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オペラ映像「イェヌーファ」「パサジェルカ」「ドン・ジョヴァンニ」

 妻の葬儀が終わって1週間ほどたつ。ふだんは少し離れたところで暮らす息子が、葬儀の後もしばらく一緒にいてくれたので気がまぎれたが、息子が去って一人になると、さすがにこたえる。これが弔うということなのだろうかとも思う。

 だが、そうはいっていられないので、あれこれの手続きに出かけたり、買い物をしたり、音楽を聴いたり、テレビを見たりしている。そうこうするうち、かなり元気が回復してきた。

 昨年、実演を聴いて感動したカヴァコスのヴァイオリンのCDを数枚、繰り返し聴いた。ロマンティックに盛り上がるのではなく、抑制的で知的で瞑想的な演奏はとても心地よい。

 そんな中、予約していた数枚のオペラのディスクが届いた。簡単な感想を書く。

 

ヤナーチェク「イェヌーファ」202110月 コヴェント・ガーデン、ロイヤル・オペラ・ハウス

 

 なんといっても、タイトルロールのアスミク・グリゴリアンが衝撃的な凄さ。音程のいい透明な声でありながら芯が強く、まさに清純な声が響き渡る。容姿の面も含めて、まさにイェヌーファにぴったり。最終幕の、嬰児の死体が発見されたときの歌はとりわけ印象的。コステルニチカのカリタ・マッティラもこの役にふさわしい圧倒的な存在感。グリゴリアンと歌うとちょっとコントロールの弱さにおいて分が悪いが、この二人の場面は舞台に戦慄が走る思いがする。

 シュテヴァのサイミール・ピルグ、ラツァのニッキー・スペンスも文句なし。ヘンリク・ナナシの指揮は、切れがよくドラマティックに鳴らす。とてもいいのだが、ただ、ヤナーチェクにはもっと悶々とした表情が欲しい。少し表現がまっすぐすぎる気がする。

 演出はクラウス・グート。「囚われ」ということを強調しているようだ。イェヌーファは常に多くの人の視線を浴びており、コステルニチカの家で暮らすイェヌーファのいる場所は、まるで牢獄のような鉄格子でかこまれている。イェヌーファは視線という囲いの中で暮らし、がんじがらめにされている。

 ローカル色は薄いが、このオペラの特色を見事についた演出と言えるだろう。大変満足な上演だと思う。

 

ヴァインベルグ 「パサジェルカ」 20212月 グラーツ歌劇場

 先日、2010年ブレゲンツ音楽祭でのこのオペラの上演の映像を見てすばらしいと思ったが、このグラーツ歌劇場での上演もそれに劣らない。オペラそのものもいいし、上演もいい。ナチスを題材にした映画はそれこそ山のようにあり、オペラ演出にナチスの軍服を着た人物が登場するのはほとんど常套手段と言えるほどだが、ナチスの蛮行を真正面から扱ったオペラには、これまでほとんどで会わなかった。これはその大傑作だと思う。

 ブラジルに赴任する外交官の夫人になったリーザは船の中で、かつて、リーザがSSとして看守を務めていたアウシュヴィッツの囚人マルタによく似た客を見かけ、収容所の残虐な現実がよみがえる…というストーリー。

 ローラント・クルティヒの指揮によるグラーツ・フィルハーモニー管弦楽団の演奏だが、まずこれが見事。この指揮者については初めて知ったが、決して一流とは言えないだろうオーケストラを率いて、切れの良い鋭い音を見事に重ねていく。スリリングで重層的。厚みのある深い世界に導いてくれる。

 リーザのシャミリア・カイザーは歌もさることながら、演技も見事。裏のある役をうまく演じている。ヴァルターのヴィル・ハルトマンも善良でありながらも一筋縄ではいかないドイツ男性を造形している。マルタのナージャ・ステファノフも澄んだ声で、絶望的な状況の中でけなげに生きるユダヤ女性をリアルに歌う。タデウスのマルクス・ブッターも収容所にいながらも自尊心を失わないユダヤ人をうまく演じている。そのほかわき役に至るまで、このオペラにふさわしい音程の良いシャープな声が選ばれている。まったくスキがない。

