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戸田弥生の室内楽 大人の味わいの音楽!

 2022327日、東京文化会館小ホールで、東京春音楽祭、戸田弥生(ヴァイオリン)の室内楽を聴いた。演奏はほかに池田菊衛(第二ヴァイオリン)、磯村和英(ヴィオラ)、横坂源(チェロ)。曲目は前半にショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲 第8番、後半にシューベルトの弦楽四重奏曲第14番「死と乙女」。

 初めに、戸田さんから、「ショスタコーヴィチは反ファシストの人であった」という挨拶があった。ロシアのウクライナ侵攻がなされているこの時期にロシア音楽を演奏することに対する抵抗があるのを考慮しての一言だろう。その通り。ショスタコーヴィッチが生きていたら、誰よりもプーチンのウクライナ侵攻に怒りと憤りと悲しみの牙を向けていただろう。

 池田と磯村はかつての東京クヮルテットのメンバー。東京クヮルテットは1980年前後に2、3度聴いたことがあるだけだが、日本にもやっと本格的な弦楽四重奏団が現れたと思ったのを覚えている。磯村さんは76歳とのこと。光陰矢の如し!

 まさに大人の味わいの音楽。戸田さんのヴァイオリンはぐいぐいと心の奥に響く。ショスタコーヴィチの曲については、あまりにヒステリックにかき鳴らすのではなく、気品を保ちながら、心の奥底に訴えかけてくる。沈潜した中から徐々に憤怒が現れ、自らの人生と社会へのやるせない思いを回顧して再び沈潜する。私は何度かぞくぞくするような興奮を味わった。いつものことながら戸田さんのヴァイオリンの音に独特の凄味を感じた。ただ、私としては、もう少し全体的に覇気があってもいいのではないか思った。大人の味わいもいいが、やはりこの曲に関しては、もっと憤怒を天に向かってぶつけるようなところを聴きたいと思った。

 シューベルトについても同じように大人の味わいの音楽だった。徒に悲劇性を掻き立てるのでなく、またロマンティックな要素を強調するのでもなく、一つ一つの音をいつくしみ、音と音の絡みを繊細に描き出し、音色の移り変わりを克明に描いていく。第二楽章のそれぞれの変奏のニュアンスなどとても美しい。ただ、これも最近の団体のスリリングな演奏を聴きなれた耳からすると、やはり少々物足りなく感じる。戸田さんのヴァイオリンが切ないながらも強さを備えた音で訴えかけてくるのだが、それを支える音楽にエネルギーが感じられなかったのが残念。

 アンコールはボッケリーニのメヌエット。穏やかでしみじみと楽しくて美しい音楽。これは本当に素晴らしかった。単純な音楽の中に様々なニュアンスがくみ取れる。これもまさに大人の味わいだと思った。

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東京春祭・ブラームスの室内楽 もう少し個性のぶつかり合いを聴きたかった

 2022326日、八分咲きの上野公園の桜並木の下を少し歩いてから、東京文化会館 小ホールに向かって、東京春音楽祭、ブラームスの室内楽 IXを聴いた。今年もまた、コロナの影響で桜に下での宴会は禁じられている。かなりの人出だったが、みんなおとなしく桜の並木道を歩くばかりだった。

 曲目前半にブラームス(オズグッド編)のセレナード 第1番 ニ長調(九重奏版)、後半に、ブラームスのピアノ四重奏曲 第3番。

 演奏は、辻󠄀彩奈(ヴァイオリン)、川本嘉子(ヴィオラ)、向山佳絵子(チェロ)、佐野央子(コントラバス)、上野星矢(フルート)、荒木奏美(オーボエ)、三界秀実(クラリネット)、皆神陽太(ファゴット)、福川伸陽(ホルン)、阪田知樹(ピアノ)。まさに日本の第一線で活躍する演奏家たちだ。

