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ルイージ&メルニコフ&N響 良い演奏だが、私の好みではなかった

 2022年5月21日、東京芸術劇場でNHK定期演奏会を聴いた。指揮は次期首席指揮者を務めるファビオ・ルイージ。曲目は、モーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」序曲と、アレクサンドル・メルニコフが加わってモーツァルトのピアノ協奏曲第20番、最後にベートーヴェンの交響曲第8番。

「ドン・ジョヴァンニ」序曲は、明確にまとまった名演奏だと思った。N響も美しい音を出している。短調のざわざわする雰囲気もとても見事。旋律もとても美しく流れる。さすがだと思った。

 2曲目のコンチェルトでは、メルニコフのピアノが繊細で抒情的。優しく、静かに、美しく。触ると壊れるものを大事に大事に扱うように丁寧に音楽を作っていく。静謐に、まさに沈黙の中に音を点描するよう。それはそれで素晴らしい演奏なのだが、私はちょっと退屈した。ずっとこのような調子だとスケールが小さくなり、せせこましくなってしまう。私はあまり繊細でこまごました人間ではないので、ずっとこれではやりきれない。ファビオ・ルイージのオーケストラも、初めのうちは自分のペースで演奏しているように見えたが、徐々にメルニコフに合わせていくように思えた。

 メルニコフがアンコール曲を弾いたが、曲名はわからない。ちょっとユーモラスな小曲だった。プロコフィエフっぽい。

 休憩なしでベートーヴェンの交響曲に入った。

 第8番は、ファビオ・ルイージが得意とする曲なのではないかと勝手に思っていた。きりりと引き締まって、大きくしすぎずに溌溂として深みのある音楽を作ってくれると思っていた。が、私の期待していたほどには、ぴしりと決まらなかった。

 ルイージらしい、引き締まった繊細な音で緊張感にあふれた演奏で、もちろん、とてもいいのだが、もしかしたら、まだN響が十分にマエストロのタクトについていけていないのではないか。びしりと決まらない。第3楽章ではかなりテンポをいじっていたが、私の耳にはそれも不発に聞こえた。もちろん、悪い演奏ではないのだが、私としてはもっと感動させてもらえると期待していたのだった、

 そんなわけで、よい演奏だったが、ちょっと私の好みとは異なっていた。

 

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METライブビューイング「ドン・カルロス」 フランス語版の凄味を感じた

 METライブビューイング「ドン・カルロス」(フランス語5幕版)をみた。休憩時間を加えて、5時間近かった。素晴らしい上演だった。改めてこのオペラの凄さを思い知った。

 私は、このフランス語によるオリジナルの5幕版が大好きだ。4幕版では第一幕のフォンテヌブローの森の部分がカットされるわけだが、その部分があってこそドン・カルロスとエリザベートのなれそめがわかり、二人に感情移入ができる。そして、やはりフランス語の響きがこのオペラには合っている。イタリア語で直球で歌われると、この屈折して内省的なオペラの雰囲気が壊れる。フランス語でこそ、深みが出る。一人一人の心の奥がじわじわと伝わってくる。今回のような、最高のスタッフ・キャストがそろった名演をみると、ますますフランス語版の凄味を感じる。

 まず歌手陣が最高度にそろっている。ドン・カルロスのマシュー・ポレンザーニがまさに自在な歌いっぷりで心揺れる王子を見事に歌っている。エリザベートのソニア・ヨンチェヴァも美しい声で清純な王妃を歌う。ただ、もう少し演技にも力を入れてくれると嬉しかったとは思った。エボリ公女のジェイミー・バートンも豊かな声による圧倒的迫力の歌を聴かせてくれた。エリーナ・ガランチャの代役だったが、確かに「美貌」という設定を考えると、ガランチャのほうがふさわしく思えたが、聞き終えた後では、バートンに代わったことでこれだけの歌を聴けたことに満足。これまであまり注目してこなかったが、すごい歌手だ。

 フィリップ2世のエリック・オーウェンズももちろん良かった。ただ、フランス語の発音については、ほかの歌手たちが完璧に思えるのに対して、ちょっと訛りが強かったように思った。

 そして、ロドリーグのエティエンヌ・デュピュイもこの役にふさわしい高貴で男気のある歌いっぷり。しっかりとした延びる声が素晴らしい。そして、大審問官のジョン・レリエの太い強い声と狂信的な歌いっぷりと演技も圧倒的。宗教の名を借りた残虐な暴力の正当化をみごとにみせてくれた。

 そしてもう一人、私は小姓役の東洋人女性にも魅力を覚えた。顔だちも動きも可憐だし、声も美しい。名前を確認しようと思っていたが、忘れてしまった。日本人だったらうれしいなと思ったが、韓国人、あるいは中国人なのだろうか。

