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METライブビューイング「ナクソス島のアリアドネ」

  METライブビューイング「ナクソス島のアリアドネ」をみた。指揮はマレク・ヤノフスキ。

 とても素晴らしい上演だと思った。やはり何といってもヤノフスキの切れのよいストレートな表現が小気味いい。小さなオーケストラ編成を見事に重層的に鳴らせてゆく。官能性はあまり感じないし、シュトラウス的な豊饒さも感じないが、ぐいぐいと音楽を進め、ドラマを高揚させていく。不要なものを取り去った引き締まった美を感じさせる。

 プロローグの充実ぶりが凄まじい。作曲家のイザベル・レナードは初々しい作曲家を見事に演じて、声も演技も容姿も言うことなし。音楽教師のヨハネス・マルティン・クレンツレもこの役にぴったり。そしてなんと語り役の執事長を演じるのがヴォルフガング・ブレンデル。「ヴォルフガング・ブレンデルというなかなかいい新人のバリトン歌手が出てきた」と話をしていたのがつい最近のような気がするが、あれは40年近く前だったか!

 神の死が明らかになり、永遠の聖なるものを描くことが難しくなった時代に生きたシュトラウスとホフマンスタールの苦悩とあがきが茶化された形で描かれるこのオペラのあり方をうまくとらえていると思った。レナード演じる作曲家の苦悩はシュトラウス自身のものだっただろう。

 オペラの部分もプロローグに劣らず素晴らしかった。やはり、アリアドネを歌うリーゼ・ダーヴィドセンが圧倒的。絶望するか弱い王女ではなく、たくましい王女だが、それはそれで素晴らしい。インタビューでダヴィドセンがジェシー・ノーマンを尊敬していると語っているが、まさにノーマンのアリアドネに近い。「すべてのものが清らかな国がある」のアリアは絶品。ダーヴィドセンはノーマンらの歴代の名ソプラノにまったく引けを取らない。とてつもない大型ソプラノだと思う(ついでに言うと、わたしはこのダーヴィドセンとアスミク・グリゴリアンとアイーダ・ガリフッリーナの3人が容姿も含めてとびぬけた若手ソプラノとして注目している!)。

 ブレンダ・レイの歌うツェルビネッタもとてもよかった。グルベローヴァほどの圧倒的な力は持たないが、歴史的名歌手と比べるのが酷だろう。三人のニンフたちも声がそろっていて申し分なし。道化の面々もいいし。バッカスのブランドン・ジョヴァノヴィッチも、この猛烈に難しい歌を見事に歌っていた。歌手陣については現在、これ以上の顔ぶれを考えるのは難しいと思う。

 演出はエライジャ・モシンスキー。METらしいオーソドックスな演出だが、センスがよく、わかりやすい。プロローグはほとんどオリジナルの台本通りだろう。しかし、それでも新鮮で楽しく見せてくれる。オペラの部分では、ニンフたちが巨大なスカートをはいて登場(2階か3階分ほどある高い台座の上で歌手が歌い、台座をスカートで覆っている)。スカートが自然の風景と溶け込んで、ニンフが人間ではなく自然に溶け込んだ妖精であることを示す演出だろう。なるほど。わかりやすくて、しかも美しい。屁理屈をこねまわす最近の演出よりもこちらのほうがずっとレベルが高いと思うのは私だけではないだろう。

「ナクソス島のアリアドネ」は、高校生のころからこよなく愛するオペラだ。最高レベルの上演の映像をみられてとても満足だった。

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辻井玲のブラームスのソナタ第1番 若々しい抒情がほとばしった

 2022423日、トッパンホールで辻本玲チェロ・リサイタルを聴いた。ピアノ伴奏は入江一雄。

 曲目は、前半にバッハの無伴奏チェロ組曲第4番とブラームスのチェロ・ソナタ第1番。後半はアメリカ音楽。ガーシュインの「3つのプレリュード」、ジョージ・クラムの無伴奏チェロ・ソナタ、サミュエル・バーバーのチェロ・ソナタ。

 実は、バッハの無伴奏チェロ組曲はちょっと若すぎると思った。まっすぐに攻めていく感じ。それはそれで気持ちがいいのだが、やっぱりこの曲はもっと深みのある曲だよなあと思う自分があった。

 だが、ブラームス以降は素晴らしいと思って聴いた。音が生きている。音楽が生きている。私にとっての辻本玲の魅力はそれに尽きる。速いパッセージも遅いパッセージも音が生き生きとしていて、生命を感じる。ブラームスの若々しい抒情がほとばしるのを感じた。

 後半のアメリカ音楽もおもしろかった。短いトークで、辻本さんがアメリカ音楽の魅力を語ったが、辻本さんがアメリカの帰国子女だと初めて知った。11歳(だったかな?)までアメリカで暮らし、アメリカでチェロの手ほどきを受けたという。しかも、師はオーランド・コール。バーバーとも交流のあったチェリストだという。なるほど、辻井さんがアメリカ音楽に熱心な理由がわかった。

 アンコールはガーシュインの「サマータイム」。満足だった。

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映画「単騎、千里を走る。」「SAYURI」「レッドクリフ」