 演出はナジャ・ロシュキー。老いたリーザの分身が黙役で登場(イザベラ・アルブレヒトという女優さんが演じている)して、様々な動きをする。一つ一つの動きについては私には意味の分からないところがたくさんあったが、ともあれ、これは現在(2021年)におけるリーザということだろう。最後には、老いたリーザはナチスの軍服を着て、自分のナチス性を認める。要するに、現在、だれでもがナチスの側に立って無邪気に弱者を残酷な目に合わせることができるのだというメッセージを示しているのだろう。それにしても、この女優さんの立ち居振る舞いの一つ一つが決まっていて、見事。日本の田中泯のような人なのだろうか。

 ヴァインベルグという作曲家、この頃注目を浴びているようだが、確かにとてもいい作曲家だと思う。もっと聴いてみたい。

 

モーツァルト 「ドン・ジョヴァンニ」 19877月 ザルツブルク祝祭大劇場

 ヘルベルト・フォン・カラヤンによる伝説の映像がブルーレイ化されたので、購入してみた。画質・音質が向上していることを期待していたが、聴き比べてみたわけではないものの、おそらくDVDと大差ないと思う。これなら買い替えなくてよかったかな?と思った。

 とはいえ、やはりすごい上演。カラヤンの指揮は、さすがというか、ほかの指揮者とはレベルが違うのをひしひしと感じる。豪華で繊細で手の込んだ高級絨毯のように一部の隙もなく、ドラマティックに音楽を作っていく。このオペラの性格に基づくのだろう、カラヤンにしては少し珍しいくらいにおどろおどろしさがある。時に音を小さくしてピアニシモの美しさを際立たせるなど、様々な工夫のすべてに説得力がある。ウィーンフィルの音も実に美しい。私はカラヤン好きではなく、どちらかというフルトヴェングラー派なのだが、この手腕には舌を巻かざるを得ない。

 歌手陣ももちろん充実している。サミュエル・レイミーのドン・ジョヴァンニはすごみがある。チェザーレ・シェピに匹敵する悪の美とでもいうか。そのほかでは、フェルッチョ・フルラネットのレポレロとキャスリーン・バトルのツェルリーナがいい。フルラネットの芸達者ぶりとバトルの可憐さはうっとりするほど。ドンナ・アンナを歌うアンナ・トモワ=シントウもさすがの歌唱。ドンナ・エルヴィラのユリア・ヴァラディ、騎士長のパータ・ブルシュラーゼ、マゼットのアレクサンダー・マルタも悪くない。ただ、私はドン・オッターヴィオを歌うイェスタ・ヴィンベルイについては、少々不安定に感じた。

 ミヒャエル・ハンペの演出は今から見るとあまりに当たり前。ただ、第二幕の騎士長が迫ってくる場面では、宇宙空間の映像が使われており、音楽の雰囲気を鋭く描いていると思った。

「ドン・ジョヴァンニ」は不朽の名作であり、カラヤンは大指揮者だという、だれもが知っていることを改めて強く感じた。

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葬儀を終えて

 妻・紀子が819日に永眠した。故人の遺志により、親族だけによるこじんまりとした通夜を昨日(2022823日)、葬儀を本日(824日)行った。

 昨年4月にがんが発見され、6月に手術。その後、抗ガン治療などを行ったが、今年の1月に再発。その後も治療を続けたが、副作用が激しく、しかも効果はあまり見られなかった。標準治療はもちろん、代替治療も試みたが、効果がなく、最終的に88日に緊急入院、12日にホスピス棟に移動した。