 ヤニック・ネゼ=セガンが体調不良で指揮をとりやめ、若いパトリック・フラーがタクトをとった。まったく無名の人だと思うが、聞こえてくる音楽はドラマティックで音が生き生きとしている。素晴らしかった。黙って聴かされていたら、私にはネゼ=セガンとの違いは感じられなかっただろう。もしかしたら、ものすごい才能の持ち主ではないか。

 第二幕の、ロドリーグが国王にフランドル抑圧をやめさせようと必死に説得する場面は、だれもがロシアによるウクライナ侵略を思い浮かべただろう。演奏者たちもそれを意識したのか、二人の歌手も、そして指揮も、とても説得力のある音楽になっていた。

 演出はデイヴィッド・マクヴィカー。まさに抑圧的な状況を作り出し、しかも舞台全体が美術品としても美しい。最後の場面で、通常は墓場からシャルル・カンが現れるのだが、今回の演出ではロドリーグが現れて、ドン・カルロスを抱擁してともに倒れる。超自然的な終末ではなく、平和な社会への希望を示すと同時に、同性愛を暗示して終わりにしたといえるだろう。少数者を抑圧するのでなく、他の価値観を許容する社会への希望という意味では、同性愛を暗示したことは矛盾しない。

 いやあ、「ドン・カルロス」はワーグナーに匹敵するなあ……とつくづく思った。現在にも通用する重みのあるテーマが語られ、登場人物一人一人に人生の重みがあり、音楽が完璧なまでに精緻。間違いなくヴェルディの最高傑作だと思う。

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映画「寝ても覚めても」「ハナレイ・ベイ」

 村上春樹がらみで、日本映画を2本みた。感想を記す。

「寝ても覚めても」 2019年 濱口竜介監督

「ドライブ・マイ・カー」がとてもよかったので、同じ監督の前作をみてみた。これもとてもいい映画だった。

 朝子(唐田えりか)は、麦(東出昌大)と運命的な出会いをして、交際していたが、放浪癖のある麦は突然、行方をくらます。その数年後、朝子の前に麦とそっくりの亮平(東出の二役)が現れる。ためらいながら、心優しく、コミュニケーション力のある亮平との愛を深めて結婚にまでこぎつけるが、そこに芸能界にデビューして注目され始めた麦が朝子のもとにもどってくる。一旦、朝子は麦を選ぶが、亮平の元に戻る。

 それだけの話だが、友人たちとの交流、東日本大震災の余波、かつての友の難病といった日常の様々な出来事を絡めて、若者の心情が共感を持って描かれていて、社会と個人のかかわり、個人の生きる道についてじっくり考えたい気持ちを促される。

 ただ、どのくらい監督の意図に基づいているのかわからないが、非日常の放浪者である麦と日常的な良き市民である亮平の対比が、ぼやけている。それがもっと鮮明でないと、映画全体の構図が曖昧になると思うのだが。東出の演技力不足のせいでそうなっているのだろうか。友人役の伊藤沙莉がとても魅力的。

 芸能ゴシップに疎い私は、この映画を見終わったあとで、この映画で主役を務めた二人が不倫問題を引き起こしたことを知った。あまり演技力のある二人というわけではなさそうだが、もし、そのようなことでこの二人がこれから先、芸能界で活動できなくなるとすれば、もったいないと思った。

 

「ハナレイ・ベイ」 松永大司監督

 村上春樹の短編に基づく映画。それなりには楽しめたが、濱口監督の「ドライブ・マイ・カー」の深みからは程遠い。しかも、かつて原作を読んでいたが、記憶にない場面があるので読み返してみたら、私には改悪ではないかと思われるところがたくさんあった。

 原作と映画の最も大きな違いは、ハワイのハナレイ・ベイにやってきた二人の日本人サーファーの役割だ。原作では、二人の名前は明かされず、サチの亡くなった息子と同じようにかなり軽薄で、しかもサチの息子がこのハナレイ・ベイでサメの襲われて死んだことを最後まで知らないことになっている。

 ところが映画では、少なくとも二人のうちの一人(村上虹郎)は実は英語を話すことができ、それなりにしっかりしており、サチ(吉田羊。ちょっと美人すぎるなあ!)の息子(佐野玲於)の事故死を人に聞いて知り、サチに絡んだアメリカ人を懲らしめることになっている。しかも、原作では、サチの息子の名前は、ハワイのホテル従業員からテカシという日本人としてはかなり珍しい名前で示されているだけなのだが、映画では「タカシ」となっており、日本人サーファーの名前は「高橋」(タカシとタカハシは、もちろん1文字増えているだけの違い)とされている。

