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秋山&都響のブラームス1番 オーソドックスだが、新鮮!

 2022729日、東京文化会館で「傑出のブラームス」を聴いた。演奏は、東京都交響楽団、指揮は秋山和慶。前半にヴァイオリンの成田達輝とチェロの笹沼樹が加わってブラームスの二重協奏曲、後半にブラームスの交響曲第1番。

 二重協奏曲は指揮もソリストもとてもよかった。秋山の指揮は、びしりと音楽が決まる。きわめてオーソドックスだが、音楽が生きているので、まったく古さを感じず、むしろ新鮮さを感じる。ソリストも息があって、絶妙に二つの楽器が補い合っている。ただ、曲の弱さによるともいえるが、爆発力の弱さを感じた。あと少し、最終楽章で高揚感が欲しかった。ちょっと地味なままで終わってしまった気がした。

 ヴァイオリンとチェロのアンコールが演奏された。知らない曲だったが、あとでヘンデルの主題に基づくヨハン・ハルヴォルセンの「パッサカリア」と知った。二人の掛け合いが見事。とてもおもしろい曲だと思った。

 後半の交響曲第1番は最高度に盛り上がった。こちらもきわめてオーソドックス。しかし、まさにいぶし銀の演奏だと思う。すべての音がみごとにコントロールされており、ずしりと響く。スケールが大きく、音楽の進展が理にかなっている。奇異なことは何一つない。進むべき様に音楽が進んでいく。要所要所、まさに魂を動かす音が響く。ティンパニの音の強烈さに改めて驚いた。思い切りのよい、魂の底を打つような音だ。第四楽章は、ホルンの音とともに最高度に高揚していった。大いに感動した。

 ただ、実は、小旅行をして、那須から新幹線で戻って文化会館に向かったのだった。少々疲れた。簡単な感想を記すだけにする。

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ギルバート&都響のモーツァルト 「ジュピター」の終楽章に魂が震えた!

 2022725日、サントリーホールで東京都交響楽団の定期公演を聴いた。指揮はアラン・ギルバート。曲目は、モーツァルトの交響曲第39番・第40番・第41番「ジュピター」。 

 しなやかでやわらかい演奏。ニュアンスを込め、天を舞うように、優雅にやさしく音楽が進む。心を込めて歌うようにすべての楽器が鳴らされる。とりわけどの曲も第三楽章メヌエットがとても美しい。まさに、天女が舞うように演奏される。

 そして、39番では優雅さが特に強調されていたが、40番になると優雅な舞の中に悲しみの要素が増えてくる。しかし、それはむき出しの悲しみではなく、あくまでもニュアンスのこもったしみじみとした悲しみ。

「ジュピター」になって、また少し様子が変わる。宇宙的に音楽が広がり、人生の深みが増す。優雅+悲しみ+人生の深みの音楽になる。394041番が連続した一つの物語になっている。それぞれにフレーズに様々なニュアンスが込められているが、それらが有機的に結びついているのを感じる。ニュアンスを込めながらも、自然に音楽が流れていく。

 そして、第4楽章に突入。

 私は「ジュピター」の第3楽章まで、実を言うと、ギルバートと都響の作り出す絶妙の音楽を聴きながらも、少し居心地が悪かった。私はこのようなニュアンス豊かなモーツァルトは好きではない。優雅も悲しみもなしに、ニュアンスを込めずに疾走し、そうでありながらそこはかとない悲しみが伝わってくるような演奏が好きだ。だから、感心して聴きながらも、「こんなにニュアンスを込めなくてもいいのに・・・」と思っていた。

 ところが、第4楽章を聴いて納得。まるで、オペラのフィナーレのように、39番の第1楽章から41番の第3楽章までのすべてがここに結集している。フーガの技法が取り入れられ、宇宙的に壮大な音響世界になる。これまでのすべての支流がここで合流し、高らかに生の賛歌を歌い上げる。優雅さを基調にしたこれまでの流れが、最後の、荒々しいとまで言えるような音響世界の伏線だったことに納得。

「ジュピター」の第4楽章がモーツァルトの管弦楽作品の最高峰であることを改めて感じる。まさに奇跡の音楽! それをギルバートと都響が目の前で作り出してくれている。感動に身が震えた。

 都響のしなやかな音にしびれた。ギルバートの音楽の組み立てに感嘆した。そして、改めてモーツァルトの音楽に圧倒された。素晴らしい体験だった。

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マナコルダ&紀尾井管 悲劇性の増した「スコットランド」

 東京都の新型コロナウイルス感染者が3日連続で3万人を超えたという。重症化している人は決して多くはないとはいえ、病床ひっ迫すると、あれこれと困ったことになる。ともあれ個人としては用心を重ねるしかない。

 2022723日、紀尾井ホールで、紀尾井ホール室内管弦楽団の定期演奏会を聴いた。指揮はアントネッロ・マナコルダ、曲目は、前半にシューマンの「序曲、スケルツォとフィナーレ ホ長調」と、コントラバスの池松宏が加わって、トゥビンのコントラバス協奏曲、後半にメンデルスゾーンの交響曲第3番イ短調「スコットランド」。

 マナコルダはこれが指揮者としては最初の日本公演だというが、ヨーロッパでは知られた存在らしい。私はこの度、初めてこの指揮者の存在を知ったのだった。1970年生まれだというから、もう50歳を少し過ぎているが、指揮者としてまだ若手といえるだろう。

 とても真摯で堅実な指揮ぶりだと思う。誇張することなく、遊びを加えることなく、中身の詰まったしっかりした音で突き進んでいく。とても好感を持った。ただ、シューマンの曲では、そうであるがゆえにちょっと一本調子になっているのを感じた。もう少し脚色してくれてもいいのではないかと思ったのだったが、きっとこの指揮者はそういうことをしないのだろう。トゥビンの曲はコントラバスの池松宏のテクニックが冴えて、とても楽しく聞くことができた。

「スコットランド」もまさに真摯な指揮ぶり。ビシビシと音を重ねる。あまりヴィブラートをかけないまっすぐな弦の音のために緊迫感が増す。そうなると、メンデルスゾーンの悲劇性が浮かび上がってくる。リズミカルで生気にあふれたメンデルスゾーンではない。古典的な様式の中にロマンティックでのびのびとした、いかにも育ちの良い精神を持ったメンデルスゾーンではない。むしろ悲劇性を秘め、激しい思いを吐露するかのようなメンデルスゾーン。なるほど、メンデルスゾーンの生涯は決して恵まれてばかりではなかった。こんなアプローチもあるのだろう。ただ、紀尾井ホール室内管弦楽団は大健闘をしているとはいえ、少し音楽が停滞するのを感じないでもなかった。もうすこしアンサンブルが緻密であれば、もっと深い感動が得られただろう。