 私たち家族は818日午前1時ころに病院から連絡をもらい、その後、交代で付き添ったが、家族・親族の前で19日の夕方に息を引き取ったのだった。

 めそめそ、べたべたが大嫌いな妻だった。執着したり、感傷的になったりすることを拒んだ。自分の命に関することでも、めそめそしなかった。無理をして平静を装っていたわけではないだろう。もちろん、先の長くない病であることを知って外にはわからぬ苦しみを抱き、悩んだには違いないが、きっと彼女らしく、きっぱりと諦めたのだと思う。家族が何とかほかに治療がないかと模索しているときも、余計なことをしないことを望んだ。愁嘆場になることを嫌って、親族との面会さえもあまり望まなかった。未練を残さず、きれいさっぱり世を去ることを望んだ。ある意味であっぱれな最期だったと思う。

 思うところはたくさんある。だが、今、私がここに文章を書くと、感傷になる。彼女の内面を憶測して、人様にさらすことになる。それは最も妻の嫌ったことだ。だから、これ以上書かない。

 ただ、私のブログを読んでくれている人の中に妻を知っている人もいるだろう。そして、妻の死は私の人生にとって最も大きな出来事だ。それを報告するために、ここに書いた。

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オペラ映像「ユダヤの女」「ファルスタッフ」「椿姫」

 本ブログに時折コメントを寄せてくださるENOさんのブログ冒頭に「人生、何があっても、音楽を聴くと、自分を取り戻します」とある。

 まさにその通り。私も、かつて絶望の中にいるとき音楽ばかりを聴いて暮らしていた。今また、苦難の時期だが、ともあれ音楽を聴こうと思っている。そうすると、自分に戻れる。オペラをみたり、映画をみたり、本を読んだりする気力がわく。

 しばらくコンサートや映画館にはいかないが、ほとんどの時間、自宅で過ごしているので、これらのものに接して自分の気持ちを取り戻すことができる。

 オペラ映像を数本みたので、簡単な感想を記す。

 

アレヴィ 「ユダヤの女」20035月 ウィーン国立歌劇場

 このオペラの全曲については、実演でもみたことがないし、録音を聴いたことも映像をみたこともなかった。部分的にアリアを聴いたことがあるくらい。20年近く前の公演だが、この映像が発売されていることも知らなかった。初めてみて、素晴らしいオペラだと思った。

 ウジェーヌ・スクリーブの台本がとてもよくできている。敵の子どもを炎の中から救い出して育てるという点では「イル・トロヴァトーレ」と似ているが、荒唐無稽なヴェルディのオペラとは説得力がまったく異なる。起伏にあふれ、各登場人物の心情に説得力があり、宗教対立、信仰と愛の相克などの大きな問題がしっかりと描かれている。音楽もすごみがある。

 とりわけこの上演は演奏も素晴らしい。まず何よりも、父親を歌うニール・シコフに圧倒される。20年以上前のこと、ヨーロッパ滞在中、ホテルでテレビをつけてチャンネルを回しているうち、クラシック・チャンネルで「ホフマン物語」をみかけた。ホフマン役のあまりの凄さに驚いた。それがニール・シコフだった。日本での知名度はあまり高くなかったが、大テノール歌手だと思う。小柄で、まるでサラリーマンのような風貌だが、しなやかで張りのある声でその役になりきって歌う。この父親役も、まさにこの人のためのような役だと思う。演技も言うことなし。この人の歌を聴くと、真に迫っていて身につまされる思いがする。有名なアリアのところでは、観客といっしょに拍手喝采したくなる。

 ラシェルのクラッシミラ・ストヤノヴァも申し分ない歌と演技。けなげな「ユダヤ女」を歌う。しっかりとした勢いのある歌声。枢機卿を歌うヴァルター・フィンクも安定していて、とてもいい。それに比べると、ウドクシーのシミーナ・イヴァンとレオポールのジエンイー・ジャンは少し弱いが、やむを得ないだろう。