 中国からみの映画を引き続き、数本みたので感想を記す。

「単騎、千里を走る。」 チャン・イーモウ監督 2005

 イーモウ監督、高倉健主演の日中合作映画。かなり前にテレビで一度みた記憶があるが、今回、みなおした。とてもいい映画だと思った。

 息子(中井貴一・声だけの出演)が不治の病だと知った父親(高倉健)は、息子のやり残した仕事を引き継ごうとして中国にわたり、雲南省に伝わる仮面劇「単騎、千里を走る」を撮影しようとして奮闘するロードムービー。様々な苦労をするうち、行き来のなかった親子に理解が生まれる。

 監督の意図はとてもよくわかる。ただ私は実はストーリーのあちこちに無理を感じる。それまで漁師をしていた初老の男性が、突然、中国に仮面劇の撮影に行こうとする決意がどうも納得できない。中国の官僚組織がこの父親に同情して刑務所内での撮影を許すことも、また、その父親が服役中の京劇役者の子どもを探しに行こうとするのも、よくわからない。

 しかし、そうであっても、そこは高倉健の圧倒的存在感とイーモウ監督の恐るべき演出力(登場した多くの人が素人だという!)と雲南省の絶景のおかげで、ともあれ納得させられてしまう。この父親役、高倉健でなければ成り立たなかっただろう。

 父親と、役者の子どもヤンヤンの交流は感動的。ヤンヤン役の子どもの演技も自然で素晴らしい。

 

SAYURI」 ロブ・マーシャル監督 2005

 日本の芸者さゆりの半生を描いている。この映画製作が発表された時、せっかく日本を舞台にして、日本の風俗を描く映画なのに、芸者の役を演じる女優の多くが中国系の女性であることを残念に思ったのを覚えている。それもあって、これまでみないでいたのだったが、チャン・ツィーの映画を何本かみているうちに、これもみたくなった。

 ヒロインのチャン・ツィー、先輩芸者のミシェル・コー、敵対する芸者のコン・リー。確かに魅力的。日本女性陣(大後寿々花・工藤夕貴・桃井かおり)もいいが、やはり中国系のビッグスターたちの存在感にはかなわない。日本男性陣(渡辺謙・役所広司)はさすが。色彩豊かな映像で芸者の悲しみと歓びが切々と語られる。

 ただ、私としては、10歳くらいの少女が、優しくしてくれた大人に恋して、その後、思い続けるというストーリーにあまり説得力を感じない。それに、中国人たちが演じるアメリカ映画がこれほどまでに日本を描いたということ、そして、中国女性の演じる芸者たちが見事に日本人風なのには感心するが、やはり街並みや群衆の動きが日本的ではないのが気になる。日本人同士が英語で語るのも、どうにも違和感を覚えてしまう。そもそも、英語で語ると、顔の表情や仕草が日本人らしくなくなる。

 まあ、「ラスト・サムライ」も同じようなものだったし、これまでみたアジアを舞台にした映画(「キリング・フィールド」「グッドモーニング、ベトナム」など)もきっと現地の人から見れば同じようなものだったのだろうから、致し方ないだろうが。

 なかなかいい映画だったが、感動するにはいたらなかった。

 

「レッドクリフ」 パート1・2 2008年・2009年 ジョン・ウー監督

 かつてさかんにテレビCMが流れていた。食傷気味だったので、関心を持たなかったが、ともあれこのところ中国関係の娯楽映画に触れたついでに観てみた。

「三国志」の中の赤壁の戦いを描いた大歴史ドラマだ。その昔、岩波文庫で「金瓶梅」「紅楼夢」と読み進めてとてもおもしろかったので、その後、「三国志」を読み始めたところ、誰が誰やら訳が分からなくなって、すぐに挫折した。次に「三国志演義」に挑戦したが、これも挫折。このタイプの読み物は私向きではないと思って、そのままになっていた。それもあって、今回も少々警戒してみはじめたが、何のことはない、かなり荒唐無稽な大スペクタクル映画だった。

 どのくらい「三国志」や「三国志演義」に基づいているのかわからないが、あまりにできすぎの話であり、戦場の場面もあまりに荒唐無稽。それなりによくできているので退屈することはないし、話もよくわかる(ただ、あとで調べて、脇役と思っていた人が関羽や張飛というビッグネームだったのでびっくり)し、ともあれ戦闘場面が派手でおもしろいのだが、何ということのない話だと思った。

 トニー・レオン(周瑜)、金城武(諸葛孔明)、張豊毅(曹操)はとても良い演技だと思う。周瑜の奥さん役の女優さん(リン・チーリン)をとてもきれいだと思った。調べてみたら、日本のドラマにも出演しているとのことなので、これまで知らなかった私のほうが世間から外れているのかもしれない。

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京都に行って久しぶりにうまいものを食べた

 2022418日、私が塾長を務める白藍塾の仕事で京都・宇治を訪れた。東京は雨だったが、関西は晴れ間も見えて心地よかった。まさに春の一日。このところ、ずっと自宅にこもらざるを得ない日々が続ているが、久しぶりの遠出だった。

 私が塾長を務める白藍塾は、いくつかの中学、高校をサポートして小論文指導を行っている。立命館宇治中学校もその一つで、20年前から白藍塾の指導を取り入れて、大きな成果を上げている。今回は、そのサポートの一環として中学1年生向けにお話をさせていただき、先生方向けの研修を行った。

