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トリオ・アコードのベートーヴェン ピアノ三重奏曲全曲演奏 真摯な音楽!

 20203192021日、3日連続で、東京・春・音楽祭のトリオ・アコードによるベートーヴェンのピアノ三重奏曲の全曲演奏を聴いた。トリオ・アコードは、白井圭(Vn)、門脇大樹(Vc)、津田裕也(Pf)の注目されている若手演奏家の結成したグループだ。場所は旧東京音楽学校奏楽堂。

 新型コロナウイルスの影響で多くのコンサートが公演中止になっている。私自身もこれまでひと月ほどコンサートには足を向けなかった。が、さすがに我慢できなくなって、3日間、足を運んだ。

 19日はピアノ三重奏曲第1番と第5番「幽霊」を中心に演奏された。新型コロナウイルスの影響か、客はまばら。客席の5分の一も入っていなかったと思う。演奏も十分にリハーサルを行っていないようで、ただ合わせているだけの感じだった。私は少々不満を抱いた。

 20日は、ピアノ三重奏曲第2番、4番「街の歌」、「仕立てやカカドゥの主題による変奏曲とロンド」、ピアノ三重奏曲第6番だった。客は19日の2倍以上入っていたと思う。会場の半分近く埋まっているように見えた。演奏についても、やっと本領発揮だと思った。

 スケールの大きな演奏ではない。あざとさのない、きわめて誠実な音楽。「ここを強調したら、音楽が決まるのに!」と素人が考えるような箇所がたくさんあるのだが、そんな小細工はしない。誇張せずに、真摯に音楽に向かっていく。そうして集中力あふれた音楽を作り出す。だんだんとそのような音楽が作り出されるようになった。

 後半の第6番は素晴らしいと思った。ただ、それでも、私としてはちょっと合わせることに気を使いすぎているような気がしてならない。それぞれの演奏者がもっと自由であってくれないと、音楽がおもしろくならない。律儀でまじめで、少しもはみだしがなく、各人の表現がない。とりわけ、ピアノに自己主張がまったく感じられなかった。

 そして、21日。8割から9割くらい席が埋まっていた。19日、20日に比べるとかなりの客の入りだ。演奏も日に日によくなっていくのを感じた。

 前半にピアノ三重奏曲第10番と、第3番、そして後半に第7番「大公」。

 第3番がまずとても良かった。はったりのない真摯な音楽。若きベートーヴェンの、しかし十分に後年のベートーヴェンを思わせる深く重みのある音楽を、気負いもなく自然にのびのびときかせてくれる。前日に感じた不自由さも感じず、各自が自分らしく自然に弾いているのを感じた。やっと三人の息が合い、「合わせているだけ」という雰囲気ではなくなった。「大公」も素晴らしかった。だが、演奏の印象は前日と変わらない。真摯で誠実な音楽だと思う。無理にドラマティックにしないし、あざとくもしない。むしろ自然体で明確な音によって緊密な音楽を作っていくタイプだと思う。「大公」では見事にそれが実現されていた。

 これからしばらく、新型コロナウイルスのため、外国人演奏家の来日公演はほとんど期待できない。大変残念だが、やむを得ない。私としては、十分に感染に用心しながら、これからコンサートを楽しみたいと思っている。ああ、それにしてもやはりなまの音楽は素晴らしいと改めて思った。

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音楽」カテゴリの記事

コメント

樋口裕一さん、こんにちは。

アジアでの感染拡大はある程度予想されていたとはいえ、欧米での感染拡大のスピードの速さには正直驚いております。

樋口先生がお元気そうで何よりです。

僕は2月16日に調布のコンサートに行って以来コンサートにも映画にもスポーツ観戦にも行っておりません。

その昔、僕がテレビを見ていると、
「ゴルフは絶好のコンディションでプレイする人もいれば、風雨の中の最悪のコンディションでプレイする人もいる。ゴルフってとても不公平だ。だからこそゴルフは人生を象徴している。」
と戸張捷さんが言っていました。

あらゆる人間は1個の命を持って生まれて来るけど、そのそれぞれの人生が<平等>と言うことはない。だから、僕は「<薄っぺらな>平等思想」が大嫌いです。東日本大震災に遭う人もいれば、新型コロナ・ウイルス・パンデミックに遭う人もいる。助かる命もあれば、助からない命もある。もしも、あらゆる命が平等というならばこの状況はあまりにも<不条理>ではないですか?