 セレナードは久しぶりに聴いた。九重奏版を聴いたのは初めてかもしれない。私の修行が足りないせいか、私はこの曲を常々、少々退屈に感じている。今回も実は少々眠気を催した。とはいえ、今回の演奏は、全体のバランスが良く、音色が溶けあっていて、とてもよかった。ただ、やはり、セレナードという性格上、ブラームスのひたむきな情熱が表現されていない。むしろ、音楽の組み立ての妙、音色の美しさを味わうことになる。それはそれで楽しめるが、やはり物足りなさは感じざるを得ない。

 それに比べれば、ピアノ四重奏曲はスケールが大きく、深い情熱が表現されている。ヴァイオリンの辻さんがリードしていく形をとっていたと思う。ただ、私の席のせいなのか、チェロの音が鮮明に聞こえなかった。そして、せっかくのこの個性的なメンバーであるにもかかわらず、妙に「合わせる」ことを重視しているのを感じた。それぞれが自分の個性を抑えているのを感じる。そのために、音が穏やかになり、ブラームスの心の中の葛藤が響き渡らない。ベートーヴェンの「運命」を思わせる音形が頻出して、悲劇的な高まりを見せる音楽であるにもかかわらず、妙におとなしい。もっと激しい音のせめぎ合いによる個性のぶつかり合いを聴きたいと思った。もちろん、とても良い演奏なのだが、感動に至ることはなかった。

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賈樟柯(ジャ・ジャンクー)の映画「長江哀歌」「世界」「罪の手触り」「山河ノスタルジア」「帰れない二人」

 ウクライナ情勢が気になる。ロシアの思い通りにしてしまうと帝国主義時代に逆戻りする。かといって、NATOの側が出かたを間違えば第三次世界大戦になる。そして、このままでは間違いなくウクライナの人々の命が失われる。こうしたことを避けるのは至難の業だと思う。私には、だれがどうすればよいのかまったくわからない。ともあれ祈るしかない。

 そんな中、NHKBSBSプレミアムで賈樟柯(ジャ・ジャンクー)監督の「長江哀歌(エレジー)」をみた。とてもおもしろかった。この監督の映画のDVDを数枚購入して観た。感想を書く。

 

「長江哀歌(エレジー)」 2006

 原題は「三峽好人」。主人公は二人。しかし、二人に接点はない。映画は、三峡ダム建設のために水没する町を舞台に、それぞれ交流のない二人の人探しをする主人公を追っている。

 一人は、16年前に別れた妻と娘を探すために山西省からやってきた下層労働者のサンミン。風采もよくなく、うだつも上がらない小柄な男だ。解体工事の労働につきながら、やっと妻を見つけ出すが、もともと金で買われた妻はサンミンの元に戻るのに積極的ではない。それでも妻を取り戻そうと、過酷な労働に就くことを決意する。もう一人は、音信不通の夫を探し、離婚を申し出ようとやってきた女性シェ・ホン(チャオ・タオ)。夫は工場を経営してどうやらうまく立ち回っているようで、別の成功した女性と交際しているらしい。

 それだけの話だが、一つの町が水没し、そこに事情も階層も異なる二人にかかわる様々な人生が埋もれていく哀しみがしみじみと描かれる。まさに人生丸ごとの喪失。21世紀初めの、まだ貧しさの残る中国内陸部の庶民の猥雑な生活もリアルに描かれ、人々の生きざまが見えてくる。サンミンの住む世界では男たちのほとんどは上半身裸で、しばしばうどんのようなものを食べ、一方、シェ・ホンは常にペットボトルに水を入れて飲んでいる。「生きる」ことを強く感じさせる。

 不思議な場面がある。サンミンが歩いていると、空に突然UFOが現れる。次にシェ・ホンが映し出されるが、そこにもUFO。しかし、もちろんUFOは物語の展開とは無関係。きっとこのUFOの場面は互いに関係のない二人の登場人物の物語が同じ場所で同時期に進行しているを示して、二つの物語をつなぎ合わせる役割を果たしているだろう。同時に、これはジャ・ジャンクーの署名のようなものなのだと思う。手塚治虫の漫画の欄外にしばしば登場した不思議な虫のようなものと同じだ。統一の取れた三峡地域の物語をみる異質な視点である監督自身がこのUFOに現れているのだろう。この署名の仕方も興味深く思う。

