニエル・バレンボイムや最近引退を発表したウラジーミル・アシュケナージと同じようにピアニストで指揮者ですね。少なくともブラームスの交響曲の指揮は上手だと思います。

N響の定期演奏会は原則Eテレで放送するので、楽しみにします。僕はカルロ・マリア・ジュリーニやレナード・バーンスタインほどでないにしろテンポの遅いクルト・ザンデルリンクのブラームス交響曲全集<旧盤>が大好きなので案外合うかも知れません。

舞台公演についてですが、能舞台を使った<古典+現代劇>なので、僕は思ったほど堅くなかったと思っています。人の一生をユーモラスに描いたよい作品でした。

投稿: | 2020年1月21日 (火) 21時53分

kum 様
コメント、ありがとうございます。
ブラームスは大好きな作曲家です。そして、エッシェンバッハにつきましても、CDはもちろん、何度か実演も聴いて、とてもいい指揮者だと思っています。ピアノに関しても、CDで聴く限り、素晴らしい演奏がいくつもありますね。ですから、余計に先日の演奏が納得できずにいます。
私はブラームスの交響曲は、ヴァント・NDRやドホナーニ・クリーヴランドを愛聴しています。

投稿: 樋口裕一 | 2020年1月23日 (木) 13時29分

樋口裕一先生

クリストフ・エッシェンバッハのことはお好きなようで、<嫌うのは意外な反応>かと思っていましたので、ある意味納得しました。

僕は前にも言ったかも知れませんが、
「本と言えば小説、読書と言えば小説」
「音楽と言えばクラシック、音楽鑑賞と言えばクラシック」
という「固定観念=ステレオ=タイプ」が嫌いです。

だから、「音楽と言えばマーラー、交響曲と言えばマーラー」とか、「音楽と言えばロック、ロックと言えばザ・ビートルズ」という浅い考え方は嫌いです。

僕の周りにもマーラー好きや、ザ・ビートルズ好きはいますが、
「ツーと言えばカー」
という「先入観=固定観念」を持っていない限りは話し合います。

以前、「とおりすがり(1)」さんが、樋口裕一先生の
「すべての音楽が好きという人を認めない」
という発言を否定しましたが、少なくとも世の中には数多くの音楽があり、たとえ毎日16~20時間音楽を聴いていても、すべての曲を聴くのは不可能です。

もし仮に寿命1,000年の超人的感性の持ち主が居たとしても、音楽はともかく人間の思想をすべて理解してありとあらゆる本を読み尽くすのは不可能です。

とおりすがり(1)さんは、自分の好きな音楽が否定されたら悲しいという意味で、樋口裕一先生に進言されましたが、彼(女)の言っていることは所詮「建前」です。僕は樋口裕一先生のようにベートーヴェンの「第九」を200枚も持てませんが、僕がいくらロックが好きと言っても20万枚のCDは持てません。

それはどんな食いしん坊でも、全ての食べ物は食べられないのと一緒です。だから、以前の論争は樋口裕一先生の勝ちです。

ところで、僕は10歳になるかならないかの頃からクラシックに目覚めましたが、ほんとうに聴いたのはこの10年、否3年半です。ギュンター・ヴァントのCDはベートーヴェンとブルックナーで存じていますが、こんなに有名なコンダクターも僕は1枚も持っていません。

ギュンター・ヴァントのブラームス交響曲全集は1,980年代のスタジオ録音盤と晩年の1,990年代のライブ録音盤がありますが、どちらがお薦めですか?

投稿: kum | 2020年1月23日 (木) 21時28分

>私は「音楽なら何でも好き」という人を信用しない。その人は真剣に音楽を聴いていないと思う。

これが大学で教鞭を取っておられる方の発言かと、愕然といたしました。大学の教壇もずいぶんと低くなったものですね。

私は、クラシックの分野で、少なくともメジャーな作曲家の作品はほとんど好きか嫌いかと言えば「好き」で、楽しんで聴いております。クラシック以外はつまみ食い程度ですが、割と広範に聴いているほうだと思います。では、私は「真剣に音楽を聴いていない」のでしょうか。そんなことをあなたに断定される筋合いは無いと思うのですが?