 ところで、四ツ谷駅から紀尾井ホールまでの往復を歩いたが、久しぶりににぎやかなセミの声を聴いた。私の自宅のある東京都のはずれでは、今年はなぜかセミの鳴き声をほとんど聞かない。暑苦しい鳴き声だが、聞こえてこないと心配になる。自然破壊が進んでいるのだろうか。天候不順の影響だろうか。ともあれ、都心で耳にできてちょっと安心した。

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新国立劇場オペラ研修所試演会「領事」  謎のオペラだったが、楽しんだ

 2022718日新国立劇場オペラ研修所試演会、ジャン・カルロ・メノッティ作曲のオペラ「領事」をみた。ピアノ2台(岩渕慶子・星和代)による伴奏。指揮は星出豊、演出は久恒秀典。出演はオペラ研修所第232425期生を主とするメンバー。

 英語のオペラは聴きなれないので、初めのうちは少々戸惑った。しかも、私はこのオペラを数日前に初めてDVDでみたが、ドイツ語版だったので比較することができない。ただ、やはりちょっと英語の発音がネイティブとは違っていそうだなとは思った。

 とはいえ、マグダの大竹悠生は張りのあるしっかりした声で音程もよく、訴える力を持っていると思った。秘書の大城みなみもこの役にふさわしい凛とした姿と声で魅力的だった。ジョン・ソレルの佐藤克彦もしっかりした音程の良い声。演技の面では三人とも少しぎこちなかったが、研修所試演会でこれだけ演じることができれば、たいしたものだ。

 そのほか、母親の前島眞奈美は、少し音程が不安定なところがあったが、全体的にはとても魅力ある歌を聞かせてくれた。異国の女の冨永春菜もコフナー氏の松中哲平も秘密警察官の松浦宗梧もよかった。

 指揮、そしてピアノもとても緊張感にあふれ、時にはオーケストラのような色彩感も示して、とてもよかった。演出も、簡素ではあるが、音楽とぴたりと合っているのを感じた。

 新国立劇場オペラ研修所試演会はこれまでも何度かみた。これまでの公演では音程の狂いなどが気になることがあったが、今回はそのようなことはあまり気にならなかった。めったに上演されないオペラに意欲的に取り組んでくれるのはとてもうれしい。

 ただ実は、まだ「領事」というオペラがつかめずにいる。このオペラは独裁国から逃れようとする人々に救いを差し伸べなかった各国の領事を告発するものととらえられるが、それにしてはよくわからない場面がある。領事館に押しかけている人々(特にイタリア女、奇術師)にどんな意味があるのか、最後の場面で死にゆくマグダの夢(この場面は、私のみたDVDにはなかった!)にはどんな意味があるのか、赤ん坊の死、母親の死というきわめて重大なはずの出来事がなぜあっさりと描かれているのか。なぜ「領事」というタイトルなのに領事は登場しないのか。

 考えてみようと思ったが、材料が少なくて、どうにもならない。そのうち新たな映像などが発売されたら、ぜひまた考えたい。とてもおもしろいオペラなので、またどこかで上演してくれると嬉しいのだが。

 ともあれ、若い才能ある人たちの出演する、めったに上演されないオペラを見ることができて、とても満足だった。

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東京二期会「パルジファル」 好みの演奏・演出ではなかったが、素晴らしかった

 2022716日、東京文化会館で東京二期会公演「パルジファル」をみた。指揮はセバスティアン・ヴァイグレ、演出は宮本亞門。

 ヴァイグレの指揮は、いかにもこの人らしいといえるだろう。かつて私がなじんだクナッパーツブッシュの指揮した演奏のような重々しさや厳粛さはまったくない。うねるような激しさもない。穏やかでしなやかでのびのびとした音。少し前の私だったら、「なんと生ぬるいパルジファルだ」と思ったかもしれない。そして、私がしばしば退屈に感じたのも事実だ。だが、しみじみと美しい。なるほど、このような「パルジファル」もあるだろうと思わせるだけの説得力がある。私が最も好むタイプの演奏ではなかったが、しっかりと味わうことはできた。

 歌手陣はきわめて充実していた。最も感銘を受けたのは、クンドリの田崎尚美だ。この役にふさわしい強靭で美しい声。姿かたちも舞台映えする。グルネマンツの加藤宏隆もこの役にふさわしいどっしりとした声で、最後まで疲れを見せずにきれいに歌った。素晴らしい歌手が出現したものだ。パルジファルの福井敬も、この役にふさわしい張りのある美声。アムフォルタスの黒田博は、初めのうちこそ少し声が出ていない気がしたが、もしかしたら少しセーブしていたのか。すぐに持ち直して、この役にふさわしい絶望の表現を聞かせてくれた。そしてクリングゾルの門間信樹もほかの歌手たちにまったく引けを取らない見事な声。このところの二期会の充実ぶりに目を見張った。

 なお、14日と17日のティトゥレル役に予定されていた長谷川顯さんが亡くなったことを先日の新聞で知った。素晴らしい歌を何度か聴かせていただいた。合掌。

 宮本亞門の演出については、第一幕をみた時点では、わけがわからんと思った。パルジファルとそっくりの服を着た子どもと、どうやらその母親らしい女性が出てきて、黙役であれこれと小芝居をする。すべての幕を通して、美術館が舞台になっている。類人猿から人間にいたる進化の過程を表す立像が置かれており、オラウータンがしばしば動き回る。

 細かい一つ一つの動作の意味についてはよくわからない。だが、第二幕、第三幕と見続けるうち、感覚的に共感できるようになった。演出家は、このオペラを過去のキリスト教社会だけの問題ではなく、普遍的な人間性(博物館にはL’humanitéという表示がある)の問題としてとらえようとしている。そのために、過去のパルジファルの話とともに、現代の子どもと母親の葛藤の物語が加わる。純粋な愚か者が世界を救うというメッセージを普遍的、宇宙的な物語として展開しようとしている。それが理解できた。

 読み替え演出は私は大嫌いだが、これは読み替えではなく、現代にワーグナーの精神を押し広げて表現しているのだと思う。このような演出については、私は大歓迎だ。

 細かいところを言えば、私の好みとは異なるところももちろんあった。だが、とてもレベルの高い素晴らしい上演だった。満足。やはりワーグナーは最高だ!

