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「ドライブ・マイ・カー」 本当に深く考えさせられる映画

 アカデミー作品賞にノミネートされたということで話題になっている濱口竜介監督の映画「ドライブ・マイ・カー」をみた。現在、コロナ禍でもあり、我が家の事情もあって、なかなか外に出にくい状況で、コンサートもいくつかパスしている。そこで、インターナショナル版のDVDを購入したのだった。家庭の用があって、途中2度ほど中断したが、退屈することなく、おもしろく観た。評価の高さに納得できるとても良い映画だと思った。

 原作とはかなり異なる。原作では全体を東京での家福とドライバーみさきの二人の場面で構成されている。だが、小説の中で回想として描かれる亡き妻(霧島れいか)との生活が映画では先に描かれ、しばらくたってから、みさき(三浦透子)が登場する。そして、広島や北海道、ラストでは韓国へと舞台が広がっている。そのほか、村上春樹の「女のいない男たち」に含まれるほかの短編のエピソードが語られたり、原作では福家の想像として語られるものが現実として描かれていたり。

 そして、最大の違いは、映画全体がチェーホフの「ワーニャ伯父さん」と重ね合わされていることだ。原作でも「ワーニャ伯父さん」はほんの少し出てくるが、映画では、役者兼演出家でもある家福(西島秀俊)が広島の演劇祭で「ワーニャ伯父さん」の演出を担当し、その主役に妻の不倫相手だった高槻(岡田将生)を起用して、読み合わせをするという設定になって、その状況が詳細に描かれる。

 この「ワーニャ伯父さん」はなんと多国籍の役者による複数言語の舞台として設定されている。つまり、登場人物の一人一人が英語や日本語や韓国語や中国語やタガログ語、そして手話で語る。つまり、ワーニャは日本語で語り、それを受けてエレーナは中国語、ソーニャは手話という具合だ。果たして、このような演劇が成り立つだろうかと疑問に思うが、これこそがこの映画の大きなテーマだろう。すなわち、人と人の理解、言葉による理解の可能性。

 妻に不倫され、妻と本当に心を通わすことができないまま、妻を亡くしてしまった家福。家族の中にいながら心がばらばらになって、理解しあえなくなっているワーニャと同じように、友も持たず、人と理解しあうという心に疑念を持って孤独の中で生きている。そこに、ソーニャと同じように不器量なドライバーみさきと出会う。みさきに徐々に心を開き、心を通わせていく。

「ワーニャ伯父さん」のラスト、不祥事を起こした高槻に代わってワーニャを演じる家福と手話によるソーニャで二人の心境が語られる。「つらくともじっと耐えて、最後の日まで生きていこう、そして、おとなしく死んでいこう、その時神の前で自分たちがどんなに苦しんだかを語ろう、そしてそれまでの人生を振り返ろう」。これはまさに、福家自身と、声によって語らないみさきの決意だろう。つらく生きてきた家福とみさきはこのように理解を確かめ合っている。大まかにはそのようなストーリーとして描かれている。

 最初に原作を読んだ時、まったくそのような読み方はしなかったが、確かに、この短編をそのように読むことは可能だと思った。原作を深く描いているともいえるだろう。

 改めて原作を読んでみると、高槻の言葉として、次のように語られている。原作を確かめてみたら、映画でもほとんどそっくりそのまま語られていた。

「でもどれだけ理解し合っているはずの相手であれ、どれだけ愛している相手であれ、他人の心をそっくり覗き込むなんて、それはできない相談です。そんなことを求めても、自分がつらくなるだけです。しかしそれが自分自身の心であれば、努力さえすれば、努力しただけしっかり覗き込むことはできるはずです。ですから結局のところ僕らがやらなくちゃならないのは、自分の心と上手に正直に折り合いをつけていくことじゃないでしょうか。本当に他人を見たいと望むのなら、自分自身を深くまっすぐ見つめるしかないんです」。

