ウクライナ情勢が気になる。ロシアの思い通りにしてしまうと帝国主義時代に逆戻りする。かといって、NATOの側が出かたを間違えば第三次世界大戦になる。そして、このままでは間違いなくウクライナの人々の命が失われる。こうしたことを避けるのは至難の業だと思う。私には、だれがどうすればよいのかまったくわからない。ともあれ祈るしかない。
そんな中、NHKBSのBSプレミアムで賈樟柯(ジャ・ジャンクー)監督の「長江哀歌(エレジー)」をみた。とてもおもしろかった。この監督の映画のDVDを数枚購入して観た。感想を書く。
「長江哀歌(エレジー)」 2006年
原題は「三峽好人」。主人公は二人。しかし、二人に接点はない。映画は、三峡ダム建設のために水没する町を舞台に、それぞれ交流のない二人の人探しをする主人公を追っている。
一人は、16年前に別れた妻と娘を探すために山西省からやってきた下層労働者のサンミン。風采もよくなく、うだつも上がらない小柄な男だ。解体工事の労働につきながら、やっと妻を見つけ出すが、もともと金で買われた妻はサンミンの元に戻るのに積極的ではない。それでも妻を取り戻そうと、過酷な労働に就くことを決意する。もう一人は、音信不通の夫を探し、離婚を申し出ようとやってきた女性シェ・ホン(チャオ・タオ)。夫は工場を経営してどうやらうまく立ち回っているようで、別の成功した女性と交際しているらしい。
それだけの話だが、一つの町が水没し、そこに事情も階層も異なる二人にかかわる様々な人生が埋もれていく哀しみがしみじみと描かれる。まさに人生丸ごとの喪失。21世紀初めの、まだ貧しさの残る中国内陸部の庶民の猥雑な生活もリアルに描かれ、人々の生きざまが見えてくる。サンミンの住む世界では男たちのほとんどは上半身裸で、しばしばうどんのようなものを食べ、一方、シェ・ホンは常にペットボトルに水を入れて飲んでいる。「生きる」ことを強く感じさせる。
不思議な場面がある。サンミンが歩いていると、空に突然UFOが現れる。次にシェ・ホンが映し出されるが、そこにもUFO。しかし、もちろんUFOは物語の展開とは無関係。きっとこのUFOの場面は互いに関係のない二人の登場人物の物語が同じ場所で同時期に進行しているを示して、二つの物語をつなぎ合わせる役割を果たしているだろう。同時に、これはジャ・ジャンクーの署名のようなものなのだと思う。手塚治虫の漫画の欄外にしばしば登場した不思議な虫のようなものと同じだ。統一の取れた三峡地域の物語をみる異質な視点である監督自身がこのUFOに現れているのだろう。この署名の仕方も興味深く思う。
「世界」 2004年
「長江哀歌」よりも2年前の作品。とてもいい映画だと思う。
タオ(チャオ・タオ)は北京の世界公園でダンサーとして働いている。世界公園というのは、一日で世界を回れるというのをうたい文句にしている、世界各地の名所を実物の10分の1サイズで陳列している北京に実在するテーマパーク。エッフェル塔やらピラミッドやらサン・ピエトロ寺院やらがある。タオには守衛のリーダーをしている恋人タイシェンがいるが、体の関係は拒否している。ところが、ふとしたことからタイシェンは別の女性と懇意になる。
そうしたストーリーを基軸に、テーマパークのきらびやかなショーの裏側で、出稼ぎにきたダンサーや警備員たちの男女のいさかい、恋、窃盗、DV、借金まみれの事故死などが描かれる。最後、タイシェンに別の女性がいることを知ったタオは友人の家に逃げ込むが、それをタイシェンは追いかけていき、そこで一酸化炭素中毒で死んでしまう。
表面だけ華やかで、実は外国のきらびやかな部分を真似しただけの「世界公園」。歴史や文化の裏付けがなく、ただ表面だけを真似した砂上の楼閣とでもいうべき公園。安っぽくて偽物じみていて、物悲しい。貧しくも懸命に生きている人たちが出稼ぎに来て働いており、人間的なドラマを作り出している。まさに、これぞ人間世界。そして、これぞ現実の中国の姿なのだろう。中国の現実の縮図がみられる。
最後、二人の中毒死が確認された後、タイシェンとタオの声が聞こえる。「俺たち、死んだのか。」「いいえ、これは新しい始まりよ。」。きっとこれはジャンクー監督の未来に寄せるメッセージなのだろう。
何度かアニメ映像が挿入される。登場人物の見る携帯電話や、頭の中で空想したことがらがテレビゲームの映像のようなアニメで描かれている。ちょっと唐突だが、これも「長江哀歌」のUFOのような効果なのだろう。
なお、この映画のヒロインは「長江哀歌」と同じチェン・タオが演じている。演技派のとてもいい女優さんだと思う。