 二つ目の違いは、息子の手形が映画では重要な意味を持っていることだ。ハワイの警察官の女性が、息子の手形をとっており、それをサチに繰り返し渡そうとする。サチは拒否するが、最後には受け取って、改めて息子の手形をみて悲しみにふける場面がある。

 もう一つ。映画の中で、マルティーニ作曲のシャンソン「愛の喜び」がピアノ独奏や歌入りで、拍子を変えるなどして繰り返し流される。原作では、サチはジャズピアニストであって、楽譜を読めないまま自由にピアノを操ることになっているが、映画では、ピアノ演奏は自由というにはほど遠く、かなりぎこちない。「愛の喜び」の歌詞は、「愛の喜びはつかの間だが、愛の悲しみは永遠に続く」。愛の苦しみ特に失恋を歌う曲だ。

 これらの原作と映画の違いから導き出されるこの映画のテーマは、「ハワイで息子を亡くして途方に暮れていたサチは、日本からやってきたサーファー高橋の中に、息子の姿を見る。そうするうちに、ろくでもないと思っていた息子も実はしっかりしていたことに気づき、悲しみを新たにする。息子の父親、そして息子に対しての愛はつかの間であったが、それを亡くした悲しみは永遠に続く」ということになりそうだ。

 やはり、この捉え方はかなり一面的だと思う。息子を理解できないまま亡くしてしまった無念、死後になって息子を理解しようする足搔き、ほかのサーファーには死んだ息子の亡霊が見えているらしいのに自分には見えないという絶望。その絶望の中で日々生きていくという人間の営み。それがハワイの海辺で展開されるのがこの原作だと私は思うのだが、そのような雰囲気が一面的なテーマによって薄れていると思う。

 このような映画の雰囲気のまま、ストーリーを妙にいじらずに、原作通りにしていれば、もっとずっと深い映画になったのに・・・と思った。

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バーエワ&ヤノフスキ&N響 苦手な曲に感動!

 2022514日、東京芸術劇場でNHK交響楽団の定期演奏会を聴いた。指揮はマレク・ヤノフスキ。曲目は前半にヴァイオリンのアリョーナ・バーエワが加わってシューマンのヴァイオリン協奏曲、後半にシューベルトの交響曲第8番ハ長調「ザ・グレート」。

 実は、2曲とも私の苦手な曲。だが、バーエワもヤノフスキも大好きなので、どんな演奏を聴かせてくれるかを楽しみにして出かけた。思った以上に楽しめた。

 私はシューマンのヴァイオリン協奏曲はあまりに執拗な繰り返しにウンザリする。この曲を聴くたびに、やはりシューマンは精神を病んでいた!と強く思ってきた。ところが、驚くべきことに、バーエワの演奏を聴くと、まったくそのようなことを感じない。メロディがとても内省的でロマンティック。しかも、繰り返されるたびにニュアンスが異なる。シューマンの、そしてバーエワ自身の心の襞の一つ一つが繊細に描かれるかのよう。しなやかで詩的で、ちょっと感傷的。だが、知的に構築されているので、形は崩れない。素晴らしいヴァイオリンだと思った。ぐいぐいと心の迫る演奏だった。

 バーエワは出身国付近での戦争に心を痛めていること、平和のために演奏したい…といったことを英語で話した(聞き取りやすい英語だったので、その程度はわかった)後、ヴァイオリンのアンコールとしてバッハの無伴奏曲を演奏。たぶんソナタの第二番のアンダンテ・・・。これも真摯な美しい演奏。

 シューベルトの「ザ・グレート」のほうは、これまで、私はきれいな歌が継ぎ足されて次々と続くだけでメリハリのないとてつもなく長い曲だと思って敬遠してきたのだった。昔レコードの時代には繰り返し聴いて理解しようと努力したが、CDの時代になってからは数えるほどしか聴いていないし、実演もほんの数回聴いた程度だと思う。だから、偉そうなことは何も言えない。

 しかし、ヤノフスキの演奏を聴いて、しっかりと構築的であり、メリハリがあり、ロマンティックな盛り上がりのある曲だと感じた。素晴らしい演奏! 初めて、この曲を聴いて感動した。もしかしたら、ものすごい名演では?