 きっとこの短編は、そしてこの映画は、妻の心をのぞき込もう、亡き妻を理解しようとした男が、寡黙なドライバーとの出逢いによって自分の心を見つけて、それに折り合いをつけていこうとする物語なのだろうと思った。

 私は初めに原作を読んだとき、家福に往年の名優・河原崎長一郎(昔々、映画「私が棄てた女」をみたときから、好きな俳優だった)を思い浮かべていた。西島秀俊はこの役にはちょっとカッコよすぎる。とはいえ、とても見事な演技。岡田将生はぴったり。そしてドライバー役の三浦透子はよくもまあこれほどまでにこの役そのものの、しかもとても魅力的な女優がいたものだと感嘆。妻役の霧島れいかも美しくて神秘的。「ワーニャ伯父さん」を演じる各国の役者さんたちもとてもリアルでいい。

「深く考えさせられる映画だった」という言葉は常套句だが、この映画はまさに深く考えさせられる映画だった。ちょっと長めに感想を書いたが、実はまだまだ書きたりないことがある。それほどまでに奥深い映画だといえるだろう。もし、これがアメリカのアカデミー作品賞をとったら、私としてはむしろ、これほどまでに芸術性の高い映画に最高の栄誉を与えるこの賞の価値を見直したい気持ちになる。

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ロシアによるウクライナ侵攻に思う

 ロシアがウクライナに侵攻したという。ロシア軍がキエフの軍事施設を爆撃したという。帝国主義時代ならともかく、現代においてこのような行動に出るなど、暴挙も甚だしい。欧米はロシアに対して徹底した経済制裁をすることを言明しているという。ウクライナのゼレンスキー大統領は市民に徹底抗戦を呼びかけたという。

 専門家ではない私にはこれから先どうなるのか、見当もつかない。

 しかし、大いに恐れる。欧米諸国は、NATOの一員ではないウクライナのために派兵することはできない。欧米の経済制裁はそれほど大きな効果を持たないだろう。経済制裁は欧米自身にも損害が出るので、欧米も掛け声だけで、徹底的な制裁はできないだろう。

 かといって、核を持つ軍事大国であるロシアに対して軍事的な攻撃をすることもできない。結局、欧米としては、掛け声だけで終わって、ウクライナを切り捨てることしかできないのではないか。ウクライナは再び、ロシアの属国になってしまうのだろうか。ウクライナやロシア国内でウクライナ独立勢力によるテロが起こるようになるだろうが、それくらいのことで収まりがつくのではないか。

 そして、ロシアはこれに味を占めて、かつてソ連領土であったほかの国に徐々に侵攻していくのではないか。中国も同じような行動に出るのではないか。

 そのようにならないことを願う。そして、今日という日がかつてのドイツ軍によるポーランド侵攻のような歴史に残る日にならないことを願う。

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小泉&新日フィルのフランク 堅実であるがゆえに燃え上がる情熱

 2022219日、トリフォニーホールで新日本フィルハーモニー交響楽団演奏会を聴いた。指揮は小泉和裕、曲目は前半にシューマンの交響曲第1番「春」、後半にフランクの交響曲ニ短調。

 シューマンの「春」については、私は、マエストロ小泉らしからぬ、ちょっと行き当たりばったりの音楽になっているのを感じた。冒頭からかなりスケールを大きく取った演奏なのはいいが、曲想がぶつ切りに思える。アンサンブルも緻密にならず、がさがさ感がある。もちろん、そのようになる責任の幾分かは構築性の弱いシューマン自身にあるとは思うが、それにしてもシューマンらしいせっかくの躍動的な美しいメロディもあまりいかされない。私自身がシューマン好きでないせいもあるかもしれないが、ともあれ私は最後まで乗れないまま終わってしまった。

 それに対して、フランクは素晴らしい演奏だと思った。新日フィルメンバーもこちらのほうがずっと充実していたと思う。モティーフが徐々に重なり、大きな流れになって高揚していく。フランク特有の抑制された情熱がほとばしる場面が何か所もあった。そのたびに感動に震えた。とりわけ最終楽章の高揚は素晴らしかった。

