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映画「イーダ」「雪の轍」「狂った夜」「グラディーヴァ マラケシュの裸婦」

 岡江久美子さんが亡くなって、とても残念な気持ちでいっぱいだ。好きな女優さんだった。合掌。いよいよ新型コロナウイルスの恐怖が近づいてきた気がする。

 そんな中で、なるべく外に出ず、自宅で何本か映画をみた。簡単な感想を記す。

 

「イーダ」 2013年 パヴェウ・パヴリコフスキ監督

 1962年のポーランドを舞台にしたモノクロ映画。しっとりとした美術品のような映像。説明のほとんどない映像によって静謐な中に悲劇が浮かび上がる。アカデミー賞外国語映画賞受賞作品。

 修道院で育てられた孤児の少女アンナは修道女になる前、唯一の肉親である叔母に会うことを勧められる。会ってみると、叔母はアンナが実はユダヤ人であり、ナチスの時代に虐殺された家族の生き残りだと伝える。二人はアンナの両親の住んでいた家や墓、虐殺の場所をめぐり始める。男あさりをし、酒やたばこに溺れる叔母に対してアンナは嫌悪を覚えているが、叔母の息子もアンナの両親らとともに殺されていたことを知る。そして、二人は家族を殺した男の証言をきく。耐えきれなくなった叔母は自殺をする。アンナは叔母の服を着て、いきずりの誠実な青年と体を重ね、酒とたばこをたしなむが、最後、修道女に戻るために確固として修道院に戻る。

 キリスト教の神を信じて育ってしまったユダヤの少女が、神なき残虐な行為と、その残虐行為の犠牲になって苦しむ人間の状況を知るが、信仰の中に踏みとどまる。そんな風にまとめられるだろう。揺らぎながら神を信じようとするがゆえに、強い信仰を持つことができる。現代に生きるまだ若い監督パヴリコフスキのメッセージなのだろう。

 とても良い映画だったが、ちょっと気真面目過ぎて、私としては息苦しかった。

 

「雪の轍」 2014年 ヌリ・ビルゲ・ジェイラン監督

「読まれなかった小説」などで知られるトルコの巨匠ジェイランの3時間を超す大作。カッパドキアでホテルを営むアイドゥンは元俳優で地元新聞にコラムを書いている。本人はまっとうに正しく生きているつもりだが、妻とも妹とも地域の人々ともうまくいかない。傲慢で押しつけがましいとみなされている。逃げるようにして家を出て近くの村の友人の家で夜を過ごす。そこで本音で語り合い、翌日、雪の中で狩りをしてウサギを撃つ。新たな考えを見つけて家に帰る。

 大きな出来事はない。アイドゥンと妹、妻、友人たちとの間で長い議論がなされる。リアルで、いかにもありそうな議論。少し前まで、私もこんな議論を友人や家族としていた気がする。アイドゥンの語るのは正論だが、人の痛み、弱さを十分に考慮していない。だからといって、妹や妻が正しいかというと、この人たちもまたあまりに無邪気だったり、自分で気づかずに他人を傷つけていたり。誰もが悪くない。誰もがそれなりに正しい。しかし、みんなが少しずつ他人への理解を欠いているために不調和が生じる。なるほど、これが人生。

 カッパドキアの圧倒的な風景の中で等身大の人間ドラマがリアルにさらされる。映像の存在感、役者たちの存在感によって、まったく退屈せずにみることができた。シューベルトのピアノ・ソナタ第20番の第2楽章がしばしば聞こえてくる。アイドゥンの寂寞が伝わってくる。カンヌ映画祭のパルム・ドール受賞作。とても良い映画だと思うが、とびきりの名作かというと、それほどとは思わなかった。

 

「狂った夜」 1959年 マウロ・ボロニーニ監督

 パゾリーニ原作の中編小説をボロニーニが映画化したもの。パゾリーニがシナリオを書いている。こののち、パゾリーニは映画の世界に本格的に入っていく。学生時代、大のパゾリーニ・ファンだった私は米川良夫先生の訳された原作を読んでいたく感動した覚えがある。ただ、この映画をみたことがあるつもりでいたが、どうも初めてのような気がする。原作を読んで、勝手に映画もみたと思い込んでいたようだ。

 ローマの下町に暮らす二人のチンピラ、ルッジェーロ(ローラン・テルズィエフ)とシンチローネ(ジャン・クロード・ブリアリ)は盗んだライフルを売りさばいた後、金持ちの家に流れ込むが、そこで仲間の一人が大金を盗んでしまう。金持ちの家の娘(ミレーヌ・ドモンジョ)と親しくなったルッジェーロは金を返そうとするが、シンチローネがその金を奪って勝手に使ってしまう。ルッジェーロはそれを追いかけ、取り戻すが、もはや金を返す気はなくして、別の女性とともに意味のない食事や酒に浪費して、一日で使い切ってしまう。

 まさしく初期パゾリーニの世界。純情なところがあるが、平気で人を裏切り、暴力をふるい、他人をくいものにする若者たち。それを感傷もなく、荒々しくクールに描く。空回りする生。無軌道で目的がなく、刹那的に暴力的に生きる若者の性の爆発。だが、そこに生きるものへの賛歌があり、貧しくも底辺で生きる人たちへの愛情がある。この映画はそれを見事に描いている。

 ただ、のちにパゾリーニ自身が映画化した「アッカットーネ」などと違って、俳優のすべてが美男美女。こんな美男美女なら、貧しい生活から抜け出す方法はいくらでもあるだろうと、やはり思ってしまう。リアリティを感じない。きっと、そんなことがあって、パゾリーニも自分で映画を作り始めたのだろう。

 とはいえ、とてもいい映画だと思った。

 