 大袈裟な思い入れなく、推進力のある音で音楽が展開されていく。シューベルトという多感な青年の心の旅がロードムービーのようにたどれる。張りのある強い音でロマンティックな思いが語られる。N響の音もとても美しい。時にベートーヴェンのような強い音になりながらも、内省に戻っていくところがいかにもシューベルトらしい。ヤノフスキはそうした心の揺らぎなども深い音楽にしていく。

 大変満足なコンサートだった。

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Youtube出演のこと、そしてオペラ映像「パルジファル」「シベリア」

 先ごろ、縁あって、春風亭昇吉師匠のYouTubeに出演させていただいた。昇吉師匠は東大出身の落語家・真打として有名な方だ。拙著『「嫌い」の感情が人を成長させる』(さくら舎)についてお話しさせていただいた。つまらぬことを言ってしまったり、大事なことを思い出さなかったりと、あれこれ不備はあるが、私のしゃべりはこんなもの。拙著について思いを語っているので、よろしかったらご覧になっていただきたい。昇吉師匠の知性と話術も堪能できるだろう。

https://www.youtube.com/watch?v=tjUH2kP8t6Q

 

 オペラ映像を2本みたので、感想を記す。

 

ワーグナー 「パルジファル」2020126日 パレルモ、マッシモ劇場

 2020年の上演だが、客は入っているようだ。シチリア島のパレルモの歌劇場での「パルジファル」だというので、あまり期待しないでみたのだったが、悪くない。いや、とてもいい。

 歌手陣は、バイロイト常連というような有名歌手たちではないが、十分に世界最高レベルと言って間違いないだろう。特に素晴らしいのは、グルネマンツを歌うジョン・レリエ。ゆとりのある深い声で、この役にふさわしい。アンフォルタスのトマス・トマソンも、強い声で能弁に歌う。なかなかいい。クリングゾルのトーマス・ガゼリも複雑な役をうまく造形して、声もしっかりしている。

 クンドリのキャサリン・フーノルトもこの二重性のある役をきちんとこなしている。パルジファルはダニエル・キルヒ。悪くはないのだが、ちょっと声がかすれるところがある。ただ信じられないほど声が出ていないのが、ティトゥレルのアレクセイ・タノヴィツキ。ほんの少ししか歌わないので、気にしなければいいのだが、アンフォルタスの父親という大事な役がこれほど音程がふらつき、声が出ていないのでは興ざめだ。風邪でもひいていたのだろうか。ただ、この歌手、前にも同じような印象を抱いたことがあった気がする。

 指揮はオメール・メイア・ヴェルバー。初めてこの指揮者の演奏を聴いたと思う。イスラエル出身だという。中東系の顔立ちに見える。精緻でしなやかに音を出すが、私としてはもっとワーグナーらしいスケールの大きなうねりがほしい。意図的なのかもしれないが、重心が高めの、ちょっと軽くてしなやかなワーグナーになっていており、50年以上前、クナッパーツブッシュのレコードでこの「舞台神聖祝典劇」を繰り返し聴いた人間としては、実はかなり違和感を覚える。それに、少し一本調子でちょっと退屈してしまう。もちろん、好みによるだろうが。

 演出はグラハム・ヴィック。舞台は現代に移されている。聖盃の騎士たちは中東に滞在する欧米の兵士のような軍服姿で銃を持っている。キリスト教の聖地を守るために軍隊で守っているということだろう。アンフォルタスはまるで磔にされたイエス・キリストのような上半身裸で茨の冠を付けた姿で現れる。クンドリは黒で体中を覆ったブルカ姿で現れ、クンドリの登場場面ではマグダラのマリアの図像が示される。クリングゾールはアンフォルタスと同じような上半身裸の下着姿で現れ、去勢されていることを示すためだろう、その下着には血がこびりついている。舞台の背景で殺戮や強姦、略奪などの戦争犯罪行為が影絵で示される。クンドリが聖槍について語るとき、パルジファルの下腹部を触る。どうやら聖槍はペニスの隠喩として描かれているようだ。

 演出について整理すると、つまり、こういうことだろう。キリスト教徒たちも異教徒たちも聖槍(強いペニス、そして「征服」「権力」「武器」を象徴するのだろう)を奪おうとして残虐な行為を繰り返している。アンフォルタスは聖槍によって傷を受け、イエス・キリストのように人類の苦しみを知る存在になっているが、苦しむばかりでむしろ世界の戦いは激化している。敵対するクリングゾールは、奪われた権力を取り戻そうとして聖槍を使おうとしている。そこに無垢で純粋なパルジファルが現れ、争いのもとであった聖槍を取り上げ、聖化する。そして、キリスト教と異教の対立はやめ、人間の苦しみを知ったマグダラのマリアのようなクンドリとともに様々な民族の子どもたちが楽しく生きていくことのできる世界平和を打ち立てようとする。

 ちょっとわざとらしいが、現代の読み替え演出の中では、まあ私としてはぎりぎり許容範囲内。

 