 マエストロの指揮も、一歩一歩音楽を進め、がっしりと基礎固めをしたうえで新たな音楽を構築していくような堅実で構築性があって、素晴らしいと思った。そのような堅実な基礎があるからこそ、秘めた情熱が燃えあがっていく。

 フランクのヴァイオリン・ソナタはしばしば聴いているが、交響曲を聴くのは実に久しぶりだった。中学生のころからレコードで聴いてなじんだ曲だったが、久しぶりに聴いて、やはり特別の名曲だと思った。いや、老年になっていっそうこの曲の良さがわかるようになった気がする。まさに老人のロマンティックな感情とでもいうべきものが爆発する曲だと思った。

 話は変わるが、ウクライナ危機が盛んに語られている。ロシアがウクライナに侵攻すれば、それは明らかに侵略だと思う。本当にプーチン大統領はウクライナ侵略をしようとしているのだろうか。にわかには信じられないが、何はともあれ、戦争は避けてほしい。

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清水和音&カルテット・アマービレのドヴォルザークにうっとり

 2022216日、東京芸術劇場でブランチコンサートを聴いた。曲目は、カルテット・アマービレにヴィオラの佐々木亮が加わってのモーツァルトの弦楽五重奏曲第6番変ホ長調 K.614と清水和音がくわわってのドヴォルザークのピアノ五重奏曲 第2番イ長調。素晴らしい演奏だった。

 カルテット・アマービレはこれまで何度か聴いてきた(ただ、一度は、コンサート会場まで足を運びながら、高齢の母が病院に運ばれたという知らせを受けて急遽、コンサート直前に病院に駆け付けたこともあった、なお、母はその後持ち直した)。そのたびに素晴らしい演奏を聴かせてくれたが、今回も緻密なアンサンブルとしっかりした構成でとても説得力のある音楽。モーツァルトの最終楽章は音楽の喜びにあふれ、見事な高揚を聴かせてくれた。曲想の変化などニュアンス豊かに描いていく。自然に音楽が高まっていく。

 ドヴォルザークのほうはもっと感動した。大先輩である清水和音が音楽を作っているのだろう。だが、カルテット・アマービレもそれについていきながら、細かいニュアンスを見事につけて、音楽を一層豊かにしていく。この曲はドヴォルザーク特有の抒情的でノスタルジックなメロディにあふれているが、それがとてもしみじみと弦の音によって表現される。うっとりするほど素晴らしい。しかも、躍動感にあるところは自然に浮き立つように躍動する。その表現もとても自然で生命力にあふれている。

 昨日、アンサンブルofトウキョウによる弦楽五重奏、六重奏の演奏を聴いて、とてもよいと思ったが、やはり常設の団体と違って、一つの意志によって音楽を推進していくという面においては弱さを感じた。どうしても遠慮してしまい、あわせているだけといった状況になっている部分があった。だが、カルテット・アマービレはそうではない。しっかりと意思統一ができている。一つの解釈によって全員の心がまとまっている。それだけ訴える力が強い。しかも今回は、清水和音という名ピアニストがリードしているので、いっそう推進力が高まる。

 カルテット・アマービレは素晴らしい弦楽四重奏団だと改めて思った。今後が楽しみだ。

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アンサンブルofトウキョウのブラームスを堪能

 2022年215日、東京文化会館小ホールでアンサンブルofトウキョウの「分かち合う悲しみの調べ。 そして、訪れる美しき世界」と題された定期演奏会を聴いた。曲目は、前半にボッケリーニの弦楽五重奏曲ニ長調Op.39-3 G339とモーツァルトの弦楽五重奏曲第4番ト短調、後半にブラームスの弦楽六重奏曲第2番。演奏は、ヴィオラの田原綾子をゲストにして、玉井菜採、戸原直(ヴァイオリン)、大野かおる(ヴィオラ)、河野文昭、羽川真介(チェロ)。