「グラディーヴァ マラケシュの裸婦」 2006年 アラン・ロブ=グリエ監督

 学生のころ、ロブ=グリエの小説をたくさん読んだ。1970年代後半だったと思うが、日仏会館だったかアテネ・フランセだったかで特集が組まれて、ロブ=グリエの監督した映画を数本みた記憶がある(もしかしたら、字幕なしだったかもしれない)。面白い映画も含まれていた。

 ただ、実はロブ=グリエの小説や映画が好きというわけではなかった。小説では、「消しゴム」と「覗く人」と「迷路の中で」はおもしろいと思ったが。「快楽の館」以降の作品はそうは思わなかった。

 そして、そのまま45年ほどが過ぎ、ロブ=グリエにはほとんど触れずに現在になった。今回、この映画を見て、なるほどこれが「快楽の館」の世界だったのか!と45年ぶりに腑に落ちる気がした。いや、「消しゴム」や「覗く人」や「迷路の中で」も、実はこのような世界を描いていたのかもしれないと思った。

 ドラクロワ研究者ジョン・ロック(ジェームス・ウィルビー)はモロッコのマラケシュで現地の女性(ダニーヴェリッシモ)を性奴隷のようにして暮らしているが、ある日、ブロンドの美女(アリエル・ドンバール)を見かけ、あとを追って不思議な館に入り込み、現実と虚構、現在と過去の入り混じった世界を体験する。その美女はドラクロワの愛人だったとされるグラディーヴァの幻影のようでもあり、それを演じる女優のようでもあり、その双子のようでもある。想像が想像を呼び、エロスと拷問の世界に入り込む。最後、「蝶々夫人」のオペラをかけて現地女性はピストル自殺をする。現地妻でいることへの悲しみということか。

 ストーリーを追うことに意味があるとは思えない。様々な仕掛けがあるにせよ、基本的には世界が不確定になり、脳内のエロティックなイメージが展開していくことそのものを味わえばよいのだと思う。確かに、私の頭の中もこのようなエロティックで残虐で意味不明のイメージがうごめいている。このような世界を小説で読むと、意味を追うことができないので、退屈し、先に進むのがつらくなるが、映画だと退屈せずに見てしまう。男の私としては、たくさんの女性の裸身はとても魅力的でもある。

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オペラ映像「アニェーゼ」「ボルゴーニャのエンリーコ」「運命の力」

 緊急事態宣言が出てから2週間。病院の集団感染が伝えられている。医療崩壊が起こらないのか、そもそも前からわかっていたはずなのに、医療その他の面で準備できていなかったのか。不安が高まる。不安は尽きないが、私としては、自宅で粛々と仕事をし、合間合間に芸術を楽しむしかない。そんな中、オペラ映像をみたので、簡単な感想を記す。

 

パエール 「アニェーゼ」 2019年 トリノ、レッジョ劇場

 パエールは1771年、つまりベートーヴェンの翌年に生まれたイタリアの作曲家。「モーツァルトとロッシーニの間をつなぐオペラ作曲家」だという。私は、作曲家の名前も、この「アネェーゼ」というオペラも初めて知った。

 確かに、モーツァルトやロッシーニと雰囲気が似ている。第一幕を見ているうちには、「モーツァルトとロッシーニを足して3で割って、そこから天才性を取り除いたような音楽だ」と思っていた。快活で耳当たりの良い音楽が続く。ただ、あまり魅力的な音楽ではないと感じていた。

 が、第二幕になってがぜんおもしろくなった。モーツァルトともロッシーニとも異なる、この作曲家特有の生き生きとした音楽が聞こえてきた。確かに二人の大天才には劣るかもしれないが、とても楽しいオペラ。まったく退屈せずに、最後まで楽しんだ。

 最愛の娘アニェーゼが恋人エルネストと駆け落ちしてしまったため、父親ウベルトは狂気に陥り、「娘は死んでしまった」と思い込んでいる。アニェーゼは娘を産んだもののエルエネストに捨てられ、実家に戻るが、娘が死んだと思い込んでいる父はアニェーゼを娘と気づかない。周囲の人たちの努力によってやっと父は正気を取り戻し、恋人エルベストも後悔してアニェーゼに元に戻って、めでたしめでたしでオペラは終わる。

 演奏も素晴らしい。すべての役がしっかりした声で、演技もうまいし、まさに堂に入っている。とりわけウベルト伯爵のマルクス・ウェルバ、アニェーゼのマリア・レイ=ジョリー、エルネストのエドガルド・ロチャが素晴らしい。ディエゴ・ファソリスの指揮によるトリノ・レッジョ劇場管弦楽団も生き生きしていて文句なし。レオ・ムスカートの演出も、色彩的で楽しくて、わかりやすく躍動的。

 

ドニゼッティ 「ボルゴーニャのエンリーコ」(アンダース・ヴィクルントによる比較校訂版) 2018年 ベルガモ、ソシアーレ劇場(ライヴ)

 

 ドニゼッティ21歳の作だという。先輩であるロッシーニの若い時期の作品に、やはりよく似ている。音楽はメリハリがあり生き生きとして楽しい。

 ストーリー的には、かなり無理がある。エンリーコ(メゾ・ソプラノで歌われる)は王の息子だが、王が殺害されたため、身分を偽って育てられている。一方、王を殺害したグイードはその後、暴虐の限りを尽くし、エンリーコと愛を交わしているエリーザと婚礼を挙げようとしている。エンリーコは立ち上がり、エリーザを奪い返し、民衆の助けによってグイードを追い払う。

 エンリーコ役のアンナ・ボニタティブスが素晴らしい。途中、ちょっと音程が不安定に感じるところもあるが、最後の独唱は言葉をなくす凄さ。声の勢いもアジリータの技巧も圧倒的。エリーザのソニア・ガナッシ、ジルベルトのルカ・ティットートはさすがの円熟。声は伸びているし芸達者。グイードのレヴィ・セクガパーネ(アフリカ系のテノール)は美しい高音を出すが、発声が不安定。あと少しの鍛錬が必要だと思う。

