« 2021年10月 | トップページ | 2021年12月 »

井上&新日フィルの「ペトルーシュカ」など 曲目変更だが、コロナ禍なので仕方がない

 20211129日、新型コロナウイルス、オミクロン株の感染拡大を防ぐため、水際対策を強化。岸田首相はビジネス目的や留学目的の外国人の入国を明日から全面的に停止すると発表した。私は日本語学校の校長の職にある。やっと留学生が入国できそうになったというときにこの措置は打撃というしかない。だが、もちろんこの状況ではやむをえない。日本語学校にとっては厳しい状況が続く。

 そんななか、サントリーホールで新日本フィルハーモニー交響楽団の演奏会を聴いた。指揮は井上道義。曲目は前半に武満徹の「弦楽のためのレクイエム」とモーツァルトの交響曲第39番、後半にドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」とストラヴィンスキーの「ペトルーシュカ」(1911年版)。

 私がこの演奏会のチケットを購入したのは、デュトワの指揮でラヴェルのピアノ協奏曲と「ラ・ヴァルス」が予定されていたからだった。ピアノの北村朋幹が帰国できなくなり、デュトワがコロナに感染して、演奏者も曲目も大幅に変更。ラヴェルは好きだが、ドビュッシーは好きでない私としては残念なことになった。

「弦楽のためのレクイエム」は、昔々、CDではなくレコードで聴いていた。久しぶりに聴いた。昔聴いたときには衝撃的だったが、今聴くと、正直言って、ちょっと退屈だった。モーツァルトの交響曲については、私はもっと素直にさらりと演奏してくれるほうが好きだ。井上の指揮はテンポを動かし、様々な楽器を強調するもので、入念と言えば入念。とても繊細ともいえるのだが、私にはちょっといじりすぎているように感じられた。

「牧神の午後へ前奏曲」は、実は私の苦手な曲だ。私は子どものころからがっしりと構成されたドイツ音楽になじんできたので、どうもこのような不定形な音楽は居心地が悪くなる。フルートをはじめ、金管楽器はきれいな音だとは思ったが、特に感慨はわかなかった。

「ペトルーシュカ」ついては井上の指揮に疑問を抱いた。井上のショスタコーヴィチの演奏は、もっとヌケの良い音で、鮮烈でメリハリがあり、ドラマが盛り上がる。だが、「ペトルーシュカ」を聴くと、音のヌケがあまりよくなく、音の透明感がなく、ドラマもあちこちで唐突な気がする。ただ、実をいうと私は「ペトルーシュカ」についても、あまりなじみがないので、もしかしたらこんな曲なのか、あるいはこれが井上の解釈なのかとも思う。

 私は音楽評論家ではないので、好きな曲だけを聴きに行く。ところが、今回は、曲目が変更されて、実は好きな曲が演奏されなかった。そんなわけで、残念ながらあまり楽しめなかったし、批評めいたことはまったく語る資格がない。運が悪かったと諦めることにしよう。

 実は次に行く予定のコンサートも、曲目が変更になり、私の目当ての曲が演奏されなくなった。この時期なので仕方がないとはいえ、割り切れない気持ちが残る。

 ところで、外国人入国停止ということは、外来演奏家たちも入国できないということになるのだろうか。手元にあるチケットのかなりが外国人の演奏家のかかわるものなのだが、また演奏者変更、曲目変更、あるいは公演中止になるのだろうか。またまた先が暗くなってしまった。

| | コメント (0)

東京二期会「こうもり」を楽しんだ

 

 20211127日、日生劇場で東京二期会公演、ヨハン・シュトラウスII世のオペレッタ「こうもり」をみた。歌の部分はドイツ語、台詞部分は日本語。オペレッタにはこのようなあり方が好ましいと私は思う。

 私はワーグナー好きなので、友人たちからは意外に思われるが、実は高校生のころ、カラヤン&フィルハーモニア管弦楽団のレコードを聴いて以来(ということはつまり55年くらい前から)、「こうもり」が大好き。一時期、ありったけのCDを買って聴き比べていたが、今でも公演があるとついみたくなる。同じアンドレアス・ホモキ演出の東京二期会公演を2017年にもみた記憶があるが、やはりまたみたくなった。

 指揮は川瀬賢太郎、オーケストラは東京交響楽団。2017年に観たときは阪哲朗指揮の東フィルだったと思うが、それよりもずっと躍動感があり、アンサンブルも美しかった。ただ、アデーレのアリアの部分などで、ほんの少し歌と合わないところがあるような気がしたが私の耳のせいだったか。

 第一幕の最初から、幕切れまでずっと同じ場所で演じられる。オルロフスキーはどうやらファルケが雇った役者らしいことがほのめかされる。最後、すべてが終わった後、最初の場面に戻るので、「すべては一夜の妄想だった」という設定なのかもしれない。かなりカットがあったようで、全体を二幕に改めた形になっている。が、特に違和感はなく、とても楽しめた。

 歌手に関しても全体的に高いレベルでそろっていた。アイゼンシュタインの又吉秀樹は声量もあり、歌いまわしもうまい。そして何より喜劇役者ぶりに脱帽。この人の姿かたちと動きをみていると、往年のフランスの映画俳優レイモン・コルディ(『自由を我等に』でルイを演じた俳優)にそっくりだと思う。本人は意識していないのだろうか??

 ファルケの宮本益光も知的な雰囲気をうまく演じて声も確か。フランクの斉木健詞もとてもいい。アルフレードの澤原行正は少し音程が怪しかった。

 女性歌手では、ロザリンデの幸田浩子は気品があり、声も美しい。アデーレの高橋維もきれいな声で、特に高音が見事。そして、オルロフスキーの郷家暁子はこの不思議な役をしっかりした声で見事に演じていた。

 日本人のオペラ歌手も演技がうまくなったことに改めて驚く。私がオペラを観始めたころ、すなわち1970年代の歌手たちの演技レベルは今から考えると学芸会レベルだったとつくづく思う。一つ間違うと下品になってしまうこのオペレッタを気品を保ちながら演じている。

 フロッシュを演じたのは森公美子。フロッシュという役を逸脱して森公美子としてのトークがアドリブ(?)でたくさん入った。テレビでよく知られている人なだけに、大いにウケていたが、私は「こうもり」を観に行ったのであって、森公美子ショーを観に行ったわけではなかったので、あまり愉快ではなかった。オペレッタなのだから堅いことは言いたくないが、やはりフロッシュの役からは逸脱してほしくない。逸脱すると、せっかく保ってきた大人の娯楽としての品位を落としてしまうと思う。