 ボッケリーニは、とても安定した良い演奏。のびのびとして穏やかで、この曲の良さが存分に味わえた。ただ、モーツァルトについては少し不満を覚えた。第一楽章、第二楽章は素晴らしかった。第一楽章はしみじみとした哀しみが広がり、第二楽章は強いアタックで心に迫るものがあった。が、後半、だんだんと、合わせているだけの雰囲気になるのを感じた。アンサンブルの楽しさが伝わると言えばその通りなのだが、モーツァルトの必死の思いが伝わってこない。モーツァルトのト短調が心に響かない。まるでモーツァルトが合奏の喜びを味わい、それを楽しんでいるような雰囲気。もっと強い表現がほしい。あまりに温和的。

 不安を覚えつつ後半のプログラムに入ったが、ブラームスはモーツァルトと異なって濃厚な味わいになった。ゲスト演奏者の田原綾子の功績もあったかもしれない。しばしば強く切り込み、温和的になりがちな表現にアクセントを与えているように聞こえた。ヴィオラで強い力が加わると、ブラームスの音楽は厚みを増し、生き生きとしてくる。後半、ますます金x訪韓が高まり、高揚していった。素晴らしかった。

 事情があって、久しぶりのコンサートだった。後半のブラームスには感動した。とても満足だった。

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オペラ映像「ザザ」「レオノール」「ドン・ジョヴァンニ」

 バタバタしていて音楽を聴く余裕がなく、コンサートも3回ほどパスした。やっと数日前から落ち着いてきた。この間に観たオペラ映像について感想を書く。

 

レオンカヴァッロ 「ザザ」 20209月 アン・デア・ウィーン劇場

 以前、CDでは聴いたことがあったが、映像でみるのは初めて。実演をみたことはない。CDではあまり魅力的なオペラだとは思わなかったが、これほどのレベルの高い上演を映像でみると、とても良いオペラだと心から納得する。

 舞台女優のザザはミーリオに恋をするが、その男には妻子があることを知り、泣く泣く別れる。それだけのストーリーだが、飲んだくれの母親に育てられて父親を知らないザザが天使のようなミーリオの娘に出会って、その子を自分のような目にあわせたくないと考える場面など実に感動的。音楽も「道化師」ほどにはドラマティックではないが、ひしひしと胸に迫る。とても良いオペラだと思う。めったに上演されないのがもったいない。

 ザザを歌うスヴェトラーナ・アクセノワがこの可憐な役になりきってすばらしい。声も美しく、容姿もこの役にぴったり。色気があるが、気品があって、演技も見事。私はいっぺんにファンになった。ミーリオを歌うニコライ・シューコフも身勝手な男を見事に造形している。カスカールのクリストファー・モルトマン、ザザの母のエンケレイダ・シュコサも文句なし。

 ステファン・ゾルテスの指揮するウィーン放送交響楽団も切れが良くてドラマを引っ張っていく。演出はクリストフ・ロイ。リアルな映画をみているようで、一つ一つの歌手たちの動きが完璧に音楽にマッチしている。

 

ガヴォー 「レオノール」2017223日 ジェラルドW.リンチ劇場、ジョン・ジェイ・カレッジ(ニューヨーク)

 ベートーヴェンの「フィデリオ」の前に同じ題材を用いたオペラがあったことは、ものの本を読んで知っていた。それが、フランスの作曲家ガヴォーによる「レオノール」。ベートーヴェンの「レオノーレ」の素晴らしい映像をみせてくれたオペラ・ラファイエット管弦楽団による演奏で商品化されていると知って購入。