 アレッサンドロ・デ・マルキの指揮だが、オーケストラの精度が高くないので、生き生きとしたリズムなのだが、少しもたついて聞こえる。

 演出はシルヴィア・パオリ。舞台の中に、もう一つ舞台が作られ、劇中劇という形になっている。ストーリーがあまりに他愛がなくプリミティブなので、あえてこのような方法をとったのだろう。もしみんなが大真面目にこのストーリーを演じたら、確かにリアリティをなくして観客は白けてしまうだろう。劇中劇にしたために、面白く、舞台から距離を置いてみることができる。とてもセンスのいい演出だと思った。

 全体的に、とても楽しめた。ドニゼッティは、イタリアで人気のわりに日本では軽んじられている。私も大作曲家だと思っているわけではないが、愛すべきオペラ作曲家だと思う

 

「運命の力」 2019年 英国ロイヤルオペラ

 NHK/BSで放送されたものをみた。目くるめくような大スターたちの饗宴。何しろ、レオノーラがアンナ・ネトレプコ、ドン・アルヴァーロがヨナス・カウフマン。その二人だけでもアッと驚くのに、ドン・カルロがリュドヴィク・テジエ、プレチオシッラがヴェロニカ・シメオーニ、グァルディアーノ神父がフェルッチョ・フルラネット、そして、なんとカラトラーヴァ侯爵がロバート・ロイド、フラ・メリトーネがアレッサンドロ・コルベッリ、そしてクーラがロベルタ・アレクサンダー。昔の大スターまでが勢ぞろい。しかも、みんなが圧倒的な声を聞かせてくれている。

 ただでも話がドラマティックなので、もうそれ以上音楽でドラマティックにしなくてもいいと思うのだが、パッパーノの指揮がいやがうえにもドラマを盛り上げる。クリストフ・ロイの演出も、リアリティを重視したもので、説得力があった。ともかく、これ以上は考えられない上演だと思った。

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東京シティ・フィルの「緊急支援のお願い」

 Enoの音楽日記(https://blog.goo.ne.jp/eno1102)を読んで、東京シティ・フィルの「緊急支援のお願い」について知った。

 東京シティ・フィルは、敬愛するマエストロ飯守泰次郎が常任指揮者の時代、私はワーグナー、ブルックナーのコンサートにしばしば通ったものだ。大いに感動させていただいた。

 そのシティ・フィルが、新型コロナウイルスの影響で窮地に陥っているらしい。おそらく、日本中の、そして世界中の音楽家やコンサートにかかわる人たちが、現在、演奏活動を継続できず、それどころか日々の生活もままならなくなっていると思われる。東京シティ・フィルはきっと在京のプロのオーケストラの中でも特に経営状態が厳しい団体の一つだろう。力になれるというほどではないが、及ばずながら私も支援にほんの少しだけ協力させていただいた。

 自由席券の購入という形での応援募金なので、抵抗なく応じることができる。多くの人がほんの少しずつであれ、このような形の支援をすることが、日本のクラシック音楽文化を維持することにつながると思う。

 

 【緊急支援のお願い】東京シティ・フィル応援募金のお願いhttps://www.cityphil.jp/news/detail.php?id=149

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再びロッセリーニの映画「イタリア旅行」「不安」「火刑台上のジャンヌ・ダルク」「インディア」

 緊急事態宣言が全国に発出された。いよいよ正念場。何とか医療崩壊を起こさず、日本がニューヨークのようにならずに無事に収束してほしい。やっと全国民一律10万給付が決定。アベノマスク問題といい、安倍総理の動画問題といい、10万円給付のごたごたといい、いったい安倍政権はどうなっているんだ!と声を荒げたくなるが、ともあれ感染拡大の防止に成功することを願うしかない。

 ともかく私としては、なるべく家から出ないで粛々と仕事をすること、疲れたら、芸術を楽しむことを心掛けている。先日、ロッセリーニの映画を数本見て、とてもおもしろいと思った。もっと見たくなって、同じロッセリーニ監督のほかの数本を購入。簡単な感想を書く。

 

「イタリア旅行」1953

 叔父から受け継いだ別荘を売るためにイタリアにやってきたロンドンの上流の中年夫婦(ジョージ・サンダースとイングリッド・バーグマン)。恵まれた社会の二人だが、心は離れ離れになって、それぞれ別行動をとっている。ある時、妻はカタコンブに行き、積み重ねられた大量の人骨を見る。翌日、無理やり夫婦二人でポンペイに連れていかれ、抱き合った夫婦が掘り起こされる現場を目撃する。妻は気分が悪くなって、そのまま車で帰ろうとするが、そこで街の中を練り歩く復活祭(?)の大行列に巻き込まれる。二人は切り離され、そこで二人は愛し合っていることに気づき、愛を確かめる。

 ハリウッド映画的な大きな起伏はなく、まさしくネオレアリスモの手法で即物的に夫婦の行動が描かれる。そこから、二人の心情が見えてくる。古代ローマ時代の様々な遺物が妻の心に生と死を感じさせていくのがよく理解できる。イタリアの雑踏、そこを歩くイタリアの庶民の姿がとても魅力的だ。

 ロッセリーニとバーグマンの心が離れ離れになったころに、よりを戻したいという願望を反映した映画だといわれる。だが、そうしたことを抜きにしても、なかなかの名作だと思った。

 

「不安」 1954

 ツヴァイクの原作だという。

 イレーネ(バーグマン)は、科学者である夫とともに製薬会社を経営しているが、若い男エンリケとの不倫を断ち切れずにいる。そんな時、エンリケの元恋人という若い女性が現れて、夫にばらされたくなかったら金を出せと脅してくる。そして、それ以来、執拗につきまとう。切羽詰まったイレーネは直談判しようとする。そして、実はその女は、すでにエンリケの存在を知ったイレーネの夫の指示で彼女を脅していたことを知る。イレーネは自殺を決意するが、結局は子供のために生きることを選ぶ。