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オペラ映像「領事」「泥棒とオールド・ミス」「霊媒」「エレクトラ」

 早稲田エクステンションセンターで、毎週水曜日に、四回連続の文章講座を担当している。また、先日(71112日)は、私が塾長を務める白藍塾の仕事で大分市に行った。岩田高校で、小論文の特別授業をした。ついでに、東京に戻ってから、しばらく魚は食べなくていいと思うほど、大分市内で城下カレイ、関アジなどの魚介類を腹いっぱいに食べまくった。

 だが、それを除けば、ほぼ家にこもっての仕事をしている。そのため、自宅でオペラ映像や映画を見ることが多い。テレビニュースを見ながら、世間の出来事を怒ったり嘆いたりしながら、何本かオペラ映像を見たので、簡単な感想を記す。

 

メノッティ 「領事」(ドイツ語歌唱) 1963年 テレビ放送用スタジオ収録

 新国立劇場オペラ研修所試演会でメノッティの「領事」が取り上げられる。私はこれまでこのオペラを実演でも映像でも録音でも接したことがないので、予習のためにDVDを購入した。1963年に作られたモノクロのオペラ映画だ。本来は英語で歌われると思うが、これは、ウィーン・フォルクスオパー管弦楽団、フランツ・バウアー=トイスルの指揮によるドイツ語版。監督はルドルフ・カルティエ。とてもおもしろかった。なかなかの名作オペラだと思った。1950年の作曲だが、リヒャルト・シュトラウスのオペラを聴くのと同じような気持ちで鑑賞できる。

 架空の独裁国家(ナチス時代のドイツがモデルか?)で抵抗運動するジョン・ソレルが外国に逃亡。妻マグダも外国に逃れようとするが、その国の領事館が無数の書類の提出を求めていつまでも外国に出られない。飢えと寒さで赤ん坊も母親も亡くなり、それを知ったジョンが無謀にも帰国しようとする。マグダは、それを防ぐために自分が死ぬことを選択する。

 出演は往年の名歌手たち。ジョン・ソレルはエーベルハルト・ヴェヒター。マグダはメリッタ・ムゼリー。そしてなんとイタリア女性を歌っているのはリューバ・ヴェリッチュではないか。伝説のサロメ歌いだ! 歌手陣は最高の布陣。スキがない。仮面をかぶって事務的にこなしながらも、心の中では冷たく申請者を追い払うことを苦しんでいる領事秘書を歌うグロリア・レーンもとてもいい。

 切羽詰まった状況でヴィザを得ようとする必死さ、警察の冷酷さなどが音楽によっても、演出によっても伝わる。映画のようなリアルな迫力。素晴らしいオペラだと思った。

 

メノッティ 「泥棒とオールド・ミス」 1964年 テレビ放送用スタジオ収録

 このDVDは、3年以上前に購入していた。ろくに調べずにHMVに予約して、自宅に届いたのを見ると、なんとドイツ語歌唱で1964年の白黒、モノラル。しかも日本語字幕なしの表示(実際には日本語字幕がついていた!)。そのため、がっかりしてみないままにしていた。今回、「領事」をみたついでにこれもみることにした。

 オールド・ミス(現在では、使うべきではない言葉とされていると思うが、タイトルなので、そのまま使わせてもらう)のミス・トッドの家に若い男ボブがやってくる。ハンサムな青年で宿を欲しがっているので、しばらく泊めることにする。すると、脱獄囚の強盗がこの町に逃げ込んだという情報。ボブがその泥棒だと思い込んで、ミス・トッドはうろたえつつ、かくまい、その事実を隠すために女中のレティーシャとともに犯罪をおかしてしまう。ボブが犯罪者ではないとわかるが、結局、ボブは女中のレティーシャと手に手を取り、ミス・トッドの財産を盗んで逃げだしてしまう…というストーリー。それをコミックに描いている。

 ミス・トッドを歌うのはエリーザベト・ヘンゲン。フルトヴェングラーのバイロイト音楽祭の第九のメゾ・ソプラノを歌っているので、私は中学生のころからなじんだ名前だ。ボブを歌うのも、昔からいくつもの録音を聞いてきたエーベルハルト・ヴェヒター。レティーシャを歌うオリーヴ・ムーアフィールドは当時としては珍しい黒人歌手だが、歌唱・演技・容姿ともにとても魅力的。ミス・ピンカートンのヒルデ・コネツニを含めて、声楽的には文句なし。ウィーン・フォルクスオパー管弦楽団、ヴォルフガング・レンネルトの指揮もとてもいい。

 音楽はほとんどリヒャルト・シュトラウスと同じような音楽語法に基づいているといえるのではないか。ベルクのオペラよりもずっと伝統的。1時間ほどの短いオペラだが、とても楽しい。演出はオットー・シェンク。ルシール・ボールの出演していたアメリカの喜劇ドラマのようなコメディタッチ。わかりやすくて楽しい。

 

メノッティ 「霊媒」 (ドイツ語歌唱) 1961年 テレビ放送用スタジオ収録

「泥棒とオールド・ミス」と併録。同じように、以前から購入していたが、今回初めて視聴。これも同じように、白黒・モノラル、ドイツ語。一時間ほどのオペラ。

 いかさま霊媒師のフローラ夫人は、客の死んだ子どもの霊を呼び寄せると称して、インチキをしているが、あるとき、ほんものの霊が現れたのを感じる。混乱して銃を撃ってしまい、誤って口のきけない青年トビーを撃ち殺してしまう。

 歌っているのは、フローラ夫人をエリーザベト・ヘンゲン、モニカをマリア・ホセ・デ・ビン、そのほか、ノーラン夫人をヒルデ・コネツニ。ウィーン・フォルクスオパー管弦楽団を指揮するのはアルマンド・アルベルティ。演出はオットー・シェンク。要を得た、わかりやすくてツボを得た演出。

 短いながらも、緊迫感にあふれ、オーケストラ、歌手ともにとてもレベルが高い。錯乱するフローラ夫人をヘンゲンは見事に歌う。ノーラン夫人を歌うコネツニとともに、抜群の演技力にも驚く。