 とはいえ、今年はめでたく「こうもり」を味わうことができた。ありがたいことだ。

| | コメント (0)

メイエ&カルテット・アマービレ 2つのクラリネット五重奏曲

 20211125日、東京オペラシティ・コンサートホールで、ポール・メイエ&カルテット・アマービレのコンサートを聴いた。曲目は前半にモーツァルトのクラリネット五重奏曲、後半にブラームスのクラリネット五重奏曲。ともに私の大好きな曲。楽しみにして出かけた。

 モーツァルトが始まったとき、冒頭の柔らかい音に惹かれた。繊細に、しなやかに音楽を進めていく。メイエのクラリネットも実に高貴にして繊細。長調でありながらどこか物悲しい晩年のモーツァルト独特の美しいメロディが続く。うっとりして聴いたが、ただ聴き進めるうち、カルテット・アマービレがあまりに遠慮しすぎているようなのを感じた。メイエ先生が名人芸を披露し、ほかの若い生徒たちが先生の機嫌を損ねないようにおとなしく演奏する・・・とまでいうといいすぎだろうが、なんだかそんな雰囲気があった。クラリネットは素晴らしい。美しい音、モーツァルトの心の襞が聞き取れるかのよう。弦楽器もとても美しい。音程がいいし、アンサンブルも美しい。ただ、曲のせいかもしれないが、クラリネットばかりが目立っている。ちょっと前半の時点では、それが気になった。

 が、後半のブラームスになるとそのような雰囲気は感じなかった。カルテットも十分に豊かな表現を行い、メイエとがっぷり四つに組んだ感じだった。若いカルテット一人一人ではメイエに太刀打ちできないかもしれないが、四人が組めばメイエだって怖くない。素晴らしい演奏だと思った。

 私はブラームスのクラリネット五重奏曲の第2楽章が大好きだ。魂のいななきとでもいうか、そんなものを感じる。孤独な魂が一人ぽつんと野原に出て星空をみながら自分の人生を振り返る。亡くした人、失った愛、傷つけてしまった人を思い出す。そして、周囲に誰もいないのを確認して思い切り魂の哀しみを叫ぶ。魂が動物のように思い切りいななく。いななくクラリネットと抑制しつつそれを支える弦楽器。

 メイエのクラリネットはどこまでも高貴で、いななくといってもそこには気品がある。四台の弦楽器も高貴で美しい。だが、若い奏者の演奏の中にも、そのような人生の深みを感じ取ることができた。

 モーツァルトとブラームスのクラリネット五重増曲をこれほどの演奏で聴けて実に満足。日本の若い演奏家たちは実に頼もしい。

| | コメント (0)

新国立劇場「ニュルンベルクのマイスタージンガー」 ともあれ感動!

 20211124日、新国立劇場で「ニュルンベルクのマイスタージンガー」をみた。ザルツブルク・イースター音楽祭、ザクセン州立歌劇場の国際共同制作による。指揮は大野和士、演出はイェンス=ダニエル・ヘルツォーク

 演奏に関しては、私は大野和士の指揮に少々疑問を抱いた。とりわけ、第1幕への前奏曲があまりに重ったるい。その後も滑らかに音楽が流れない。第2幕はあまり緊張感がなくて、私は少々退屈してしまった。ワーグナーだというので無理やり重々しくしようとしているのではないかとさえ思った。とはいえ、第3幕になると、さすがに音楽が流れるようになってきた。初めからこのような感じだったら、私はもっと感動しただろう。

 歌手陣では、ハンス・ザックス役のトーマス・ヨハネス・マイヤーが圧倒的に素晴らしかった。この役にふさわしい自在な歌いっぷりで音程もいいし、声も通る。演技もこの役にふさわしい。ベックメッサーのアドリアン・エレートも芸達者ぶりを発揮している。もう少しワーグナー的な声も欲しいが、これはこれで押しも押されもしないベックメッサーだと思った。そして、エファの林正子も素晴らしい。第3幕の「トリスタンとイゾルデ」が引用される場面は感動的だった。発声が良いのだろう、音程が安定しているし、素直な音が伸びていく。素晴らしい歌手だと思う。

 ポーグナーのギド・イェンティンスはもう少し声の輝きがほしい。ヴァルターのシュテファン・フィンケはかなり声があまり美しくなく、いかにも苦しげだった。音程も不安定。マイスタージンガー太刀を歌ったのは、大沼徹、妻屋秀和、与那城敬、長谷川顯、村上公太、青山貴といった日本オペラ界を代表するそうそうたるメンバー。ダーヴィットの伊藤達人、マグダレーネの山下牧子も大健闘。三澤洋史の合唱指揮による合唱団もいつもながら素晴らしい。ただ、第3幕第4場の五重唱が美しいハーモニーを作り出さなかったのが残念。

 演出については、私としては今回もまた大いに疑問に思った。

 ワーグナーの台本では、確か中世の民衆がヴァルターに与えた冠を、エファがザックスにかぶせ、大喝采の中で楽劇は終わる。ところが、今回の演出では、基本的に舞台は現代であり、ザックスがヴァルターにマイスタージンガーを認めるように説得し、一応、ヴァルターはそれを受け入れたように見えるが、ダヴィデの肖像画(? ●注)をザックスがエファに渡そうとすると、エファはそれを打ち破って受け取ることを拒否する。ザックスが途方に暮れるところで幕が下りる。

 つまり、エファは、女性をモノのように扱い、規則を無理強いし、ドイツ万歳を叫ぶ過去を拒否したということだろう。そういう演出については私も納得する。この楽劇を現代において上演するとすれば、そのような演出も許容するべきだと思う。

 ただ、私が大いに気になったのは、あちこちで小芝居が行われていることだ。煩わしいことこの上ない。たとえば、第3幕第3場。1階ではザックスとベックメッサーがあれこれとやり取りをしている時、暗い2階で何やら小芝居が行われている。暗くてよく見えないので誰が何をしているのか私の席からはよくわからなかった。もしかしたら、ダーヴィット(もちろん、ダヴィデ王と同じ綴り!)がメイキャップをしてくれる女性に言い寄っていたのだろうか? 男性社会への揶揄なのか?