 

「世界」 2004

「長江哀歌」よりも2年前の作品。とてもいい映画だと思う。

 タオ(チャオ・タオ)は北京の世界公園でダンサーとして働いている。世界公園というのは、一日で世界を回れるというのをうたい文句にしている、世界各地の名所を実物の10分の1サイズで陳列している北京に実在するテーマパーク。エッフェル塔やらピラミッドやらサン・ピエトロ寺院やらがある。タオには守衛のリーダーをしている恋人タイシェンがいるが、体の関係は拒否している。ところが、ふとしたことからタイシェンは別の女性と懇意になる。

 そうしたストーリーを基軸に、テーマパークのきらびやかなショーの裏側で、出稼ぎにきたダンサーや警備員たちの男女のいさかい、恋、窃盗、DV、借金まみれの事故死などが描かれる。最後、タイシェンに別の女性がいることを知ったタオは友人の家に逃げ込むが、それをタイシェンは追いかけていき、そこで一酸化炭素中毒で死んでしまう。

 表面だけ華やかで、実は外国のきらびやかな部分を真似しただけの「世界公園」。歴史や文化の裏付けがなく、ただ表面だけを真似した砂上の楼閣とでもいうべき公園。安っぽくて偽物じみていて、物悲しい。貧しくも懸命に生きている人たちが出稼ぎに来て働いており、人間的なドラマを作り出している。まさに、これぞ人間世界。そして、これぞ現実の中国の姿なのだろう。中国の現実の縮図がみられる。

 最後、二人の中毒死が確認された後、タイシェンとタオの声が聞こえる。「俺たち、死んだのか。」「いいえ、これは新しい始まりよ。」。きっとこれはジャンクー監督の未来に寄せるメッセージなのだろう。

 何度かアニメ映像が挿入される。登場人物の見る携帯電話や、頭の中で空想したことがらがテレビゲームの映像のようなアニメで描かれている。ちょっと唐突だが、これも「長江哀歌」のUFOのような効果なのだろう。

 なお、この映画のヒロインは「長江哀歌」と同じチェン・タオが演じている。演技派のとてもいい女優さんだと思う。

 

「罪の手ざわり」 2013

 4つの犯罪が描かれる。村長や資本家の不正を告発しようとするが、相手にされずに怒りを募らせ、不快な人々を銃殺する男。故郷になじめず、捨て鉢になったかのように強盗などの犯罪を繰り返す男。不倫相手の男性との将来に希望が持てずにいるときに、その妻からなじられ、お店の客から売春婦扱いされたのをきっかけに殺人を犯す女性(チャオ・タオ)。真面目に働こうとするが何もかもうまくいかず、恋にも破れて自殺する青年。

 北野武監督を思わせるような静謐でありながら暴力的な映画だが、登場人物の悲しみや心の痛みが伝わる。いずれも、時代に取り残され、孤立し、自暴自棄になってしまった人間たち。直接的に中国社会を批判しているわけではないが、これらの犯罪の背景に国家主導の市場経済のゆがみがあるのがよく理解できる。そして、クリアで凄絶な映像が美しい。

 ここでも、いつもの女優チャオ・タオが主要な役を演じている。「長江哀歌」「世界」にも登場した小柄な労働者サンミンも端役で登場。存在感があるわけではないが、名もなき下積みの労働者の雰囲気がとてもいい。

 

「山河ノスタルジア」 2015

 名作だと思う。感動した。過去、現在、未来の三人の男女の3つの時代の生きざまを描く。

 過去(1999年)、山西省の地方都市。歌うのが好きな明るい女性タオ(チャオ・タオ)は二人の男友だち、野望を持つジンシェンと、おとなしいリャンズーに思いを寄せられている。野望に満ちたジンシェンからプロポーズされて結婚。親友にタオを奪われたリャンズーはそこで暮らし続ける気持ちにならずに、都市を去る。タオはジンシェンとの間の子どもダオラー(アメリカの貨幣単位「ドル」の意)を産む。

