広上&新日フィルの第九 開放性に違和感を抱きながらも最後は感動
2020年12月20日、すみだトリフォニーホールで新日本フィルハーモニー「第九」特別演奏会を聴いた。観客は満員。空席を作らず、全席に客を入れていた。指揮は広上淳一。「第九」の前に、ベートーヴェンの交響曲第1番が演奏された。
第1番については、かなりオーソドックスな演奏だと思う。ベートーヴェンは若いころから大作曲家だったのだなと納得させられるが、私はあまり感銘を受けなかった。第1番を加える意味は何だったのか疑問に思った。
第九に関しては、メリハリのきいた明瞭な演奏といえるだろう。スケールが大きく、構成感がある。巨匠的な大きな造りでありながら、きびきびと音楽が進んでいく。
ただ、私は第1楽章からかなり違和感を覚えた。もし私が指揮者だったら(もちろん、私の音楽的才能はゼロなので、夢想的な仮定でしかないのだが)、展開部の盛り上がりの部分で、顔をゆがめ、絶望の身振りをし、うつむいてタクトを下に向けて地を掘るようなそぶりを見せるだろう。言葉にならない鬱積した魂の絶望的な叫びを音にしようとするだろう。ところが、広上は顔を上げて両手を大きく広げる。オーケストラからは、その身振りにふさわしい開放的な音が聞こえてくる。このように全体的に、求心的というよりも拡散的な音楽になっている。マエストロはきっとそのような音楽を作りたいのだと思うが、私の好きな第九ではない。
第2楽章も同じような雰囲気を感じた。第3楽章はとても美しかった。開放的な音が美しさを際立たせていた。ただ、私の好みからすると、やはりもっと求心的な昇華であってほしい。
第4楽章が始まっても合唱団も独唱者たちも舞台に登場しなかった。バリトン独唱が入る少し前になって、音楽が演奏されているさなかに合唱団(といっても16人)とソリストが舞台上に静かに表れて、歌い始めた。コロナのせいで、合唱団を絞っているためにこのような登場になったのだろうが、楽章の途中で拍手が起こって中断されたりしないこの方法は理想だと思う。
独唱者(小林沙羅、林美智子、西村悟、加耒徹)は健闘。そして、16人の合唱メンバーも大健闘。しっかりと声が届いていた。
広上の指揮は第4楽章にこそふさわしいだろう。開放的な音によって祝祭的に音楽が展開されていった。
ただ、16人の合唱なのだったら、オーケストラももう少し小編成でよかったのではないか。ところが、第一ヴァイオリン10人の編成で、しかも広上の指揮はスケールの大きな音楽を作り出していたので、そこに16人だけの合唱というのは、かなり無理がある。確かに合唱は健闘しているが、このオーケストラだったら、せめて50人くらいの合唱団がいないと釣り合わない。
とはいえ、最後の数分間の高揚はすさまじかった。祝祭感にあふれ、歓びにあふれた。これがマエストロ広上の考える第九の高揚なのだろうと思った。
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