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映画「MINAMATA」 外国人から見た水俣だからこそ成り立った映画

 映画「MINAMATA」をみた。名優ジョニー・デップが日本人になじみのあるユージン・スミスを演じて水俣病を扱っているのでみたいと思いつつ、機会を見つけられなかった。昨年まで東進ハイスクールでの仕事のために時折通っていた吉祥寺まで出かけて、みてきた。とてもよい映画だった。監督はアンドリュー・レヴィタス。

 かつて戦争写真で有名だった写真家ユージン・スミス(ジョニー・デップ)は今や妻子にも見棄てられ、仕事もうまくゆかずに飲んだくれている。そんなとき日系女性アイリーン(美波)に出会い、水俣の状況を知って、それを写真に撮りたい気を起こして、水俣に乗り込む。チッソ工場の妨害を受け、何度も弱気になり、何度も自信をなくし、再び酒に溺れそうになりながらも、現地の人と心を通わせるようになって、病気に苦しむ人々、その中での肉親の愛情などを撮影する。そして、水俣の名は世界に知られることになり、裁判も被害者側が勝利する。

 少々、切り込み不足は感じないでもない。水俣にはもっと悲惨な状況があっただろう。会社側の隠蔽工作もあっただろう。運動の担い手たちの苦労は映画で描かれているようなものではなかっただろう。いや、そもそも現地の人たちは映画ほどに美男美女たちではなかっただろう。もっと悲惨でもっとどろどろしており、もっと目をそむけたくなるものだっただろう。飲んだくれの写真家の再出発といったありきたりのドラマの中で、まるで付随物としてのように水俣が描かれる。凄惨な史実を扱う映画をみるとき、どうしてもそのような思いに駆られたくなる。

 だが、ふと考え直してみる。これは外国人から見た水俣だからこそ成り立った映画なのだ。日本人が作ると、もっと深入りしなければならなくなる。表面的なアプローチでは許されない。だからこそ何も語れなくなってしまう。一人の個人的な悩みを抱えた外国人が見た水俣という大枠があるからこそ、水俣の真実を外から描くことができる。一面の真実をリアルに描くことができる。その意味では、見事なアプローチと言えるだろう。

 被害者のリーダーを演じる真田広之とチッソ会社の社長を演じる國村隼の存在感がこの映画に深みを与えている。真田は苦しみの中で何とか理性的になろうと戦ってきた地域のインテリの生きざまが動きの一つ一つから伝わる。國村のふてぶてしい策士でありながら被害者の実態を耳にするといたたまれなくなる人物ぶりが実にリアル。

 被害女性がユージンを信頼して奇形の子どもを風呂に入れる様子を写真に撮らせる場面には涙を流すしかなかった。ユージンを主人公にしたからこそ、この場面をクライマックスにして、水俣病を告発すると同時に、人間の生きる姿を浮き彫りにすることができたともいえるだろう。

 ユージンが行き来する水俣の家々や風景があまり日本らしくなく、まるで東南アジアのような雰囲気だということは誰もが感じるところだろう。1970年前後の九州の田舎を私はよく知っているが、映画の中の雰囲気は私の記憶とはかなり異なる。そのあたりにもう少し気を遣ってくれていれば、私たちの世代の日本人はもっと強烈な感動を覚えただろうと思う。

 とはいえ、それにしても、名優ジョニー・デップがこのような形で日本の問題を描いてくれたことに感謝したくなる。そして、映画の最後で語られる通り、この後も水俣病は解決しておらず、世界のあちこちで同じような悲惨な被害が続いている。そのような訴えかけも私たちの胸にこたえる。

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