 サスペンスにあふれ、意外な展開を示す。よくできたサスペンス映画であり、人間の暗い面を覗き見る思いがする。が、これまでみてきたロッセリーニの雰囲気とはかなり異なる。街(ミュンヘンで撮影されたという)の様子も、これまでの映画と異なって、寒々として人気がないし、人間のエネルギーのようなものを感じない。あえてそうしたのかもしれないが、私としては少々残念に思う。バーグマンとの関係が危機を迎えていた時期の映画だから、このように暗い雰囲気なのか。

 

「火刑台上のジャンヌ・ダルク」 1954

 クローデル台本、オネゲル作曲のオラトリオの映画化(ただし、かなりカットがあるようだ)。これまで、何度かこのオラトリオの映像をみたことがある(先日もバルセロナ、サラ・パウ・カザルスでの上演をみた)が、ロッセリーニ映像をみると、なるほどクローデルとオネゲルの頭にあったのはこのような情景なのかと納得する。

 ジャンヌ(バーグマン)の肉体は火刑台上にいながら、その魂は肉体から離れてドミニク司祭と超歴史的な会話を行っている。ジャンヌを裁こうとする俗人たちや懐かしい人々を回想しつつ、神への思いを再認識し、ついには覚悟を決めて神の定めに従う様子が描かれる。当時の人々を二人が高みから見下ろすように描かれているので、状況がわかりやすい。初めて、このオラトリオの仕組みを理解できた気になった。

 これはなかなかの傑作だと思う。このオラトリオをこれほどまで明確に映像化できたのには驚くしかない。ロッセリーニがこの音楽をきわめて深く理解していたことがよくわかる。

 バーグマンはハリウッド映画のジャンヌ・ダルクの役に嫌気がさして、よりリアリティのある映画を求めてロッセリーニのもとに走り、ついに念願のジャンヌ・ダルクの役を演じることができたのだという。そのせいかもしれない。バーグマンの演技も素晴らしい。これまで、バーグマンの演技には、私はさほど惹かれなかったが、少女を演じるこのジャンヌの役は、美しくも悲劇的で素晴らしいと思う。

 私のみたDVDはあまりに音質が悪く、音楽を鑑賞しようという気になれないのが残念だ。カラー映画だが、色彩も貧弱。だが、それにしてもバーグマンはフランス語で語り、時には歌っている。吹き替えではないのだろうか。そうだとすると、これも見事としか言いようがない。

 

「インディア」 1958

 ドキュメンタリーっぽく始まって、ナレーターがインド社会を紹介しているが、いつのまにか登場人物が現れて、ナレーターがその人物としてエピソードを語り始める。

 そこに描かれるのは、村の娘と恋に落ちた象使いの青年、妻の反発を受けながら、新たなダム建造地へと向かう技師、トラを助けようとする老人、猿回しのサルなどのエピソードだ。いずれも、ドキュメンタリー風に、内面に立ち入ることなく描かれる。西洋のように自然を屈服させるのではなく、自然と折り合いをつけて調和の中に生きようとするインドの人々の心のありようが浮かび上がってくる。

 登場人物に感情移入するのでなく、心の葛藤をドラマティックに描くのでもない。淡々と、まさしく自然の営みの中で起こる自然な出来事のようにインドの人々の生きる姿が描かれる。その意味ではとても魅力的ない映画だ。

 ただ、現在の目から見ると、中途半端な気がしてしまう。あっさりしすぎていて、あまり強い印象を持てなかった。カラー映画だが、少なくとも私のみたDVDの色彩はかろうじて色がついている程度で、まったく美しくない。もし、もう少し鮮やかな色彩だったら、かなり印象が異なるかもしれない。

 

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映画「かくも長き不在」「愛人」「至福のとき」

 緊急事態宣言が出されてから、ほとんど外に出ていない。自宅でマイペースの仕事をし、時々音楽を聴き、DVDの映画をみる。恐ろしい医療崩壊、感染爆発が近づいているのか、何とか逃れられるのか、いつまでかかるのか・・・。

 そんな中、映画をみたので、その感想を書く。

 

「かくも長き不在」 1961年 アンリ・コルピ監督

 高校生の頃だったと思う。予備知識のないまま、NHKで放映されているのをみた。とても良い映画だと思った。ずっと記憶に残っていた。大学生になってから、台本がデュラスの手になると知って、あらためて劇場でみた。素晴らしい映画だと思った。それから50年近くたって、今度が三度目。稀に見る傑作だと思った。

 まさしくデュラスの世界。テレーズ(アリダ・ヴァリ)はパリ近郊でカフェを営んでいる。ある時、「セヴィリアの理髪師」の一節を口ずさんで通り過ぎるホームレスの顔を見て、16年前にナチに捕らえられ、そのまま行方不明になった夫アルベールだと確信する。テレーズは男に近づくが、男は過去の記憶を失っている。親戚を呼び寄せて男を確認させようとするが、親戚はその男がアルベールではないと考える。16年たって、人々の記憶は薄れている。テレーズは男をカフェに招き、ともに食事をし、ダンスをする。男の頭に大きな傷跡を見つける。男はおずおずしたまま、カフェを出る。その時、男は警官の制服を見て、あわてて逃げ出す。背後から名前を呼ばれ、まるで、強制収容所で兵に銃で狙われた時のように両手を挙げて一瞬、たちどまる。すぐに、男は逃げ出してトラックに轢かれる。

 男がアルベールだったのかどうか、最後までわからない。ただ、おずおずとした態度、頭の傷、そして最後の両手を挙げた姿勢から、男もアルベールと同じようにナチに捕らわれていたらしいことだけは明らかになる。