 それにしても、せっかくワーグナーが必死に作詞作曲した歌を歌手たちが必死に歌っているときに、それ以外のところに注意が向くような演出はいかがなものか。私には音楽に対する冒涜に思えるのだが。それにしても、現代の服を着たり、中世の服に着替えたりと、登場人物たちも忙しいことこの上ない。あれこれと意味ありげなパントマイムもたくさんある。パントマイムの読み取りを気にしないでもう少し音楽に集中したい。

 全体的に、私としては、指揮が滞り気味で、ヴァルターの声が苦しげで、しかも演出があれこれと煩わしいので、心の底からは感動できなかった。とはいえ、ワーグナーは素晴らしい。何はともあれ素晴らしい。ともあれ感動した。

 

  • 注 実は、この肖像画は誰なのか、私にはよくわからなかった。もしかしたら、登場人物のうちの誰か? あるいはワーグナー? それとも台本に出てくるダヴィデ王? ダヴィデ王という言葉が台本に出てくるのは、きっとキリスト教世界の詩作の王という意味なのだろう。

| | コメント (13)

オペラ映像「ジークフリート」「フィデリオ」

 新型コロナウイルスも、なぜか日本では鳴りを潜めている。不気味な状態だが、ともあれ社会生活は復活しつつある。そんな中、ともあれオペラ映像を時間を見つけてみている。感想を書く。

 

ワーグナー 「ジークフリート」 2012年 ソフィア国立歌劇場

 これまで、「ラインの黄金」「ワルキューレ」をみて、いずれもあまりレベルの高い上演ではなかったが、ついでだから最後までみようと思って、ソフィア国立歌劇場の「ジークフリート」BDを購入。やはり、かなり苦しい。

 歌手陣は健闘しているといえるだろう。しかし、やはりどの歌手も音程が怪しかったり、息苦しかったり、声が濁ったりで、聴き続けるのがつらくなる。

 ジークフリートのマルティン・イリエフ、ブリュンヒルデのバラスガラン・ダシニャム(顔に色を塗っているのでよくわからないが、たぶん、アジア系の女性だと思う)はともに、よいところはたくさんあるのだが、やはり西欧の一流の人たちと比べるとかなりの差がある。イリエフは発声が苦しいし、ダシニャムは低い音で音程が怪しくなる。その中では、ミーメのクラシミール・ディネフとアルベリヒのビセル・ゲオルギエフ、さすらい人のマルティン・ツォネフのほうが安定しているといえるかもしれない。だが、それでも感動して聴くほどには達しない。

 だが、私が何よりも気になるのは、パヴェル・バレフ指揮のソフィア国立歌劇場管弦楽団の精度の悪さだ。反応が鈍く、音が濁っている。音程もよくない。録音の仕方によるのかもしれないが、音がこもっている。

 聴き続けるのがつらくなって、ところどころとばしたことを告白しておく。

 

ベートーヴェン 「フィデリオ」2020年 英国ロイヤル・オペラ・ハウス

 NHKBSプレミアムの放送を録画して観た。

 まず、レオノーレを歌うリーゼ・ダヴィドセンのあまりの素晴らしい歌に圧倒された。もしかしたら歴代最高のレオノーレではあるまいか。フラグスタートやニルソンやルートヴィヒやジェシー・ノーマンなど伝説のレオノーレ歌いよりも伸びのある美しくて強い声。容姿的にも美しくありながらも十分に男性に見える。第二幕に登場するヨナス・カウフマン(決して、背の低い人ではない!)よりも背が高い! このフィデリオにぴったり。

 マルツェリーネのアマンダ・フォーサイスも潤いのある美しい声。これも素晴らしい。ロッコのゲオルク・ツェッペンフェルトももちろん最高に見事。ワーグナーやベートーヴェンのバスの役はこの人に匹敵する人は今のオペラ界にはいないと断言できる。そして、第二幕に登場するカウフマンの最初の声の凄さときたら! 最初の一声で誰もが虜になってしまう力を持っている。この四人に関しては、レコード、CD、映像、実演を問わず、これほどそろったものに接した記憶がない。

 指揮はパッパーノ。この指揮については好悪がわかれるだろう。パッパーノらしい明快でメリハリのしっかりした指揮。ただ、ここまで明快にする必要があるのだろうかという疑問を感じないでもない。もっと陰影や曖昧さや幽玄さのようなものがあってもいいのではないかと思えてしまう。とはいえ、ドラマの世界にぐいぐいと引き込まれる。

 何よりも驚いてしまうのが、トビアス・クラッツァーの演出だ。第一幕はフランス革命後のテロリズムの時代らしい。革命を主導した人たちもすぐに反革命の烙印を押されて告発されている状況が描かれる。つまり、どうやらピツァロも革命を推進した一人なのだが、いつのまにか抑圧する側になってしまっているということのようだ。だが、そこまではよしとしよう。問題はその後だ。歌の入らないセリフ部分は原作に基づかず、新たに作り替えられているが、そのような部分で、なんとマルツェリーネがすでにレオノーレが女性であることに気づく場面が挿入される!

 そして、第二幕に進む。突然、舞台の状況が変わる。フロレスタンのいる牢獄は舞台前方に置かれた黒い堆積物の上に設定され、現代の服を着た人々がその堆積物の周囲に椅子を置いて取り巻いている。それらの人々は面白がって苦しむフロレスタンをみているようだ。暴逆を傍観する現代人を揶揄しているのだろうか。レオノーレのフロレスタン救出が進んでいくにつれて、どうやら傍観者たちはことの深刻さに気付いて狼狽し始める。そして、ピツァロがフロレスタンを殺そうとし、レオノーレが助けに入る。しかし、レオノーレは助けられずに抵抗する。そこにやってきたのが、革命戦士の格好をしたマルツェリーネ。そして、マルチェリーネが銃でピツァロを撃つ! 革命の担い手となる階層に属し、レオノーレに同情したマルツェリーネがフロレスタンの解放を手伝ったということか。

 そこでようやくピツァロは敗北し、本来のあるべき自由を求めるフロレスタンとレオノーレ、そしてドン・フェルナンドたちが勝利し、それまで傍観していた人たちはそこでようやく力を得て、自由を高らかに叫ぶ。

 まあ要するに、現代の世論は今も行われている暴虐を傍観的に眺めるだけで何もできない、実際に世界を変えるのは虐げられた階層にいる人たちである、世論は決着がついた後で正義を叫ぶ・・・そのようなメッセージなのだろうか。

