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映画「インディア・ソング」「ヴェネツィア時代の彼女の名前」「キャラバン」

 2021年のゴールデンウィークが始まった。もちろん遠出の予定はない。家でオペラ映像をみたり映画を見たり本を読んだり、仕事をしたり。時々近場に散歩に行く程度だ。

 映画を数本みたので、簡単な感想を記す。

「インディア・ソング」 1974年 マルグリット・デュラス監督

 マルグリット・デュラスは大好きな作家だ。「モデラート・カンタービレ」は私の人生の中でも特別の本だった。1970年代、デュラスが映画を作っていると知って、なんとか観たいと思ったが、当時、観られたのは「ラ・ミュジカ」だけだった。数年前に、「アガタ」をDVDで購入して観た。そして、今回、「インディア・ソング」が発売されているのを知って購入した。

「アガタ」と同じ雰囲気、同じ手法。基本的に二人の女性の淡々とした対話から成る。映像は声とほとんど対応していない。映し出されるのは、豪華な室内や庭園の静的な光景だ。登場人物は映し出されるが、ほとんどの場合、ただ酒を飲んでいたり、歩いていたりするだけ。登場人物が自分の声で話をすることもない。しかも、舞台はカルカッタのはずなのに、映し出される光景はとうていカルカッタとは思えない。対話では「暑い」と繰り返し語られるが、登場人物のほとんどはきちんと礼服を着こなし、むしろ外の風景は寒々としている。ヨーロッパの豪邸とその周辺の庭園に見える(パリ郊外のロスチャイルド邸で撮影されたという)。

 対話の端々から類推して、ようやくストーリーらしいものがうっすらとわかってくる。どうやら、カルカッタの大使夫人アンナ(デルフィーヌ・セイリグ)は多くの男に体を許しているが、生真面目なラホールの副領事がアンナに恋し、一度だけで断られ、その後錯乱した、ちょうどその時、遠くから来た乞食女が叫び声をあげていた・・・ということのようだ。

 小説「ラホールの副領事」に基づいている。昔、この小説は読んだが、雰囲気にはとても共感するものの、わけがわからんと思った。映画としてみても、やはり「わからん」と思った。だが、このように映画にされると、デュラスのつくりたかった世界がよくわかる。いや、それ以上に、まさにこの映画はデュラスの世界そのものだ。

 生についての悲痛な叫びが心の奥底に隠されているが、それを表に出さず、けだるく、淡々としており、自分の体験についての記憶と現実が重なり合わず、世界は不可解なもの、非論理のものにあふれている。説明のほとんどない映像。目の前の映像と対話の不一致のために、観客はしばしば宙に放り出されるような感覚を味わう。

 考えてみると、アンヌとラホールの副領事と異国の乞食女という構図は、「モデラート・カンタービレ」のアンヌとショーヴァンと居酒屋での殺人という構図とぴたりと一致する。

 わけのわからない映画であり、これで2時間近くというのはかなり長いと思う。だが、やはり魅入られてしまう。しみじみとデュラスの世界に共感する。

 

「ヴェネツィア時代の彼女の名前」 1976年 マルグリット・デュラス監督

 同じデュラスの映画。というか、「インディア・ソング」とまったく同じサウンドトラックを使った映画。つまり、聞こえてくる音声は「インディア・ソング」とすべて同じ。ただ映像はまったく異なる。こちらには人物は出てこない。ただ廃墟のような屋敷が映し出される。

「インディア・ソング」と同じロスチャイルド邸とのこと。廃墟になり、取り壊しが決まった邸を映している。「インディア・ソング」と同じストーリーが語られるが、今回はアンヌも副領事もカルカッタで暮らすフランス人たちも登場しない。「インディア・ソング」を観ていてもよくわからないが、観ていないと、まったくストーリーさえも把握できず、最初から最後まで置いてきぼりを食ってしまいそうな映画だ。

 だが、デュラス・ファンであるせいだろうか、やはり引き込まれる。けだるく、退廃的で絶望的で、悲痛に満ちた世界を静的な昇華させた世界に、私は惹かれる。デュラスの世界を究極的に描いた映画だと思う。

 

「キャラバン」 1999年 エリック・ヴァリ監督

 チベット映画について話をしていたら、この映画の存在を知人が教えてくれた。早速、購入して観てみた。原題は「ヒマラヤ」。制作はあのジャック・ペラン。フランス・ネパール・イギリス・スイス合作映画。要するに、ヨーロッパ人がネパールを舞台に描いた映画だ。

 ヒマラヤ山脈を越えてヤクを連れて塩を運ぶ隊商の長老ティンレは息子に長老の座を譲りたかったのに事故で亡くしてしまったために意固地になり、自分で隊商を組んで、占いで示された吉日に出発しようとする。若い世代のリーダーであるカルマはそれに反対し、合理的に活動しようとする。二つの隊は別々に出発する。だが、ヒマラヤの過酷な自然のもとにともに苦難に出会う。最後には互いの力を認め合うが、ティンレは世を去り、カルマは長老の後を継ぐ。

 宗教や伝統に基づこうとする古い世代と、もう少し合理的に行動しようとする若い世代の対立と和解をヒマラヤの圧倒的な自然を背景に描いている。ネパールの人々の自然の中での暮らしの描写が素晴らしい。ヤクとともに自然のただなかで生きる。しかし、それは生易しいことではない。ティンレを鳥葬にする場面で、ティンレの遺体を斧で打ち砕いている場面がある。西洋文化から見てあまりに異様なものもリアルに描いている。

 ただ、話があまりに都合よく進んでいく点で、私としては少々不満を覚えた。ティンレの息子の嫁はカルマに思いを寄せており、ティンレの孫もカルマを慕っている。最後、すべてがうまくまとまる。まさしく予定調和の世界。これでは、予測できない世界の中で生きる人々の生きる実感からかけ離れているのではないかと思った。

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オペラ映像「ロシア皇帝と船大工」「道化師」「カヴァレリア・ルスティカーナ」「魔笛」

 東京都に緊急事態宣言が発出され、いくつものコンサートが中止になり、予定していた仕事がなくなった。私の住む町のすぐ近くに感染が広まっていると聞いている。家族や私自身がいつ感染してもおかしくない状態になっているのをひしひしと感じる。そんな中、ともあれ、私としてはできる仕事をし、オペラ映像をみたり、DVDで映画をみたりして過ごしている。

 オペラ映像を数本みたので、感想を記す。

ロルツィング オペレッタ「ロシア皇帝と船大工」(映画版) 1967

 ドニゼッティの「ピエトロ大帝」をみて、同じピョートル大帝を題材にしたロルツィングの「ロシア皇帝と船大工」のDVDが発売されていることを思い出して、購入。

 50年近く前、この映像をみた記憶がある。1970年代前半のことだ。紀伊国屋ホールだったと思う。ハンブルク国立歌劇場で収録されたオペラ映画の上映会が行われた。ほかに「ヴォツェック」と「ニュルンベルクのマイスタージンガー」が上映されたのを覚えている(「マイスタージンガー」は、確か休憩なしだった!)。