それぞれの命が比べものにならないぐらい重たいが、自分との「比較は不可能である。」と思わない限りやっていられないじゃないですか?

僕は映画のことは全然詳しくないですが、そういうことを描いた映画を観たいですね。

観たい映画の「三島由紀夫VS東大全共闘」が観られないので、昔読んだ橋爪大三郎先生の本を再び読んでいます。

投稿: kum | 2020年4月 3日 (金) 17時05分

樋口裕一さんこんばんは。
以下はNHKへの意見です。

『こんばんは。

僕は去る1月にクリストフ・エッシェンバッハのブラームスについて電話にてお尋ねしました。すると、
「3月15日以降のプロジェクトは分かりません」
との回答でした。

しかし、いよいよ来週ブラームスのピアノ協奏曲第2番をクラシック音楽館でやります。クリストフ・エッシェンバッハのブラームスには定評があり、2,017年に交響曲を全曲取り上げたときにはブラームジアーナー?の僕には興味深く聴かせてもらいました。

だが、今日のクラシック音楽館のプログラムはよりによって「マーラー交響曲第2番『復活』」ではありませんか?

僕はグスタフ・マーラーの曲を聴くと、ほとんど胃の内容物を吐きそうになります。彼の曲は生理的に受け付けません。

『神聖』とは程遠く『俗悪』そのものです。そういう、マーラー嫌いな人間がいることをご理解願います。』

投稿: kum | 2020年4月 5日 (日) 22時29分

kum 様
コメント、ありがとうございます。
「胃の内容物を吐きそうになる」「俗悪そのもの」。まったく同感です。私もマーラーに対してまったく同じように感じます。生理的に受け付けないとしか言いようがありません。
映画につきましては、バフマン・ゴバディの作品におっしゃっておられるようなものを感じたことがあります。彼の作品「亀も空を飛ぶ」「サイの季節」は名作だと思います。このブログに感想を書いた記憶があります。

投稿: 樋口裕一 | 2020年4月 6日 (月) 23時28分

樋口裕一さん、こんばんは。

僕の父は生前、僕が
「自民党と社会党・共産党って対立しているんじゃないの?」
と訊くと
「馴れ合いだ。対立なんてしていない。」
と答えました。まだ小学生であった僕は腑に落ちませんでしたが、後に
「国会対策委員長同士で根回ししている」
ことを知ると、国会は<プロレス>みたいなものである、と思うようになりました。

永井均さんの最も優しい哲学書、「子どものための哲学対話」には、
「(そもそも)対立っていうのは、ほとんど前提を共有しているもののあいだでしか、起こらない」
と書かれ、白と黒が<色という仲間>でしか対立できないように、左翼と右翼も<政治の中の対立>に過ぎない、と仰っています。

さらにそれはベートーヴェンの交響曲の中のフルトヴェングラーの指揮かカラヤンの指揮か?という対立でしかないかとも。

僕は、基本的に自由人なので、社会主義者よりは保守的、ファシストよりはリベラルかとは思いますが、権力は、政治権力も規律権力<フーコー>も、管理権力<ドゥルーズ>も嫌いです。

しかし、政治を行う為には租税を徴収しなければなりませんし、人々の自由も無制限に認めるわけには行きません。例えば、学校に行かない自由とか自動車の速度規制をしなくても良い自由とかを。

だから、普段国会で議論されていることはマスメディアの言うような
「真っ向から対立して議論している」
のではなく、敢えて微細な差異を大きく捉えているのである、と思います。

僕の中にも政治家の好き嫌いはありますが、それよりも長年読まされて来てしまったステレオ=タイプの「朝日新聞」が嫌いです。それでも、「読書」欄のように役に立った記事もありましたが。

投稿: kum | 2020年4月 7日 (火) 22時22分

続きです。

ファシストは左右の両権力にいる証左として、以下のreviewを掲載します。1,968年からフランスの大学生は多くを学んだが、日本の大学生は何を学んだのであろう?