 私の解釈が正しいかどうかはわからない。だが、たとえこれが正しいとしても、私は納得できない。私はベートーヴェンのオペラの中にこのような要素があるとは思わない。これはクラッツァーの現代社会へのメッセージでしかない。ベートーヴェンの中にないものを、セリフを変えて無理やり押し込むのを、私は「演出」とは思わない。そう言いたければ、演出という形をとらずに、ほかの場所でもっとわかりやすく語ればいいことだ。

 というわけで、私はこの上演の演奏については素晴らしいと思う。とりわけ歌手陣に関しては伝説の歌手たちを超えていると思う。だが、演出については承服しがたい。

 私は引っ込み思案でおとなしい人間なので、実際にブーイングするようなことはないが、もし私が現場にいたら、ブーイングしたい気持ちになっただろうと思う。

| | コメント (0)

ファウストのバッハ無伴奏ヴァイオリン全曲演奏の2日目 自然体のシャコンヌ

 2021年11月18日、東京オペラシティ・コンサートホールでイザベル・ファウストのバッハ無伴奏ヴァイオリン全曲演奏の2日目を聴いた。曲目はパルティータ第3番、ソナタ第2番、パルティータ第2番。

 昨日は初めのころ、少し指がもつれる感じがあったが、今日はまったくそのようなことはなかった。しなやかで一つ一つの音がくっきりして知的な音で世界を作っていく。肩の力の入らない自由で澄み切った演奏だといってよいだろう。だが、いわゆる「草書体」の演奏ではない。形は崩れず、むしろ行儀が良い音楽だと思うのだが、気品があり、精神の自由があるので、のびやかに聞こえる。

 やはり「シャコンヌ」は素晴らしかった。これこそまさに肩の力の抜けたシャコンヌ。力まず、がなり立てず、しゃかりきにならない自然体のシャコンヌ。だが、自然体で少しも音を引き伸ばしたりアクセントをつけたり、気合を入れたりず、大きな音を出したりしないのに、スケールの大きな世界が広がる。こっそりいうと、私としてはもうちょっとだけ思い入れをこめて踏ん張ってほしかったのだが、そうしないでこれだけの世界を作れるところが今のファウストなのだろう。

 アンコールはソナタ第1番のシシリアーナかな? (書き忘れていたが、昨日のアンコールは、確かソナタ第2番のアンダンテだった)。壮大なシャコンヌの後にこのような曲を聴かせてくれて心が落ち着く。

 バッハの無伴奏曲はその時々の演奏家の心を聴かせてもらえる気がする。また近いうちにファウストのバッハ無伴奏曲を聴きたいものだ。

| | コメント (0)

ファウスト バッハ無伴奏全曲演奏初日 無限の中の自由な精神の広がり

 20211117日、東京オペラシティ・コンサートホールでイザベル・ファウストのバッハ、無伴奏ヴァイオリン・ソナタ・パルティータ全曲演奏の初日を聴いた。曲目はソナタ第1番とパルティータ第1番、そしてソナタ第3番。ストラディバリのバロックボウを使っての演奏だという。3曲が休憩なしで演奏された。

 初めのうちは、かすかだが、指がもつれる感じがあった。そのせいで音楽が縮こまって、少し停滞気味だったと思う。ファウストほどの人でもこのようなことがあるということだろう。だが、ソナタ第1番の第3楽章あたりから本領発揮。

 あえて音楽を小さく作っているように思えた。もっとスケール大きく弾くことができるだろうに、そうしない。音の色彩感を重視して繊細に弾く。大きな音を出すわけではない。音を大きく伸ばしたりもしない。どこかを強調したりもしない。むしろ、小刻みに音を作り出し、静かな音色を重ねていく。音はどこまでも美しく、しっかりしたテクニックに支えられて、まったく音が濁らない。がむしゃら音楽ではなく、解放された精神をもって自由に遊んでいる雰囲気がある。そうして作られてゆく音楽は決してスケールが小さくはない。むしろ必然的にスケールが大きくなり、夢幻の宇宙に広がっていく。まさしく無限の中の自由な精神の広がりになる。

 とても感動したのだったが、実をいうと、私はもっと感動するつもりで出かけたのだった。爆発的な感動は覚えなかった。以前きいたファウストの無伴奏バッハはもっとすごかった気がする。本日も残りの曲が演奏される。本日はもっと感動させてもらえるに違いない。

  なお、昨日のうちにこの投稿もアップしたかったが、ココログのメンテナンス中とのことで遅くなった。

| | コメント (0)

ウルバンスキ&東響の「カルミナ・ブラーナ」 生命が炸裂した!

 20211113日、サントリーホールで、東京交響楽団定期演奏会を聴いた、指揮はクシシュトフ・ウルバンスキ。曲目は、 前半に、弓新が加わって、シマノフスキのヴァイオリン協奏曲第1番、後半にオルフ作曲の大曲「カルミナ・ブラーナ」。新型コロナにかかわる入国制限のために、大幅に出演者が変更になったが、素晴らしい演奏会だった。興奮した。

 シマノフスキの協奏曲は、色彩豊かな夢の国に迷い込んだかのようにして始まる。映画の中で幽霊が出るときにかかるような横笛の音を思わせるヴァイオリンの音。弓のヴァイオリンがそうした雰囲気を掻き立てる。しかし、きわめて知的な構築だと思う。情緒に流されず、客観的にヴィヴィッドな切れの良い音によって官能的な世界を作っていく。そうであるだけにいっそう造形が明確で、幻想的な世界がリアルに迫る。

 弓新というヴァイオリニスト。存在は知っていたが、初めて聴いた。素晴らしいヴァイオリニストだと思う。

「カルミナ・ブラーナ」はそれ以上に素晴らしかった。興奮した。

 この曲は、アクセントを強めて、もっとどたばたと演奏することもできる。私はそんな演奏も嫌いではない。だが、ウルバンスキはかなり室内楽的に、繊細に演奏する。もちろん、冒頭などはかなり強烈な音を出す。しかし、全体的には音が団子状になることなく、あくまでも透明な音で進めていく。力任せに突き進むのではなく、音楽のニュアンスを大事にして、徐々に高揚させていく。そうであるだけに、音楽が立体的になり、一筋縄でいかなくなる。一層豊かな世界が現れる。そのようなウルバンスキの指示を的確に音にする東京交響楽団も素晴らしい。音が決して濁らない。打楽器の音もびしりと決まる。