ジョルダーノ 「シベリア」 20217月 フィレンツェ五月音楽祭歌劇場

 たぶん無観客なのだと思う。観客は一度も映されない。合唱団は全員マスク着用。

 このオペラの存在を初めて知った。1903年初校、1927年に改訂だとのこと。正直言って、あまりおもしろいオペラだとは思わなかった。

 舞台は、たぶん帝政ロシア時代のサンクト・ペテルブルク。高級娼婦(?)のステファナはヴァシリと愛し合うようになるが、ヴァシリはステファナの恋人である王子に侮辱されて王子を殺してしまう。逮捕されて、シベリア送りになるが、ステファナもそこについていく。ステファナはシベリアからヴァシリとともに逃げ出そうとして銃で撃たれて、ヴァシリに抱かれて死ぬ。

 かなり甘ったるいメロドラマだと思う。あまり印象に残る歌もなく、ドラマ的な盛り上がりもあまり感じなかった。イタリア人がトルストイなどの影響を受けて、シベリア送りの悲劇を描いてみようとして、結局、安易な物語を作ってしまった・・・そんな印象を受ける。

 ステファナのソーニャ・ヨンチェヴァは圧倒的。色気があり、声のドラマがある。ヴァシリのゲオルギー・ストゥルアは力演だが、声に輝きがない。グレビのジョルジュ・ペテアンらの脇役はとても充実している。

 指揮はジャナンドレア・ノセダ。要所を抑えた指揮ぶりに思える。演出はロベルト・アンド。映画的でわかりやすいが、黙役の映画クルーが舞台上に登場し、登場人物を撮影している(東京オリンピックの開会式を思い出した)。オペラの最後で、完成した映画が上演される様子が示される。これにどんな意味があるのか、よくわからなかった。もしかしたら、あまりに映画のメロドラマ的なので、それを緩和するためにあえてこのようにしたのだろうか。

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ヤノフスキ&N響 「運命」 感動で身体が震えた

 202258日、オーチャードホールでNHK交響楽団オーチャード定期を聴いた。指揮はマレク・ヤノフスキ。曲目は、すべてベートーヴェン。前半に「エグモント」序曲と交響曲 第1番 、後半に第5番 「運命」。

 ヤノフスキらしい、びしりと決まった音。「エグモント」序曲も、引き締まった音でドラマティックに展開されていく。N響の音程がいつも以上によいと思うのだが、それはヤノフスキの指示のせいなのだろうか。まったく無駄がなく、誇張もない。それでいながら、最後には最高度に高揚する。

 交響曲第1番も同じような演奏。ハイドンの延長線上にあることがとてもよくわかる曲だが、演奏も、そのような雰囲気。のちのベートーヴェンらしさを強調するのでなく、誇張なく明確に演奏された。とても良い演奏だとは思ったが、やはり、あまりおもしろい曲ではないなあ・・・というのが正直な感想。

 第5番(運命)は、素晴らしかった。小気味よいほどに音と音が見事に重なり合い、ぐんぐんと推進されていく。まったく停滞しない。N響メンバーもさすがと言うべきか、機敏に反応していく。ヤノフスキの指揮ぶりに慣れてきたということなのかもしれない。第3楽章の終わりの部分の弦のピチカートのあたりから第4楽章に移る部分の緊張感はすさまじかった。第4楽章の高揚も素晴らしい。ほかの指揮者だと、あまりにしつこくてもたれ気味になることの多い第4楽章後半が、ヤノフスキの手にかかると、ぐいぐいと高揚されていって、まったくもたれない。感動した。身体が感動で震えた。

 ただ、最後の部分でピッコロが聞きなれているのとはちょっと違う音を出している気がした。気のせいだっただろうか。帰ってスコアを探したが、音楽的才能の皆無な私は、記憶が薄れてしまって、確かめられなかった。

 アンコールはベートーヴェンの交響曲第8番第2楽章。高揚した「運命」をクールダウンするかのように、静かに、冷静に。しかし、端正で繊細で芯の強い音でありながら、軽みさえある。至高の音楽だと思った。これにも感動した。

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映画「花咲くころ」「ノマドランド」「友だちのうちはどこ?」「異端の鳥」

 DVDを購入して映画を4本みた。いずれもとても良い映画だった。感想を記す。

 

「花咲くころ」 2013年 ナナ・エフクティミシュヴィリ、ジモン・グロス監督

 ジョージア映画。1992年、ソ連崩壊後の内戦時代を舞台にして、14歳の少女エカとその親友ナティアの暮らしを描く。かなり衝撃的な秀作だと思う。

 内戦の影響だろう、トビリシの少年少女の世界にも暴力がはびこっている。銃が日常的に手に入り、人々がナイフを振り回す。人々の生活は貧しく、パンの配給を求める市民は殺気立っている。そんな中、エカは父親が刑務所に入っているために屈折した日々を送っている。ナティアは飲んだくれの父親と心の離れた家族に苦しんでいる。ある時、二人はピストルを手に入れる。ナティアはほぼ暴力的に乱暴な男に連れ去られてその男と結婚することになるが、すぐに夫の本性が明らかになり、別れたいと思い始める。しかも、夫はナティアがかつて心を寄せていた青年ラドを嫉妬のあまりナイフで殺してしまう。ナティアはピストルで夫を殺そうとするが、エカはピストルを奪って池に捨てる。