 これらのオペラの実演はもちろん、映像でも、日本ではほとんどみることのできない時代、レコードで聴いていた「ヴォツェック」と「マイスタージンガー」の映像をみられたことで興奮した。しかも私は少し前まで大分市の高校生だった。東京に出てくるとこんなものがみられるのか!と思ったのも覚えている。

 ロルツィングという作曲家の名前もこのオペレッタのタイトルも、この時初めて知った。とても楽しいストーリーと音楽だと思った。ロッシーニのドイツ版といったところ。クレンペラーの指揮する「魔笛」のレコードの夜の女王のあまりに美しい声に惹かれていたルチア・ポップがこんなにチャーミングな若い女性だとこの映像で知った。この後しばらくしてバイロイト音楽祭の常連になるハンス・ゾーティンの名前を知ったのも、このオペラ映画だった。今回、50年ぶりに見て、やはり楽しい。モノラルなので、音質はよくないが、それはやむを得ないだろう。

 ロシア皇帝ピョートルが船大工に身をやつしてオランダの港町で働いている。愚かで滑稽な市長が同じロシア人のピョートル・イワノフを皇帝と思い込んで混乱が起こるが、最後には、市長の姪のマリーとイワノフの恋も成就、めでたく皇帝は去っていく。

 やはり何よりもマリーを演じるポップの可憐さと、市長を歌うゾーティンの芸達者に惹かれる。皇帝役のレイモンド・ウォランスキー、イワノフ役のペーター・ハーゲもとてもいい。指揮はなんとチャールズ・マッケラス。モーツァルトやヤナーチェクで名演を聴かせてくれたマッケラスがこのようなオペレッタを指揮していたとは知らなかった。生き生きとしていてとてもいい。監督はヨアヒム・ヘス。現在からみると、クローズアップが多すぎて目が疲れるが、ともあれ、17世紀オランダの港町が再現され、登場人物が自由に動いて、とても楽しい。

 ドイツではロルツィングの人気は根強いと聞く。日本での上演はなかなか難しいにしても、せめて映像をみたいものだ。

 

レオンカヴァッロ 「道化師」 2019年 アムステルダム、オランダ国立歌劇場(

 演出はロバート・カーセン。「カヴァレリア・ルスティカーナ」とともに上演され、連続した演出になっている。最後までみてわかるのは、カーセンがこの2本のオペラを19世紀末のイタリアの田舎の物語ではなく、現代の私たちの事件として描こうとしていることだ。

 

 まず驚くのは、一般の観客かと思っていたら、幕が上がってすぐに、前の3列ほどの人々が立ち上がって動き始めることだ。どうやら合唱団だと、しばらくして気づいた。ただ、このオペラの合唱は、ふつうの上演では道化芝居を見に来た19世紀末の普段着のイタリアの田舎の人々を演じるのだが、このような演出にすると、合唱団はスーツを着た21世紀の都会人ということになる。したがって、地方色が薄れ、異様なまでに洗練されてしまっている。舞台として設定されているのも、地方回りの道化芝居一座ではなく、無機質な金属やライトに囲まれたスタジオの楽屋裏。そのため、うらぶれたドサまわりの道化芝居での刃傷沙汰という側面が薄れて、かなり品のいいものになっている。

 歌手はかなりのレベルだと思う。プロローグとトニオを歌うロマン・ブルデンコはしっかりした美声が素晴らしい。ただ、ちょっとのこの役には声が高貴すぎる。カニオはブランドン・ヨヴァノヴィッチ。迫力ある声でとてもリアルなのだが、ちょっと力任せな気がする。ネッダはアイリン・ペレス。かつて横浜でヴィオレッタを聴いた記憶がある。とてもいい歌手だと思うのだが、ちょっと一生懸命すぎて少し蓮っ葉な魅力に欠ける。

 指揮はロレンツォ・ヴィオッティ。ドラマティックで切れがいい。ただ、私としては、もっと小味でもっと凝縮されている演奏のほうが好みだ。演出も演奏も、現代的になりすぎて、道化役者の悲哀と欲望が伝わってこない。その点に不満を覚えた。

 

マスカーニ 「カヴァレリア・ルスティカーナ」

 これもカーセンの演出。「道化師」の舞台がそのまま使われ、台本では田舎の人々であるはずの合唱団は、(おそらくセミプロの)合唱団メンバーという設定になっている。したがって、復活祭の合唱部分は、メンバーが集まって歌の練習の場面とされている。サントゥッツァもローラもルチアも、そして、どうやらトゥリッドゥもアルフィオも合唱団のメンバーということらしい。つまりこれは、合唱団内部の男女関係のもつれによる刃傷沙汰ということになる。

 最後、トゥリッドゥが殺された後、幕の後ろに鏡が下りてくる。そこには観客席が映し出されている。「道化師」の劇中劇、そして「カヴァレリア・ルスティカーナ」が観客の世界を映したものであることを暗示している。

 ただ、そのようにした分、「道化師」と同じように、ローカルな社会の閉ざされた雰囲気や、その中での神への祈りというテーマが薄れてしまっている。もちろん、意識的にそのようなものを排除しようとしたのだろうが、それがなくなると、このオペラの大きな魅力がなくなると私は思う。

 歌手陣は、「道化師」よりも、こちらの方が一層レベルが高いかもしれない。サントゥッツァのアニタ・ラチヴェリシュヴィリはさすがの歌唱。太くて強い声なので、あまり健気な清純さは感じないが、見事な歌唱力には圧倒される。アルフィオのロマン・ブルデンコも見事。トゥリッドゥのブライアン・ジャッジも明確な声。そのほかの役も穴がない。

 ロレンツォ・ヴィオッティの指揮は、「道化師」よりも、こちらの方に私は説得力を感じた。間奏曲は強い音で歌わせて、とても素晴らしかった。

 

モーツァルト 「魔笛」 1974年 イングマール・ベルイマン監督のオペラ映画 (スウェーデン語歌唱)

 かつてベルイマンの映画はかなりみた。日本であまり知られていないものも含めて、ほとんどのベルイマン作品をみたのではないかと思う。公開当時、巨匠ベルイマンが「魔笛」を映画にしたということで話題になったので、このオペラ映画ももちろん見に行った。演出は意外とふつう、演奏は超一流ではないために、少し期待外れだったのを覚えている。今回、BDになって再発売されたので購入してみた。

 やはり印象は変わらない。音楽好きとしては、まず何よりも演奏に不満を覚える。パパゲーノを歌うホーカン・ハーゲゴードだけが世界レベル、ほかの歌手たちはかなり力量が劣るといえそうだ。タミーノのヨーゼフ・ケストリンガーと夜の女王のビルギット・ノールディンはかなり苦しい。聴くのがつらくなってしまう。エリック・エリクソン指揮のスウェーデン放送交響楽団はかなり健闘しているが、素晴らしい演奏というわけではない。