では、あなたはどれほど「真剣」に音楽を聴かれているのでしょうか?少なくとも、ショパンに関するあなたの記述を読む限り、なんか笑っちゃうレベルで、「真剣」に聴かれていたら、あんな感想(笑)は出てこないと思うんですが・・・。

>以前、「とおりすがり(1)」さんが、樋口裕一先生の
「すべての音楽が好きという人を認めない」
という発言を否定しましたが、少なくとも世の中には数多くの音楽があり、たとえ毎日16~20時間音楽を聴いていても、すべての曲を聴くのは不可能です。

>もし仮に寿命1,000年の超人的感性の持ち主が居たとしても、音楽はともかく人間の思想をすべて理解してありとあらゆる本を読み尽くすのは不可能です。

>>メジャーな作曲家の作品はほとんど好きか嫌いかと言えば「好き」で、楽しんで聴いております。クラシック以外はつまみ食い程度ですが、割と広範に聴いているほうだと思います。

↑「ほとんど好き」とか「つまみ食い程度」とか、実は「とおりすがり」さんも音楽で取捨選択しています。

論理学には、「排中律」というものがあり、「好きか嫌いかどちらかしかない」という考え方と「プラスどちらでもない」という考え方があります。

「釈迦に説法」ではありませんが、樋口裕一先生はどちらかと言えば「排中律」がお好きなようで、僕は「どちらでもない」が大量にあります。

後はこのblogのコメントに寄せられた通り<異質なものは排除する>日本人の悪い癖が、このような論争を呼びましたけど、僕はこの論争は不毛ではないと思います。

投稿: | 2020年1月24日 (金) 17時47分

続きです。

>>演歌もカントリーもロックもプッチーニもベートーヴェンもすべて好きと言えますか。


言えるか言えないかで言えば、間違いなく「言える」という答えになります。もちろん、その時々の自分の心理状態によって、「今はロックは勘弁してほしい」と思う時もありますが、それはクラシックの大好きな作品でも同じですし。演歌に関しては好き嫌いを言えるほど積極的には聴いていませんが、ふとした瞬間に耳に入ってくる演歌に聴き入ってしまうことはよくありますね。演歌に限らず、なにかのきっかけで耳にして、もっと聴いてみたいと思って調べてCDを入手することはよくある一方、「こんな音楽を聴かされるのは勘弁してほしい」と思うことは無いです。もちろん、たとえばベートーヴェンの9曲の交響曲と同じレベルで全ての音楽を好きか?と問われれば、答えはNOになりますが・・・。少なくとも、特定の作曲家・音楽ジャンルを「嫌いだ」と意識したことはないです。


私が反発を覚えたのは、どのような判断基準であれ、「その人は真剣に音楽を聴いていない」と断定される、その一点でした。


>「作曲家に対する非難を公言するべきでない。公言した人間はみんなに非難されてしかるべきである」と言われるのでしょうか。


別に非難を公言すべきじゃないとも、公言したら非難されるべきだとも思いませんが、それをすることになにか意義があるのかな?とは思います。たとえば、ショパンの好きな人がショパンの悪口を聞かされたら、良くて「好き嫌いは人それぞれだからね」とプラマイゼロ、悪くすると相手は気を悪くするだけじゃないでしょうかね。相手がショパンを聴いた事が無い人だった場合、「ショパンって聴くまでも無い作曲家なんだ」と思ってショパンの作品に接する機会を奪ってしまうかもしれません。プラスになることってあるのでしょうか?「自分のしっかりした価値観を持つこと」が大事だったとしても、それは自分の内部で済ますなり、気心の知れた仲間内の議論で済ますのが適当なのかなとは感じます。

とおりすがり(1)さんの議論は少なくとも稠密ではない。隙間だらけだ。ただ単に自分<たち>の感情を述べているにすぎない。

ただし、樋口裕一先生の議論にも欠点がない訳ではない。僕の尊敬する永井均先生は
「対立する両者の議論を理解してはじめて一人前である。」
という主旨を言っている。

だから僕はマーラーもリヒャルト・シュトラウスも好きな人がいて一向に構わないと思います。

ウィトゲンシュタインとデリダの両者を理解できる人もいていいと思います。

投稿: | 2020年1月24日 (金) 18時08分

一つ飛ばしてしまいました。

永井均先生は「<子ども>のための哲学」の中でこう仰っている。
「つまり有効な批判をしてくれる人だけが、哲学上の友人(=)協力者なのだ。だから、真の友人を求めるかぎり、批判者を批判しつづけなければならない。」

そして大森荘蔵先生が哲学的な方で、竹田青嗣さんの批判<めいたことは>批判ではない。とも。そこで「とおりすがり()」

投稿: kum | 2020年1月24日 (金) 20時59分

一つ飛ばしてしまいました。

永井均先生は「<子ども>のための哲学」の中でこう仰っている。
「つまり有効な批判をしてくれる人だけが、哲学上の友人(=)協力者なのだ。だから、真の友人を求めるかぎり、批判者を批判しつづけなければならない。」