 現在(2014年)。リャンズーは炭鉱で働いていたが、体を壊して故郷に帰る。妻はリャンズーの昔の友達であるタオを探し出して、金を借りる。タオはすでにジンシェンと離婚して父親と暮らしているが、父が急死。タオと離れてジンシェンと暮らしている息子ダオラーを葬儀のために呼ぶが、離れて暮らす母と息子はうまくコミュニケーションできない。

 未来(2025年)。ダオラーは大学生になって、オーストラリアに移住している。父ジンシェンが検察の追求から逃れるために移住したらしいことがわかる。父は自堕落に暮らしており、ダオラーも目的を失い、空虚な気持ちを抱いている。中国語を話せないために、中国語教室に通っているが、母親と同じくらいの年齢の教師ミアに惹かれ、恋仲になる。ミアと過ごすうちに母と会いたい気持ちを起こし、ミアとともに中国旅行を計画する。一方、母タオは一人で暮らし、1999年を思い出して川辺で踊る。

 子供の名前がダオラーというのが象徴的だ。お金を追い求める社会に翻弄される人々の心の空虚。失ってしまった心のよりどころを探してかつての三人の若者とその子どもが彷徨う。それだけのことなのだが、映像が美しく、一人一人の仕草が身に染みる。その心の痛みがしみじみと伝わってくる。やるせなさ、もどかしさ、そして絶望、希望。人生ってこうだよなあ…としみじみと思う。

 タオを演じるチャオ・タオの演技に圧倒される。いや、それ以前にジャンクー監督の演出力にも。川、山、渓谷。まさにノスタルジーが掻き立てられる。

 

「帰れない二人」 2018

 舞台は山西省の大同。やくざのビンとその情婦チャオ(チャオ・タオ)。ビンは地域のやくざの兄貴分としてグループを仕切っている。ところが、車で移動中にバイクの集団に襲われ、袋叩きにあうビンを助けようと、手元にあったビンのピストルを発砲したことにより、チャオは5年間、刑務所で暮らすことになる。刑期を終えて戻ってみると、ビンはほかの女性と恋仲になっている。チャオはあちこち放浪し、ついにはビンとよりは戻すが、ビンは長年の不養生のために下半身不随になっている。チャオはビンに寄り添って生きていこうとするが、ついにビンは厄介になるまいとして出ていく。

 テーマは「喪失」だろう。その象徴として、出所後のビンを尋ねて、チャオは三峡ダムによって都市の大部分が水没する奉節を訪れる。次々と過去を喪失していく中国。ジャンクー監督のお気に入りの女優チャオ・タオはきっと中国を体現しているのだろう。猥雑なエネルギーにあふれていい気になり、その実、様々なものを失ってしまっている。たくましく生きているが、いつまでも満たされない。

 映画の出来としてはあまりよくないと思うが、よいものにせよ、悪いものにせよ、映像の中には失われつつある中国をみることができる。

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ブラームス室内楽マラソン 堪能した!

 2022年3月13日、「芸術監督・諏訪内晶子による国際音楽祭NIPPON2022 ブラームス室内楽マラソンコンサート」を聴いた。堪能した。素晴らしかった。

 午前1030分から2130分まで、昼食と夕食に充てる時間もせいぜい30分というタイトなスケジュール(夕食時間は45分ということになっていたが、第二部が押していたので実質30分だった)。ピアノ三重奏曲、ピアノ四重奏曲、弦楽五重奏曲、弦楽六重奏曲、クラリネット三重奏曲、クラリネット五重奏曲のすべて。全14曲。

 明日の朝、早く家を出る必要があるので、簡単に書く。すべての曲の演奏が素晴らしかった。最初から最後まで感動して聴いた。特に演奏の素晴らしさを感じたのは、ピアノ三重奏曲第2番とピアノ四重奏曲第1番、ピアノ五重奏曲、弦楽五重奏曲第2番だった。いずれも葵トリオがかかわっている。とりわけ、小川響子の力量に感服。