 古い教会やセーヌ川や野原の風景が美しい。デュラスの小説のような、けだるく虚無的な雰囲気が漂う。そこで、おぼろな過去をめぐって映画は展開する。何かにおびえて心を開かない男、必死に過去を思い出させようとする女。そのような靄の中から、ただ確かなものとしてかつてのナチスの残虐な行動が浮かび上がる。男に「セヴィリアの理髪師」を聴かせる場面、二人で踊る場面があまりに美しい。白黒の画面すべてが美術作品のようだ。

 

「愛人」  1992年 ジャン・ジャック・アノー監督

「かくも長き不在」をみて、デュラスつながりで、購入したきりになっていた「愛人」のDVDをみたくなった。

 デュラスの自伝小説に基づく映画。デュラス好きの私は、原作が話題になったとき、すぐにフランス語で読んだ。衝撃を受けた。

 デュラスがベトナムに暮らす貧しいフランス家庭で育ったことは、彼女のほかの作品によって知っていたが、中国人青年の愛人として過ごしていたことは、もちろん知らなかった。15歳の白人の少女でありながら、中国人の妾のような存在になり、プライドを傷つけられながらも、性愛に溺れていくデュラスの心が特有の乾いた詩情で語られる。

 映画が封切られて、すぐにみにいった。とても良い映画だったという記憶はあるのだが、ほとんど忘れていた。比較的最近の映画のような気がしていたが、もうあれから30年近くたつわけだ。

 改めてみて、アノー監督が見事にデュラスの世界を映像化しているのを感じた。デュラスを演じるジェーン・マーチも中国人青年を演じるレオン・カーフェイも原作を読んでイメージしたそのもの。サイゴンの雰囲気に至っては、小説を読んだだけではこのようなイメージを持つことはできなかった。が、考えてみれば、そのような雰囲気だっただろう。しかも、デュラスの持つエロスと乾いた詩情を描き出している。

 デュラスの文体は省略が多いので、ある種の感情移入によって補わなければならない。だが、そこには情緒に流される要素はなく、人を拒むような雰囲気がある。読み手は宙に放り出された感覚を味わう。それが映像から見えてくる。サイゴンの美しい自然が見える。だが、観客はそれにべったりと感情移入しない。あくまでも、人の心の具象化ではない形としてそこに自然が存在する。

 とてもいい映画だと改めて思った。

 

「至福のとき」 2002年 チャン・イーモウ監督

「あの子を探して」「初恋のきた道」に次ぐ三部作であり、イーモウ監督の傑作の一つだということなので、みてみた。が、私はこの映画をまったくおもしろいと思わなかった。途中から、みつづけるのがつらくなった。

 中年男チャオ(チャオ・ベンシャン)は結婚したいと考え、実際は無職なのに、社長と偽ってある女性にアプローチする。女性の家には、借金を作って失踪した元夫の連れ子で盲目の少女(ドン・ジエ)がおり、女性とその息子に壮絶ないじめを受けている。少女を厄介払いしたい女性に少女の世話を頼まれたチャオは、少女に同情し、偽りのマッサージの仕事を与え、盲目なのを利用して、仲間たちとともに顧客のふりをして少女を手助けする。だが、少女はチャオと仲間たちが善意でだましていたことに気づき、いつまでも世話になっていられないと考え、感謝しつつ、みんなのもとを去る。ところがそのとき、チャオは交通事故にあって意識不明になって生死をさまよう。

 私はすべてにリアリティを感じなかった。まったく魅力的でなく、お金持ちでもなく、底意地の悪い女性と、なぜ結婚しようと躍起になるのか、なぜそのために自分が社長だという説得力のない嘘をつく必要があるのか、そもそも、いじめられている少女がなぜ盲目でなけければならないのか、なぜわざわざ廃工場に偽のマッサージ室を作らなければならないのか、なぜ偽のお金を作って少女をだまそうとする必要があるのか。なぜ、よりによって都合よくその日にチャオは交通事故にあうのか。

「あの子を探して」の主人公の女の子も愚かなことばかりしていたが、あれは女の子だから気にならなかった。だが、いい中年男やその貧しい仲間たちが見え見えのあまりに愚かな行動ばかりすると、むしろそれはお涙頂戴のための仕掛けに見えてくる。ありそうもない設定が続き、ありそうもない展開になり、最後にお涙頂戴になって終わった、というのが私の印象だった。私の最も嫌いなタイプの映画といって間違いない。

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オペラ映像「チェネレントラ」「眠れる森の美女」「道化師」

 緊急事態宣言下、私は外出を自粛して、自宅で仕事をしている。これから医療崩壊が起こるのか、感染爆発が起こるのか。それとも、何とか食い止められるのか。重苦しい。

 私自身は、先日購入した電動機付自転車を乗り回したり、オペラ映像をみたり、DVDで映画をみたりして、重苦しさをそれなりに解消しているが、これがこれから先も続くと思うと実につらい。次々と予定していたコンサートの公演中止の連絡が舞い込む。

 ともあれ、この数日間にみたオペラ映像の感想を記す。

 

ロッシーニ 「チェネレントラ」 2016年 ローマ歌劇場

 全体的にはとてもよくまとまった上演。

 アンジェリーナを歌うセレーナ・マルフィは、可憐というよりはちょっとボーイッシュで迫力がある。王子役のフアン・フランシスコ・ガテルはやや陰りを感じる。ともに、ロッシーニのあけっぴろげの楽天性からは程遠い。なかなか良いのだが、二人ともつき抜けたものを感じない。もっと輝かしくあってほしい。

 アレッサンドロ・コルベッリのドン・マニーフィコがもっとも安心してみていられる。芸達者でおもしろい。ヴィート・プリアンテのダンディーニ、ウーゴ・グァリアルドのアリドーロも悪くないが、声の処理の雑なところを感じた。