 驚くほど、ベートーヴェンのオペラと筋立ては似ている。細かいセリフは異なるが、場面構成はまったく同じ。こちらはフランス語だが、名前も基本的に同じ。

 私は、初めてベートーヴェンの「フィデリオ」を聴いたころから、ロッコの歌う「お金の歌」の位置づけについて疑問に思っていた。ガヴォーのオペラを観て、初めて納得。第二幕で、ピザール(つまり、ピツァロ)がロック(つまり、ロッコ)に金を渡してレオノールとフロレスタンの始末を任せて立ち去る場面がある。お金に目のないロックがピザールの味方をするのではないかとひやひやさせておいて、結局、めでたく悪を懲らしめる結末になる。なるほど、この場面の布石としてお金のアリアがあったわけだ。

 とはいえ、ベートーヴェンとガヴォーでは音楽の質に差がありすぎる。ガヴォーの音楽は他愛のないメロディが続くばかり。忘れ去られたオペラのほとんどがこのような音楽だったのだろうと納得するようなレベルだ。それでも、まあ聴いていて不快ではない。

 歌手陣は素晴らしい。レオノールのキミィ・マクラーレンはこの役にふさわしい凛々しい容姿と美しい声。フロレスタンのジャン=ミシェル・リシェも高貴でしっかりした声で、この役にぴったり。ロックのトミスラフ・ラヴォワ、マルスリーヌのパスカル・ボーダン、ピザールのドニミク・コテ、ジァッキノのケヴェン・ゲデス、フェルナンのアレクサンドル・シルヴェストルもまったく非の打ち所がない。名前の知られてない若手中心のメンバーだが、実力は驚くほど。これほど適役で歌われると、十分に楽しめる。

 ライアン・ブラウンの指揮によるオペラ・ラファイエット管弦楽団&合唱団も見事。ピリオド楽器が生き生きとしていて、若きベートーヴェンが目の前にいる気分になる。オリオール・トーマの演出もわかりやすくて、とても好感が持てる。

 

モーツァルト 「ドン・ジョヴァンニ」 2021年ザルツブルク音楽祭2021 (NHKの放送)

 2021年、コロナ禍のさなかに開かれたザルツブルク音楽祭での上演。管弦楽・合唱はムジカエテルナ、指揮はテオドール・クルレンツィスということで、目覚ましい上演になるのは簡単に予想がつく。テレビ放送で見て、まさに予想通り、すごい演奏。

 ソニーから出ているCDで「コシ・ファン・トゥッテ」と「フィガロの結婚」は驚嘆し、呆気にとられて聴いていたが、「ドン・ジョヴァンニ」はいっそう凄まじい。疾風怒濤の3時間半。阿鼻叫喚、魑魅魍魎などという四字熟語も使いたくなってくるほど聴く者の心の奥に切り込んでくる。まさにデモーニッシュなドラマにしあがっている。ただ、これで3時間半はかなり疲れる。みおわったときにはへとへとになっていた。

 ロメオ・カステルッチの演出については、実はよくわからなかった。みんなが白っぽい現代の服を着て、ドン・ジョヴァンニとレポレッロは見分けがつかないほど似ており、マゼットも騎士団長も同じような服。人間なんてみんなどっこいどっこいの悪党ということだろうか。ドン・オッターヴィオだけはどうやらこの範疇に入らないようで、ひとりだけ時代を超越した奇怪な服装をしている。ドストエフスキーの「白痴」のような、神なき世界では高貴な人間は浮世離れした人間であらざるを得ないということだろうか。細かいところはよくわからない(読み替え演出が嫌いな私は、途中で読み取りを放棄した)が、要するに神なき世界の人間たちの欲望を赤裸々に描いた演出ということのようだ。

 歌手陣はそろっている。一人一人の力量はもしかすると、それほどずば抜けているというわけではないのかもしれないが、クルレンツィスのオーケストラが絶妙に加わって、その歌の力を倍加しているのを感じる。ドン・ジョヴァンニのダヴィデ・ルチアーノ、レポレッロのヴィート・プリアンテはともに迫力ある歌唱。ドンナ・アンナのデジュダ・パブロワは高音が素晴らしく美しい。ドンナ・エルヴィーラのフェデリカ・ロンバルディはものすごい迫力。  ドン・オッターヴィオのマイケル・スパイアーズは高貴で美しい声。ツェルリーナのアンナ・ルチア・リヒターはとてもチャーミング、マゼットのダーヴィト・シュテフェンスも、従来の素朴な田舎者というよりも芯の強い男を歌う。