そして大森荘蔵先生が哲学的な方で、竹田青嗣さんの批判<めいたことは>批判ではない。とも。そこで「とおりすがり(1)」さんの議論です。

「まず、確かに言葉が過ぎた部分があったことをお詫びいたします。申し訳ありませんでした。


>音楽に関して言えば、好き嫌い、認める認めないをしっかりと持ち、その理由をしっかりと考えることです。

うーん、どうでしょうね。好きなものはともかく、「この作品・作曲家は嫌い」ということを意識してしまうと、苦手意識のようなものが自分の中で形成されてしまい、最初は苦手でも、なにかのきっかけで自分の中で宝物に変化するような機会まで遠ざけてしまうような気がしますが。いわゆる「食わず嫌い」を生んでしまうような気がします。嫌いというか、苦手・良さの判らないものを無理に聴きこんだり好きになろうとする必要も無いと思いますが・・・。


>「人間たるもの、音楽に対して好き嫌いがあって当然である。それがない人間は本当には音楽を聴いていない。音楽を聞くということは価値観と対峙することである。そうだとする、作曲家への非難を公言してしかるべきである」

いや、正直、「価値観と対峙する」なんて意識を持って音楽を聴いたことはありませんでしたので・・・。そのような意味では、「音楽を真剣に聞いていない」と言われても仕方ないのかもしれませんが。クラシックであれなんであれ、時にはBGM的に、時にはスコアと睨めっこしながら聴くというのが私のスタイルです。」

僕が永井均先生にも、樋口裕一先生にも共感するのは、「建設的批判者」を求めている点です。これに対して、「とおりすがり(1)」さんは自分<たち>の好きな作曲家が赤の他人に少しばかり貶されただけで烈火の如く怒っている。

実は僕も昔はピンク・フロイドとザ・ローリング・ストーンズが嫌いでした。

投稿: | 2020年1月24日 (金) 21時08分

樋口裕一先生

詳しく引用しているうちに長くなり、blogを汚し申し訳ありません。

投稿: kum | 2020年1月26日 (日) 19時57分

樋口裕一先生

詳しく引用しているうちに長くなり、blogを汚し申し訳ありません。

「すべての音楽が好きな人」=「聴くことができる人」は<物理的に>不可能である、と思います。

今日、僕は三鷹市芸術文化ホールに行き、クレセント・フィルハーモニーを見てきましたけど、こんなもんかという『アマチュア・オーケストラとしても期待外れの』コンサートでした。

投稿: kum | 2020年1月26日 (日) 20時02分

kum 様
コメント、ありがとうございます。
このトシになって、週に2、3日サラリーマンのような慣れない生活をすることになり、しかも原稿に追われていますので、時間が取れず、失礼しました。
ヴァントのブラームスは旧盤、新盤ともに素晴らしいと思うのですが、私が好きなのは晩年の新盤です。
私は、特に難しいことは考えておりません。私の考えは極めてシンプルです。このようなことです。
「音楽は言葉にできない思想そのものである。ある音楽を好むということは、ある思想に共感することだ。そうだとすれば、当然、相いれない思想がある。だから、大嫌いな音楽があって当然だ。すべての音楽が好きということは、自分は思想を持たない、考えを持たないということに等しいので、そのような人は音楽を深く聴いているとは私には思えない。しかし、ある種の音楽が嫌いだというのも思想の表れであるので、それもまた大事にしたい。私はベートーヴェンやワーグナーやブラームスが大好きだが、それが大嫌いという人を何よりも尊重する。そのような思想の異なる人を排除するのではなく、それを尊重して様々な価値観の人が自分の耳で音楽を聴き、それについて音楽談義をするのが楽しいし、それが楽しい音楽の聴き方だ」
ごめんなさい。私は哲学的人間ではありませんので、これ以上のことは言えそうもありません。そして、残念ながら、今、時間をかけて勉強することができずにいます。

投稿: 樋口裕一 | 2020年1月27日 (月) 11時13分

樋口裕一先生

お忙しい中、有難うございます。
僕は少なくとも、
「すべての音楽を聴くことは物理的にも不可能である。」
と思っていますので、
『「すべての音楽が好きである」と思っている人間を信用しません。』

人間は無意識のうちに好きと嫌いを区別して生きています。もし仮に、苦いコーヒーも酸味の強いコーヒーも好きな人間がいてもおかしくないと思いますが、すべてのお酒が好きとか、さらに言えば、すべての食べ物が好きという人間を僕