 演出に関しても、特に目立つことはないような気がする。映像には観客席がしばしば映し出され、舞台と客席が一体になり、観客席にも様々な人種の様々な年齢の人々がいることが強調されるが、それが演出とかかわっていることはなさそうだ。普遍性がうたわれるわけではない。フリーメーソン的な要素は薄れているが、この「魔笛」の台本のわかりにくさに何かの光を当てているわけでもない。

 私にはなぜベルイマンがこのオペラをわざわざ映画化しようとしたのかよくわからない。そして、なぜこの映画がかつて話題になったのかもよくわからない。ベルイマンの映画としてもあまりおもしろいとは思わないのだが・・・。

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チベット映画「ラサへの歩き方」「チベットの女」「風の馬」

 三度目の緊急事態宣言が429日から発令されることが決まりそうだ。比較的家にいることが多いので、新型コロナ関係のテレビはよく見る。考えることはたくさんある。が、ここで私が言っても始まらない。

 先月だったか、岩波ホールでチベット映画祭が開かれた。すべての映画をみる予定を立てていたが、94歳の母の体調がすぐれなかった(現在は持ち直している)ため、1本もみられなかった。代わりというわけではないが、ネットでチベット映画のDVD3本を見つけて購入した。簡単に感想を記す。

「ラサへの歩き方」 2015年 チャン・ヤン監督

 チベットの小さな村の3家族、11人が五体投地をしながら1年間をかけて2400キロ歩いてラサ、そしてカイラス山への巡礼に出る。その様子をノンフィクション・タッチで描くだけの映画だが、その姿に圧倒される。

 五体投地というのは、地面に伏して祈ることをいう。巡礼の人々は、数歩歩いて身体を投げ出して五体投地を行い、それを繰り返しながら、2400キロ進む。トラクターに荷車をつけて、そこに荷物を入れて運ぶが、巡礼者はその前後を歩く。空き地を見つけて、テントを張って野営する。トラクターは車にぶつけられて動かなくなり、巡礼の後半では人々は荷車を押して動かす。雨が降り、山からの落石があり、雪山の恐怖がある。

 11人の中には妊婦がいる。10歳そこそこの女の子もいる。老人もいる。妊婦は子どもを産み、子どもをおぶりながら巡礼を続ける。老人はカイラス山で命を落とす。そのような行動が、圧倒的な存在感の寒々とした山や川の風景の中で映し出される。

 なぜこんな過酷なことを続けるのか。現代の日本に暮らす人間としては疑問に思わずにはいられない。映画の冒頭、老人が最初に巡礼を思い立ち、多くの人がそれに賛同し、自分も加わろうとする様子が描かれる。チベットの人々は、それほどまでに仏に対して深い信仰を持っているのだろうか。何か、激しい罪の意識にさいなまれているのか、人を死に追いやってしまったとかとんでもない裏切り行為をしてしまったといった過去があって、その贖罪の気持ちが巡礼に追い立てているのか、あるいはふだん社会的な圧力のために心の奥にある信仰を封じられているがゆえに、深い思いを巡礼という行為にぶつけているのか。

 映画の中でそのようなことは少しも説明はされない。そんなことまでも超越しているのかもしれない。ただただとてつもない信仰心を目の前に描かれる。そして、休憩しているときには笑い、踊り、明るく振る舞っている姿が描かれる。そこにチベットの人々の生のありかたが浮かび上がってくる。それがこの映画の凄味だろう。

 

「チベットの女」 2000年 謝飛(シェ・フェイ)監督

 謝飛(シェ・フェイ)監督は中国映画の巨匠だそうだ。その謝飛監督がチベットに魅せられ、チベットの俳優を使って撮影した映画だという。

 美しい歌声を持つ女性イシの数奇な生涯を描く。老年になったイシは夫とともに暮らしている。かつて乱暴者だった夫ギャツォは病のゆえに弱々しくなっている。そこに、かつてイシを囲い者にしようとした荘園の横暴な若旦那クンサンと再会。ところが、クンサンは、おそらくは中国共産党に財産を没収されて穏やかな旅行ガイドになっている。かつて対立していた二人が仲良く酒を酌み交わした後、夫ギャツォは死に、そこに幼いころ淡い恋の相手だったサムチュが高僧になって現れる。夫の亡骸の前でイシもまた寿命を迎える。

 イシの育った寒村、老年になったイシの暮らすラサ。壮麗な建造物、そびえたつ山々。チベットの雰囲気を味わうことができる。祈る人がいる。過酷な世界を懸命に生きる人々、荒々しい生。

 しかし、私は結局この映画が何を言おうとしているのか、よく理解できなかった。男たちに蹂躙されながらも、健気に、しかもしたたかに生きるチベットの女、というだけの映画ではあるまい。ただ、穏やかなチベットの人の心の奥にある実は恐るべき荒々しい生、そして荒々しい生を持つがゆえに深く穏やかになることのできる信仰の強さを感じることができた。もしかしたら、それがテーマなのかな?と思った。

 

「風の馬」 1998年 ポール・ワグナー監督

 実話をもとにして、チベットなどで隠し撮りされた劇映画だという。中国当局の横暴とチベットの人の抵抗を描く。

 ドルカはラサのクラブで歌う歌手だが、漢民族の恋人の誘いもあって、漢民族とチベットの融和の象徴として全国に売り出されそうになる。ところが、従姉の尼僧がチベット解放を叫んで逮捕され拷問を受けたのを知り、真実を世界に訴えようと、西洋人のジャーナリストの力を借りて映像を外の世界に持ち出そうとする。だが、映像は没収され、ドルカと兄のドルジェは逮捕を免れなくなって、ヒマラヤを歩いてネパールに逃亡する。ネパールで風の馬(祈りを書いた紙)を見つける。

 政治的立場は抜きにして、映画作品としてみた場合、私はこの映画を良い作品とは思わなかった。戦後、中国で作られてきた抗日映画と同じような趣がある。抗日映画で描かれてきた日本人と同じように、この映画では、漢民族の中国人やその手先のチベット人が全員、傲慢で不遜で残酷に描かれている。ストーリーもあまりに図式的で単純。

 状況が映し出され、チベットの人々の姿を描かれるが、じっくりと描く時間的余裕がなかったせいかもしれないが、このように描かれると、私は説得力を感じない。信仰心も伝わってこない。監督は西洋人のようだ。チベット人の本当の苦悩をきちんと知らないまま、外部からみた図式に当てはめただけに見える。最後の風の馬の描き方も、とってつけたように思える。

 私にはこの映画にチベットの人々の生活や本音、本当の苦悩が描かれているとは思えなかった。

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オペラ映像「ヴィオランタ」「ファウスト」「ピエトロ大帝」「シモン・ボッカネグラ」「ばらの騎士」

 これは第四波というしかないだろう。大阪で感染者は急拡大。東京も変異株を含めてどんどんと感染者が増えている。高齢者のワクチン接種が全国で始まったというが、もちろん私が接種できるのはいつのことかまったくわからない。オリンピックどころではないと思うのだが。

 嘆いてもあせっても仕方がないので、黙って仕事をし、黙って自宅でオペラ映像や映画をみている。数本のオペラ映像を見終えたので、簡単に感想を記す。

 

