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鈴木秀美&新日フィル 三重協奏曲はちょっと不満、「運命」には大いに感動

 2021327日、トリフォニーホールで新日本フィルハーモニー交響楽団定期演奏会を聴いた。指揮は鈴木秀美。曲目は前半に、新日フィルメンバーの崔文洙(ヴァイオリン)と長谷川彰子(チェロ)に、崔文洙の兄上の崔仁洙(ピアノ)が加わって、ベートーヴェンの三重協奏曲、後半にベートーヴェンの交響曲第5番(運命)。

 三重協奏曲については、私は少々不満を抱いた。三人のソリストも息があっていないように思えたし、三人とオーケストラもちぐはぐな気がした。ヴァイオリンの崔文洙はかなり切れの良い音で演奏していたが、それがピアノやチェロともかみ合っていないのではないかと思った。全体のバランスもよくなく、あたふたしているうちに終わった印象を持った。船頭多くして船山に登るとでもいうか。

 トリオのアンコールとして、ベートーヴェンのピアノ三重奏曲第四番「街の歌」の第二楽章が演奏されたが、私にはこれも納得できなかった。音にまとまりがなく、ばらばらな気がした。

 後半の交響曲第5番は、それに引き換えすばらしかった。快速のテンポでぐいぐいと音楽を進めていく。三重協奏曲では滞り気味だったが、こちらはものすごい推進力で、音の重なりにも凄味がある。鈴木の古楽的な表現をオーケストラのメンバーが完全に自分のものにしているのがよくわかる。まったく無駄なく音楽が展開していく。大いに感動した。

 私はとりわけ第2楽章の緊密度に惹かれた。この曲の第2楽章が力感にあふれたものであることを強く感じることができた。ただ、終楽章の肝心なところでホルンの音がひしゃげたのは残念だった。

 アンコールはベートーヴェンの「12のメヌエット」の一つ。これも起伏の大きなリズムがとても魅力的だった。

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オペラ映像「運命の力」「ドン・カルロ」「アイーダ」「オテロ」「ファルスタッフ」

 ヴェルディの全オペラ映像集(トゥット・ヴェルディ)をみおえた。簡単な感想を記す。

「運命の力」 2011年 パルマ・レッジョ劇場

 もちろん、このオペラの映像は何度かみたことがあるが、台本の出来の悪さを痛感する。「トロヴァトーレ」ほど支離滅裂ではないが、ありそうもない偶然が続き、無理やりドラマティックにしようとするあまり、人物の心理にまったく説得力がない。しかも、そのくせ無駄が多く、結局はドラマが空転していく。そうなると、どうしても音楽も空疎に聞こえてしまう。

 とはいえ、レオノーラを歌うディミトラ・テオドッシュウはさすが。この人の歌を聴くと、レオノーラの背負った悲劇がリアリティを持つ。ドン・アルヴァーロのアキレス・マチャドは、この役にふさわしい容貌だが、張りのある美声ながら、コントロールできていないところがある。ドン・カルロのウラディーミル・ストヤノフは安定した歌唱、メリトーネのカルロ・レポーレは味のある歌唱。

 ジャンルイージ・ジェルメッティの指揮するパルマ・レッジョ劇場管弦楽団はかなりもたついて聞こえる。合唱団もぴたりと合わない。

 演出はステーファノ・ポーダ。イタリアオペラには珍しく、あれこれの仕掛けがある。第3幕では、死者の群れが現れ、幕の終わりに、まるでゾンビのように復活する。傾いた十字架を背景にした舞台はとても魅力的だが、細かいところで意図はよくわからなかった。

 

「ドン・カルロ」(1886年モデナ版 5幕) 2012年 モデナ市立劇場

 ヴェルディを聴きこんでいるわけではないので偉そうなことは言えないが、私のもっとも好きなヴェルディのオペラと言えば、「ドン・カルロ」だ。昔から聴いてきた「椿姫」もいいが、「ドン・カルロ」は作品として別格の完成度だと思う。そんなわけで期待してこの映像をみたのだったが、残念ながら、かなり期待外れだった。

 歌手陣はみんなが「イマイチ」という表現にぴったり。ドン・カルロのマリオ・マラニーニはよく通る美声なのだが、時々音程が不確かでコントロールも甘い。エリザベッタのチェリア・コステアはきれいな声だが、それ以上のものを感じない。ロドリーゴのシモーネ・ピアッツォラは声量不足で音程も甘い。エボリ公女のアラ・ポズニアクは歌唱が粗い。ただフィリッポ2世のジャコモ・プレスティアはなかなかの迫力でしっかり歌うが、私は大きな魅力は感じなかった。

 歌手陣よりももっと私が不満に感じたのは、ファブリツィオ・ヴェントゥーラ指揮のエミリア・ロマーニャ州立管弦楽団だった。情けない音が出るし、歌に寄り添っていかない。歌手陣が「イマイチ」だとすると、こちらは「イマサン」か「イマヨン」といったところ。

 そんなわけで、トゥット・ヴェルディのオペラ集の中で最も期待していたのだったが、おそらくはもっとも質の低い上演に私には思えた。おとなしく耳を傾けるのがつらくなった。

 