 いやあ、メノッティという作曲家、すごい。これまで「電話」しか知らなかったが、素晴らしいオペラ作曲家だと思った。

 

「エレクトラ」(NHKプレミアム)ハンブルク国立歌劇場 20211211

 NHKプレミアムで放映された。このところ、このオペラがしばしば上演されるが、きっと短くて、しかも本格的な合唱が必要ないというので、コロナの中で扱いやすいのだろう。高校生のころから、このオペラが大好きな私としては大歓迎。

 演奏面ではかなり満足できる。ケント・ナガノ指揮のハンブルク国立歌劇場管弦楽団は、ちょっと鮮烈さに欠けるとはいえ、しっかりとした音でこの強烈な音楽を作り出す。うねりもあるし、躍動感もある。これ以上を求めても、それはないものねだりだろう。

 歌手陣では、エレクトラのアウシュリネ・ストゥンディーテがやはり圧倒的に素晴らしい。ウェルザー=メスト指揮のザルツブルク音楽祭の「エレクトラ」でも同じ役を歌っていたが、現在、この人以上のこの役を歌える人はいないと断言できる。強靭で伸びのある声で、音程もいい。しかも容姿もこの役にふさわしい。目力も圧倒的。クリテムネストラのヴィオレタ・ウルマナもエレクトラ役に負けていない。あまりの老け具合(もちろん、老け役ということなのだろうが!)にびっくり。ウルマナは私の中では若手とは言えないにせよ、やっとベテランに差し掛かった大歌手の部類に属する。クリソテミスのジェニファー・ホロウェイも、たぶん演出のためにあまり目立つ歌い方をしていないが、しっかり歌っている。エギストのジョン・ダジャック、オレストのラウリ・ヴァサルもとてもいい。

 やはり今回もドミートリ・チェルニャコフの演出に問題を感じる。何しろ、幕が下りたとたん、観客席から盛大なブーイングが浴びせられる!

 前半は、舞台が現代に移されていることを除けば、それほど大きな読み替えはない。エレクトラが幼児性を帯び、家庭の愛を求めているらしいことがほのめかされるが、チェルニャコフのわりにはおとなし目の演出といえそう。ところが、最後になってびっくり。なんとオレストはエギストとクリテムネストラの死体ばかりか、こと切れたエレクトラの死体までも食卓の椅子に並べ、クリソテミスまで殺して、そこに座らせる。そして、ご丁寧に背後に字幕が映し出される。「女性18人を殺す凶悪殺人犯が逃亡中につき注意」・・・。つまり、オレストは父の復讐のために母とその夫を殺しただけでなく、家族中を殺した血に飢えた殺人鬼ということになっている。

 まあ確かに、この「エレクトラ」を現代劇に見立ててしまうと、まさにオレストは殺人鬼ということになってしまうだろうが、フーテンの寅さんをまねて言うと、「それを言っちゃあおしめえよ」ということになる。そんなことを言ってしまえば、ギリシャ悲劇、そして様々な悲劇は殺人鬼と狂人の惨劇ばかりになってしまうだろう。私には、あまりに不毛であまりにセンスのない演出に思える。

 こんなセンスのない演出がもてはやされる時代を、実に嘆かわしく思う。

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映画「帰らざる河」「麗しのサブリナ」「アラベスク」「オールウェイズ」

 ウクライナ戦争はますます悲惨になり、新型コロナウイルスの第七波がどうやら始まったようであり、しかも安部元総理の暗殺がおこった。暗澹たる気持ちになる。世も末だといいたくなる。

 安部総理暗殺は、テロというよりは、秋葉原の事件や登戸の事件、あるいは電車の中での襲撃事件と同じような自暴自棄になった人間のしでかした暴挙なのだろう。だが、そのような人物が出現したこと、しかもそれを防ぐはずの警備がまったく機能していなかったことに対しても、日本社会の劣化を嘆きたくなる。今回の事件で浮き彫りになりつつある宗教の自由の問題も、改めて考えるべき課題だろう。オウム真理教を筆頭に、間違いなく宗教は人心を惑わし、社会に攻撃を加え、人間の知性をむしばむものになっている。ネット社会になった今、従来の信仰の自由、宗教団体への税制優遇をかつてのままにしておくのは好ましくないだろうと思う。

 そんな中、NHKプレミアムで放送された映画を何本かみたので、簡単に感想を記す。

 

「帰らざる河」 1954年 オットー・プレミンジャー監督

 以前、一度みた覚えがある。マリリン・モンローが亡くなったとき、私はまだ子どもだったので、その魅力を知ったのはずっと後になってからだったが、この映画こそ、「確かにマリリン・モンローはすごくいい女だ!」と最初に思った作品だった。今、再びみると、映画としては突っ込みどころ満載。だが、モンローは圧倒的な魅力を発散する。

 いわゆる西部劇。原住民(いわゆるインディアン)が無前提の悪として描かれ、男は力づくで女性に迫り、子どもが銃を撃つのも当たり前・・・という世界観は現在では信じられないが、確かに私たちの世代はこのようなアメリカ映画を見て育った。

 友人を救うために人を殺して服役していたマット(ロバート・ミッチャム)は子どもとともに畑を作っている。いかだで漂流しているハリー(ローリ・カルホーン)とその愛人ケイ(マリリン・モンロー)を助けるが、ハリーは逆にマットの銃と馬を奪って、ケイを残したまま逃げてしまう。先住民に追われて家に住めなくなったマットは息子やケイとともに、激流や先住民からの攻撃、ならず者からの横やりなどを交わしながら、いかだで下って町に向かう。そうするうちに、マットとケイの間に恋が芽生え、最後には、かつて酒場の歌手だったケイもマットや息子とともに暮らすことを選ぶ。そんなストーリー。

 要するに、金に目がくらんで豪華な生活を夢見るゴールドラッシュの西部を題材にして、堅実に家族を愛して、自分で自分の身を守って生きよう、というテーマの映画。とてもよくできている。それにしても、モンローは歌もうまく、本当に色気のある女優さん。しかも、とても上品な色気。伝説の女優であることが納得できる。

 