コルンゴルト 「ヴィオランタ」2020年 トリノ、レッジョ劇場

 コロンゴルトが10代のころに作曲したオペラ。CDは所有しており、何度か聴いたことがあるが、映像をみるのは初めて。まさかこれが10代の作品とは思えない。後期ロマン派の香りの漂う爛熟の美学。これまで私が親しんできたオペラでいえば、やはりコルンゴルトの「死の都」やシュトラウスの「影のない女」に雰囲気が似ている。90分に満たない一幕ものオペラだが、官能の世界を堪能できる。

 ヴィオランタを歌うのはアンネマリー・クレーマー。容貌からも猛烈な色気が発散されて、大変よろしい(ただ、この方はいわゆる熟女なので、むんむんたる色気を感じるのは、もしかしたら中高年の人間に限られるかもしれない)。歌唱も、理性で抑えられずに男の誘惑に負けてしまう女性の性を歌って素晴らしい。アルフォンソのノーマン・ラインハルトはそれに比べると少々魅力に乏しく、なぜそれほどヴィオランタが惹かれるのかわからないが、不満を感じるほどではない。シモーネのミヒャエル・クプファー=ラデツキーは、妻に裏切られる男の嘆きを見事に歌う。

 指揮はピンカス・スタインバーグ(いわずと知れた、あの往年の名指揮者スタインバーグの息子さん)。よく知らない曲なので、批評めいたことは言えないが、とろけるような流麗な音楽はしっかりと伝わる。演出はピエール・ルイージ・ピッツィ。暗めの赤を基調にした簡素な舞台だが、ヴィオランタの精神世界を表しているようで、とても魅力的に感じた。

 

グノー 「ファウスト」 2019年 ロンドン、ロイヤル・オペラ・ハウス

 図抜けた歌手はいないが、とてもまとまりがよく、きわめて高水準な上演だと思う。とても楽しめた。

 ファウストを歌うのはマイケル・ファビアーノ。とてもきれいに歌う。メフィストフェレスを歌うのはアーウィン・シュロット。なかなかの存在感で、いやらしい悪魔らしさを見事に演じる。マルグリットはイリーナ・ルング。きれいな声で、容姿も素晴らしい。ただ、この3人、とてもいいのだが、ほんの少しずつ物足りないところがないでもなかった。ファビアーノはやや存在感に欠けるし、シュロットは時々音程が不安定になる。ルングは演技力が不十分なのか、マルグリットの喜びと狂気が真に迫ってこない。

 ヴァランタンのステファーヌ・デグーはとても見事な歌なのだが、マルグリットの兄にしては少々老けて見えてしまう。シエベルのマルタ・フォンタナルス=シモンズもしっかりした歌だが、もう少ししなやかさがほしい。というように、どの歌手たちもとても良いのだが、心の底から満足するにはちょっとずつ瑕を感じる。

 指揮はダン・エッティンガー。私はこのオペラにあまりなじんでいるわけではないので、何とも言えないが、もう少し悪魔的な盛り上がりがあってもよいのではないかと思った。もしかしたら、オペラ自体の弱さ、グノーという作曲家の弱さなのかもしれないが、美しい旋律が続き、ドラマティックにも構成されているのだが、ワーグナーやヴェルディのような激しい盛り上がりがない。

 演出はデイヴィッド・マクヴィカー。この演出家らしい、映画的でもあり絵画的でもあり、緻密にして明快。舞台になっているのは、19世紀のフランスのおそらくはパリ。つまりはグノーの生きた時代、生きた都市。映画のようにその時代の街角が緻密に描かれる。バレエの場面も集団の動きが見事。

 全体としてはとても楽しめる見事な上演だった。

 

オッフェンバック 「青ひげ」(ドイツ語)1973年、DEFA

 1973年、演出家ヴァルター・フェルゼンシュタインによるベルリン・コーミッシェ・オーパーの演目の映画ヴァージョン。かつて私はLD(だったと思う)を所有して、何度かみたのを覚えている。ブルーレイディスクで復刻されたとあれば、オッフェンバックのオペレッタ好きの私としてはみないわけにはいかない。

 音楽の演奏に関しては、名演とは言えないだろう。カール=フリッツ・フォイクトマンという指揮も知らないし、ハンス・ノッカー(青ひげ)、イングリット・チェルニー(エルミア王女)、アニー・シュレム(ブロット)、ヴェルナー・エンダース(ボベーシュ王)といった主役たちも名前に憶えがない。コーミッシェ・オーパーのオペレッタなどを中心に歌っていた歌手たちだろう。素晴らしい歌唱を聴かせてくれるわけではない。しかし、オペレッタにはこれで十分。

 やはり何よりも、演技がとてもおもしろい。これほど大袈裟に戯画化しながら、それが少しも嫌味ではなく、笑いを誘い、音楽的にもワクワクするというのは、まさにフェルゼンシュタインの魔法というべきか。作曲当時としては政治風刺だったのかもしれないが、今からみると、常軌を逸した残酷で漫画のような登場人物たちがでてきてありそうもないことが連続し、結局ハッピーエンドになる。それを不気味に、しかも面白おかしく描いていく。現代でも十分に魅力が伝わるように描いている。堪能した。

 

ドニゼッティ 「ピエトロ大帝」2019年(ドニゼッティ音楽祭)テアトロ・ソチャーレ・ベルガモ

 ドニゼッティ22歳の作品。ロッシーニ初期の作品と同じような雰囲気。この上演も本当に素晴らしい。とても楽しくおもしろい。ドニゼッティは天才だ!と改めて思う。

 ストーリー的には、まるで水戸黄門だ。イタリアの田舎町で愛し合うカルロとアンネッタ。ところが、悪徳判事のためにカルロは濡れ衣を着せられてひどい目にあわされている。カルロの身を案じる旅籠の女将らが助けようとするが、らちが明かない。そこに、身を偽ってイタリアの街にやってきたロシア皇帝ピエトロとお妃がやってくる。やがて、カルロが、幼いころに生き別れになったお妃の弟であり、アンネッタが皇帝の仇敵マゼッパの娘だとわかる。ピエトロは結局は二人の愛を認め、悪徳判事を懲らしめて、めでたしめでたしで終わる。

 演出は斬新。私がオンラインで購入したHMVHPには「ローマの実験的演劇集団オンダドゥルト・テアトロを舞台演出に招聘し、20世紀初頭のロシア・アヴァンギャルド美術を援用した万華鏡を見るかのようなユニークな舞台を創造」という解説があるが、まさにその通り。舞台装置も登場人物も絵本のページのよう。彩鮮やかで人物の顔にもペインティングがなされ、まるで絵本の世界が展開されている。

 すべての歌手が見事。ピエトロ大帝のロベルト・デ・カンディアと愛嬌のある悪徳判事のマルコ・フィリッポ・ロマーノのやり取りはまさに傑作。二人の声の技術も演技も実に面白い。お妃のロリアーナ・カステラーノ、旅籠の女将のパオラ・ガルディーナも実にしっかりとした声で楽しい。アンネッタのニナ・ソロドヴニコーヴァの声も美しく、姿かたちもチャーミング。カルロのフランシスコ・ブリートも後半、少し声が疲れた感があるが、これまた見事。

