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METライブビューイング「ポーギーとベス」 人間臭いドラマを堪能した

 METライブビューイングが再開され、「ポーギーとベス」をみた。202021日にメトロポリタン劇場で上演されたもの。素晴らしかった。大いに感動した。

 私はアメリカ音楽にはあまり惹かれないのだが、これは別格。最初から最後までぐいぐいと惹かれていく。オペラそのものがまさしく名作であるとつくづく思う。ストーリーもドラマティック。しかも黒人世界の猥雑な生のありようもとても魅力的。その中で聞こえる「サマータイム」も感動的。ガーシュウィンの音楽がいい。台本もよくできている。今回の上演も原作の力を十分にわからせてくれるすばらしいものだった。

 ポーギーを歌うのはエリック・オーウェンズ。幕が上がる前にゲルブ総裁が登場してオーウェンズが風邪をひいていることが伝えられたが、数か所、少し声が詰まった程度で私はそれほど気にはならなかった。持ち役のひとつなので、まさにぴったり。ベスはエンジェル・ブルー(武蔵野市民文化会館で公演予定だったが、新型コロナウイルスで中止になった!)。大柄でダイナミックな歌いっぷり。もっと可憐な方がこの役にふさわしいと思うが、こんなベスもあっていいだろう。クララのゴルダ・シュルツは南アの出身だという。若くてリリックな歌手でとても清純な声。「サマータイム」が状況に応じてニュアンスを変えて見事に歌う。そのほか、善良な黒人たちも悪い黒人たちも、みんな歌も演技も素晴らしくて、まさに黒人のコミュニティに巻き込まれる。

 指揮はデイヴィッド・ロバートソン。アメリカ音楽に疎い私はこの指揮者についてはまったくの無知だった。風貌のせいでそう感じられるのかもしれないが、ちょっとスリムで洗練されすぎた演奏に感じた。もっと猥雑でもよいのではないか。ただ、演出のジェイムズ・ロビンソンとともに、猥雑さを強調しないように気を付けたのかもしれない。

 ただ気になるのは、すべてが木造の大きな建物の中で行われる設定になっていることだ。一つのコミュニティという点を強調しているのだろうが、こうなると、一つの大きな構築物のように感じられて、自然とともに生きるコミュニティの人々の生きざまが曖昧になるし、バラックのような建物でなくなってしまう。

 とはいえ、ともかく音楽に酔い、一人一人の人物の生のありように触れ、人間臭いドラマをたっぷりと味わうことができた。久しぶりに大画面でオペラをみたが、やはり、これは格別。我が家のテレビ画面で見るのとは、全く別物だ。

 とはいえ、ライブビューイングもいいが、生の舞台を見たいものだ。再開はいつになることか!

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「パプーシャの黒い瞳」 白黒の詩的映像で描かれたジプシー女性詩人の生涯

 岩波ホールでポーランド映画「パプーシャの黒い瞳」をみた。監督はヨアンナ・コス=クラウゼとクシシュトフ・クラウゼ監督。

 入場時、チケットの裏に名前と電話番号を書いて係員に渡すというシステムになっていた。新型コロナ関係で何かがあったときの対応ということだろう。1席おきに座れるようになっている。いずれの処置もやむを得ないだろう。

 とてもいい映画だった。モノクロ映画。素晴らしい映像美。

 パプーシャ(人形という意味らしい)というあだ名をつけられた実在のジプシー女性の生涯を描いている。1910年(だったかな?)と1971(だったなか?)の間のいくつもの時代が錯綜して描かれ、だんだんとこの女性の生涯が浮かび上がってくる。