投稿: kum | 2020年1月27日 (月) 17時23分

樋口裕一先生

お忙しい中、有難うございます。
僕は少なくとも、
「すべての音楽を聴くことは物理的にも不可能である。」
と思っていますので、
『「すべての音楽が好きである」と思っている人間を信用しません。』

人間は無意識のうちに好きと嫌いを区別して生きています。もし仮に、苦いコーヒーも酸味の強いコーヒーも好きな人間がいてもおかしくないと思いますが、すべてのお酒が好きとか、さらに言えば、すべての食べ物が好きという人間を僕は信用しません。すべての音楽も食べ物も知っていて、それらがすべて好きである、というのは、その人の思い上がりです。

だから、ベートーヴェンとショパンが好きな人間がいても良いし、マーラーとリヒャルト・シュトラウスが好きな人間がいても良いけど、ありとあらゆる音楽が好きという人間を僕は信用しません。

昨日のコンサートは、ドビュッシーのピアノ三重奏曲、これは僕の音感の狂いがあるから批判できないけど、次のチャイコフスキーピアノ協奏曲第1番は、曲の流れや大まかな構造は掴んでいるつもり。金管も木管も音を外していて、CDは勿論以前コバケンさんの指揮する読響で聴いたときとは全然デキが違いました。

これ以上は書きたくないのでコンサートの批判や悪口は止めるが、とおりすがり(2)さんの
『下手な考え休むに似たり』
は論外。とおりすがり(1)さんの
『規律権力(具体的には同一化の論理)に基づく横並び主義』
もやはり論外です。

因みに僕が10代の頃に嫌いだったピンク・フロイドとザ・ローリング・ストーンズはその後好きになりました。でも、この歳になってマーラー嫌いは治りそうにないですね。

投稿: kum | 2020年1月27日 (月) 17時43分

樋口裕一先生

1,988年2月末から、僕は何冊かの本と巡り合いました。その中の一冊から。

まえがき
思想や知識は食べ物ではない。なくても生きていける。
しかし、食べ物のことだけを考えて暮らしているとしても、考えるという行為自体が、すでに「思想」なのだ。

これを『音楽は食べ物ではない。なくても生きていける。
しかし、音楽のことだけを考えて暮らしているとしても、考えるという行為自体がすでに「思想」なのだ。』
と置き換えると、樋口裕一先生の考え方に酷似すると思います。

この本は、栗本慎一郎さんの『鉄の処女』というタイトルの本です。僕は樋口裕一先生の音楽批評が必ずしも高級な概念に支えられているとは思いませんが、どんな高級な思想も『分析する』という行為自体が、すでに「好きなもの」と「嫌いなもの」を分けることでかり、それが詰まるところの「思想」なのである。と思います。


投稿: kum | 2020年1月29日 (水) 21時54分

kum 様
コメント、ありがとうございます。
「好きなもの」と「嫌いなもの」を分けること、それが詰まるところの「思想」なのだという点、大変共感します。
私自身のことを言えば、音楽を聴き、自分の好きな音楽と嫌いな音楽のどこに差があるのか、なぜ私の好きな音楽に無感動な人がいるのか、なぜ多くの人が感動する音楽に私は無感動、それどころか時に退屈だったり不快だったりするのか、といったことを考えて、自分の世界を作り出し、自分の思想を明確にしていったと考えています。ですから、当然のことながら、私が大嫌いな音楽を愛する人がどのような思想を持っているのか、なぜ私とまったく異なった聴き方をするのか、とても関心があり、その違いを明確にしたいと思うのです。
私はベートーヴェン、ワーグナー、ブラームス、ブルックナー、シュトラウスが大好きですが、それらが大嫌いな人やマーラーが大好きな人とぜひとも話をし、どこが違うのかをじっくり話してみたいと思うのです。それは、未知の国の文化の中で育った人と話をするのと同じくらいに楽しいことだと思います。

投稿: 樋口裕一 | 2020年1月30日 (木) 22時00分

樋口裕一先生、返信有難うございます。

僕の音楽に対する考え方は、僕の食べ物に対する考え方と基本的には一緒です。

>以前、「とおりすがり(1)」さんが、樋口裕一先生の
「すべての音楽が好きという人を認めない」
という発言を否定しましたが、少なくとも世の中には数多くの音楽があり、たとえ毎日16~20時間音楽を聴いていても、すべての曲を聴くのは不可能です。

