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映画「アイダよ、何処へ」 宗教と時代を超えた絶望の自問

 1980年代、ユーゴスラビアを訪れたことがある。紙幣に6つの言語が書かれているのに驚いたのを覚えている。対ナチ抵抗の英雄だったチトー大統領が存命の間は、民族同士の平和が保たれていたが、その後、冷戦崩壊とともに、ユーゴスラビアという国も崩壊、いくつもの国に分裂し、果ては虐殺事件が起こるようになった。一度、旅行したことのある人間として、この地域の状況はとても気になっていた。今回、1995年、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争のさなかに起きた「スレブレニツァの虐殺」を描く実話に基づくヤスミラ・ジュバニッチ監督の映画「アイダよ、何処へ」が上映されているとあっては、見ないわけにはいかないと思っていたが、やっと時間を見つけて映画館に出かけた。

 原題は「Quo Vadis, Aida」。ネロ時代のキリスト教徒の殉教を描くシェンキェヴィチの小説「クオ・ヴァディス」と、古代エジプトの民族対立の中で愛をめざす女性の苦しみを描くヴェルディのオペラ「アイーダ」を思い出さざるを得ない。

 かつて、ボスニア・ヘルツェゴビナには、カトリック、ギリシャ正教、イスラム教のそれぞれの住民が隣り合って平和に暮らしていた。ところが、対立が起こり、セルビア人が民族浄化を企てるようになる。スレブレニツァの虐殺は、ムラディッチ将軍の率いるセルビア兵がスレブレニツァを侵攻し、イスラム系男性住民8000人以上を虐殺した事件だ。映画は、この事件がアイダ(イタリア語ではないので、アイーダでなく、アイダと発音される)という女性を通して描かれる。

 女性主人公アイダ(ヤスナ・ジュリチッチ)はスレブレニツァで教師として働いていたが、今は、紛争の解決のために国連軍として駐留するオランダ軍の英語通訳として働いている。はっきりとは語られないが、イスラム系なのだろう。ところが、そこにムラディッチ将軍が侵攻し、多くの市民が国連軍のキャンプに避難場所を求めて押しかける。危険を察知し、夫と二人の子どもを何とか逃がそうと、通訳の特権を利用してあらゆる手を打つが、聞き入れられず、三人とも虐殺されてしまう。そして、しばらくして平和が戻る。家族を失ったアイダは教師の職に復帰し、もと住んでいた家に戻る。そこには、かつて敵対しあっていた人々がまた隣り合って暮らしている。果たしてこの平和は続くのか、かつて殺しあった相手を許せるのか・・・。

 映画は実にリアル。逃げ惑う大衆が描き出されるが、おそらく当時の現実を再現しているのだろう。オランダ軍は、セルビア兵の暴力の前に何もできず、国連も機能していない。イスラム系の男たちは銃を持ったセルビア兵の言いなりになって黙って殺されていくしかない。汚い手を使っても、無理難題を言い出してもなんとか家族を救おうとしながら、なにもできないアイダの焦りが観客に痛いほど伝わる。

 アイダはかつての教え子をセルビア兵の中に見つける。その若者は悪びれることなく、アイダに親しげに話しかけ、アイダの息子の近況を無邪気に尋ねる。しかし、それはアイダにしてみれば、息子の顔を知って告発するセルビア人が存在する脅威を意味する。かつて隣人として生きていた者同士のいかんともしがたい対立と殺戮。

 これはイスラム系住民の悲劇というだけではない。この悲劇は宗教を超えている。たまたまこの地域ではイスラム系住民が虐殺されたが、例えば、かつてトルコではイスラム教徒によってカトリック系のアルメニア人たちが虐殺された。いや、それどころか、セルビアでの対立も、イスラム系住民がセルビア人を攻撃した過去があったために、そのような残虐な行動に移ったという面がある。

「クオ・ヴァディス、アイーダ」は、宗教と時代を超えた宗教対立への自問、「私たちはどうすればいいのか? 私たちの多様な宗教を抱えた人類はどこに向かえばいいのか?」という絶望の自問にほかならない。

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