 パプーシャは差別を受けながらジプシーの集団の中で生きている。みずからすすんで読み書きを身に着け、自分の思いを言葉にして書きつけている。いやいやながら年上の叔父と結婚させられ、石女と蔑まれ、暴力を受け、ナチスによる虐殺を逃れ、虐殺を生き延びた赤ん坊を自分の子として育てる。そうした中、罪に問われた外部の青年がジプシー集団にかくまわれて暮らすことになる。パプーシャはこの年下の青年に好意を抱き、自分の書いた文章を見せ、ジプシーの生活の話をする。その後、青年は罪を逃れて都会に戻り、パプーシャの文章が詩として優れていることをうったえ、詩の出版に奔走。自らもジプシーに関する研究書を書く。ところが、そこにジプシーたちが秘密にしたいことが含まれていたことから、パプーシャはジプシー集団からも糾弾され、仲間外れになり、正気を失ってしまう。パプーシャの書いた詩がオーケストラ伴奏で演奏される機会に招かれるが、パプーシャは自分が詩を書いたことを否定する。

 そのような過酷な人生が説明の排除された美しい白黒の映像で淡々と描かれる。白黒にしたのは、カラーにするとあまりに生々しくなるため、生を抽象化して描きたかったためだろう。そのために、しみじみとパプーシャの過酷な人生を見つめることができる。まさにパプーシャの人生が白黒の映像のおかげで「詩」になっている。

 時系列の通りに描くとあまりに淡々としてしまうので、あえて時間軸をバラバラにしたのだと思う。熟慮の上に選択だったと思うし、そのわりに時代の変化をとてもわかりやすく描いているので、成功しているとは思うが、私は少し作為的過ぎると思った。同時に、そうであっても、少々退屈したのも事実だ。

 自然とともに生き、鶏などを盗むことを罪と思わず、自由に生き、哀しみや怒りも陽気な音楽に変えてしまうジプシー。そこでも排除され自己否定せざるを得ないパプーシャ、パプーシャに好意を寄せ、悪気なくパプーシャを傷つけてしまい、必死にかばおうとする外部の青年。いずれの生き方もとても説得力がある。

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弱さを知り、助けを求めること

 2日連続で映画館で映画をみた。ベルギーのダルデンヌ兄弟(ジャン=ピエール・ダルデンヌとリュック・ダルデンヌ)の監督した「その手に触れるまで」。考えさせられる内容の映画だった。(以下、ネタバレが含まれる)。

 ベルギーで暮らす13歳のアラブ系の少年アメッドは突然、イスラム教の導師の影響を受けて過激になり、宗教的な規律を厳格に守って女性に手を触れようとしなくなる。家族に対しても攻撃的になり、同じアラブ系のイネス先生が、従来のように「コーラン」のみを使うのではなく、歌を使ってアラビア語を子どもたちに教えようとするのに反発する。そして、それを導師に悪魔の教えでもあるかのようにそそのかされて、イネス先生を殺害しようとして襲い掛かる。殺害に失敗し、少年院に入って教育プログラムを受け、農家で作業を手伝うようになる。農家の少女ルイーズに恋を打ち明けられキスされる。アメッドも憎からず思っているが、イスラム原理主義にとらわれているアメッドは自分の素直な気持ちを罪だと感じて自分を責める。そして、教育係の眼を盗んで車を抜け出し、イネス先生を殺害に出かける。だが、家に忍び込もうとして屋根から転落。動けなくなって助けを求めたとき、イネス先生に発見される。「ごめんなさい」と謝罪するところで終わる。

 さて、最後の謝罪は、果たして自分の過激な信念を本当に悔いたものだったのか。それははっきりしない。だが、農場で動物に接し、ルイーズの初々しい愛に接して、アメッドはだんだんと軟化していた。最後、イネス先生を殺しに行くが、それは迷う自分に決意を促すためでもあっただろう。だが、失敗して、自分が生命の恐怖を覚える。弱さを知り、他人の助けを求める。そこで自分のそれまでの狂信に気づく。女性の手に触れようとする。

 純粋な子どもであるだけに、アメッドは過激になり、思い込み、ほかの考えを一切遮断するようになり、なかなか考えを変えない。子どもをそそのかしておいて、いざとなったら責任逃れをする狡猾な導師を心から尊敬し、異端者を殺して自分が死ぬことを宗教的な意味のある行為だと信じている。アメッド少年の純粋さ、初々しさがそのまま激しい偏見になっていく。そのような様子を映画はとても丁寧に描いている。