もし仮に寿命1,000年の超人的感性の持ち主が居たとしても、音楽はともかく人間の思想をすべて理解してありとあらゆる本を読み尽くすのは不可能です。

前にも書いた通り、『すべての音楽が好き』という人間は、『』

投稿: | 2020年1月31日 (金) 16時41分

樋口裕一先生、返信有難うございます。

僕の音楽に対する考え方は、僕の食べ物に対する考え方と基本的には一緒です。

>以前、「とおりすがり(1)」さんが、樋口裕一先生の
「すべての音楽が好きという人を認めない」
という発言を否定しましたが、少なくとも世の中には数多くの音楽があり、たとえ毎日16~20時間音楽を聴いていても、すべての曲を聴くのは不可能です。

もし仮に寿命1,000年の超人的感性の持ち主が居たとしても、音楽はともかく人間の思想をすべて理解してありとあらゆる本を読み尽くすのは不可能です。

前にも書いた通り、『すべての音楽が好き』という人間は、『すべての音楽を聴くことは/か』

投稿: | 2020年1月31日 (金) 16時43分

樋口裕一先生、返信有難うございます。

僕の音楽に対する考え方は、僕の食べ物に対する考え方と基本的には一緒です。

>以前、「とおりすがり(1)」さんが、樋口裕一先生の
「すべての音楽が好きという人を認めない」
という発言を否定しましたが、少なくとも世の中には数多くの音楽があり、たとえ毎日16~20時間音楽を聴いていても、すべての曲を聴くのは不可能です。

もし仮に寿命1,000年の超人的感性の持ち主が居たとしても、音楽はともかく人間の思想をすべて理解してありとあらゆる本を読み尽くすのは不可能です。

前にも書いた通り、『すべての音楽が好き』という人間は、『すべての音楽を聴くことは/が不可能である』以上、<悪い意味での>

投稿: kum | 2020年1月31日 (金) 16時45分

樋口裕一先生、返信有難うございます。

僕の音楽に対する考え方は、僕の食べ物に対する考え方と基本的には一緒です。

>以前、「とおりすがり(1)」さんが、樋口裕一先生の
「すべての音楽が好きという人を認めない」
という発言を否定しましたが、少なくとも世の中には数多くの音楽があり、たとえ毎日16~20時間音楽を聴いていても、すべての曲を聴くのは不可能です。

もし仮に寿命1,000年の超人的感性の持ち主が居たとしても、音楽はともかく人間の思想をすべて理解してありとあらゆる本を読み尽くすのは不可能です。

前にも書いた通り、『すべての音楽が好き』という人間は、『すべての音楽を聴くことは/が不可能である』以上、<悪い意味での>ウソつきであり、信用なりません。

僕はクラシック音楽には詳しい訳ではなく、まだまだ『食わず嫌いの音楽』、例えばブルックナーの交響曲、誰の指揮でどの版を選んだら良いか分からない、も未踏の領域がありますし、20世紀のクラシックにも知らない曲がたくさんあります。

しかし、これだけははっきり言えるのは僕が、『マーラーの曲を聴くとほぼ間違いなく吐き気を催す』ということです。マーラーはわざと音程を外してまるで音痴のように振る舞っている、と。

僕はある時期まで、
『ふざけるな、グスタフ・マーラー』
と本気で思っていましたけど、その後段々と、実はそこに、なんというか『極めて歪な世界観』こそ彼の狙いであったと思うようになりました。

音楽プロデューサーのつんく♂さんは、
『作曲のポイントは、他人に「違和感を与えること」』
と言います。
何故ならば「違和感を与えると印象に残る」からです。

だから、グスタフ・マーラーは今までと全く違う音楽を作ることで、
『他人に「違和感を与え続けた」』
のである。と僕は思いました。

投稿: kum | 2020年1月31日 (金) 17時03分

樋口裕一先生

たびたび、途中で投稿してしまい申し訳ありません。もし宜しかったら、不完全な僕の投稿は「非公開」にしてください。

『プラトン以来の同一性の原理は、19世紀の半ばまで、ヨーロッパ知識人の常識であった。』

しかし、同一性の差異に対する優位は、
『「差異」を対立や否定の概念として捉えることであり、同一性と合理性は「権力」の二側面でもある。』

「差異」があると悪い。と考えることは、今でも世の中の一部を占める悪い傾向であると思います。AさんとBさんの考え方の差異が対立ではなく、肯定的に捉えたら、とおりすがり(1)さんのように、間違いや食わず嫌いに怯えることもなく、他人との生き方や考え方の差異も否定や対立ではなく、肯定的に捉えられます。

ジル・ドゥルーズの『差異と反復』即ち「反=ヘーゲル主義」は端的に言えば、これだけです。

誰かに従わなければならない。とか、誰かと同じでなければならない。とか、<必ずしも>考える必要はありません。

投稿: kum | 2020年1月31日 (金) 21時19分

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