 冨平恭平合唱指揮による新国立劇場合唱団も素晴らしかった。しなやかで立体的。ユーモアにあふれていながらもこの上なく真摯な「カルミナ・ブラーナ」の世界を描き出していた。長谷川久恵合唱指揮による東京少年少女合唱隊も見事。

 そして、独唱陣も見事。来日予定だった外国人勢にまったく引けを取らないと思う。町英和は柔らかい素直な声が素晴らしい。初めのうち、少し声量的に弱いかと思ったが、そんなことはなかった。伸びのある美しい声。カウンターテナーの彌勒忠史もおどけた歌をうまく歌って見事。そして何よりも私は盛田麻央の潤いのある柔らかい美声にうっとりした。

 鮮明で生命力にあふれた、豊かな「カルミナ・ブラーナ」だった。魂が震えた。最高潮になって「おお運命よ」の大合唱になって生命が炸裂して終わった。

 なんと素晴らしい音楽なのだろうと思った。そして、ウルバンスキはすでに大巨匠だと思った。

| | コメント (0)

鈴木秀美&OLCのメンデルスゾーンのシンフォニア 多感な生命体が走る!

 20211112日、三鷹芸術文化センター 風のホールで、オーケストラ・リベラ・クラシカ第45回定期演奏会を聴いた。

 私も20数年前まで、メンデルスゾーンを世間知らずのお金持ちのお坊ちゃんで、作曲した曲も底が浅いと思っていた。ところが、そんなとき、当時大好きだったドホナーニがウィーンフィルを指揮したメンデルスゾーンの交響曲全集が発売になった。それを聴いて考えが変わった。なんと繊細で心豊かで奥の深い音楽であることか。そうして改めて聞いてみると、協奏曲も室内楽曲も宗教曲も本当に素晴らしい。それからしばらくして、10代前半に作曲した弦楽のためのシンフォニアのCDを聴いて再び驚いた。日本でいう中学生がこんな音楽を作曲するなんて、モーツァルト以上の天才ではないか! 

 そしてこの度、このところ目覚ましい名演奏を聴かせてくれている鈴木秀美が手兵のオーケストラ・リベラ・クラシカ(OLC)を振って、弦楽のためのシンフォニアの数曲(4番、10番、3番、13番、11番)を演奏すると知って三鷹まで出かけたのだった。

 地味な曲のせいか、客はまばら。なんともったいないことか。素晴らしい演奏だった。それ以前に素晴らしい曲だと思う。初々しく、のびやかで、才気煥発。しかし、育ちが良いので、まったく嫌味がない。しかも、ユダヤ人差別を子どものころから受けていたのかもしれない。やはり陰りがある。そうした様々なものがこの上ないほどに形式の中に完成されている。まさに目の前に多感で知的で育ちの良い天才少年がいるかのようだ。しかも、素晴らしい演奏。今、目の前で音楽が作られていくかのように新鮮で生き生きしている。

 私は特に第10番が好きだ。次々と美しいメロディが湧き出てきて、それがまとまりをもって徐々に形を成し、大きなドラマを作っていく。多感な生命体が走っているかのようだ。第11番も素晴らしかった。ここれはまさに本格的なシンフォニー。フーガ風の展開をしばしば見せ、のちの「フィンガルの洞窟」や交響曲を思わせるような部分もある。大人になってからの余計なものがない分、音楽自体の素晴らしさのようなものも感じる。鈴木の指揮も、ロマンティックすぎず、かといって古典派風でもなく、実に見事にメンデルスゾーンの音楽をかぎ分けて展開していく。堪能した。

 

| | コメント (0)

オペラ映像「魔弾の射手」「ヴァネッサ」「アルジェのイタリア女」「パルミラのアウレリアーノ」

 コロナもやっと静まったようだ。このまま終息してほしい。やっと留学生の入国が認められ、日本語学校の校長の職を務めている私としては、少しだけ光が見えてきた気がする。そんななか、オペラ映像を数本みたので感想を記す。

 

ウェーバー 「魔弾の射手」 2021年 ベルリン・コンツェルトハウス 

 NHKプレミアム放送を録画していたものを、かなり時間を経てから観た。無観客による上演。演出はカルルス・パドリッサ。オーケストラと歌手陣が同一平面で行動する。時に独奏楽器が歌手の横で演奏する。そのため、楽器の一つ一つの音がしっかりと聞こえ、室内楽的な繊細な音楽が作り出される。

 クリストフ・エッシェンバッハの指揮もきわめて室内楽的で、とても美しい。このような「魔弾の射手」を初めて聴いた。このような演奏で聴くと、登場人物の心理が手に取るようにわかり、よくできているとは言えない台本でも十分に登場人物に感情移入できる。

 歌手陣はとても充実している。中でも、アガーテを歌うジニーン・ド・ビックが素晴らしい。アフリカ系の歌手なので、多少違和感を覚えるが、声を聴くうちに、そのようなことは忘れてその歌声に感動する。昔のグンドゥラ・ヤノヴィッツを思い出すような澄んだ美声だが、時々音程が怪しくなったヤノヴィッツよりもずっと音程も正確。エンヒェンのアンナ・プロハスカも素晴らしい。室内楽的な声の競演と言ってもよさそう。

 マックスのベンヤミン・ブルンス、オットカールのミハイル・ティモシェンコ、クーノーのフランツ・ハヴラタ、カスパールのクリストフ・フィシェッサーも文句なく見事。

 ただ、隠者が寛容な心を訴えかけている場面で、手前に置かれた水槽の中で女性が泳ぎながら、中に浮かぶペットボトルなどのごみを集めて捨てている。私には寛容な心とごみ問題の関係がよく理解できなかった。「寛大な心を持ち、ごみを捨てるのをやめよう」という社会的メッセージなのだろうか。

 

バーバー 「ヴァネッサ」 2018年 グラインドボーン音楽祭 

 これも、NHKプレミアム放送を録画したもの。ネットでオペラのDVDBDを検索していると、しばしばこの上演映像の広告が現れるので、気になっていた。NHKが放送してくれたので、とてもありがたい。

 初めてこのオペラに接したが、とてもおもしろかった。ストーリーも不思議な雰囲気があってとてもいい。1958年初演で、カルロ・メノッティの台本だという。19世紀末の象徴主義の時代のフランス小説の匂いがする。ヴィリエ・ド・リラダンにでもこんな話がありそう。ローダンバックの(というか、「コルンゴルトの」というべきか)の「死の都」にも似た雰囲気。音楽も、コルンゴルトを思わせる。