 オーケストラはリナルド・アレッサンドリーニが指揮をする19世紀のオリジナル楽器によるオーケストラ・リ・オリジナーリ。これまた実に溌溂として楽しい。

 観終わった後、「ああ、楽しかった!」と心から満足した。

 

ヴェルディ 「シモン・ボッカネグラ」202012月 チューリヒ歌劇場 (NHKBS放送)

 コロナ禍の中、感染を避けるためにオーケストラと舞台が別の場所でオンラインでつなぎながら演奏したもの。初めにその説明がなされて、舞台が始まる。私程度の耳では、まったく違和感はない。何も知らされずに聴いたら、疑問など持たずに一般の舞台と同じだと考えるだろう。

 とても明晰な演奏だと思う。ファビオ・ルイージの指揮は、まさにドラマティックにして明晰でしかも繊細。

 歌手陣もきわめて充実。シモン・ボッカネグラを歌うクリスティアン・ゲルハーヘルも繊細でしなやかな声。ただ、ゲルハーヘルが歌うとどうしても知的で紳士的になってしまう。そのような演出なのだろうが、独裁的なシモン像からはかなり離れる。フィエスコのクリストフ・フィシェッサーも穏やかで知的な歌唱。アメリアのジェニファー・ラウリーもきれいな声でしっかりと歌う。アドルノのオタール・ジョルジキア、パオロのニコラス・ブラウンリーもとてもいい。

 演出はホモキ。現代の服を着て、まさに現代の家庭劇として展開される。娘を愛するフィエスコ、同じように娘を愛するシモン。その対立と和解が中心になっているようだ。それはそれで説得力がある。歌手陣の穏やかで知的な歌いまわし、ルイージの知的な指揮はそれにぴったり。

 私はこのオペラはかなり好きだ。だが、今回の公演は私の好きな「シモン・ボッカネグラ」ではなかった。私は、シモンとフィエスコとパオロの三人の男性低音のどす黒い欲望と愛憎、そして、それに対比されるアメリアの清純な愛が好きなのだ。今回の上演では、男たちのどす黒いものが薄れている。舞台も明るめ、現代の服装、とりわけシモン演じるゲルハーヘルの穏やかで知的な歌いまわし。フィエスコも慈愛にあふれている。これでは、私にとっては魅力半減。しかも、このような演出にすると、ストーリーの無理やりな展開がどうしても気になってしまう。

 そんなわけで、とても良い上演だと思いながら、私好みではなかった点でちょっと残念。

 

リヒャルト・シュトラウス 「ばらの騎士」 2020年 ベルリン国立歌劇場 (NHKBS

「ばらの騎士」は中学生のころからレコード(もちろん、カラヤン指揮、フィルハーモニア管弦楽団、シュヴァルツコップが元帥夫人を歌う録音)でなじんできた最も好きなオペラの一つだ。NHKで放映されるというので楽しみにしてみた。期待以上に素晴らしい上演だった。

 まず、あまりのゆっくりしたテンポにびっくり。メータの指揮だが、一つ一つの音をいつくしむかのようにじっくりと、一つ一つの音を大事にしながら音楽が進んでいく。味わいが深い。これほど濃厚で美しい音楽を久しぶりにきいた気がする。

 演出はアンドレ・ヘラー。これまでみてきたこのオペラの舞台と違って、シックな雰囲気はなく、色鮮やかな原色が使われて、かなりポップな雰囲気。まるでロッシーニのオペラ・ブッファのような色遣い。様々な工夫があって楽しい。前にも誰かの演出でみた記憶があるが、雑用役のマホメットは青年で元帥夫人に心を寄せているという設定だ。第一幕ですでに元帥夫人はオクタヴィアンとの別れを予感し、半ばあきらめているらしいことが読み取れる。第三幕ではオックスを驚かす様々な仕掛けがみられる。

 歌手陣は最高度に充実している。私は何よりも元帥夫人のカミッラ・ニールントに惹かれる。たぶん20年ほど前になるだろう。彼女は武蔵野市民文化会館でリサイタルを開いたことがある。私はその時以来のファンだ。そのころから素晴らしい美声としっかりとした歌いまわしが素晴らしかったが、近年、風格が出てきて、押しも押されもしないワーグナー歌手になり、シュトラウス歌手になった。日本の新国立劇場でも元帥夫人を歌ったことがあるが、今回はまた別格。無理のない声で、演技過剰になることなく、しかもしっとりと歌い上げる。

 ギュンター・グロイスベックも今やオックス男爵を持ち役にしている。エネルギーにあふれた屈強で精力絶倫のオックスはこの人以外にはできない。見事な声と歌唱は言うまでもない。オクタヴィアンのミシェル・ロジエはちょっと線が細いが、清潔でしなやかでとてもいい。ただ、小柄な女性にしか見えないのが、ちょっと残念。ゾフィーのナディーン・シエラもちょっとおきゃんで現代的な娘を演じて魅力的だ。声もとても美しい。ファニナルはなんとローマン・トレーケル。かつての声の輝きは失われているのが気になるが、丁寧な歌いまわしでファニナルにぴったり。

 女性たちの声質が似ていると言えそうだ。そのために見事に声が溶けあう。第三幕の三重唱と二重唱はまさにとろけるような美しさ。深い愛情と愛の諦めが入り組む。テレビを見ながら不覚にも涙を流した。

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古いイタリア映画「噴火山の女」「敗北者たち」「婦人代議士アンジェリーナ」「1860年」「白い船」

 安売りDVD10枚組イタリア映画コレクションの残りをみた。簡単に感想を記す。

 「噴火山の女」 1950年 ウィリアム・ディターレ監督                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                       ヴルカーノというシチリア島の近くにある小さな火山島を舞台にした物語。ナポリで娼婦として働いていたマッダレーナ(アンナ・マニャーニ)が18年ぶりに島に帰り、妹のマリア(ジェラルディン・ブルックス)と暮らし始める。だが、村人たちは二人を邪険に扱い、マリアを追い出そうとする。仕事を失った姉妹はドナートという流れ者(ロッサノ・ブラッツィ)の手伝いをするが、マリアはドナートに恋してしまう。ドナートがマリアをくい物にして売り払おうとしていると気づいたマッダレーナは妹を守るためにドナートを殺し、みずからもちょうどそのときに起こった噴火の中で命を失う。

 ロッセッリーニの「ストロンボリ」とストーリーも雰囲気もよく似ている。意識して作られたのだろう。過酷な自然の中で暮らす島の人々を背景に、閉鎖的な社会、その中で神に救いを求めながら生きる二人の姉妹(二人の名前は、マッダレーナ=マグダラとマリア)が描かれる。まさしく永遠の自然の中での信仰、人間の営み。島人の生活にリアリティがあり、マニャーニの演技に説得力があって、心を動かされる。とてもいい映画だと思った。