 毎年行っているイベントなのだが、コロナのために2年ぶりということになる。講演では、活発で優秀な生徒さんたちに質問攻めにあいながら、文章を書くことの意味について楽しく話ができた。中学生と接するのは実に楽しい。この子たちが文章を書くのを好むようになり、達人になってくれたら、こんなうれしいことはない。

 その後、京都駅前の美濃吉・新阪急ホテルで夕食。私のひいきの店だ。美濃吉は日本各地にある京料理の店であり、私は東京の店も時々利用させてもらい、とてもおいしいと思っているが、新阪急ホテルの店は格別。無理にでも仕事を作って、この店に行きたい気持ちになる。

「京御膳」をいただいたが、白味噌仕立ては相変わらずの絶品。私は、この料理がことのほか好きだ。シンプルで素朴で、そうでありながら最高に洗練されている。本当にうまい! 筍の天ぷらも生麩田楽もたけのこご飯もとてもおいしかった。そして、タイのかぶと煮をべつにもらったが、これまた絶品。薄味で、魚そのもののうまみをいかして、最高のおいしさを引き出している。幸せな気持ちになった。

 満足のゆく仕事ができ、おいしいものを食べることができた。満足できる京都訪問だった。

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イラン映画「英雄の証明」 のっぴきならない中で生きる人々の人間模様!

 コロナ禍は続き、ウクライナはますます深刻な状況になっている。憂鬱な日が続く。今日は、東京春音楽祭のブリン・ターフェルのリサイタルに行く予定だったが、数日前、本人が新型コロナウイルスに感染して公演中止との知らせが届いた。数日前に中止決定ということは、もしかして、ターフェルは日本の検疫で陽性が判明したということだろうか。そうだとすると、本人も含めてどれほど残念であることか。あれこれのことについて、何とかならないものかとつくづく思う。

 代わりにというわけではないが、アスガル・ファルハディ監督の映画「英雄の証明」をみたので感想を書く。素晴らしい映画だと思った。名作だと思う。大いに感動した。

 私が初めてみたファルハディ監督の映画は「ある過去の行方」だった。あまりの凄さに驚嘆して、その後、「彼女が消えた浜辺」や「別離」をみてますます心酔した。「セールスマン」や「誰もがそれを知っている」にはさほど感動しなかったが、今回の「英雄の証明」はこれまで以上の感動を覚えた。

 イランの古都シラーズでの話。借金のために投獄されていたラヒムは、婚約者が金貨の入ったバッグを拾ったため、それを使って借金を返そうとするが、思い直して、姉を通して落とし主に返却する。ところが、それが美談としてテレビで放送され、英雄扱いされたために大ごとになり、ついにはSNSで、それはすべて作り事だと攻撃されるようになる。ラヒムは誤解を解こうと懸命になるが、金貨を落とした女性が消息不明のために、自分の行為が事実だと証明できない。努力すればするほど、誤解が深まってしまう。金貨を落とした女性を探すが、訳ありの女性のようで、正体が知れない。刑務所や慈善団体の思惑に吃音の息子も巻き込まれる。そんな物語だ。

 実は金貨の落とし主は、死刑判決を受けた夫を助けようとして奔走する女性だった。ラヒムと女性は何度かすれ違っているが、互いに気づかない。結局、全面的に理解してもらうことは諦めて、息子や婚約者を大事にして生きていくことを決心したラヒムが再び刑務所に収監されるのと同じとき、その横で、その夫が刑務所を出て女性と久しぶりに顔を合わせているところで映画は終わる。

 ファルハディの映画の多くがそうであるように、今回も、登場人物たちのそれぞれの言い分のいずれにも理がある。ラヒムを刑務所に追いやった男性もラヒムの元妻も刑務所職員も慈善団体職員も囚人たちも決してめちゃくちゃなことを言っているわけではない。私が同じ立場なら、きっと同じように主張するだろう。ラヒムの婚約者も姉夫婦も子どもたちも、善良に必死に生きている。みんながのっぴきならない状況で、やむを得ない決断をする。だが、そのためにしわ寄せができて、誰かが苦しむ。とりわけ苦しみが集中するのは、吃音症のラヒムの息子だ。父も母も別の人と再婚しようとしており、しかも大人たちは、世間の同情を引くために、吃音でしゃべるこの子の訴えをSNSで流すことを計画する。

 のっぴきならない状態に引きずり込まれて、それなりに誠実に生きていこうとする人たち。彼らが必死に生きれば生きるだけ悲劇が拡大する。SNSの社会では、それが一層加速度的に拡大していく。そうした人間の心の奥、社会の仕組みがサスペンスタッチで暴き出される。観客の一人である私としては、ファルハディの人間観察、社会観察の目に驚嘆しながら、その人間模様を追いかけるしかない。ラヒムはひどい目に合ったが、別の女性が救われただけ、この事件には救いがある。

 それにしても、ラヒムを演じるアミル・ジャディディはちょっと愚かで善良で、しかもけんかっ早いこの主人公を見事に造形。吃音の子ども役の少年も素晴らしい。姉夫婦、債権者の男性もまた、実に素晴らしい演技。脚本も見事な出来もさることながら、ファルハディの演出力にも圧倒される。