 アレホ・ペレスの指揮するローマ歌劇場管弦楽団についても、歌手たちと同じような印象を受けた。悪くはないのだが、あと一歩突き抜けた表現がないので、心の底から満足することはできなかった。

 演出はエンマ・ダンテ。アンジェリーナを取り巻くネズミたちや王子の召使たちの背中に大きなネジが取り付けられている。彼らはネジ巻き人形という設定になっている。そして、悪役であるドン・マニーフィコと二人の娘が心ならずも従順になったとき、彼らも背中にねじを取り付けられる。どうやらネジは、権力に飼いならされて従順になった存在の印らしい。なかなかに皮肉な演出だと思う。

 もう少し突き抜けた「チェネレントラ」を期待していたのだったが、十分に楽しむことはできた。

 

レスピーギ 「眠れる森の美女」 2017年 カリアリ歌劇場

 ペローやグリムに取り上げられている「眠れる森の美女」に基づくファンタジー・オペラ。レスピーギにこのようなオペラがあるとは、今回の発売まで知らなかった。

 ただ、ペローなどでは、La Belle au bois dormant であって、文字通りに読むと、「眠っている森・の美女」という意味だが、このオペラのタイトルはイタリア語で、La Bella dormente nel boscoなので、「森の中の・眠っている美女」ということになる。なぜ、このような違いがあるのか気になるところだが、物語としてはどちらでも大差ないので、あまり気にしないことにする。

 妖精たちが登場してバロック風に歌う、まさにファンタジックなオペラ。ドラマティックに個人の感情を歌い上げるようなことがないが、それがむしろ心地よい。アンジェラ・ニシの王女は清純できれいで、王女にぴったり。そのほか、妖精たちもきれいな声。ドナート・レンツェッティの指揮によるカリアリ歌劇場管弦楽団の演奏も、私は特に不満を感じない。

 王女は300年眠ったとされ、王女を目覚めさせる王子は現代人という設定。現代の服装をしている。演出のレオ・ムスカートによる工夫かと思っていたら、音楽も現代的になって、王女が目覚めた場面ではバロック風の音楽と、ジャズ的な要素の混じった現代的な音楽が入り混じる。なかなかおもしろい。

 名作オペラとは思わなかったが、もっと取り上げられてもいいオペラだと思った。

 

レオンカヴァッロ 「道化師」2019年 フィレンツェ五月音楽祭劇場

 とても良い上演だと思うのだが、肝心のカニオ役のアンジェロ・ヴィッラーリがあまりに不安定。なぜ、こんな音程の狂った歌手が主役を張るのか、私には理解できない。この歌手、「沈鐘」でも同じような歌いっぷりだった。しかも、喝さいを浴びている。どういうことだ?

 ネッダを歌うヴァレリア・セーペが素晴らしい。ちょっと蓮っ葉で、でも清純で、しっかりした声。シルヴィオを歌うのはレオン・キム。韓国系の歌手だと思うが、とてもいい。この二人のデュオの部分が最も良かった。トニオのデヴィッド・チェッコーニは安定しているが、あと少しの迫力が欲しい。

 ヴァレリオ・ガッリ指揮のフィレンツェ五月音楽祭劇場管弦楽団は勢いがあって、とてもいい。

 演出はルイージ・ディ・ガンギとウーゴ・ジャコマッツィ。一人一人の動きや表情がとてもリアルで、集団の動きも躍動感があってよい。子どもが指揮の真似をするのも、とても自然。様々な色を使って生命にあふれた雰囲気を出している。ただ、私の趣味としては、もっと下品で、もっと差別的な雰囲気があるほうが望ましいが、現代社会ではそうはいかないのだろう。

 カニオ役がもう少し音程がしっかりしていたら、私は大いに感動しただろう。

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緊急事態宣言 そしてオペラ映像「ワルキューレ」「オイリアンテ」

 新型コロナウイルスに関する緊急事態宣言が出された。

 東京の多摩地区に暮らす私は今回の宣言の影響をまともに受ける。このような経験は初めてなので、さて、これからどうなるのか。自分がどうすればよいのかも判断に迷う。

 ともあれ、自分が感染しないように、人に感染させないように最大限の注意をしようと思っている。

 誰もが思っていることだと思うが、新型コロナウイルスについて、私が考えていることをいくつか記す。私はややリベラル寄りの、つまりは反自民の人間なのだが、今回は挙国一致でのウイルスとの戦いなので、安倍政権のウイルス対策をことさら否定しようとは思わない。だが、いくつかの点ではどうにも納得できない。

・ 最も納得できないのは、PCR検査をなぜもっとしないのかということだ。色々と理由を聞かされてきたが、どれも納得できない。私は毎日でも検査したい。陰性だったら、安心して活動したい。そうでなかったら、すぐに最もふさわしい行動をとりたい。検査をすれば。それが判断できる。先進国日本でなぜそれができないのか。

・ 現在言われている「世帯に30万円現金給付」という案は愚策だと思う。手間ばかりかかって、今、お金を必要としている人にすぐに届かない。基準がわかりにくく、判断に困る人、クレームを言う人が殺到するだろう。全国民に10万円というのが、ともあれ最も現実的だと思う。本当に困っている人はそれを生活費にして何とか食いつなぐだろう。余裕のある層は、それを消費に回すので、経済活性化にいくらか役立つだろう。「アベノマスク」の費用もこの費用にあててほしい。そのあとに、所得制限付きの給付を考えてほしい。そうしないと、生活破綻する人が大勢出てしまうだろう。

 

 緊急事態宣言が出されようとしている中、オペラ映像をみた。簡単に感想を書く。

 