 この映画も声高に解決策を示しているわけではない。それを示せるほど安易な状況ではない。だが、アメッドの心を描きながら、この映画は私たちに、アメッドの心に遊びがないこと、それが自分を追い込んでいること、本来の人間の心を罪とみなして苦しんでいることに気づかせてくれる。そして、おそらく狂信から癒えるには、多くの生と接触し、自分の弱みを知り、助け合うことの大事さを知り、動物らしい営みも人間らしい心の動きも決して罪ではなく、自然なものなのだと知ることが必要なのだとわからせてくれる。

 問題の深刻さと解決への糸口を静かに真摯に示してくれている。

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新作映画「コリーニ事件」 ドイツという国の父親捜し?

 コンサートはまだまだ再開しないようだ。待ち遠しい。だが、その代わりということでもないが、みたい映画がいくつも上映中だ。「コリーニ事件」をみた。

 フェルディナント・フォン・シーラッハの世界的ベストセラー小説を映画化だという。マルコ・クロイツパイントナーの監督作品。ベストセラーについては知らなかった。とてもおもしろかった。簡単に感想を書く(以下、いわゆるネタバレが含まれる)。

 トルコ系ドイツ人の新米弁護士カスパー(エリアス・ムバレク)はイタリア人の殺人犯コリーニ(フランコ・ネロ)の国選弁護人を引き受ける。ところが、コリーニが殺したのは、カスパーの親代わりともいうべき大恩人で経済界の大物ハンス・マイヤーだった。しかも、コリーニは完全黙秘。迷いながらも弁護士の仕事に必死にとりくみ、あのやさしく思いやりのあったハンスが実は若いころ、ナチスの親衛隊の将校であり、コリーニの生まれた村での虐殺を指示し、コリーニは目の前で残虐に父親を殺されたことをつきとめる。

 背景に、1968年に戦犯の時効を認める法律が作られ、その後、それが取り消しになったというドイツの法改革があった。コリーニはその当時ハンス・マイヤーを告発し、そのときは時効によって罪を免れたのだったが、それに承服できないコリーニが自ら復讐したことが明らかになる。

 このテーマに父と息子というテーマが重ねあわされている。マイヤーは実の息子と孫を若くして失い、孫の親友だったカスパーを代わりにかわいがった節がある。カスパーのほうも、2歳の時に実の父が家を出て疎遠になり、その代わりにマイヤーを慕っていたようだ。しかも、コリーニは虐殺事件の際、自分のせいで父の素性がばれて殺されたという負い目を負い続けている。この裁判は弁護士カスパーにとって、父親捜しという意味を持っている。裁判の途中で実の父の手助けを受け、父との関係を修復する。

 そして、この映画は、ある意味で、現在ドイツの父親捜しの物語でもあるだろう。現在のドイツの父親はナチス時代のドイツなのか。きっとマイヤーは過去を悔い、罪滅ぼしとして寛大で心優しく振舞ったのだろう。まさにドイツの歴史と一致する。だが、現在の視点ではいかなる残虐行為も許されない。悔い改めて社会に尽くした人には同情の余地はあるが、いかに罪滅ぼしをしようと過去の罪は消えない。親の罪を引き継ぐしかない。

 移民問題も絡んでいる。カスパーの実の父はゲルマン系のドイツ人のようだ。つまり、母親がトルコ人だったということだろう。きっと父は文化的な違いもあって母とうまくいかなかったのだろう。コリーニはドイツに暮らすイタリア人でありながら、イタリアの故郷をいつまでも思い続けている。

 様々な要素をはらんで、物語は展開する。アクションがあるわけではないが、息をつかせない迫力。エンターテインメントとしてとても良くできている。最後、結審を待たずにコリーニは自殺する。戦犯問題に解決を見ないことをこの自殺は案じているのか。

 コリーニを演じるのはフランコ・ネロ。昔の映画を何本かみて、昔からいい役者だと思っていたが、それにしてもなんという風格! 黙ってしかめっ面をしているだけで一つの芸術作品になっている。これが役者という存在なのだと改めて思う。

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新作映画「ルース・エドガー」 ファノンはアメリカでは危険思想家?