 ただ、この映画を見ながら、戸惑うことも多かった。借金で服役し、しかも服役中の囚人が「休暇」と称して、一時期、社会に復帰している! それに、そもそも、今の世の中で、「金貨」ってどういうこと?と思うし、金貨を落とした女性は、死刑囚の夫をお金の力で出所させられたようだ! どういう制度なのだろう! ラヒムの息子がラヒムの姉一家とともに暮らしており、ラヒムが服役中も元妻は親権を主張していないようだったが、それにどんな事情があったのだろう。イラン特有の事情があるのだろうか。

 いや、そもそも私は上に書いたようにこの映画を解釈し、ネットでも同じように思った人が多かったことを確認したが、本当のことを言うと、ちょっと不安が残る。なにしろイランの女性は私たちから見ると、みんなよく似ているし、みんなチャドルを身にまとっているので顔の区別がつかない。金貨を落とした女性と死刑囚の夫を救おうとしていた女性、そして、最後の場面で刑務所の外で男性との再会を喜んでいた女性を、映画の流れから、私は同一人物だと思ったのだったが、本当に同一人物であるかどうか百パーセントの自信はない(DVDが発売されたら、何度も巻き戻して、この点を確認したい!)。

 とはいえ、何はともあれ素晴らしい映画だった。刑務官が吃音の子どもに親の無実を訴える動画をSNSに配信しようと企て、子どもはたどたどしい言葉で必死にカメラの前で真実を訴えようとし、家族はそれを見ていたたまれない気持ちになっていく場面は涙なしにはいられなかった。

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アイヒェとベルナーによる「マゲローネのロマンス」 音楽は最高!

 2022411日、東京文化会館小ホールで、マルクス・アイヒェ(バリトン)によるブラームス作曲、ティークの「マゲローネ」によるロマンスを聴いた。ピアノ伴奏はクリストフ・ベルナー、朗読は奥田瑛二。

 めったに演奏されない曲だが、私は、LP時代にフィッシャー=ディスカウとリヒテルの録音を聴いて感動して以来、この連作歌曲が大好きだ。若々しくて率直なブラームスの一面が現れていると思う。

 アイヒェのバリトンは最高だった。豊かなバリトンの美声で、音程はいいし、発音も美しい。若々しくて伸びと張りのある美声。この曲にふさわしい。そして、歌いまわしもしなやか。申し分ない。勢いのある歌声が最後までまったく衰えず、素晴らしかった。

 ベルナーのピアノはかなり癖があると思った。素晴らしくいいところも多いのだが、ちょっと自己本位な感じで、勢いに乗ると歌手にきちんと寄り添うのをやめて、自分の世界に入る傾向があるのを感じた。それも一つの魅力なのかもしれないし、実際、それがズバリと決まって感動するところもあるのだが、歌と少しずれるのを感じるところもあった。とはいえ、音楽的には最高。

 私が少し問題を感じたのは、奥田瑛二の担当した朗読だった。私はこの歌曲を、他愛のない童話に基づくものだと思っている。だから、中世の童話ふうにあっけらかんと朗読するべきだと思うのだ。ところが、今回の朗読の訳語は童話らしくなく、かなり難しい言葉が使われ、奥田の朗読もかなり近代小説風。つまり、しばしばリアルに表現しようとする。ありそうもない童話をリアルに演じると、歌とかみ合わなくなってしまう。

 いや、そもそも、長い長い日本語の朗読が歌の間に入ると、ドイツ語の音楽の流れが途切れてしまう。しかも、日本語の朗読なので、演奏者たちには理解できず、朗読の世界から歌の世界にスムーズに流れない。私は、いっそのこと、朗読はカットして大まかなストーリーだけを解説するほうが良いのではないかと思う。

 もちろん、奥田はこの曲に思い入れがあるわけではなく、単に仕事として受けただけだと思う(アンコールの際の、曲の紹介の仕方などから考えて、どうやら奥田さんはクラシック音楽に興味のある方ではなさそう)ので、それを責めることはできないが、少しこの曲における朗読のあり方について考えなおすべきだと思った。

 アンコールはベートーヴェンの歌曲「接吻」、シューベルトの歌曲「ミューズの子」「楽に寄す」。いずれも、音楽の楽しさを前面に押し出す名曲。二人の音楽がぴたりと合って、音楽の楽しさを堪能できた。

 

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メルベートに歌唱に圧倒された

 2022410日、飛行船シアター(旧 上野学園石橋メモリアルホール)で、リカルダ・メルベートのコンサートを聴いた。東京春音楽祭の一環。ピアノ伴奏はフリードリヒ・ズッケル。私はこれまで、ベートーヴェンやワーグナーやシュトラウスの実演や録音、映像でメルベートに接してきた。容姿も魅力的で、私のひいきの歌手の一人だ。楽しみにして出かけた。期待通りの素晴らしい歌唱だった。

 曲目は、前半に、モーツァルト「魔笛」より「愛の喜びは露と消え」、ワーグナーの「ローエングリン」より「エルザの夢」、「さまよえるオランダ人」より「ゼンタのバラード」、「トリスタンとイゾルデ」より「愛の死」、後半にモーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」より「私に言わないでください 私の美しいあこがれの人よ」、リヒャルト・シュトラウスの「エジプトのヘレナ」より「第二の新婚初夜!魅惑的な夜」、「エレクトラ」より「モノローグ」、最後にワーグナーの「神々の黄昏」より「ブリュンヒルデの自己犠牲」。アンコールはシュトラウスの「献呈」。