 演出はキース・ウォーナー。ヴァネッサ(エマ・ベル)と姪のエリカ(ヴィルジニー・ヴェレーズ)と老男爵夫人(ロザリンド・プロウライト)がよく似た容姿の三人(相似形)として描かれる。3人とも一人の男アナトール(エドガラス・モントヴィダス)に惹かれる。若くて美しいエリカはアナトールの子どもを身ごもるが、アナトールが中年女性のヴァネッサと結婚しようとするのを知って、自殺を図り、子どもを流産する。エリカはかつてのヴァネッサと同じように、館にこもりきるようになる。そんなストーリーだが、大きな鏡を効果的に使って、墓場のような館を見事に描き出し、怪奇的な雰囲気を高める。

 歌手陣もそろっている。容姿を含めて、この役にぴったり。ベルは、ちょっと無神経でありながら、男性に耽溺するヴァネッサを見事に演じる。エリカ役のヴェレーズの演技も素晴らしい。モントヴィダスも女とみると誰にでも手を出し、どうやらあっけらかんと心から愛しているらしいアナトールを見事に演じている。エリカの絶望の場面などの音楽の力もすさまじい。ヤクブ・フルシャの指揮するロンドン・フィルハーモニー管弦楽団も後期ロマン派的な雰囲気を盛り上げて、とてもいい。

 バーバーの音楽は、「弦楽のためのアダージョ」しか知らなかったが、とてもいい作曲家だと思った。

 

ロッシーニ「アルジェのイタリア女」 2013年 ペーザロ・ロッシーニ音楽祭

 ロッシーニのオペラを時代順にみなおしている。とても楽しい映像だ。デヴィッド・リヴェルモアの演出。1960年代、確かサイケデリックと呼ばれたけばけばしい色づかいの様式の舞台が流行していた。そうした風俗を用いてロッシーニの世界を展開している。漫画風の映像が現れるところも、昔の映画「ピンクパンサー」などを思い出す。「ルパン三世」っぽいところもあるが、これはきっと「ルパン三世」が同じ文化の中で生まれた作品だということだろう。

 ムスタファを歌うアレックス・エスポージトがとてもいい。張りのある声で見事に歌う。イザベッラのアンナ・ゴリチョーヴァも超え、容姿ともに申し分ない。リンドーロのシー・イージェ(石倚潔)も輝かしい美声、タッデオのマリオ・カッシも実に楽しい。

 ホセ・ラモ・エエンシナールの指揮するボローニャ・テアトロ・コムナーレも不満はない。ワクワクするような楽しい音楽を作り出している。

 

ロッシーニ 「アルジェのイタリア女」2018年 ザルツブルク、モーツァルト劇場

 何はともあれ、やはりチェチーリア・バルトリが素晴らしい。ゴリチョーヴァもとてもいいと思ったのだが、そのあとにバルトーリを聴くと、声の躍動、爆発力に圧倒されるしかない。ムスタファのルダール・アブドラザコフ、リンドーロのエドガルド・ロチャも言うことなし。ジャン=クリストフ・スピノジの指揮もとても躍動感がある。さすがザルツブルク音楽祭!

 ただモーシュ・ライザーとパトリス・コーリエの演出は、現代に舞台をとっている。妻に飽き飽きしているアルジェの権力ある富裕家のところにイタリア人たちがやってきたといった雰囲気で、太守と奴隷といった設定はほとんど感じない。イスラム色をできるだけなくしているといえるだろう。一つ間違うと宗教否定、宗教紛争になりかねない題材だけに、それはそれで一つのあり方だろう。

 

「パルミラのアウレリアーノ」2014年 ペーザロ、ロッシーニ音楽祭 

 序曲を含め、いくつかの歌の中に「セヴィリアの理髪師」と同じメロディが何度か出てくる。パルミラを占領したローマの皇帝アウレリアーノが、最後には寛大にパルミラの女王ゼノービアとペルシャの王子アルサーチェの愛を認めるというストーリーはちょっと安易すぎるが、音楽はとても溌溂としていてロッシーニらしい。大いに楽しめる。

 アウレリアーノ役のマイケル・スパイレスが輝かしいテノールでとてもいい。ゼノービア役のジェシカ・プラットも高音がとても美しくて見事な歌いまわし。アルサーチェのレーナ・ベルキナは一般のズボン役を歌うには十分だろうが、この英雄を歌うにはあまりに非力。英雄らしさがないのが残念。

 指揮のウィル・クラッチフィールドについては、序曲の部分では、「セヴィリアの理髪師」と同じ曲にしてはテンポが遅く、雰囲気が異なるが、オペラ・ブッファではないのだから、確かにこのような演奏のほうがふさわしいだろう。マリオ・マルトーネの演出はたぶんオリジナルを尊重したものだと思う。日本語字幕もあって、とてもわかりやすくてありがたい。

 とても良い上演だと思う。満足。

| | コメント (0)

ウルバンスキ&東響のブラームス第4番 官能的と言えるほど繊細でとろける冒頭

 2021116日、ミューザ川崎シンフォニーホールで東京交響楽団のコンサートを聴いた。指揮はクシシュトフ・ウルバンスキ。曲目は、前半にモーツァルトの「魔笛」序曲と、児玉麻里が加わって、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第2番、後半にブラームスの交響曲第4番。

 ウルバンスキは以前、一度だけ聴いた記憶がある。ショスタコーヴィチの交響曲だったが、切れがよく鮮烈だった。期待して出かけた。

 今回も、まず「魔笛」序曲のういういしい音楽に驚いた。弦の音がしなやかで繊細で、しかも生き生きとしている。そして、細かいニュアンスを付けながら音楽を進め、後半に音楽を大きく盛り上げていく。ドラマティックに音楽が展開する。

 ベートーヴェンの協奏曲については、もしかしたら私の席(正面の前から3列目)がピアノの反射板の真ん前であるせいかもしれないが、妙にピアノの音が硬く、潤いのようなものがあまり感じられないのが残念だった。私は、児玉麻里のピアノは、確か連弾しか聴いたことがないような気がする(しかも、ピアノに疎い私は、連弾で演奏されると、どの音をどの奏者がだしているのか、まったく区別がつかない!)ので、これが本来の音なのかどうか、判断できない。私にはオーケストラの柔らかい音とピアノの硬い音がうまく溶け合わないのを感じた。ただ、それでも第3楽章にいたっては、祝祭的になって、硬めの音が気にならなくなった。むしろ輪郭がはっきりして弾むようなリズムが心地よかった。