 前半、実をいうと、顔の認識能力に難のある私は、そもそもエカとナティアの区別がつかずに困った。しかも、二人に家族や友人がいるものだから、ますますわけがわからない。二つの家族がごっちゃになって、途中でDVDをはじめから見直した。が、後半はぐいぐいとドラマに引き込まれた。

 内戦間の少女たちの心を通して、まさしく時代のあり方、人間のあり方を鋭く描いている。殺伐とし、様々なところで分断の起こる社会。その中でも、人と人の信頼を求め、家族愛や友情を得ようとする人々。初々しい心を持ちながら、時代に翻弄されていく若者たち。

 新郎と幸せに結ばれたとは言えないナティアの結婚式で、エカは納得できない気持ちを抱えたまま無表情なまま踊りを披露する場面は素晴らしかった。

 

「ノマドランド」 2021年 クロエ・ジャオ監督

 昨年のアカデミー賞受賞作品。封切当時から見たいと思っていたが、DVDを購入して視聴。よい映画だと思った。

 企業の倒産のために家を追われ、夫を失った中年女性ファーン(フランシス・マクドーマンド)が車上生活をし、季節労働者として働きながら旅をする様子を描くロードムービー。何らかの暗い過去を持ち、家を捨てて車で生活をするノマドが描かれる。それだけの話だが、悲しい気持ちを抱き、様々な苦難に合いながらもできるだけ自由に生きていこうとする人たちへの共感、そしてまさに弱い人間への共感が映像全体に現れていて、静かに感動できる。

 旅の先々の自然の風景も美しい。出会う人たちの漏れてくる人生の断片も身につまされる。そして、主役のマクドーマンドをはじめとする俳優たちの自然な演技にも脱帽。

 

「友だちのうちはどこ?」 1987年 アッバス・キアロスタミ監督

 アッバス・キアロスタミ監督の傑作として知られている映画だ。

 イラン北部の小さな村。小学生のアハマッドは同級生のノートを間違えて持って帰ってしまう。先生は厳しくて、ノートに宿題を書いてこなかったら同級生は退学になると宣告している。アハマッドは自宅に帰って、間違えたノートに気づき、友だちの家を探してノートを渡そうとするが、家族はアハマッドに次々と仕事を言い渡し、探しに行ってからも大人たちはアハマッドの話をきちんと聞いてくれない。あちこちを訪ね歩くが、夜になっても結局、友だちの家は見つからず、仕方なしに友だちのノートにアハマッドが宿題を書いて、翌日、友だちに渡す。

 それだけの話なのだが、確かにとてもよくできている。子どもの純粋な気持ち、親たちの理不尽な指示、一方的に他者に厳しさを教え、言いつけに従わせようとする社会が浮き彫りになり、それでも貧しく真面目に生きていこうとする人々の姿が浮き彫りになる。映像も美しく、子どもたちの演技もけなげでかわいくて、素晴らしい。

 ただ、「桜桃の味」「オリーブの林をぬけて」「トスカーナの贋作」「ライク・サムワン・イン・ラブ」「風が吹くまま」などのこの監督の映画をみたが、どうも私はあまりおもしろいと思わない。この「友だちのうちはどこ?」も、意図はわかるものの、少々退屈に思ってしまう。そもそも私はこう見えてかなりせっかちなので、次々と邪魔が入って子どものしたいことができずにいる様子を丹念に描かれると、それだけでイライラする。一言でいえば、とてもよくできた映画だが、私の好きな映画ではなかった。

 

「異端の鳥」 2018年 ヴァーツラフ・マルホウル監督

 封切時、ぜひみたいと思いながら時間が合わなかった。DVDを購入して鑑賞。これは凄い映画!