「麗しのサブリナ」 1954年 ビリー・ワイルダー監督

 昔みたことがあるような気がしていたが、もしかしたら勘違いだったかも。まったく覚えがなかった。巨大企業を経営する富豪の車の運転手の娘サブリナ(オードリー・ヘプバーン)は富豪の次男デヴィッド(ウィリアム・ホールデン)をひそかに愛している。料理の勉強のために、パリで二年間過ごして、エレガントな女性として帰国。たくさんの女性と浮名を流し、それまで見向きもしなかったデヴィッドはサブリナに恋をする。デヴィッドをほかの女性と結婚させて会社拡大に利用しようとしていたデヴィッドの兄のライナス(ハンフリー・ボガート)は弟とサブリナを別れさせようとするが、自分がサブリナに恋をしてしまう。仕事人間で実直なライナスをサブリナも愛するようになる。すったもんだの末、サブリナとライナスが結ばれる。

 ワイルダー監督らしい気のきいたセリフ、軽妙な展開。ラブロマンスとしてとてもおもしろい。ヘプバーンも実に魅力的。ただ、ホールデンもボガートも若々しいヘプバーンにふさわしくないかなりのおじさんに見える。調べてみたら、この年、ホールデンは30代後半(今の日本人の感覚では50歳くらいに見える!)、ボガートは55歳(今の感覚からすると65歳くらいに見える)。二人が大スターだったのは分かるが、もう少し若い俳優はいなかったのだろうか。

 

「アラベスク」 1966年 スタンリー・ドーネン監督

 1963年の「シャレード」と同じドーネン監督の作品。雰囲気がとてもよく似ている。いったい誰が味方で誰が敵なのか二転三転し、本物と偽物が入り混じる。ユーモアにあふれたセリフ、センスのいい展開。今どきの映画のような激しいアクションはないが、まさに大人のサスペンスドラマ。楽しんでみることができた。

 古代の暗号と思われる絵文字の解読を大学教授(グレゴリー・ペック)が依頼されたために中東の国の陰謀に巻き込まれる。ストーリーはまあ特にどうということはない。グレゴリー・ペックは余裕のある演技。ユーモラスでとても魅力的。ただ私は、昔から現在に至るまで、謎の女を演じるソフィア・ローレンをきれいだと思ったことは一度もない。いや、それどころか、どちらかというと不美人の方だと感じる。それに対して、オードリー・ヘプバーンは飛び切りの美人だと思うので、必然的にこの「アラベスク」を「シャレード」と比べると、感銘度は天と地ほど差がある。

 

「オールウェイズ」 1989年 スティーヴン・スピルバーグ監督

 事故で亡くなった消防飛行隊の腕利きのパイロット、ピート(リチャード・ドレイファス)は、ゴーストになって愛する恋人ドリンダ(ホリー・ハンター)や消防飛行隊の訓練生を守るが、ドリンダは若き訓練生に恋するようになる。ピートは苦しむが、あきらめてドリンダの幸せを祝福しようとする。

 あちこちの場面にスピルバーグの力量が現れ、もちろんとてもよくできているのだが、映画としてはあまりおもしろいと思わなかった。この数年後に作られて日本でも話題になった「ゴースト/ニューヨークの幻」のほうが感動的でおもしろかった。「ゴースト」の後で見たせいもあってか、ややありきたりの気がするほど。

 ピートにゴーストの心得を教える先輩ゴーストというべき女性の役をオードリー・ヘプバーンが演じている。ヘプバーン最後の映画となった。世俗の欲を捨てた天使のような女性に見える。素晴らしい。

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新国立劇場「ペレアスとメリザンド」 残念な演出だった!

 2022年7月9日、新国立劇場で「ペレアスとメリザンド」をみた。演奏についてはとても満足だったが、演出については、私は大いに問題を感じる。

 大野和士の指揮する東京フィルハーモニー交響楽団は大健闘。精妙な音を出してとてもよかった。ドビュッシーの微妙な彩が移り変わるところなどは見事。ただ、この曲については私はいたずらに盛り上げずに、静かに抑制しながら徐々に盛り上がっていくところが好きだ。ちょっとあおりすぎている点では私の好みではなかった。とはいえ、ともあれとても満足だった。

 歌手については、ペレアスのベルナール・リヒターは伸びのある美声で、気品をもって演じていた。ゴローのロラン・ナウリもさすがの歌唱。伸びがあって、説得力のある声。ただ、私の好みからすると激しく歌いすぎていると思うが、きっとそれは指揮者、または演出家の指示だろう。この二人については、これ以上望めないほどのレベルだと思う。メリザンドのカレン・ヴルシュは容姿的にはとても満足だったが、ヴィブラートの強い独特の歌いまわしが私は少々気になった。ジュヌヴィエーヴの浜田理恵、イニョルドの九嶋香奈枝もきれいなフランス語で的確に歌ってとてもよかった。アルケルの妻屋秀和については、私にはフランス語らしく聞こえなかった。

 ともあれ、演奏に関しては私は、多少の不満はあるもののとても満足。なかなかこれほどの名演奏には出会えないと思う。

 しかし、ケイティ・ミッチェルの演出について、私はまったく納得できない。メリザンドがパーティか何かから帰ってベッドに入り、そこで夢を見た…という設定らしいが、なぜこれを夢の話にするのかがまずまったく理解できない。夢にすることにどのような意味があるのだろう。

 それに、私は「ペレアスとメリザンド」を微妙にほのめかしたり、かすかににおわせたりするだけで成り立つ繊細なオペラだと思っている。大げさにがなり立てるのでなく、静かに語る。かすかに仕草で示す。ペレアスとメリザンドがかすかな心の交流をなす。二人はおそらくは性的関係を結んでいない。メリザンドは謎の女性であり、ペレアスとの関係もほんとうのところはよくわからない。ところが、ゴローがそれに抑制した嫉妬を覚える。それが徐々に高まって殺人に至る。しかし、また静かな世界に戻る。象徴的な世界の中でそのような静かな物語が進行する。それがこのオペラだ。

 ところが今回の演出は、メリザンドは挑発的な様々な行為を行い、アルケルは健康そのもの(原作では目が不自由なはず)でメリザンドを性的な対象として愛撫する。イニュルドが部屋をのぞくときペレアスとメリザンドはベッドの付近にいる。第四幕にいたっては、ペレアスとメリザンドは服を脱いでセックスめいたことをする。こうなると、台本の謎もドビュッシーの音楽のせっかくの抑制もすべて台無しになってしまう。なんと下品な演出だろう。