「アイーダ」 2012年 パルマ・レッジョ劇場

「アイーダ」はあまり好きな作品ではないのだが、この映像はかなり感動してみた。

 アイーダのスザンナ・ブランキーニが素晴らしい。ちょっと声の威力という面では不足がないではないが、音程のいい美声で、声の強さもあり、声のコントロールも見事で、容姿がこの役にぴったり。ラダメスのワルテル・フラッカーロについても同じような印象を持った。軽めの声であまり英雄という感じはしないが、心地よい美声で、声のコントロールが見事。アムネリスのマリアーナ・ペンチェヴァもとてもいい。迫力ある声で思いを歌う。アモナズロのアルベルト・ガザーレも突出しているわけではないが、とてもバランスがいい。この四人が緊密なアンサンブルで盛り上げている。

 アントーニオ・フォリアーニの指揮によるパルマ・レッジョ劇場管弦楽団にも不満はない。大きな盛り上がりを聴かせてくれる。とてもいい指揮者だと思った。ジョゼフ・フランコーニ・リーの演出についても、とても良かったと思うが、特に新しい解釈はなさそうだった。

 

「オテロ」 20088月、ザルツブルク音楽祭

 これまでトゥット・ヴェルディの映像をみつづけ、パルマ・レッジョ劇場のオーケストラも決して悪くないと思っていたが、ウィーンフィルによるザルツブルク音楽祭の演奏を聴くと、やはり圧倒的な違いにあきれるしかない。いやはや別格。

 もちろん歌手陣も充実。オテロを歌うアレクサンドルス・アントネンコは強靭な声で堂々たる歌いっぷり。イヤーゴのカルロス・アルバレスもそれにまったく引けを取らない。演技も見事。憎たらしい役を見事に造形し、仕草も実に自然。声も申し分ない。デズデーモナのマリーナ・ポプラフスカヤはオテロとイヤーゴに比べるとやや弱いが、しっかりと歌っている。カッシオのスティーヴン・コステロ、エミーリアのバルバラ・ディ・カストリなどの役も文句なし。

 とはいえ、実は私は「オテロ」は苦手なのだ。こんなに見るからに怪しい人間の言うことを一方的に聞きいれて騙されてしまうなんて、なんて愚かなんだと思ってしまう。オペラを見て、そう思うことがいかに野暮かはよくわかっているのだが、オテロの愚かさが我慢できない。しかも、この大袈裟な音楽もしばしば辟易する。もっと静かな音で、内向的に悩むところがほしい。「ドン・カルロ」のフィリッポ2世のように、「彼女は私を愛していない」と静かに悩んでほしい。ところが、オテロは大音響で悩みを歌い上げる。

 そして、指揮のリッカルド・ムーティがいやがうえにも盛り上げる。実はムーティも嫌いな指揮者の一人なのだ! ウィーンフィルのものすごい音でこれほど切れ味よくダイナミックに大音響で演奏されると、私には一人の男の悩みがにせものじみて聞こえてしまう。

 そんなわけで、好きな人はこんな演奏を好むんだろうなと思いながら、最後まで、あまりのドラマティックな展開についていけなかった。

 

「ファルスタッフ」 2011年 パルマ・レッジョ劇場

 とても良い上演だと思う。全体がそろっていて、心地よい。

 ファルスタッフを歌うのは、この役を得意にするアンブロージョ・マエストリ。まさに適役で、ファルスタッフがこうであろうという外見と態度で見事に歌う。アリーチェのスヴェトラ・ヴァシレヴァも悪くない。ちょっと声に癖があるために、くせ者のアリーチェになっているが、そのようなアリーチェがいてもいいだろう。フォードのルカ・サルシ、クイックリー夫人のロミーナ・トマゾーニ、メグのダニエラ・ピーニ、ナンネッタのバルバラ・バルニェージも特に不満はない。

 指揮はアンドレア・バッティストーニ。メリハリのきいた演奏で、とてもいい。演出はスティーヴン・メドカルフ。コミカルでおしゃれな雰囲気があって、これも楽しい。

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戸田弥生&野原みどりのフランクに興奮した

 2021321日、横浜市江南区民文化センターひまわりの郷で、戸田弥生・&野原みどりデュオ・リサイタルを聴いた。

 当初、アブデル・ラーマン・エル=バシャが共演予定だったが、コロナ禍のために来日できなくなって、ピアノは野原みどりに変更。だが、野原さんは大好きなピアニストだ。何しろ、私は、多摩大学でクラシックコンサートを企画・運営するゼミを担当していた時代、思い切って戸田さんと野原さんに演奏をお願いし、快諾を得て、素晴らしい演奏のコンサートを実現したことがある。また、お二人の演奏を聴けるのが何よりもうれしかった。

 曲目は前半にベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ第5番「春」とショパンの「幻想ポロネーズ」、ラヴェルの「ツィガーヌ」、後半にフランクのヴァイオリン・ソナタ。

「春」は、野原の澄んだ音による凛として高貴なピアノと、戸田の聴き手の魂をわしづかみにするようなヴァイオリンで始まる。戸田のヴァイオリンを聴くと、私はいつも、昔レコードでなじんだシゲティのヴァイオリンを思い出す。シゲティと同じような集中力と精神性。しかも、シゲティよりもずっと美しい音。戸田がぐいぐいと攻めていく。野原の音も熱気を帯びてくる。二人にしかできない音楽になっていく。まさに大人の音楽。昨日聴いた松田・新倉・岡田の三人の若い女性の音楽も溌溂として若々しくてよかったが、戸田と野原の音楽はもっと深く、もっと大人の熱いロマンティズムが高揚していく。第三楽章、第四楽章の盛り上がりは素晴らしかった。

