「ドライブ・マイ・カー」 本当に深く考えさせられる映画
アカデミー作品賞にノミネートされたということで話題になっている濱口竜介監督の映画「ドライブ・マイ・カー」をみた。現在、コロナ禍でもあり、我が家の事情もあって、なかなか外に出にくい状況で、コンサートもいくつかパスしている。そこで、インターナショナル版のDVDを購入したのだった。家庭の用があって、途中2度ほど中断したが、退屈することなく、おもしろく観た。評価の高さに納得できるとても良い映画だと思った。
原作とはかなり異なる。原作では全体を東京での家福とドライバーみさきの二人の場面で構成されている。だが、小説の中で回想として描かれる亡き妻(霧島れいか)との生活が映画では先に描かれ、しばらくたってから、みさき(三浦透子)が登場する。そして、広島や北海道、ラストでは韓国へと舞台が広がっている。そのほか、村上春樹の「女のいない男たち」に含まれるほかの短編のエピソードが語られたり、原作では福家の想像として語られるものが現実として描かれていたり。
そして、最大の違いは、映画全体がチェーホフの「ワーニャ伯父さん」と重ね合わされていることだ。原作でも「ワーニャ伯父さん」はほんの少し出てくるが、映画では、役者兼演出家でもある家福(西島秀俊)が広島の演劇祭で「ワーニャ伯父さん」の演出を担当し、その主役に妻の不倫相手だった高槻(岡田将生)を起用して、読み合わせをするという設定になって、その状況が詳細に描かれる。
この「ワーニャ伯父さん」はなんと多国籍の役者による複数言語の舞台として設定されている。つまり、登場人物の一人一人が英語や日本語や韓国語や中国語やタガログ語、そして手話で語る。つまり、ワーニャは日本語で語り、それを受けてエレーナは中国語、ソーニャは手話という具合だ。果たして、このような演劇が成り立つだろうかと疑問に思うが、これこそがこの映画の大きなテーマだろう。すなわち、人と人の理解、言葉による理解の可能性。
妻に不倫され、妻と本当に心を通わすことができないまま、妻を亡くしてしまった家福。家族の中にいながら心がばらばらになって、理解しあえなくなっているワーニャと同じように、友も持たず、人と理解しあうという心に疑念を持って孤独の中で生きている。そこに、ソーニャと同じように不器量なドライバーみさきと出会う。みさきに徐々に心を開き、心を通わせていく。
「ワーニャ伯父さん」のラスト、不祥事を起こした高槻に代わってワーニャを演じる家福と手話によるソーニャで二人の心境が語られる。「つらくともじっと耐えて、最後の日まで生きていこう、そして、おとなしく死んでいこう、その時神の前で自分たちがどんなに苦しんだかを語ろう、そしてそれまでの人生を振り返ろう」。これはまさに、福家自身と、声によって語らないみさきの決意だろう。つらく生きてきた家福とみさきはこのように理解を確かめ合っている。大まかにはそのようなストーリーとして描かれている。
最初に原作を読んだ時、まったくそのような読み方はしなかったが、確かに、この短編をそのように読むことは可能だと思った。原作を深く描いているともいえるだろう。
改めて原作を読んでみると、高槻の言葉として、次のように語られている。原作を確かめてみたら、映画でもほとんどそっくりそのまま語られていた。
「でもどれだけ理解し合っているはずの相手であれ、どれだけ愛している相手であれ、他人の心をそっくり覗き込むなんて、それはできない相談です。そんなことを求めても、自分がつらくなるだけです。しかしそれが自分自身の心であれば、努力さえすれば、努力しただけしっかり覗き込むことはできるはずです。ですから結局のところ僕らがやらなくちゃならないのは、自分の心と上手に正直に折り合いをつけていくことじゃないでしょうか。本当に他人を見たいと望むのなら、自分自身を深くまっすぐ見つめるしかないんです」。
きっとこの短編は、そしてこの映画は、妻の心をのぞき込もう、亡き妻を理解しようとした男が、寡黙なドライバーとの出逢いによって自分の心を見つけて、それに折り合いをつけていこうとする物語なのだろうと思った。
私は初めに原作を読んだとき、家福に往年の名優・河原崎長一郎(昔々、映画「私が棄てた女」をみたときから、好きな俳優だった)を思い浮かべていた。西島秀俊はこの役にはちょっとカッコよすぎる。とはいえ、とても見事な演技。岡田将生はぴったり。そしてドライバー役の三浦透子はよくもまあこれほどまでにこの役そのものの、しかもとても魅力的な女優がいたものだと感嘆。妻役の霧島れいかも美しくて神秘的。「ワーニャ伯父さん」を演じる各国の役者さんたちもとてもリアルでいい。
「深く考えさせられる映画だった」という言葉は常套句だが、この映画はまさに深く考えさせられる映画だった。ちょっと長めに感想を書いたが、実はまだまだ書きたりないことがある。それほどまでに奥深い映画だといえるだろう。もし、これがアメリカのアカデミー作品賞をとったら、私としてはむしろ、これほどまでに芸術性の高い映画に最高の栄誉を与えるこの賞の価値を見直したい気持ちになる。
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