ワーグナー 「ワルキューレ」2018年 ロイヤル・オペラ・ハウス

 素晴らしい上演だ。すべてがそろっている。

 まず何といっても、パッパーノの指揮に圧倒される。起伏の大きなダイナミックな演奏。しかもまったく不自然なところはなく、ぐいぐいとワーグナーの世界に引き込む。第三幕の高揚感もすさまじい。

 2000年前後にはかなり硬い歌いまわしだったスチュアート・スケルトンも随分とこなれてきた。とても魅力的なジークムント。エミリー・マギーのジークリンデもしなやかで魅力的。そして、アイン・アンガーのフンディンク、ジョン・ランドグレンのヴォータン、ニーナ・シュテンメのブリュンヒルデが言葉をなくす凄さ。ランドグレンの名前は初めて知ったが、ヴォータンにふさわしい余裕のある歌いっぷり。シュテンメとの第三幕後半は聴きごたえがあった。フリッカを歌ったサラ・コノリーも、ちょっと妖艶で貫禄があって、説得力がある。第二幕で、ヴォータンがフリッカの体を愛撫しようとするが、確かにそんな気にさせるフリッカではある。

 演出はキース・ウォーナー。第三幕でヴォータンがブリュンヒルデに対して女性としての愛情を抱いていることがほのめかされ、ブリュンヒルデはそれを知って驚きながら受け入れる・・・というパントマイムがなされる。確かにワーグナーの中にそのような要素があるとは思うが、わざわざそれを強調する必要があるのか、少々疑問に思う。全体的にはそれほど新しい解釈はない。

 

ウェーバー  「オイリアンテ」 2018年 アン・デア・ウィーン劇場

 大型の若い歌手たちが中心ののびやかなとても良い上演だと思う。

 歌手たちはきわめて高いレベルでそろっている。オイリアンテのジャクリーン・ワーグナーはヴィブラートの少ないきれいな声。清純でさわやでありながら、強靭さも持っている。アドラールのノルマン・ラインハルトも同じような印象。素晴らしい。この二人には、ジークリンデとジークムントを歌ってほしいと強く思った。二人とも見栄えもする。

 エグランティーネのテレサ・クロンターラーも芯の強い声で素晴らしい。悪役なので憎々しい表情をしているが、驚くほどの美貌だ。リジアルトのアンドリュー・フォスター=ウィリアムズも神経質で根性の良くない男を力演。そして、ルートヴィヒ六世のシュテファン・ツェルニーは素晴らしい美声で安定している。

 コンスタンティン・トリンクスの指揮するウィーン放送交響楽団も明晰でありながら、躍動し、生き生きとしており、とてもいい。

 演出はクリストフ・ロイ。最初から最後まで、遠近法のきいた室内で演じられる。登場人物は全員現代の夜会服を着ている。嫉妬が渦巻き、亡霊が登場し、一方的な情報をうのみにする愚かな思い込みがなされるこのオペラをあえて現代的に描こうという意図だろう。そして、それに成功している。とてもおもしろかった。

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ロッセリーニの映画「アモーレ」「神の道化師」「ストロンボリ」「殺人カメラ」「ヨーロッパ1951年」

 私が学生生活を送った1970年代、ロッセリーニの映画は、一般の映画館では取り上げられることはめったになかったものの、大学祭などでしばしば上映会も行われていた。私も、「戦火のかなた」や「無防備都市」は何度もみた。

 ところが、それ以降の作品は、当時、ほとんどがみるべき価値のないものとみなされていた。「ロベレ将軍」はよいほうだが、とりわけイングリット・バーグマンと知り合い、その虜になってからは、かつての理念を忘れてしまって、商業映画、しかも質の高くない商業映画ばかりを撮り始めたといわれていた。そして、事実、それらの映画は日本ではみる機会がなかった。私は、それらについては一度もみたことがないままだった。

 それから40年以上たって、DVDでロッセリーニの代表作以外の作品もみられるようになっているのに、久しぶりに気づいた。きっとつまらないのだろうが、ともあれみてみようと思って、みはじめた。ところが、何本かはとてもおもしろかった。

 新型コロナウイルスの非常事態宣言が出される直前なのかもしれない。簡単に感想を書く。

 

「アモーレ」 1948

 同じアンナ・マニャーニが主演を演じる二つのエピソードからなる。第一部は、コクトーの「人の声」に基づく。私には、プーランクのモノオペラとして昔からなじみの物語だ。

 登場人物は一人だけ。女性が電話を待ち、電話がかかるとそれにかじりついて必死の形相で話をする。徐々に、電話の相手が別れを切り出されてしまった愛人であり、何とか引き留めようと必死になっていることがわかってくる。プライドを保とうとしながら、あるいはプライドを捨て、うそをついたり。その心の動きを名女優マニャーニが見事に演じる。

 オペラではこの物語を何度かみたことがあるが、やはり歌でなくリアルなセリフで語られると、まさにリアルになる。映画では愛犬が登場する。それもとてもリアル。

 第二部は、農婦が聖人(なんと、フェデリコ・フェリーニが演じている!)の幻想を見て、その子供を宿し、村の人々から迫害される物語。すべてが幻想なのか、それとも村にやってきた放浪者を聖者と思いこんだのかは定かではない。最後には村を出て人里離れた山の上の無人の教会にたどり着く。

 無垢な信仰を描いている。必死の信仰が胸を打つ。愚かといえば、まさに愚かだが、うむを言わせない生きる力を持っている。山があり、谷があり、そこに山羊たちが人々と暮らしている。最後、山羊たちが女を教会に導く。まさしく信仰の世界が現出する。見事な映像世界。

 それにしても、マニャーニの圧倒的な演技力に驚嘆。それをみられるだけでもうれしくなる。そして、若いころのフェリーニが「イケメン」であることにもびっくり。

 とてもいい映画だと思う。「無防備都市」や「戦火のかなた」に匹敵する名作だと思う。

 