 フィエコスラフ・ステイの指揮もとてもいい。起伏のある演奏だが、緻密に組み立てているのを感じる。演出はギュンター・クレーマー。豪華な仕掛けがあるわけではなく、簡素な舞台だが、ユダヤ教徒とキリスト教徒の対立と不均衡を的確に描いている。

 もっと上演してほしいオペラだ。

 

ヴェルディ 「ファルスタッフ」 20211123日  フィレンツェ五月音楽祭歌劇場

 サー・ジョン・エリオット・ガーディナーの指揮による「ファルスタッフ」。さすがガーディナーというべきか、びしりと決まった演奏。リズム感にあふれており、細部にまで神経が行き届いている。

 ファルスタッフ役にニコラ・アライモがとてもいい。体形も含めて、この役にふさわしい。よくもまあこれほど次々とファルスタッフ歌手が生まれてくるものだ! アリーチェのアイリーン・ペレスもとてもいい。高音が美しい。ナンネッタのフランチェスカ・ボンコンパーニも可憐な容姿と透明な高音にうっとりする。

 フォードのシモーネ・ピアッツォーラ、クイックリー夫人のサラ・ミンガルドなど、ほかの役も充実。

 演出はスヴェン=エリク・ベヒトルフ。シェークスピアの時代にはこうだったのだろうと思わせるようなリアリティのある服装で軽妙でありながらも時代に重みを感じさせる。ナンネッタとフェントンを夢幻的に描き、男たち、女たちと対比させている。作品の論理コクゾウを明確にしたような演出だといえるだろう。

 

ヴェルディ 「椿姫」 20146月 パリ、オペラ・バスティーユ

 ディアナ・ダムラウのヴィオレッタはとても素晴らしい。もちろん、どんなにやつれた演技をしても、元気いっぱいの声なので、肺病で死んでいくヴィオレッタとしてはかなり違和感があるが、まあそれは大目に見よう。ジェルモンのリュドヴィク・テジエも悪くない。

 だが、アルフレードのフランチェスコ・デムーロは声は出ていないし、音程は不安定だし、歌いまわしもぎこちない。

 そして何よりもフランチェスコ・イヴァン・チャンパの指揮があまりに大味で安っぽい。オーケストラの責任もあるのかもしれない。大雑把で縦の線がきちんとあっていないのを感じる。黙って聞かされたら、フランスかドイツの地方都市の歌劇場のオーケストラだと思ってしまいそう。

 ブノワ・ジャコの演出にも納得できない。ジプシーに扮するのが女装した男性たち、闘牛士が男装した女性たちとは! 悪ふざけとしか思えない。合唱もよくない。

 近年のパリのオペラ座はこのレベルなのだろうか。

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映画「プアン/友だちと呼ばせて」 死の視点から見た慈しみ!

 バズ・プーンピリヤ監督のタイ映画「プアン/友だちと呼ばせて」をみた。バズ・プーンピリヤ監督は「バッド・ジーニアス」(かつて見たが、とてもおもしろい映画だった!)で脚光を浴びたタイ出身の監督。

 30歳前後なのに白血病にかかって余命宣告を受けたウード(アイス・ナッタラット)は、しばらくニューヨークで働いていたが、今はタイに戻っている。バーを経営しているニューヨーク在住の友人ボス(トー・タナポップ)をタイに呼び、ボスの運転する車に乗って、ウードは「元カノ」への謝罪の旅に出る。そんなロードムービーと思ってみはじめた。三人の「元カノ」それぞれにウードとの交流があり、それぞれに人生があって、みんなの心情がよくわかる。人生に対して、人に対して慈愛のようなものを感じ始めているウードの心情もよく理解できる。

 ところが、後半になってにわかに様子が変わってくる。徐々にウードとボスとの関係、ボスの初恋、ウードのボスへの不義理と謝罪の意思が明かされる。二人の抱える苦しみ、わだかまりが見えてくる。ボスは真実を知ってウードをいったんは退けるが、ウードの謝罪を受け入れ、かつての恋人と再会し、人生をやり直すことを考え始める。

 説明過多にならない語り口で、過去と現在、空想などが交錯させながら映画は進むが、以上のように要約できるだろう。

 それにしても、色彩的でスピーディーな画面、アメリカの懐メロ?(ポップスには詳しくないので、どのような曲なのかまったくわからない)、そして主人公たちの見事な演技!が素晴らしい。映画に引き込まれる。前半をみて疑問に感じたところが後半に回収されていく手際も見事。それでいて、死の淵から社会を見たような深い人生観が示される。すごい!