 しかし、何といってもこれはクルレンツィスのあまりに凄まじい演奏を味わう上演だと思う。私はフルトヴェングラーの「ドン・ジョヴァンニ」(ザルツブルク音楽祭の映像や録音が残されている)が大好きだったが、クルレンツィスの指揮は、それ以上にデモーニッシュだった。

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「彼は早稲田で死んだ」感想

 樋田毅著「彼は早稲田で死んだ」(文藝春秋社)を読んだ。1972年、早稲田大学構内で、中核派スパイの疑いをかけられた川口大三郎君が革マル派(革命的マルクス主義派)によって虐殺された。その後の革マル派追求運動の中心人物になった樋田氏(のちに朝日新聞記者として活躍)が、そのリンチ殺人事件の状況をまとめたものだ。

 次に読むべき本として手元に置きながら、事件当時、かなり近くにいた人間として、読むのが怖くてなかなか手に取らずにいたが、やっと読み上げた。本ブログにしばしばコメントを寄せてくださるENOさんがご自身のブログでこの本を扱っているのを読んで、私も何も言わないわけにはいかないと思った。

 あれから50年近くたつが、当時のことはよく覚えている。覚えているどころではない。後で知ったが、川口君が虐殺された時間に、私はその場所から数十メートルのところでうろうろしていた。この本の著者の樋田さんのこともよく覚えているし、そのほか、この本に登場する革マル派の人物たちの何人かも個人的によく知っている。

 私は1970年に早稲田大学第一文学部に入学した。入学してすぐ、「現代文学研究会」というサークルに入った。ところが、そのサークルは革マル派に所属していた。何も知らないまま革マル派の末端の予備生として組み込まれていた。

 サルトルやカミュやドストエフスキーなどの文学について語りたいと思ってそのサークルに入ったのだったが、私は、大分上野丘高校という軍国主義的と言えるような反動的な田舎の進学校で反体制的な運動を行い、マルクス主義にも関心を持っていたので、革マルの働きかけに特に違和感は覚えなかった。革マルの主張する通り、私もベトナム戦争に反対だったし、安保条約に反対だった。戦前の価値観が残り、個人の自由を抑圧する資本主義社会をぶち壊したいと思っていた。

 1、2か月だったが、革マル派の人たちと親しくした。革マル派の主催するデモにも参加した。この本の中に登場する革マルの幹部たちと個人的に知り合い、その考え方も知った。何人かのメンバーの実家やごきょうだいのお宅を訪れてごちそうになったこともあった。

 だが、すぐに疑問を持ち始めた。この本の中にあるように、まさに第一文学部は暴力支配されていた。革マル派がすべてを牛耳り、学生自治と称して大学が学生から徴収した会費を自分たちのものにし、民青(日本共産党系の組織)やほかのセクトを排除していた。特に、中核派を目の敵にして、構内で暴力行為が行われていた。教師陣も革マルから攻撃されるのが怖くて、意見を言えない状態だった。革マル派がストライキを呼びかけて授業がなくなったり、試験がなくなったりといったことは日常的だった。

 そしてそのころから、私はマルクス主義にも疑問を持ち始めた。革マル派の人々に勧められて、彼らの教祖である黒田寛一氏の本やマルクスの本を読んだが、納得できないことが多かった。私はもともとクラシック音楽好き、ニーチェ好きの人間であり、しかも高校のころからマルクス主義よりもアナーキズムのほうに共感していた。マルクスは偉大な思想家ではあるが、根本的に間違っている、少なくとも私の好む思想ではないと思うようになっていた。そして、目の前で起こっている排他的で暴力的な状況は、マルクス主義が本来持っている資質であると思うようになった。革マル派は反スターリニズムを掲げていたが、これぞまさにスターリニズムだと思った。