 

「敗北者たち」 1953年 ミケランジェロ・アントニオーニ監督

 アントニオーニの初期作品。私はアントニオーニが大好きなのだが、この映画は初めてみる。

 フランスとイタリアとイギリスを舞台にした三つの独立した短い物語から成る。フランス編は、裕福な友人を銃殺して金を奪おうとした若者、イタリア編は裕福な家に育ちながら密輸にかかわって人を殺し、自らも重いけがを負って死んでしまう若者、イギリス編は自ら殺害した娼婦の死体を発見したとして新聞に売り込み、有名になろうとし、結局は自分が殺したことを告白して悦に入る若者が描かれる。いずれも、まさに敗北者たち、つまりは空虚な自分に耐えられず、何かを満たそうとして敗れていく若者たちといえるだろう。

 私はイタリア編にとても感銘を受けた。のちのアントニオーニの映画の空虚感がしっかりと現れている。殺人を犯した後、体の不調を感じながら、閑散とした道を歩き、競技場のベンチに寝転がって、そばにいた少女に心配の声をかけられ、その後、恋人の運転する車の助手席に乗る。その状況を描く映像の雰囲気は1960年代から70年代にかけて、まさに私が感じていた空虚感だ。そして、それは今の私とも無縁ではない。このような映像そのものに私は感動する。

 大戦直後の、食べるための犯罪から、心の空虚も満たすための犯罪へと社会の犯罪が変化していた時期、それを見事に察知した作品と言えるだろう。最初と最後に作成意図を語るようなナレーションが入る。言わずもがなの内容だが、若者の心に寄り添いすぎて、不正義に加担する映画のように思われるのを交わすための方便としてのナレーションに思われる。

 これを見て、自分が心からアントニオーニ好きだということを改めて確認した。

 

「婦人代議士アンジェリーナ」 1947年 ルイジ・ザンパ監督

 痛快でおもしろい映画。ただ、アンナ・マニャーニ演じるアンジェリーナが女性代議士になって活躍する話かと思っていたら、実際には代議士にはならない決意をする話だった。

 貧民街で暮らす5人の子持ちのアンジェリーナは、庶民への配給を渋るパスタ屋の闇商売を告発したのをきっかけに政治に目覚め、警察官の夫の反対にもかかわらず、貧しい人々のリーダーとして生活改革に乗り出す。貧民街が洪水に襲われたのをきっかけに、近くに建設中の団地に入居できるようにという運動を始める。問題がこじれて逮捕されるが、結局は周囲の理解を得て釈放される。貧しい人たちの圧倒的な支持を受けるので、周囲はアンジェリーナが議員になって活躍することを期待するが、本人は権力を持つことを拒み、家族を大事にする市民の一人として政治にかかわりながら生きていくことを選ぶ。

 マニャーニが、お節介で愛情深くておしゃべりで、社会的な不正義には黙っていられないで敵とまっすぐに戦うイタリアの女性を見事に演じている。戦後すぐのイタリア社会の矛盾もさらけ出して社会はドラマ風のところもあるが、ユーモラスでもあり、痛快なサクセスストーリーでもあるので、楽しく気楽にみることができる。みながら、なるほど、これがヨーロッパの民主主義の強さだと、改めて思う。

 

1860年」 1933年 アレッサンドロ・ブラゼッティ監督

 シチリア島に暮らす男性トリネロを中心にして、ガリバルディの千人隊がシチリア島に入り、島民とともに戦ってブルボン軍を撃退し、イタリア統一を進める様子が描かれる。2000人の素人を使って撮影した、ネオ・レアリスモの先駆けといわれる映画だ。

 新婚の妻を置いて使命を成し遂げようとするトリネロの葛藤は描かれるが、情緒にも流されず、心の中に入るこむことはあまりない。リアリズムに徹しており、歴史上の英雄ガリバルディについても、きちんと登場して人間像が描かれるわけでもない。そのため、戦闘場面などとてもリアルなのだが、劇映画としての盛り上がりには欠ける。

 私は30年以上前に、ガリバルディの伝記を訳したことがある(『イタリアか、死か 英雄ガリバルディの生涯』米川良夫先生との共訳)ので、当時はかなりイタリア統一運動について詳しかったが、今ではすっかり忘れてしまった。よって、この映画の細部について、よく理解できないところがあった。

 イタリア人ならこの映画に熱狂するかもしれないが、現在の日本人が見ると、あまり面白いとは思えない。

 

「白い船」 1941年 ロベルト・ロッセリーニ監督

 ロッセリーニ監督第一作。海軍省から委託されて、病院船の活躍を描いたものだという。文通相手である兵士慰問の女性と初めて出会うことになっていた兵士は、待ち合わせの場所に行こうとするが、外出が禁止になり、すぐに出港。海戦で負傷する。船内で緊急手術を受けて病院船に移送されるが、そこでボランティアの看護師として偶然、担当になったのが、待ち合わせをすることになっていた女性だった。

 そのようなラブロマンスを交えて描かれるが、さすがロッセリーニというべきか、リアルな戦闘場面の緊迫感が素晴らしい。本物の水兵を使って撮影されたというが、そのせいもあってあまりにリアル。映像のリズム感も見事で、みる者はぐいぐいと引き込まれる。第二次大戦のイタリアの状況は複雑なので、いったいこの船がどの海域でどんな敵と戦っているのかよくわからない。しかも、ドラマ風に登場人物に感情移入させる工夫はほとんどない(そもそも顔の認識の苦手な私は同じ制服を着た兵士たちを識別できない!)。それなのに映像を見ているだけで、ハラハラする。まさに映像のリアリティの力だろう。

 映画として特に面白いとは思わなかったが、ロッセリーニの底力を思い知った映画ではあった。

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東京・春・音楽祭2021「ベンジャミン・ブリテンの世界 番外編」を楽しんだ

 2021411日、東京藝術大学奏楽で、東京・春・音楽祭2021「ベンジャミン・ブリテンの世界 番外編」を聴いた。昨年、ブリテンのオペラ「ノアの洪水」を上演予定だったが、コロナ禍のために中止。今年も不可能となって、代わりに「番外編」としてのコンサートが開かれたとのこと。企画構成・ピアノ・解説は作曲家の加藤昌則さん。

 私はブリテンについてはほとんど無知だ。ただ、昨年頃からオペラ映像を数本みて、この作曲家の凄さに驚嘆。この機会にブリテンを何曲か聴いてみようと思ったのだった。

 曲目は、すべてブリテン作曲の「アルプス組曲」(リコーダーは吉澤実ほか)、「ヴィットリアの主題による前奏曲とフーガ」(オルガンは三原麻里)、「子守歌のお守りop.41」より(メゾ・ソプラノは波多野睦美)、「ウィリアム・ブレイクの歌と格言op.74」より(バリトンは宮本益光)、「ジミーのために〜ティンパニとピアノのための」(ティンパニは神田佳子)、そして、オペラ「ノアの洪水」を部分的に聞きながらのレクチャー、最後に「シンプル・シンフォニー」op.4(ヴァイオリンは川田知子、吉村知子、ヴィオラは須田祥子、チェロは小川和久、コントラバスは池松宏)。