僕は、「三島由紀夫VS東大全共闘」を見に行くことはできませんでした。だからこそ、この時代のことは一層知りたいのです。以下の『』までがreviewです。

ドゥルーズの渾身のクリティカルヒットの一冊です。
2016年1月19日に日本でレビュー済み
形式: 文庫


 『まず、この近代以降の哲学の書物の中でも最も重要な一冊ともいえる本であるこの本の「前提」を説明します。それなしには、まったくもって、「何が書かれているか」すらわからないと思うからです。そして、その前提がこの本を読む時には重要になります。
この本は「ファシズム」についての本です。そして、「唯一無二の正しい真理」が書かれている本ではない、ということです。ドゥルーズの言う「ファシズム」とは、何もナチスとヒトラーだけのことを指すわけではなく、「テレビを見て、ボーッと会社や役所に通うだけのシステム人間」や「邪教を妄信する人」「学問と権威を作り出し、人々を洗脳しようとする人々」「システムに従ってしまうだけの人々」「反逆すると見せかけて、党を建設し、新たな権力を作り出してしまう人々」など、あらゆる人間の精神形態・思考形態に附随してしまう困った「超越的」な特徴のことです。
 この世界では、あらゆる新しく、生まれてくる人間にとっての問題は、勝つことが難しい「父、システム、権力」に、いかに新しく生まれてくる子が打ち勝つか、ということです。極論をいえば、キリスト教もイスラム教も仏教も共産主義も、近代思想も、「この問題」が原点にあります。
 ジル・ドゥルーズは、ヒューム、ニーチェ、スピノザ、ベルクソン、カントという近代哲学を丹念に独自に読み解き、「自分のオリジナルの概念」を作り出すことは、それまではそんなにない哲学者でした。どちらかといえば、「逃げること」を善しとするタイプの「大学の先生的」な「消極的な人」です。
 しかし、「1968年」はそんなドゥルーズをも変えました。パリ大学を中心とする世界の学生中心の革命運動の火と闘争の中で、その思考を書物に残そうとしました。その最大の「落とし子」がこの「アンチ・オイディプス」です。そして、それは当時流行だった精神分析という「新しい権威学者たち」に向けられました。権威的な精神分析をフルボッコにするために、温厚な哲学青年が怒ったわけです。

『アンチ・オイディプス』は、日本語では極めて難解すぎるような言葉にも思えます。
しかし、ドゥルーズの言った通り、この本は「道具」として、「使えば良い」のです。「凄い哲学」や「現代思想」ではなく「思考の実践道具」にすればいい。 「この本のこの箇所が正しい!」と「権威づけ」されないために、ドゥルーズはあえて「機械」や「脱領土化」「スキゾ分析」などの、「簡単に理解されにくい用語」で書きました。「こうこうこうなるから、こうである」という言い方を避けるためです。
いっぱいこの本から、取っちゃって下さい。大丈夫です。ファシズムには引用できないように、しっかりとこの本は、創られています。「読むだけ」では意味がない本なのです。
この書物は、どちらかといえば、(直接的には)「フロイト」(だけれど)、それよりも「ヘーゲル」をボッコボコのフルボッコにするための本です。ドゥルーズは「世界はこうでなければいけない!」「家庭とは、父親というものは、こういうものが正しい!」「近代哲学とは、こうでなければならない!」という「権威」や「西洋」が嫌いなのでしょう。私も同感です。
そのような全ての「オイディプス的なもの」に、「アンチ」を突きつけている一冊です。
ぜひ読んでみて下さい。』

柄谷行人さんはもちろん橋爪大三郎さんもドゥルーズ派ではないし、その点、蓮實重彦さん、宇野邦一さん、財津理さん、浅田彰さんとは違います。

最近は僕も、放っておいた千葉雅也さんと国分功一郎さんの議論にも再び関心を持つようになりました。

内容は「自閉症スペクトラムとコミュニケーション障害をドゥルーズ的に読むとどうなるか?」というまとまりのない議論ですが、一方ではクラシック音楽の特にブラームスが好きという保守的な僕も存在するのです。