 緊急事態宣言も解除されて、映画館でも上映されるようになった。再開後の最初の映画として、アメリカ映画「ルース・エドガー」(ジュリアス・オナー監督)をみることにした。やはり、映画は映画館でみるのが一番。

 とても良い映画だった。サスペンスにあふれ、最後まで展開がわからず、しかもアメリカの黒人として生きることについて鋭く切り込み、政治や社会について重いテーマを投げかけている。

 黒人高校生のルース(ケルヴィン・ハリソン・ジュニア)は高校を代表する優等生だが、学校のレポートでフランツ・ファノンの立場に立ってて暴力革命を肯定する内容を書いてしまう。社会科の黒人女性教師ウィルソン(オクタヴィア・スペンサー)がルースの養母(ナオミ・ワッツ)を呼び、注意する。そのことから怒りを覚えたルースは策略を使ってウィルソンを追い込み学校を免職にさせる。

 ルースは7歳までエリトリアで暴力的な社会で暮らし、その後、アメリカの白人の両親の里子に引き取られたのだった。本当の名前は発音できないような音だったので、ルースと名前を変えられ、アフリカの暴力的な要素を両親に押し殺されて育つ。両親はできる限りの愛情を注ぐが、そうすればするほど、ルースは親の期待通りの人間になることにストレスを感じている。白人に対する怒りや社会の矛盾へのわだかまりを押さえつけ、両親を愛そうとしてきたが、乗り越えられない壁に気づいて、それが爆発する。ウィルソンを追い詰めるが、ウィルソンもまた同じように黒人として白人社会に適応しようとして生きてきたことをルースは知る。最後、ルースは母に縋り付いて、家族愛を認識するが、果たしてそれが本心なのかどうかはわからない。

 どうにも埋めようのない黒人と白人の壁。白人社会で迎合して生きていくのか、それともアフリカの血にアイデンティを見出すのか。アメリカの黒人の持つ生まれながらのジレンマが示される。

 この映画では、ルースはイスラム教原理主義ではなく、ファノンの思想に惹かれたことになっている。だが、実はこのファノンの思想はイスラム教原理主義の置き換えだろう。そう考えると、イスラム過激派に惹かれていくアフリカ系の人々の気持ちはこのようなものなのだろうと納得がゆく。

 とはいえ、ファノンの思想でさえもこのようにとらえられるのかと、私は少々意外だった。

 むかし、アフリカ文学に関心を持ってあれこれ読み漁っていたころ、ファノンの文章はいくつか読んだ記憶がある。むしろとても納得のゆく内容で、それほど危険視されているとは思わなかった。だが、確かにアメリカ社会では、(そして、おそらく西欧社会でも)、この映画のようにとらえられて当然だろう。アフリカの黒人は黒人の独立を主張し、1960年代に黒人国家を次々と誕生させていった。その背景にあるのはファノンの思想だった。まさにファノンの思想はアフリカの独立国家の基盤の思想ともいえるものだろう。ところが、アメリカや西欧は違った。アメリカや西欧でアフリカの国々の国民と同じ思想を持つことは過激分子ということになってしまう。

 最後になっても、ルースの心の底はわからない。解決を見ないままこの映画は終わる。観客としてはもう少し明確に示してほしいところが、そうすると映画のリアリティは失われたことだろう。これからも続く黒人の葛藤をこの映画の幕切れは暗示している。

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イタリア映画「鞄を持った女」「国境は燃えている」「高校教師」「女ともだち」