 野原のソロによる「幻想ポロネーズ」も、その斬新でロマンティックな響きにびっくり。私はショパンをほとんど聴かないので、実はこの曲もよく知らない。時々、まるでラフマニノフのような音がした。内省的でダイナミックで心の内をたたきつけるような表現に思えた。

 私は戸田と野原による「ツィガーヌ」はこれまで二度ほど聴いている。が、またしても大いに感動した。二人が演奏すると、まさに人間の奥底を揺り動かす音楽になる。テクニックを見せて爽快に弾きまくるような演奏ではない。遊びを入れた音楽でもない。人間の苦しみや悲しみを真正面から受け止める音楽とでも言うか。ロマに生き様が重なるような音楽。求心的に魂の奥底に入り込んでいくような気がする。

 後半のフランクのソナタは前半以上に素晴らしかった。

 最初からロマティズム全開。ロマンの香りというような生易しいものではなく、魂の内奥に肉薄するような音楽だと思う。野原のピアノも戸田に劣らずに最初からダイナミックに飛躍し、徐々に熱を増していく。第二楽章と第四楽章に私は引き込まれた。ただただ興奮して耳を傾けるばかりだった。

 アンコールはファリャの「7つのスペイン民謡」から「ナナ」とドビュッシーの「亜麻色の髪の乙女」。フランクの興奮のままでは家に帰れない。この二つの曲で心をしずめることができた。

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松田理奈・新倉瞳・岡田奏トリオ 地震で中断も、素晴らしいブラームス

 2021320日、フィリア・ホールで「土曜ソワレシリーズ 女神との出逢い」 松田理奈・新倉瞳・岡田奏トリオを聴いた。まさに美神と呼ぶべき三人の若き女性ソリストたちの共演だ。

 曲目は前半にメンデルズーンのピアノ三重奏曲第1番 ニ短調、後半にブラームスのピアノ三重奏曲第1番ロ長調。ともにすばらしかった。

 3人の息がぴたりと合って、これが最初の共演とは思えない。世代も音楽的なアプローチも一致するのではないだろうか。のびやかで生き生きとした演奏。音楽がびしりと決まっていく。ピアノの岡田がリードしているのだろうか、ニュアンスの変化が手に取るようにわかり、生き生きとした音楽が展開されていく。

 メンデルスゾーンは若々しくてのびやかな感性が十分に発揮されていた。岡田のピアノは粒立ちの明確な強い音を加えて、音楽を築いていく。松田の美しいヴァイオリンと新倉の生き生きとしたチェロが即座にそれに反応して、メンデルスゾーンのしなやかで繊細な精神を再現していく。

 ブラームスもとても良かった。ただ第1楽章の途中で地震があり、観客も演奏家も「中断して逃げるべきか続けるべきか」で迷う様子がありあり。結局、楽章の最後まで演奏されたが、第1楽章が終わったところでホールの点検ということで中断。5分ほどして、第2楽章から続けられた。第2楽章はまだ、客も演奏者も中断のための心の乱れが残ったが、第3楽章からはすっかりと音楽の中に没入。素晴らしかった。しっとりとした第3楽章、そして終楽章の盛り上がりもみごと。ブラームス特有の内向的な情熱が徐々に外に開放されていった。

 プログラムが終わった後、三人がそれぞれ、地震のこと、そして三人の初共演について少し話をしてからアンコール。ベートーヴェンの「街の歌」の第2楽章。これもぴたりと息があってしなやかで初々しい音楽を聴かせてくれた。

 本当に素晴らしかった。今回だけでなく、ぜひ、この3人にはこれからもトリオを続けていただきたい。レコーディングもしてほしい。こんな素晴らしい演奏を今回だけで終わりにしてはあまりにもったいない。

 新型コロナウイルスの緊急事態宣言の解除が近づいたが、まだもちろん解除されていない。しかし、夕方、コンサートに横浜市の青葉台に行ったわけだが、自宅最寄り駅も青葉台駅もごった返していた。コンサートの後、居酒屋のある飲食街を通って自宅に帰ったが、大勢の客が酒を飲んで談笑していた。リバウンドしないのだろうか。心配になる。

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浅野真弓&クァルテット・エクセルシオのブラームス 抑制しすぎなのか?

 2021318日、王子ホールで浅野真弓(ピアノ)とクァルテット・エクセルシオによるコンサートを聴いた。

 曲目は前半に、ピアノソロによるショパンのノクターン 第20番「遺作」、第2番変ホ長調、エチュード「別れの曲」、エチュード「革命」。そして、西野ゆかと大友肇が加わってハイドンのピアノ三重奏曲 ト長調 HobXV:25「ジプシー風」。後半にクァルテット・エクセルシオの全員が加わってブラームスのピアノ五重奏曲。

 基本的にピアノソロをほとんど聴かない私の目当てはもちろん後半のブラームスだ。クァルテット・エクセルシオの実演は、たぶん一度か二度しか聴いていないが、テレビなどでよく聴いている。とても良い弦楽四重奏団だと認識している。楽しみにして出かけた。