 前半は少し声のコントロールが甘かったと思う。だが、ゼンタのバラードあたりから、どんどんと声が出るようになった。

 音程がよく、言葉のニュアンスもしっかり伝わる。しかも、力任せに歌うのでなく、とても知的。だから、モーツァルトもとても美しい。だが、やはりワーグナーやシュトラウスのほうが、この人の声に合っていると思う。けっして太い声ではないが、強靭で張りがある。ダイナミックレンジが広いというか、小さな声から力強い声まで自在に声を出すので、声の広がりに圧倒される。私はイゾルデとエレクトラにとりわけ感動した。

 イゾルデは、まさに宇宙的な広がりを持っていた。残念ながら、空席がかなり目立ったが、ホール全体が無限の広がりを持ったように思えた。エレクトラも、知的で可愛らしさを持った役柄をしっかりと歌ってとても迫力があった。

 ただ、私はピアノ伴奏のズッケルについて少々疑問を抱いた。オーケストラで聴きなれているこれらの音楽をピアノで演奏すのだから仕方がないとはいえ、全体が流動的にならずに、ぶつ切れになっているような印象を受けた。そのために、ワーグナー特有の夢幻的な雰囲気が生まれてこない。

 とはいえ、とても感動。アンコールの後はスタンディング・オーベーションになった。

 

 

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エッシェンバッハ&N響のベートーヴェン第7番に感動

 202249日、東京芸術劇場コンサートホールでNHK交響楽団定期演奏会を聴いた。指揮はクリストフ・エッシェンバッハ、曲目は、前半にドヴォルザークの序曲「謝肉祭」と、フルートのスタティス・カラパノスが加わってモーツァルトのフルート協奏曲第1番、後半にベートーヴェンの交響曲第7番。素晴らしい演奏だった。

「謝肉祭」は、まさに祝祭感にあふれていた。躁状態とでもいうか。だが、そこにドヴォルザークらしい人懐っこいメロディがあるので、懐かしい気持ちになる。N響の音もびしりと決まった。

 フルート協奏曲もとてもよい演奏だった。フルートの音が研ぎ澄まされていて、輪郭がしっかりしている。ただ、モーツァルト若書きのこの曲は、もっともっとのびのびと吹いた方がよかったのではないかと、個人的には思った。フルート・ソロのアンコールは「シランクス」。とても美しく潤いのある演奏だった。この人はこのようなニュアンス豊かな音色のほうがよさが出るのではないかと思った。

 後半のベートーヴェンの交響曲第7番は素晴らしかった。ところどころ特徴的な音の切り方を示していたり、チェロのフォルティシモの部分で弦に弓の付け根を当てて音を出させたりしていたが、全体的にはきわめてオーソドックスで、際立った誇張はなく、目覚ましい解釈があるわけではない。しかし、スケールが大きいのに、一つ一つの音がニュアンスにあふれており、音の重ね方、リズムの取り方、強弱の付け方が絶妙で、ホール全体が高揚していく。私は何度か感動に震えた。

 私は小学校のころからベートーヴェンの交響曲が大好きだったが、実は第7番は扇情的すぎてあまり好きになれなかった。どうしても、こけおどしに思えてしまう。今でも、演奏によってはかなり空疎な気がすることがある。素人の私にはどこがどう違うのかまったくわからないのだが、エッシェンバッハの演奏は、まったくそのような印象は抱かず、生身の人間の思想と感情が迫ってきた。

 とても満足。ベートーヴェンは凄い。

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オペラ映像「フランチェスカ・ダ・リミニ」「運命の力」「ロジェ王」

 ウクライナ情勢が気になる。だが、テレビ報道をみるのがつらい。あまりに悲惨なウクライナの状況、あまりに残虐なロシア軍、そしてあまりに鉄面皮のロシア政府。かつて中国に進出した日本も、ヨーロッパに侵攻したナチス・ドイツも、スターリンの時代のソ連も、きっと同じように情報操作をし、自分たちの残虐な行動を正当化し、悲惨な状況を他国のせいにしてきたのだろうが、それが現在も行われるとは! このような状況に対して国際社会は手をこまねいているとは、何ということだろう。西側の制裁が効果を発揮し、中国やインドもロシアの暴虐を追及する側になってほしいと願うばかりだ。

 我が家もあれこれのことが起こって、以前ほど安穏とコンサートに出かけたり、遊びに出かけたりできない。自宅で映画をみたり、いつもよりも小さな音で音楽を聴いたりしている。何本かオペラ映像をみたので、感想を書く。

 

 

ザンドナイ 「フランチェスカ・ダ・リミニ」20213月 ベルリン・ドイツ・オペラ(無観客上演ライヴ)

 チャイコフスキーの交響的幻想曲「フランチェスカ・ダ・リミニ」には中学生のころから馴染んでいたので、ダンテの「神曲」に題材をとったこの物語については大まかには知っていたが、サンドナイのオペラは初めて観た。サンドナイは、1883年生まれのイタリアの作曲家。ストーリー的には「ペレアスとメリザンド」と似ているが、音楽の雰囲気からすると、むしろレオンカヴァッロの「道化師」に近い。とてもおもしろかった。