「神の道化師、フランチェスコ」 1950

 初めてのつもりでみはじめたが、どうも以前に一度みたようだ。

 聖フランチェスコとその弟子たちの行動を描く。徹底的に自己犠牲を行い、他者に尽くし、自己の欲望を否定して、何よりも完全な神への帰依を求める。全員が大変生真面目だが、あまりの徹底ぶりに呆れるし、愚かで無邪気に見えるし、現代人の目から見ると、むしろ混乱を起こすだけに見える。

 戦後さほどの時間がたっていない時期にロッセリーニはどのような意図でこの映画を作ったのだろう。おそらく、戦後の生きるためにがむしゃらら欲望をかなえようとする社会へのアンチテーゼとして示したのだろう。ただ、映画としては、少なくとも今みると、あまり面白いとは思えない。

 

「ストロンボリ 神の土地」 1950

 ロッセリーニが大スター、イングリット・バーグマンを主役にして初めて撮った映画。この後、二人は不倫関係に陥り、その後、結婚をすることになる。

 ともあれ、映画としてとてもおもしろかった。それどころか、大いに驚き、大いに感動した。「戦火のかなた」や「無防備都市」に劣らぬ名作だと思った。

 カリン(バーグマン)はドイツ兵と関係を持ったためにリトアニアで暮らせなくなってイタリアに入り、難民収容所で暮らしていたが、捕虜キャンプにいるアントニオに言い寄られ、その気になって結婚。アントニオの故郷で暮らし始める。ところが、アントニオの故郷ストロンボリ島の村は、公共の交通手段もない文明の果てにある活火山の島だった。しかも、島民たちは閉鎖的で、アントニオは暴力的。カリンは監視され、島の灯台守と少し親しくすると不倫を決めつけられる。夫の子どもを宿すが、それでも島の生活に我慢できなくなったカリンは、灯台守の助けを得て島から脱出することを考え、ひとり火山を超えて島を横断しようとする。火山付近を通りかかって、有毒ガスを浴び、自分の力に絶望し山の中で一晩をあかす。朝、火山を前にして、自然の偉大さに目ざめ、神にすがろうとする。そこで映画は終わる。

 火山の噴火の場面、マグロの大漁の場面など自然の猛威や人と自然の営みを描くドキュメンタリー的な場面が圧倒的だ。映像はとても美しい。そのような自然の営みとは隔絶したおしゃれで華やかなバーグマンも目を見張る美しさ。(ただ、ほかのイタリア女たちと比べてのバーグマンの「がたい」の良さに驚く!)。

 最後、カリンは島の残ることにしたのか、それとも一人で生きることにしたのか、定かではない。ただ、自然の猛威を知り、それとは対極の文明を求めて生きてきた自分をゼロに戻そうとしたことだけが示される。

 公開当時、この映画は不評だったという。そして、最後の曖昧な場面もその原因だったようだ。だが、今、みると、この結末は見事としかいいようがない。島に残るにせよ、離れるにせよ、カレンのこれから先の人生はつらいものになるだろう。だが、ともあれ、ここでカレンは神に目覚める。神父を誘惑するなど不敬な気持ちを抱いていたカレンが人間の無力を知り神にすべてをゆだねる。そのことのほうが問題だったのだろう。

 ロッセリーニは凄い監督だったと改めて思った。 

 

「殺人カメラ」 1952

 喜劇、あるいは寓話といってよいだろう。

 海辺にある美しい村。写真店を営むカメラマンの前に、守護聖人らしい老人が現れ、あるカメラで人物を撮影すると、その人を死なせられることを教える。善良なカメラマンは、それを正義と信じて、不正をしようとする人々を死なせていく。カメラマンは自分が行き過ぎてしまったことに気づき、自分自身を撮影して死なせようとする。そこで、守護聖人だと思った老人が実は悪魔だったと気づき、自分の行動を悔いて、悪魔に頼んで死なせた人々を生き返らせる。

 何が正義かわからない、状況によって多くの人が正義にも悪にもなってしまう。そのことを喜劇として描いている。

 村の墓場を壊して、観光施設を作ろうとするアメリカ人が登場。外国資本による伝統的な村の破壊というテーマがこの時代にすでに起こっており、それをロッセリーニが題材にしていたことに驚く。権力者も権力を持っていることによって堕落し、貧しい人々も自分の利益しか考えていない。だが、それ以上に、正義を行使するほうが悪だ。そのようなことを寓話として語っている。

 ただ、あまりに教訓がありきたりで、しかもディテールについてもそれほど面白いわけではないので、特に優れた映画だとは思わなかった。

 

「ヨーロッパ1951年」 1952

 これも名作だと思った。

 上流夫人イレーネ(イングリッド・バーグマン)は、息子の自殺を契機にそれまでの自分たちの階級の恵まれた生活に疑問を持ち、社会矛盾に目をやるようになる。そして、貧しい人、苦しんでいる人に愛を注ぐ。だが、強盗の逃亡を助けることになってしまって警察沙汰になり、スキャンダルを恐れた夫に精神病院に入れられてしまう。イレーネは元に戻ってかつての上流の生活を送るよりは、精神病院で生きることを選ぶ。

 イレーネはまさに聖女になる。だが、現代社会での聖人は狂人とみなされるしかない。すべての人に愛を注ぐというキリスト教の理想は、最も人類に必要なことなのだが、社会を混乱させてしまう。そのことがリアルに伝わる。

 息子に十分の愛をかけなかった自分を嫌悪するあまり、他者にできるだけの愛を注ごうという心理はとてもよく理解できる。バーグマンは演技派女優というわけではないが、そのようなけなげな女性を見事に演じている。

 1951年。私の生まれた年だ。戦後の混乱がひとまず収まり、新たな階層が生まれ、それが徐々に固定化していく。資本主義がますます拡大し、キリスト教の精神から外れていく。そうした時代の始まりの時期だったのだろう。

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