 私の目当てはブラームスの交響曲第4番。クラリネット五重奏曲とともにブラームス作品の中で最も好きな曲だ。

 官能的とさえいえるような繊細でとろけるような出だしだった。まるで愛に悶えるように音楽が深まっていく。私は「トリスタンとイゾルデ」の前奏曲の雰囲気を思い出した。一般にはブラームスの枯淡と諦観の音楽とされているものが、まるで愛の悶えのようにさえ思えた。第1楽章はこうして繊細に美しく、揺れ動きながら音楽は進んでゆき、深く沈潜し、大きく躍動し、劇的な炎になって終わった。第二楽章はスローテンポでじっくりじっくり音色を重ねていく。私のようなせっかちな人間は、途中、ちょっと息切れがしかけたが、これはこれで見事な造形だと思う。第1楽章でいったん燃え上がった感情がここで再び沈潜し、深まっていく。

 そして、第3楽章でスケール大きく音楽が高まる。私は斜め前の男性客がパンフレットをいじったり、演奏中にアンケートを書いたり、指揮の真似をしたりして視覚的にうるさいので目をつむって聴いていたら、突然、地響きがしてびっくり。何かと思ったら、ウルバンスキが指揮台に足を大きな音を立てて踏み下ろしていた! 音楽もそれに呼応して大きく盛り上がる。そして、第4楽章でパッサカリアがいっそう盛り上がって宇宙的と言ってよいような大クライマックスになった。まさに一つの世界を作り上げていた。きわめて知的に構築され、しかも感情的に盛り上がっている。素晴らしい演奏と思った。東響も指揮者の要求にこたえて、妙なる音を作り出している。木管楽器の美しさも格別だった。

 とても感動して会場を後にした。

| | コメント (0)

映画「MINAMATA」 外国人から見た水俣だからこそ成り立った映画

 映画「MINAMATA」をみた。名優ジョニー・デップが日本人になじみのあるユージン・スミスを演じて水俣病を扱っているのでみたいと思いつつ、機会を見つけられなかった。昨年まで東進ハイスクールでの仕事のために時折通っていた吉祥寺まで出かけて、みてきた。とてもよい映画だった。監督はアンドリュー・レヴィタス。

 かつて戦争写真で有名だった写真家ユージン・スミス(ジョニー・デップ)は今や妻子にも見棄てられ、仕事もうまくゆかずに飲んだくれている。そんなとき日系女性アイリーン(美波)に出会い、水俣の状況を知って、それを写真に撮りたい気を起こして、水俣に乗り込む。チッソ工場の妨害を受け、何度も弱気になり、何度も自信をなくし、再び酒に溺れそうになりながらも、現地の人と心を通わせるようになって、病気に苦しむ人々、その中での肉親の愛情などを撮影する。そして、水俣の名は世界に知られることになり、裁判も被害者側が勝利する。

 少々、切り込み不足は感じないでもない。水俣にはもっと悲惨な状況があっただろう。会社側の隠蔽工作もあっただろう。運動の担い手たちの苦労は映画で描かれているようなものではなかっただろう。いや、そもそも現地の人たちは映画ほどに美男美女たちではなかっただろう。もっと悲惨でもっとどろどろしており、もっと目をそむけたくなるものだっただろう。飲んだくれの写真家の再出発といったありきたりのドラマの中で、まるで付随物としてのように水俣が描かれる。凄惨な史実を扱う映画をみるとき、どうしてもそのような思いに駆られたくなる。

 だが、ふと考え直してみる。これは外国人から見た水俣だからこそ成り立った映画なのだ。日本人が作ると、もっと深入りしなければならなくなる。表面的なアプローチでは許されない。だからこそ何も語れなくなってしまう。一人の個人的な悩みを抱えた外国人が見た水俣という大枠があるからこそ、水俣の真実を外から描くことができる。一面の真実をリアルに描くことができる。その意味では、見事なアプローチと言えるだろう。

 被害者のリーダーを演じる真田広之とチッソ会社の社長を演じる國村隼の存在感がこの映画に深みを与えている。真田は苦しみの中で何とか理性的になろうと戦ってきた地域のインテリの生きざまが動きの一つ一つから伝わる。國村のふてぶてしい策士でありながら被害者の実態を耳にするといたたまれなくなる人物ぶりが実にリアル。

 被害女性がユージンを信頼して奇形の子どもを風呂に入れる様子を写真に撮らせる場面には涙を流すしかなかった。ユージンを主人公にしたからこそ、この場面をクライマックスにして、水俣病を告発すると同時に、人間の生きる姿を浮き彫りにすることができたともいえるだろう。

 ユージンが行き来する水俣の家々や風景があまり日本らしくなく、まるで東南アジアのような雰囲気だということは誰もが感じるところだろう。1970年前後の九州の田舎を私はよく知っているが、映画の中の雰囲気は私の記憶とはかなり異なる。そのあたりにもう少し気を遣ってくれていれば、私たちの世代の日本人はもっと強烈な感動を覚えただろうと思う。

 とはいえ、それにしても、名優ジョニー・デップがこのような形で日本の問題を描いてくれたことに感謝したくなる。そして、映画の最後で語られる通り、この後も水俣病は解決しておらず、世界のあちこちで同じような悲惨な被害が続いている。そのような訴えかけも私たちの胸にこたえる。

| | コメント (0)

雑感、そしてオペラ映像「後宮からの逃走」「フィガロの結婚」「魔笛」

・ 衆院選挙が終わった。中選挙区の時代の国政選挙や地方選挙を含めて、選挙権を得てからこれまで、一度も私の投票した候補者が当選したことがなかったが、その記録をまたも更新した。あえて当選しそうもない人に投票しているつもりはないし、もちろん私はいわゆる「諸派」の支持者でもない。今度こそ、私の考える方向に行くのではないかと思って、それなりに考慮して投票するのだが、選挙が終わるたびに残念な思いに駆られる。いずれにせよ、私はどうやら多数派ではないようだ。

 