 加藤さんの解説もわかりやすく、ブリテンに関してまったく無知な私も楽しむことができた。きっととりわけわかりやすくて親しみやすい曲を選んでくれたのだろう。演奏もきわめて充実していた。まさに名手たちだと思った。弦楽器の奏者たちも波多野さん、宮本さんの歌も文句なくすばらしい。

 私には、「ノアの洪水」と「シンプル・シンフォニー」がおもしろかった。ただ、「ノアの洪水」は弦楽五重奏を中心とした編成で、しかも部分的な演奏なので、やはり全体を聴きたい。加藤さんの解説で作曲家の工夫などはある程度わかったが、ともあれ、すべてを聴いててみないことにはなにもわからない。

「シンプル・シンフォニー」は22歳のころの曲だそうで、プロコフィエフの「古典交響曲」のような趣がある。擬古典的で、研ぎ澄まされており、知的でしかも初々しい。とても楽しめた。

 とはいえ、ブリテン初心者の私にはこのくらいのことしか言えない。ともあれ、来年はきっと「ノアの洪水」が上演されるだろう。楽しみにしている。

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新国立劇場「夜鳴きうぐいす・イオランタ」 日本人中心で健闘

 202144日、新国立劇場オペラパレスで「夜鳴きうぐいす(ストラヴィンスキー)」と「イオランタ」(チャイコフスキー)をみた。

「夜鳴きうぐいす」(ロシニョル)の実演をオペラとしてみるのは初めてだと思う(コンサート形式では聴いた記憶がある)。とても楽しめた。

 ヤニス・コッコスの演出は、大胆な色遣いの影絵とでもいうような舞台にファンタジー感いっぱいに繰り広げられる。登場人物の衣装も、京劇風だったり、歌舞伎風だったり。機械仕掛けの偽の夜鳴きうぐいすは、日本製のロボットとして登場。

 演奏に関しても、私はまったく不満はなかった。私は夜鳴きうぐいすの三宅理恵と料理人の針生美智子に特に感銘を受けた。三宅はこの役にふさわしい清潔できれいな声。音程がよく声が伸びる。見た目もとてもチャーミング。針生も研ぎ澄まされた美声で、躍動する声が見事。漁師の伊藤達人、中国の皇帝の吉川健一、死神の山下牧子もしっかりと歌っていた。舞台の動きもとてもコミカルでおもしろい。

 指揮は高関健。オーケストラは東京フィルハーモニー交響楽団。私は、「夜鳴きうぐいす」についてはかなり精妙な音でまとまりもよく、とても良い演奏だと思った。

 40分の休憩の後、「イオランタ」。

 ただ、私は「イオランタ」については少々不満を覚えた。

 歌手に関しては、イオランタの大隅智佳子とマルタの山下牧子は見事だと思った。とりわけ大隅は、圧倒的な声で抜きんでている。一人の声だけがビンビンと響き、しかも訴える力を持っている。ただ、ちょっとぶら下がり気味の音程だったのが気になった。

 それに対して、私は男声の弱さを感じた。ヴォデモンの内山信吾は声が無理やり振り絞っている感じだった。ルネ王の妻屋秀和も声量はあるが、音程が甘いのを感じた。エブン=ハキア役のヴィタリ・ユシュマノフも音程はしっかりしていたが、いかんせん声が出ていなかった。ロベルトの井上大聞とアルメリックの村上公太は健闘していたが、それでも魅力を感じられなかった。

 高関指揮の東フィルも弛緩しているように思える箇所があった。せっかくのチャイコフスキーの美しいメロディなのに、イオランタの悲しみがしっとりと伝わらず、イオランタの目が見えるようになったときの光の賛歌も盛り上がっていかなかった。今日が初日であるため、まだ十分に歌手とオケの微妙な息遣いが出来上がっていないのかもしれない。

 演出についてはとても魅力的だった。舞台は簡素で、背景に太陽を象徴するような円形が作られ、その周囲に影絵のような木々が見える。このイオランタの暮らす場所が、事実から目を背けた虚構の世界であることを強調している。最後、この虚構の舞台がすべて崩壊されて物語が終わるのではないかとひそかに期待していたが、そんなことはなかった。目の不自由から脱却しても、やはりイオランタは虚構の中に暮らしているのかも…という余計な詮索をしてしまった。

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東京・春・音楽祭2021 ブラームスの室内楽 クラリネット五重奏曲はヴィオラでも素晴らしかった!

 202143日、東京文化会館小ホールで、東京・春・音楽祭2021 ブラームスの室内楽Ⅷを聴いた。新型コロナウイルスが感染拡大を続けているために、次々といくつもの公演が中止にされた今回の音楽祭の、私にとって最初のコンサートだ。

 曲目は、前半にブラームスの弦楽五重奏曲第1番、後半にクラリネット五重奏供養(ヴィオラ版)。演奏は、加藤知子(第一ヴァイオリン)、矢部達哉(第二ヴァイオリン)、川本嘉子(ヴィオラ)、横溝耕一(ヴィオラ)、向山佳絵子(チェロ)。まさに日本を代表する演奏家たちだ。

 最初の音が聞こえたとき、柔らかくてしなやかな響きに驚いた。ブラームス特有の重心の低い落ち着いた音と言ってよいだろう。とても心地よい。最近の欧米で広まっているような緊密で密度の高い躍動するアンサンブルではなく、もっと潤いのある響きだ。やはりブラームスはこうでなくっちゃ!

 ただ、第12楽章では、あまり推進力がないのに、私は少し不満を感じていた。加藤さんがあまり強いリーダーシップをとっていないのか、中心的なものがないような気がした。素晴らしく美しい音であり、知的なアプローチであり、私はとても心地よいのだが、なんとなくみんなで音を合わせているような雰囲気があって、訴えてくる力を感じない。そう思っていた。しかし、最終楽章になって、芯になるものができたように思った。音楽が動きを持ち始め、躍動を始めた。意図的にそのように音楽を組み立てたのだったのだろうか。大きく盛り上がって音楽は終わった。

 後半のクラリネット五重奏曲は、まさしく名演だと思った。聴きなれたクラリネットではなく、ヴィオラなので、かなり雰囲気が異なる。ヴィオラだと、必然的にほかの四台の弦楽器と溶け合ってしまう。突出した音色にならない。そして、クラリネット特有のピコピコピコピコといった音が出ない。だが、ヴィオラであるがゆえに良さもあった。第二楽章のロマ風の音楽の部分、ロマの人たちが得意とする弦楽器であるがゆえに、いっそうロマ風に響いて人生の哀歓が際立つ。

 しなやかな音の上に、クラリネットのパートを弾くヴィオラが乗って、苦しみと悲しみと喜びと寂しさなど、あらゆる感情の入り混じった思いを歌い上げる。そして、それが最後、ほかの弦楽器の音の中に消えていく。実に美しいと思った。