 禿げ上がってやせ細った病身のウードを演じるアイス・ナッタラットに穏やかな凄みを感じる。まるで仏像のような雰囲気。人間の罪を背負って、人々に謝罪し、衆生を慈しみ、慈愛を与えているかのようだ。自信ありげでありながら、生い立ちと女性関係に苦しみを抱えて必死に生きているボスを死の視点から見ている。ボスを演じるナッタラットも母と恋人に捨てられたという痛みを持ちながら生きていく様を見事に演じる。

 良い映画を見た時に私はよく「そうそう、人生ってこうだよなあ」と思う。今回もそう思った。「もう一度みたい」と思う映画はめったにないが、これについては、何度かみたいと思った。

 それにしても、なぜ「プアン/友だちと呼ばせて」という邦題にしたのだろう。原題は「one for the road」(「帰るまでにもう一杯飲もう」というような意味らしい)。私は「プアン」というのを人の名前だと思ってみはじめ、プアンという人物が登場しないのを不思議に思っていたのだったが、あとで調べたら、「プアン」というのは、タイ語で「友達」の意味だという。わざわざタイ語を使って、このようなわけのわからない邦題にするとは! それとも、邦題をつけた人は、この映画を単に仲たがいした二人の友情を取り戻す話とでも思ったのだろうか。バーテンダーが重要な意味を持ち、死を前にした行為を描くこの映画には、原題の方がずっとふさわしい。もっと原題をいかすタイトルにするべきだったと思う。

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サリナス&TOKI弦楽四重奏団のモーツァルトとウェーバーのクラリネット五重奏曲

 202286日、東京文化会館小ホールでTOKI弦楽四重奏団演奏会を聴いた。この団体は新潟にゆかりのあるメンバーで結成されたもので、TOKIというのは、新潟にゆかりの鳥、朱鷺にちなんでつけられたとのこと。私は新潟とは何の関係もないが、ヴィオラの鈴木康浩さん(ただ、残念ながら、体調不良のため、今回は出演せず、宇野秀一氏に変更された)を何度か聴くうち、この団体を知って、聴いてみたいと思ったのだった。しかも、今回は私の大好きなモーツァルトのクラリネット五重奏曲が演奏される!

 曲目は、前半にクラリネットのダヴィッド・サリナスが加わってのモーツァルトの五重奏曲のほか、トゥリーナの弦楽四重奏曲第1番「ギター風に」、後半に新潟の作曲家、後藤丹の委嘱作品、弦楽四重奏曲「朱鷺は輝く大地に」とウェーバーのクラリネット五重奏曲。

 モーツァルトの五重奏曲は、初めのうちは、十分に楽器が温まらないというのか、すこしぎこちないところがあったが、だんだんと音楽が流れ出した。岩谷祐之の第一ヴァイオリンの音がとても美しい。サリナスのクラリネットは、モーツァルトにしてはちょっと高揚しすぎな感じがしないでもなかった。ロマン派の曲のように盛り上がっていく。サリナスはスペインの演奏家だという。ちょっとスペイン的盛り上がりと言えるのかもしれない。それはそれで感動的なのだが、私の思っているこの曲とは少し違っていた。とはいえ、全体的には、しっかりと地に足の着いた良い演奏だった。