 我が家にも「アベノマスク」がようやく届き、10万円の給付金の申請書も届いた。それにしても、遅い! コロナ禍が浮き彫りにしたことの一つは、日本がすでに世界の先端を行く先進国ではなくなっており、とりわけITの面でアジアでも数番目の国になってしまったということだと思う。そして、その原因は、政府にあり、社会にあり、もちろん第一に私たち国民にある。それを強く感じている。

 ただ、ありがたいこともあった。先日、コロナ禍による面会禁止のために、施設に入っている母に3か月以上会えずにいることをこのブログに書いたが、ようやく制限付き解禁になって、母を生まれて40日ほどの曾孫と対面させることができた。耳が遠く、目もよくなく、認知についても完璧ではない母が正確に物事を把握したかどうかはわからないが、ともあれ母は私の娘とも昔のように話をし、赤ん坊を前にして微笑み、喜び、声をかけた。幸せな様子を見せた。

 そうした中、イタリア映画を数本見たので、簡単な感想を記す。

 

「鞄を持った女」 1961年 ヴァレリオ・ズルリーニ監督

 「激しい季節」が素晴らしかったので、同じズルリーニ監督の「鞄を持った女」をみてみた。

 クラブ歌手のアイーダ(カラウディア・カルディナーレ)は、スカウトだと称する男に騙され、そのまま置き去りにされる。男の弟で16歳のロレンツォ(ジャック・ペラン)はアイーダに同情するうちに強い恋心を寄せるようになる。だが、上流社会で暮らす純真で気真面目なロレンツォの真っすぐの愛に、日々の稼ぎのために男たちと渡り合って生きているアイーダはこたえることができない。ロレンツォはアイーダのために戦い、二人の心が通いかけるが、あまりに立場の異なる二人は別れるしかない。

 それだけの話だが、二人の立場、考え方が痛いほどにわかる。初々しい心のぶつかり合いがとてもリアルで、映像の一つ一つが抒情的。ちょっと蓮っ葉だが、根は純真で、小さな子どもを預けて必死で生き抜こうとしているアイーダを若々しいカルディナーレが演じる。

 カルディナーレは私の青春期の大スターで、私の周囲には胸を焦がす人が多かったが、私の美意識とは異なるようで、長い間、その美しさがわからなかった。今見ると、やはり素晴らしく魅力的。一途にアイーダを思うロレンツォを演じるペランもいい。とてもいい映画だと思った。

 

「国境は燃えている」 1965年 ヴァレリオ・ズルリーニ監督

 傑作だと思う。

 第二次大戦中のドイツとイタリアに占領されていた時代のギリシャ。イタリア人中尉(トーマス・ミリアン)が従軍慰安婦12名をトラックに載せて、女性を求める舞台まで運ぶ任務を命じられる。同行するのは人の好い軍曹と黒シャツ隊の少佐。パルチザンに攻撃され、数人を失いながら、古トラックで山岳地帯を走る。軍曹は娼婦の一人とねんごろになり、黒シャツ隊の少佐は娼婦たちをモノ扱いする。その中で中尉は、飢えから逃れるために娼婦になった女性たちに敬意を払い、村を焼き払うイタリア軍に憤りを覚えている。娼婦に身を落としてもプライドを保とうとする無口な女エフティキア(マリー・ラフォレ)に惹かれ、心を通わせる。最後、女性は認知に到着するが、そのまま逃亡。中尉は一夜を共にしたのちに、それを見逃す。

 黒シャツ隊の少佐を含めて、全員が弱さとプライドを持った生身の人間として描かれる。食べるために仕方なく従軍慰安婦になった女性たちの悲しい生、男たちの欲望、ファシストたちの蛮行、ギリシャの村人の怒りと悲しみ、そこでも失われない他者への愛。戦場のすべてがトラックに集約されている。素晴らしい映画だと思った。

 