 まず何をおいても最初に言わなければならないのは、この圧倒的な白黒の映像美。最初から最後まで、完璧にコントロールされた映像美の世界が展開される。日常的な意味で、どれほど不潔で薄汚れた場面を描いても、詩的世界になっている。そうすることによって、第二次世界大戦の舞台となった東欧の田舎町の現実が一つの神話世界になる。

 それにしても、あまりに残酷で理不尽な社会だ。主人公の少年は、どうやらユダヤ人らしい。ホロコーストを逃れるために、家族から離れて一人、知り合いの女性の家にかくまわれていたが、その女性が突然、病死。一人であちこちをさまようことになる。見るからにユダヤ人らしい風貌なのだろう。どこに行っても除け者にされ、差別され、迫害され、奴隷のように扱われる。少年自身も残酷な目に合わされるが、先々で出会う人々の多くが理不尽な目に合っている。それをほとんど説明のない映像で、台詞もなく、ただ静かに克明に描かれる。

 ドイツ軍、ソ連軍、コサック兵らが互いに戦い、また村人を痛めつけ、村人同士もいがみ合い、最終的に主人公の少年がすべてに痛めつけられる。中には、少年を助ける大人もいるが、それは長続きしない。最期には父親と再会して引き取られるが、暗い表情のままでハッピーエンドの雰囲気はない。

 

 原題は「ペインテッド・バード」。色を塗られた鳥。つまり、色が違うために同種の鳥からも攻撃されてしまう除け者の鳥。映画では、複数のスラヴ系の言語を抽出して作った人工言語が用いられているという。そうすることで、東欧のどの国が舞台なのかわからなくしたということだが、そのために、いっそう神話的になっている。

 現在、ウクライナでのロシアの兵士による残虐な行為が報道されている。この映画で語られているのは、70数年前に終わったことではない。現在なお、このような残虐な行為が兵士によって、そして一部の市民によって行われているだろう。まさにこの映画は、人間の持つ残虐性、暴力性を神話として真正面から描いているといえるだろう。

 原作はコシンスキという作家の小説だという。まったく知らない作家だが、読んでみたいと思って注文した。

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映画「メイド・イン・バングラデシュ」 まっすぐな映画!

 岩波ホールで、バングラデシュの女性の奮闘を描く映画「メイド・イン・バングラデシュ」をみた。監督はルバイヤット・ホセイン。

 繊維縫製工場で働く若い女性シンは、あまりに悲惨で不当な労働状況に疑問を抱き、様々な妨害や無理解をはねのけて労働組合を作る。それだけの話。

 予告編を見て、これまで何度も見てきた女工哀史もの、組合ものに思えて、きっとつまらないだろうと思ったが、ネットでみると評価が高いので、ともあれ、みてみた。岩波ホールとしては、近年、稀に見るほどの大勢の観客だった。で、結局、映画はどうだったかと言うと、やはりつまらなかった。

 これまでみてきたこのタイプの映画とさほど変わりがない。まあ、要するに、資本家の側はみんなが権力的な悪い奴ら。資本家側は権力と結託して、労働組合結成を妨害し、男たちも、そして男社会を当然として生きている女性たちも、シンの活動の足を引っ張る。が、策略を用いて、組合結成を勝ち取る。ただ、その策略がおもしろいかと言うと、それもあまりに安易。

 ただ、現在、日本でこのようなものを作るとすれば、きっと喜劇的要素を増やしたり、大胆な策略を呼びものにするなど、もっとひねった展開にするだろうところを、まっすぐに表現しているところはある意味、新鮮だと思った。逆にいえば、バングラデシュはまっすぐにこれを描かなければならないほどに深刻な社会だということだろう。

 日本の衣料は、間違いなく、このような途上国の女性たちの安い賃金での奴隷的な労働によって成り立っている。私たちが、安く様々なものを入手できるのは、このような奴隷的な労働のおかげだということを、認識せざるを得ない。

 あまり面白い映画だとは思わなかったが、ダッカの状況を見られたことはとてもうれしい。30年近く前だったと思う。カメラマンだった伯父が仕事でバングラデシュをしばらく訪れたことがある。その印象を聞いたら、叔父は即座に、「この世の地獄だった」といった。

 この映画をみる限り、現在のバングラデシュは「地獄」ではなさそうだが、かなり深刻な社会であることは、インフラの状況などからも想像がつく。何はともあれ、コロナが終息したら、バングラデシュにも行ってみたいものだと思った。

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オペラ映像「イェヌーファ」「炎の天使」「魔弾の射手」

 2022年ゴールデンウィーク。久しぶりにコロナの制限のないGWだが、私としては外に浮かれていられる状況ではない。ウクライナ情勢に怯え、コロナの状況を憂い、知床半島の観光船事故の社長に憤激を覚えつつ、自宅で軽い仕事をしたり、映画をみたりして過ごしている。

 オペラ映像を数本みたので感想を記す。

 

ヤナーチェク 「イェヌーファ」20212月 ベルリン国立歌劇場

 無観客公演。大好きなオペラだし、好きな演奏家たちなのでとても期待していたのだが、実は少々期待外れだった。

 おそらく意図的だと思うが、演奏も演出も徹底的にローカル色を廃している。最初に聞こえてくる音からしてまさにインターナショナルであって、チェコの、と言うか、ヤナーチェク特有のイントネーションをまったく感じない。どういう理由でそのような感じがするのか、素人の私にはよくわからないのだが、ともかく、サイモン・ラトルの指揮からモラヴィア地方の片田舎の音が聞こえない。ヤナーチェクの音も聞こえない。