 フランチェスカは、不具者であるジョヴァンニが結婚相手なのに、弟であるパオロが相手だと思わせられて政略結婚を承諾させられる。フランチェスカはパオロと愛し合うようになるが、フランチェスカに思いを寄せながらもはねつけられたもう一人の弟マラテスティーノが二人の関係を告発して、二人はジョヴァンニに殺される。ダンテの「神曲」に出てくる話だという。

 戦争のさなか、残虐な状況で物語は展開する。血なまぐさく、憎悪や暴力にあふれている。音楽的にも激しく混沌としている。フランチェスカも決しておとなしくて貞淑な女性ではなく、情熱的で気性が激しい。

 歌手陣はとても充実している。フランチェスカを歌うサラ・ヤクビアクがとてもいい。芯の強い美声で、姿かたちもこの役にふさわしい。パオロのジョナサン・テテルマンもこの役にふさわしい「イケメン」で、声も見事。ジョヴァンニのイヴァン・インヴェラルディも太くて激情的な声がみごと。マラテスティーノのチャールズ・ワークマンもとてもいい。

 カルロ・リッツィの指揮にまったく不満はない。おどろおどろしくも情熱的な音の渦は素晴らしい。演出はクリストフ・ロイ。現代の服装で登場人物は現れる。特に違和感はない。ロイらしい映画的な手法で実にリアル。ジョヴァンニは五体満足な中年男として現れるが、差別的なものを見えなくさせようとする近年の傾向からすると、やむを得ないだろう。ただ、不具や差別は芸術の大事な要素であり、社会の中の無視できない要素であるだけに、多少抵抗を感じないでもない。

 ともあれ、とても説得力のあるオペラだと思った。

 

ヴェルディ 「運命の力」 20216月 フィレンツェ五月音楽祭歌劇場

 ラ・フラ・デルス・バウスという団体のカルルス・パドリッサという人の演出だというが、一言で言ってもとんでもない演出だと思う。途中でまじめに考える気力がうせてしまった。何やら最初に「運命は時空を超えている・・・」といったような文章が映し出される。そして、まさに過去から未来、そして太古へと時空を超えた逃亡と追跡のドラマが始まる。登場人物たちは宇宙服のような奇抜なデザインの服を着ている。コンピュータマッピングと言うのか、舞台全体に色とりどりの光が出たり、陰が映ったり。まさにオペラをネタにして、演出家が遊んでいる。

 それで演奏がよければ我慢するのだが、演奏はかなり大味。ズービン・メータの指揮も精彩を欠く気がするし、レオノーラのサイオア・エルナンデス、ドン・アルヴァーロのロベルト・アロニカ、ドン・カルロのアマルトゥブシン・エンクバートも声が出ていない。

 こんなディスクを購入するなんてもったいないことをしてしまったと後悔した。このような演出を許容するほど寛大な精神を、残念ながら私はオペラ演出に対して持ち合わせていない。

 

シマノフスキ 「ロジェ王」 2015年 ロイヤル・オペラ・ハウス

 このオペラについては、実演はもちろん、映像をみるのは初めて。いや、CDを聴いたこともなかった。とても面白いオペラだし、音楽もとてもいい。バルトークの「青ひげ公の城」のような雰囲気。ただ音楽はもっと後期ロマン派風で、官能的。ポーランド語のオペラだ。

 ロジェ王(ただ、字幕ではロゲル王となっており、オペラの中では、ロゲジェと発音されているような気がする)の王国で不埒な宗教を説く魅力的な若者が登場し、民衆を幻惑していく。王妃ロクサーヌもその虜になる。ロジェ王は弾圧しようとするが、民衆もロクサーヌも若者に従って、ロジェ王のもとを去ってしまう。この若者はどうやらディオニュソス神であって、羊飼いに身をやつしていたらしい。ロジェ王は側近のエドリシとともにとどまって、太陽の光をたたえる(ただ、セリフではロクサーヌが消え去ることになっているにもかかわらず、この演出ではロクサーヌが最後までロジェ王の傍らに留まる)。

 酒と音楽の神であるディオニュソスは人々を熱狂に導く。だが、ロジェ王はそこからは距離を置き、孤独を味わわなければならない。そのような物語なのだろうか。実をいうと、私自身もかなりロジェ王に近いタイプの人間で、飲み会でも独り醒めているし、スポーツやイベントに熱狂することはまずない。音楽には感動するが、ほとんどの場合、一人で静かに興奮しているだけだ。だからロジェ王の孤独はよくわかるが、どうもこのオペラの寓意はよくわからない。ただ、この不思議な雰囲気はとても魅力的だ。

 ロジェ王のマリウシュ・クヴィエチェンがことのほか素晴らしい。見事な声で焦りと孤独を歌う。ロクサーナのジョージア・ジャーマンも澄んだ美声で、ディオニュソスに惹かれる女性を歌う。羊飼いの若者(実はディオニュソス)を歌うセミール・ピルギュも張りのある軽い声でこの役にふさわしい。エドリシのキム・ベグリーも誠実で知的な声がこの役にふさわしい。全体的にとてもレベルが高い。

 アントニオ・パッパーノの指揮は躍動的でありながらも繊細で官能的で、ディオニュソスの幻惑、ロジェ王の焦りを見事に描く。演出はカスパー・ホルテン。現代の服を着ているが、特に違和感はない。わかりやすくて、しかも説得力がある。とてもいいオペラだと思った。これまで知らなかったなんてもったいないことをしたと思った。