 革マル派から抜けるのには苦労した。集会に出席せずにいると、大学構内に入ったとたんに、革マルのメンバーに取り巻かれ、「なぜ来なかった? 議論しよう」と声をかけられ、なかなか解放してもらえなかった。当時、寮に住んでいたが、そこにもしばしば革マル派の人から電話がかかってきた。1年生の秋くらいになってやっと、声をかけられなくなった。

 入学時、私と同じように現代文学研究会に入った新入生がほかに3人いた。彼らもきっと私と同じような目に合っていたのだろう。一人を除いて、革マル派から完全に離れたようだった。

 そして、1972年秋。中核派のスパイだと疑われた川口君が大学内で虐殺された。何とも痛ましく悲しい出来事だった。私にとって衝撃だったのは、手を下した直接の加害者の一人が、現代文学研究会に私と同時に入ったメンバーだったことだった。もし私が革マルから抜けなければ、同じようなことをしていたのかもしれないと思った。あるいは逆に、一つ間違えば、川口君と同じような目に合っていたかもしれないと思った。加害者、被害者ともに他人ごととは思えなかった。同時に、加害者側の人たちも決して個人的には悪い人たちではないことも知っていた。それもまた衝撃だった。

 虐殺が明らかになり、早稲田大学内で革マル追い落としの運動が起こったとき、私も積極的に集会に参加した。樋田氏が中心になっている運動に加わった。革マル派の横暴を絶対に許してはならないと思った。個々人は悪い人たちではないが、だからと言って許されることではないと思った。

 この「彼は早稲田で死んだ」はその時の経緯が詳細に、リアルに描かれている。当時のことがよみがえる。まだ十分に総括できていない自分の過去に対峙させられる。

 私はこの事件を何一つ総括できていない。

 だが、その後の私の人生に、この事件が大きな影を落としていることを改めて感じた。私はその後、アナキストのグループに接近して行動を共にしたが、徐々に政治にウンザリして、観念的アナキストになっていった。そこにはこの事件の影響があっただろう。

 今でもしばしば考える。大学はどうあるべきか。学生自治会を認めるべきか。政治に暴力が認められるのか。暴力革命を認めるべきなのか。善良な個人が集団になるとなぜ暴力に歯止めが利かなくなるのか。マルクス主義をどう評価するべきか。そんな問題を考えるとき、原点にこの事件がある。原点を1972年に与えられながら、70歳を超えた今もまったく解決できていないことにも気づいた。

 本書に大岩圭之助=辻信一さんの話題が出てくる。1972年当時革マルの幹部のなかでもとりわけ暴力的なメンバーだった大岩さん(たぶん、当時は私もこの方を知っていたと思うが、今となっては覚えがない)がのちに大学教授となり、辻信一という名前で非暴力、弱者優先、スローライフの本を出しているという。私は辻信一のスローライフの本を読んで感銘を受けた記憶がある。樋田氏は一定の理解を示しながらも、明確な自己否定をしないままうやむやのうちに宗旨替えをした大岩氏を批判的に描いている。

 私は革マルのメンバーだったわけではなく、もちろん暴力肯定論者でもなく、そもそも暴力的な人間でもないが、私もこの大岩=辻さんのようなものだと思った。当時の出来事をきちんと総括しないまま現在に至っている。当時起こったことをきちんと解明しないまま、愚かな歴史としてみないふりをしている。やはりこれは批判されてしかるべきことだと思う。

 もちろん、それは私一人ではなく、かなり多くの私と同世代の人にも当てはまることだとも思う。だが、一人一人が学生運動の時代を忘れ去って現在をのほほんと生きている自分を振り返るべきだと思う。50年前の出来事をまとめた本書が私に教えてくれたのは、このことだった。

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