 ダミアーノ・ミキエレットの演出も、最初から最後まで、舞台を無機的なすりガラス状の衝立で囲んでいて、そこにはモラヴィアの自然も田舎の風俗もない。登場人物の服装もおそらく1980年前後のもの。氷が繰り返し強調されて舞台上に何度か現れるが、そのためにいっそう無機質な雰囲気が広がっている。

 これでは私の好きなヤナーチェクにならない。私の好きなヤナーチェクは、片田舎の理不尽な因習にしがみついたり、それに抗ったりしながら、すっきりした論理の通用しない世界でそれぞれ依怙地な世界観を持って生きている人たちの魂の叫びの物語だ。まさにローカルな人々の生。ところが、ラトルとミエキレットのこの舞台は、むしろローカル色の捨象された冷徹な世界になっている。これだとヤナーチェクの最大の魅力が殺されてしまうと思うのだが・・・。

 歌手陣はワーグナーなどを歌う大歌手たち。イェヌーファは今やドイツ、東欧系のオペラの最大のソプラノといえるカミラ・ニールンド、ラツァは現在最高のヘルデンテノールと言うべきステュアート・スケルトン、そして、コステルニチカは最高のブリュンヒルデの一人だったエヴェリン・ヘルリツィウス。まさに圧倒的な大豪華メンバーによる見事な歌。ただ、やはりこの歌手たちも、無機質に聞こえて、私の心には響いてこない。

 ラツァが巨漢であるのはこれまでの演出からすると異様な感じがするが、現代の西洋社会で、どうやら恵まれない人であればあるだけ肥満しているといえそうなので、それはそれでリアルだといえるだろう。

 

プロコフィエフ 「炎の天使」20213月 アン・デア・ウィーン劇場

 無観客公演。演奏的には、あまり突出はしていないと思うが、よくまとまった良い演奏だと思った。レナータのアウシュリネ・ストゥンディーテ、ルプレヒトのボー・スコウフスはいずれも演技も含めて、なかなかの力演。コンスタンティン・トリンクスの指揮するウィーン放送交響楽団も切れの良い鋭利な音を出して、とてもいい。

 ただどうも私はアンドレア・ブレートの演出が煩わしくて仕方がなかった。狂気の世界を描くオペラなので、これまでみたこのオペラの演出も、台詞には現れない様々な人間や小道具を出して怪奇的、狂気的な雰囲気を出していたが、今回の演出はそれがあまりに甚だしい。精神病院の奇態な仕草をする人々がどの場面にも登場し、あちこちで意味ありげな奇怪な行動をとる。そうなると、私のような人間は音楽に集中できなくなる。オペラ全体の印象も散漫になる。演出意図も伝わらなくなる。私はそもそもこのオペラにあまり精通していないので、結局何のことやらさっぱりわからずに終わってしまった。

 なお、プロコフィエフはウクライナ生まれのロシア人とのこと。今回のロシアによるウクライナ侵攻に対してどのような立場をとるタイプの人だったのか、実は良く知らない。

 このオペラについても、そしてプロコフィエフという作曲家についても、そのうちもっと深く知りたいと思った。

 

ウェーバー 「魔弾の射手」 20186月 ウィーン国立歌劇場

 発売されたばかりだと思うが、コロナ前の映像。ちゃんと観客が入っている。

 まず、クリスティアン・レートによる演出について、私はとんでもないと思う。本来なら、マックスは猟師であって、スランプに陥ったために悪魔と取引して射撃大会に優勝しようとする話なのだが、この演出ではマックスは作曲家という設定。スランプに陥ったためにインスピレーションを得るために悪魔と取引しようとする話になっている。

 こうなると、あれこれ無理が出てくる。そもそもこのオペラは森の中の話であって、そのような雰囲気に魅力があるはずなのだが、それが成り立たない。結局、お笑い「魔弾の射手」のようになってしまった。演出家がこのようなバカげたことを思いついたにしても、誰か止めなかったのだろうか。

 演奏も私はあまりおもしろいと思わなかった。トマーシュ・ネトピルの指揮があまりに緩慢。繊細に演奏しようとしているのかもしれないが、勢いがなく、無駄が多い気がする。演出も、おどろおどろしくしているが、何しろトンデモ設定なので、失笑しかわかない。

 アガーテを歌うカミッラ・ニールンドはさすが。美しい張りのある声。しかし、マックスのアンドレアス・シャーガーもエンヒェンのダニエラ・ファリーも、もっといい歌手のはずなのに声が伸びていない。

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