 

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チャン・イーモウ監督の映画「上海ルージュ」「サンザシの樹の下で」「英雄」「LOVERS」「グレートウォール」「SHADOW 影武者」

 先ごろ、ジャ・ジャンクー監督の映画を立て続けにみたが、ついでにチャン・イーモウ監督の映画もみることにした。これまでにも何本か観ていたが、先日、イーモウが担当した北京の冬季オリンピックの開会式と閉会式をみて、東京オリンピックの開会式・閉会式とのレベルの差に啞然! やはり、イーモウ監督は凄いと思った。映画ももっとみたくなったのだった。

 

「上海ルージュ」 1995

 1930年上海。闇の組織の一員である伯父を頼って上海にやってきた14歳の少年・水生。親分の愛人である歌手・金宝(コン・リー)の召使として雇われる。ところが、組織同士の抗争があり、組織内の裏切りがあって、叔父は殺され、ついには金宝も親分によって殺される。初めは、水生もその堕落ぶりに金宝に軽蔑を感じていたが、その生い立ち、悲しみを知るうちに慕うようになり、金宝が殺されそうになったときに、親分に歯向かって捕らえられる。闇の組織のうごめく退廃した戦前の上海の闇社会を、悲しい愛人と純粋な田舎の少年通して描いた作品と言えるだろう。

 上海の退廃的で華やかな世界と闇の世界の抗争、そしてその中の人間模様がとてもリアル。都会の虚飾の世界も、田舎ののどかな世界も映像美にあふれている。とてもいい映画だと思った。

 

「サンザシの樹の下で」 2010年 

 文化大革命当時、両親が右派とみなされて苦しむ少女ジンチュウが下放されて訪れた農家でインテリの青年スンと出会い恋に落ちるが、スンは難病のために死んでいく。それだけの典型的なお涙頂戴の恋愛映画なのだが、文革に揺れる社会、そこで生きる庶民、不遇の中にいる家庭がリアルに、美しく描かれている。さすがイーモウ。ジンチュウを演じる女優さん(チョウ・ドンユィ)があまりに可愛らしく、感情移入せずにはいられない。安っぽい映画のように、文革の負の側面が単純に描かれるわけではなく、またもちろん、涙を誘う安っぽい仕掛けもない。ういういしいジンチュウの心を描く。みごと。

 

「英雄 Hiro」 2002

 イーモウ監督作品だとは知っていたが、かつてテレビで盛んにCMが流され、あまりに「大スペクタクル」の「大活劇」風なので、これまで敢えて観ないできた。だが、見事なオリンピック開会式・閉会式を見せられると、やはりイーモウはとてつもない演出家だ。活劇も観ておこうと思いなおした。

 古代中国。秦の王(チェン・タオミン)を暗殺するために訪れた刺客・無名(ジェット・リー)が、それまでの残剣(トニー・レオン)、飛雪(マギー・チェン)、如月(チャン・ツィー)との争いを語って王に近づき殺害しようとするが、王の懐の深さに感銘を受けて諦め、その結果、秦の王は生き延びて始皇帝になる。それだけのストーリーを宇宙的ともいえるような映像美と様式美で見せてくれる。

「マトリックス」ばりのワイヤーアクションには少々しらける。また、主人公たちの剣づかいの非現実的な名人技も私には説得力がない。

 だが、こうしたことを様式美にまで高めて、神話世界のひとつの舞踏として展開していると考えると、これはこれで見事。まあ要するに、中国の非現実的なまでに美しい大自然の中で舞踏としての果し合いが展開し、自らの大義のために自分の命を差し出し、愛する者を殺し、愛する者に殺されることを美学と捉える武士道にも似た世界観が示される映画だということだろう。しかも、これだけの壮絶な果し合いをしながら、全体的な印象としては実に静謐。ゆるぎない静かで落ち着いた、しかも色鮮やかな大宇宙の中で人間の争いが行われる。このスケールたるや、確かにすごい!

 俳優たちのとてつもない存在感にも圧倒される。テレビでジェット・リーの映画は何本かみたことがある(私は、テレビ東京で昼間放送される「午後のロードショー」をかなりみている)が、なるほどいい役者だと初めて思った! チャン・ツィーも本当に魅力的!

 

LOVERS」 2004

 唐王朝の飛刀門と呼ばれる反乱組織の娘シャオメイ(チャン・ツィー)と、反乱組織壊滅のためにシャオメイに近づく金(金城武)の悲恋の物語。そこに劉(アンディ・ラウ)が絡む。「英雄」と同じような、とてつもない映像美によって繰り広げられる活劇。一つ一つの画面があまりに美しい。ワダエミによる衣装も色彩豊かで美しい。それにしても、これほどの活劇であるにもかかわらず、圧倒的な静寂とでもいうか。東洋的な静の美が全体を支配している。竹林や草原や雪景色の美しさは言葉をなくす。二人の死の場面もあまりに壮絶であまりに美しい。

 風のように居所を定めず、自由に生き、愛を全うしようという思いが政府と反政府の戦いによって打ち砕かれる。色彩豊かな美によって描かれた浄瑠璃の世界ともいえそう。

 あまりの美しさにうっとりとしてみたものの、やはりこのような活劇は私の好みではない。ストーリーにはあまり惹かれなかった。ただ、チャン・ツィーは本当に魅力的!