長文の引用失礼しました。

投稿: kum | 2020年4月 7日 (火) 23時40分

kum 様
私は、芸術愛好者タイプの人間でして、まったくもって哲学的人間ではありません。大学院生時代には、フーコーもドゥルーズもデリダもクリステヴァも読みましたが、果たしてどのくらい身になっているか! ですから、どうお答えしてよいのかわからずにいます。
kum さんからのコメントを読みますと、久しぶりにドゥルーズなどを読みたい気持ちになるのですが、いざ読み始めると、しばらくその種の文章から離れ、しかもトシを取ってしまって頭が鈍くなっている自分を発見します。ご容赦ください。

投稿: 樋口裕一 | 2020年4月 9日 (木) 11時06分

樋口裕一さん、こんにちは。

陰鬱な日々が続く中にも、一筋の光明がみえたら良いですね。僕は、親しい人には
「フーコーやドゥルーズを咀嚼して伝えます」が、それは難解な言葉で人々を煙に巻く訳では当然なく、主に<権力論>と<ファシズム論>のために書いたり、話したりします。

誤解を恐れずに言うとフーコーは、『英語版・アンチ・エディプス』の序文で繰り返し、
『ファシズムを警戒せよ』
と語ります。それも
『ヒトラーとムッソリーニのファシズムだけではなく、われわれの頭のなかに、われわれの日常行動のなかにあるファシズムを警戒せよ。』
と語ります。ファシズムは、僕の見解では右だけではなく、上下前後左右あらゆる方向から現れます。だから、先日鷲田清一さんの紹介した平田オリザさんの発言が、所謂「<右の>ファシズムげんて」

投稿: kum | 2020年4月10日 (金) 16時26分

樋口裕一さん、こんにちは。

陰鬱な日々が続く中にも、一筋の光明がみえたら良いですね。僕は、親しい人には
「フーコーやドゥルーズを咀嚼して伝えます」が、それは難解な言葉で人々を煙に巻く訳では当然なく、主に<権力論>と<ファシズム論>のために書いたり、話したりします。

誤解を恐れずに言うとフーコーは、『英語版・アンチ・エディプス』の序文で繰り返し、
『ファシズムを警戒せよ』
と語ります。それも
『ヒトラーとムッソリーニのファシズムだけではなく、われわれの頭のなかに、われわれの日常行動のなかにあるファシズムを警戒せよ。』
と語ります。ファシズムは、僕の見解では右だけではなく、上下前後左右あらゆる方向から現れます。だから、先日鷲田清一さんの紹介した平田オリザさんの発言が、所謂「<右の>ファシズム限定」であることには、がっかりしました。

ドゥルーズ=ガタリの「アンチ・オイディプス」は、反=ファシズムの書なのです。

投稿: kum | 2020年4月10日 (金) 16時28分

樋口裕一さん、こんばんは。

僕は、このコロナ危機に於いて
『ファシズムの概念』
を勘違いしている人々<ある意味「輩」というべきか?>の多さに呆れています。日本人には今もれっきとした『同調圧力』があり、それは詰まるところ『同一性(ファシズム)』に繋がると思います。

しかし、そのことを証明しようとすると、自分自身が『ファシズム』に陥ってしまいます。この『自己言及的パラドックス』は、僕の論理構成力では如何とも解決し難いです。

そのため、権威主義的でも哲学者の文章を引用しました。しかし、ここから先は僕の考えです。『歴史は繰り返す。ただし、全く違った形で。』とは僕の持論です。だから、朝日新聞が大昔から<狼少年>のように
『いつか来た道』
と言って第二次世界大戦の国家主義にこの国が舞い戻る可能性は低く、むしろ『日本国憲法は未来永劫変えない。』と言っている人たちが無警戒の分、新たなファシズムに陥る可能性は低くない、と思います。

何故なら、『同一性=根拠』は、ファシズムに陥ることが多いからです。もちろん、僕の中にも『ファシズムの心』は存在します。だから、僕は我が心のファシズムを叩き出すようにしています。

フーコーやドゥルーズは僕の心の洗浄液です。

樋口裕一さんから見ても、もちろん僕から見ても難解な哲学を<使用する>にはそれなりの理由があります。

ところで、明後日はいよいよブラームスのピアノ協奏曲第2番ですね。

投稿: kum | 2020年4月10日 (金) 22時50分

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