「高校教師」 1972年 ヴァレリオ・ズルリーニ監督

 今となってはまったく覚えがないのだが、どうやら私は若いころ、ズルリーニに偏見を抱いていたらしい。当時、私はイタリア映画が大好きでかなりの数の映画を見たはずなのだが、ズルリーニ作品はほとんどみていないようだ。アラン・ドロン主演の「高校教師」はさすがにみたはずだと思っていたが、どうやら、今回が初めて。アラン・ドロン(嫌いというわけではなかったが、そのもてはやされぶりにはうんざりしていた)主演の「高校教師」というタイトルなので、先入見を抱き、それが尾を引いて、ほかの作品もみなかったのではないかと思う。原題は「静寂の最初の夜」。

 しかし、今回みると、これは大傑作! 社会の片隅でうだつ上がらずに生きる臨時雇いの高校教師にしてはアラン・ドロンはかっこよすぎるし、華がありすぎるのだが、それに余りあるほどの魅力がある。

 ダニエレ(ドロン)は、臨時講師としてリミニの高校に赴任する。刑に服した過去があるらしく、かつての悲しい純愛を詩に残す詩人だったが、今は浮気を繰り返す妻(レア・マッセリ)とともに投げやりの生活をし、周囲を呆れさせる放任の授業をしては、夜になると盛り場で怪しい人間とつるんでカードをして遊んでいる。ダニエレは、最初の授業の日から、生徒の中でひときわ大人びたヴァニナ(ソニア・ペトローヴァ)に強く惹かれ、恋に落ちる。ところが、ヴァニナは町の有力者の愛人だった。金と暴力に屈していたヴァニラはダニエレに心を寄せるようになり、二人は一夜を過ごすが、それがみんなに知られ、町にいられなくなる。ヴァニラとともに暮らすために町から離れようとするとき、捨ててきた妻が気にしながら車で走るうち、ダニエレは交通事故にあって命を落とす。

 男に捨てられたために、今になって夫ダニエレにしがみつこうとする妻、ダニエレにやや同性愛的な好意を寄せる知的なトランプ仲間(ジャンカルロ・ジャンニーニ)、街の札付きの娼婦だったヴァニラの母親(アリダ・ヴァリ)など、田舎町の人々をとてもリアルに、そして魅力的に描く。

 息をのむような美しい場面がいくつもある。ダンスホールでヴァニナが男と楽しげに踊るところをじっとダニエレが見つめる場面、雨の夜の廃屋での二人のセックスの場面がとりわけ、静かな情念が映像全体にこもっているのを感じる。

 

「女ともだち」  1956年  ミケランジェロ・アントニオーニ監督

 かなり昔、VHSの時代にみた記憶がある。久しぶりに自宅でみた。やはり、感動する。ズルリーニも素晴らしいと思ったが、やはりアントニオーニは一味違う。原作はパヴェーゼ。しばらく読んでいないが、大好きな作家だ。

 トリノでの洋品店の開店を任されたクレリア(エレオノーラ・ロッシ=ドラゴ)はホテルの隣の部屋でロゼッタという若い女性が自殺未遂をはかったのをきっかけに、ロゼッタの属する上流社会の男女のグループと交流するようになる。そこで三角関係やら恋のとりもちやらさや当てやらを目にする。クレリア自身も庶民階級出身のカルロに恋をする。一旦は生きる希望を取り戻せたように見えたロゼッタだが、愛するロレンツォ(ガブリエレ・フェルゼッティ)に拒まれて自殺する。クレリアはカルロに救いを求めるが、最終的に仕事を選んでローマに戻る。

 映像全体からひしひしと愛することのむなしさ、悲しさ、生きることのむなしさが伝わってくる。一人一人が懸命に生きる。だが、だれもが自分のことで精いっぱいで愛を紡ぐことができない。愛するがゆえに、それを続けられない。海岸の男女の戯れ、夜のうらぶれた街角など、それだけで一つの美術作品ともいえるような美しさ。ロッシ=ドラゴも本当に美しいし、ネネ役のヴァレンティナ・コルテーゼも魅力的。名作だと思う。

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