 ピアノソロについては、私は魅力を感じなかった。もともとショパンは好きな作曲家ではないので、何とも言えないが、ショパンの想いをピアノから感じ取ることができなかった。また、リズムがしっかりと安定していないように感じた。

 ハイドンの「ジプシー風」は初めて聴いた。ハイドンの曲を聴くといつも思うが、どれも本当に名曲だ。第2楽章など、実に美しい。第3楽章のジプシー風の楽想も魅力的だ。ただ、もっともっとこの曲の魅力を引き出せると思うのに、演奏者たちはかなり抑制的だった。第二楽章ではヴァイオリンの響きを浮き立たせるようにすれば、いっそう魅力的になるだろう。第三楽章はもっとジプシー風にメリハリをつければ、もっとワクワクするだろう。やりすぎると、もちろん下品になって音楽が壊れるが、ハイドンはもう少し起伏をつけるように作っているような気がした。なぜ、こんなに抑制的なのか、私は不思議に思った。

 ブラームスについても同じ印象を持った。この曲にはあちこちに聴かせどころがある。私がこれまで聴いてきた録音や実演では、聴かせどころを強調していた。弦が徐々に徐々に静まって、その中からおもむろにピアノが立ち上がって、明るく響き渡ったり、もやもやとした中から突然第一ヴァイオリンが抜け出し、それが第二ヴァイオリンに受け継がれて激しく躍動していったり・・・。そんな「音の物語」があちこちにあるはずだった。ところが、今日の演奏はそれらの聴かせどころのほとんどを素通りしていった。そして、ときどきピアノと弦楽器のバランスが崩れるのを感じた。強弱の差も少なくて、なんだかずっとシャカリキになっているようにも感じた。

 あえてメリハリをつけずに抑制したのだろうか。どういう意図があるのだろう。私にはよくわからなかった。よくわからずに困惑しているうちに音楽は終わった。

 アンコールにドヴォルザークのピアノ五重奏曲第2番の第三楽章が演奏された。これが一番良かった。わかりやすくメリハリがつき、聴かせどころが強調されていた。プログラム内の曲もこのように演奏してくれたら、私はもっと感動できたのに!と思ったのだった。

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新国立劇場「ワルキューレ」 様々な制約の中でも、素晴らしかった!

 2021317日、新国立劇場で「ワルキューレ」をみた。

 手術後療養中の飯守泰次郎に代わって大野和士が指揮をし、歌手陣もコロナ禍のために日本人中心に変更、しかも、オーケストラピット内の間隔を確保するため、管弦楽縮小版を使用。もしかしたら、あまりレベルの高くない「ワルキューレ」になるのではないかと心配して出かけたが、どうしてどうして。素晴らしい上演だった。

 まず、大野の指揮がいい。縮小版のオーケストラであるせいかもしれないが、室内楽的でしなやか。ワーグナー的な剛腕なところはないが、それはそれで流動的で十分にうねって、しかも官能的。東京交響楽団も柔らかくて伸びのある音を作り出して見事。ダレることがなく、ずっと緊迫感があり、しかも「歌」がある。

 歌手陣については、やはりたった一人の外国人、ヴォータンのミヒャエル・クプファー=ラデツキーが図抜けていた。体格もよく、まさに神様に見える。気品ある声を見事にコントロールして歌う。第三幕はことのほか素晴らしかった。

 ジークリンデの小林厚子、ブリュンヒルデの池田香織、フリッカの藤村実穂子も見事というしかない。小林は声量のある美声で健気なジークリンデを演じていた。池田は、太くて芯の強い声ながら、演技によって女丈夫らしくない子どもっぽさをだして、ドラマを盛り上げていた。きっとそのような演出なのだろうが、池田はそれを最高に演じていた。以前から素晴らしい歌手だったが、これほどまでの大歌手になるとは! 藤村は、まったく衰えない迫力ある歌唱。フリッカの凄味が伝わってきた。

 ジークムントは第1幕を村上敏明、第2幕を秋谷直之が歌った。村上は素晴らしい美声なのだが、第一幕後半では声が出なくなって、いかにも苦しげ。本当はこの人が全幕を歌うのがベストなのだろうが、声が続かないので、第二幕は秋谷に譲ったということだろう。その秋谷は、堅実だが、やはり声の魅力では村上にかなわない。フンディングの長谷川顯はしっかりと悪役を演じていた。

 ゲッツ・フリードリヒの「ワルキューレ」は、前にもみた。ただ、すべての幕でこれほど舞台が傾いていたのだったか。よく覚えていない。二人の対話の場面では、どちらが高い場所に行くことによってその威圧感を示している。現在からみると、かなりありふれた演出だが、やはり理にかなっている。第三幕には深く感動した。すでに結婚した娘を持つ身としては、この場面は涙なしにはいられない。

 コロナ禍のために、日本人中心のキャストになってしまったとはいえ、逆に言えば、日本人にこれだけ歌えることを示すチャンスになったともいえるだろう。ともあれ、大変感動して帰宅したのだった。

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映画「不幸な街角」「カプリの皇帝」「懐かしの日々」「ギリシャからの帰還」

 イタリア映画の安売りDVDセットの残りをみたので、簡単に感想を記す。

 