 

「グレートウォール」 2016

 グレートウォールとは万里の長城のこと。万里の長城は外敵の侵入を防ぐために建設されたというのが歴史的な常識だが、ここでは怪獣(小型の恐竜のように造形されている)を防ぐためのものとして設定されている。黒色火薬を求めて中国にやってきた西洋人ウィリアム(マット・デイモン)が中国の人々と怪獣の大群との戦いに巻き込まれ、女性将軍リン・メイ(ジン・ティエン)とともに戦って勝利を収める。

 これがほんとうにイーモウの映画なのか?と疑いたくなるくらいにつまらなかった。砂漠を行く場面などは映像美にあふれるが、内容はあまりに陳腐。よくあるB級の怪獣話と大差ない。かつての「エイリアン」ほどに化け物の不気味さはないし、怪獣に象徴的な深みもない。ウィリアムと女性将軍との恋もありきたりで、そもそもこれほどに腕力の必要な戦いに、このような女性的な戦闘服を着た女性たちがなぜ加わっているのかもよくわからない。完全な失敗作だと思った。

 

SHADOW 影武者」 2019

 これは正真正銘の名作だと思う。稀有な名作と言ってもいいと思う。まさに墨絵の世界。あまりに非現実的な戦闘場面が繰り広げられるが、それもまた墨絵の様式化された宇宙の中の出来事と考えれば、確固たるリアリティを持つ。

 戦国時代の中国。都督の影武者として活動する男(ダン・チャオ)が、隣国の王族に戦いを挑み、その国に占領されたままになった領地を奪い返し、自国の王と本物の都督の争いに乗じて、二人を殺し、都督となって美しい妻(スン・リー)までも自分のものにする。

 最初から最後まで、目を疑うほどの墨絵の世界で展開され、カラーは淡い色が時々現れるくらいなのだが、凄絶な血の色を感じる。だが、それが墨絵として描かれるので、美が際立つ。最後の1、2分、私は、自分でもどういう感情かわからないまま、得体のしれないものに触れた戦慄を感じて、文字通り体が震えていた。

「グレートウォール」をみて、イーモウも世界的なエンターテインメント監督になってしまってかつての芸術力を失ったかと危惧したが、とんでもなかった。凄まじい!

 

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東京春音楽祭「ローエングリン」 感動の震えが全身を走った

 202242日、東京文化会館で東京春音楽祭、ワーグナー「ローエングリン」全曲(演奏会形式)を聴いた。コロナのために、3年ぶりの東京春音楽祭のワーグナー・シリーズ。指揮はマレク・ヤノフスキ。

 素晴らしい演奏だった。まず、ヤノフスキの指揮がいい。濃厚なロマンティックな表現ではない。速いテンポできびきびとドラマを進めていく。官能性や思わせぶりの神秘性などはあまりないが、緊迫感にあふれている。第二幕のテルラムントとオルトルートのやり取りはぞくぞくするようなドラマがある。NHK交響楽団もしっかりと指揮について緻密で緊迫感のあふれる音を出している。第三幕の大団円の高揚も素晴らしかった。

 男性的できりりと引き締まったローエングリンとでもいうか。若いころ、私はこのような演奏はあまり好まず、もっとロマンティックで官能的で、どっぷりと感情に浸り、形而上学的な気分にうっとりするのが好きだったが、今はこのように知的でスマートな音楽のほうが好きだ。むしろ、無駄のないワーグナーの音楽が聞こえてくる気がした。

 まったく演出も映像も入らない純粋な演奏会形式だった。意味不明の読み替え演出に頭を使わなくて済むのはありがたい。音楽をじっくり味わえる。オーケストラが見えるのもうれしい。ワーグナーのオーケストレーションの巧みさも目で確かめることができる。

 歌手陣も高いレベルでそろっていた。ローエングリンのヴィンセント・ヴォルフシュタイナーは外見こそローエングリンらしくないが、声を出すと、高貴で若々しく、清潔な歌いっぷり。エルザのヨハンニ・フォン・オオストラムも清純な声でこの役にふさわしい。このオペラではしばしば主役二人は悪漢二人に食われてしまうが、そのようなことはなく、十分に主役の力を発揮していた。

 テルラムントはエギルス・シリンス。さすがの歌唱。気性の激しい妻に振り回されるプライドの高い男を見事に歌う。オルトルートは、エレーナ・ツィトコーワが歌う予定だったが、本人の都合で来日できない(ロシア人なので、もしかしたら、ウクライナ侵攻と関係があるのか?)ということで、アンナ・マリア・キウリに変更になった。ツィトコーワを聴けないのはとても残念だったが、キウリも迫力のある声で、この役をしっかりと歌っていた。

 ハインリヒ王はタレク・ナズミ。まだ若い歌手だと思うが、見事なバスの声で、申し分なかった。きっとこれからどんどんと重要な役を任せられるようになるだろう。伝令のリヴュー・ホレンダーも文句なし。全員が音程の良い美声で安心して聴いていられた。

 しばしば感動の震えが全身を走った。ワーグナーは本当に素晴らしい。久しぶりにワーグナーの実演を聴けて幸せだった。

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