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イタリア映画「鞄を持った女」「国境は燃えている」「高校教師」「女ともだち」

 我が家にも「アベノマスク」がようやく届き、10万円の給付金の申請書も届いた。それにしても、遅い! コロナ禍が浮き彫りにしたことの一つは、日本がすでに世界の先端を行く先進国ではなくなっており、とりわけITの面でアジアでも数番目の国になってしまったということだと思う。そして、その原因は、政府にあり、社会にあり、もちろん第一に私たち国民にある。それを強く感じている。

 ただ、ありがたいこともあった。先日、コロナ禍による面会禁止のために、施設に入っている母に3か月以上会えずにいることをこのブログに書いたが、ようやく制限付き解禁になって、母を生まれて40日ほどの曾孫と対面させることができた。耳が遠く、目もよくなく、認知についても完璧ではない母が正確に物事を把握したかどうかはわからないが、ともあれ母は私の娘とも昔のように話をし、赤ん坊を前にして微笑み、喜び、声をかけた。幸せな様子を見せた。

 そうした中、イタリア映画を数本見たので、簡単な感想を記す。

 

「鞄を持った女」 1961年 ヴァレリオ・ズルリーニ監督

 「激しい季節」が素晴らしかったので、同じズルリーニ監督の「鞄を持った女」をみてみた。

 クラブ歌手のアイーダ(カラウディア・カルディナーレ)は、スカウトだと称する男に騙され、そのまま置き去りにされる。男の弟で16歳のロレンツォ(ジャック・ペラン)はアイーダに同情するうちに強い恋心を寄せるようになる。だが、上流社会で暮らす純真で気真面目なロレンツォの真っすぐの愛に、日々の稼ぎのために男たちと渡り合って生きているアイーダはこたえることができない。ロレンツォはアイーダのために戦い、二人の心が通いかけるが、あまりに立場の異なる二人は別れるしかない。

 それだけの話だが、二人の立場、考え方が痛いほどにわかる。初々しい心のぶつかり合いがとてもリアルで、映像の一つ一つが抒情的。ちょっと蓮っ葉だが、根は純真で、小さな子どもを預けて必死で生き抜こうとしているアイーダを若々しいカルディナーレが演じる。

 カルディナーレは私の青春期の大スターで、私の周囲には胸を焦がす人が多かったが、私の美意識とは異なるようで、長い間、その美しさがわからなかった。今見ると、やはり素晴らしく魅力的。一途にアイーダを思うロレンツォを演じるペランもいい。とてもいい映画だと思った。

 

「国境は燃えている」 1965年 ヴァレリオ・ズルリーニ監督

 傑作だと思う。

 第二次大戦中のドイツとイタリアに占領されていた時代のギリシャ。イタリア人中尉(トーマス・ミリアン)が従軍慰安婦12名をトラックに載せて、女性を求める舞台まで運ぶ任務を命じられる。同行するのは人の好い軍曹と黒シャツ隊の少佐。パルチザンに攻撃され、数人を失いながら、古トラックで山岳地帯を走る。軍曹は娼婦の一人とねんごろになり、黒シャツ隊の少佐は娼婦たちをモノ扱いする。その中で中尉は、飢えから逃れるために娼婦になった女性たちに敬意を払い、村を焼き払うイタリア軍に憤りを覚えている。娼婦に身を落としてもプライドを保とうとする無口な女エフティキア(マリー・ラフォレ)に惹かれ、心を通わせる。最後、女性は認知に到着するが、そのまま逃亡。中尉は一夜を共にしたのちに、それを見逃す。

 黒シャツ隊の少佐を含めて、全員が弱さとプライドを持った生身の人間として描かれる。食べるために仕方なく従軍慰安婦になった女性たちの悲しい生、男たちの欲望、ファシストたちの蛮行、ギリシャの村人の怒りと悲しみ、そこでも失われない他者への愛。戦場のすべてがトラックに集約されている。素晴らしい映画だと思った。

 

「高校教師」 1972年 ヴァレリオ・ズルリーニ監督

 今となってはまったく覚えがないのだが、どうやら私は若いころ、ズルリーニに偏見を抱いていたらしい。当時、私はイタリア映画が大好きでかなりの数の映画を見たはずなのだが、ズルリーニ作品はほとんどみていないようだ。アラン・ドロン主演の「高校教師」はさすがにみたはずだと思っていたが、どうやら、今回が初めて。アラン・ドロン(嫌いというわけではなかったが、そのもてはやされぶりにはうんざりしていた)主演の「高校教師」というタイトルなので、先入見を抱き、それが尾を引いて、ほかの作品もみなかったのではないかと思う。原題は「静寂の最初の夜」。