「不幸な街角」 1948年 マリオ・カメリーニ

 失業して家族に食べさせることもできなくなった男(マッシモ・ジロッティ)が、妻(アンナ・マニャーニ)に責めたてられ、困り抜いた挙句、高級車を盗んで売ろうとする。ところが、車に乗った夫をみた妻は仕事中と勘違いして、子どもとともに車に乗り込み、行動を共にしようとする。事情を知らないで天真爛漫に振る舞う妻と、何とかごまかす夫の間であれこれのことが起こったのち、結局は妻は真相を知り、夫は後悔して車を元の場所に返し、無事、何事もなかったことになる。

 せっかちで人の良い妻をマニャーニが見事に演じ、とてもおもしろい。子供に食事を与えられなくなった夫婦の悲しみがよくわかる。根は善良だったり、気弱だったりする小悪党たちもとてもリアル。戦後のイタリアの状況も手に取るようにわかる。ただ、マッシモ・ジロッティは好きな役者だが、今回の役にはちょっとカッコよすぎる。もう少しうらぶれた雰囲気が欲しい。

 だが、ともあれ人間の善意を信じる気になり、未来に希望を抱く気になる佳作だと思う。

 

「カプリの皇帝」 1949年 ルイジ・コメンチーニ監督

 イタリアの喜劇王トト主演の喜劇。ホテルの給仕を務めるトトはインドの大富豪と間違われて歓楽の島カプリを訪れ、何人もの女性に言い寄られる。最後には正体がばれるが、大富豪の命を助けることになって、感謝される。

 とはいえ、現代の日本人の私には少しもおもしろくなく、最初から最後までクスリともしなかった。せめてもう少しセンスの良い笑いがほしい。先日、BSで放送されていたチャップリンの喜劇(もちろん、私はどの作品も数回、数十回とみている!)と大違い。トトの映画は何本かみているが、まだ本当におもしろい映画にあたっていない。

 

「懐かしの日々」 1952年 アレッサンドロ・ブラゼッティ 

 野外古書店の主人が売り物の本やら身近にあった本について語る。それらの本の内容を描く9篇から成るオムニバス映画。少年鼓手の活躍の物語や少年少女の淡い恋、不義を暴かれて自殺する人妻など様々な短い物語が描かれる。デ・シーカが弁護士の役をして、ロロブリジーダ演じる被告人を「美を閉じ込めるべきではない」という論理で弁護をする最後の話が最も充実している。

 しかし、私はどのエピソードもあまりおもしろいとは思わなかった。それぞれのエピソードが短すぎて、十分に登場人物の内面を描き切れていないのを感じる。すべてが中途半端に思える。演出やカメラワークには感心する。とりわけ最後のエピソードはデ・シーカのあまりの演技力(「チャップリンの独裁者」の最後のあの演説場面に匹敵するほどだと思う)とロロブリジーダのあまりの美しさに圧倒されるが、話自体はたいしておもしろくなかった。

 

「ギリシャからの帰還」 1942年 ロベルト・ロッセリーニ監督

 やはりロッセリーニが監督すると、ほかの映画とはまったくレベルが異なる。単に主人公(マッシモ・ジロッティ)が爆撃機に乗り込んで飛行しているだけの場面もリアリティにあふれ、緊迫感がみなぎる。一つ一つの映像に無駄がなく、登場人物に動きも理にかなっている。だから、つい食い入るように映像を見てしまう。

 ただ、この映画がおもしろいかといわれると、それほどでもなかった。主人公は爆撃機でギリシャを攻撃しているうちに、迎撃されて捕虜になり、捕虜仲間と交流し、最後には脱走して敵機を奪って祖国に戻る。私の教養不足のために、第二次大戦期のギリシャの状況があまり頭に入っておらず、人々の行動がぴんとこないせいもあるが、あまり主人公に感情移入ができない。結局、単に主人公の行動を追いかけただけで終わっただけの映画に思えた。

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古いイタリア映画「2ペンスの希望」「明日では遅すぎる」「街は自衛する」「アンナ」「椿なきシニョーラ」

 10枚組1800円の古いイタリア映画のセットが新たに販売されているのを知った。私は、学生時代、パゾリーニ、アントニオーニ、フェリーニ、ヴィスコンティに夢中だった。少し前の時代のロッセリーニ、デ・シーカ、ジェルミの映画も好きだった。今回購入したセットには、これまでみたことのない映画が収録されている。1950年前後の作品を数本みたので感想を記す。

 

2ペンスの希望」 1952年 レナート・カステラーニ監督

 復員してきたものの仕事がなく、母や妹たちを抱えて苦労する青年と、その青年と恋に落ちた花火師の娘の物語。二人して軽率な行為ばかりをして、すぐに青年の仕事はクビになり、少女は親の厄介者扱いされる。最後まで、二人の結婚は娘の頑固な父親に認められないが、町中の人々の後押しによって二人はしっかりと生きていこうとする。ストーリーはそうまとめられるだろう。

 戦後イタリアの田舎町の貧しい庶民の生活をにぎやかに、活気を持って描いている。登場人物のほとんど、特にヒロインの少女が常にがなり立て、がさがさと動き回っているので、私のような「静謐好き」の人間にはうるさく感じられるが、そうであるがゆえにガサツな人々の必死に生きる姿がリアルに感じられる。軽率な二人を呆れてみながらも応援したい気になる。貧しく、したたかで、根は善良な脇役たちもとても魅力的だ。