 しかも、メリザンドの分身がたびたび登場して舞台上で何やら行うが、私にはそれにどんな意味があるのかよくわからない。結局舞台上で何が行われているのかわからなくするだけになっている。

 いや、それよりなにより、「ペレアスとメリザンド」は「水」がテーマであり、せりふの中にたびたび「水」がほのめかされるのに、舞台上には水がまったく出てこない。森もない。すべてが室内で展開する。このオペラから水と森をなくしたら、まったく別のものになってしまう。演出家が原作を殺すようなことをしてしまうことが許されるとは、私は思わない。

 演出のせいで、せっかくの素晴らしい台本と音楽が台無しにされてしまったと私は思う。今回もまた、演出によって好きなオペラを汚されたという怒りを覚えた。とはいいつつ、くりかえすが、音楽が素晴らしかったので、まずはよかった。

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オペラ映像「トリスタンとイゾルデ」「ワリー」「連隊の娘」

 猛暑はいったん和らいでいるが、熱中症、コロナ、台風と次から次にと厄介ごとがやってくる。まあ世の中そんなもの、人生そんなものではあるが。何本かオペラ映像を見たので、簡単に感想を記す。

 

ワーグナー 「トリスタンとイゾルデ」20184月 ベルリン国立歌劇場

 新発売のソフトだが、コロナ前の上演。音楽的には満足。

 これまでバレンボイムの指揮した「トリスタン」には実演でも録音や映像でも何度か触れてきた。そのたびに感動してきた。これまでの演奏とどう異なるかは、きちんと聴き直していないので何とも言えないが、記憶に基づいていうと、今回の演奏は静謐さが増した気がする。高揚する部分については、これまでも素晴らしかったし、今回も本当に素晴らしい。魂の奥からうずくような興奮が聞こえてくる。ただ、今回は何よりも静謐さを感じる。

 第一幕の前奏曲の冒頭、本当に何気なく静かに静かに始まる。それを聴いた時点で、私はついのバレンボイムも老いて力をなくしたかと思った。が、そうではなかった。日常の時間のまま淡々と始まって徐々に高揚していった。静謐の部分がとても美しく、自然体で見事。

 歌手陣はやはり、イゾルデのアニヤ・カンペが素晴らしい。昔の大歌手のような太い声ではなく、細身の透明で美しい声。音程がよく、しっかりと伸びる。トリスタンのアンドレアス・シャーガーも、ちょっと声の輝きという面では弱いが、現在の最高のトリスタンであることは間違いない。マルケ王のステファン・ミリングも歴代の名歌手たちにまったく引けを取らない歌いぶり。ブランゲーネのエカテリーナ・グバノヴァは安定した美声でとてもいい。クルヴェナルのボアズ・ダニエルはちょっと声が出ていない気がするが、特に気にならない。

 やはり何といっても問題を感じるのはドミトリー・チェルニアコフの演出だ。完全な形で現代劇に仕立てている。マルケ王は大会社の社長という設定のようだ。男たちの全員がスーツを着てネクタイを締めている。

 第一幕は、どうやら豪華なヨットの中らしい。高級な家具を供えられたヨットで、会社の重役たちとともに、イゾルデとブランゲーネが移動中ということのようだ。第二幕はマルケ社長の大邸宅の一室。トリスタンとイゾルデはパーティを抜け出して一室で密会しているところを暴かれる。このあたりまでは、まずまずオリジナルの台本通りに進む。ワーグナーの楽劇から神秘性を奪い取り、現代劇に仕立てようとしているのだろう。まあ、それはそれでわからないわけではない。ところがこの後、私には意味不明の改変が次々となされる。

 第二幕でトリスタンは最後まで重傷を負うことはない。え? じゃ、いったい、なぜ第三幕でトリスタンは死にかけている? 第三幕に入って、瀕死のトリスタンを慰めるために、イゾルデが島に到着したわけではないのに、クルヴェナルが笛を鳴らすように仕向ける。なぜそんなことをする必要があるのだろう? トリスタンの父と母が登場?? マルケ王とブランゲーネが現れるが、ブランゲーネはイゾルデに対してよそよそしく、しかも、なんとマルケ王と手をつないでいる。王とブランゲーネは男女の関係になったということ? イゾルデは「愛の死」を歌った後、死んだはずのトリスタンの横たわるベッドの下に目覚まし時計を置いて、自分も横になろうとするところで幕が閉じる。トリスタンは死んでいないで寝ているだけということなのだろうか?

 マルケ王とブランゲーネの関係などに至っては、下種の演出としか思えない。この演出家は生と死の合一を歌うこの楽劇を下種のオペラに貶めて何がおもしろいのだろう。ワーグナーの形而上学性を否定して、日常のレベルに引きずり落としたいと思ってこのような演出にしたのかもしれないが、それにしても下品。いや、それ以前に、そうすると、かなり伝統的に魂の昇華と愛の陶酔を歌い上げるワーグナーの音楽、そしてバレンボイムの音楽と根本的に矛盾してくる。私には理解できないことばかりだった。

 この頃、ワーグナーの楽劇の映像を見るごとに覚える怒りを今回も強く覚えた。

 

カタラーニ 「ワリー」202111月 アン・デア・ウィーン劇場

 第一幕の終わりでワリーの故郷を思って歌うアリアばかりが有名で、このオペラはめったに上演されないが、ヴェリズモ・オペラの一つとしてなかなかおもしろい。ただもちろん、「道化師」や「カヴァレリア・ルスティカーナ」に比べると、台本は緻密さに欠けるし、音楽も甘ったるいところがある。だが、もっと上演されてしかるべきオペラだということは間違いないと思う。

 ワリーのイザベラ・マトゥーラはとてもよく歌っている。きれいな顔立ちの男勝りの女をうまく演じているとはいえる。ただ、演出のせいか、あまりに気性が荒く描かれており、殺気立っている雰囲気。これでは男はだれも寄り付かないと思う。何人もの男性が虜になるという設定が納得できなくなる。ハーゲンバッハのレオナルド・カパルボは適役。きれいな声で、ちょっと無防備な男をうまく演じている。ただ、これももう少し強いキャラクターがないとドラマが生きない気がする。ゲルナーのジャック・インブライロは歌はいいが、見た目があまりにおじさんっぽいのが気になる。もう少し化粧で何とかならないものか。