 もちろん、諏訪内晶子、米元響子、小林美樹のヴァイオリンも素晴らしい。ただ、ゴトニーのヴァイオリンについては、もちろんうっとりする美音なのだが、この美音がむしろほかの楽器との一体となった躍動をそいだ感があった。ホルンの日髙剛、クラリネットの金子平もみごと。今回演奏したのは、今が旬の日本を代表するメンバーだと思う。みんながみんな物凄い力量だと思った。クラリネット五重奏曲は私の大好きな曲。涙が出てきた。

 このようなブラームス室内楽マラソンを毎年やってくれると嬉しい。ただ、食事時間30分はきつい。コンビニの長い列に並んで、サンドイッチを食べ終えたら、もう開演時間間近だった! 来年は弦楽四重奏曲とヴァイオリン・ソナタ、チェロ・ソナタ、クラリネット・ソナタを加えて2日間かけてやってほしい!

 

 プログラムを載せておく。

<第1部>

ピアノ三重奏曲第1番 (マーク・ゴトーニ/中木健二/菊池洋子)

ピアノ三重奏曲第2番 (葵トリオ)

ピアノ三重奏曲第3番 (米元響子/上野通明/阪田知樹)

ホルン三重奏曲  (日髙剛/小林美樹/菊池洋子)

 

<2>

弦楽六重奏曲第1番 (米元響子/小林美樹/村上淳一郎/田原綾子/辻󠄀本玲/上野通明)

弦楽六重奏曲第2番  (マーク・ゴトーニ/諏訪内晶子/鈴木康浩/田原綾子/上野通/辻󠄀本玲)

ピアノ四重奏曲第1番  (葵トリオ/鈴木康浩)

ピアノ四重奏曲第2番  (マーク・ゴトーニ/田原綾子/中木健二/髙木竜馬)

ピアノ四重奏曲第3番  (米元響子/鈴木康浩/辻󠄀本玲/阪田知樹)

ピアノ五重奏曲 (米元響子/田原綾子/葵トリオ)

 

<3>

弦楽五重奏曲第1番 (マーク・ゴトーニ/小林美樹/田原綾子/村上淳一郎/上野通明)

弦楽五重奏曲第2番  (米元響子/小川響子/鈴木康浩/村上淳一郎/辻󠄀本玲)

クラリネット三重奏曲 (金子平/中木健二/阪田知樹)

クラリネット五重奏曲 (金子平/諏訪内晶子/マーク・ゴトーニ/鈴木康浩/辻󠄀本玲)

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島方瞭のイザイの「バラード」は圧巻だった

 2022年3月12日、浜離宮朝日ホールで、「反田恭平プロデュース JNO Presents リサイタルシリーズ ヴァイオリン 島方瞭の世界」を聴いた。演奏は、島方瞭(ヴァイオリン)と三又瑛子(ピアノ)。実はこの二人の演奏家についてはまったく知らなかった。反田恭平プロデュースに惹かれてチケットを購入。

 曲目は、前半に、ラヴェルの「ハバネラ形式の小品」、ショーソン「詩曲」、プーランクのヴァイオリン・ソナタ、後半に、イザイの無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第3番「バラード」とブラームスのヴィオラ・ソナタ第2番(クラリネット・ソナタのヴィオラ版)

 ヴァイオリンは若々しくて力み気味の演奏。力任せのようなところがある。そのため、少し一本調子になる。しかし、力任せがプラスになることもある。ショーソンの詩曲は強い力で心の奥の思いを絞り出す。プーランクも強く躍動する。フランスふうのニュアンスや洒落っ気はあまりないので、その点で物足りないとは思うが、それを補って余りあるほどに直線的な強さがある。ぐいぐい押してくる。それが心地よい。

 ピアノの三又瑛子もかなり強い音でヴァイオリンを支える。いや、時に、強くリードしているように思えた。芯の強い音で、色彩感もあってとてもよかった。

 イザイの無伴奏ソナタは圧巻だった。ひとりの世界をしっかりと作りだし、強い音で魂の叫びともいうべき音楽を紡ぎだした。スケールが大きく、巨大な世界が背後に見える気がした。

 ブラームスのソナタも期待したのだったが、ちょっと気負いすぎたのか、ブラームスを前に委縮した感があった。生真面目に弾きすぎて、いざいで聴かせてくれた思い切りの良さが薄れていた。