 とても良い映画だと思う。カンヌ映画祭のグランプリ作品だというが、納得できる。ただ、邦題はなぜ「2ペンス」なのか。「小銭」という意味で「2ペンス」なのだと思うが、イタリアなのだから、「リラ」だろうに。日本人にわかりやすく「ペンス」にしたのだろうか。

 

「明日では遅すぎる」 1950年 レオニード・モギー

「青い山脈」のイタリア版とでもいうべき映画。旧弊な学校に通うフランコ(ジーノ・レウリー二)とミレッラ(ピア・アンジェリ)は同じマンションに住み、淡い恋心を互いに抱いている。性に目覚め、互いを意識し始める。ところが、古い道徳の持ち主である校長は二人を理解せず抑圧する。若い女性教師アンナ(ロイス・マクスウェル)が校長にたてつきながら、二人を支える。ランディ先生(ヴィットリオ・デ・シーカ)もアンナを支持し、少年少女は抑圧から一歩踏み出す。

 この映画には大勢の生徒たちが登場するが、この映画でも「2ペンスの希望」と同じように大きな声でしゃべり、しじゅう走り回っている。ネオ・レアリスモの一つの表現法でもあり、猥雑な活気にあふれていた時代の反映でもあるだろう。それにしても、大勢の人間がワイワイと一緒に行動するイタリア映画をよく見るが、きっと現実世界でもイタリアはこうなのであろう。

 1950年代には鮮烈だっただろうが、今みると、少々薄っぺらさを感じざるをえない。

 

「街は自衛する」 1951年 ピエトロ・ジェルミ監督

 サッカー場を襲って売上金を奪った四人組の強盗が警察に追われて逃げ惑う。全員が自殺したり、つかまったりするまでを描く。

 ジェルミの監督作品だけあって、緊迫感に富み、人間観察も鋭い。脚本にフェリーニも加わっているらしい。とてもおもしろかった。

 見覚えのある俳優さんが何人か登場するが、名前と顔が一致するのは、ちょい役のジーナ・ロロブリジーダだけだった。中学生の私が彼女を知ったとき、すでに40歳くらいになっていたが、本当に美しかった。西洋女性というのはこんなに魅力的なのかと幻惑された。今見ても本当に美しい。身を転落させてこんな女性に捨てられたら、強盗してでもまた取り戻そうという気持ちになるのもわからないではない。強盗に至った四人の絶望感が簡潔な描写の中にひしひしと伝わる。

 強盗の中で最も若かったアルベルトは、刑事の張り込みを知って、4階?くらいのアパルトマンの壁伝いに外に逃げようとするが、母親の説得に応じて捕らわれる。説得する母の表情、そしてその横で黙ったままでいる父親の眼の演技に圧倒される。残酷な結末を迎える映画だが、この場面が救いになっている。そうした構成もまた見事。

 

「アンナ」 1951年 アルベルト・ラトゥアーダ監督

 高校生のころだったと思う。テレビの深夜枠で一度この映画をみた記憶がある。シルヴァーナ・マンガーノの尼僧姿が強く印象に残っている。今回みなおして、なかなかの佳作だと思った。ただ、感動するほどではない。

 当時、危険な男・ヴィットリオ・ガスマン、まじめな男・ラフ・ヴァローネというイメージがあったのだろうか。この二人がシルヴァーナ・マンガーノを奪い合うという、「にがい米」とそっくり同じような構図の映画だった。

 アンナ(マンガーノ)は病院の看護師として尼僧姿で働いている。ところがそこに、かつての婚約者アンドレア(ラフ・ヴァローネ)が交通事故を起こして運び込まれる。アンナは過去を思い出す。かつて、アンドレアと結婚しようとしたが、結婚式の当日、アンドレアはアンナと腐れ縁の切れないヴィットリオ(ヴィットリオ・ガスマン)ともみ合ううちに殺してしまったのだった。それを契機に、アンナは尼僧になることを決意し、そのまま病院で有能な看護師として働いていたのだった。

 アンドレアは無事退院を果たし、アンナとやり直そうと説得する。アンドレアの元に戻ろうと考えたちょうどその時、列車事故が起こり、アンナは看護師としての仕事に戻って、アンドレアのもとに走ることを断念する。尼僧姿の中のアンナの心の葛藤がよくわかる。

 妹役の女性がシルヴァーナ・マンガーノにとても良く似ていて、とても美しい。シルヴァーナ以上に美しい。実妹が出演しているというので、この少女なのだろう。ソフィア・ローレンが脇役で出ているという。それらしい女性がいたが、それがローレンだと断言する自信がない。

 

「椿なきシニョーラ」 1953年 ミケランジェロ・アントニオーニ監督

 ミケランジェロ・アントニオーニの初期の作品。私はアントニオーニ・ファンなのだが、この作品は初めて観た。少々だれるところはあるものの、さすがアントニオーニというべきか、深みがあり、女性の心の渇きを描いて、とてもいい。最後にはおおいに感動した。

 ミラノで店員だった娘クララ(ルチア・ボゼー)が、大物監督に見出されて映画女優になり、監督の妻になる。だが、容姿だけでちやほやされて言いなりになって人形のように生きるのに嫌気がさして、監督と別れて、言い寄る男と生きなおそうとするが、男は遊びを目的としていた。失意の後、演技派女優を目指そうとするが、周囲が求めているのはそれではない。使い捨てにされるとわかりながら、心ならずも笑顔を振りまくしかない。