「罪の手ざわり」 2013年
4つの犯罪が描かれる。村長や資本家の不正を告発しようとするが、相手にされずに怒りを募らせ、不快な人々を銃殺する男。故郷になじめず、捨て鉢になったかのように強盗などの犯罪を繰り返す男。不倫相手の男性との将来に希望が持てずにいるときに、その妻からなじられ、お店の客から売春婦扱いされたのをきっかけに殺人を犯す女性(チャオ・タオ)。真面目に働こうとするが何もかもうまくいかず、恋にも破れて自殺する青年。
北野武監督を思わせるような静謐でありながら暴力的な映画だが、登場人物の悲しみや心の痛みが伝わる。いずれも、時代に取り残され、孤立し、自暴自棄になってしまった人間たち。直接的に中国社会を批判しているわけではないが、これらの犯罪の背景に国家主導の市場経済のゆがみがあるのがよく理解できる。そして、クリアで凄絶な映像が美しい。
ここでも、いつもの女優チャオ・タオが主要な役を演じている。「長江哀歌」「世界」にも登場した小柄な労働者サンミンも端役で登場。存在感があるわけではないが、名もなき下積みの労働者の雰囲気がとてもいい。
「山河ノスタルジア」 2015年
名作だと思う。感動した。過去、現在、未来の三人の男女の3つの時代の生きざまを描く。
過去(1999年)、山西省の地方都市。歌うのが好きな明るい女性タオ(チャオ・タオ)は二人の男友だち、野望を持つジンシェンと、おとなしいリャンズーに思いを寄せられている。野望に満ちたジンシェンからプロポーズされて結婚。親友にタオを奪われたリャンズーはそこで暮らし続ける気持ちにならずに、都市を去る。タオはジンシェンとの間の子どもダオラー(アメリカの貨幣単位「ドル」の意)を産む。
現在(2014年)。リャンズーは炭鉱で働いていたが、体を壊して故郷に帰る。妻はリャンズーの昔の友達であるタオを探し出して、金を借りる。タオはすでにジンシェンと離婚して父親と暮らしているが、父が急死。タオと離れてジンシェンと暮らしている息子ダオラーを葬儀のために呼ぶが、離れて暮らす母と息子はうまくコミュニケーションできない。
未来(2025年)。ダオラーは大学生になって、オーストラリアに移住している。父ジンシェンが検察の追求から逃れるために移住したらしいことがわかる。父は自堕落に暮らしており、ダオラーも目的を失い、空虚な気持ちを抱いている。中国語を話せないために、中国語教室に通っているが、母親と同じくらいの年齢の教師ミアに惹かれ、恋仲になる。ミアと過ごすうちに母と会いたい気持ちを起こし、ミアとともに中国旅行を計画する。一方、母タオは一人で暮らし、1999年を思い出して川辺で踊る。
子供の名前がダオラーというのが象徴的だ。お金を追い求める社会に翻弄される人々の心の空虚。失ってしまった心のよりどころを探してかつての三人の若者とその子どもが彷徨う。それだけのことなのだが、映像が美しく、一人一人の仕草が身に染みる。その心の痛みがしみじみと伝わってくる。やるせなさ、もどかしさ、そして絶望、希望。人生ってこうだよなあ…としみじみと思う。
タオを演じるチャオ・タオの演技に圧倒される。いや、それ以前にジャンクー監督の演出力にも。川、山、渓谷。まさにノスタルジーが掻き立てられる。
「帰れない二人」 2018年
舞台は山西省の大同。やくざのビンとその情婦チャオ(チャオ・タオ)。ビンは地域のやくざの兄貴分としてグループを仕切っている。ところが、車で移動中にバイクの集団に襲われ、袋叩きにあうビンを助けようと、手元にあったビンのピストルを発砲したことにより、チャオは5年間、刑務所で暮らすことになる。刑期を終えて戻ってみると、ビンはほかの女性と恋仲になっている。チャオはあちこち放浪し、ついにはビンとよりは戻すが、ビンは長年の不養生のために下半身不随になっている。チャオはビンに寄り添って生きていこうとするが、ついにビンは厄介になるまいとして出ていく。
テーマは「喪失」だろう。その象徴として、出所後のビンを尋ねて、チャオは三峡ダムによって都市の大部分が水没する奉節を訪れる。次々と過去を喪失していく中国。ジャンクー監督のお気に入りの女優チャオ・タオはきっと中国を体現しているのだろう。猥雑なエネルギーにあふれていい気になり、その実、様々なものを失ってしまっている。たくましく生きているが、いつまでも満たされない。
映画の出来としてはあまりよくないと思うが、よいものにせよ、悪いものにせよ、映像の中には失われつつある中国をみることができる。
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