 なじんでいるオペラではないので、アンドレス・オロスコ=エストラーダ指揮のウィーン交響楽団について批評めいたことは言えないが、しっかりとうたわせ、ドラマティックでもあって、とても良いと思った。演出はバルボラ・ホラーコヴァー・ヨリー。チロル地方の物語という点はあまり強調されず、むしろ「家」が大きく取り上げられ、最後の場面も崩壊している家の中で歌われる。故郷を捨て、自分のアイデンティティを捨てた人間としてワリーを描いているようだ。しかし、そうなると、最後の雪崩の場面など、物語展開が不自然になる。ちょっと無理のある演出だと思った。

 

ドニゼッティ 「連隊の娘」20211121日 ベルガモ、ドニゼッティ歌劇場

 コロナ禍の中の上演のため合唱団は全員がマスク。

 全体的にはなかなかの上演だと思うが、DVDで発売されていた英国ロイヤルオペラの、ローラン・ペリ演出、カンパネッラ指揮、デセイ、フローレス、フェリシテ・パーマー、コルベッリの出演した名舞台に比べると、やはりかなり劣るのはやむを得ない。

 マリーを歌うのはサラ・ブランチ。癖のないきれいな声。若いソプラノで容姿もこの役にふさわしい。歌い方がちょっとミュージカル風だが、それもこのオペラの場合には魅力の一つだろう。トニオはジョン・オズボーン。これもさすがの歌唱。高音が美しい。侯爵夫人はアドリアーナ・ビニャーニ・レスカ。アフリカ系の深い声のメゾなのだが、これは容姿も声も、私たちが聞きなれたこの役とはかなり異なる。かなりドスの効いた声というか。シュルピスはパオロ・ボルドーニャ。しっかりとこなしている。

 演出はルイス・エルネスト・ドーニャス。全員が現代の服装。遊びが多く、オリジナルにはない歌が加わったり、連隊の太鼓がアフリカ風のリズムで鳴らされたりする。舞台背景も、原色が多く使われ、フェルナン・レジェの絵画やアフリカの原始絵画を思わせるような絵が描かれている。ミュージカル風といってよいのだと思う。そう、まるで「ライオン・キング」のような雰囲気というか。そして、笑いを取ろうとするかのような、かなり大きな声でのドタバタがなされる。好みの分かれるところだろうが、そのためにバタバタして、少々下品になっているところがある。わたしはけっして上品な人間ではないが、どちらかというと上品好みではあるので、このタイプの演出はあまり好みではない。

 ミケーレ・スポッティ指揮によるドニゼッティ歌劇場管弦楽団は決して悪くはないのだが、やはり素晴らしいオーケストラというわけにはいかない。

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ロト&ケルン・ギュルツェニヒ ものすごい演奏!

 202273日、東京オペラシティ コンサートホールで、フランソワ=グザヴィエ・ロト指揮、ケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団のコンサートを聴いた。曲目は、前半に河村尚子のピアノが加わってモーツァルトのピアノ協奏曲第20番ニ短調、後半にブルックナーの交響曲第4番(第一稿)。ものすごい演奏といっていいのではないか。

 まず、モーツァルトの協奏曲。古楽的な奏法だと思う。弦のヴァイブレーションをほとんどかけず、直接的な音がする。そうであるだけに、ストレートに音楽が伝わってくる。しかし、そこから聞こえてくるのは、繊細で親密でしなやかな音。そして、河村尚子のピアノがまたとてもしなやか。沈黙と語り合うかのように静かに、親密に音楽が進む。誇張のまったくない、平明で、真正面から純粋な音楽に向きあうような世界。そこから美しい音が紡ぎだされてくる。なるほど、これがモーツァルトの世界だと思った。モーツァルトの人生だの、深い人生観などという感じはあまりしない。ただ、純粋に音楽として美しいと思った。

 ピアノのアンコールはシューベルトの有名な「楽興の時」。まさに、モーツァルトの協奏曲を弾いた河村の気持ちだったのではないか。Moments musicaux! 肩の力を抜いて音楽そのものを喜ぶような音楽だった。

 後半のブルックナーは一層格別だった。まず、冒頭の弦のトレモロの美しさにびっくり。この今日の冒頭のトレモロについては、その昔、チェリビダッケの指揮したのを聞いて驚いた記憶があるが、それ以来、あまりの美しさに魂が震えた。しなやかで繊細でまさに天国的。

 ただ、そのあとのホルンはいただけない。音程が不安定で、その後も何度か音を外した。ほかの楽器はすべて完璧と思われるほどのすごさだったのだが、どうしたことか。私の席からは奏者は見えなかったが、同じ人物がずっとはずしていたのだろうか。

 それを除けば、本当に奇跡的にすごい音だった。第一稿なので、私がよく知るこの曲とはかなり異なっていた。このヴァージョンは実演や録音で何度か聴いたことがあるが、まだ十分になじめずにいる。とはいえ、あまりの音響のすごさに圧倒されるばかりだった。

 すべてに楽器の音が美しい。金管楽器の威力がすさまじいが、それが実にぴたりのタイミングでずしんと響く。楽器全体のバランスも楽器のつながりも、息をのむほどに絶妙。一つ一つの音が鮮烈というか、生き生きとしていて、なぜか魂にずしりと響く。しかもこれだけの音量ですべての楽器が鳴らされていても、音が濁らない。明るめの音だが、堂々たるブルックナーの音には違いない。あまり宗教性だの崇高さなどといったことは感じないが、ともあれ音楽としてすさまじい。どういう魔法なのだろう。指揮がよいのか、それほどまでに性能の良いオーケストラなのか。

 ただ、繰り返すが、このヴァージョンに私はあまりなじんでいない。それが残念だった。もう少しなじんだ曲を聞いてみたかった。

 明日のプログラムはなじんだ曲なので、ぜひチケットを購入したいと思ったのだが、考えてみると、私は明日の朝、4回目の新型コロナ・ワクチン接種を予定している。これまでの3回、接種日の夜から副反応が起こって、かなり苦しんだので、明日の夜は危険が大きい。今回はともあれあきらめるしかなさそう。

 しかし、それにしても、ロトの音楽は聞きしに勝る凄まじさだと思った。

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映画「武器よさらば」「レインマン」「レナードの朝」「グッドウィル・ハンティング」「ペンタゴン・ペーパーズ」

 これまで、テレビでみた映画についてあまり感想を書かなかった。だが、もちろん、テレビ東京の昼間に放送される映画番組はかなりみているし、BSプレミアムの字幕による映画もかなりみる。