「愛の不毛」を描いた後年のアントニオーニに通じるものがある。映像も実に美しい。人であふれる映画の撮影現場が殺伐として見える。

 ボゼーはとても美しく魅力的だが、私としては、つい、「こんなにウェストが細くて、人間、生きていられるんだろうか」というきわめて卑近で生物学的な心配をしてしまった。

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ヴェルディのオペラ映像「トロヴァトーレ」「椿姫」「シチリア島の夕べの祈り」「仮面舞踏会」

 私は高齢者なので、医療関係者の後にワクチンを打てってもらえるはずだが、高齢者の中では私はまだひよっこの部類なので、はたしていつになるか。接種が終わったら、ヨーロッパやら東南アジアやらチベットやらに行くぞ!とゆめみつつ、「トゥット・ヴェルディ」に含まれたヴェルディのオペラ映像をみた。簡単な感想を記す。

 

「トロヴァトーレ」2010年 パルマ・レッジョ劇場

 ヴェルディのオペラを初期からみつづけていると、やはり音楽的には、「リゴレット」「トロヴァトーレ」あたりからとびぬけた傑作になっていくのがよくわかる。「トロヴァトーレ」はこれだけ荒唐無稽で愚かしいストーリーなのだが、それでもみるに堪えるというのは、音楽のとてつもない力のおかげというしかない。

 歌手陣の中で名前を知っているのはマンリーコを歌うマルセロ・アルヴァレスだけだが、ほかの歌手たちも含めて実に充実している。ただやはりアルヴァレスは勢いのある輝かしい声で図抜けている。レオノーラのテレーザ・ロマーノは若くて粗削りだが、馬力があってとてもいい。ちょっと太めだが、容姿も素晴らしい。この映像は2010年のものだが、この後、どうなったのだろう。これほどの実力であれば、頭角を現していると思うのだが、ネット上に記載がない。

 ルーナ伯爵のクラウディオ・スグーラ、アズチェーナのムジア・ニオラージェ、フェランドのデヤン・ヴァチュコフもとてもいい。それぞれの役を最高度に再現している。

 指揮者はユーリ・テミルカーノフ。びしりと決まってドラマティックな演奏。テミルカーノフらしい。演出はロレンツォ・マリアーニ。特に強い印象は受けなかった。

 

「椿姫」 2007年 パルマ・レッジョ劇場

 中学生のころからドイツ系のオペラにばかりなじんでいた私が、唯一、同じころから大好きでレコードを繰り返し聴いていたイタリア・オペラが「椿姫」。そのためか、このオペラについてはどうしても少々、厳しくなる。

 ユーリ・テミルカーノフの指揮はかなり緻密。しかし、歌手陣はかなりアバウトというか、少々雑な気がする。ヴィオレッタのスヴェトラ・ヴァシレヴァは、かなりアクの強い歌いっぷり。圧倒的な目力(メヂカラ)とともに私は歌の個性にも息苦しさを感じてしまう。アルフレードのマッシモ・ジョルダーノは声量はあるが、まさに粗い。ジョルジョ・ジェルモンのウラディーミル・ストヤノフは豊かな声だが、私には父親的に包容力を感じなかった。

 ウルゼル・ヘルマンによる演出もきわめて標準的に思えた。

 

「シチリア島の夕べの祈り」2010年 パルマ・レッジョ劇場

 モンフォルテを歌うのはレオ・ヌッチ。さすがというしかない。どんな役を歌っても、見事な歌と癖のある演技でみる者を引き込む。エレナのダニエラ・デッシも見事。声も美しく、演技も気品にあふれている。だが、私がもっと惹かれたのは、アリーゴを歌うファビオ・アルミリアートだ。声そのものに気品があり伸びがある。姿かたちも実にこの役にぴったり。この歌手、名前は前から知っていたが、今回、初めて聴いたような気がする。プロチダを歌うジャコモ・プレスティアもとてもいい。

 ただ、マッシモ・ザネッティの指揮にどうも乗り切れなかった。歌手陣の頑張りがあるのだから、もっと大きく盛り上がってよいと思うのだが、そうならなかった。演出はピエール・ルイージ・ピッツィ。簡素だが、私としては特に不満はない。

 

「仮面舞踏会」 2011年 パルマ・レッジョ劇場

 リッカルドのフランチェスコ・メーリの気品のあるのびやかな美声がやはり圧倒的に素晴らしい。この役にぴったり。レナートのウラディーミル・ストヤノフもそれに匹敵するほどの伸びのある声で復讐を歌う。アメーリアを歌うのはアフリカ系のクリスティン・ルイス。かなり個性的な声であり、やや粗削りなところは感じるが、高音は本当に美しい。オスカルのセレーナ・ガンベローニも独特の存在感を示している。ただ、ウルリカのエリザベッタ・フィオリッロは声が伸びず、おどろおどろしさが表現されていない。

 指揮はジャンルイージ・ジェルメッティ。きびきびしていてとてもいい。マッシモ・ガスパロンの演出(ただ、ピエルルイージ・サマリターニの原案によるとされている)も、仮面舞踏会の場面など、不気味で華やかでとてもいい。

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新国立劇場オペラ研修所修了公演「悩める劇場支配人」を楽しんだ