・ 京王線で電車内のナイフによる無差別殺傷事件が起こった。先日の小田急線の事件とともに、私の生活圏の路線での出来事であるだけにいっそうリアリティのある脅威を覚える。これからもあちこちでこのような事件が起こりはしないかと心配になる。これを防ぐには中国のように監視を強めるしかないのではないかと思う。それができないのであれば、完全に防ぐのは難しい。だが、いずれにせよ、格差拡大、自暴自棄の人間の増加という背景を政治が何とかする必要がある。

 

・ 一昨日だったか、テレビをひょいとつけると、先日亡くなった柳家小三治師匠の追悼番組が放送されており、後半には、「初天神」の録画が流された。人間国宝なので当然なのだが、本当に素晴らしい。私は1970年代、新宿の末広亭にしばしば通い、あちこちのホール寄席や落語会に足を運んでいた。小三治さんはまだ若手だったが、めっぽう上手で、最高におもしろかった。小三治さんの師匠だった小さんとともに私の大好きな噺家だった。テレビ番組でも追いかけてみていた。得意にしていた「小言念仏」のリアルなおかしみは忘れられない。クラシック音楽やオーディオ装置について語ったインタビューも楽しんで読んだ。人間国宝になってからは落語を聞く機会がなかったので、ぜひまたじっくりを味わいたいと思っていた。落語の世界でも名人をなくした。本当に残念。

 

・ 何本かオペラ映像をみたので感想を書く。

モーツァルト 「後宮からの逃走」 2017年 ミラノ、スカラ座

 スカラ座での公演を集めた安売りBDを購入。5枚組で7000円代だった。こんな値段でこんな素晴らしい映像が見られるなんて、なんと幸せな時代になったものだろう。

 ジョルジョ・ストレーレル没後20周年、ルチアーノ・ダミアーニ没後10周年記念上演ということらしい。ストレーレル演出、ダミアーニの衣装・装置による上演だ。シルエットをうまく使ったとても楽しくて情緒のある演出だ。今から見ると、特に際立った解釈はないが、わかりやすくて愉快で自然。トルコについても、嫌みなく自然に描いている。

 歌手陣もそろっている。マウロ・ペーターのベルモンテはとても高貴で柔和な声。マクシミリアン・シュミットのペドリッロもしっかりした声でとてもいい。トビアス・ケーラーのオスミンも太い美声で愉快な演技。愛嬌のある悪役を演じている。ブロンデを歌うサビーヌ・ドゥヴィエルは高音がとても澄んでいて美しい。ただ、私には、コンスタンツェを歌うネケ・ルイテンの声がやや硬く感じる。音程も少し不安定。

 この上演の最大の呼び物はズービン・メータの指揮だろう。しなやかで自然で、しかも躍動感があってとても美しく楽しい。音楽が生きているのを強く感じる。

 

モーツァルト 「フィガロの結婚」 2016年 ミラノ、スカラ座

 これもBDボックスに含まれていた上演。フランツ・ヴェルザー=メストの指揮がとてもいい。しなやかだが輪郭がしっかりしており、ニュアンスにあふれている。フレデリック・ウェイク=ウォーカーの演出は、今となっては珍しいほどに伝統的。第4幕が庭園ではなく、室内で展開されるのを除けば、ほとんどト書きに近いのではないか。時代通りと思われる服装をしている。ただ、どういうわけか、面白みを感じない。客席から笑い声も聞こえない。観ている私も少しも笑いたい気持ちにならない。第一幕の椅子に隠れる場面も、第二幕の衣装室に隠れる場面も、第三幕の「ソワ・マードレ、ソワ・パードレ」の場面も、第四幕の取り違えの場面もまったくおかしくない。やはり、喜劇の演出として、これは好ましくないのではないか。

 歌手陣では、やはり伯爵夫人のディアナ・ダムラウが圧倒的。驚異的な美しい声で心の嘆きを見事に歌う。この声だけで観客を感動に誘われる。伯爵のカルロス・アルバレスはとてもいい。スザンナ役のゴルダ・シュルツはアフリカ系のようだが、とてもきれいな声で見事に歌って違和感を吹き飛ばす。フィガロのマルクス・ヴェルバ、ケルビーノのマリアンヌ・クレバッサ、マルチェッリーナのアンナ・マリア・チウリ、バルトロのアンドレア・コンチェッティ、バジーリオのクレシミール・シュピチェルもとてもよいのだが、ちょっと声が苦しかったり、声の伸びを欠いたりするのを感じる。なお、バジーリオの歌うアリアを私は初めて聴いた気がする。

 全体的にはとてもレベルが高く、十分に堪能できる。やはり「フィガロの結婚」はとびきりの名作だと改めて思う。得も言われぬ美しく楽しい音楽がずっと続く。

 

モーツァルト 「魔笛」 2016年 ミラノ、スカラ座

 これも、安売りボックスに含まれていたもの。アダム・フィッシャーの指揮がとても魅力的だと思う。切れが良くて、明確で、きりりと引き締まっていて、しかもしなやか。管弦楽は、ミラノ・スカラ座アカデミア管弦楽団。ミラノ・スカラ座管弦楽団とは異なる団体なのだろうか。若手中心の、いわば二軍のオケということか。ただし、精度が劣っているとはまったく感じない。繊細な美しい音だと思う。

 演出はペーター・シュタイン。かなり伝統的な衣装と動き。わかりやすい演出とは言えるが、特に目新しい解釈はなさそうだ。ただ、音楽と動きがぴたりと合って、全体が自然に流れていく。これは演出の功績だろう。

 若手中心の歌手陣。その中では、パミーナのファトマ・サイードがとりわけ魅力的だ。はかなり透明なしっかりした声で、伸びがある。容姿も独特の魅力がある。エジプト出身だという。まさにエジプト美人! これからがとても楽しみだ。タミーノのマルティン・ピスコルスキも高貴な声で、声の伸びがある。スケールが大きく、なんだかワーグナーも歌えそうな雰囲気。パパゲーノのティル・フォン・オルロフスキーもしっかりした声で軽妙に歌う。

 それに比べると、ザラストロを歌うマルティン・サマーは低音が苦しく、音程も不安定。夜の女王のヤスミン・オズカンも声が硬く、いかにも苦しげで、音程も定まらない。いいかえれば、ザラストロや夜の女王は、若手には難しいレレパートリーということかもしれない。

 全体的にはとても素晴らしい上演だと思う。

| | コメント (2)

« 2021年10月 | トップページ | 2021年12月 »