 とはいえ、私はこの若いヴァイオリニストの世界をとても楽しんだ。頼もしい存在だと思った。ピアノもとてもよかった。このような人がどしどし出てきて、反田恭平が語るとおり、日本に音楽の都を作って世界の音楽のメッカにしてほしい。今日聴いて、それは遠い未来の夢物語ではないと思った。

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映画「金の糸」 金の糸はきっと「許し」なのだろう

 ジョージア映画「金の糸」をみた。家庭の用で水天宮駅付近に宿泊中、空いた時間に岩波ホールで「金の糸」をみられることに気づいて、慌ててみに行った。2019年にはジョージア旅行をした。ジョージアは大好きな国だ。岩波ホールの映画祭のおかげでジョージア映画はかなりみている。しかも、岩波ホールは近日中に閉鎖になる。これはみないわけにはいかない。監督は、91歳の女性監督ラナ・ゴゴベリゼ。

 素晴らしい映画だった。老作家のエレネは、娘夫婦や孫と暮らしている。ところが、79歳の誕生日を迎えた日、娘の夫の母親ミランダがアルツハイマー病にかかって一人で暮らせなくなり、みんなと同居するためにやってくることになったことが知らされる。ソ連時代に、女性の党幹部として活躍していたミランダとは、エレネは肌が合わない。だが、同じ日、かつての恋人アルチルから電話がかかる。愛の思い出がよみがえるが、二人は高齢のために出歩くことができず、電話でかつての愛を反芻するしかない。

 エレネの中にかつての恋の思いが広がる。同時に、常にご立派な態度で人を指導しようとするミランダには不愉快な思いを募らせている。そうするうち、エレネの詩を発禁処分にして、その後の人生を狂わせたのがミランダ本人であり、しかもかつての恋人アルチルまでもがミランダにすり寄っていたらしいことを知る。そもそも、エレネの両親を流刑にしたのはソ連共産党だった。エレネは許せない気になる・・・・、だが、そのミランダも今やアルツハイマー病にかかり、町を彷徨している。しかも、ミランダは嫌味な人間ではあるものも、自分を犠牲にして弱い人を助けている面もあることをエレネは知る。

 金の糸とは日本の陶器を修復する「金継ぎ」からヒントを得た言葉だという。割れてしまったパーツを金の糸でつなぎ合わせる。過去の様々な思い出を今になってつなぎ合わせる。つらい思い出と幸せな思い出が隣り合わせになってつなぎ合わされる。ともあれ、それらが何とかつながって一つの人生が出来上がっている。

 エレネの暮らすのは、まさに金継ぎのようにしてつなぎ合わされた集合住宅だ。ヒッチコックの「裏窓」を思い出すような造りのアパートで、そこで暮らす人々の生活が垣間見える。そこで暮らす人みんながけなげに生きている。その中に、何度も男性を追い出しては、いつの間にか男性を許して、よりを戻す女性がいる。

 そう、この映画のテーマはきっと「許し」なのだろう。人生には、幸せな思い出、悲しい思い出、それらが入り混じる。そのような人生がエレネの老いた身体の中を動いている。それらをつなぎ合わせる金の糸は、きっと「許し」なのだ。エレネは傲慢なミランダを許し、恋の相手だったアルチルを許し、家族を許すことで、人生という陶器がつなぎ合わされ一つとなる。

  こうして、人生が親から子供、孫、曾孫へと受け継がれていく。ヒロインの家庭の女性はみんなとてもよく似た容姿。歴史あるジョージアのトビリシの美しい街の中で歴史が伝えられていく。しみじみとした映像。心のつぶやきをひそかに伝える音楽。

 私の人生にもいろいろなことがあった。打ちひしがれたこと、楽しかったこと、幸せだったこと、悲しかったことなど、様々なパーツから成っている。だが、私はまだ様々なことが許せずにいる。許すという境地に達することができずにいる。きっと許すことができるようになったとき、きっと私の人生は一つのまとまりを持つのだろうと思った。

 

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