 しかし、今回みると、これは大傑作! 社会の片隅でうだつ上がらずに生きる臨時雇いの高校教師にしてはアラン・ドロンはかっこよすぎるし、華がありすぎるのだが、それに余りあるほどの魅力がある。

 ダニエレ(ドロン)は、臨時講師としてリミニの高校に赴任する。刑に服した過去があるらしく、かつての悲しい純愛を詩に残す詩人だったが、今は浮気を繰り返す妻(レア・マッセリ)とともに投げやりの生活をし、周囲を呆れさせる放任の授業をしては、夜になると盛り場で怪しい人間とつるんでカードをして遊んでいる。ダニエレは、最初の授業の日から、生徒の中でひときわ大人びたヴァニナ(ソニア・ペトローヴァ)に強く惹かれ、恋に落ちる。ところが、ヴァニナは町の有力者の愛人だった。金と暴力に屈していたヴァニラはダニエレに心を寄せるようになり、二人は一夜を過ごすが、それがみんなに知られ、町にいられなくなる。ヴァニラとともに暮らすために町から離れようとするとき、捨ててきた妻が気にしながら車で走るうち、ダニエレは交通事故にあって命を落とす。

 男に捨てられたために、今になって夫ダニエレにしがみつこうとする妻、ダニエレにやや同性愛的な好意を寄せる知的なトランプ仲間(ジャンカルロ・ジャンニーニ)、街の札付きの娼婦だったヴァニラの母親(アリダ・ヴァリ)など、田舎町の人々をとてもリアルに、そして魅力的に描く。

 息をのむような美しい場面がいくつもある。ダンスホールでヴァニナが男と楽しげに踊るところをじっとダニエレが見つめる場面、雨の夜の廃屋での二人のセックスの場面がとりわけ、静かな情念が映像全体にこもっているのを感じる。

 

「女ともだち」  1956年  ミケランジェロ・アントニオーニ監督

 かなり昔、VHSの時代にみた記憶がある。久しぶりに自宅でみた。やはり、感動する。ズルリーニも素晴らしいと思ったが、やはりアントニオーニは一味違う。原作はパヴェーゼ。しばらく読んでいないが、大好きな作家だ。

 トリノでの洋品店の開店を任されたクレリア(エレオノーラ・ロッシ=ドラゴ)はホテルの隣の部屋でロゼッタという若い女性が自殺未遂をはかったのをきっかけに、ロゼッタの属する上流社会の男女のグループと交流するようになる。そこで三角関係やら恋のとりもちやらさや当てやらを目にする。クレリア自身も庶民階級出身のカルロに恋をする。一旦は生きる希望を取り戻せたように見えたロゼッタだが、愛するロレンツォ(ガブリエレ・フェルゼッティ)に拒まれて自殺する。クレリアはカルロに救いを求めるが、最終的に仕事を選んでローマに戻る。

 映像全体からひしひしと愛することのむなしさ、悲しさ、生きることのむなしさが伝わってくる。一人一人が懸命に生きる。だが、だれもが自分のことで精いっぱいで愛を紡ぐことができない。愛するがゆえに、それを続けられない。海岸の男女の戯れ、夜のうらぶれた街角など、それだけで一つの美術作品ともいえるような美しさ。ロッシ=ドラゴも本当に美しいし、ネネ役のヴァレンティナ・コルテーゼも魅力的。名作だと思う。

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コメント

お母様とひ孫との初対面、おめでとうございます! コロナが収束するのかしないのか、モヤモヤした日々にあって、久しぶりに心温まるお話でした。

投稿: Eno | 2020年6月 8日 (月) 08時09分

Eno 様
コメント、ありがとうございます。
我が家でそのような状況が作り出された日の前日、ちょうどNHKの夜のニュースで施設での高齢の方と曾孫さんの初対面が紹介されていました。きっと世界中で同じような小さなドラマが展開されたのでしょう。ただ、実は母に曾孫を抱かせたかったのですが、接触は許されず、2メートルほどあけて話をするだけでした。
時折、ブログを読ませていただいています。公演中止になった曲をCDで聴いたり、オペラの原作を読んだりなさっておられるんですね。ちょっと見習って、アトリウム弦楽四重奏団で聴く予定だったベートーヴェンの弦楽四重奏曲全曲を、最近購入したエベーヌ・カルテットのCDで聴こうと思っています。それにしても、コンサートの再開が待ち遠しいですね!

投稿: 樋口裕一 | 2020年6月 9日 (火) 08時34分

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