 202137日、新国立劇場オペラ研修所修了公演、チマローザ作曲のオペラ「悩める劇場支配人」をみた。私はこの団体の修了公演を楽しみにしている。今回は、チマローザの珍しいオペラということで、いつも以上に楽しみにしていた。

 私はこのオペラはCDでは聴いてみたが、もちろん実演は初めて。映像でもみたことがない。今回のプログラムでストーリーを初めてしっかりと理解できた。

 きれいなメロディが次々と出てくる。ただ、作曲そのものの問題なのか、演奏によるのか定かではないが、どうしても平板な気がしてしまう。登場人物のキャラクターも音楽で明確に示されない。ほかの登場人物が歌ってもかまわないのではないかと思えるような歌が続く。せっかく美しい歌の連続なのに、盛り上がっていかない。

 プリマドンナたちのつばぜり合いや、作曲家と詩人の不仲、契約金の請求などに嫌気がさした劇場支配人が逃げ出し、叔父の遺産を受け取った別の人物が変わって劇場支配人になるまでを描く喜劇だが、その苦悩もおかしみも伝わってこない。そのあたりが、チマローザとモーツァルトのいかんともしがたい差といえるのかもしれない。

 歌手陣はきちんとまとめていた。とても健闘していたといえるだろう。劇場支配人の井上大聞は音程もよく、なかなかの芸達者。全体を引き締めてくれた。フィオルディスピーナの井口侑奏、メルリーナの和田悠花、ドラルバの杉山沙織はいずれも容姿も美しく、声もきれいなのだが、音程がびしりと決まらず、重唱部分もきれいなハーモニーにならない点が気になった。詩人の仲田尋一、作曲家の増田貴寛、ストラビーニオの森翔梧も十分に健闘しているが、やはり音程の甘さが気になった。

 新国立アカデミーアンサンブルを指揮するのは辻博之。少し安全運転を意識しすぎるような演奏だった。きっと歌手の力量などの事情があったのだろうが、もっと盛り上げたり、起伏をつけたりするほうが楽しめたと思う。

 演出は久恒秀典。メルリーナとドラルバが、まるでモーツァルトの「コシ・ファン・トゥッテ」のフィオルディリージとドラベッラのように同じような衣装だった。人間の識別が苦手な私は声域でしか区別できず、かなり困った。きっと意図的にそのような演出にしたのだと思う。登場人物を音楽によって特徴づけられていない点を逆手にとって、むしろ類似性を強調したのかもしれないが、私はあまり効果的とは思わなかった。

 と、あれこれ言いつつ、実はとても楽しんだ。美しいメロディを楽しめたし、伸び盛りの若手の歌を聴くこともできた。そして何より、チマローザのオペラの実演を楽しむことができた。これから、あちこちの団体が、チマローザやパイジェッロやメルカダンテやサリエリやケルビーニなどのオペラを上演してくれると、こんなうれしいことはない。

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チベット映画「羊飼いと風船」 空に舞い上がる赤い風船

「羊飼いと風船」をみた。ペマ・ツェテン監督のチベット映画。評判通り、とてもいい映画だと思った。

 1980年代。中国の人口抑制策に基づいて、チベット地区でも各家庭にコンドームが無料配布されている。ところが、羊飼いタルギェの家では、幼い子どもたちが風船だと勘違いしてふくらませて遊んだために、コンドームが不足し、妻のドルカルは妊娠してしまう。すでに三人の子どものいるこの家庭でこれ以上子どもを作ると罰金を取られ、生活も苦しくなるので、ドリカルは堕ろそうとする。ところが、死んだばかりの父の生まれ変わりがこの家に生まれるという高僧によるお告げを信じるタルギェや尼になっているドリカルの妹シャンチュはドリカルが子どもを産むことを願う。

 そのようなストーリーを大枠にして、ゆったりとしたテンポで、チベット族の日常の生活、自然の中での人間の生と死、羊たちの性のありようを描いていく。そこから浮かび上がってくるのは、国家推進の合理的で強圧的な精神とチベット族の自然に基づいた土俗の信仰。それらが日常の中に入り混じり、対立し、混乱と愛憎を生み出している。シャンチュは男との恋に破れて尼になることを選んだようだが、そこにも二つの考え方の理解不足があっただろうことがほのめかされる。

 どちらの側に立つのか、監督は立場を明確にしない。一方的にチベット族の生きざまをたたえるわけではない。矛盾の中で生きるチベットの人間たちをそのまま描く。

 最後、堕胎ののち、ドリカルは夫と離れて暮らすようになったようだ。タルギェは妻なしの厳しい生活を営むが、街に出かけたときに、子どもたちに本物の風船をねだられていたことをふと思い出して、赤い風船を買う。大草原の中を赤い二つの風船を揺らしながらバイクで走る場面は実に美しい。

 二つの風船のうちの一つは、子どもたちに渡したとたんにすぐに割れ、もう一つは子供の手を離れて天高く舞い上がる。主要登場人物のみんながその風船が舞い上がっていくのを見上げる。いつの日か、分裂し、引き裂かれる民族の心が一つになって上昇するのを希求するかのように。風船は私にはそのようなチベットの人々の願いに思えた。

 チベットには一度は行ってみたいと思いながら、高山病が怖くて計画段階で常に断念してきた。このような映画をみると、無性にチベットを見たくなる。

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