 トゥリーナはスペインの作曲家。チェロの上森祥平のトークで、フランコ政権に協力したために、戦後、この作曲家は演奏されることが少なかったことが伝えられた。だが、とてもきれいな曲だと思った。第3楽章の舞曲風の盛り上がりは素晴らしい。スペインの作曲家で、「ギター風に」というタイトルがつけられているが、あまりスペイン的なイントネーションは感じなかった。上森さんの言っていた通り、ラヴェル風の感じだった。

 後半の後藤丹の新作もわかりやすい曲だった。ただ、私には、どのように朱鷺が飛んでいるのかイメージできなかった。

 ウェーバーは素晴らしかった。サリナスというクラリネット奏者は、モーツァルトよりもウェーバーの方が合っていると思う。切れの良い躍動感ある音で起伏大きく歌いまわる。ドイツ臭さはなく、いかにもラテン的だが、しかし、洗練されすぎず、自由に駆け巡っている。とても楽しく聴けた。

 アンコールは、ハンガリーのクラリネット奏者兼作曲家ベーラ・コヴァーチのクラリネット五重奏による小曲らしい(サリナスの英語での紹介があり、ヴァイオリンの平山真紀子が日本語で解説してくれたが、曲名は聞き逃した)。とても楽しかった。まさにハンガリアン・ダンス風の音楽。

 とても充実したコンサートだった。

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映画「LION/ライオン 25年目のただいま」「奥さまは魔女」「山猫」

 猛烈に暑い日が続いている。できるだけエアコンの効いた部屋にこもって、仕事をしたり、本を読んだり、テレビを見たりして過ごしている。NHKで放送された映画を録画していたものを数本みたので簡単に感想を書く。

 

LION/ライオン 25年目のただいま」2016年 ガース・デイヴィス監督 

 実話に基づく。幼児のころにインドの小さな村で迷子になり、カルカッタにまでたどり着いてしまった少年サルー。何とか孤児院に逃れるが、身元は判明しない。そうするうち、里子を求めるオーストラリア人夫妻によって息子として育てられる。幸せに生きて25年。サルーは自分のかすかな記憶からグーグルアースを用いて故郷を見つけ出し、実の母と25年ぶりに再会する。

 それだけなら、単なる親との感動的な再会話なのだが、オーストラリアの母(ニコール・キッドマン)は自分で子供が産めるのに、平和のためにアジアの子供を育てようと心に決めている女性。そして、サルーのほかにもう一人のインド人、マントッシュを育てるが、こちらは優等生のサルーと違って、問題児。マントッシュの存在によって、映画にリアリティが生まれ、これが一つの社会への問題提起になる。インドの過去を引きずり、新しい西洋世界に適応できない存在も浮き彫りになる。西洋人の善意はすべての人間を幸せにするわけではない。それほどすべてが幸せであるわけではない。だが、愛情を注ぎ続けなければならない。そうすることで、確かに幸せな人間が増えていく。

 実母との再会の場面は感動的だ。物語が終わった後、実在の人物たちの実際の映像が流れる。そこには、実母と養母とサルーの三人が抱き合う場面がある。これも感動的。

 ライオンというタイトルなので、そのうちライオンが出てきて何かが起こるのかと思ってひやひやしていたら、最後になって種明かしがなされた。サルーの名前の由来がライオンという意味だとのこと。なるほど、ライオンのようにたくましく生きたということか。しかし、サルーはきわめて幸運な例外であって、マントッシュら、それを得られない人々の姿もたくさん映画の中では描かれている。それがこの映画を成功させていると思う。

 

「奥さまは魔女」 2005年 ノーラ・エフロン監督

 もちろん、中学・高校生のころテレビドラマ「奥さまは魔女」をみていた。サマンサ役のエリザベス・モンゴメリも大好きだった。再放送も何度かみた。だからもちろん、ニコール・キッドマンを使っての映画化の話については撮影時から知っていた。とても気になっていた。だが、モンゴメリとキッドマンでは雰囲気があまりに違う。オールド・ファンとしては、エリザベス・モンゴメリを心の中で守りたい気分だった。機会はいくらもあったのに、これまでみないでいた。が、「ライオン」でキッドマンの名演技をみたので、その勢いでこの映画をみることにした。