 そんなわけで、NHKBSプレミアムで放送された数本の映画の感想を簡単に記す。

 

「武器よさらば」 1957年 チャールズ・ヴィダー監督

 みはじめてしばらくしてから、昔々、一度みて、つまらないと思ったのを思い出した。50年ぶりくらいに改めてみて、やはりつまらないと思った。異様なほどにつまらない。

 戦争の場面が時折挟まれるが、戦争が描かれているわけではない。兵士の状況などが深く描かれているわけでもない。原作はヘミングウェイだが、独特の世界観が現れているわけでもない。信仰の問題にも触れられるが、あまりに表面的でリアリティがない。戦争を背景に、美男美女の浮世離れしたメロドラマが展開されるだけ。「いい男というのは、こんなに簡単にモテて、こんなに好き勝手なことをして許されるのか!」といった俗っぽい感想しか持つことができない。ロック・ハドソンもジェニファー・ジョーンズもあまり魅力的に描かれない。スパイとみなされて銃殺されるイタリア人軍医役のデ・シーカだけがいい味を出している。アメリカのメロドラマの悪しき典型のような作品だと思った。

 

「レインマン」 1988年 バリー・レヴィンソン監督 

 疎遠だった父の死後、自閉症の兄(ダスティン・ホフマン)がいて、その兄が父の遺産の大半を継ぐと初めて知った弟(トム・クルーズ)。遺産を奪い取ろうと画策するうちに兄の能力、人間性を知り、兄に共感していくという物語。世間で言われているほどおもしろいとは思わなかった。あまりにありがちなテーマも少し安易だと思った。それに、私は身勝手な弟にも共感できず、ここに描かれる自閉症の兄の行動を許容することもできないと思った。アメリカ映画は、どのくらい共感できたかが大事なポイントになると思うが、その点で私はこの映画には入り込めなかった。ただ、ダスティン・ホフマンの演技力には感服。

 

「レナードの朝」 1990年 ペニー・マーシャル監督

 実話に基づくという。セイヤー医師(ロビン・ウィリアムズ)が病院に赴任して、ほとんど人間活動をできない特有の病状を示す精神科の患者の治療にあたる。画期的な治療法を編み出して、一時的に患者のほとんどが回復するが、全員が元に戻る。

 最初の治療を施したレナード(ロバート・デ・ニーロ)と医師との交流、その心の動きを描く。生きることの意味を問いかける。佳作だと思う。ウィリアムズとデ・ニーロの演技は見ごたえがある。ただ、それ以上の感動はあまり覚えない。

 

「アンダーグラウンド」 1995年 エミール・クストリッツァ監督

 カンヌ映画祭のパルム・ドール受賞作品ということだが、私にはまったくおもしろくなかった。フェリーニ張りの狂騒的な演出によって飲んだくれの夢想のような雰囲気の映画だが、フェリーニとの才能の違いはいかんともしがたいと思った。

 第二次大戦中のユーゴスラヴィアの暗黒世界で活躍するマルコとその友人クロ。そして、二人の間で揺れ動く女優ナタリア。ドイツ軍の侵攻に対してマルコとクロは抵抗し、マルコはユーゴの英雄となるが、恋敵のクロをだまして、戦争は終わっていないと信じ込ませ仲間たちとともに巨大な地下室に閉じ込める。クロたちは、地下室でドイツ軍への抵抗の準備を進めながら、一つの社会を形作っている。そして、ユーゴ紛争が起こった1990年代に、クロたちはふとしたことから地上に出て、セルビア、クロアチア戦争を目の当たりにして大混乱を起こす。

 まあ要するに、第二次大戦の意識がユーゴ内戦にまで残り、ついには兄弟までが殺しあう状況を描くことで、ユーゴ内戦を戯画化した映画ということができるだろう。かつてのユーゴスラヴィアが陥ったあまりに絶望的な状況を描くには、このようなしっちゃかめっちゃかなブラックユーモアにするしかなかったといえるのかもしれない。ただ、私がユーゴスラヴィアの状況をよく知らないせいかもしれない(1980年代にユーゴスラヴィアを旅したことはある!)が、悪ふざけをリアルに感じることができず、あまりに空疎に思えた。

 

「グッドウィル・ハンティング」 1997年 ガス・ヴァン・サント監督

 恵まれない育ちながら、数学の天才であり、ほかの領域でもずば抜けた能力を持つ青年(マット・デイモン)。自分の能力を持て余し、社会に反抗しながら生きている。ところが、その才能に気づいた数学教師が手助けし、心理学教師(ロビン・ウィリアムズ)が生身の人間どうしのコミュニケーションを深める。そうしてやっと青年は心を開き、自分の能力を社会に役立てようとするようになる。当時無名だったマット・デイモンの脚本だという。

 よくできた映画だが、世をすねた主人公の思考回路を十分に理解できなかった。私は、アメリカの若者と似た青春時代(車で出かけ、ロックっぽい音楽を聴いてパーティやダンスや酒場で楽しむ・・・)を送っていないせいか、どうもこのような若者に共感できずにいる。ロビン・ウィリアムズの演技には圧倒されたし、ともあれおもしろく見たが、それ以上ではなかった。

 

「ペンタゴン・ペーパーズ」 2017年 スティーヴン・スピルバーグ監督

 ベトナム戦争はアメリカの敗北に次ぐ敗北であり、この戦争に勝算はないことを政府は知っていたのに、若者を絶望的な戦場に送り込んでいた。それに気づいたペンタゴン職員が文書を新聞に極秘に流し、ニューヨーク・タイムズ紙とワシントン・ポスト紙がニクソン政権から激しい圧力を受け、新聞の存亡の危機を意識しながらその文書を掲載する。その様子を、ワシントン・ポストのオーナー(メリル・ストリープ)と編集長(トム・ハンクス)に焦点を当てて描く。

 それだけなのだが、さすがスピルバーグ。政府関係の友人や経営面の心配、法的な問題で葛藤するオーナー、新聞の役割を追いかける編集長をリアルに描いて、見るものは手に汗握ることになる。語り口のうまさに圧倒されつつ、そしてそこに込められた社会的メッセージに共感する。報道の自由の大切さ、新聞の役割・・・。同時に、メリル・ストリープやトム・ハンクスをはじめとする役者たちの力量にも圧倒される。

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