 クラリネット五重奏曲はブラームスの室内楽の最大傑作だと思う。いや、それどころか、すべての作曲家の室内楽作品の中でも出色の一作だと思う。今日の演奏を聴いて、その思いをいっそう強めた。

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古いイタリア映画「越境者」「寄席の脚光」「シーラ山の狼」「ナポリのそよ風」「ポー河の水車小屋」

 大阪周辺は「まん延防止措置」がとられ、首都圏も感染拡大が顕著になってきている。そのせいもあって、自宅で過ごすことが多い。先日紹介した10作のイタリア映画のほかに、またDVD10枚の安売りセットを購入して、半分ほどみたので、簡単に感想を記す。

 

「越境者」 1950年 ピエトロ・ジェルミ監督

 ピエトロ・ジェルミらしい緊迫感にあふれた映像で展開し、最後には人類愛を訴える映画。冒頭の鉱山の様子を不安げに見守る人々の配置だけで、この映画の緊迫感が伝わってくる。

 シチリア島の鉱山が閉鎖されて失職した男たちが、フランスに行けば稼げるという詐欺師の口車に乗って、家財道具などを整理して、家族ともども集団で国を越えようとする。だが、詐欺師は途中で逃げ出し、集団は都会の中に置き去りにされてしまう。大都市の中ではぐれたり、故郷に戻ることを決断したりする者もいる中、三人の子どもを持つサロ(ラフ・ヴァローネ)やそのほかの人々は、それでもフランスを超えようとする。パスポートを持たない彼らは苦難の末に雪のアルプスを渡る。

 移動の途中、生活できなくなってやっと仕事にありつけたと思ったら、それはスト破りの労働であり、スト中の労働者に攻撃される。だが、スト破りに起こる人たちも、サロの娘のけがを心配する。そのような苦難の中で人間らしさを失わない人々の姿がとてもリアルに描かれる。とてもいい映画だと思う。

 

「寄席の脚光」 1950年 アルベルト・ラトゥアーダ、フェデリコ・フェリーニ共同監督

 この作品については知らなかった。ラトゥアーダとの共同監督だとはいえ、フェリーニの最初の監督作品だという。のちにフェリーニは自伝的映画「81/2」を作るが、このタイトルの数字はそれまでに作った映画が8本と半分だったことを示していることは有名だ。その2分の1にあたるのがこの作品というわけだ。

 これはまさに名作! まったくもってフェリーニの世界! ケッコ(ペッピノ・デ・フィリッポ)率いるどさまわりの寄席の一座に女優志願の娘リリアーナ(カルラ・デル・ポッジョ)が自ら加入する。美貌と踊りですぐに人気者になる。ケッコは才能を見抜き、異性としても惹かれて、ともに成功しようとして売り込みに必死になる。そのかいあってリリアーナはとんとん拍子にスターになってゆくが、ケッコは踏み台にされるだけになってしまう。

 フェリーニ特有の猥雑で刹那的で、しかも人間味にあふれた世界が展開される。芝居小屋の楽屋や、リリアーナに下心を持つ弁護士の屋敷での食事シーンなど、がさつで下品で卑猥な芸人たちの仕草や声は、それだけでフェリーニの芸術そのものだといえるだろう。寄席のメンバーである名前も示されない芸人たちや踊り子たちの一人一人が生き生きとしており、全体の動きが複雑な踊りのように見事に完成されている。そうした中に、日々を必死に生きる売れない芸人や落ち目の踊り子、順調にキャリアが進みながらも周囲に裏切り者と思われてしまう人間たちの人間模様が描かれる。

 シナリオの見事さ、映像の動きなどにただただ舌を巻くしかない。役者たちも素晴らしい。ケッコの愛人をジュリエッタ・マシーナが演じて、いい味を出している。凄い映画だ! 

 

「シーラ山の狼」 1949年 ドゥイリオ・コレッティ監督

 76分の短い映画だが、速い展開でドラマティックなことが次々と起こる。普通に考えると、それほど盛り込むとリアリティが薄れるのだが、南イタリア山間部の農林業の生活を見せて、とても説得力がある。雰囲気的に「カヴァレリア・ルスティカーナ」を思い出す。とてもおもしろかった。

 かつて、目の前で母と兄(ヴィットリオ・ガスマン)を殺された少女が美しい娘(シルヴァーナ・マンガーノ)となって、悲劇の原因を作ったロッコ(アメディオ・ナザーリ)のもとで働き始める。ロッコとその息子サルヴァトーレ(ジャック・セルナス)の気を引いて悲劇を起こさせようとする。最後には、サルヴァトーレを心から愛すようになって、復讐をやめようとするが、ロッコはその強圧的な態度の犠牲になって生きてきた妹オルソラ(ルイザ・ロッシ)によって殺される。

 家名を何よりも重視して、強圧的に家族や人々を支配する男の悲劇の物語といえるだろう。イタリアの文学や映画などでしばしば扱われるテーマだ。「狼ルーポ」というタイトルは、ロッコの飼う犬の名前であるが、娘を救うと同時に窮地にも追いやる南イタリアの風土を象徴するものでもあるだろう。

 

「ナポリのそよ風」 1937年 マリオ・カメリーニ監督

 新聞売りの青年(ヴィットリオ・デ・シーカ)はヴァカンスに出かけ、上流階級の一団にまぎれこんで貴婦人パオラ(ルービ・ダルマ)に恋をする。そこで自分も上流社会の人間にしばらくなりすまして行動するが、徐々に上級社会の人々の空虚さや身勝手さを感じ始め、心優しいメイドのラウレッタ(アッシア・ノリス)に惹かれていく。

 バレそうになりながら何とかごまかすところにこの映画の面白さがあるが、デ・シーカの軽妙な演技なしにはこの映画はリアリティを持たなかっただろう。その意味で、とても良くできた映画だと思う。

 

「ポー河の水車小屋」 1949年 アルベルト・ラトゥアーダ監督

 脚本の一人がフェリーニ。そのおかげもあるのかもしれない。とても良くできた物語だ。

 19世紀末が舞台のようだ。水車小屋の娘ベルタ(カルラ・デル・ポッジョ)は富農の息子オルビーノ(ジャック・セルナス)と愛し合って結婚しようと思っている。ところが、水車小屋の一家は税逃れの小細工に失敗して小屋を焼失してしまう。結婚は先に延び、ベルタはオルビーノの家で働き始めるが、そこで地主と小作人の間でトラブルが起き、ストが始まる。組合に対立する水車小屋の一家は孤立し、ベルタは嫌がらせに会う。それに怒ったベルタの兄は仕返しにゆき、悪意ある年寄りの言葉を真に受けてオルビーノと争いになり、誤って殺してしまう。

 階級間の戦い、ストライキとスト破り、社会主義者、キリスト教などの社会的テーマが示され、そこで生きる男女の生きざまが示される。もりだくさんなストーリーだが、それぞれの人物像は類型的ながら、俳優たちの演技力やポー河の風景、そこで生きる人々の生活が描かれてリアリティがあり、人々の歴史の一コマが真に迫って見えてくる。なかなかの名作だと思った。

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