 昔のドラマの再現そのままではない。さすがに、監督も昔のドラマを壊したくなかったのだろう。俳優ジャック(ウィル・フェレル)がダーリン役になってテレビドラマ「奥さまは魔女」のリメイクが作られることになり、サマンサ役として、本物の魔女であるイザベル(ニコール・キッドマン)が選ばれる。撮影は進み、二人の間で愛が芽生えるが、ジャックはイザベルを利用して自分が目立つことばかりを考えているため、イザベルはおもしろくない。すったもんだの末、愛は深まるが、そこでイザベルは自分がホンモノの魔女であることを告白する…。というストーリー。まあ、とてもよくできたストーリーで、オールド・ファンも怒ることなく楽しめる。

 キッドマンはモンゴメリと違って、かなり鋭角的で知的な感じがするが、ほんとうに美しい。父親役がマイケル・ケインなのはとても適役として、劇中でおばさんの役を演じている女性(本当に魔女だという設定)はなんとシャーリー・マクレーンではないか! 

「奥さまは魔女」が放送されていたころ、そして、まさにシャーリー・マクレーンの映画が次々とヒットを飛ばしていたころ(1960年代)の古き良き雰囲気を持つほのぼのとした娯楽映画として楽しめた。

 

「山猫」 1963年 ルキノ・ヴィスコンティ監督

 私はイタリア映画好きで、1970年代には可能な限りのイタリア映画をみていた。ヴィスコンティの映画はすべてみているはずだ。だからもちろん、この映画も何度かみた記憶がある。何を言おうとしているのかよくわからなかったが、ともあれすごいと思ったのを覚えている。今みても、同じような感想を抱く。ランペドゥーサの原作を読もうとずっと前から思いながら、まだ読んでいない・・。

 19世紀半ば、ガリバルディによるイタリア統一戦争期のシチリア。時代は、貴族の支配からブルジョワジーの支配に移りつつある。老いを感じ始めた貴族ファブリツィオ(バート・ランカスター)は、時代は変化しなければならないことを見通しているが、そこにかかわろうとはしない。時代の流れに乗って活動する甥のタンクレディ(アラン・ドロン)とその婚約者アンジェリカ(クラウディア・カルディナーレ)、そして、アンジェリカの父親の俗物の市長に未来を託して、静かに去ろうとする。

 しかし、そんなことよりも、すべての場面が美術作品としての完成度を持つ映像美に圧倒される。シチリアの風景、貴族の豪華な館、絢爛たる舞踏会。そして、人物の所作の一つ一つがあまりに見事に決まっている。最後の舞踏会の場面では、着飾った人々のおしゃべりと踊りが長々と続くが、主人公の心情が痛いほど伝わってくる。この場面だけでもすごいとしか言いようがない。

 ファブリツィオは最後、自らの死を考え、教会の前にひざまずいて、星に向かって「星よ、いつ、つかの間でない時をもたらす? すべてを離れ、お前の永遠の確かさの地で」と語る。つかの間の生の時間を終えて、死に向かい、永遠の時に入ることを示唆する言葉だろうが、それと同時に、ここには「確かなもの」への思いが込められているのを感じる。これこそがヴィスコンティの思いなのではないかと思う。すべては消え去るが、その前に、確かなものを自分の手で作って、そのゆるぎない存在を示したい。それに尽きるのではないかと思う。そして、確かに映画の中に、「確かなもの」を定着するのに、ヴィスコンティは成功していると思う。すべてが圧倒的な存在感なのだから。

 弱々しい貴族ではなく、山猫と呼ばれる風格ある貴族を演じるバート・ランカスターが本当に素晴らしい。生命にあふれるアラン・ドロンも魅力的。そして、カルディナーレのなんという初々しさ。やはり、ヴィスコンティの映画はハリウッド映画と違った歴史の重みがあり、教養の厚みがある。これは別格。

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